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2018年12月08日

習一篇草稿−1章

1
 わずかにオレンジ色の入った白い壁。それが天井だとわかるのに幾らか時間がかかった。無心になじみのない景色を眺めるうちに、男の声が聞こえた。
「目が覚めてくれたね。これで一安心できる」
 声には他者を気遣うやわらかさがあった。視界にない声の主をさがすと長い鉄の棒が見えた。天井に向かった先には透明なパックが吊るしてある。液体の入ったパックには管が通り、その管は自身の腕に繋がる。点滴だ。そう認識するとこの場は病院なのだと察した。
「習一くん、気分はどうかな?」
 耳触りのよい声はなおも語りかけてくる。点滴側に人の姿は見えず、反対方向へ顔をむきなおす。そこに二十代の男が椅子に座っていた。彼は半袖のワイシャツを着ている。さして特徴のある風貌ではないが、人当たりの良さそうな印象を受けた。
「調子の悪いところがあったら言ってくれ」
 習一は男の質問には答えず、上体を起こした。両腕にこめた力が異様に弱く、想像以上に体力を消耗する。大病をわずらったか事故に遭ったかして、体が弱ったのだろうか。
「あんた、誰だ?」
 習一がぶっきらぼうに尋ねた。男は膝にのせた鞄から手帳を出す。手帳の表紙をめくると、そこに男の顔写真と名前が載っていた。普通の免許証ではない。警察手帳だ。
「おれはこういう者だ。姓は露木、名は訳あってシズカというあだ名で呼ばれている」
「警察がオレになんの用だ?」
「きみはとある事件に巻きこまれた被害者だ。その事件の担当者がおれ。この病院へは……きみの見舞いに来たってところだ」
 露木の言い分はもっともらしい。だが習一はなにかの事件に遭遇した心当たりがない。警官を名乗る男を怪しまずにいられず、それが顔に出たのか露木は「無理もない」とつぶやく。
「きみが被害にあった時の記憶は消させてもらった。身に覚えのないことを言われて、釈然としないのはわかるよ」
「記憶を消す? そんなの、どうやるんだよ」
「それは企業秘密だ。教えてもいいんだけど、今のきみには信じられないだろうね」
 習一はむっとした。理解力に劣る凡愚と言われた気がしたせいだ。だが文脈からして頭の出来不出来は関係のない次元の話だと思えた。
「自分の消えた記憶、気になるかい?」
 露木は微笑を浮かべながら問う。習一は当然だとばかりにうなずく。どんな内容であれ、他人が強制的に記憶を消去したというのは気味が悪い。その行為が習一のためでなく、この警官や他の人間の利益目的であればなおさらだ。
「なあ、オレの記憶を消したってのが本当だとして、そうした理由はなんだ?」
「それが最良の手段だと思った」
「最良? なにが?」
「きみの他にも同じ、高校生の被害者がいたんだ。彼らが襲われた時の記憶を持ったまま目覚めると……可哀そうなほど脅えていたよ。今後の生活に支障が出るくらいにね。だから被害者全員の記憶を部分的に消したんだ。そういう芸当のできる友人がいるんでね」
 露木は親指を立てた握りこぶしを上げ、後方を指す。そこに白衣のようなコートを羽織る男が立っていた。男は身じろぎもせず彫像のごとくたたずむ。その男は片方の手が無いように見えた。
「そいつは……医者か?」
「どちらかと言うと本業は薬剤師かな。さらに正しく言うと魔法使いなんだけど」
「まほう、だと?」
 習一が怪訝な視線をつきつけると、露木は腕を下ろす。
「おれのお節介だったね。どうだろう、記憶を取りもどす気はあるかい?」
 露木は柔和な表情で奇抜な提案をする。習一が他の被害者と同じ目に遭ったのであれば、その記憶は恐怖体験に違いない。わざわざ恐ろしい記憶を復活させる利点がないように習一は思えた。しかし、この警官はそう考えていない。
 習一は他人の思い通りに動くことを良しとしない性分だ。失った記憶への興味と、他者の期待に外れることで得る自尊心のどちらを優先すべきか迷う。一度、可否の決定を保留しておくことにした。
「……どうやってもどすんだ?」
「ある人と一緒にいたらそのうち思い出すよ。これから夏休みだ。時間は取れるだろ?」
 習一の記憶では、現在の日時が夏休みのはじまる七月だという認識はない。違和感を抱いたものの、本題にずれる問いはひかえた。
「ある人って、オレの知ってるやつか?」
「きみは覚えていないと思う。なにせ、消えた記憶に深く関わる人だからね」
 言い換えると高校生が襲われる事件に関わった人間だ。それがこの警官の味方か、犯人か。習一は種類を二分した上で、そもそも事件は終結したのか気がかりになる。
「ところで、事件は解決してるのか?」
「ああ、バッチリと。おれの友達が頑張ってくれたおかげで、大事には至らなかった」
「『ともだち』? 警察仲間のことをそう呼ぶのか?」
「警官、とはちがうんだな。その話はヒマができたらしようか。とにかく、犯人は二度ときみを襲わないから安心してくれ」
 犯人は捕まったのだ。ならば自分に同行する者は彼の仲間か、と習一は言外の情報を推測した。露木がずいと身を乗り出す。
「それで、習一くんはどうしたい? 記憶をもどす方針でいいのかな」
「一緒にいるやつ次第だな。オレ、人の好き嫌いが激しいんだ」
「わかった。彼にきみの見舞いに来るよう頼んでおくよ。実際に会ったあとで決めたらいい」
 露木は席を立ち、無言を通す男に「帰ろうか」と声をかける。習一は警官の説明の足らなさに焦る。
「帰るまえに、そいつの名前とか格好を言ってくれねえか?」
「親子の会話がてら、お母さんから伝えてもらおうかと思ったんだが、まあいいや」
 露木はくるりと振りかえり、肩掛け鞄のベルトに頭を通した。
「……彼はシドと呼ばれている、才穎高校の教師だ。色黒で背が高い銀髪の男性で、あとは黒シャツと黄色いサングラスが目印になるかな」
 才穎高校は習一の所属する学校ではない。才穎は一応の進学校ではあるが、程度や格式の高くない高校だ。噂では入学試験において内面重視の建前のもと、変わり者ばかり集めるらしい。進学校の常軌を逸した学校の教師という者もまた、特徴を聞くかぎり普通の教師ではなさそうだ。任侠やならず者と言われたらしっくりくる風貌である。そんな男が教師を勤めているのも、変人の多い才穎高校ならではだろう。
 露木は習一の質問に答え、そそくさと退室する。仲間の男も連れにならった。その際、片方の袖がはためく。彼は本当に片腕がないのだと習一は確信した。
 奇妙な二人組がいなくなる。習一はベッドに倒れた。病院に来る前のことを思い出そうとするも、どれがいつの出来事だかはっきりしない。過去にひたるにつれ、みぞおちの奥に重石が積まれるように息苦しくなる。警官と話す間は忘れていた、自身の解決しようがない身のまわりの現実がある。その一端が病室へ入ってきた。
 入室者は中年の身綺麗な女だ。習一とよく似た顔をしている。それが習一の母親だった。
「よかった、起きたのね」
 表向きは良い母親らしくいたわるが、その目は息子に対する恐れがあった。

2
 習一は病室へくる母や看護師に、自分が入院にいたる経緯をたずねた。成果はたった一つ、道端で気絶しているのを発見されたという情報のみ。なぜ倒れていたか、何者のせいで昏倒したのか誰も知らないのだ。判明したことは約一ヶ月の間、習一が眠り続けたことだけだった。
 習一は明くる日、警官が寄こす男の来訪を待った。待つ間は臥床を続ける。体を動かすには点滴が邪魔だ。病室から待合室の書棚まで本を取りにいく程度の運動が関の山だった。おまけに体力の衰えが著しいせいで思ったように動けない。覚醒したあとの生活スタイルは昏睡状態とあまり変わりばえしなかった。
 筋力と贅肉も見るからに落ちた。この一ヶ月、栄養の補給源は点滴のみだったという。医者は他の栄養補給手段として、咽喉から管を胃に通して食事を注ぐ医療措置を提案したそうだが母親は断った。理由は「見ていてつらくなるから」だそうだが、習一はそれが母の本心だとは考えなかった。
(そのまま消えてくれればいいと、思ったんだろ?)
 習一は一家の鼻つまみ者である。地域で一番の進学校に入学したものの、それからは早退遅刻不登校喧嘩など不良少年への道を落ちるように進んでいる。その行ないが元々習一に冷たくあたる父の不興を買い、その怒りが母へと向かうことがあった。習一は父が母に八つ当たりすることは気に食わないが、父が激昂する分にはいい気味だと思っている。
 両者の板挟みにあう母はたまったものではない。それゆえ習一は、家族が自身の死を望むのだと信じて疑わない。母が習一のそばについて着替えを用意したり、習一の暇つぶしに本を買い与えたりする姿を見ても、体面を重視して良い母親をふるまうのだと考えた。
(ずっと起きないでいられたら、オレも楽だったのに)
 いっそ襲撃者が生命を絶ってくれれば皆が幸福になった。母はまごうことなき悲劇の親を演じられ、豚児の死を起点に安穏とした日々を過ごせただろう。非行を死ぬまで続けるつもりの習一は、逃してしまった未来を夢想した。
 正午になり、習一は本日二度目のペースト状の粥をすすった。食べた感覚のしない食事は物足りないが、弱った体には適切だと看護師は説いた。いきなり固形物を胃に入れると体が拒否してしまうらしい。
 母はお膳を下げたあと、家のことをしなくてはいけないと告げて退室した。習一は一人きりが気楽だ。さっそく病院の待合室にあった文庫本を読んだ。母の選んだ本は袋に包まれたまま。母のセンスでは空虚な売れ筋のものを選ぶだろう、と最初から期待していない。
 読書の間も関心は未知なる来訪者にむかう。警官とは昨日会った。その翌日に彼の仲間が現れるとは限らないが、来るなら母親のいない時がよいと思った。警官の去り際の言葉によれば、母は教師の来訪者を知らされている。その教師次第では今後の動向に母が口をはさむ余地があり、それが習一にはわずらわしい。
 一時間ほど経つと眠気がせまり、習一はページの間に指をはさむ。目を閉じるとノックが鳴った。「失礼します」という低い男の声が聞こえる。病院の従業員か、警官の使いか。習一が体を起こすとすでに男は入室し、几帳面に戸を閉める最中だった。
 習一は注意深く入室者を観察した。男の背は一八〇センチを越えている。頭髪は光沢のある灰色の短髪。黒灰色の長袖のシャツを腕まくりし、ひじから下の素肌をさらす。その腕は日焼けしていて、スポーツ選手のように筋肉が盛り上がる。
(この男が警官の言ってた教師か)
 男の目もとは黄色のレンズの眼鏡で覆われている。年頃は三十歳前後。青年と呼ぶにはどうも落ちつきすぎている雰囲気があった。
「先日、ツユキという警官がこちらへうかがったと思いますが」
 低いが明瞭な声だ。この男も警官同様、顔つきは穏やかである。だが習一は警戒体勢をとった。こいつとやり合えば負ける。戦う前から敗北感を味わうほどによく鍛えた体躯だ。
「ツユキさんから貴方に会って話をするよう言いつけられました。私は才穎高校の教師です。シドと呼んでください。……こちらの椅子、お借りします」
 教師はベッド付近の椅子に座る。サングラスに点滴を映して「今も体調が優れないのですか?」と聞いてきた。習一もちらっと液体の入った容器を見る。
「この点滴のことか? 病気を治す薬じゃねえ、ただの栄養剤だ」
「食事では十分な栄養が摂れませんか」
「空っぽだった胃にいきなり食べ物を入れると体に良くないんだとよ。粥を食べてなんともなかったら、外される」
「なるほど、段取りがあるのですね」
 教師は素直に感心した。存外悠長な男である。このやり取りによって、習一が第一印象で得た威圧感は失せていた。緊張をほぐした習一は自分から話を切りだす。
「あの警官はなにを話せと言ってきた?」
「ツユキさんが貴方に伝えた通り、私とともに行動してもらう件です」
「具体的にやることだな?」
「そうです。私は貴方が期末試験を受けていないことが気がかりですので、その補填となる追試か補習を受けてもらおうと思っています」
 習一は困惑した。この男は習一の通う高校とは異なる学校の教師。他校の教師が他校の生徒の成績に口出しすることはありえない。それがどう記憶を取りもどすことに関係があるのかも謎だ。
「待ってくれ、あんたはオレの復学を手伝いにきたんじゃないだろ?」
「貴方が復帰を遂げるまで付き添います。その間に望んだ結果が訪れるかもしれません」
「よその教師がうちの学校にずかずか入りこむ気か?」
「はい。雒英(らくえい)高校の先生方に交渉します」
 教師は迷いなく答えた。その提案内容は本来、習一の担任が促すべきことだ。他校の教師が買ってでる道理はない。
「あの学校の教師は変なプライドを持ってるやつがごろごろいるんだ。才穎高校なんて色物ぞろいの学校の教師、まともに相手にするかよ」
「ではこうしましょう。雒英高校の方々が私の申し出を拒めば、貴方は再試験を受けなくてよろしい。了承されたら、貴方は私の指示に従って復学の準備をする。いかがです?」
 習一は度重なる不品行により、学校の教師から見放された問題児だ。そんな生徒のために学校側が前例のない働きかけに応えるだろうか。少なからず心ある教師は在席するので、運よくその教師が対応すれば受理されるだろう。だが、成功したとしても他の教師陣に白い目で見られるのは明白だ。習一は鼻で笑った。
「賭ける気か。いいぜ、やってみればいい。どの道、あんたは恥をかくぞ」
「わかりました。これから掛けあってみます」
 教師は習一の警告を日常会話のように流した。習一は肩すかしを食らう。習一が知る大勢の大人は虚栄心あふれ、外聞を一番に優先する連中だ。この銀髪の男は内面すらも習一の常識から外れる。
「私から伝えることは以上です。他に聞きたいことはあるでしょうか」
 習一は予想外の反応に呆気にとられ、返答できずにいた。
「ないようでしたらこれで退室します」
 昨日の警官といい妙にせっかちな男たちだ。習一はとっさに思いついた質問をする。
「あんたはオレのことを知ってるのか? オレは全然覚えちゃいねえが」
「私は何度か貴方と会っています。ですがきちんとお会いしたのは今日を含めて二回です」
「それはいつだ?」
「詳細は後日、貴方の記憶が復活した時に話しましょう」
「つまり、言いたくねえんだな」
「察しがよくて結構。当面は知らなくてよいことです。貴方は快適に生活できる環境づくりに努めてください。話はそれからでも遅くありません」
 この教師は習一を取り巻く状況を理解していない。そう感じた習一はそっぽを向いて「とっとと帰れ」と突きはなす。銀髪の男は「私も最善を尽くします」と言い、退室した。習一は臥床し、掛け布団を頭から足先まですっぽり被った。

3
 銀髪の教師が来て丸一日が経った。医者は習一を健康体だと診断し、とうとう普通の食事が取れるようになる。病院食は味付けも量も控えめだが定時に食えるので習一は不満を感じなかった。普通の人らしい生活を久々に送れている。ごく当たり前のことをありがたがるほど、すさんだ日々を過ごしているのだ。その暮らしは習一ができる父への反抗だった。
 地方の裁判所で小山の大将を気取る中年。それが習一の父だ。その役職上、身内に素行の悪い者がいると非常にばつが悪いらしく、習一を完膚なきまでに厄介者扱いする。だが父との衝突は習一が落ちぶれる以前からあった。
 習一には懸命に優等生をふるまう時期があり、その期間は不良時代よりも断然長い。優良児の頃から父は息子を疎ましく感じていた。父が己の若い頃と息子を比較して、その才覚の差に不満を抱えたのだ。父の嫉妬心は母との口論の際にじかに聞いてしまい、以後習一が学業に励むことは無くなった。
 そもそも習一が評判の良い学校へ入学した動機はひとえに父に認めてもらうためだった。同級生や世間の話題を参考にすると、子の成績がよければよいほど親は喜ぶ。そう信じて努力する健気さを習一は備えていた。だが習一が秀才になればなるほど、火に油を注ぐ結果になった。そして努力ではどうにもならない、父が息子を憎む最大の理由がもう一つある。それを知った途端、習一は両親を嫌悪し、また父の歓心を得ようと苦心してきた己を蔑んだ。
 習一の転換期は一度目の高校二年生の時だった。父への思慕が害意に変わり、自身の人物像は品行方正な秀才から愚昧な不良少年へと変貌する。根っからの不良とも交流するようになり、悪友とともに悪さをするたびに父の激怒を買った。その怒りは習一を正す叱責ではなかった。父自身の体面を保つための防衛策だ。利己心が子の心に響くはずはなく、誰も習一の暴挙を止められなかった。唯一止めたと言えるのは習一を病院送りにした張本人である。
 一昨日の警官が言うには、その悪党は習一以外にも被害者を出した。つまり警察がすぐに対処できなかった手強い犯人だ。悪党がどういった経緯で自分を狙ったのか、習一は興味があった。それを知るために銀髪の教師と共だって学校へ行くのは面倒だ。しかし、拒否することで生まれる余暇でなにをすればいいだろうか。
(なんにも……ないな)
 やりたいことはない。無為に時を過ごすだけだ。学校側が他校の教師の要求を飲んだとしたら、暇つぶしがてら付き合ってもいいかと思うようになった。
 習一は常食の許可が下りると点滴が外された。枷が外れたのを契機に、体力づくりとして院内の散歩を敢行した。平時は苦に思わない階段の上り下りで息が切れ、ふくらはぎや太ももが疲労する。次回からは運動の回数を分けようと思った。無理のない負荷を課すのと、貧弱な体を痛感する時間を短くするためだ。
 階下から自分の病室へもどる。引き戸を開けると室内に人影があった。肩にかかる長さの銀髪が真っ先に目につく。銀髪の人物は夏だというのに上半身を覆うケープを羽織っていた。その衣類は女物だ。
「あ、シューイチいた」
 銀髪の女は振りむいた。年齢は習一と同年代。瞳は緑色。銀髪の教師と同じく肌が浅黒い。女にしては背が高めだ。それらの身体的特徴は両者が兄妹のように思えた。
「お前、才穎高校の教師の知り合いか?」
「うん。シドの伝言を伝えにきた」
 少女は手中にある折りたたんだメモを広げる。紙がかさかさとすれる音と一緒に、習一が手を放した戸の閉まる音も鳴った。
「期末試験をうけられなかったかわりに、三日間の補習を来週やるんだって」
 あの教師は再試験の交渉をやり遂げた。それ自体は予想の範囲内だが、昨日の今日で詳細が決定するには急すぎる。
「その補習、別の生徒も受けるついででオレもやるのか?」
「ほかに補習をうける子が二人いるって。よくわかったね」
「うちの教師がオレ一人のために行動するはずねえからな」
「そうなの? そうそう、退院はいつできる? 補習にまにあうかな」
 退院日は聞かされていない。とはいえ医者が習一を健康だと判断している。
「医者をつっつけば退院が決まるだろうよ」
「まだ決まってないのね。シドにそう言っておく」
「ああ、そうしてくれ。これでお前の用件はおしまいか?」
「うん、おわり。シューイチからシドに伝えたいことや聞きたいこと、ある?」
「ない。どうせ肝心なことには答えてくれねえし……」
 習一は少女の頭髪を見て、ふっと言葉が湧いた。その当て推量は自身の金髪に当てはまることだ。
「あ、大したことじゃないが、一つ聞いていいか」
「うん」
「お前の髪、染めてんのか?」
「ううん、はじめからこの色。シドもそうだよ」
 教師らの珍奇な髪の色は生まれつきだという。習一はその事情を話半分にとどめて「そうか」とつぶやいた。役目を終えた少女は習一の脇を通り、病室の戸口へ行く。習一は彼女が退室する様子を見送らず、当初の目的通りに休む。一息ついて戸を見た時には少女の姿がなかった。ずいぶん動きが素早いものだと習一はささやかに感心したが、戸を開く音が全く聞こえなかったことを不思議がった。

4
 銀髪の少女が帰ったあと、習一は見回りにきた看護師に退院をせがんだ。看護師が「医師に相談します」と言った三十分後、明後日退院の報告があった。習一が要請する前に決まっていたらしい。父のいない安住の場を出るのは気が進まないが、いずれ離れるべき場所だ。父に対抗しうる体力はもどしておこうと思い、習一は歩行訓練を続けた。
 翌日も飯を食っては体を動かし、寝るのを繰り返す。太陽が最高潮に照りつける昼下がり、習一は廊下をゆっくり歩く。明日には退院だとこれみよがしに、閑散とした壁を彩る絵画に注目した。これといって絵に興味はないが細部に目を凝らせば発見はある。色の重なり、筆の流れ、絵の具の厚みなど、長時間制作に苦心したであろう跡がそこに残る。その作品を仕上げるために精魂を捧げた人が存在する。おしなべて同じ形で表現される文字群を前にした時には思いもしない実感だ。絵も文も労力をかけた作品だろうに、受ける印象は違った。
 絵に見飽きた習一はガラス張りの廊下へ出る。ガラス越しに眼下の中庭を見物した。炎天下の時間帯では外に出る人はいない。無人の庭の木には白い鳥が留まっていた。鳥の種類は特定できず、習一はなんとなく鳩だと思った。
 鳥が飛び立つ。白い鳥はまっすぐに、習一のいる階へ向かってきた。鳥は習一がいる隣り一メートルほど窓の縁に着地する。太いくちばしを自身の羽にあてがった。太く長いくちばしは鳩では持ちえない。さらに鳥は鳩にあるまじき大きな頭をもたげている。その形状は烏(からす)そのもの。だがその体毛は烏とは思えない白さだ。習一は驚愕より先に歓喜が表出する。動物にはアルビノ種という、色素の形成がうまくいかず肌や毛が真っ白になる者がいると聞く。その類なのだと思い、珍しい生き物に会えたと自身の運を称賛した。
 習一は興味本位で白い烏がいる窓辺に行く。その時、ガラスを隔てた向かいの病棟の人影が視界に入った。白いスーツに身を包んだ大柄な男だ。その巨躯と服装は医療関係者ではない。大男の肩には花束がある。知り合いの見舞いへ来た人か、と習一は異物を見過ごした。
 習一は烏の目の前でしゃがむ。烏は顔を上げ、習一と目が合う。その目は黒かった。
(アルビノは目が赤いんじゃなかったか?)
 色素異常のある個体は目の色素も作れない。その影響で血管の色と同じ赤い瞳になると聞いたが、と習一は頭のすみに収納された知識を掘り起こした。記憶と異同のある特殊な烏めがけて、習一はガラスを指で叩く。びっくりして飛び去る、と思ってのいたずらだ。烏は動じず、むしろ習一に応じるようにガラスをくちばしでつつく。自分の行ないに反応がある──それが無性に嬉しかった。習一はこわばった薄い笑みをつくる。長く使っていなかった表情筋が不恰好な笑顔を生み出し、ガラスに映った気がした。
 他人に見られなかったか、と習一は向かいの病棟を見る。先程見かけた男はおらず、通行人もいなかった。左右に人はいないか、と首を動かす。すると白いスーツの男を発見した。彼は看護師に声をかけている。見舞い相手の病室を教えてもらっているのだろう。習一は男を無視した。看護師に聞けば病室の案内は確実。習一のもとに男の足が及ぶことはない。引き続き人懐こい烏とたわむれた。
 烏は丸い目をぱちくりさせる。しばしば首をかしげる様子を見るに、意外と愛らしい外見なのだと習一は思った。なおかつ烏のイメージを一新する。ゴミや死肉を漁るといって嫌われる負の象徴には思いにくかった。
「ようニーチャン、暇してんか?」
 習一は肩を震わせる。奇異な動物に関心を注ぎすぎて、人の接近を察知できなかった。
「そんなビックリせんでもええ。ちぃーと聞きたいことがあるだけなんや」
 習一は男を見上げた。男の身長は二メートルあろうかというほど高く、肩幅もある。肩回りや太もも部分のスーツは窮屈そうにピッタリと体の線を這う。骨と筋肉によって膨れた壮健な肉体だ。その身体が作り物でないなら体重は百キロを超えそうだ。
 大柄な男はジャケットを着崩しており、暑さのためかシャツの胸元を大きく開いている。日に焼けた肌と筋肉質な体躯、そして金色に染めたオールバックの髪が屈強な荒くれ者の印象を根強く与えた。そんな男に似つかわしくない物が肩に置いてある。薄い赤紫の包装紙にくるんだ花束だ。見舞う病人への贈り物なのだろう。男はニカっと笑い、花束を揺らす。
「ワシはミツバっちゅうもんや。『光る』に葉っぱの『葉』と書いて光葉。ワシと同じくれえのイイ体と肌の色をした、銀髪の男を知らんか?」
 銀髪で色黒の男、と聞いて習一はシドと呼ばれる教師を思いうかべる。だがあの教師は眼前の男ほど背は高くなく、筋肉の付き具合も劣っていた。
「ああ、普段は帽子を被っとるさかい、ワシみてえな色黒の男、と考えてもええで」
 教師は帽子を被っていなかった。習一は首を横にふる。大男はしょぼくれた。
「そか……このあたりでよう出るって噂やったんやけどな。ほんなら、銀髪の女はどうや? この女も、男に見間違えるぐらいに背が高いっちゅう話や」
 この問いにも習一は知らないと意思表示する。教師のお使いに来た銀髪の少女はそれなりに身長があったものの、男性の平均身長に届かなかった。光葉は口を尖らせる。
「ニーチャンんとこに、背はワシよか低い銀髪の男が来てたんやろ。ここの従業員が言うてくれたんや。そいつのことでもええ、なんか教えてくれんか?」
 習一は重い腰を上げた。院内の情報提供者がいた以上、面倒だからと適当にはぐらかすことは不可能だ。相手が見た目通りのならず者であれば、その対応の仕方こそ面倒事を引き起こしかねない。
「……一昨日、オレを見舞いに来たよ。このへんの高校の教師だ。その男がどうした?」
「そいつの仲間かもしれへんやつに用があるんや。んで、そのセンセイの居場所は?」
「知らない。一昨日会ったばかりで、どういう人だかオレもわからないんだ」
「そないな知らんやつが、なんでニーチャンの見舞いに来るんや?」
「オレが知りたいくらいだ。聞いても教えてくれねーし」
 光葉は尖ったくちびるを横へ突き出した。鼻をすんと鳴らしたのちに中庭を眺める。
「ほんじゃ、センセイはどんな人か教えてもらえるか? 見た目ぐらいは言えるやろ」
「髪の色だけで探せるだろ。そいつは帽子を被ってないんだから」
「冷たいやっちゃな……」
「教師を見つけて、あとはどうする?」
「ワシの望みはセンセイの仲間に引き合わせもらうことや。無敗のバケモンがどないなもんか、手合わせしてみとうてな」
「無敗……って、喧嘩で?」
 光葉が「おう」と太く笑った。自信に満ちた面構えだ。伝聞に住まう強者を力で降せると信じている。
「その男はドス持ちもハジキ持ちもみーんな素手でいてまうんやと。それで負けなしなんや、人間業やあらへん。せやからバケモンっちゅうわけや」
 方言以外に聞き慣れない単語が出る。それが武器らしいことは会話の前後で読み取れた。なおかつ当然のように武器を所有する集団とは。
「ヤクザ連中とやり合ってた男なのか。教師にそんな知り合い、いるわけない」
「そうとも限らんで。息子を教師にしようとしとったオッサンんとこの用心棒やからな」
 用心棒とは光葉が会いたがる大男であって、習一のもとに現れた教師のことではない。そうとわかっていながら、習一は銀髪の教師が無法者の一味なのかと疑念を持ちはじめた。
 ぞろぞろと複数人が近づく物音がした。習一が視線を光葉の顔から廊下の奥へと移す。そこに白衣を着た男性医師と男女の看護師が二名いた。彼らは習一たちのいる窓辺に接近する。習一はちらりと光葉の顔をのぞき見た。彼は悠然としていて、医師たちが迫ることに何の感慨も湧いていないようだった。
 気の弱そうな医師が背後にいる看護師にせっつかれ、光葉の前に立った。
「なんや、この病院のセンセイか? ワシになんの用事かいな」
「あなたの、ご用件をお聞きしたくて。当院にどういった事情でいらしたのですか?」
「どうもこうも、見舞いや! この花束が目に入らんか」
 光葉は肩に飾っていた花束を医師に突きつける。医師は後ろへ一歩のけぞった。
「それともなにか、ワシみたいなごっついオノコが見舞いになんぞ来るはずがないと、センセイがたはイチャモンつける気か?」
「そういうつもりはないんですが……」
 医師は両手をあげて、光葉をなだめるとも降伏するとも取れる態度を示す。
「あなたが院内をうろつくと怖がる方がおられます。患者の体調にも良くないので……」
「はん、ヒトをバイキンみたくあつかいよって。これやから医者っちゅうんはお高くとまっててアカンわ、けったくそ悪い!」
 光葉は習一に花束を投げた。習一は両腕で受け止める。花はオレンジやピンク色など可愛らしい色合いばかり。彼の趣味ではなく、花屋の店員が仕立てた作品のようだ。
「ニーチャン、養生しぃや!」
 光葉は大股で歩きだした。巨体が医師たちの間を押し分けて行く。数秒前まで花束を握りしめていた手を肩の上まで掲げ、左右に振った。それが彼なりの別れの合図らしかった。
 医師たちは不審者の追い出しに成功し、持ち場へと散る。その場に取り残された習一は窓の縁を見た。白い烏はいない。ガラス越しに騒動が伝わり、逃げてしまったのだろう。
 習一は強引に贈られた花束を持ったまま、自分の病室へもどった。

5
 退院日をむかえ、習一は母とともに車に乗って家路につく。送り出す看護師たちには安堵の色が前面に出ていた。習一は病院においても疫病神だったに違いない。治療の施し方がわからぬ奇病に加え、警察は事件の関係者として習一を訪問する。さらに昨日現れたヤクザ風の男が悪印象を決定的にした。その一方で光葉を知らぬ母は花束を見て「気前のいい方がいらしたのね」とのんきな感想を述べた。
 久方ぶりに実家へ訪れる。広い一軒家だ。習一の胸あたりまで高さのある黒い鉄格子が塀と塀の間に居座り、玄関へ繋がる入口を守っている。鉄格子の留め具を外して庭へすすみ、母に渡された鍵を使って家へ入った。すでに仕事の始業及び学校の授業が始まる時間帯ゆえ、父と妹は不在だった。
 習一は病院にあった荷物と光葉がくれた花束を携え、二階の自室へ入る。室内は整然としていた。部屋主が不在だった間、母が片付けたらしい。
 衣類の入った鞄を床に置き、机には花束を置いた。花は水に活けてやらねばならぬ、とわかっていながら習一は花瓶を用意する気になれなかった。
(どうせ花瓶に入れたって、三日もすりゃ枯れるんだ)
 習一は母が時々飾る花を思いおこし、その枯れた姿の惨めさをいまわしく感じた。どこかに棄てるつもりで花を放置し、窓を開けて室内の換気をする。朝方といえど暑い空気がそよいできた。冷房をつけるか、とリモコンを探す。すると目の端に何か映った。窓を見れば桟に足をかける人がいる。銀髪の少女だ。袖のないケープに不似合いなリュックサックを背負っている。そのせいで上着に多大なしわが寄っていたが、本人はなんとも思っていないようだった。習一は面食らいながらも窓を開けてやった。
「シューイチ、おはよう。補習にひつようなもの、もってきた」
 少女は土足のまま部屋に入った。背中の荷物を床に下ろし、半透明な緑や赤のクリアファイルを三つばかり出して習一に見せる。ファイルの中に多数の紙が入っていた。
「このプリントの問題をぜんぶ答えてね。できたのを先生に見せたら答えがもらえるから、自分で丸つけをして提出するんだって。これは来週中に出してくれればいいって」
 少女はクリアファイルを机に置いた。そして机上にある花束に目を留める。
「このお花、だれからもらったの?」
「病院で会ったやつ」
 習一のみずから発した言葉に喚起され、少女に警告すべき事柄を瞬時にまとめる。
「光葉、とか言ったな。そいつはお前んとこの教師をさがしてる。ヤクザっぽいやつだったから気をつけとけよ」
「うん、シドにそう言っておく」
 彼女も教師同様、普通の人間が不快になる語句には無反応だ。少女は花の贈呈者が無法者らしき人物だったことよりも、花自体に興味をそそぐ。
「お花をお水につけなくていいの?」
「いらねえからお前にやるよ」
「くれるの?」
「オレが持ってても枯らすだけだ。花の好きなやつに渡してやってくれ」
「うん、わかった」
 少女が荷物のなくなったリュックサックへ花束を入れる。花弁の部分は外にはみ出てしまうが、落ちないように両方向にあるファスナーの位置を調整した。
「シューイチ、これから学校に行こう。出席日数をかせいだほうがいいんだって」
「今から? 遅刻確定じゃねえか」
「ケッセキよりチコクがいいものなんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「制服にきがえて。お昼ごはんはわたしが用意する。授業のじゅんびなしでもいいから」
「かったりいな……」
「シドのいうこと、聞くやくそくでしょ」
 自分が承諾した契約を持ちだされ、習一はしぶしぶ制服を手にとった。家にいても無聊をかこつのみ。動ける範囲が少ない分、病院以上に不自由な牢屋だ。どんな場所であれ外へ出たほうが暇は潰せる。そのように自分を納得させた。
 少女は窓の外へと出る。習一は着替えを途中にしたまま、少女の行方を確かめた。彼女は難なく庭に着地する。運動神経がかなり良いようだ。習一は窓に身を乗り出し、少女が二階へたどりつく経路を考えた。窓の下には人一人が立てる軒先があり、そこに登れれば習一の部屋に到達できる。軒先の先端は少女の身長より高い位置にある。懸垂の要領で登るには彼女の背が足りないように思えた。忍者のように壁を蹴って上がったのだろうか。
 思考する間に着替えた習一は鞄をとり、窓を閉めて部屋を出た。母には何も言わず外出する。少女が鉄格子の奥で待っていた。彼女の運動能力について議論すべきか迷い、習一は自分に無関係なことだと見て黙った。
 習一が登校を始めると少女は後方をついてくる。学校とは違う方向へ進むと「どうしたの?」と聞かれ、追跡を捲けなかった。じりじりと照りつける太陽の下、習一は汗をじんわりかきながら町中を歩く。少女はこの暑さでもけろりとした顔でいる。
(このクソ暑いの、平気なのか?)
 褐色肌の人は気温の高い地域出身が多い。彼女もそういった暑さに慣れた外国人なのかもしれない。自分とは異なる人種なのだと思い、習一は一人で暑さに耐えた。
 家からほど近い距離にある学校に到着する。現在は授業中のため、外観は静謐さがただよった。生徒玄関に入る段になって少女が立ち止まる。
「それじゃ、お昼にまた来るね」
 少女は習一とともに来た道をもどった。監視を逃れたいま、習一は自由だ。
(これからもっと暑くなるよな……)
 この暑さの中で闊歩する気力はない。冷房をふんだんに活用した教室内にいれば快適だ。習一は少女の思惑通り、授業を受けることにした。見慣れた下足箱は土埃の香りがただよう。自身に配分された下足箱には内履きが変わらずあった。内履きを逆さまにしてゴミを払ったのち、足を入れる。肉が削ぎ落ちた体だが足のサイズは以前と同じだった。
 階段をのぼり、二年生の教室へと繋がる廊下を通る。授業中の生徒が数人、視線を遅刻者にそそぐ。蔑みをふくんだ目はもはや慣れたもの。習一はクラスの後方の戸を開け、入室する時にも同様の視線を集めた。習一は唯一の無人の席へ座る。自席の場所はとうに忘れていた。勤勉な生徒たちの教室で一席空いていればそこが自分の席だとうかがい知れる。
 教鞭をとる教師は出現が稀な生徒の登場に注目し、授業を中断する。習一が大人しく着席するのを見終えて、再び教鞭を執る。習一は鞄を机に乗せたまま、黒板を見つめていた。

6
 午前の授業が終わると生徒たちは昼食をとる。習一の席の周りにいた生徒は自席を離れるか、別室へ逃げた。反対に、午前最後の授業を担当した教師は近よる。四十代の中年男性で、意志の固そうな太い眉毛が印象深い。姓を掛尾という。彼はこの学校の教師の中では珍しい真人間だと習一は認めている。それは同時に教師陣営中の異端者であることも意味した。
「小田切、体の調子はどうだ? だいぶ痩せたようだが……」
「なんともない。先生こそ、変な教師が来なかったか?」
「才穎高校の人のことか? 格好は一風変わっているが、誠実な先生だったぞ」
 人物評が世辞でないことは評価者の晴れやかな表情でわかった。
「お前が不慮の事故で期末試験を受けられなかったから、再試験の機会を与えてほしいと頭を下げてこられた。あんなに子どものことを真剣に考えるとは、若いのに感心な人だよ。学校の評価がどうだ、生徒の成績がどうだという体面ばかり気にして、肝心の子どもの気持ちを考えようとしない連中に見習ってほしいもんだ」
 ここぞとばかりに掛尾は一部の偏狭な教師を糾弾する。あるいは学力主義な親のことを言っている。そういった大人たちと衝突する習一におもねった可能性はあるが、この教師の場合はこれが本音に聞こえた。掛尾が周囲の人間をなじりながらもこの学校に留まる要因は、習一のような常識はずれの生徒をすくいあげる目的があるらしかった。
「あの銀髪の教師がオレの面倒を看ようとする理由、先生は知ってるか?」
 掛尾はきょとんとした顔をする。この教師も理由は知らないのか、と習一は落胆した。
「小田切が才穎高校の生徒と喧嘩しただろ? 止めに入った先生が彼だったそうだ」
 掛尾は当事者が他人事のような質問をしたことに軽い戸惑いを感じたようだ。
「その時、小田切をひどく痛めつけてしまったことに気負いして、お前を手助けしてやりたいと思っているらしいぞ。シドさんはお前に伝えてないのか?」
 自分が他校の生徒と喧嘩した──そんな騒動はありふれている。しかし、習一の記憶には銀髪の男が自分を苦しめた情景が残らない。これが警官の言う、習一が失った記憶か。今の習一には身に覚えのないことゆえに、あの教師は習一に援助する理由を述べなかったのだ。彼が掛尾に話した動機は、習一の補習にこぎつく交渉に必要だったからだろう。
「……あいつ、オレにはぜんぜん説明してくれやしない。今はとにかく普通に過ごせるように努力しろって言ったきりだ」
「彼なりに理由があるんだろう。実を言うと俺の同期が才穎高校に勤めていてな、そいつがシドさんのことを教えてくれたよ」
 真面目すぎて融通の利かない時もある。だが誰よりも生徒を想う優しい男だと、掛尾は知人の評をならべた。掛尾自身の言葉と大差ない説明だ。
「当面、あの先生の言うことを聞いておいて大丈夫だろうよ」
「ほかの教師連中はどうなんだ? 外野に余計な手出しをされて不満なんじゃないのか」
「そんなもの、言わせておけばいい。どうせ口だけだからな」
 人聞きの悪いことを言い捨てる中年がくしゃりと笑う。
「そうそう、プリントはもらったか? 来週やる補習を受けるのとプリントを提出するの、二つをこなして及第だ。補習はプリントの問題に沿って解説をする。予習しとけよ」
「今朝、あの教師のお使いが家にきて置いていったよ。そいつが出席日数のために登校しろと強制するから、退院したばっかなのに学校に来たんだ」
「そりゃよくできたお使いだな、小田切に言うことを聞かせるなんて、うちの教師にできないことをやってのけるとは」
 外柔内剛とはこのことか、と掛尾は新たな評価をくだした。次に腕時計に視線を落とす。
「昼飯を買って食う時間がなくなるか。んじゃ、午後もがんばれよ」
 気さくに話しかけてきた中年は教卓にある授業道具を抱えて退室した。
 今朝、習一を学校へ導いた少女は昼食を用意すると言った。部外者が校内へ入ることは一般的にはばかられる。立ち往生しているやもしれず、習一は校舎の外へ出ることにした。
 廊下ですれちがう生徒は習一の気分をそこねた。冷たい視線をよこす者、畏怖を注ぐ者ばかり。今朝は遅刻という明白な罪を犯したがゆえにそれらの視線は公然と承服できた。こたびの注目の第一原因は頭髪だ。習一は校則で禁じた染髪を堂々と行なう。一目でわかる問題児に気安く接する生徒はいない。教師にしても掛尾が特殊であり、他の教師は習一と関わろうとしない。貧乏くじを引いた担任の教師が嫌々業務の一環として習一をたしなめる程度だ。この人間関係は習一が望んで生み出したもの。甘んじて負の象徴であり続けた。
 習一は内履きのまま蒸し暑い外へ出た。心持ち涼める木陰に早々と入る。天気のよい昼休みといえど外へ出て飲食及び遊興する輩はいなかった。
 木々を通り学校の正門へ向かう。突然木の上から何かが落ちた。それは逆さまになった人影だ。空中で止まったまま、銀の髪を垂らして習一を見つめる。今朝、習一に登校を促した少女だ。枝をひざ裏とふくらはぎではさんで、逆さ吊りの状態になっている。
「えいようってよくわかんないんだけど、今日はこれ食べてね」
 少女は両手で枝をつかみ、ひざを浮かした。くるりと後転し、すとんと両足を地につける。見事な軽業だ。その技芸を誇示することなく少女はリュックサックを下ろす。中からビニール袋を出し、それを習一に渡した。習一が受け取った袋にはスーパーやコンビニで見かけるサンドイッチ、おにぎり、サラダ、お茶のペットボトルが入っている。
「これがオレの昼飯か。お前の分はどうした?」
「わたしはいらないの。シューイチだけ食べて」
「ふーん、ありがとよ。全部でいくらだ?」
「いーの。シドのおごり」
 少女がきっぱりと断る。習一はズポンのポケットに入れた財布に触れたまま、固まった。
「補習がおわるまでのごはんはシドが用意する。だから勉強にせんねんしてね」
「なんでそこまでする? 若い教師の給料なんざ知れたもんだろ」
「おかねは心配いらない。シドはつかいみちなくて、たまってくから」
「金の使い方を知らねえタイプか。浪費するのは他人のためなんて、どこの慈善家だよ」
「うん。そうやって子どもを助けるって、ある人とやくそくしたの」
「へえ、その約束をするまでにえらい美談があるんだろうな」
 彼らの背景を聞くつもりは習一にはない。冷えた室内へもどろうと踵を返した。
「……きれいなはなし、じゃない。いっぱい、ひどいことした」
 後方から少女の力ない声が微かに伝わった。習一は意味深な発言の真意を聞こうと振り返ったが、少女の姿はもうなかった。

タグ:習一
posted by 三利実巳 at 00:00 | Comment(0) | 習一篇草稿
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