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2024年04月21日

ワーキングプア脱出のカギ「奉献生活=祈り+感謝」両輪の法則

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。(ピリピ人の手紙4章16節)


・真の祈りがそこにあるなら、祈りが聞き入れられたときには、感謝の思いと言葉があふれ出します。
祈りが答えをもたらすように、答えは感謝と賛美をもたらします。
・祈りによって神が業をおこなってくださるように、聞き入れられた祈りによって感謝が捧げられます。
夜の後に昼が来るように。
・真の祈りと感謝は、完全な奉献を伴い、奉献は更なる祈りを伴います。
奉献生活とは、祈りと感謝の生活なのです。
※1分間の瞑想「祈りの力」より引用



教会生活の違和感を1つあげるとすれば、それは祈りが感謝から始まることだ。
いや、それは私の教会生活だけのことかもしれないが。

1分間の瞑想「祈りの力」によれば、信仰に伴う奉献生活は次のようなものだそうだ。
奉献生活=祈り(求める)+感謝(捧げる)

だが、これを私はいつの間にか以下のようにとらえてしまっていた。
感謝(捧げる)=奉献生活(捧げる)ー祈り(求める)
これだと左辺と右辺は両立しない。


感謝(捧げる)=奉献生活(求め・捧げる)ー祈り(求める)
当たり前のことだが、感謝は、求めに答えがもたらされたときに捧げられるものだ。
また、
祈り(求める)=奉献生活(求め・捧げる)ー感謝(捧げる)
祈りは、祈りに答えがもたらされたことによる(こちらが捧げる)感謝が、さらなる祈り(こちらの求め)を生む。

教会で祈りに感謝を含めるから、祈りも捧げるものだとばかり思っていた。
だが、祈りは求めるものだ。
奉献生活は、捧げてばかりでは苦しくなる。

さて、奉献生活というと、私たちはどのように理解しているだろうか。
私のように捧げることばかりに注意が生き、やがて消耗して自滅するような愚かなイメージを
もっているならこの記事はあなたの役に立つかもしれない。

今日のテーマは、ワーキングプア。
教会生活では奉仕疲れと言うこともある。だがそれは教会に限ったことではない。
仕事におけるワーキングプアは、むしろ、信仰を持たない無神論者たちの方が辛いだろう。
遣り甲斐搾取などのキーワードは、まさにそのような心の悲しみの声から生まれた言葉だ。

さて、特に会社員が遭遇しがちなこのワーキングプアだが、
いくら働いても仕事が苦しくなるとき、そこにはどのような仕事にまつわるボタンの掛け違いがあるのだろうか。


(1)仕事における奉献生活


奉献生活において大切な事は、主語が全て同じだということだ。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

仕事においては、会社への貢献だとか、お客様への感謝だけが強調される。
だが、貢献(業を行って祈りに答える)を言う前に、どのようなサイクルが
会社に存在するのか整理してみよう。

奉献生活(お客様が求め、捧げる)=祈り(お客様が求める)+感謝(こちらが捧げる)
まずはお客様側の発注サイクルが存在する。

あるいは
奉献生活(上司、部下、同僚が求め・捧げる)=祈り(上司、部下、同僚が求める)+感謝(上司、部下、同僚が捧げる)
こちらは、上司、部下、同僚が仕事を頼んでくるケースだ。

仕事においては、お客様や上司、部下、同僚の祈りによってこちらが業を行い祈りに答える側だ。

ん?
答える側にはサイクルがないのか?

仕事が楽しくなくなる場合というのはこういう場合何だと思う。
すなわち、周りには奉献生活があるのに、自分にはそれがない。


(2)信仰による、私生活における奉献生活


さて、私生活に話を戻そう。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

そこにはきちんと私の求める機会と私の答えられる機会が存在していた。
ここで私の求めのために働かれているのは主であるイエス、神様だ。

そして、働かれる神にもきちんと奉献生活のサイクルは存在する。
奉献生活(主が私たちに求め・与える)=祈り(主が私たちに求める)+感謝(主が私たちに与える)

私と神様、お互いの奉献生活がかみ合うとき、私たちはそこにいてその暮らしに満足し、
幸せになれる。そこに行き来するものの程度の差はあれど。


(3)互いの奉献生活における、かみ合わない感謝が仕事を止める


仕事が面白くないとき、私たちはその職場で神の役割をさせられている。
またこのとき、神の側の奉献生活は、以下のように仕事を依頼される側に誤解されている。
奉献生活(神が求め・与える)=祈り(神が聖書で私たちに求める戒めや栄光)+感謝(神が賛美を受ける

このように神の奉献生活が解釈されるとき、上司、部下、同僚の奉献生活である以下
奉献生活(上司、部下、同僚が求め・捧げる)=祈り(上司、部下、同僚が求める仕事)+感謝(上司、部下、同僚が捧げる)
は、神の奉献生活とかみ合うだろうか。

否、感謝がかみ合わない。
このようなとき、神の奉献生活における感謝を、私たちは私たちの賛美と勘違いしている。

感謝とは、その主体が欲しいものではない。その主体が対象に対して捧げるものだ。
また、主体のそのような感謝は、その感謝によって主体からの対象に更なる祈りをもたらす。


主体と対象、双方の奉献生活が仕事を通してかみ合いお互いの奉献生活の営みを支えるもの、それが仕事だ。

仕事が回ると双方の独立した奉献生活がかみ合いながら各々の奉献生活のギアを回す。
仕事とは、そういうモーターだと言えよう。

相手に何ができるかで仕事は依頼されるものだから、
仕事を依頼する者と依頼される者との間で大抵、祈りはかみ合うものだ。

しかし、感謝は違う。
独立している2つのギアを1つのモーターで回すとき、そこには必ずかみ合ったベルトが必要だ。
感謝はこのベルトである。
溝の合わないギア同士に無理にベルトをかけてモーターを回すと、ベルトは擦れて焼き切れる。
ベルトがなければ仕事も当然止まるだろう。


(4)仕事における奉献生活はおのおの主体的に。ただし、捧げる感謝のかみ合う仕事をする。


例えば私がライフステージを少しだけ上げるために部屋に花を飾りたいと思った場合、そこには生花を生業とする「お花で人を幸せにしたい」と願うお花屋さんという職人と、今の生活のステージを少しだけアップグレードしたいという私の「祈り」がマッチして仕事が起こる。
もしその生花職人の仕事がこちらの祈りにピタリとハマったなら、そこには対価などの「感謝」、および「もっと他にステージを上げるに相応しい方法はないか」とかいう新しい祈りが生ずる。



このように仕事というベルトの両輪には、互いの奉献生活というギアがあり、仕事を回すことによって
お互いの奉献生活のギアは回る。
このとき、各々の奉献生活は以下のようであった。
奉献生活(私が求め・捧げる)=祈り(私が求める)+感謝(私が捧げる)

結局のところ、仕事が貧しさに終わらないカギは、こちらが捧げた「感謝」が相手のギアとかみ合うかどうかだ。
だから逆に、自分の希望のみの仕事探しや、頼まれてもいない先行した自分磨きによってはワーキングプアが終わることは決してない。前者は捧げる感謝が相手の奉献生活のギアにかみ合うことはほとんどない。また、後者はこちらの祈りでは無いことを感謝として要求されされる犠牲的な奉献生活を強いられることになる。また、こちらの祈りを相手の祈りに書き換えられる可能性があるため極めて危険だ。

祈りと祈りが溶け合って仕事を生む。
仕事が回ると双方の奉献生活のギアが回り、感謝が生まれる。
生まれた感謝は互いの奉献生活に新たな祈りを生み、それがまた仕事につながり互いのギアを回す。
こうして仕事が1周、2週と回るごとに、そこに営みが生じる。

この営みを長期運営する鍵は、お互いの奉献生活の安定を支える「感謝」の生成だ。
そしてこの感謝の重要な性質は、それが捧げものであることは言うまでもないが、こちらの祈りを増幅させるものでなければならない点だ。自分の相手への感謝が、自分のやる気や生活の豊かさ等、こちらの新たな祈りを生まないならば、それは感謝という名の「搾取」である可能性が高い。そのような感謝の仕方は自分がみじめになるだけだからやめるべきだ。

仕事をした後の後味、すなわち自分の内に生じた感謝が、
「仕事が無いよりマシだから。」や「他にできる仕事が無いから。」だったら得られるものは感謝ではない。
これは祈りを強くもしなければ、新たな祈りも生まないから。

「生活費を稼ぐため」や「資格を取って転職するための腰掛」、これも得られる感謝としては弱い。
はじめの祈りが一定期間は継続するかもしれないが、しかし初めの祈りが強くなったり、新しい祈りが増えることはあまりないから。むしろ、祈りが今の仕事とは関係ない方向へ行きやすいかもしれないという点では、適切な感謝を得にくいものだろう。

ベストな仕事の後味は、その仕事が継続することで、次は(得られたものの質、量において)もっと良いものを、または新しい更なるものを祈れるものだ。

仕事の好循環を生むもの、こちらの奉献生活における感謝を生成のは「祈り」であるから、仕事をする前にまずは何が願いであるか祈ることが重要だ。

ワーキングプアは仕事が先行し、祈りが後回しになることで起こる。
祈りの無い仕事は、相手の奉献生活を回すためのモーターにされやすい。こうなると相手は仕事をしなくてもあなたの犠牲で自分を肥やすようになる。これは最悪のワーキングプアだ。

ワーキングプアを感じたら、まずは手を止めて祈ることだ。
そしてわずかでも今の仕事で答えられた祈りがあるなら、その答えられた祈りに対する感謝を紙に書き出し、
祈りがきちんと答えられているか精査しよう。そして仕事を通じて相手からエネルギーを貰い、自分の新しい祈りの生成、または更なる良質な祈りにつなげることだ。

仕事にまつわる奉献生活は、相手のものと自分のものの、2つが両輪で回っていることを忘れてはならない。




2024年04月05日

【ワークライフバランス】無私の奉仕。素晴らしい、けど正直辛い。そんな時に思い出しててほしい8つの事・・・

(1)キリストの生き方

キリストに従う生き方は聖書における神の愛の実践。
だが、現実社会でこの生き方をするのはとても難しい。

私自身、かつて自分として仏教で説かれるような自分に厳しく他人に感謝する生き方で疲労困憊し、
その時に聞いた神の愛の説法を聞いて、枯渇していた自己愛が少し取り戻せたような気がした。

だが現実では神の教えを実践しようしても、相変わらず利他の実践でエネルギーを出し、
たまに聖書の御言葉、すなわち神の愛、主なるキリスの愛で
自分のしていることは正しいんだと行いの報酬として元気を頂き感謝を増し加え
利他の生き方の中にあって、
今日も(なんとか)心のバランスを(仏と神に)整えて頂きながら日々を送っている。

だが40歳を過ぎてから、利他も相手がこちらの在り方に関心がなければただ「いい人」として
利用されてしまうだけの現実にどうにも目が背けられなくなりつつある自分を無視しずらくなってきた。
そして、これまでの、そしてこれから(ものはず)の利他の実践にだんだんと疲れを感じてきたのが
正直なところだ。

仕事はなくならない。
利他を優先すれば結局は鬱等心が病んで、頼りなる先輩のように力尽きるまで消耗してしまうだけだろう。
増え続ける仕事に潰されて。


(2)ワークライフバランス

ワークライフバランス。
これは個人の自由の保障せよという社会の要求するワークに敵対する言葉だ。
この言葉の起源は確か、女性が社会の煩わしさから自分を守ろうとする願いから生まれたものだ。

だが思うに、これを社会通念にするには準備が足りな過ぎたと思う。
「今だけ、金だけ、自分だけ」。
意識はしてなくともこの3つが現代の正義にとても近い存在ではないだろうか。

社会の要求するワーク、つまり仕事は、個人の思い描くワークの対価とは必ずしも一致しない。
社会の要求するワーク、すなわち仕事とは、人の嫌がること・やりたくない事をお金をもらう代わりに
請け負うことだ。
自分の嫌がることを無償でやってくれるなら感謝もするだろうが、お金を渡すのであれば対価より
要求が上回るのは当然のことだ。

できるだけコストは安く、たくさん自分の願いを叶えたい。
ワークライフバランスの真の狙いは、人々のこのような願いにあるのかもしれない。
自分が不当な扱いを受けているかどうかはおまけの理由で。


(3)自分の善意との闘い

ワークライフバランスが始まっても、働かされ方に変化はほとんどなかった。
そんな中で最近思うようになったことがある。

ただの利他優先では生き残れない。

女性社員が残業もせず、夜勤もせず、やった事のない仕事も覚えず、もちろん無償奉仕など絶対にない。
自分のワークライフバランスを守ろうとする姿には羨ましさを感じる。

毎日女性、みんなが帰った後も会社に残って、「みんながやり残した仕事」を片付ける日々。
そこで小さな闘いが始まった。

それは自分の善意との闘い。
利他の精神で勝手出た小さな善意はいつしか職場では当たり前の空気のようになり、
いつしか今度はその当たり前の中で、始めの小さな善意が宿しだしたアイデンティティーの力、すなわち「自分との約束」とで戦わなくてはならなくなった。

自分の心に描いた善意と、現実の社会の善意の闘い。
社会が自分の心を裏切ったのか、自分の心が社会を裏切ろうとしているのか。
小さな善意をめぐり、それを撤回しようとする自分自身の正義とその撤回を許さない社会的正義の闘い。

一人対多。たとえ霊的に心は負けてなくとも肉体は確実に消耗するため、
心身一体の人間のこの体に、このての戦いは不利だ。


(4)十字架という「無償の自己犠牲」に対して父なる神が与えたもの
十字架に象徴される自己犠牲の生き方。
イエス・キリストは本当にすごいと思う。

無償の愛の象徴とされる十字架だが、これは
イエスの十字架は、父なる神がイエス復活とイエス権威を保証してなければ無駄死にに終わると、
聖書にも、もちろん牧師の説教にもしっかり出てくる。

またイエス自身も十字架の死は、ユダに裏切られ捕らわれの身になった日の夜よりはるか以前から、
すなわち「この神の怒りの盃をできることなら取り除けてください」祈る前ずっと前から知っていて、
それが無駄死にではないことも当然理解していた。

この夜イエスが恐怖だったのは、神から見放されることでこれから起こる現実的な出来事であり、
イエスがこの夜祈っていたのはその恐怖に対して自身の腹をくくるため、
すなわち
「この胚をできることなら取り除けてください(でも真実であるあなた(=父なる神)は、
そののちの私に知らせたご計画とその約束のためにそうはなさらないでしょう。
だからせめて、これから訪れる苦難を耐えきれるよう、私を励まし、勇気づけてください)。」

と祈ったのである。


私自身も体験的に、今もこうして無償の愛の与える側にあっては大きな苦労がある。しかし、
報われるのが今か、3年後5年後、10年後20年後、あるいは死後かはわからない、けれども、
そこには必ず神の約束と、愛の慰めや報いがあるから耐えれられた。

そう、けして、報いなしにイエスが無駄死にする話を聖書は言いたかった訳ではない。
十字架は目的を持ったイエスの生き様のワンシーンに過ぎなかった。
そのことを新約聖書は示している。
私たち人間の感覚からすると、イエスの十字架は行いから報酬を受け取るまでのスパンがとてつもなく長かったというだけだ。つまり、実はイエスでさえも報酬なしでは働かなかったことを聖書は言っているのだ。

一方、我々も、目的があってイエスを介して神から買い戻された者たちだ。
神の目から見たら、人間の目からは到底測り得ない使い道(つまり価値)が人間にはある。
それは(人間にはその意図が到底計り知れないが)、父なる神を永遠に賛美するためと聖書にも書いてある。

ある教会は言う。十字架をイエスの無償の愛だと言い、我々にもそれを模範にせよと。
だがそれは教会が自分たちの権威を誤解しているだけではないか。

聖書が言う十字架の愛の無償である理由、それは単純に、
イエスの十字架の対価の支払い能力が私たちにはないからだ。

聖書はけして、この教会の言うように無償の愛を強要していない。よくよく読めばわかる。
聖書が語る十字架にまつわるイエスの愛の行動は、報酬を支払うのが人間ではなく神様であるだけで、
それはれっきとしたと有償の愛なのだ。
そしてそこに支払われる報酬は、支払う神自身が「はなはだ良い」と誇るほど高価で素晴らしかった。


さてそこで、
キリストの無償の愛を改めて解釈するとこうなるかもしれない。


 人が人に対して自己犠牲的な愛に基づく働きを行うときには、まずそこに
どんな報酬が伴うのかよく考え吟味せよ。安易に無償で自分の資源を切り売りしてはならない。
人間は対して支払い能力がない。にもかかわらず、彼らは自分の支払い能力以上の報酬を
さも当然のように欲しがり、要求してくるから。
 自分の命、自分の誇りを大切にせよ。
神が約束したのでなければ、私(イエス)の十字架に復活とすべての権威と自由が約束されていたのと
同じような対価が、彼らに支払われることはけしてないと知りなさい。


私は先日のイースターから聖書でイエスが十字架にかかり死んで復活するまでの物語をこのようにも
読めるような気がしている。
いや、むしろ経験的にはこの読み方が聖書の真理に近いんじゃないかとさえ思う。


(5)自身の「はじまり」に自分の尺度で決めた報酬が、報酬の奴隷としての未来を自分に約束させてしまう真実

現在、多くの洗礼は、洗礼を受けと神の寵愛によりすべての望みが叶うと誤解されていると思う。
特に女性は神の愛を誤解している。祈ってさえいれば、教会に真面目に通ってさえいれば
自分は神の寵愛を無償で受けられ、以降のすべての苦難から守られ自分の自由が保障されると思っている
ように思える。

彼女たちは新しい主にある兄弟姉妹の洗礼に「おめでとう」と祝福の言葉をかける。
だが、本当に洗礼はおめでたいのだろうか?

例えば港を想像するとき、港を船が出航するときに多くの人は祝福の言葉を述べ、
逆に船が港に入港するときは物事が終わったかのように平然としている。
この4月も、入学式、入社式に皆がその新しい門出をおめでとうと祝福する。
赤ちゃんが生まれたら「おめでとう」と新しい誕生を祝う。
結婚すれば「おめでとう」と祝福をする。

だがこれは逆だと思う。

本来は、船が港に入港した時こそ、「おめでとう」と祝福されるべきである。
なぜなら、入港は船が無事に航海を終えて帰ってきたからだ。
学業困難や、いじめ、受験の失敗、就職難は入学してから卒業するまでの間、学生には必ず課せられる課題だ。
荷重労働、低賃金、長時間拘束、うつ病などは、社会人なら入社してから大抵ぶちあたる壁だろう。
これらに対して「おめでとう」と言えるだろうか。
否、そうではない。
「おめでとう」の祝福は、実は始まりではなく終わりにこそ存在する。
無事に卒業できておめでとう。
たくさんの苦労もあっただろうが、無事に定年まで勤めあげることができておめでとう。
小さい頃は大変だったけど、ここまで立派な大人に育ってくれてありがとう。
色々衝突もあったけど、最後まで僕の妻でいてくれてありがとう。

今、さまざまな結婚が離婚に終わり、さまざまな職場で人不足や仕事上で問題を抱えている。
そう、報酬や祝福は最後に支払われるまでわからない。
だから、特に最初に変に祝福されるべきではない。
人の歩む未来にはたいてい困難が待ち受けている。にもかかわらず、「云々〜これさえすれば」と
多くの人が「新しい始まり」に異常な情熱を燃やしている。
はじまりこそ祝福。これこそサタンの嘘だ。

冒頭の教会でのお互いの「はじまり」を祝福し合う女性たちも同様で
彼女たちは自分の尺度で考え、しかも自分で勝手に決めた報酬に酔いしれ
単に「はじまりの理想郷」に浮かれてているに過ぎない。

しかし、同じく冒頭で述べた通り、
人には対して報酬の支払い能力はないし、報酬を決めるのは神であって、
その支払いは、彼女たちの浮かれている「はじまり」から「終わりの日」まで
どう歩んだがで決まるものだといういうことを忘れてはならない。

もちろん、人の歩みには困難は付き物だ。
大切な事は、そこで勝手に報酬を自分のでっち上げた理想にすり替えて
自分の貴重な命の営みを歪めないことだ。

人はあの木の実だけは食べるなという(神にとっては)小さな約束ですら守れずに
父なる神の愛と期待に反してエデンの園を追放されてしまった存在で、
キリストの十字架で神との和解はできたものの、以降もずっと罪の性質を負いながら生きている。

神ははじめ人を自分と同じ清い聖なるものとして創造されたから、人の命の営みも自然であれば清くなる。
それはイエスがしたように、貧しい人を見たらちょっと何かをしてあげたくなったり、
ラザロのような親しい友達が死んでしまったら悲しくて、マリアと一緒に泣いたりしたような
人として当たり前のような共感力だったり、自分には力がなくても神に祈ったりして何とかして
この辛い状況を良きものにしようかという発想だったり、行動だったりで表現されるものだ。

けれど、ここに「自分の理想」とか「自分の利益」といった報酬追求の理想が加わると、その営みは
途端に継続不可能な状態になって、人は心や体を病んでしまう。

アダムもエバも、はじまりに「自分の理想」は必要がなかった。
なぜなら、神が彼らの「はじまり」を作りったから。

また神は彼らに「神の人以外の被造物を管理せよ」とこれから先どう生きるべきかを教え、
それが実行できるだけの糧と報酬をも与えてくれていたからだ。

だが、ある日サタンの化けた蛇に女性であるエバが出会ってしまい、
心の清いエバは蛇に誘惑されてしまう。
そのとき蛇はエバにこう言ったんだ。
「神はキミたちの味方ではないよ。あの木の実を食べたら君たちは神のようになれるのに
神はそれを恐れてキミたちにそれを禁じているんだ。どうだい?キミたちだって神様のように
何でも自分で自由に決められて、何でも欲しいものは自由に手に入れてみたいだろう?
と。

ところが実際、神が決めたのはこの世界が清い聖なるものであるための「秩序」に過ぎないんだ。
そしてこれは神のご性質である「真実の愛」から出たもので、神でさえ、自分の性質から逸脱した
自由を行使したりはできなかったんだ。

僕たちも、当然神から作られて、「こうありなさい」という性質を与えられているんだけれども、
僕たちはエバがそうであったように「我」と「慢」が刺激されると「こうありなさい」という性質
つまり「はじまり」の「我」を忘れてしまうんだ。

「はじまり」の「我」とはもちろん、神の似姿としての性質である「真実の愛」なんだけれども、
イエスが地上に降りたときに、彼は僕たちがなんでこんなに自分の理想ばっかりに生きて、
はじめの、本来の生を忘れてしまったのか、と愕然として嘆かれた。

そしてこれこそがイエスの公生涯のトリガーになっていくんだけれども、
この時のイエスの起業理念が、今の僕らが抱くものとは性質が全く違うもの、すなわち
「@神を一番に愛しなさい。作り手を愛することは自分を愛することに等しいことだから」
「A自分を愛するように隣人も愛しなさい。隣人になる人はあなたとどうように神が作られた者だから」
であって、
イエスの公生涯の理想、目的は、自分で作ったものではなく父なる神が作ったそれそのものだったんだ。
そしてそういった「神の創造理念を起点とした」公生涯の出発が、途中十字架を通ったけれども、
最終的には彼(イエス)自身の復活と、彼のすべての権威と栄光につながっていって、
それを僕らはアーメンと言って賛美、祝福をしている訳だ。


(6)神が創造した「はじまり」の想いに従って、終わりまで命の営みを貫く生き方を

話は長くなったが、ではどのようにして物事の「はじまり」を乗り越えていくべきか。
未知、あるいは既知の苦難に対しどう対処していくべきか。

人の命の営みにおける「はじまり」の鍵は、
創造時に神が抱いた希望にある。


たとえば聖書で言えば、神への信仰。だが希望も持ち方を間違えてはいけない。
誤った希望の持ち方は、望み過ぎる報酬と同じで、願った者の将来を未来の奴隷にし生き甲斐を奪い去る。
間違った神への希望。
それには例えば次のようなものがある。
ノーと言わずに自己犠牲的に神の愛を貫け。そうすれば与えた愛が何倍にもなって戻ってくるから。

これは非常にうまくできた嘘、サタンの誘惑だ。
はじまりを自分の理想の希望で満たしてはならない。
だが、多くの人が物事のはじまりを自分の理想で満たし、それを実現するために行動を開始する。
そこで彼らに必要なのは、彼らの理想に共感してくれる言葉、理想の実現を後押ししてくれる仲間、
そしてそれらを約束してくれる神、すなわち地上の権威者だ。聖書的にはそれを「サタン」と呼ぶ。

今、この地上の権威者によって多くの離職が、離婚が、自分勝手な自立が肯定される社会が誕生している。
だが、もちろんサタンは神ではない。いずれ滅びる存在だ。
しかしそれを知りつつも、サタンは希望を失わない。
たとえサタンの肉体は滅びても、サタンの思考を支持する人間がいる限り、
サタンは彼らの中で生き続けられるからだ。
そしてサタンは決して愛が無償だとは語らない。

サタンのつく嘘にも必ず報酬が伴う。
例えばそれが私たちには経済的自由であったり、
サタンにとっては神の民になるはずの人類の死、神の国の不成就だったりする。
いずれにせよ、サタンですら無報酬では働かない。
与えられるのが裁きによる死だとしても、神に対する罪を重ねなくて良くなるという点では、
サタンですら神による報酬を得ているとも言えよう。


(7)神が創造時に想像した自分の貸借対照表、損益計算書を想像してみる

ただノーと言わない、または言えない側でひたすら忍耐する生き方というのは
辛くなって当たり前だ。

無報酬の愛。そんなものは存在しない。
神の愛なる人間の人生設計。それはけして自分自身の無償の切り売りではない。
自分とは愛の製造業みたいなもので、その適切な運営方法は、
わかりやすく言えばそれは簿記のように、自分といいう資本を用いて隣人に尽くす商いをし、
神の目線で損益を適切にやりくりすることによって、自分という命の営みを賜物という資本を用いて
堅牢に維持管理していくものだと言えよう。もちろんそれは自分以外に対して有償だ。

父なる神ですら、私たち一人ひとりに対してそれを買い戻すのに御子の十字架の対価を支払ったほど
私たち人ひとりの命というのは高価で、尊いものだったのだから、

それほどの命の価値が神の民にはあるんだということをを前提として、自分というものの命の運営を
考えていかなければならない。

まずは自分がプラスになるように自分を愛すること。自分の必要をよく知っておくこと。
次は他の人もプラスになるように、他人の必要にも意識を向け、その人の幸せのためにも上手く
自分の資本を使えるようになること。
与える方が、ただ与えられるだけより何倍も幸福度が高いから。


(8)買い戻された清い聖なる人生を、周りに譲らず最後の一押しで勝ち取る

現代は人に与えられる恵みと祝福が、人によって再定義され、神の創造した時よりはるかに劣ったものとして
人間の考える理想の尺度でしか味わえない、すぐ飽きの来る永遠の価値とは程遠いものに変えられてしまっている。

人は自分が再定義した幸せに何度も飽き、何度も壊しては作り直すをただ繰り返して人生を終えるような、
永遠を見据えて設計された神の創造したものに比べてはるかに量でも質でも劣った人生を、
皮肉にも、それをつくった人間によって歩まされているように思えはしないか。

SNSが発達し、誰もが人と比べて少しでもマシな生き方をしていることに安心を見い出そうとする傾向が
近年はとても強いと思う。

だが忘れないでほしい。
人間の書く脚本は全て、現実にはあり得ないから作品になり、人の興味をそそるのだ。
例えば経済的安定を考えるとき、会社員として会社に勤め、それなりに昇進すれば、それなりの安定した
生活を維持できる確率は上がるだろう。会社員であれば「ほぼ」毎月の生活費は100パーセントに近い確率で
調達することができるだろう。
だが、その延長線上に自分の生き方を自分で100パーセントアレンジできると思いあがってはいけない。
自分の一生を自分で決めることなどできない。
もとより、あなたの人生の完璧なアレンジは、神によって清く聖なるものに整っている。

後は、その清く聖なるものをこの薄汚れた地上世界でどう本来の味わいを失わずに終わりの日まで生きられるかどうかだと思う。

福音、それは神が私たちの人生をどうアレンジしたかを知ることのできる天国からのはしごだ。

聖書は読もうと思えば誰でも読むことはできる。はしごは誰にでも見えるところに降ろされている。
しかし、手が届くかどうかは、その人と神の御心の距離によると思う。

自分の時間と自由を捧げて神を知っていくと、ある日ふと天からはしごが降りていることに気づく。
なんだろうと思って利き手をはしごにかける。
ふと気が付くと、利き手じゃない方には聖書を持っていて、周りにはたくさんの人が前を向いて座っていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、大勢の人と一緒になって、利き手を上げて讃美歌を歌っていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、足はたたまれ自分は床にひざまずいて、頭を垂れてアーメンと小さく呟いて祈っていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気が付くと、はしごに手をかけたはずの利き手にはクイックルワイパーが握られていて、
しばらくしていなかった部屋の掃除をしていた。

あるいははしごに利き手で手をかけた。
ふと気か付くと、はしごに手をかけたはずの利き手には菜箸が握られていて、
しばらく食べていなかった野菜を自分で調理して食べようとしていた。

このように、本来の清い聖なる人生のはしごに手をかけると、
人生の舵は清く聖なる方向へと修正されていく。


教会の規律は嫌いだし、人間関係も奉仕も面倒だ。だが、天からのはしごに利き手をかけるとき、
足は自然と教会へ向き、体は教会の奉仕活動に身を投じられ、心は聖書の御言葉を詠唱していることに気づく。
そうやって、確かに清く生きるのは辛いし逃げたくもなるのだけど、神が僕たちを創造されたときの
想いに触れて、折しも本来の命の使い方に目を留めるとき、

そこにはこの現実をなんとかしたい、けど自分ではどうにもならないんだよ〜という祈りがあり、
予想通りの苦痛があるんだけれど心には賛美があり、
この現実から逃げずに立ち向かった誇りが大切に守られていて、
なによりそれは、蓄積されると地上の理屈よりもはるかに信頼度の高い人格が自分にも備わっているじゃないかということに気づかされる。

人生は勝ち取るもの。
神が御子を犠牲にしてでも味わって欲しかった清い聖なる命の営みを。
買い戻され祝福に値する、神の手によって差し出されるところまで来ている人生を。

あなたは掴み取り、受け取ることができるだろうか。







2024年03月31日

【イースター】洗礼式を終えて

(1)卵から生まれた、命の正しい使い方とは

今日はイースター。
私の教会では洗礼式も行われ、新しい姉妹がまた一人主の道に加わった。
これは喜ばしいことだ。

イースターは誕生の日。
正確には生まれ変わりの日だが、元々の命でも生まれ変わった命でも、その使い方を間違えたら
意味がない。

(2)洗礼槽組み立て係だった今日の一日

命の正しい使い方、それは仕事ににあると私は思う。
一日の大半、一生の大半を私たちは仕事に使う。だから、レースを走りきる最後の日までに私たちは
どんな仕事をしたかで命の使い方が正しかったか、正しくなかったを問われると思う。

その意味で今日の仕事は大変良いものだった、また正しいものだったと言えるだろう。
聖書に従って皆で主を称え祝福し、主の道に加わる姉妹を洗礼槽という入り口に立って送り出したのだから。
朝早く出勤し一日働いて、お金は一円ももらえなかった。
だが間違いなく、これは良い仕事、正しいことだったと実感する。

居場所があり、他者と自分の必要を満たし、お金や時間の事は忘れて主に栄光を帰した。
主に栄光を!までは正直作業に目が行ってほとんど考えていられなかった。
だが、満点でなくとも、主は喜んで下さるに違いない。
人の王とちがい、主は私の力など必要としていないから。


(3)良き仕事、正しい命の使い方とは
成果にうるさい人の王とちがい、主は私の力など必要としていないから。

主が喜んでくださるのは、新しい兄弟姉妹のために奮闘した今日一日の仕事を後押しした私の信仰。

信仰といえば、今日のイースターランチの終わり際、牧師先生と新しく加わった姉妹とお話した中で、
洗礼の証しの書き方の参考にと私の洗礼式の時に書いた証しが勝手に渡っていたことが発覚。

証しせず、私の証しがバレた訳だが、彼女は今日、自身で涙を流しながら語ることのできた自身の証しを
しっかりと書き上げることができたとわかった。

私は何もしていない。主が御手を動かしたとも言い難い。
これは明らかに牧師先生が思いつきで勝手にやったことだ(笑)

だがこれでいい。
以前何かで読んだが、一流の仕事とは、素晴らしい陶器の脇を、すれ違った人が思わず足を止めて
見入ってしまうように、見ている人を感動させてしまうような仕事のことを言うらしい。

一流のボクサーの試合に人々が熱狂するように、それを見た人を引き付ける成果を出す仕事。
それが一流の仕事だとするなら、

牧師先生が思いつき出した証しは、牧師先生の目に適って、また姉妹がそれを見て疑いなく参考にしたなら
間違いなく一流の仕事だったに違いない。

今日は間違いなくいい仕事、いい命の使い方をしたに違いない。
夕ご飯もおいしく、体もくたくたでもう眠いや〜

年度末お疲れ様です。
明日からまた新年度の闘いが始まる。
普通の仕事も、教会の仕事も、プライベートも頑張るぞ!

みんなも頑張れ〜



2024年03月30日

【受難の日】伝道メッセージのハレルヤだけでは終わらない信仰生活とキリストの恵み

(1)バベルの塔の建造とそれに伴う自己陶酔のサタンまがいな誘惑

昨日は受難日。
消化しなければいけない有給がたまっていたのもあって、イースターを口実に久々に有給を取り
一日を自分のために使いました。

びっくりしたのは訂正が必要で戻ってきていたアパートの契約更新の書類がまだ家にあったこと。
仕事に捧げる時間は、考えて捧げないといけないと思った。
いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。
バベルの塔とは、こうして自分の中に立て上げあれる。


4彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。 5時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、 6言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。 7さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。 8こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
(創世11:4-8)



バベルの塔。この聖書箇所には大いなる皮肉がある。
どんなに私が高い塔を立てようとも、

さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

神はそれを見るために天から降りてこられなければならないほど
ちっぽけなのだ。もっとも、もちろん神は全てを見ておられるのだから私が塔を建てていることはご存じ
なのだが・・・

「いくらやっても次から次へときりがない。だが、それらをこなすときの中毒性のある快感と自信の
高まりが、毎月一か月間の時間のほとんどを会社で過ごす習慣を生み、人の好い性格もあって、
そこに週末も仕事をしなければという使命感・義務感を帯びた強固な習慣を作り上げてしまった。」


自分では偉いと思ってしまう。しかし現実は、私生活をおろそかににしていただけだった。
けれど、自分自身に目が向いている限り、その建造作業から手を引くことは難しい。


(2)イエスの受難日の大きさ
そんな建造作業も、昨日はイエスの受難日で中断した。

実際は仕事の疲れが蓄積したところへイースターの知らせが届き、有給消化の圧のタイミング
もあって自分自身の目が仕事から離れただけなのだろうが、イースターという福音の知らせが
なければ転換が起こらなかっただけに、これを神の御手の業(わざ)と言わずにはいられない。

36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。(マタイ福音書26:36-42)


受難が開始されるこの日、イエスが弟子に「〜してください」と頼んだのはこの一度きりかもしれない。
しかし、苦闘のさなかイエスが最も気にかけたのは、弟子ペテロのことだった。

33 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。(マタイ福音書26:33)

イエスは彼のこの言葉を心に留めておられた。この後に彼が最もつらい経験をし心が傷つく事への心配が
自分の受難のこと以上にイエスにとって、深い思い煩いとなっていた。

41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。今はよく休息しておきなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。(マタイ福音書26:41)

イエス自身は何度もご自身で受難を予告しておられたので、この日、受難の内容が「神から切り離される」
事だと知って驚き、心が騒いだ。
人としてのイエスは死ぬ。だが、人でしかないペテロはイエスの受難、すなわち神の怒りの鱗片に触れるときに果たして耐えられるだろうか・・・。


(3)受難のイエスの苦悩、そしてペテロは

かつてイエスは天に向かって次のようなことを祈られた。

22わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。 23わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 24父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい。 25正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。 26そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。(マタイ福音書17:22-26)

人は自分に起こったことを基本に物事を考える。
洗礼を受けたクリスチャンが世迷い出る原因として、クリスチャンライフが思ったのと違ったこと、
これが最も多いだろう。これは洗礼へのためらいの理由にも言えると思う。

神は愛だ。しかし、その愛は激しい。
人は刺激を望む。安定を望むのは疲れた人だけだ。しかしその疲れた人も、時が経てば別の希望をいだいて
また激しさの中に身を投じていく。

お釈迦様が人に対して涅槃(ねはん)を説くのはこのためである。幸福に刺激はいらない。心の安定・安心が
まず第一だとお釈迦さまは人々に説いた。

クリスチャンにとっての涅槃は神への信仰だ。神への信仰が安定していることで、そこから愛の授受へと
発展していけるので、信仰の無い人よりも結果として人生が幸多く実り豊かなものになると私は思う。

ところが先ほどのペテロにおいては、師であるイエスが神に殺される。しかも、ただの殺され方ではない。
イエスの無残な十字架刑の死に様を目にし、ペテロの信仰は揺らがないだろうか。これが神であるイエスの
心配だった。ましてや自ら神を呪い、神から切り離された生活を選択しないだろうか。イエスの脳裏には
かつてのアダムとエバの息子たち、兄弟のカインとアベルの末路が思い起こされたかもしれない。


(4)神との交わりのある生活、クリスチャンライフ

クリスチャンライフは残存する罪の中を神の思い沿って聖く(きよく)生きるライフステージを生きることだ。
冒頭の仕事に多くの時間を費やし私生活をないがしろにした私が、受難の日に神に目を向けたことで私生
活の乱れに気づき、神の下へ集い教会の兄弟姉妹とともに祈りながら、再び神が御子を見殺しにしてでも
与えたかった光のライフステージへ戻っていく営みが、幾度となく繰り返され、やがてその繰り返しの頻
度が少なくて済むようになり、幸福感が長続きする聖い(きよい)生活、聖書的涅槃の境地へと導かれていく。

この時に欠かせないのが、神への信仰と祈りだ。
人であるイエスに祈りがちだが、@祈りの本質は神への信頼、A被造物である不完全な自身の受容、そして
瞑想によるこの@Aの統合だと私は思う。時代に左右されない歴史ある堅牢なライフスタイルとして、
現在でも根強く愛されている。

ハレルヤだけがクリスチャンライフではない。
実際、特に日本の教会生活は、献金献上と無償労働の連続で大変である。献金献上は幕藩体制のそれと
似ているし、会社の労働と変わらず拘束時間が長いのに賃金は出ない。
また、教会独自のルールに生活が縛られ個人の生活の自由度は著しく低い。それはとてもハレルヤの一言で
片づけられるものではない。

クリスチャンがこれほどの不自由を負ってでも信仰に留まるのには理由がある。
それは一言で言えば「創造主である神の素晴らしさ」だ。

プロのプログラマーが勉強による拘束を嫌うだろうか。
プロのボクサーが減量と練習による拘束を嫌うだろうか。
バイクライダーが装備品の費用やツーリング計画に係るミーティングの拘束を嫌うだろうか。

自由度は実際、低くて良い。
自分を幸せに縛るものが信頼できるものであれば尚の事、人は喜んでその拘束の奴隷になれる。


実際、プロのプログラマーもボクサーもライダーも、例えば結婚し、それぞれの生活を守りながら、
幸せなライフステージを維持している。
意外にも自由度の高さを望む人ほど、きらびやかなライフスタイルを求めつつも生活費や労働の問題の多い
低いライフステージに留まり続けているようにも見えないだろうか。

洗礼は、イエスのような神が支配されるにライフステージにとどまる生き方の入り口だと思う。
扉は開かれているが、茨(いばら)である人間の思いで教会生活を覆ってしまったせいでその敷居は高く、
洗礼、そして信仰生活への入り口は狭い。

だが、教会生活の茨(いばら)を取り除け、神が用意された教会生活、聖さの保たれた制限されたライフ
ステージを得る資格は、私にも、また読者のあなたにも神の赦しのお墨付きで与えられているはずだ。

簿記の資格を取っても生かせない人がいるように、洗礼を受けてキリスト者の資格を受けても生かせない人がいる。生かせるか、生かせないか、その差の原因はどちらも同じで、勉強不足に違いない。

資格は取ったら終わりではない。
簿記も試験日までテキストで猛勉強した事は日常業務のほんの一部であるように、キリストも洗礼式を
終えたらハレルヤではない。裕福で有名なユダヤ人たちは子どもの頃からタルムードの金言集を膨大な
時間を費やして勉強し続けている。

日本人はいい話を聞いてハレルヤして一丁上がりで終わるのか。否、そうではない。
明日はイースター。我が教会も洗礼式があり、私も洗礼槽準備チームの一員で参加する。
当教会はバイリンガルで、奉仕と言えど通訳、音響・照明、受付、会計など職業人の宝庫だ。

どうか、明日も主の祝福がありますように。



2019年04月29日

天の富に対して良い管理人でいること

マタイの福音書25章14-30節の学び

GW最初の聖書勉強会の記録です。

以下が今日の聖書箇所でした。

25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。



討論会の記録

質問1. 
しもべたちは同じ金額ではなく、それぞれが異なった金額を受け取っています。もしあなたがしもべの一人だとすれば、どう思いますか。どうして主人はしもべたちに異なった金額を与えたのだと思いますか。

→(自分の回答)
大きな額は大きな責任を表します。主人は、各々のしもべの能力に応じて金額を分配していると書いてあります。ですから主人は、私たちに対して個々のレベルに応じたベストを尽くすことを要求しているのであって、儲けの金額が要求の趣旨ではないと思います。

質問2.
どうしてこの主人は、しもべたちに自分の財産であるタラントを預けて出て行ったのだと思いますか。


5タラントと2タラントのしもべが財産を渡されてすぐにその運用を始めたことから、ここでは運用しなさいという趣旨がこの場全員のうちで暗黙のうちの共通認識であったと思います。

質問3.
もしあなたがこのしもべのようにタラントを預けられたとしたら、どうするでしょう。


減らすと怒られると思い、自分への責めの回避を第一に考えて、財産を大切に取っておく。


質問4.
5タラント、2タラントを与えられた人と、1タラントを与えられた人を比べると、その行動が違っています。
その違いはどこから生まれるものだと思いますか。


1タラントの人は、自分が罰せられないことを第一に考えた。しかし他の二人は主人を信頼していたので、
主人の思いを正しく汲みとって、主人がするのと同じ行動を行った。

質問5.
この例え話で、イエスは何を言いたかったのだと思いますか。


私たちに与えられた天の者は、その管理する能力も同時に与えられていると信じなさい。


私の生活への適用


この勉強会の直後、これまで自分がチャレンジしたが、その後今日まで放置になっているものを
このGWを利用して整理しようと思いました。
起業しようとして立ち上げたブログや、アフェリエイトしようとして立ち上げたブログなどが
それにあたります。

これらはイエスと出会う前に肉の思いによって始められたものであり、
天から与えられて始めたものと違ってそれらを管理する能力もまた肉によるでしょう。

しかしながらイエスを信じて罪を赦された私であるなら、私の過去の罪の記録は
無かったことにされたと(義とされた)と書いてあります。

であるならば、過去に立ち上げた過去のブログなども罪としては記録されておらず、
思いが一新された現在からこれらを見れば汚れたものであって
放置し、近づかないようにするのは当然だと思われます。

しかし、主のしもべとなった私には、これらの罪の遺産はむしろ
主の贖いによって私が得た清めの力を実践する場として好都合ではありませんか!

肉の思いから出たものだからとすっかり忘れていたものが
この勉強会の直後に思いの中に湧いてきたのは単なる偶然でしょうか。

否、そうではありません。
汚れているものを清く正そうする思いは、これまでの発想には無かったものです。

ではそれは誰が私の思いの中に入れたものですか。

それは聖霊に違いありません。

私が今持っている能力の聖性とのつじつまは主がこれから合わせてくださるはずです。

主は弟子たちにただ信じろと言うのではなく、
必ず証を持ってご自身の栄光を彼らが信じるためにセットでお示しになられました。

ですから、救われた結果、清めの使命と力を私が与えられたなら、私がそれを確信するための
清められるべき対象も与えられていなければおかしいのです。


さて、主の清めの栄光を表していくため召されたのなら
まずどこから清めるべきでしょうか。

それは自分の足元から始めるのが最も理に叶っています。
何故なら悪霊の攻撃の常套手段は、私たちの過去を引っ張り出してきて責め立てることだからです。

また足元というのは、その影響範囲はせいぜい自分とその周りのごく親しい間柄に限られます。
つまり、清めるべき対象として最もリスクが低い、難易度レベル1の場所なのです

起業が必要ならば、いずれ主がそう示されるでしょう。

ですから私はまず立って
自分の足元から主の次の御言葉が降るまでの備えをしておこうと思います。


それでは
恵に満ちた一週間を!

2018年05月22日

ルカの福音書 第15章〜神の御国の価値観とイエス様の愛を学ぶ〜

いつも聖書は当時のラビさんたちが使徒たちに語った通りに理解するのが
一番感動的だと思っている豆です。

感動した場面がありましたので、
今日はその感動を分かち合いたいと思います。

聖書は噛めば噛むほど味が増すスルメの様な
感動が味わえる歴史書です。

聖書理解の参考になれば嬉しいです。

まず、聖書箇所を確認します。


15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。 15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩(ほうとう)して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。 15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。 15:25ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 15:26しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 15:27しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』 15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
(ルカ15:11~32)




----------【以下、この聖書箇所のイエス様がされた「たとえ話」の解説】----------

まず、ここでの場面設定を確認しておきます。
場面設定は、以下の通りです。

15:1さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。 15:2すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。


すなわち、中央でイエス様が語っており、それを囲んでいる取税人、罪人(=売春婦=遊女)、そしてパリサイ人と律法学者がこれを聞いています。
ここまで見てきたたとえ話は、イエス様がパリサイ人と律法学者たちの質問に答えるかたちで話されています。


---------【以下、本文の補足】---------

15:11またこう話された。
「ある人に息子がふたりあった。・・・(以下略)


ここでの「あった」は、英語訳で見てみると「have」。原文のギリシァ語では
ビオイリという動詞が使われているので、英語訳の方が意味としては正しい訳です。
つまり、この話は二種類の息子がいることの対比を伝えようとしていることがわかります。

15:12弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。

ここで、このたとえ話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この「弟」を
周りで聞いている取税人、罪人のことだと想像していました。

ここでいう「身代」は父の財産、すなわち土地です。
当時のユダヤ人たちの相続では、親が生きている間、土地の所有権は親にあって、
その土地の恵もすべて親の物でした。ですから、相続したとしても、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていました。

ですから、パリサイ人と律法学者たちは、この父親のことを「なんと愚かな奴だ」と
思ったことでしょう。

また、当時のパリサイ人と律法学者たちの間では、取税人や罪人はその魂のけがれ故に
そのまま野垂れ死にするのが常識でした。
ですから、のちにこの弟が悔い改めますが、当時のパリサイ人と律法学者たちにとって「弟」のこの行為は
とんでもない、許しがたい愚行でした。
彼らは取税人や罪人たちが悔い改めるのを極端に嫌っていたからです。

15:13それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

ここでの「何もかもまとめて」は、
親が死ぬまではその土地を売るようなことはできないのが普通だと考えられていた中で、
この弟はそれの慣習を無視して土地を売って現金にしてしまったという意味です。

家に父といることから、少なくとも弟は独身。
また、当時のユダヤ人の間で独身であれば、それは18歳以下だと推測できます。

また、後の文脈によると、この弟はユダヤ人たちが忌み嫌う職業である「豚飼い」の手伝いをさせられることになるので、ここでの「遠い国」とは、豚を飼える主人のいる土地、すなわち異邦人の国であると解釈できます。

15:15それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

「豚飼い」はユダヤ人の間では最も忌み嫌われていた職業でした。
つまりこの箇所は、弟が「これ以上落ちることないところまで落ちた」ということの
たとえだと解釈できます。

15:16彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

「いなご豆で腹を満たしたいほど」とあるので、この弟は異邦人の国に行って、
不当に低い賃金で雇われていたことがうかがえます。

15:17しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。15:18立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

弟がここで自分が如何に愚かで、世間知らずだったということに気づき我に返ったことを受けて、
周りでこの話を聞いていたパリサイ人と律法学者たちは、この弟の悔い改めに対して
さぞや腹を立てたことでしょう。
彼らの常識では、取税人や罪人たちは、最後まで醜く死ぬべきだと考えられていたからです。

15:20こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。


パリサイ人と律法学者たちは、家に残っている父親と兄を、すなわちユダヤの地に残ってその地の戒律を厳格に遵守している自分たちと重ねていました。

ですから、弟が返ってきても、弟は放蕩の結果としての罰を受けるのが当然だと思っていました。

また、弟がまだ家までは遠い場所にいたとき、パリサイ人と律法学者たちは、この父親は当然
怒っていると思っていたので、父がこの弟の元へ駆け寄るなど思ってもいませんでした

イエス様は、それを承知でこの話をパリサイ人と律法学者たちに向かってしていたのです。

パリサイ人と律法学者たちにとっては、父は権威をもって弟が自分に近づいて
許しを請うまでそこに立っているのが当然だと思っていました。

一方、イエス様の語りの中では、この父は父なる神を象徴していました。
ですからイエス様は、父なる神は、あなたたちの思っているように権威に執着するものではなく、
悔い改めようとする者の前では、その権威を投げ捨てて、駆け寄ってその悔い改めを
喜んでくださるということをパリサイ人と律法学者たちに伝えようとしていたのです。


15:21息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

弟の悔い改めは、取税人と罪人たちの悔い改めを象徴しています。そして、
その悔い改めに対しての父親の行いは、父なる神のその「悔い改め」を祝福する様子を表しています。

「一番良い着物」とは、当時のユダヤ人の間でその子どもに与えられる最高の権利、
すなわち「長子(=今でいう長男)の権利」の比喩です。
ちなみに、指輪は権力。靴は弟が言うような奴隷などにはしないことの比喩です。

このたとえ話は、前(マタイ20:1〜20:16)の「あとの者は先になり、先の者はあとになる」のたとえ話が語られたあと、その内容を補足するように語られているたとえ話です。

「長子の権利」を最初に持っていたのは兄です。しかし、ここでは後から来た弟にその権利が譲られています。すなわちこのたとえ話のここでは、神の国における良いことの基準は、私たち人間における良いことの基準とは違うんだというイエス様の教えが含まれています。それを、イエス様はパリサイ人と律法学者たちに教えようとしているのです。

また、

15:23そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

イエス様はここで、神の国の価値観が、人間の価値観とは違うんだということを教えています。
「肥えた子牛」は、当時のユダヤ人たちの間では大宴会をしても皆に食べ物が十分に行きわたる量があります。パリサイ人や律法学者たちは罪人より自分たちが天の御国に入れると思っていましたが、イエス様がここで言おうとしているのは、どれだけ律法を守ってきたかということではなく、天の御国では、弟のようなの悔い改め、すなわち信仰の復活を喜びとしているんだということを言っています。つまり、ずっと前から律法を重んじ技による救いに執着しているパリサイや律法学者のような先の者が後にそのことに気づいて救われるが、ずっと不信仰だった弟のような取税人や罪人のような後の者の方が先に信仰に立ち返り先に救われることがあるんだ、それは先の者が後に救われ、後の者が先に救われることがあるんだよということを、イエス様は教えているのです。
ちなみ、「死んでいた」状態は不信仰の状態、「生き返り」とは、信仰に返った状態のことを指します。

そして彼らは祝宴を始めた。

この宴会のテーマは再登場です。宴会は天の御国を象徴しています。
弟が宴会に入っていること。
このことで、聴衆たちは罪人だった弟が悔い改めて天の御国に入れてもらえた姿を想像できたと思います。
弟は、悔い改めた取税人、罪人の象徴です。

一方、兄はイエス様の周りで聞いているパリサイ人と律法学者たち、
「自分は悔い改める必要がないと思っている人たち」の象徴です。

兄は、弟が宴会に入っていることを喜びませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちが罪人が救われることを好まなかったことを表しています。

兄は、宴会に入ろうともしませんでした。
これはパリサイ人と律法学者たちは、イエス様のメシア性を否定していたからです。

そこで父が来て兄をなだめています。

15:28すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

人間の父親ならこのようなことはあり得ませんが、
ここでの「父」とは天の父なる神様を象徴しています。
つまり、神様はご自身を否定する人たちをも宴会に招いてくださるお方なのです。
そのことをイエス様は伝えようとしています。

父は、兄が宴会に入るよう勧めています。
つまりここでは神が、あなたたちもイエス様をメシアと信じれば宴会に入れるんだよと言っているのです。

兄も本当は宴会に入りたいはずなのです。
でも、兄は宴会に入ることを拒否しました。
だったら自分も入ればいいじゃないかと思うのですが、
つまり、ここでの兄はいじけているんです。

兄は言いました。
15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

つまり、
ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
どうして律法を守らない取税人や罪人たちが宴会に招かれているんだ。

そう言って、パリサイ人と律法学者たちは、イエス様が提示した神の御国に入ることは拒否したのです。

当時のパリサイ人と律法学者たちがイエス様をメシアだと認めなかったのは、
イエス様が神聖なお方であるメシアならば、あのような取税人や罪人と食事を共にすることなど
あり得ないと思っていたからでした。

確かにイエス様が罪人と食事をしたことは事実です。ですが、パリサイ人と律法学者たちとも食事を共にされていたのです。イエス様はすべての人が御国に入ることを願い、すべての人を招かれたのですが、兄の態度は、実に侮辱的でした。

15:29しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。

ずっと律法を守ってきた自分たちを差し置いて、
これはそもそも、律法を守ることを自分たちは自発的に喜んでやったのではなく
嫌々やってきたことを自分で言っているようなものです。

15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。
兄はここで
「なのに自分は宴会を開いてもらったことがない」と言っています。

さて、ここで
弟が帰還したことで兄は何か失ったものがあるでしょうか。

ありませんよね?

兄にはもともと、父と一緒にいる喜びと、財産の所有権が与えられていました。
だから兄もずっと父の愛の中にいたのです。

15:31父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
そうです。でも不幸なことに、兄はそのことにに気づいていないのです。

ですからこのたとえ話の中で父は兄と物理的にはずっと一緒にはいましたが
精神的には兄も無くしていたことがうかがえます。

だから最後に父はこう言ったのです。
15:32だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

これは単に弟のことを言っているのではありません。
父は弟のことを「おまえの弟」と呼んでいます。

ですが兄は、その弟のことを

15:30それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、

と、このように「あなたの息子」と呼んでいます。

ここがイエス様と兄、つまり、神と人間の決定的な認識の違いです。

本来、父にとってはどちらも大事な息子たちなのでです。
兄は「あなたの息子」は、「あなたの弟」だと気づくべきでした。

ここでの内容でイエス様は兄、すなわちパリサイ人と律法学者たちに
父なる神にとっては、私たちは皆兄弟であることを教えようとされておられたのです。


この「兄」の自己認識は歪んでいます。
このことは、パリサイ人と律法学者たちにも言えます。
パリサイ人と律法学者たちにはもともと選びの民として神の啓示の言葉が委ねられていたのです。
まさに兄と同じでした。
ですからこの話を聞いている現時点でパリサイ人と律法学者たちも
神の祝福の宴会に入れる位置にいたのです。


それなのに彼らは、自分たちでイエス様を否定し、宴会に入ることを拒否したのです。

イエス様は、この状況を大変悲しんだと思います。
しかし、パリサイ人と律法学者たちには、
その御心がわからなかったのです。

彼らは技による救いを求めていましたが、イエス様が言っておられるのは
天の救いは、技ではなく愛によるものであるということをここでは伝えたかったのだと思います。



----------【「たとえ話」の解説】ここまで----------

パリサイ人と律法学者たちは、自分達はずっと苦労してきたのだから
誰よりも先に天の御国に入れると思っていました。
彼らは自分たちは救われるのだから悔い改める必要はないとさえ思っていたのです。

豆もこのような経験が思い当たりました。
豆たちは頑張っているのだから、成功は与えられて当然だと考えがちです。
ですから成功しても喜びは少ないですし、
成功するまでの過程にある喜びなどは感じられるはずもありません。

ですが、このたとえ話での兄を見てもわかる通り、
兄にも神の恵みは与えられていました。
でも、兄が頑なだったばっかりに、その恵みに気づくことができなかったのです。

パリサイ人と律法学者たちも同じで、
どんなに昔から律法を守っていたとしても、
神を神とも思わない態度では決して、神に近づくことはできません。

イエス様はそのことをパリサイ人と律法学者たちにも気づかせようとされたのです。
豆だったら普通、自分が挑戦されているときに相手の心配などしません。
ですが、イエス様はご自分が彼らに試みられているときにも、彼らの幸せを願っておられたのです。

天の父なる神様は、
今日も私たちの上に恵みを運んできてくださっています。
神様の深い愛を学ぶと
喜びを感じずにはいられません。ハレルヤ!

今週もあなたと共に歩めることを感謝します。
アーメン。


おしまい。

♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名:小さな祈り



2018年05月19日

聖書が教えてくれた、母の鬱との向きい合い方

昨日の記事で母の鬱についての不満を吐き出したら、
その晩久々にまた母の鬱がMAXになり、
家中が「またか。もうやめてくれよー」のとても悪い空気になりました。

このように母にかき回されるとき、
いつもは家族みんながそのようになった母を排除しようという空気になります。
もちろん昨晩も最初はそういう空気になったのですが、
昨晩の豆には少し、いつもとは違うことが起きたのです。

いつもは母に対しての怒りと、
もうこの家には居たくないとしか思いませんでした。

しかし昨晩は、もちろん母への怒りはありましたが、
それと同時に

こういう気持ちばかりだから家族がバラバラになるんだよな〜
という、なんというか

母に対する憐みというか、母を許すことができないだろうか〜

という
そういう気持ちが湧いてきたのです。

かつても母を理解しようと頑張ったことがありましたが、
そのときはどうしてもできず、結局母から離れることでうやむやにして
自分をごまかすことしかできませんでした。


ですから普通ではこのようなことはあり得ないのです。

ではなぜ、このあり得ないことが起きたのか。

それはきっと、
苦難の末、豆の「苦労ばかりさせる母を許せない」というプライドを
神様が砕いてくださったんだと思います。


思い起こせば豆がクリスチャンになったときも、
このように神様に頑ななプライドを砕かれて、
当時抱えていた問題はもう自力では解決できないということを受け止められて
重荷から解放された経験があります。

実際問題、そのプライドを捨てたからといって
それによって何か困ったことが起きたりはしませんでした。

そのことを思い出したとき

豆はこのように神様に砕かれるたびに
実は、神様に正しい道へ導いていただいていることに気が付きました。


そのようなわけで、
今回の豆は自分からプライドを捨てて、
神様に「母を救ってください」と祈ることにしました。

本当は豆のことを一番救ってほしいのです。でも何故か、
豆を救ってくださいと祈ることは間違いであるかのように思えます。


***以下、神様に砕かれ中***

なぜならば、
まず第一に、豆はもう神様に罪を全部許してもらっています。
神様に許してもらってる豆にはもう、それ以上の許しは必要ありません。
ですから父なる神様を見習って、自分が恵みを与えらたように、
今度は豆が恵を与える番です。

母のように鬱になる人の鬱症状が起きる原因のほとんどは、
自分で自分を責めているせいです。

自分で自分を許せないから、
あのような問題行動を起こして豆たちの気を引いて、
自分を豆たちに許してもらおうとしているのです。

でも実際は、たとえ豆たちが「いいよ。許してあげるよ〜」と言っても
母のような人は救われません。
それどころか、
許されるはずがない自分が、
しかもわざとわがままを言って相手を困らせて許されるような
罪の上塗りをしてしまったことを、一番自覚しているのは母自身なのです。


ですから豆たちが許したことでかえって罪の意識は増大しているはずです。

だから豆たちが優しくすればするほど益々母は苦しむことになるのです。

うつ病の人はこうして罪に罪を重ねることで、もう自分はとうてい許されることのない領域へ
どんどん自分を追い込んでいく負のスパイラルの中でもがくしかなくなっていきます。

ですから第二に、今この状況で
本当に救われなければならないのは豆より母の方でなければならないのです。

結局のところ、豆が救われたところで母が救われなけば、
その救いようのない母を見続けることに変わりはないので、結局豆は救われないことになります。
でも母が救われれば、神様が豆を直接救わなくても、
救われて憑き物が落ちたような顔をした母を見れば豆はそれで救われるのです。
(おお!確かにそうだ!母はそういう状態だったのですね!アーメン!)

******

さっきまで母にどう接していいかわからなくなっていた豆ですが、
今は母のために祈るという道を見つけることができています。

母を許せないという、
ついさっきまでの傲慢な態度はどこへ行ったのか。

今はとても清々しい、優しい気持ちになっています。

ああ、クリスチャンになったということは、
なんと素晴らしいことでしょう。

******

感謝します。
あなたが母を理解するために心を砕いてくださったおかげで
私は今、ようやく母を許せるような気がしてきました。

心が砕かれる前は自分でももう、どう接してよいかわからなくなっていて
もし今、あなたが恵によってこの心を砕いてくださらなかったら、
私はまた心を閉ざしてしまうところでした。

母のために祈る豆を
引き続き正しい方へ導いてくださるよう
お願い致します。
アーメン。




おしまい。

♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名:Above All


2018年05月16日

聖書が教えている結婚観、離婚観とは?

TVのニュースで女性の権利が拡大しているという
ニュースを見ていて、あるキーワードに違和感を覚えました。

それは「離婚」です。
結婚もまだな豆が離婚を心配するのはおかしいかもしれません。

国会でも女性の声をより反映させていく法律ができたようですが、
何でもかんでも女性が正しいというのには
いささか手放しでは喜べないのが本音です。

豆の家庭はいわゆる「かかあ天下」でしたが、良い面もあれば
悪い面もありました。
特に母が感情で家庭をかき回すのには、幼い頃から恐怖と怒りを
持っていました。やがて母が子どもらが全員就職して家に1人になる時間が増えると鬱になり、
それがまた家庭をかき回すのが豆はもの凄く嫌でした。

豆の婚期が伸びていることもこのことは少なくとも影響を及ぼしているような気がします。

そのようなわけで、女性の心の都合だけで結婚したり離婚したり
何でも女性の意見がそのまままかり通るのは
将来に対してもの凄く不安を覚えました。

そこで、真理を知る神様は、この豆の不安についてどうお考えなのかを知るために、
いつものように聖書に立ち返ってみたのです。

すると、やっぱりありました。離婚についての真理の箇所が
聖書にはちゃんとかいてあるではありませんか!

そのような訳で、今日は結婚、離婚について
できれば結婚したことのある、かつ離婚も考えたこともある女性の方に
聖書に基づく考え方の学びを豆に分かち合わせてください。
実際のリアルなお声をいただけたら尚、幸いです。

誠に恐縮ではありますが、未熟な豆に最後までお付き合いいただければと存じます。
どうぞ宜しくお願いします。

*****

結婚、離婚については、以下の聖書箇所で触れられていました。
新約聖書、マタイの福音書19章です。

19:3パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」 19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。 19:6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」
(マタイ19:3〜6)


結論から言いますと、
神様は本来、創造の秩序の中で離婚というものを創造していません。

また、旧約聖書の申命記には離婚について、モーセの律法の箇所に記述があります。

申命記 24:1)によれば
人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。

とあります。しかしこれは、モーセが、私が頑ななために、
離婚状をわたせば離婚して良いと
妥協しているのです。

ここでの「妻に何か恥ずべき事」とは何でしょうか。

聖書を正しく理解するためには、できるだけ聖書が書かれた当時のユダヤ人たちと
同じ視点を持って聖書を解釈しなければなりません。

ですから、ここで当時のユダヤ人たちの聖書理解と同じ立場に立てば、
離婚が見とれられるのは不貞(姦淫)だけです。

ここで注意すべきポイントは、2つです。

まず、1つめはモーセの律法の時代、すなわち旧約聖書の時代においては
離婚の権利があるのは男性だけです。

余談ですが、現在でのユダヤ教の地域では、
今でも法律で離婚が許されているのが男性だけだという地域が存在します。

それだけ、この時代でのユダヤ人たちの間では、男尊女卑のムードが強かったのです。

*****

イエス様がまだ生きておられたこの頃は、まだ旧約聖書の時代のムードが色濃い時代でした。

しかし、イエス様は
離婚の条件は「妻の不貞だけでなく、夫の不貞も問題にせよ。」と言われています。
つまり、女性だけでなく、男性側にも問題があるだろう?と指摘されているのです。

これが、旧約聖書の時代から新約聖書の時代になって
モーセの律法から解放された後の、新しい離婚に対する考え方なのです。

ではイエス様は離婚を認められたのでしょうか?
いいえ。違います。

この時代のイエス様は父である神様に従って、神の御心を伝えるお方でした。

神様の御心は完全で、永遠なものなので、旧約聖書の時代から新約聖書の時代に変わったとしても
その意図は、つまり真理は変わらないはずです。

ですから、イエス様が神様の結婚と離婚についてのお考えをどのように私たちに教えてくださっているのか、1つ1つの聖句をもう少し詳しく見てみましょう。

*****

パリサイ人たちが離婚について、
イエス様に

「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」

と質問したとき、
イエス様は次のように答えられています。

19:4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、 19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。

つまりイエス様はこう教えられたのです。

神様は初めから人類を男と女に造られたんだ。だから人(=男)は必ずその妻と結ばれて一心同体、
ようやくそれで一人前になるのだ。だから離婚なんてあり得ることではないのです。


(【お詫び】当時のユダヤ人たちの間では、男性にのみ結婚・離婚の権利が与えられていました。ですから、「(=男)」としたのは、女性は結婚・離婚を決める立場になかったんだということを強調するためです。これは女性を差別しているのではなく、聖書を正しく理解する上ではどうしても当時のユダヤ人たちが理解したのとなるべく同じ理解になるように、意味を理解しなければならないためです。気分を害された女性の方がいらした場合は、何卒、ご容赦ください。)

これは創世記で、まず男性のアダムが大地の塵から造られ、続いて女性のエバがその助け手としてアダムのアバラ骨から造られたことを言っています。

アダムの使命は人類以外の地上のあらゆる生物たちを神の御心に従って支配することでした。

人間の感覚ですと、支配者は一人でいいはずです。
人間は今でも支配者が複数いると必ず争いが起きますよね?

しかし、神様は(神様の感覚では)助け手としてエバをわざわざお作りになられたのです。

つまり、人類は男と女、二人で一人前になるように、神様は私たちをお作りになったのです。

そして結論、
19:5『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』

これが結婚というものの、神様の意図なのです。

ですから、
離婚はあり得ない。

これが、豆の離婚に関する聖書的理解です。

*****

私たちの天のお父様は、こうしてみると確かに
私たちは「妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になる」のが当たり前だと
おっしゃっておられます。

でも、
実際私たちは、離婚を禁止することはあり得ません。

では、この離婚というものを
クリスチャンである私たちはどのように考えたら良いでしょうか。

実は、ここに人間の相手を許せない性質が現れているのだと
豆は思います。

前回の記事「恵みを受け、恵みを与える」で、
如何にクリスチャンにとって「許し」の聖書的理解を深めることが重要なのかを
まとめました。

それを基に考えてみると、
どうしても離婚から執着が離れないときの処方箋として
神様の御心に関する豆の結論はこうです。

離婚ではなく、許しと和解によって結婚を継続すること。

これが、神様が望んでおられる
私たちの結婚というものの在り方なのだと、豆は思います。

結局のところ、離婚問題も、その要は「許し」と「プライド」の問題に集約されるのです。

「あの男を許せというのか!」と怒る気持ちはわかりますが、
それこそ神様の深い愛と、自分がどれだけ神様に許してもらったかに立ち返り、
「許し」を実践すべきです。

それは何も相手のことだけではないでしょう。

未熟だった自分を許したり、おのおのの育った環境や今の状況を許したり、
許す対象も1つではないはずです。

それでも「やっぱり許せない!」
その通りでしょう。

それでいいのです。
私たちはそうやって「どんなに頑張ってもできないことがある」
ことを学ぶのです。

そうすると次は自然に

「ああ、神様・・・お願いします。。。どうか私に・・・させてください。」
と祈りたくなると思います。

18:4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。
(マタイ18:4)


そのような訳で、イエス様は私たちの信仰が育つためには
そのような自分の弱さに気づき、単純な信頼を持って神様に近づく、
まるで子どものような心に立ち返ることが
何よりも大切なのですとお教えくださっているのです。

ですから、前回も触れましたが

1、プライドの問題
2、兄弟たちに対する許しの方法
3、許しに関する理解


この3つの聖書的理解をしっかりと深めていくことは
クリスチャン生活を本来あるべき自由で、ダイナミックなものにするためには、
やはり不可欠なのです。



おしまい。

♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名:Broken Vessels


2018年05月14日

恵みを受け、恵みを与える



国王に対して一万タラントの借金をしていた人が、国王の憐みによってその一万タラントを許された。
でもその許された人は、100デナリの借金をしていた友人を許さず返すまで投獄した。
それを知って怒った国王は、その人の一万タラントの借金免除を取り消して同じように返すまで投獄した。

という聖書箇所の解説メッセージを聞きました。

一万タラントと100デナリの対比は、現在でいう6千万円に対して100円というのと同じです。
つまり、ここでの聖書箇所は、自分は6千万円の借金を免除されたのに、お前は友人の100円の借金が
許せないのかということを指摘しているのです。

この箇所は、次の部分の例として出ている個所でした。

18:21そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」 18:22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
(マルコ18:21〜22)


このときのペテロは自分がとても寛大な気持ちだったと思います。
当時の使途の間では、3回までは許しなさいと教えられていました。ですが
ここでは7回。この数字は、3の2倍でも寛大なのに、さらにもう1回おまけして与えたというのが
実際でしょう。
少なくとも、豆だったらそう考えると思います。

ですが、それに対してイエス様は、7の70倍までも許しなさいと教えています。
ですが、ここでの7の70倍とは490回という意味ではありません。
もし、490回許しても491回目にやったら許さなくて良いということは
それはどのようなことでしょうか。

491回目はどうなんだ?と聞く時点で
実はこれはおかしいのです。

490回もその人は許した回数をカウントしていたことになりますが、
それは1回だって許したことにはならないはずです。

「許す」とは「水に流す」こと。
つまり、忘れることです。

つまりイエス様がここでペテロに教えていることは、回数ではなく、
「忘れなさい」と言っているのです。

なぜならば、ペテロ、あなたはもう父なる神様に許されているではありませんか。と。

*****

ここまで理解が進むと、先ほどの一万タラントと100デナリの借金の許しの例の
内容が見えてきます。

神様の愛は、計り知れないほど大きなものです。

そもそも私たちには罪を許してもらえる資格すらありません。
だって、アダム以降から脈々と続く神様に対する罪を償うことなど
私たちにはできないではありませんか!

それでも神様は、私たちが主イエスを救い主と信じたときから
私たちに永遠の命を約束され、私たちのすべての罪を許してくださいました。

それほど計り知れない許しを受けているのに、
なぜ兄弟たちのちっぽけな罪が許せないのですか?
そんなもの忘れてしまいなさい。


そう、イエス様は聖書を通じて私たちに語りかけてくださっているのだと
豆はこのとき思いました。

*****

それでも私たちは、神様に許してくださいと祈りながら、
「でもあの人だけは許せない!」と、なかなか兄弟たちの罪が忘れられないものです。

ですからイエス様はここでも念を押して言われました。

18:18はっきり言っておきます。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれるのです。
(マタイ18:18)


ここで、「つなぐ」とは禁止すること。また「解く」とは許可することです。
これは主イエスが自分が死んだ後に使徒たちがどのように振舞えばいいかを教えている場面です。
このとき主イエス亡き後は、使徒たちが人々を導く、それがどういうことなのかをイエス様は
心配しておられました。

ですからここでイエス様は強調して、
「私は神以外の何物の奴隷にもならない。」というプライドを持てと
使徒たちに教えていたのです。

*****

さて、私たちは現在どのようなプライドを持っているでしょうか。
クリスチャンの持つべき正しいプライドは、今まさにイエス様が述べていた通り
「私は神以外の何者の奴隷にもならない。」というものです。

ですが、豆も含め、多くの兄弟たちは
人と比べ、妬む。
そのようなプライドを持っているのではないでしょうか。

それほど計り知れない許しを受けているのに、
なぜ兄弟たちのちっぽけな罪が許せないのですか?
そんなもの忘れてしまいなさい。


イエス様は先ほどそう言われましたね?
ちっぽけなプライドなど捨てなさいと。

それは何故かというと、
そのような自分というものに執着するさまざまなプライドを持っているせいで、
本来、この世のあらゆる束縛から解放された自由なクリスチャンライフが
満喫できなくなってしまうからです。

そんなもの忘れてしまいなさい。

この言葉はまさにそのような私たちの心の開放を促している言葉です。

2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ神の御心は何か、すなわち、何が良い事で、
何が神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって、自分を変えなさい。
(ロマ書12:1~2)


「この世」とは、「この時代」と訳します。
また、「合わせる」という動詞は、原文のギリシャ語では受動態の動詞が使われています。
受動態が使われているとき、その動作の主体は自分ではなく、自分の外にあるということです。

また、ここでは否定命令文が使われていて、英語で言うA but B、
「Aではない。Bである。」の論法になっています。

それらを踏まえるとここは、次のような意味の理解になります。つまり、

「この時代」が、何らかの意図を持ってこちらを操作しよう強烈にこちらに働きかけてくるけれど、
しかし、その意図に従ってはいけません。


ほら、ここでも時代の流れに流されるなという心の解放の教えが説かれています。
繰り返しますが、クリスチャンの立ち位置は

「私は神以外の何者の奴隷にもならない。」

その軸のみです。クリスチャンである私たちは
変化する時代の価値観ではなく、時代が変わっても変わらない聖書に立ち返ればいいのです。

聖書は神様の栄光の書。栄光とはプライドのことです。
それは、神様の預言は必ず成就するという
完全で、永遠な、この世界の真理です。
真理は、時代の環境や人の世論などで変わったりはしません。

私たちクリスチャンは、その変わらない真理によって、恵みによって
守られています。

だからこそイエス様は、
神様の愛の中にあるのだから、ちっぽけなプライドは捨てなさい。
自由になっていいんだよ〜
と言ってくださっているのです。

*****

私たちの肉の心では常に、誰が1番か、などと優劣のプライドを持っています。

(正):私は神以外の何物の奴隷にもならない。
(違):人と比べる。妬む。

間違ったプライドを捨てることは、なんと難しいのでしょうか。
使徒たちですら、イエスの十字架による死を前にして
誰が一番偉い弟子であるかを競っています。

18:01そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 18:02そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 18:03言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。 18:04自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
(マタイ18:01~04)


それに対してイエス様は、
そうではない。神の愛の中では皆、家族なのだ。愛されているという真理に、順番などあるだろうか。
と諭しています。

子どもは自分の弱さを知っているが故に、父親や母親に全幅の信頼を置いていなければ
生きていくことができません。子どもの頃に虐待を受けた人が大人になっても傷を引きずるのは
このためです。信頼してすがるしかなかったが故に、その傷はもの凄く深いのです。

このような、子どものような
自分の限界を知って、単純な信頼を持って神に近づくということ。
これがクリスチャンの基本姿勢です。

そもそも両親に子どもたちが信頼を置いている家庭では、
子どもたちの間に誰が一番だというふうな順位付けはありません。それは家族だからです。
おのおのがおのおのの特徴を認めることができ、互いに等しく愛に包まれて生活しているからです。

神の恵みを受けた人、つまり神の恵みがどれくらい大きなものかを受け入れた人は、
どんなに小さな価値のないと思えるようなものであっても、等しく、それを受け入れるようになります。
神様は誰に対してもその人に応じた最も必要な愛を恵みとして示されるだけです。
そこに、恵みの大小に関するプライドが論じられる余地はないハズです。

ですから、恵みにどれだけ応答でき、神のご計画の進展に協力したかが問われる天の御国では
子供のように自分を一番低くするものが、一番評価されるのです。
それは御子イエスの愛の性質に、愛に素直な子どもの性質が最も近いからです。

*****

まとめると、

恵みを受け、恵みを与えるその基本的な考え方は、
神様の愛から出ています。

そして、その愛をきちんと理解したならば、
その受けている神の神格(人で言う人格)を信頼しているが故に、
神様と同じように、兄弟たちに恵みを与えられるはずです。

このとき、
恵みを与える方は、神を信頼するというプライドのみしかなく、
恵みを与えられる方には、その恵みの大小を他人と比較するプライドは生じ得ません。

それは、赦し(=許し)についても同様です。
許すことは恵みを与えること。
神を信頼するプライドに立つならば、その与える恵みもそのプライドに沿って
ぐちぐち言うことなく、サッと忘れて水に流す恵みの形をとるはずです。

こうして私たちは信仰によって御子イエスの人格に近づくとき、
おのずとこの世の様々なプライドから解放され、大胆かつ自由に振舞うことが
できるようになります。

ですから私たちは

よく教理を学んで、まずよく知識を増やします。
そして、自分の心が神様が喜んでくれる状態かどうかを意識します。

あなたが御子イエスの人格に近づいていっているというプライドによって
自身の振る舞いが大胆、かつ自由になると、
その心が、あなたの周囲の人間関係に反映され
「この時代」などの環境の変化に関係なく、
いつも愛と喜びにあふれた生活を送れるようになります。


神の愛、すなわち、
あなたの「お心」ではなく神の「御心(みこころ)」に従って
もっと大胆に、
もっと自由に生きようではありませんか!

これが、クリスチャンライフの醍醐味です。


おしまい。


♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名: This Is Amazing Grace


2018年05月12日

豆が思う、仏教とキリスト教の違い。

「なぜ、仏教からキリスト教へ移ったのですか?」

仏教が戒律ありきの頑張り信仰なのに対し、
キリスト教はイエス・キリストを救い主と受け入れることで始まる
非頑張り信仰だからです。

日本人は、頑張った結果、幸せになるのが好きです。
とりわけ頑張った結果、人より良い思いをしたいと思う傾向が
最近は特に強くなりました。

豆が、頑張り信仰は駄目だと思う理由は2つです。

まず1つ目。
人間は、頑張ってできることなどはこの世にほんの少ししかないと思うからです。

「私は無神論者です。」という現実主義の人はおそらく、
自分の限界と向き合った経験がないか、
論理的な神学的な観点を
非論理的なスピリチュアルな世界と勘違いしているのだと思います。


そして2つ目。
頑張り信仰の人たちには、自分に執着し過ぎな人、すなわち、
自己中心的が多すぎるからです。


*****

ここで、未信者のクリスチャンに対する誤解をいくつか紹介します。

教会に来るクリスチャンのようなふりをしている人たちは皆、
神様をご利益がもらえるものだと勘違いしています。

天の父なる神様は、確かに一方的に恵みを私たちに注いでくださいますが、
それは福音の三要素を信じたクリスチャンだけです。(※1)

ご利益信仰の神様は、すべての人に対して門を開き、
かつ誰でもそこにいくとご利益がもらえる神様です。
しかし、
キリスト教の神様は、すべての人に対して門を開いてはいますが、
イエス・キリストを救い主と受け入れていない人の願いは受け入れません。

クリスチャンに対しても多くの人が誤解をしています。

例えば、クリスチャンになったら毎日が必ずハッピーになる訳ではありません。
それどころか、精霊の働きによって不安や苦難は一層増えます。

また神様も恵みを一方的に与えてはくれていますが、
私たちがその恵みを実感するためには、神様の恵みに応答しなくてはなりません。

そして、その神様の恵みは、クリスチャンに内住する精霊の働きがあって
私たちがはじめて応答できるものです。
この精霊はとても紳士であるので、私たちの自由意志をとても尊重います。
逆に言って、少しでも私たちに我の思いがあれば、精霊はそれを尊重して後ろに隠れてしまいます。

精霊が隠れてしまうと私たちは恵みに応答することができません。

不幸にも、私たちが本当に神様を信頼し、どうか神様〜!と祈る心境にならなければ、
精霊は私たちのために働くことができないのです。

私たちが神様にすがるときはどういうときですか?
私たちが神様に祈るときは決まって、自分ではどうにもならない間違いを犯してしまったときです。

*****

聖書で神様の基準を学ぶと、本当に豆たちは
生かされているんだなぁ〜ということを感じずにはいられません。

聖書が教えている神様の基準は、完全でかつ永遠のものです。
完全かつ永遠は、正義であり、真理です。

ですから、
聖書的基準で生きることは、正義の基準で生きることと同じです。

ですが、この基準で物事を捉えることは、
クリスチャンといえど、なかなかできるものではありません。

もし、これが仏教なら、このような私たちにできないことが出てきたときに
「あなたは〇〇をしてきましたか?なぜしてこなかったのですか?」と、
できなかったことを指摘する説教がはじまります。

言われた人は、言われる度にできなかったことばかりに執着してしまいます。
当然、未来は暗〜くなります。

一方、クリスチャンであれば、そんなことはなりません。
イエス・キリストを救い主として受け入れれば、
その人は直ちに救われます。

できないことがあっても神様は責めません。
創造主である神様は私たち一人一人のことを髪の毛一本まで全てご存知なのです。
できないことを悲しむとき、神様はそれを憐れんでくださいます。
そして神の恵みを与えてくださいます。

どうですか?未来は、とても明るくなりますよね!


聖書理解が進むと、私たちはこれまでの過ちに対する気づきが起き、それによって
その都度悔い改めが生じます。
この悔い改めによって私たちは、その都度神の御子、イエス・キリストに近づくことができます。
それは結果として、神の基準が理解できる人格、
すなわち、完全で永遠な、正義の真理に基づく人格に、私たちの人格が作り変えられること、
それは、より精霊の声が聞こえやすく、神様の恵みに応答しやすくなるのです。

*****

福音の三要素を理解し、イエス・キリストを救い主と受け入れると、
ライフスタイルが、精霊の働きによって、非常に合理的かつ論理的な一貫したものへ
変わりはじめます。

また、イエス・キリストを救い主と受け入れた途端、
神様というものが、とても身近な存在になります。
これは非常に心強いものです。

豆が仏教の頃は、自分を戒めるばかりで生活に潤いがありませんでした。

ですが、神様と出会って、イエス・キリストを救い主と受け入れてからは、
神様との平和のもと、とても開放的な生活になりました。

聖書には、洗礼を受けなければ救われないとは
どこにも書かれていません。
書かれている救いの条件は、福音の三要素を受け入れているかどうかだけです。


もし、少しでも生き方に軸が欲しい思ったならば、
変なプライドは捨てて、素直に神様の招きに応答してみるのが良いと思います。

あなたにも、神様の招きが聞こえますように。



おしまい。

♪♪♪今日の聖書ミュージック♪♪♪

曲名:Blessed Be Your Name


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【注釈】
※1・・・福音の三要素(過去の記事を参照

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最近、紹介で教会に通い始めた豆です。神様の恵みの素晴らしさを研究し、分かち合っていきたいと思います。よろしくお願いします。
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