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2018年12月16日

習一篇草稿−終章上

1
「ごめんね、すごくこわかったでしょ」
 異形は銀髪の少女に変貌し、涙を流す習一を抱きしめた。彼女は習一の背中をやさしくさする。その接触が、過去に奪われた体の実在を証明した。
「記憶、もどった?」
 習一は自信なくうなずく。自分が怪物に襲われた瞬間は思い出した。そこに至るまでの経緯はまだはっきりしない。
「バケモノに……手や、足を……でも、どうしてオレは生きている?」
 薄暗い灯りの下に黒い異形が無数にうごめいていた。それらが帽子の男の「喧嘩をせずに分け合え」という号令のもと、習一の肉体を咀嚼した。その惨劇は吐き気をもよおすほどにまざまざと思い出せる。習一はエリーの両肩を押して離れさせ、喋らない男を正視した。
「あんたがオレをバケモノたちの住処に運んだんだろう」
 言ってすぐ、習一は手錠のかかった片手が自由に動かせることに気付いた。
「あれ、手錠は……」
 拘束具は鉄棒に繋がっていた。習一の手首にあった輪は閉じたまま、ゆらゆら揺れる。錠が開いた形跡はない。手錠などなかったかのように、習一の手がすり抜けたのだ。
「なんで……?」
「いまのシューイチはね、ニンゲンじゃなくなってるの」
 エリーは習一の背に回した手を外し、習一の片手を握る。
「オレも、お前みたいなバケモノになっちまったのか?」
「うーんと……姿を消したわたしがくっついてると、シューイチも消える」
「『姿を消した』……?」
 エリーの存在は他人に気付かれない。それは彼女が常人に見えない姿で活動する影響か。
「わたしとシドはね、ほんとうは体がないの。こっちの世界の生きものじゃないから」
「シドも、お前と同じ? じゃあ、あの男は……」
 エリーが帽子の男に変化できたのだ。同類であるシドがくだんの男に化けられぬ道理はない。であれば教師がこの場におらず、帽子の男がいるわけは。
「……あんたが、シドか」
 男は頭を縦にふる。習一の警戒心がだいぶ薄れた。人外だという告白は衝撃的ではあるが、時折そういった疑念を抱いた習一にとっては仰天するほどの事実でない。なにより、シドは習一に危害を加えない。人を異形たちの食糧にする悪行は、気立ての優しい彼にできるはずがない。習一にトラウマを植えつけた犯人とは異なるのだ。習一は安堵のため息を吐き、目元に残るしずくをぬぐった。
「趣味の悪いことをしやがる。でもまぁ、おかげで少しは思い出せた。もうそのニセモンの姿はやめていいぞ」
「違う……」
 シドはいつもと異なった声質で答えた。その声はその姿の持ち主のもの。
「声もあの野郎のをコピーできるのか。エリーみたいな見た目だけじゃないんだな」
 これもシドは否定の素振りをした。彼が言わんとする主張はなにか。それを習一が明確に理解した瞬間、悪寒が脳天から足先まで走りぬけた。
「私が貴方を同胞に喰わせた」
 習一が本物だと思っていた教師の姿こそが、彼にとっては偽物だった。そうとわかると習一は握りこぶしをつくり、打ち震えた。
「とんだ……とんだお笑いぐさだ! 誰にでもいいツラして、善人ぶってたくせに! 裏じゃあんな酷いことをやってたのかよ!」
 今までの人物像が見せかけだったと知ると気が昂ぶり、エリーの手を乱暴に振りほどいた。
「シューイチ、さけぶなら手をつないで。ミツバがおきる」
「知ったことか! あんた、オレ以外にもバケモンに喰わせた人がいるんだってな。なにが目当てだ? 他人を信用させた隙に喰おうとしてんのか!」
 エリーが背後から習一に抱きついた。習一は暴れる。
「くっそ、放せ!」
 習一は上半身を左右に大きく揺さぶった。エリーは離れない。そもそも巨漢の光葉を突き飛ばす腕力のある相手だ。常人が力でかなう見込みはなかった。その拘束自体は怒りの対象ではない。習一はかまわず憤怒の根源に立ち向かう。
「バケモンのくせに、オレを真っ当な人間にするとぬかしたのか!」
 彼らが人間と偽った怪物だった──それは怒りの核心を突いてはいない。
「オレを殺したくせに、オレの前で笑っていやがったのか!」
 自分を傷つけた張本人だと隠していた──これも怒髪天を衝く要因には不足があると感じた。唐突に涙が垂れる。これは恐怖が生む涙ではない。だが純粋な怒りが生むものとも違う気がした。
(オレは……なんで泣いてる?)
 複数の感情がせめぎ合い、言葉を失う。混乱する習一に罪人姿の異形が詰め寄る。習一は怖気づいた。だが身の安全は取るに足らぬと思い、恐怖をねじ伏せた。
 大きな手が習一の顔を覆う。指の隙間から見える目は、彼の冷血さを伝える青色だ。
「私への不満はすべて吐き出せ。それらを私が余すことなく飲み込もう」
 シドは暴言を受け入れるという。天邪鬼な習一はかえって文句が言いにくくなる。彼にぶつけたいわだかまりは残っているのだが、それはどういううらみ言で表現すべきなのか習一自身がわからなかった。
「……場所を移すか」
 習一が黙りこくったのを見かねたのか、習一の顔からシドの手が離れた。圧迫感が遠ざかり、ほっとしたのは束の間だった。太い腕が習一の体を捕え、肩に担がれてしまった。
「急になんだ! どこ行くんだよ!」
 視界一面に広がる背中に問うたが返答はない。ごつごつした背に手をついて離れようとするものの、両腿をがっちり捕縛されて動けない。動ける範囲で胴に蹴りを入れたが、巌のごとき強固な体に跳ね返される。シドの背か地面の二つしか見れぬ習一はせめてもの抵抗として上体を反らす。新たに見える周囲の景色は離れ、小さく、低くなっていく。
(飛んでる……?)
 公園全体が俯瞰できるまでに高度が上がった。そこが最頂点であり、徐々に降下する。落下には二人の体重が合わさって加速が始まる。民家の屋根が拡大し、習一は慌てだした。
「わ、バカ! お前みたいな野郎が屋根に落ちたら……!」
 重くて家を破壊してしまう、と危惧したがもう遅い。彼の足は屋根瓦を踏んだ。組み合わさった瓦がこすれる音は鳴らなかった。巨体を支える屋根は無事でいる。
(あ、そっか……)
 エリーの説明によると彼らは姿を消すことができる。人間である習一も彼らに接触する間は同様に消える。いわば幽霊になったも同じだ。その状態での物理的な質量はないのだろう。そう理解した習一は虚脱した状態で夜の空中遊泳を体験した。

2
 シドは桁外れの跳躍力で移動した。オフィス街のビルの屋上で足を止める。終業の時刻は過ぎていて、階下の明かりがビルの中腹以下に集中する。そういう建物をシドが選んだのだ。習一が騒いでも他人に勘付かれにくい場所を。
 習一はコンクリートの上に立たされた。習一の体にはシドもエリーも触れていない。常人に感知される体にもどっているようだ。
「オレをこんなところに連れてきて、なにがしたい?」
「質問を受け付ける。それと私への罵声も」
「罵ってくれだなんて、どんな変態だよ」
「軽口を叩けるくらいに落ち着いたか。部屋で話してもよかったな」
 言われてみれば習一の興奮がおさまっている。場所移動の時間がクールダウンになったらしい。冷静に考えると、あそこまで感情が動く原因は不明瞭だ。眼前の男は習一を病院送りにした犯人なのだから、怒り自体は正当だ。習一が疑問に思うのは己の涙だ。
「オレ……オレは、なんで泣いたんだと思う?」
「それが私への質問か」
 シドが求める問いは彼が習一を襲った理由や彼らの素性だ。カウンセリングの相談ではないことを習一はわかっている。だが現在、一番不可解な問題は自分の感情だった。
「バケモンに人間の気持ちなんか、わかるわけねえよな」
「難しいが推察はできる。涙は感情が高まった時に出る……良い意味でも悪い意味でも」
 律儀にもシドは習一の疑問に応え、回答を模索する。外見と口調がいささか粗暴に変わっても本質的な性格はそのままらしい。
「傷を負わされた怒り、謀略に気付けなかった悔しさ、愛する者を目の前で失う悲しみ、死を間際にした恐れ……私が見た涙は強い負の感情のかたまりが多かった」
「オレのはどう見えた?」
「最初は死の恐怖……最後は、信用していた者に裏切られた絶望……」
 惨劇の再演のせいで流れた涙は習一もそう感じた。だが二回目の涙が裏切りによるという表現は抵抗がある。それほどの信頼を、猜疑心の強い自分が抱けたのだろうか。
「裏切りに遭った人の顔、あんたは見たことあるのか?」
「最近、あった」
「だれの?」
「オヤマダ……貴方がそう呼ぶ女性だ」
 習一が完全に失念していた、才穎高校の女子生徒。彼女は彼の特殊能力の一端を知る態度を見せていた。その時に口の堅いシドのことを尋ねようかと思ったのだが、ゲームだ飯だ猫だといろいろあって機会を逃していた。
「あいつを、あんたが騙した?」
「そうだ。彼女を主のもとへ連れていく……そのつもりで才穎高校に勤めた」
「待てよ、おかしいだろ? あんたは普通の人に見えない姿になれるんだ。そんな回りくどいことをしなくたって、いつでもかっさらえただろうが」
「では逆に聞く。なぜ貴方は姿を消した我々が見える?」
 この返しは習一の想定外だ。常人代表の光葉がエリーに邪魔をされた時、習一はしっかり目と耳で彼女の存在をとらえた。少女は普通の人間だとばかり、習一には映っていた。
「……小山田はオレみたいに、あんたたちが見えるやつなんだな?」
「いや、彼女は見えていない。だが彼女の友人と、友人が親しくする警官は見えている」
「その警官は……露木か?」
「そう……彼の存在がもっとも厄介だった」
「あののほほんとした野郎が? 体つきだって大したことなさそうなのに」
 どんな役職であれ、警官は一定の武術の心得がある。だが素人に毛が生えた程度の強さしか感じられぬ青年だ。屈強な光葉に圧勝したシドを凌ぐとは到底考えられない。
「率直に言うと彼単体は弱い。強いのは彼が従える仲間だ。白いカラスを見ただろう?」
「ああ、露木のペットか」
「あれはこちらで言うところの、妖怪や式神に相当する。彼の最強の仲間は私では歯が立たなかった」
「露木が呼び出すペットが怖いんだな。それはわかった。で、オレが見たとこ、あんたは露木と仲良くやってる。あんたが騙した小山田もだ。あんたの企みはどうなったんだ?」
「失敗した……というよりは、成功させる意志がなくなった。計画を遂行すると十中八九、彼女はこちらに帰れなくなる。二度と目覚めない姿を……彼女の親にさらせなかった」
 この言い分には習一の不服がせりあがる。
「昏睡するオレをオレの親も見てるんだが、それはかまやしねえってか?」
「その眠りは一時的なもの。魂が健康な肉体に宿るかぎり、いずれは目が覚める。同胞は魂までも喰い尽くすわけではないから──」
「精神的にはかなりキツイぞ、あれ。痛みを感じたし、人を一回殺してるのと同じだからな。そこんとこわかってんのか?」
「わかってはいる。だからこそ私が貴方の保護をする。これが私のあがない方だ」
 決然とした声明だ。習一は疑問を一点はさむ。
「オレ以外にも被害者を出してたんだろ? そいつらはどうするんだ」
「彼らとは接触できない。関われば消えた記憶がもどると警告を受けた」
「オレはあんたと一緒にいてもなっかなか思い出せなかったぞ」
「今の貴方は忘却の効果が色濃く残っているが効き目はいずれ風化する。ほかの子たちはすでに治療を受けて数ヶ月経った。貴方と同じ忘却力のままではいられない」
 得体の知れぬ魔法に関しては議論のしようがない。習一は一応、説明を鵜呑みにする。
「じゃ、オレは事件のことを思い出したいと言ったから、堂々と会ってるわけだ?」
「そうだ。彼らの分まで、貴方には尽くすつもりだ」
 連日の厚遇は以後も継続していくと見えて、習一は胸をなで下ろした。
(信じさせておいて後ろからザックリ、てのはしなさそうだな)
 よくよく考えればその危険があるのなら露木が野放しにしないはずだ。まがりなりにも彼は警官なのだから。警戒を解いた習一は次なる質問をする。
「オレをあんな目に遭わせた動機は? あんたの計画にオレが割りこむ隙はないだろ」
「いや、割りこんできた」
「え?」
 習一の視界にいなかったエリーが現れ、習一の手を取った。手のひらに冷たい金属片をのせる。薄雲に遮られた月明かりを頼りに手の角度を変えると、それはナイフに見えた。だが持ち手と刃は分断している。
「このゴミがどうした?」
「貴方が私と私の生徒に向けた凶器だ」
「オレの……?」
 習一は折れた刃を片手に移し、ナイフの柄を握った。手に馴染む感触はそれなりにある。
「あんたたちにこれを向けたって、どういう……」
 視線を話者にもどすと、見慣れた教師の姿があった。習一の体がこわばる。帽子の男と同じ人物だという認識が瞬時にできなかった。
 彼の目元にサングラスはなく、なぜか切れ込みのあるネクタイを胸に垂らしている。
「そのネクタイはなんだ?」
 大剣部分の生地が半分切れたネクタイだ。使い物にならないナイフに引き続き、シドの所有物も損傷のある形で現れた。これらが示唆する事実は──
「オレがあんたを切りつけた?」
「そうです。私の被害はこの程度でしたが、貴方の攻撃を受けた結果、二人の生徒がケガをしました。その時の記憶はもどりませんか」
 変身とともに丁重な言葉遣いが復活する。習一は異形の演じ分けを奇妙に感じながらも「知らねえな」と答える。ただし、そのような喧嘩があったことは人づてに聞いていた。
「オレを痛めつけすぎたのを苦にして……とかなんとか掛尾先生に言ったんだったか」
「そうです。これらを見ても効果がないようですね」
「ああ、もうちょっとインパクトがないとな」
「では再現しましょう」
 習一が了承しない間に荒々しい手が喉に食らいつく。気管支を圧迫し、首や顎の骨に多大な負荷をかけて習一の体を持ち上げた。地に足がつかぬ浮遊感、強調される脈動、浅くなる呼吸。着実に窒息の順序を経る中、習一は懸命に捕捉者の手を引きはがそうとあらがった。捨てたナイフの残骸がからん、と乾いた音を立てる。
(いくら、思い出させるためだからって……!)
 まかり間違えば死に至る。習一は暴挙に対抗して足を前後に動かした。空を蹴る足先がシドの体に当たったが、全くの無反応だった。
『先生、やりすぎだ!』
 習一と完全に意見が一致する台詞が脳裏を走る。それは習一と同年代の少年の声だ。少年はあの時、こめかみから血を流していた。その傷は──習一が負わせたものだ。少年が放つ蹴りで倒されたことに習一が逆上し、仲間内にもらった武器を振るった。頭を狙った覚えはないが、相手が体勢を崩したせいで結果的に頭部の負傷をつくった。少年が転んだ時に彼の下敷きになった者がいる。小山田だ。彼女は鈍い音を鳴らして倒れた。習一が生みだした負傷者のうち、一人は習一の意図しない巻き添えを食ったのだ。
 足は宙を掻く力が萎え、手は肩より上へあげていられなくなる。あがく気力が根こそぎ奪われた時、足裏が硬いコンクリートに触れた。習一はその場にへたれこみ、潰れかかった首を手でさする。喉にからんだ痰が新鮮な空気の吸入をさまたげた。
「思い出しましたか」
 シドは平素と変わらぬ調子で尋ねる。その態度に習一はむかっ腹が立った。
「あんたなぁ! 昔話をする程度のことで、人を殺す気か!」
「死にはしません。加減をわきまえています」
「死ななかったら何をしてもいいってわけじゃねえんだぞ!」
「その忠告、胸に留めておきましょう」
 詫び言を聞けなかったせいで、習一の苛立ちは加速する。
「オレが不良だから手荒くしても平気だと思ってんだろ」
「いいえ。記憶を取りもどしたいという貴方の希望に沿いました」
「これが小山田だったら、同じことをしたか?」
「彼女の望みにかなうのなら喜んでやります」
 ブレない返答は習一に諦観を生じさせた。第一、相手はこの世の者ではないという異形だ。人間の常識や痛覚を理解するのにも限度があるのだろう。
「あー、わかったよ。あんたは悪気がないんだな。余計タチわりぃが気にしてられ……」
 ふいに鼻がむずがゆくなり、習一はくしゃみをした。
「冷えてきましたか。続きは部屋に帰ってからにしましょう」
「……そうだな。部屋ん中ならあんたも暴れねえだろうし」
「必要ならまたやりますが。『思い出せた』という言葉を私は聞けていません」
「あんたに負けた前後の記憶はもどったよ! とっとと行くぞ」
 再犯をほのめかした男は習一に背を向けてしゃがむ。
「私におぶさってください」
「え……おんぶ?」
「嫌ですか。ではここへ来た時と同じ、肩に担ぐ方法がよいのでしょうか」
「いや……あの体勢は腹が苦しくなる」
 なにより頭が地面をむく姿勢は不安定で怖い。だが、赤の他人の男性に背負われることへの戸惑いもあった。シドは向きなおる。
「おすすめはしませんが、横抱きで行きましょうか?」
「げ……男同士でやるもんじゃねえだろ。緊急時は、しゃーないにしても」
「私もそう思います。……そうですね、では私が女に化けます」
「あんたが女に……? ああ、光葉が言ってた長身の女って」
「私のもう一つの形態です。あの姿は、武術の師匠に稽古をつけてもらう時によく変化していました」
「なんで大男の格好じゃダメなんだ?」
「彼は男が苦手で女好きな方でした。それで私は彼の……従者兼娘にあたる女性の姿を模倣して、指導を受けたのです──この詳細を話すのも帰宅してからにしましょう」
 習一は無難におぶさる運送方法を選び、意を決して黒シャツに覆いかぶさった。自身のひざ裏を持つ手と、広い背中に体を預ける。
(父親にもされた覚えがねえのに……)
 全身を他者に託す感覚が不慣れで、妙にうわついた気分になった。
 シドは助走をつけ、屋上の塀を跳びこえる。彼は風と一体化したかのように疾走した。

3
 二人はアパートのベランダに到着した。室内の座卓に洗濯物の山ができている。その奥にイチカが扇風機の風で涼む。ベランダのガラス戸を開けるとイチカは「おかえりー」と笑顔で出迎えた。知人がベランダから出現したことを日常茶飯事のごとく受け流している。
「おさきにお風呂入ったんすけど、オダのアニキはどうする?」
 湯船に浸かる気分ではないがシドが「お先にどうぞ」と言うので、なんとはなしに入浴の流れになった。嫌な汗はべったりかいている。さっさと洗い流すことにした。
 風呂を出た習一と入れ替わりでシドが脱衣場に入る。彼は自身よりも風呂場を綺麗にする目的で入浴するのだと昨晩知った。清掃にはそれなりに時間がかかる。話を再開する時機がずれてしまい、習一はじれったく感じた。
 帰宅時は未整理だった洗濯物が片付けられ、卓上にはイチカが用意した冷茶が置かれる。
「オダのアニキは、なくした思い出を元にもどしたいんすよね?」
 習一はうなずいた。イチカが得意気に破顔する。
「アニキの日記を読んだら思い出せるかも!」
 彼女はロフトベッド下の机に行き、棚にしまったノートを取った。
「勝手に読んでいいのか?」
「じゃ、了解をとってくるっす!」
 イチカは座卓にノートを置いてから風呂場に向かう。行動の順番が逆だと習一は思いながら茶を飲んだ。ものの十秒ほどで「読んでいいっすよー!」という声が飛ぶ。思えば以前、日記を読んでもいいと本人の了解を得ていた。だがその時はあまり習一の役に立つ記録はないだろうとも言われた。
(このまんま待ってるのもなんだしな……)
 適当にページをめくる。開いたページには三月、シドが才穎高校へ赴任するくだりが載っていた。このあたりは習一と出会う前のことだ。とばして他の日付を見る。イチカが習一のとなりに座り、一緒に見始める。
「オダのアニキの話は四月の下旬くらいから出てきたはずっす!」
「お前、いつも日記を読んでるのか?」
「アニキんちに遊びに来た時は読ませてもらってるんすよ。今日は買い物中にアニキが一人でどっか行っちゃってヒマだったんで……」
「だから無断でオレに読ませようと?」
「最初はあるじさんの報告用にまとめてたもんすから、アニキの事情を知っていい人は読めるんす」
「ご主人様に、ねえ。あいつはなにが目当てでここに来たか、聞いたか?」
「人を捜してるっす。何人か連れてったけど違ってて、ヤマダさんがドンピシャなんす」
「ふーん……?」
 習一は説明不足な箇所を複数思いついた。捜す対象はどんな人物か。連れ去った人とは露木の言う習一と同じ被害者か。どうやって目当ての人物だと見極めるのか。小山田はどういった理由で当たりの人物なのか。
 しかし今は自分の情報を得ようとして日記を漁る。文中にはアルファベット一字で表記される仮名が登場し、なかでもHという名が頻出した。イチカが閲覧をすすめた四月下旬の記録を探すも、習一とは無関係な内容に目がとまる。
『校長の講義中、Hが事務員に変装してきた。目的は私と校長の密会の理由を探るためだという。行動力と胆力のある娘だ。校長が言うには、彼女は私に気があるという。校長の注目を集めると今後の行動に支障が出そうだ』
 Hなる人物がシドと直接関わった形跡だ。彼と関連の強い女子生徒──習一は小山田かと思い、イチカに尋ねた。イチカは悔しそうに「そうなんすよ!」と答える。
「もーアニキったらヤマさんに甘々なんすよ! アニキはおいらと何年いたってレディに見てくれないのに、ヤマさんには女性あつかいするんすから!」
「だってお前ガキだろ。自立してたらあいつにベタベタしねえよ」
 イチカは熱烈に反論するが習一の興味の対象外だ。Hが小山田だという変換が正しいとわかれば他の情報はいらない。習一は日記を読み進めた。
 四月の終わり際、シドは町中の見回りを行なっていたことが書かれる。そして雒英(らくえい)高校の制服を着た金髪の男子生徒について言及があった。習一のことだ。この時期は習一の身辺調査をしていたと書きつづられる。その目的は教え子たちと二度目の衝突を起こす前に、不良のリーダー格を無力化するというもの。
(二回目……? あいつに負ける前に、才穎の連中とやり合ったことがある?)
 無関係だと切り捨てた四月以前の過去にさかのぼってみる。シドは四月から赴任したというので、彼が人づてに聞いた騒動だろうか。日記に事跡が書かれていない可能性はあるものの、とりあえず確認する。ぱらぱらと数ページめくった先の二月、そこに少年たちの喧嘩が記載される。
『新たな土地へ訪れる。強く惹かれる力を感じた。同胞に似た感覚だ。力に接近すると少年らの乱闘を目撃した。そこにいた編み帽子を被った一番小柄な子が力を発していた。後日、試験をしよう。もう一つ気になったことがある。あの中で体術に優れる子の一人が私を見ていた。あの視線は偶然ではなさそうだ。帽子の子とは友人のようだった。接近には注意が必要』
 喧嘩に関わる少年の身分は不明だが、この時に目当ての人物を見つけたとわかる。姿を消したシドが見える少年とは誰か。習一は自分かと思ったが、編み帽子を着用する知り合いはいない。これはビルの屋上でシドが言った、小山田の友人のことだろう。
(じゃあ帽子の子ってのは小山田か?)
 その予想を胸に秘め、脱衣場より鳴る機械音を耳にした。じきに日記の作成者は現れる。習一に衛生を説いた模範として、髪をきちんと乾かした状態で。
(しっかし、体がないっていうバケモンが体を洗う意味はあんのか?)
 姿を消した時に体に付着した汚れが落ちそうなものだ。だが衣類が体と同化して消える仕組みを考えると、汚れもずっと付いたままなのかもしれない。
(いや、問題はそこじゃない。あいつがオレを襲った理由……それを知らなきゃな)
 枝葉末節にこだわっていては夜が明けても疑問が解消されない。習一は現在一番に知るべき真相を突きとめようと、退院の一か月前にあたる六月の記録を漁った。
 才穎の体育祭の記録を読み飛ばしたところで部屋主がやってきた。相変わらずの黒シャツと灰色のスラックス姿だ。彼は寝間着を持たないようだ。
(バケモンだから寝なくても平気なのかな)
 またも思考が逸れた、と習一は己に注意する。だがイチカが騒ぐせいで集中が途切れた。
「アニキー! チューするっす!」
「オダギリさんと大事な話をしますから、そういうことは明日以降に」
「イヤっす! いま、愛が欲しいんす!」
 イチカがシドに抱きつく。彼の胸に押しつけた顔は嬉しそうだ。シドの腕はイチカの背を包み、うなじと二の腕に手を置く。手から黒いもやが発生した。
「あー……アニキ、おいらを眠らせるんすね?」
 黒い気体はイチカの上半身から出て、シドの体へ吸収されていく。
「今日のところはこれで休んでください」
 シドの背中をつかんでいたイチカの手が落ちる。あんなにはしゃいでいた彼女がすぐに眠りに落ちた。ぐったりした少女をシドが横抱きにし、ロフトベッドに横たわらせた。
「お見苦しいところ見せましたね。この子はいつまで経ってもお兄ちゃん子なんですよ」
「あんたはそいつの兄貴じゃないだろ?」
「イチカさんには本当の兄がいました。残念なことに、私がこの世界へ来る前に亡くなったそうです。その兄の代わりが、私です」
 シドはベッド横の階段をおり、机のライトを点けた。
「私が早くこちらに着いていれば助けられたかもしれません」
「そんなの考えるとキリないぞ。イチカはあんたに会えて喜んでる。それでいいじゃねえか」
 シドが悲しそうに笑った。次に部屋の照明のスイッチがある壁へ向かう。
「部屋の明かりは消しましょう」
「ああ……イチカが起きないようにだな。わかった、オレも話の腰を折られたくねえ」
 習一はシドがイチカを眠らせた力について触れなかった。それは必要な知識ではない。そう己に言い聞かせていると天井の明かりが消えた。机のライトは習一とその周辺に光を届ける。ただし光源から距離をへだてるごとに明るさは弱くなった。
「日記を読みたかったら私の机でどうぞ」
「あんたに直接聞く。そのほうが早い」
 習一は日記を座卓に放り、壁際で立て膝に座る人型の異形を見た。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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