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2017年12月19日
拓馬篇前記−美弥11
電灯の明かりが必要になってくるころ、美弥たちはデイルとの雑談を切り上げた。きっかけは彼が「もう暗くなってきましたね」と帰宅をすすめたことにある。美弥と彼は同じアパートの住人だ。外が真っ暗であろうと帰宅に支障はない。彼の言葉は「じゅうぶん話し尽くした」という意思表示だと思われた。
デイルは別れ際も穏やかに姉妹と言葉を交わす。おかげで今後の交流を維持できる別れ方を果たせた。
デイル自身は美弥の視界に男性がいることを避けたいと考えている。男性である彼と接触すること自体が美弥の負担になるとも思っている。それゆえ、彼から積極的に美弥にアプローチをかける気配はなかった。あとは美弥が彼を頼るかどうかに一任される。その状態は美弥の居心地がよかった。
姉妹が美弥の部屋へ帰る。時刻は夕飯時。しかし美弥たちは腹が減っていない。軽食のホットケーキがまだ胃に残っているようだ。いつもなら料理にとりかかるところを、二人はまず座卓のまわりでくつろいだ。
「今日はいろんな人としゃべったね」
律子が安息と疲労をこめて感想を述べる。彼女の疲れはおそらく美弥のデイルに対する態度への気疲れだ。
「私があの教師につっかかったから、ヒヤヒヤしてたんでしょ」
「そうよ。あの先生はやさしかったけれど、ふつうの人はビビっちゃう。もうやめてね」
「べつに、私に近寄らないんだったらそれでいいと思うけど」
「そうやって自分から他人を見限るの、よくない」
めったに批判をしない律子が強い口調で言った。美弥は姉が本気の助言をしているのだと思い、傾聴する。
「美弥は頭がまわるし、家事は得意だし、一人でなんでもできる子よ。わたしの自慢の妹。だけど第一印象を信じすぎるのが心配なの」
「第一印象?」
「まず『男性だから警戒する』っていうのがそれ。相手と話して、いったん誤解を解くとこまではいい。でもなにかのきっかけでまた振りだしにもどるでしょ。ずっと警戒心が残ってる」
「さっきの教師のことを言ってるの?」
「うん、あの人がいちばんいい例だわ。はじめの印象は最悪だったでしょ?」
デイルの灰色の頭髪を見て、美弥は染髪している不良ではないかと嫌悪した。彼はその髪を地毛だと言う。美弥は彼の言葉を信じた。だが、一度感じたマイナスイメージはぬぐいされない。どこかで悪事を働いていても納得できる程度には、彼を完全なる善人とは見做せなかった。
「デイルさんがいい人かわるい人か、一日会っただけじゃわからない。美弥とそりの合わない人かもしれないけど、そう決めつけるのはまだ早いと思うの。人付き合いはオーディションや面接でふるいをかけるものとはちがうんだから」
他者を審査する時とは、応募者の能力が基準値を達するのを調べるか、定員を超過する際に脱落者を決める目的で行われる。律子の主張をもとに置き換えれば、美弥は自身の友人知人を選り好みしていることになる。美弥と親しくなろうとする者が、美弥の希望の定員を超えることなどないだろうに。
(私は大した人間でもないのに……)
美弥の考えは傲岸不遜である。他人をさしたる理由もなく邪険にあつかっていけば、最終的に孤立する。おまけに美弥は姉に養ってもらう身だ。一人で生きていけると豪語する資格がない。この態度のままではいたずらに姉の心労を増やしてしまう。
「デイルさんは美弥のことをよく考えてくれてる。その動機が『学校の教師だから』、『校長先生に言われたから』っていう、周りに強制されてることだとしても、美弥のためになるんならそれでもいいじゃない。それがあの人の仕事なんだもの」
「仕事でやってる……そのほうが信じられそう。ヘタにいい人ぶられても『裏がある』と疑っちゃうし」
「美弥ったらリアリストね」
律子が笑った。姉の笑みには妹の同感を得られた安堵と、妹が子どもらしくない物の見方をすることへの憐憫がふくまれていた。その憐憫はもとをたどれば律子の不甲斐なさから生じるものだと、姉は固く信じている。美弥への憐れみは律子自身への責めにもなるのだ。美弥はこれ以上の姉の自責を止めるべく、年相応の言動をしておく。
「お姉ちゃんはあの教師のこと、ずいぶんいいふうに言うのね。もしかして気になってるの?」
美弥はかるい気持ちでたずねた。デイルの話題は卑近な例として出たのだとわかっていたものの、場の空気を変えるにはちょうどよい素材だ。
「え、あの、男の人を?」
律子はとまどっている。律子に贈り物をした男性の話の時はそっけない反応だったのだが。恋愛疑惑をにおわせないまま単刀直入に聞いたせいだろうか。美弥は姉に慕情はないものと見て会話を続ける。
「そこそこ頭が切れるみたいだし、本音はどうだか知らないけどやさしい人だったし。そういう男性はお姉ちゃんの好みのタイプじゃなかった?」
デイルの容姿が秀でていたことを美弥はあえて根拠に取りあげなかった。あれぐらいの人物は律子の職場に腐るほどいる──と言い切れる数の男性俳優やモデルは列挙できないが、美男に見慣れた姉が一喜一憂する特徴ではないと思った。
「そんなの、まだわかりっこないでしょ。ちょっと話しただけじゃ……」
律子の目が泳ぐ。姉が美弥と視線を合わせない時はうしろめたさを感じている場合が多い。美弥は姉に淡い情が生まれつつあるのだと察する。
「……ほんとに、気があるの?」
「ダメよね、美弥があんまりよく思ってない人なんて……」
「私はあの教師がダメなやつだとは思ってない。男の中じゃ『いい』と思えるほう」
律子は妹の許しが出ても、まだ美弥を直視できないでいた。
「はずかしがることないじゃないの。あんな少女漫画にでてきそうな完璧な人、年頃の女子があこがれるのは正しい反応だと思う」
「でも、美弥はぜんぜん、そんな気持ちがないでしょう?」
「だって男はみんな敵だと思ってるから」
自身が正常な反応のできない女子だと美弥は断言する。
「だけど、あの先生はちょうどいい距離感をたもってくれそう。だからそのうち男嫌いがマシになると思う。その時は、どう感じるかわからない」
美弥はデイルが恋愛対象になるとはまったく思っていない。だがこう言っておけば姉の心が休まると判断した。律子はやっと美弥と目を合わせる。
「そうね……学校でいい人が見つかるといいね。あ、それは恋人にかぎったことじゃないのよ?」
「わかってる。恋人は一人しかつくっちゃいけないけど、友だちは何人いてもいいんだもんね」
姉妹はようやく意見と心情を一致させた。話に区切りをつけた二人はそれぞれの家事にとりかかる。美弥は風呂の準備を、律子は夕飯作りを。律子の手掛ける料理はかけそばだ。乾麺の蕎麦と市販のつゆを使い、適当に野菜をきざんでゆでる。美弥にとっては小学生のころから作っている簡単な料理だ。しかし幼少時から仕事で忙しい律子はちがった。律子は料理に慣れず、麺を鍋底にこびりつかせたり沸騰した湯をふきこぼしたりと失敗続きだ。当人が人並みに料理の腕を身に着けたいと言うので、美弥は非効率的だとは思いながらも姉に食事の用意を任せている。
(店にいたマヨさんも、料理下手だっけ)
美弥は洗剤が泡立つスポンジで浴槽を拭きつつ、今日得た情報を顧みる。あの明るい店員には家事のできる弟がいるという。彼は美弥の同級生だと聞いた。
(弟さんとは、打ち解けられるかな)
姉の不始末を処理させられる者同士、共感する部分は多そうだ。性別の垣根を超えた交流を望める生徒が、同じ学校にいる。そんな稀有な存在がいると思えるだけで、美弥は前途に光明を見つけられる気がした。
デイルは別れ際も穏やかに姉妹と言葉を交わす。おかげで今後の交流を維持できる別れ方を果たせた。
デイル自身は美弥の視界に男性がいることを避けたいと考えている。男性である彼と接触すること自体が美弥の負担になるとも思っている。それゆえ、彼から積極的に美弥にアプローチをかける気配はなかった。あとは美弥が彼を頼るかどうかに一任される。その状態は美弥の居心地がよかった。
姉妹が美弥の部屋へ帰る。時刻は夕飯時。しかし美弥たちは腹が減っていない。軽食のホットケーキがまだ胃に残っているようだ。いつもなら料理にとりかかるところを、二人はまず座卓のまわりでくつろいだ。
「今日はいろんな人としゃべったね」
律子が安息と疲労をこめて感想を述べる。彼女の疲れはおそらく美弥のデイルに対する態度への気疲れだ。
「私があの教師につっかかったから、ヒヤヒヤしてたんでしょ」
「そうよ。あの先生はやさしかったけれど、ふつうの人はビビっちゃう。もうやめてね」
「べつに、私に近寄らないんだったらそれでいいと思うけど」
「そうやって自分から他人を見限るの、よくない」
めったに批判をしない律子が強い口調で言った。美弥は姉が本気の助言をしているのだと思い、傾聴する。
「美弥は頭がまわるし、家事は得意だし、一人でなんでもできる子よ。わたしの自慢の妹。だけど第一印象を信じすぎるのが心配なの」
「第一印象?」
「まず『男性だから警戒する』っていうのがそれ。相手と話して、いったん誤解を解くとこまではいい。でもなにかのきっかけでまた振りだしにもどるでしょ。ずっと警戒心が残ってる」
「さっきの教師のことを言ってるの?」
「うん、あの人がいちばんいい例だわ。はじめの印象は最悪だったでしょ?」
デイルの灰色の頭髪を見て、美弥は染髪している不良ではないかと嫌悪した。彼はその髪を地毛だと言う。美弥は彼の言葉を信じた。だが、一度感じたマイナスイメージはぬぐいされない。どこかで悪事を働いていても納得できる程度には、彼を完全なる善人とは見做せなかった。
「デイルさんがいい人かわるい人か、一日会っただけじゃわからない。美弥とそりの合わない人かもしれないけど、そう決めつけるのはまだ早いと思うの。人付き合いはオーディションや面接でふるいをかけるものとはちがうんだから」
他者を審査する時とは、応募者の能力が基準値を達するのを調べるか、定員を超過する際に脱落者を決める目的で行われる。律子の主張をもとに置き換えれば、美弥は自身の友人知人を選り好みしていることになる。美弥と親しくなろうとする者が、美弥の希望の定員を超えることなどないだろうに。
(私は大した人間でもないのに……)
美弥の考えは傲岸不遜である。他人をさしたる理由もなく邪険にあつかっていけば、最終的に孤立する。おまけに美弥は姉に養ってもらう身だ。一人で生きていけると豪語する資格がない。この態度のままではいたずらに姉の心労を増やしてしまう。
「デイルさんは美弥のことをよく考えてくれてる。その動機が『学校の教師だから』、『校長先生に言われたから』っていう、周りに強制されてることだとしても、美弥のためになるんならそれでもいいじゃない。それがあの人の仕事なんだもの」
「仕事でやってる……そのほうが信じられそう。ヘタにいい人ぶられても『裏がある』と疑っちゃうし」
「美弥ったらリアリストね」
律子が笑った。姉の笑みには妹の同感を得られた安堵と、妹が子どもらしくない物の見方をすることへの憐憫がふくまれていた。その憐憫はもとをたどれば律子の不甲斐なさから生じるものだと、姉は固く信じている。美弥への憐れみは律子自身への責めにもなるのだ。美弥はこれ以上の姉の自責を止めるべく、年相応の言動をしておく。
「お姉ちゃんはあの教師のこと、ずいぶんいいふうに言うのね。もしかして気になってるの?」
美弥はかるい気持ちでたずねた。デイルの話題は卑近な例として出たのだとわかっていたものの、場の空気を変えるにはちょうどよい素材だ。
「え、あの、男の人を?」
律子はとまどっている。律子に贈り物をした男性の話の時はそっけない反応だったのだが。恋愛疑惑をにおわせないまま単刀直入に聞いたせいだろうか。美弥は姉に慕情はないものと見て会話を続ける。
「そこそこ頭が切れるみたいだし、本音はどうだか知らないけどやさしい人だったし。そういう男性はお姉ちゃんの好みのタイプじゃなかった?」
デイルの容姿が秀でていたことを美弥はあえて根拠に取りあげなかった。あれぐらいの人物は律子の職場に腐るほどいる──と言い切れる数の男性俳優やモデルは列挙できないが、美男に見慣れた姉が一喜一憂する特徴ではないと思った。
「そんなの、まだわかりっこないでしょ。ちょっと話しただけじゃ……」
律子の目が泳ぐ。姉が美弥と視線を合わせない時はうしろめたさを感じている場合が多い。美弥は姉に淡い情が生まれつつあるのだと察する。
「……ほんとに、気があるの?」
「ダメよね、美弥があんまりよく思ってない人なんて……」
「私はあの教師がダメなやつだとは思ってない。男の中じゃ『いい』と思えるほう」
律子は妹の許しが出ても、まだ美弥を直視できないでいた。
「はずかしがることないじゃないの。あんな少女漫画にでてきそうな完璧な人、年頃の女子があこがれるのは正しい反応だと思う」
「でも、美弥はぜんぜん、そんな気持ちがないでしょう?」
「だって男はみんな敵だと思ってるから」
自身が正常な反応のできない女子だと美弥は断言する。
「だけど、あの先生はちょうどいい距離感をたもってくれそう。だからそのうち男嫌いがマシになると思う。その時は、どう感じるかわからない」
美弥はデイルが恋愛対象になるとはまったく思っていない。だがこう言っておけば姉の心が休まると判断した。律子はやっと美弥と目を合わせる。
「そうね……学校でいい人が見つかるといいね。あ、それは恋人にかぎったことじゃないのよ?」
「わかってる。恋人は一人しかつくっちゃいけないけど、友だちは何人いてもいいんだもんね」
姉妹はようやく意見と心情を一致させた。話に区切りをつけた二人はそれぞれの家事にとりかかる。美弥は風呂の準備を、律子は夕飯作りを。律子の手掛ける料理はかけそばだ。乾麺の蕎麦と市販のつゆを使い、適当に野菜をきざんでゆでる。美弥にとっては小学生のころから作っている簡単な料理だ。しかし幼少時から仕事で忙しい律子はちがった。律子は料理に慣れず、麺を鍋底にこびりつかせたり沸騰した湯をふきこぼしたりと失敗続きだ。当人が人並みに料理の腕を身に着けたいと言うので、美弥は非効率的だとは思いながらも姉に食事の用意を任せている。
(店にいたマヨさんも、料理下手だっけ)
美弥は洗剤が泡立つスポンジで浴槽を拭きつつ、今日得た情報を顧みる。あの明るい店員には家事のできる弟がいるという。彼は美弥の同級生だと聞いた。
(弟さんとは、打ち解けられるかな)
姉の不始末を処理させられる者同士、共感する部分は多そうだ。性別の垣根を超えた交流を望める生徒が、同じ学校にいる。そんな稀有な存在がいると思えるだけで、美弥は前途に光明を見つけられる気がした。
タグ:美弥
2017年12月18日
拓馬篇前記−美弥10
部屋主が入れてくれた飲み物はすっかり冷めてしまった。彼は入れなおしを提案したが、そんなぜいたくな申し出は気が引ける。美弥と律子は常温のカフェオレを飲みほした。
カップを空ければ、べつの飲み物をどうか、とデイルが言ってくるかもしれない。美弥は身構えながらカップを座卓に置いた。
「おかわりはいかがです?」
やはりたずねてきた。美弥は首を横にふり、不要の身振りをする。律子も「今日は午後からたくさん飲んじゃってて」と遠慮した。デイルは「そうですか」と温厚な笑みをたたえたまま言う。
「お二人は私と会うまえにお出かけされていましたね。どこかの店へ寄られたのでしょうか?」
「はい。知り合いがやってる喫茶店へおじゃましてきたんです。そこでごちそうになりました」
「知り合い……というと、芸能関係の方ですか?」
「そうなんです。ご夫婦で経営してるんですけど、旦那さんのほうがタレント業をしてて──」
律子はみちるの店のことを談話のネタにする。美弥は内心、この教員が律子の話に触発されるではないかと気がかりになった。触発後の行動とは、デイルがみちるの店に通うことだ。彼が店に入りびたりになろうものなら、美弥は店に行きづらくなる。だがその抵抗は彼に嫌悪感を抱くせいで生まれる感覚ではなかった。
(学校とアパートで会う人に、プライベートまで顔あわせてちゃ……)
日中の居場所、住居、余暇に利用する場まで同じではくどすぎる。美弥はデイルを嫌ってはいないが、それはあくまでほかの男性よりはマシというだけだ。特別好いていない他人と、家族以上の遭遇率になる事態は避けたかった。
(自炊する人だったら、外食はしないかも)
美弥は彼の部屋に入った直後に見えた台所の風景を思い出す。台所にてデイルは「どれでもいいですよ」とインスタントのスティック飲料を美弥たちに見せていた。その台所はかなりすっきりしていて、生活臭がしなかった。
(今日、部屋に来たばかりの人だし……)
引っ越しの初日では他人の生活習慣が露見しない。室内の状況で推測ができないならば直接彼に聞くべきだ。美弥はまず律子が続ける会話を聞き、自分がデイルに質問をするに自然なタイミングをうかがう。現在の話題はみちるの店にいる才穎高校の関係者についてだ。
「才穎高校の卒業生の人が働いていたんです。彼女は明るい人で、おかげでたのしくすごせました」
「才穎のOBの方がいらっしゃるのですか。その女性から学校のお話が聞けそうですね」
「そうなんです。美弥はぜんぜん才穎のことを知らないから、いまのうちにいろいろ聞けたら安心できるかと思います」
「では、授業がはじまるまでの間に妹さんは何回もお店に行くことになると?」
「何回……とは考えてなかったんですけど、たぶん通うと……それがどうかしたんです?」
「妹さんが常連客になるのでしたら、私がその店を利用するのはひかえたほうがよろしいかと思いまして」
彼は美弥の願望通りの提言をした。それは願ってもない判断だ。美弥にはよろこばしい一方で、彼が美弥を避ける動機が気になる。律子も不安気だ。
「妹が失礼なことを言ったからですか?」
律子がおずおずとたずねた。デイルは笑顔のまま「そうではありません」と否定する。
「せっかくの妹さんの心のよりどころを、私が邪魔するのはよくないと思います」
「そうでしょうか……妹は、あまりデイルさんのことをいやがってないですよ。いやだったらこのお部屋に来ていません」
「妹さんは男嫌いなのでしょう。苦手なものは我慢できても、そう簡単に克服できませんよ。リラックスできる時間くらいは、無理をしないですむ環境がのぞましいはずです」
デイルの主張は美弥をおもんばかった内容だ。美弥は彼が信頼に足る教師やもしれないと感じはじめる。
「聞けばそのお店は女性店員ばかり。オーナーの方も特殊な性別とはいえ女性の範疇です。だから貴女はそのお店の方に妹さんを任せられるのではありませんか?」
「そうですけど……男性のお客さんだってとうぜん来ます。あなたが気にすることじゃ……」
「数の問題ですよ。男性客が一人だけいるのと十人いるのとでは、店の入りやすさが変わってくると思います」
デイルは美弥に確認の視線を投げた。美弥は店内客の性別によって店の利用を決める自信がないものの、居心地の善し悪しでいえば彼の予想通りになりそうだとも思う。
「そうかもしれない……」
美弥は肯定的につぶやいた。その考えには若干のデイルの暗示が影響している気はした。しかしはじめてデイルの姿を見た時の不快感を思えば、なるべく男性を視界に入れないほうが心が安定する確信はある。
「今日会ったばかりなのに、よくそんなに思いつけるものね」
「人間の考え方には多少の興味と知識がありますので」
デイルがにこやかな調子を保つ。美弥はその笑顔がいままでにない自信を帯びているように見えた。
カップを空ければ、べつの飲み物をどうか、とデイルが言ってくるかもしれない。美弥は身構えながらカップを座卓に置いた。
「おかわりはいかがです?」
やはりたずねてきた。美弥は首を横にふり、不要の身振りをする。律子も「今日は午後からたくさん飲んじゃってて」と遠慮した。デイルは「そうですか」と温厚な笑みをたたえたまま言う。
「お二人は私と会うまえにお出かけされていましたね。どこかの店へ寄られたのでしょうか?」
「はい。知り合いがやってる喫茶店へおじゃましてきたんです。そこでごちそうになりました」
「知り合い……というと、芸能関係の方ですか?」
「そうなんです。ご夫婦で経営してるんですけど、旦那さんのほうがタレント業をしてて──」
律子はみちるの店のことを談話のネタにする。美弥は内心、この教員が律子の話に触発されるではないかと気がかりになった。触発後の行動とは、デイルがみちるの店に通うことだ。彼が店に入りびたりになろうものなら、美弥は店に行きづらくなる。だがその抵抗は彼に嫌悪感を抱くせいで生まれる感覚ではなかった。
(学校とアパートで会う人に、プライベートまで顔あわせてちゃ……)
日中の居場所、住居、余暇に利用する場まで同じではくどすぎる。美弥はデイルを嫌ってはいないが、それはあくまでほかの男性よりはマシというだけだ。特別好いていない他人と、家族以上の遭遇率になる事態は避けたかった。
(自炊する人だったら、外食はしないかも)
美弥は彼の部屋に入った直後に見えた台所の風景を思い出す。台所にてデイルは「どれでもいいですよ」とインスタントのスティック飲料を美弥たちに見せていた。その台所はかなりすっきりしていて、生活臭がしなかった。
(今日、部屋に来たばかりの人だし……)
引っ越しの初日では他人の生活習慣が露見しない。室内の状況で推測ができないならば直接彼に聞くべきだ。美弥はまず律子が続ける会話を聞き、自分がデイルに質問をするに自然なタイミングをうかがう。現在の話題はみちるの店にいる才穎高校の関係者についてだ。
「才穎高校の卒業生の人が働いていたんです。彼女は明るい人で、おかげでたのしくすごせました」
「才穎のOBの方がいらっしゃるのですか。その女性から学校のお話が聞けそうですね」
「そうなんです。美弥はぜんぜん才穎のことを知らないから、いまのうちにいろいろ聞けたら安心できるかと思います」
「では、授業がはじまるまでの間に妹さんは何回もお店に行くことになると?」
「何回……とは考えてなかったんですけど、たぶん通うと……それがどうかしたんです?」
「妹さんが常連客になるのでしたら、私がその店を利用するのはひかえたほうがよろしいかと思いまして」
彼は美弥の願望通りの提言をした。それは願ってもない判断だ。美弥にはよろこばしい一方で、彼が美弥を避ける動機が気になる。律子も不安気だ。
「妹が失礼なことを言ったからですか?」
律子がおずおずとたずねた。デイルは笑顔のまま「そうではありません」と否定する。
「せっかくの妹さんの心のよりどころを、私が邪魔するのはよくないと思います」
「そうでしょうか……妹は、あまりデイルさんのことをいやがってないですよ。いやだったらこのお部屋に来ていません」
「妹さんは男嫌いなのでしょう。苦手なものは我慢できても、そう簡単に克服できませんよ。リラックスできる時間くらいは、無理をしないですむ環境がのぞましいはずです」
デイルの主張は美弥をおもんばかった内容だ。美弥は彼が信頼に足る教師やもしれないと感じはじめる。
「聞けばそのお店は女性店員ばかり。オーナーの方も特殊な性別とはいえ女性の範疇です。だから貴女はそのお店の方に妹さんを任せられるのではありませんか?」
「そうですけど……男性のお客さんだってとうぜん来ます。あなたが気にすることじゃ……」
「数の問題ですよ。男性客が一人だけいるのと十人いるのとでは、店の入りやすさが変わってくると思います」
デイルは美弥に確認の視線を投げた。美弥は店内客の性別によって店の利用を決める自信がないものの、居心地の善し悪しでいえば彼の予想通りになりそうだとも思う。
「そうかもしれない……」
美弥は肯定的につぶやいた。その考えには若干のデイルの暗示が影響している気はした。しかしはじめてデイルの姿を見た時の不快感を思えば、なるべく男性を視界に入れないほうが心が安定する確信はある。
「今日会ったばかりなのに、よくそんなに思いつけるものね」
「人間の考え方には多少の興味と知識がありますので」
デイルがにこやかな調子を保つ。美弥はその笑顔がいままでにない自信を帯びているように見えた。
タグ:美弥
2017年12月16日
拓馬篇前記−美弥9
デイルは黙りこくってしまった。その風貌はさながらロダンの考える人である。口元への手の当て方や当てる手の左右がちがっていても、美弥はそう感じた。
彼は思考整理の時間を美弥たちに頂戴した。その間、律子は手を組んだりさすったりして落ち着きがない。律子の挙動の原因は美弥にある。見かけ上は心優しい男性を、妹が糾弾したことにやきもきしているのだ。美弥は静寂が姉の動揺を煽るのではないかと思い、口を開く。
「お姉ちゃん、なにを心配してるの」
「だって、美弥が失礼なことを……」
「ホントのことじゃないの。すこししゃべっただけの相手を『信じる』だなんて、カンタンに言ってくれるのは世間知らずか詐欺師くらいよ」
美弥は現実にありうるのはその二者だと思った。もう一つ、深い洞察力により他人の人間性を見抜く人もいるだろうとは思っている。だがそんな人間はだいたい心理学者か人生経験豊富な老人に限定される。高校の教員だと自己紹介する青年にはあてはまらないと考えた。
美弥が取りあげた二者はどちらも批判的なレッテルだ。「世間知らず」のほうが道徳心が肯定されるだけいくらかマシに見える。ただし、美弥はデイルを「世間知らず」とは判断していない。
デイルの年頃は三十歳前後。どう見ても美弥たちより年長だ。その態度は冷静沈着で、どこか達観した気配がある。話中に「元上司」という単語があったことから察するに、職務経験もちゃんとある。これらの要素は彼が渡世に無知な人間だと結びつかなかった。おまけに、彼の年齢では正確無比な人間観察ができるとも思えない。それゆえ美弥の口調は意識的に荒々しくなり、律子が「彼に失礼なことを言った」のだと美弥の言動を案ずるのだ。
美弥の認識にはデイルが自分たちを騙そうとする男だという認識があった。だがもし相手が人のよさそうな老人や中年の女性、あるいは幼子であったら、美弥はこれほどの敵愾心を掻きたてられなかったろう。
(男だから……疑ってる?)
大人の男性というその一点で、デイルがお人好しである可能性を破棄している。それは大いなる偏見だ。
「また、そんな言いかた……」
律子は妹の主張に否定的だ。そればかりか悲愴な面持ちでいる。美弥が不和を拡大させることを嫌がっているのだろう。美弥は自分の言動が姉を悲しませる状況に胸が痛んだ。
(でも……はっきりさせなきゃ。もう、だまされたくないでしょ)
律子に寄ってくる男は金銭目当ての時もある。そういった相手になると美弥の勘はにぶる。相手のほうが人心のなんたるかを心得たプロだからだ。そんな連中がいるからこそ、人の良さそうにふるまう学校関係者が、敵ではないという確信がほしかった。
ここまでこき下ろされた相手が沸点の低いやからであれば「出て行け」と絶交宣言をしそうなところだ。だがデイルは美弥の追撃を聞かなかったかのようにポーズを維持する。思考中ゆえに姉妹のやり取りは耳に届かなかったのかもしれない。彼はそこまで真剣に物思いにふけっている。その理由は美弥にも律子にもわからなかった。
(この人も、私みたいにきつく他人にあたったらしいけど……)
自分のことがわかるはずがないと、彼を良く思ってくれた人物に言った──そのようにデイルは説明する。これほど美弥が彼に楯突いても負の感情をもらさない人が、他者を攻撃した。美弥はどうにもその光景がうかびにくい。
(私に合わせてるようには、見えない)
「あなたの気持ちはわかる」といった、同調を演出する人種は存在する。浅薄な慣れあいは美弥の嫌悪するところだ。デイルの思考時間の長さから考えるに、美弥の仲間意識を得るための行動ではなさそうだった。
重たい空気の中、マイペースな男性がおもてを上げた。またもうっすら笑みをつくっている。
「ミウラリツコという芸能人について、私はあまり存じあげていません」
デイルは美弥の質問にやっと答えはじめる。彼の長考のおおもとである出来事は取りあげないらしい。
「ですが、不慣れな土地にすむ妹を心配する姉……その姉を必死に守ろうとする妹のことなら、知っています。その妹はいまも、姉を害する危険のある男を見張っています」
デイルは自身のことも他人事のように言う。美弥は彼の推察が的外れでないと思い、口をはさまない。
「姉がわるい男にだまされ続けたせいなのでしょう。妹は男嫌いになってしまい、姉と自分に関わる男すべてが姉妹をだまそうとする人に見えています。その反応が、妹の新生活に影を落とすことにならないかと、姉はいっそう心配しています」
「影を落とす?」
美弥は率直に疑問点をあげた。話者は口角を上げる。
「たとえば妹が、彼女の授業を受けもつ教師と険悪な仲になることです」
美弥は盲点を突かれた。デイルは学校の教員だと確定している。美弥が彼の授業に参加するのだとしたら、彼との関係を決裂させることは得策ではない。ひとたび憎みあえば相手の顔を見るだけでもつらくなる。そんな苦々しい気分を抱えた学校生活を、これからすごすのか。
(学校に行くことがイヤになりそう……)
美弥は姉のために警戒することで、みずからの環境を悪化させようとしているのだ。そして、その環境は律子の暮らしとは直接の関係をもたない。
「私があなたにつっかかっても、お姉ちゃんの不安を増やすだけ……」
「そうです」
「だから、ヘンなことを言う相手にも波風を立てずにやり過ごせってこと?」
「私以外の教師にはそうなさったほうがよいでしょう」
「あなたはいいの? 詐欺師だとか言われちゃってても」
「かまいません。批判や侮辱の言葉は聞き慣れています。なにより、貴女の冷ややかな態度には愛情がこもっていますから、ほほえましいです」
美弥の辛辣さを好意的に捉えているらしい。美弥は彼がマゾヒズムでないかと気味悪がる。
「……ヘンタイ?」
「私の言う愛情とは貴女からお姉さんに向かう感情のことです。貴女は姉を大切にするがゆえに、私に反発したのでしょう?」
「それは、そう、ね……」
美弥は不必要な攻撃を加えてしまったことに恥じ入った。デイルは美弥の勘違いを捨て置く。
「この目で見て、二人の絆は固いと感じました。お二人はお互いの幸せを望んでいるのでしょう。互いを思えばこそ、お姉さんが不倫という退廃的な行為に走るとは考えられません。それが、私が貴女たちの潔白を信じる根拠です」
デイルは姉妹の絆を証拠として提示した。くわえて美弥の好戦的な物言いの原因を列挙し、そのどれもが美弥のうなずける解答をくりだした。姉が妻子ある男性を誘惑するはずがないことは、美弥がいちばん知っている。亡き母と美弥は、律子に健全で幸福な家庭をもってほしいと願った。そのことを律子も承知している。
美弥はデイルがれっきとした人物眼をもつ男性だと認めた。美弥が非礼をわびようとした時、律子が「ごめんなさい」と先んじて謝罪する。
「妹がピリピリするの、わたしのせいなんです。わたしがしっかりしてないから、美弥がやりすぎなくらい他人を警戒してしまうんです。どうか、美弥をわるく思わないでください」
「私は気にしていません。もともと校長から『男嫌いな女子生徒』だと忠告を受けていました。男性教師では対応がむずかしいだろう、とも」
「はい、ほんとうに……」
「授業がはじまる前に、どんな生徒なのかわかることができてよかったです」
デイルは依然として前向きな姿勢だ。
「妹さんがお姉さんを守る目的で異性に対して苛烈になるのなら、お姉さんがいない学校では彼女の男嫌いが多少おさまるんじゃないでしょうか」
「そう、だといいですけど……」
「そう言われても実感がわきませんよね。自分がいない時の家族のふるまいなど」
デイルがなごやかに会話を続ける。美弥との遺恨は完全に残さないつもりのようだ。
(いえ……この人、私と対決してた感覚さえないのかも……)
歯の生えそろわぬ子猫が手に噛みついてきた──彼の視点ではその程度の舌戦だったのかもしれない。美弥はこの男性と対等の立場でいられなかった自分をなさけなく思いながらも、彼の寛大さに敬意を感じた。
彼は思考整理の時間を美弥たちに頂戴した。その間、律子は手を組んだりさすったりして落ち着きがない。律子の挙動の原因は美弥にある。見かけ上は心優しい男性を、妹が糾弾したことにやきもきしているのだ。美弥は静寂が姉の動揺を煽るのではないかと思い、口を開く。
「お姉ちゃん、なにを心配してるの」
「だって、美弥が失礼なことを……」
「ホントのことじゃないの。すこししゃべっただけの相手を『信じる』だなんて、カンタンに言ってくれるのは世間知らずか詐欺師くらいよ」
美弥は現実にありうるのはその二者だと思った。もう一つ、深い洞察力により他人の人間性を見抜く人もいるだろうとは思っている。だがそんな人間はだいたい心理学者か人生経験豊富な老人に限定される。高校の教員だと自己紹介する青年にはあてはまらないと考えた。
美弥が取りあげた二者はどちらも批判的なレッテルだ。「世間知らず」のほうが道徳心が肯定されるだけいくらかマシに見える。ただし、美弥はデイルを「世間知らず」とは判断していない。
デイルの年頃は三十歳前後。どう見ても美弥たちより年長だ。その態度は冷静沈着で、どこか達観した気配がある。話中に「元上司」という単語があったことから察するに、職務経験もちゃんとある。これらの要素は彼が渡世に無知な人間だと結びつかなかった。おまけに、彼の年齢では正確無比な人間観察ができるとも思えない。それゆえ美弥の口調は意識的に荒々しくなり、律子が「彼に失礼なことを言った」のだと美弥の言動を案ずるのだ。
美弥の認識にはデイルが自分たちを騙そうとする男だという認識があった。だがもし相手が人のよさそうな老人や中年の女性、あるいは幼子であったら、美弥はこれほどの敵愾心を掻きたてられなかったろう。
(男だから……疑ってる?)
大人の男性というその一点で、デイルがお人好しである可能性を破棄している。それは大いなる偏見だ。
「また、そんな言いかた……」
律子は妹の主張に否定的だ。そればかりか悲愴な面持ちでいる。美弥が不和を拡大させることを嫌がっているのだろう。美弥は自分の言動が姉を悲しませる状況に胸が痛んだ。
(でも……はっきりさせなきゃ。もう、だまされたくないでしょ)
律子に寄ってくる男は金銭目当ての時もある。そういった相手になると美弥の勘はにぶる。相手のほうが人心のなんたるかを心得たプロだからだ。そんな連中がいるからこそ、人の良さそうにふるまう学校関係者が、敵ではないという確信がほしかった。
ここまでこき下ろされた相手が沸点の低いやからであれば「出て行け」と絶交宣言をしそうなところだ。だがデイルは美弥の追撃を聞かなかったかのようにポーズを維持する。思考中ゆえに姉妹のやり取りは耳に届かなかったのかもしれない。彼はそこまで真剣に物思いにふけっている。その理由は美弥にも律子にもわからなかった。
(この人も、私みたいにきつく他人にあたったらしいけど……)
自分のことがわかるはずがないと、彼を良く思ってくれた人物に言った──そのようにデイルは説明する。これほど美弥が彼に楯突いても負の感情をもらさない人が、他者を攻撃した。美弥はどうにもその光景がうかびにくい。
(私に合わせてるようには、見えない)
「あなたの気持ちはわかる」といった、同調を演出する人種は存在する。浅薄な慣れあいは美弥の嫌悪するところだ。デイルの思考時間の長さから考えるに、美弥の仲間意識を得るための行動ではなさそうだった。
重たい空気の中、マイペースな男性がおもてを上げた。またもうっすら笑みをつくっている。
「ミウラリツコという芸能人について、私はあまり存じあげていません」
デイルは美弥の質問にやっと答えはじめる。彼の長考のおおもとである出来事は取りあげないらしい。
「ですが、不慣れな土地にすむ妹を心配する姉……その姉を必死に守ろうとする妹のことなら、知っています。その妹はいまも、姉を害する危険のある男を見張っています」
デイルは自身のことも他人事のように言う。美弥は彼の推察が的外れでないと思い、口をはさまない。
「姉がわるい男にだまされ続けたせいなのでしょう。妹は男嫌いになってしまい、姉と自分に関わる男すべてが姉妹をだまそうとする人に見えています。その反応が、妹の新生活に影を落とすことにならないかと、姉はいっそう心配しています」
「影を落とす?」
美弥は率直に疑問点をあげた。話者は口角を上げる。
「たとえば妹が、彼女の授業を受けもつ教師と険悪な仲になることです」
美弥は盲点を突かれた。デイルは学校の教員だと確定している。美弥が彼の授業に参加するのだとしたら、彼との関係を決裂させることは得策ではない。ひとたび憎みあえば相手の顔を見るだけでもつらくなる。そんな苦々しい気分を抱えた学校生活を、これからすごすのか。
(学校に行くことがイヤになりそう……)
美弥は姉のために警戒することで、みずからの環境を悪化させようとしているのだ。そして、その環境は律子の暮らしとは直接の関係をもたない。
「私があなたにつっかかっても、お姉ちゃんの不安を増やすだけ……」
「そうです」
「だから、ヘンなことを言う相手にも波風を立てずにやり過ごせってこと?」
「私以外の教師にはそうなさったほうがよいでしょう」
「あなたはいいの? 詐欺師だとか言われちゃってても」
「かまいません。批判や侮辱の言葉は聞き慣れています。なにより、貴女の冷ややかな態度には愛情がこもっていますから、ほほえましいです」
美弥の辛辣さを好意的に捉えているらしい。美弥は彼がマゾヒズムでないかと気味悪がる。
「……ヘンタイ?」
「私の言う愛情とは貴女からお姉さんに向かう感情のことです。貴女は姉を大切にするがゆえに、私に反発したのでしょう?」
「それは、そう、ね……」
美弥は不必要な攻撃を加えてしまったことに恥じ入った。デイルは美弥の勘違いを捨て置く。
「この目で見て、二人の絆は固いと感じました。お二人はお互いの幸せを望んでいるのでしょう。互いを思えばこそ、お姉さんが不倫という退廃的な行為に走るとは考えられません。それが、私が貴女たちの潔白を信じる根拠です」
デイルは姉妹の絆を証拠として提示した。くわえて美弥の好戦的な物言いの原因を列挙し、そのどれもが美弥のうなずける解答をくりだした。姉が妻子ある男性を誘惑するはずがないことは、美弥がいちばん知っている。亡き母と美弥は、律子に健全で幸福な家庭をもってほしいと願った。そのことを律子も承知している。
美弥はデイルがれっきとした人物眼をもつ男性だと認めた。美弥が非礼をわびようとした時、律子が「ごめんなさい」と先んじて謝罪する。
「妹がピリピリするの、わたしのせいなんです。わたしがしっかりしてないから、美弥がやりすぎなくらい他人を警戒してしまうんです。どうか、美弥をわるく思わないでください」
「私は気にしていません。もともと校長から『男嫌いな女子生徒』だと忠告を受けていました。男性教師では対応がむずかしいだろう、とも」
「はい、ほんとうに……」
「授業がはじまる前に、どんな生徒なのかわかることができてよかったです」
デイルは依然として前向きな姿勢だ。
「妹さんがお姉さんを守る目的で異性に対して苛烈になるのなら、お姉さんがいない学校では彼女の男嫌いが多少おさまるんじゃないでしょうか」
「そう、だといいですけど……」
「そう言われても実感がわきませんよね。自分がいない時の家族のふるまいなど」
デイルがなごやかに会話を続ける。美弥との遺恨は完全に残さないつもりのようだ。
(いえ……この人、私と対決してた感覚さえないのかも……)
歯の生えそろわぬ子猫が手に噛みついてきた──彼の視点ではその程度の舌戦だったのかもしれない。美弥はこの男性と対等の立場でいられなかった自分をなさけなく思いながらも、彼の寛大さに敬意を感じた。
タグ:美弥
2017年12月15日
拓馬篇前記−美弥8
招かれた部屋は美弥の現在の住まいと変わり映えしなかった。同じ建物なのだから当然ではある。だが調度品まで同じだとは思っていなかった。美弥が引越してきた時に備え付けてあったものは、デイルの部屋にも用意されているようだ。居間のカーペットと座卓は色こそちがうが同じ。壁に設置した棚とそこにあるテレビなどは大きさも色もそっくりだ。
美弥は自室に帰ってきた感覚で座卓を囲んだ。本来の住人は台所であたたかい飲み物の用意をしている。
「インスタントですがお好きなものを選んでください」
とデイルはスティックタイプのコーヒーやミルクティーの粉を見せた。美弥たちは今日飲んだものと被らない味を選び、彼の指示のもとに居間へ入った。
律子は美弥の九十度となりに座った。マスクをとり、帽子をとると、普段の顔が現れる。美弥は姉の素顔を見ると緊張がゆるんだ。彼女らは他人の部屋だという認識がにぶる。
「美弥、ふつうに話せたね」
「べつに、あれくらいは……」
律子は美弥が即時反省した話しかけには触れない。あれは失敗以外のなにものでもないはずだった。あえて伏せるのが律子の優しさだ。不出来だった部分ではなく成功した部分に着目する。そういったプラス思考が同業の者に好まれ、仲間と仕事が増えるきっかけになっているのだと美弥は思う。
「お姉ちゃんこそ、デリケートな時期なのにだいじょうぶなの?」
「男性の部屋に通ってるって、雑誌に書かれる?」
律子の目が笑う。姉は半分冗談のつもりだ。しかし美弥はほとんど本気である。
「あいつら、どこで情報を仕入れるんだかわかりゃしないもの」
「美弥といっしょなら平気よ。一人では来ないから」
姉妹が行き来する家ならば家族ぐるみの付き合いがある、と普通の人は思うだろう。だが美弥はそんな常識が通用する連中ではないと見当をつける。
「どうだかわかんない。お金のためならなんでもしそう」
「そんなデタラメなことを続けていたら記者も出版社も信用が落ちるでしょ。だれも本気にしなくなるわ」
廊下と居間を仕切るドアが開いた。部屋主である男性が両手に陶器のカップを持っている。
「お待ち遠さまです」
カフェオレの入ったカップを姉妹の前の座卓へ置く。彼はドアを閉め、美弥と向かい合う位置へ座った。彼自身の飲み物は用意しないようだ。その視線を察知したデイルが「お気になさらず」と笑いかける。
「私はのどが渇いていませんし、お見せできるカップもないのでお二人だけでどうぞ」
「『見せられないカップ』?」
律子が湯気の立つカップを両手で包みながら聞いた。デイルは「お手製のものです」と答える。
「独創的なデザインのカップはあるんですが、あまり使いたくはないのです」
「失敗作とか?」
「いえ、思い出の品です。大切にしたいと思っています」
「やだ、失礼なことを言っちゃいましたね」
「かまいません。私の言い方がわるかったのです」
デイルは姉妹に見せないカップの思い出を語らず、美弥たちにふるまった飲料について話す。
「そのインスタントドリンクは元上司の娘さんに勧められて持ってきました。こうしてお二方にふるまうことができて、よかったです」
「自分で飲む用じゃないんですか?」
またも律子がしゃべる。本日の美弥の異性との会話トレーニングは、さきほどのやり取りで終了のようだ。美弥は姉が話すのならそれでかまわなかった。出されたカフェオレをちびちび飲む。
「私はあれば飲みますが、しいて飲みたいとは思いません。身内の娘さんはこれからこの部屋へ遊びにくると言っていますから、彼女のために用意してあるようなものです」
「仲のいい女性なんですね」
「女性は女性ですが貴女の妹さんと同じ年頃です。まだ子どもですよ」
「あら? わたしたち、まだ自己紹介をしてなかったと……」
美弥は律子と顔が似ている。マスクをとった律子と見比べれば、二人を姉妹だと推測するのも無理はなかった。「勝手にそう思いこんでいた」と返されれば納得できる状況だ。しかし彼は意外な告白をする。
「隠していて申し訳ありません。じつは貴女たちのことは校長から聞いています」
「校長さんが……なんて?」
「……少々、言いにくいですね」
「いいんです、正直に言ってください」
「『男性の食い物にされている姉妹』だと言われたことが、強烈でした」
美弥はせっかく持ち直した前向きな気分が失墜してしまった。そうなると予想したから彼は一度言葉を濁したのだろう。デイルは同情をこめた目で律子を見た。律子は視線を逸らす。
「……じゃ、不倫騒動のことも知ってるんですね」
「お聞きしました。私は貴女が潔白だと信じています」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
律子はデイルの言葉に励まされたようだ。美弥はかえって不信がつのる。この男は律子のなにを知って、潔白を信じるというのか。テレビに映る律子は配役を演じただけの別人だというのに。彼は聞こえのよいことを述べる偽善者ではないのかと疑念が生じる。
「……どうして、お姉ちゃんが無実だと思えるの?」
二人の視線が不穏な発言をする美弥にあつまる。美弥は場を乱す行為だと知りつつも詰問を続ける。
「テレビの外の水卜律子がどんな人だか知らないのに、どこを信じられるの?」
この男がうわべだけの善人かどうか、白黒をはっきりつけておく。その意思をもって美弥はデイルをにらみつけた。彼は面食らった表情をしている。顔を伏せたのち、不意に肩をふるわせる。怒ったのか悲しんでいるのか、美弥は彼の感情がつかめない。
「なに、どうしたの?」
デイルは顔をゆっくり上げた。意外にも微笑がうかんでいる。美弥がはじめて彼に話しかけた時と同じ面構えだ。しかし美弥の受ける印象はその時とは大きく変容する。彼の笑顔の意図がわからず、不気味だ。
「まさか、私がそう言われる立場になるとは思いもしませんでした」
「どういうこと?」
「貴女はこうおっしゃりたいのでしょう。『今日会ったばかりの人間に、なにがわかる』と。『わかった気になっているだけだ』と」
「ええ、そう言ってる」
「私も、私を高く評価した人に同じようなことを言ってしまったのです。いまなら、その方の思いが理解できそうです」
デイルは「考える時間をください」と願い、うつむき加減に口元を左手でおおう。その人差し指には白い宝石のついた指輪があった。
美弥は自室に帰ってきた感覚で座卓を囲んだ。本来の住人は台所であたたかい飲み物の用意をしている。
「インスタントですがお好きなものを選んでください」
とデイルはスティックタイプのコーヒーやミルクティーの粉を見せた。美弥たちは今日飲んだものと被らない味を選び、彼の指示のもとに居間へ入った。
律子は美弥の九十度となりに座った。マスクをとり、帽子をとると、普段の顔が現れる。美弥は姉の素顔を見ると緊張がゆるんだ。彼女らは他人の部屋だという認識がにぶる。
「美弥、ふつうに話せたね」
「べつに、あれくらいは……」
律子は美弥が即時反省した話しかけには触れない。あれは失敗以外のなにものでもないはずだった。あえて伏せるのが律子の優しさだ。不出来だった部分ではなく成功した部分に着目する。そういったプラス思考が同業の者に好まれ、仲間と仕事が増えるきっかけになっているのだと美弥は思う。
「お姉ちゃんこそ、デリケートな時期なのにだいじょうぶなの?」
「男性の部屋に通ってるって、雑誌に書かれる?」
律子の目が笑う。姉は半分冗談のつもりだ。しかし美弥はほとんど本気である。
「あいつら、どこで情報を仕入れるんだかわかりゃしないもの」
「美弥といっしょなら平気よ。一人では来ないから」
姉妹が行き来する家ならば家族ぐるみの付き合いがある、と普通の人は思うだろう。だが美弥はそんな常識が通用する連中ではないと見当をつける。
「どうだかわかんない。お金のためならなんでもしそう」
「そんなデタラメなことを続けていたら記者も出版社も信用が落ちるでしょ。だれも本気にしなくなるわ」
廊下と居間を仕切るドアが開いた。部屋主である男性が両手に陶器のカップを持っている。
「お待ち遠さまです」
カフェオレの入ったカップを姉妹の前の座卓へ置く。彼はドアを閉め、美弥と向かい合う位置へ座った。彼自身の飲み物は用意しないようだ。その視線を察知したデイルが「お気になさらず」と笑いかける。
「私はのどが渇いていませんし、お見せできるカップもないのでお二人だけでどうぞ」
「『見せられないカップ』?」
律子が湯気の立つカップを両手で包みながら聞いた。デイルは「お手製のものです」と答える。
「独創的なデザインのカップはあるんですが、あまり使いたくはないのです」
「失敗作とか?」
「いえ、思い出の品です。大切にしたいと思っています」
「やだ、失礼なことを言っちゃいましたね」
「かまいません。私の言い方がわるかったのです」
デイルは姉妹に見せないカップの思い出を語らず、美弥たちにふるまった飲料について話す。
「そのインスタントドリンクは元上司の娘さんに勧められて持ってきました。こうしてお二方にふるまうことができて、よかったです」
「自分で飲む用じゃないんですか?」
またも律子がしゃべる。本日の美弥の異性との会話トレーニングは、さきほどのやり取りで終了のようだ。美弥は姉が話すのならそれでかまわなかった。出されたカフェオレをちびちび飲む。
「私はあれば飲みますが、しいて飲みたいとは思いません。身内の娘さんはこれからこの部屋へ遊びにくると言っていますから、彼女のために用意してあるようなものです」
「仲のいい女性なんですね」
「女性は女性ですが貴女の妹さんと同じ年頃です。まだ子どもですよ」
「あら? わたしたち、まだ自己紹介をしてなかったと……」
美弥は律子と顔が似ている。マスクをとった律子と見比べれば、二人を姉妹だと推測するのも無理はなかった。「勝手にそう思いこんでいた」と返されれば納得できる状況だ。しかし彼は意外な告白をする。
「隠していて申し訳ありません。じつは貴女たちのことは校長から聞いています」
「校長さんが……なんて?」
「……少々、言いにくいですね」
「いいんです、正直に言ってください」
「『男性の食い物にされている姉妹』だと言われたことが、強烈でした」
美弥はせっかく持ち直した前向きな気分が失墜してしまった。そうなると予想したから彼は一度言葉を濁したのだろう。デイルは同情をこめた目で律子を見た。律子は視線を逸らす。
「……じゃ、不倫騒動のことも知ってるんですね」
「お聞きしました。私は貴女が潔白だと信じています」
「そう言ってもらえると、ありがたいです」
律子はデイルの言葉に励まされたようだ。美弥はかえって不信がつのる。この男は律子のなにを知って、潔白を信じるというのか。テレビに映る律子は配役を演じただけの別人だというのに。彼は聞こえのよいことを述べる偽善者ではないのかと疑念が生じる。
「……どうして、お姉ちゃんが無実だと思えるの?」
二人の視線が不穏な発言をする美弥にあつまる。美弥は場を乱す行為だと知りつつも詰問を続ける。
「テレビの外の水卜律子がどんな人だか知らないのに、どこを信じられるの?」
この男がうわべだけの善人かどうか、白黒をはっきりつけておく。その意思をもって美弥はデイルをにらみつけた。彼は面食らった表情をしている。顔を伏せたのち、不意に肩をふるわせる。怒ったのか悲しんでいるのか、美弥は彼の感情がつかめない。
「なに、どうしたの?」
デイルは顔をゆっくり上げた。意外にも微笑がうかんでいる。美弥がはじめて彼に話しかけた時と同じ面構えだ。しかし美弥の受ける印象はその時とは大きく変容する。彼の笑顔の意図がわからず、不気味だ。
「まさか、私がそう言われる立場になるとは思いもしませんでした」
「どういうこと?」
「貴女はこうおっしゃりたいのでしょう。『今日会ったばかりの人間に、なにがわかる』と。『わかった気になっているだけだ』と」
「ええ、そう言ってる」
「私も、私を高く評価した人に同じようなことを言ってしまったのです。いまなら、その方の思いが理解できそうです」
デイルは「考える時間をください」と願い、うつむき加減に口元を左手でおおう。その人差し指には白い宝石のついた指輪があった。
タグ:美弥
2017年12月14日
拓馬篇前記−美弥7
「あ、あの……」
美弥はぎこちなく声を出した。普段の声量に調整したつもりだが、のどがうまく開かない。スーツの男性は野良猫に夢中なままだ。
ふたたび声掛けをしようと口を動かす。だがまごついてしまって声が出ない。まるで引っ込み思案な反応だ。美弥が異性を苦手とする影響か。そうは言っても、ここまで意志疎通に難儀することはなかった。性別以外にも原因がある。
(この人……一八〇センチはある)
美弥は相手の風体を恐ろしく感じた。この男性はアスリートのように良い体格をしている。その頭髪は不品行を匂わせる灰色だ。
(いきなり、言いがかりをつけられたり──)
この男性の発達した身体で暴力的な行為を振るわれれば、美弥たちは対抗しえない。美弥は姉の課したトレーニングを中止する言い訳を考えた。
美弥が黙っていると律子が妹の手を握りなおす。無言の「がんばれ」というエールだ。美弥は姉のいる手前、引き下がってはいけないのだと自分をいましめる。
「あの、このアパートに住んでる人ですか!」
不快感と緊張感を過剰に抑えつけたせいで、怒ったような口調になった。美弥は内心「しまった」と罪悪感に見舞われる。
(やだ、八つ当たりみたいになってる……)
この呼びかけでは、見ず知らずの小娘が当たり散らしていると誤解される。美弥は相手の表情がくもるのを覚悟した。
灰色のスーツ姿の男性は猫ののどをなでている。その手が止まった。彼が振り返る、と思うと美弥の息がつまった。
男性は美弥とそのとなりにいる律子に視線を落とした。三人のはじめての対面だ。男性は若く見えるものの、立ち居振る舞いは三十代以上の落ち着きがあった。目元に黄色のレンズのサングラスをかけている。サングラスは髪の色とともに、通常人とは異なる要素だ。しかし美弥はあまり怖さを感じなかった。彼の顔つきが優しそうだったからだ。
ただし信用はできなかった。男性の目鼻立ちが異様に整っている。体も大きすぎず筋肉のつきすぎない、理想的ないでたちだ。彼は肌が焼けており、白人至上主義者以外の女性が放っておかない風貌だろう。そのため女ったらしではなかろうか、と別の懸念が瞬時に浮上する。懸念が的中した場合は、美弥たちが堅固な意思でつっぱねればよい。浅い交流で済ませるぶんには害がなさそうだ。
「はい、そうです」
男性はうっすら笑んでいた。美弥の話し方をなんとも感じていないらしい。美弥は自身の語勢を悪く受け取られなかったことに安心した。
「貴女も、こちらに住んでいらっしゃるのですか?」
男性が丁寧な会話を続けている。美弥はすべり出しの不調を気に病み、発声しない肯定の仕草をする。美弥のうなずきを見た男性は「では才穎高校の方ですね」と言う。
「私はデイルと申します。このたび才穎の教員として配属しました。以後お見知りおきを」
デイル、という名前は外国人のそれだ。高い鼻は西洋人らしくもある。美弥は彼の髪が天然のものでないかと思いはじめる。
「え……外国の人、ですか?」
今度は普通に声が出た。相手に自身への反感がなく、むしろ親切心があるのだと知ると、彼への抵抗がうすまったようだ。
「はい。国籍は日本ですが、この国の血は流れていません」
「じゃあ、その髪も……」
「地毛ですよ。よく、染めた髪だと勘違いされます。こういう髪は高齢の方以外、あまり見かけませんからね」
彼は塀の上の猫に目を向ける。
「猫だと普通の毛色なんですがね」
彼が愛でた猫は全身灰色の毛皮をまとっている。首輪がない野良猫のようだが、のんきに両目をつむっていた。人に馴れた猫らしい。
「いっそ黒く染めたらよいのかと思うのですが……貴女はどう思われます?」
会ってまもないにもかかわらず、悩み相談をされるとは。美弥は返答に窮する。自身も同じ誤解をしたがゆえに、否定の余地がない。本当の問題は髪の色ではないのだ。そんな奇妙な髪の色に変えると、浮ついた心の持ち主だという悪印象を他者に持たれる。それがまずい。だが、他人の目を気にする生き様は正しいのだろうか。
「……あなたの好きな、髪の色がいいんじゃないですか?」
口調次第では「そんなの勝手にしてよ」と冷たい印象を与えかねない言葉だった。しかしそれ以外に言いようがない。美弥は自分の主張がデイルへの無関心からくるものでないことを強調する。
「髪を染めるのだって、自分が満足できるならどんなのでもいいと思います。私もあなたが言うように、はじめは不良じゃないかとビビったけれど、話してみて、ぜんぜんちがうんだとわかったし……」
「やはり、怖かったですか?」
彼は第一印象に重きを置く。「実際に話してみると」などという印象の変化より前の段階を気にしているのだ。美弥の実体験は、デイルがそのままであればいいとする勇気づけにならない。
(髪の色のせいだけじゃないってことを言えれば──)
美弥は彼が改善しようのない原因を思いつく。
「でも、その体格がいちばんこわいと思う。なでようとした犬や猫が逃げちゃわないですか?」
動物には人間の頭髪の色など関係ない。彼らはみずからの生存本能のままに生きているはずだ。デイルは頭を縦にゆらす。
「たまにありますね。女性や子どもにはおとなしく触られるのに、私には……ということが」
デイルは灰色の猫の丸々した背をなでつつ「体はどうにもできませんね」と独りごちた。背を触られた猫がパチリと目を開ける。猫は緑色の瞳をしていた。その目の色はレンズ越しに見えるデイルの目と似ている。
猫が伸びをする。前足をぐぐっと伸ばしたかと思うと、さっと塀を下りる。またたくまに走り去ってしまった。
「おや、背中はお気に召さなかったようです」
デイルが名残惜しそうに分析した。彼は美弥たちを見下ろす。
「よろしければ、私の部屋でもうすこし話をしましょうか?」
彼は猫に触りたいがために外に出ていたようだ。猫が去ったいま、立ち話を終了するつもりでいる。
美弥は姉の顔をうかがう。正直なところ、デイルとの会話を続けることに拒否感はない。あとは姉の判断次第だ。
「どうする?」
「うーん、若い男性の部屋には……」
デイルは律子の不安を知り、「これは失礼しました」と答える。
「貴女方がうら若きレディであることを失念しておりました。この申し出はなかったことに」
彼から笑顔が消え、失言を発した悔いが顔に表れた。この男性は性別を問わない客として美弥たちを迎えようとしたらしい。
(女に興味ない人?)
美弥はデイルの言動が演技だと思えなかった。男性による女性への期待──男女の仲に落ちるか、といった下心はまったく感じない。
美弥は色目には敏感だ。恋仲を期待されるまでもなくとも、自身の容姿を鑑賞する異性の目は気に入らない。美弥も姉ほどではないが端麗な部類だ。そういった視線が美弥の男性不信を助長させる一因でもある。それが目の前の男性には皆無。めずらしいことだ。
(この人は安全そう……)
律子もデイルの無害さが伝わったようで、「いえ」と言う。
「余計な心配でした。だって、美弥の学校の人ですもんね」
美弥には学校の知り合いがいない。会ったのは転入試験の時に関わった教師だけ。美弥と気心の知れた学校の者が一人でも多くいれば、律子の心が休まる。その目論見をもとに、美弥たちはデイルとの対話を継続することにした。
美弥はぎこちなく声を出した。普段の声量に調整したつもりだが、のどがうまく開かない。スーツの男性は野良猫に夢中なままだ。
ふたたび声掛けをしようと口を動かす。だがまごついてしまって声が出ない。まるで引っ込み思案な反応だ。美弥が異性を苦手とする影響か。そうは言っても、ここまで意志疎通に難儀することはなかった。性別以外にも原因がある。
(この人……一八〇センチはある)
美弥は相手の風体を恐ろしく感じた。この男性はアスリートのように良い体格をしている。その頭髪は不品行を匂わせる灰色だ。
(いきなり、言いがかりをつけられたり──)
この男性の発達した身体で暴力的な行為を振るわれれば、美弥たちは対抗しえない。美弥は姉の課したトレーニングを中止する言い訳を考えた。
美弥が黙っていると律子が妹の手を握りなおす。無言の「がんばれ」というエールだ。美弥は姉のいる手前、引き下がってはいけないのだと自分をいましめる。
「あの、このアパートに住んでる人ですか!」
不快感と緊張感を過剰に抑えつけたせいで、怒ったような口調になった。美弥は内心「しまった」と罪悪感に見舞われる。
(やだ、八つ当たりみたいになってる……)
この呼びかけでは、見ず知らずの小娘が当たり散らしていると誤解される。美弥は相手の表情がくもるのを覚悟した。
灰色のスーツ姿の男性は猫ののどをなでている。その手が止まった。彼が振り返る、と思うと美弥の息がつまった。
男性は美弥とそのとなりにいる律子に視線を落とした。三人のはじめての対面だ。男性は若く見えるものの、立ち居振る舞いは三十代以上の落ち着きがあった。目元に黄色のレンズのサングラスをかけている。サングラスは髪の色とともに、通常人とは異なる要素だ。しかし美弥はあまり怖さを感じなかった。彼の顔つきが優しそうだったからだ。
ただし信用はできなかった。男性の目鼻立ちが異様に整っている。体も大きすぎず筋肉のつきすぎない、理想的ないでたちだ。彼は肌が焼けており、白人至上主義者以外の女性が放っておかない風貌だろう。そのため女ったらしではなかろうか、と別の懸念が瞬時に浮上する。懸念が的中した場合は、美弥たちが堅固な意思でつっぱねればよい。浅い交流で済ませるぶんには害がなさそうだ。
「はい、そうです」
男性はうっすら笑んでいた。美弥の話し方をなんとも感じていないらしい。美弥は自身の語勢を悪く受け取られなかったことに安心した。
「貴女も、こちらに住んでいらっしゃるのですか?」
男性が丁寧な会話を続けている。美弥はすべり出しの不調を気に病み、発声しない肯定の仕草をする。美弥のうなずきを見た男性は「では才穎高校の方ですね」と言う。
「私はデイルと申します。このたび才穎の教員として配属しました。以後お見知りおきを」
デイル、という名前は外国人のそれだ。高い鼻は西洋人らしくもある。美弥は彼の髪が天然のものでないかと思いはじめる。
「え……外国の人、ですか?」
今度は普通に声が出た。相手に自身への反感がなく、むしろ親切心があるのだと知ると、彼への抵抗がうすまったようだ。
「はい。国籍は日本ですが、この国の血は流れていません」
「じゃあ、その髪も……」
「地毛ですよ。よく、染めた髪だと勘違いされます。こういう髪は高齢の方以外、あまり見かけませんからね」
彼は塀の上の猫に目を向ける。
「猫だと普通の毛色なんですがね」
彼が愛でた猫は全身灰色の毛皮をまとっている。首輪がない野良猫のようだが、のんきに両目をつむっていた。人に馴れた猫らしい。
「いっそ黒く染めたらよいのかと思うのですが……貴女はどう思われます?」
会ってまもないにもかかわらず、悩み相談をされるとは。美弥は返答に窮する。自身も同じ誤解をしたがゆえに、否定の余地がない。本当の問題は髪の色ではないのだ。そんな奇妙な髪の色に変えると、浮ついた心の持ち主だという悪印象を他者に持たれる。それがまずい。だが、他人の目を気にする生き様は正しいのだろうか。
「……あなたの好きな、髪の色がいいんじゃないですか?」
口調次第では「そんなの勝手にしてよ」と冷たい印象を与えかねない言葉だった。しかしそれ以外に言いようがない。美弥は自分の主張がデイルへの無関心からくるものでないことを強調する。
「髪を染めるのだって、自分が満足できるならどんなのでもいいと思います。私もあなたが言うように、はじめは不良じゃないかとビビったけれど、話してみて、ぜんぜんちがうんだとわかったし……」
「やはり、怖かったですか?」
彼は第一印象に重きを置く。「実際に話してみると」などという印象の変化より前の段階を気にしているのだ。美弥の実体験は、デイルがそのままであればいいとする勇気づけにならない。
(髪の色のせいだけじゃないってことを言えれば──)
美弥は彼が改善しようのない原因を思いつく。
「でも、その体格がいちばんこわいと思う。なでようとした犬や猫が逃げちゃわないですか?」
動物には人間の頭髪の色など関係ない。彼らはみずからの生存本能のままに生きているはずだ。デイルは頭を縦にゆらす。
「たまにありますね。女性や子どもにはおとなしく触られるのに、私には……ということが」
デイルは灰色の猫の丸々した背をなでつつ「体はどうにもできませんね」と独りごちた。背を触られた猫がパチリと目を開ける。猫は緑色の瞳をしていた。その目の色はレンズ越しに見えるデイルの目と似ている。
猫が伸びをする。前足をぐぐっと伸ばしたかと思うと、さっと塀を下りる。またたくまに走り去ってしまった。
「おや、背中はお気に召さなかったようです」
デイルが名残惜しそうに分析した。彼は美弥たちを見下ろす。
「よろしければ、私の部屋でもうすこし話をしましょうか?」
彼は猫に触りたいがために外に出ていたようだ。猫が去ったいま、立ち話を終了するつもりでいる。
美弥は姉の顔をうかがう。正直なところ、デイルとの会話を続けることに拒否感はない。あとは姉の判断次第だ。
「どうする?」
「うーん、若い男性の部屋には……」
デイルは律子の不安を知り、「これは失礼しました」と答える。
「貴女方がうら若きレディであることを失念しておりました。この申し出はなかったことに」
彼から笑顔が消え、失言を発した悔いが顔に表れた。この男性は性別を問わない客として美弥たちを迎えようとしたらしい。
(女に興味ない人?)
美弥はデイルの言動が演技だと思えなかった。男性による女性への期待──男女の仲に落ちるか、といった下心はまったく感じない。
美弥は色目には敏感だ。恋仲を期待されるまでもなくとも、自身の容姿を鑑賞する異性の目は気に入らない。美弥も姉ほどではないが端麗な部類だ。そういった視線が美弥の男性不信を助長させる一因でもある。それが目の前の男性には皆無。めずらしいことだ。
(この人は安全そう……)
律子もデイルの無害さが伝わったようで、「いえ」と言う。
「余計な心配でした。だって、美弥の学校の人ですもんね」
美弥には学校の知り合いがいない。会ったのは転入試験の時に関わった教師だけ。美弥と気心の知れた学校の者が一人でも多くいれば、律子の心が休まる。その目論見をもとに、美弥たちはデイルとの対話を継続することにした。
タグ:美弥
2017年12月08日
拓馬篇前記−美弥6
美弥たちは喫茶店での歓談を惜しみつつ、帰路をたどる。帰宅ルートはなるべく大通りを避けた。この土地は都会ではないので、通行人とあまりすれちがわない道は簡単に見つかった。美弥たち姉妹の警戒心がゆるむ。二人は道中、声のトーンを抑えながら雑談を交わした。
美弥はみちるがユニークな人物だと知っていたが、雇われ店員のマヨもまた愉快な人だった。マヨは美弥の印象に強く残っている。素朴ながらも個性的な女性は、律子らの想定にいなかった店の者だ。その人物が意外にもムードメーカーを担っている。心にささくれを持つ美弥たちにはマヨの存在が保湿剤のごとく癒しになった。
「あの人が才穎高校の卒業生かぁ……」
「ちょっと残念ね。美弥の同級生だったらよかったけれど」
「ああいうドジっ子が友だちじゃ、毎日が大変だと思う」
律子はマスク越しにふふっと笑う。
「そうね、きっと大変よ。でもさびしくはならなさそう」
いまの美弥たちに足りないものは陽気さだ。その成分がみちるの店にいることで補われた。律子は「またいっしょに行く?」と提案する。
「ほかのお客さんのいる時間にもおじゃましたいな」
「でも変装は? マスクをとったらバレちゃう」
入店時、二人は最初にマヨに出会った。マヨはマスク状態の律子を律子だと断定しなかった。しかしながら、彼女は前もって律子が来ることを知っていた口ぶりだった。それがマスクを外せば律子が有名人だと確信したのだ。マスクの擬態効果は大いにある。だが飲食をする場において、口の隠れるマスクを常用する客は不自然きわまりない。
「黒いサングラス……とか?」
「食事中もかけっぱなしじゃ『ヘンな人だ』って注目されない?」
日差しのない屋内でも四六時中、黒いレンズで目元を隠す人はいるだろう。そういった人はたいがい男性だ。それもいかつく、怖いイメージがある。柔弱な律子には不一致のアクセサリーだ。その違和感は他者の視線を集めてしまう。会った瞬間は律子だと思われなくとも、いずれ勘付かれる。美弥はそこが難点だと感じる。
「じっと見られたらきっとバレる」
「そうね……だけど準備中のときにばかり行くのは、仕事のジャマになるだろうし」
準備中は店内の清掃をしたり、次の営業時間のために料理の下ごしらえをしたりする時間だ。その作業時間に訪問することは、いたずらに相手方の仕事を増やす行為になる。
「うーん……いっぺんサングラスをかけてみて、それでバレないかためしてみる?」
当座はマスク以外の顔隠しを試験的に実施することに決めた。話題は変装道具に移る。
「サングラス、持ってたっけ?」
「夏場の外出用に持ってる」
「じゃ、あたらしいのは買わなくていいのね」
「うん……でも男性用だから、ちょっと合わないかも」
美弥は耳を疑った。男っ気のない律子が、男性向けの物を所有しているという。
「だれからもらったの?」
「え? ああ、エキストラの人……だったかな。通販で買ったんだけれどサイズが小さかったんだって。『律子さんなら顔ちっちゃいからかけられますよ!』とか言われて、もらっちゃった」
「下の名前でよばれてるの?」
「相手のほうが年上だったし……そんなもんじゃない?」
律子は淡泊に答える。美弥は自分の知らないところで姉に恋人ができているのではないかと疑ったが、どうもそうではないようだ。律子は妹の憶測を察し、その疑惑を笑い飛ばす。
「ふふ、恋人だったらちゃんと美弥に伝えるから。安心して」
「そう、よね。お母さんがよく言ってたもん。『律子は早く信頼できる男の人を見つけなさい』って……私も、そう思ってる。お姉ちゃんを守ってくれる、しっかりした人が──」
律子はその容姿ゆえにやましい心を持った異性をも惹きつけてしまう。早期に既婚者になってしまえば、悪い虫は寄りつきにくくなる。あわよくば夫の家族が、頼れる親類のいない姉妹の縁者になってくれる。これほど心強いことはないだろう。律子も同じ考えだと示すようにうなずく。
「みちるさんも『結婚したらいいんじゃないの』と言ってたね」
その意見はパパラッチ被害を未然に防ぐ解決策として提示された。オカマタレントであるみちるの実体験が裏にひそんでいるのかは知らないが、律子を支える人物がいてほしいのはたしかだ。
「お姉ちゃんは気になる人がいないの?」
「うん……だれを信用していいんだか、よくわからない。美弥が『いい』って言うような人がね……」
「べつに、私の好みに合わせなくていいのよ。お姉ちゃんの旦那さんだもん」
「美弥が信じられる人なら、安心なの。わたしは人を見る目がないから……」
律子の自己評価は正当だ。しかし美弥は姉の考えに不安を抱く。
(私の観察力だって、そこまで正確か……)
良い人だと姉に薦めた男性が、とんでもないダメ男だったとしたら。いうまでもなく姉は不幸になる。だがそれ以上に取り返しのつかない事態もありうる。
(ダメ男に引っ掛かったら別れればいい……でも、私が『ダメ』だと思った人が、ほかの女性と幸せな家庭を築けていたら……私は、きっと後悔する)
人それぞれに相性はある。律子とは歩調が合わない男性でも、律子と異なるタイプの女性と抜群によい関係を構築する可能性はあるだろう。だがその時になって、「あの人は姉以外の女性と結婚したからうまくいってる」と胸を張って言えるだろうか。その幸福な家庭に、そのまま律子をあてはめて「ほんとうならあそこに姉がいたのに」と思ってしまうのではなかろうか。
そもそも美弥は男嫌いである。きっと良い人なのだ、と思える相手であろうと、その人の良さに裏があるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。律子のことをまことに想う男性が目の前に現れても、おそらく美弥は拒絶する。
「……私には、お姉ちゃんの結婚相手を決める力がないと思う」
「そう? 美弥の言うことはけっこう当たると思うけど」
「男性はてんでダメ。みーんな悪者に見えちゃうもん」
「それは、美弥だとそうなのよね……」
「うん、だから──」
「じゃあさきに美弥の男性不信を治しちゃいましょ」
「え?」
律子の問題を論じていたはずが、なぜか美弥が抱える問題解決に転じた。律子は「そんなにおどろくこと?」と不思議そうに小首をかしげる。
「そのほうがいいでしょ? わたしが美弥に『この人とお付き合いしてる』って恋人を会わせたときに、美弥がツンツンしちゃったら気まずいもの」
「あ、まあ……」
「まずは男の人と簡単なあいさつをすることから始めましょうよ。わたしか、みちるさんたちと一緒のときでいいから」
挨拶くらいはできる。だが精神的負担はある。その負担を感じにくくさせること。それが美弥に課されたトレーニングだ。美弥は律子の出すハードルの低さに安堵した。やれることから徐々に慣れていけばいいのだと思うと、途方もない嫌悪感は永遠に続くわけではない気がした。
新規努力目標を立てた美弥はアパートを目前にして足を止める。宿舎の敷地内への入り口付近に、男性が立っている。その男性は今日から入居するらしい、灰色髪のスーツ姿の人物だ。彼は塀の上に座る猫をなでていた。律子が「チャンスね」と美弥にささやく。
「同じアパートの人でしょ。話しかけていい相手よ」
「でも、あんな、髪を染めてる人……」
「猫をかわいがってるじゃない。こわくなさそうよ」
わたしも一緒だから、と律子が美弥の手を握る。美弥は観念した。第一、部屋にもどるには男性のそばを通らねばならない。声掛けを推奨されるべき状況だ。美弥は姉に手を引っ張られるかたちで前進した。
美弥はみちるがユニークな人物だと知っていたが、雇われ店員のマヨもまた愉快な人だった。マヨは美弥の印象に強く残っている。素朴ながらも個性的な女性は、律子らの想定にいなかった店の者だ。その人物が意外にもムードメーカーを担っている。心にささくれを持つ美弥たちにはマヨの存在が保湿剤のごとく癒しになった。
「あの人が才穎高校の卒業生かぁ……」
「ちょっと残念ね。美弥の同級生だったらよかったけれど」
「ああいうドジっ子が友だちじゃ、毎日が大変だと思う」
律子はマスク越しにふふっと笑う。
「そうね、きっと大変よ。でもさびしくはならなさそう」
いまの美弥たちに足りないものは陽気さだ。その成分がみちるの店にいることで補われた。律子は「またいっしょに行く?」と提案する。
「ほかのお客さんのいる時間にもおじゃましたいな」
「でも変装は? マスクをとったらバレちゃう」
入店時、二人は最初にマヨに出会った。マヨはマスク状態の律子を律子だと断定しなかった。しかしながら、彼女は前もって律子が来ることを知っていた口ぶりだった。それがマスクを外せば律子が有名人だと確信したのだ。マスクの擬態効果は大いにある。だが飲食をする場において、口の隠れるマスクを常用する客は不自然きわまりない。
「黒いサングラス……とか?」
「食事中もかけっぱなしじゃ『ヘンな人だ』って注目されない?」
日差しのない屋内でも四六時中、黒いレンズで目元を隠す人はいるだろう。そういった人はたいがい男性だ。それもいかつく、怖いイメージがある。柔弱な律子には不一致のアクセサリーだ。その違和感は他者の視線を集めてしまう。会った瞬間は律子だと思われなくとも、いずれ勘付かれる。美弥はそこが難点だと感じる。
「じっと見られたらきっとバレる」
「そうね……だけど準備中のときにばかり行くのは、仕事のジャマになるだろうし」
準備中は店内の清掃をしたり、次の営業時間のために料理の下ごしらえをしたりする時間だ。その作業時間に訪問することは、いたずらに相手方の仕事を増やす行為になる。
「うーん……いっぺんサングラスをかけてみて、それでバレないかためしてみる?」
当座はマスク以外の顔隠しを試験的に実施することに決めた。話題は変装道具に移る。
「サングラス、持ってたっけ?」
「夏場の外出用に持ってる」
「じゃ、あたらしいのは買わなくていいのね」
「うん……でも男性用だから、ちょっと合わないかも」
美弥は耳を疑った。男っ気のない律子が、男性向けの物を所有しているという。
「だれからもらったの?」
「え? ああ、エキストラの人……だったかな。通販で買ったんだけれどサイズが小さかったんだって。『律子さんなら顔ちっちゃいからかけられますよ!』とか言われて、もらっちゃった」
「下の名前でよばれてるの?」
「相手のほうが年上だったし……そんなもんじゃない?」
律子は淡泊に答える。美弥は自分の知らないところで姉に恋人ができているのではないかと疑ったが、どうもそうではないようだ。律子は妹の憶測を察し、その疑惑を笑い飛ばす。
「ふふ、恋人だったらちゃんと美弥に伝えるから。安心して」
「そう、よね。お母さんがよく言ってたもん。『律子は早く信頼できる男の人を見つけなさい』って……私も、そう思ってる。お姉ちゃんを守ってくれる、しっかりした人が──」
律子はその容姿ゆえにやましい心を持った異性をも惹きつけてしまう。早期に既婚者になってしまえば、悪い虫は寄りつきにくくなる。あわよくば夫の家族が、頼れる親類のいない姉妹の縁者になってくれる。これほど心強いことはないだろう。律子も同じ考えだと示すようにうなずく。
「みちるさんも『結婚したらいいんじゃないの』と言ってたね」
その意見はパパラッチ被害を未然に防ぐ解決策として提示された。オカマタレントであるみちるの実体験が裏にひそんでいるのかは知らないが、律子を支える人物がいてほしいのはたしかだ。
「お姉ちゃんは気になる人がいないの?」
「うん……だれを信用していいんだか、よくわからない。美弥が『いい』って言うような人がね……」
「べつに、私の好みに合わせなくていいのよ。お姉ちゃんの旦那さんだもん」
「美弥が信じられる人なら、安心なの。わたしは人を見る目がないから……」
律子の自己評価は正当だ。しかし美弥は姉の考えに不安を抱く。
(私の観察力だって、そこまで正確か……)
良い人だと姉に薦めた男性が、とんでもないダメ男だったとしたら。いうまでもなく姉は不幸になる。だがそれ以上に取り返しのつかない事態もありうる。
(ダメ男に引っ掛かったら別れればいい……でも、私が『ダメ』だと思った人が、ほかの女性と幸せな家庭を築けていたら……私は、きっと後悔する)
人それぞれに相性はある。律子とは歩調が合わない男性でも、律子と異なるタイプの女性と抜群によい関係を構築する可能性はあるだろう。だがその時になって、「あの人は姉以外の女性と結婚したからうまくいってる」と胸を張って言えるだろうか。その幸福な家庭に、そのまま律子をあてはめて「ほんとうならあそこに姉がいたのに」と思ってしまうのではなかろうか。
そもそも美弥は男嫌いである。きっと良い人なのだ、と思える相手であろうと、その人の良さに裏があるのでは、と心のどこかで疑ってしまう。律子のことをまことに想う男性が目の前に現れても、おそらく美弥は拒絶する。
「……私には、お姉ちゃんの結婚相手を決める力がないと思う」
「そう? 美弥の言うことはけっこう当たると思うけど」
「男性はてんでダメ。みーんな悪者に見えちゃうもん」
「それは、美弥だとそうなのよね……」
「うん、だから──」
「じゃあさきに美弥の男性不信を治しちゃいましょ」
「え?」
律子の問題を論じていたはずが、なぜか美弥が抱える問題解決に転じた。律子は「そんなにおどろくこと?」と不思議そうに小首をかしげる。
「そのほうがいいでしょ? わたしが美弥に『この人とお付き合いしてる』って恋人を会わせたときに、美弥がツンツンしちゃったら気まずいもの」
「あ、まあ……」
「まずは男の人と簡単なあいさつをすることから始めましょうよ。わたしか、みちるさんたちと一緒のときでいいから」
挨拶くらいはできる。だが精神的負担はある。その負担を感じにくくさせること。それが美弥に課されたトレーニングだ。美弥は律子の出すハードルの低さに安堵した。やれることから徐々に慣れていけばいいのだと思うと、途方もない嫌悪感は永遠に続くわけではない気がした。
新規努力目標を立てた美弥はアパートを目前にして足を止める。宿舎の敷地内への入り口付近に、男性が立っている。その男性は今日から入居するらしい、灰色髪のスーツ姿の人物だ。彼は塀の上に座る猫をなでていた。律子が「チャンスね」と美弥にささやく。
「同じアパートの人でしょ。話しかけていい相手よ」
「でも、あんな、髪を染めてる人……」
「猫をかわいがってるじゃない。こわくなさそうよ」
わたしも一緒だから、と律子が美弥の手を握る。美弥は観念した。第一、部屋にもどるには男性のそばを通らねばならない。声掛けを推奨されるべき状況だ。美弥は姉に手を引っ張られるかたちで前進した。
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