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2017年11月14日

仏に学ぶ 悲しみの力
 帝塚山大学教授 西 山(にしやま)  厚(あつし) 

仏に学ぶ 悲しみの力
帝塚山大学教授 西山(にしやま)厚(あつし) 


http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-686.htm 

一九五三年、徳島県生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本仏教史。奈良国立博物館学芸部長を経て、二○一四年四月より帝塚山大学文学部に新設された文化創造学科の教授に就任。奈良国立博物館では「女性と仏教」など数多くの特別展を企画。奈良と仏教をメインテーマに、生きた言葉で語る活動を続けている。鎌倉時代の仏教への関心から始まり、時代と内容を次第に拡大。現在は、仏教を中心に、人物に焦点をあてながら、日本の歴史・思想・文学・美術を総合的に見つめ、書き、生きた言葉で語る活動を続けている。

 き き て   柴 田  徹
 
西山: 知るということは、凄く大事なことです。知る。知らなければ無いのと一緒ですからね。知るということは凄く大事なんです。

ナレーター: 奈良帝塚山大学教授の西山厚さん。去年の春、この大学に来ました。それまでは奈良国立博物館で三十年に亘り仏教の文化財を中心に調査や展示の企画に取り組んでいました。
 
西山: 一二五○年も前に死んだ人ですよ。赤の他人ですよ、関係ありませんけど。でも知ると、そういうことができるようになるんです。そして近付くことができる。
 
ナレーター:  西山さんが、ズッと心掛けているのは、歴史上の人物を自分そのものとして捉え、その立場になって物事を考えるということです。
 
西山: 何か知ったことによって、何かをやりたくなったり、行動したくなる。なんかそれだけの力が、エネルギーが生まれてくるとこがあるんですよ、ほんとに。そしてこれは私の考えですけども、苦しみや悲しみの中からしか生まれてこないものがあるというのが、私の人生観の一番大事な部分なんです。
 
ナレーター: 西山さんは、奈良に足場を置いて研究を続けています。大学の授業でも、奈良という地の利を活かして歴史ある寺などを訪れ、人々が受け継いできた文化の息吹を体験する現地見学を大切にしています。
 
西山: 天皇が日本の国を仏教の力で平和にして、仏教の力でみんなを幸せにしよう。国全体が幸せになるということは凄く大事なことなんですね。で、奈良時代は特にそういう考え方が強くて、そのお祈りをする一番大事な場所は此処だったんです。
 
ナレーター: 今回の「こころの時代」は、奈良帝塚山大学教授の西山厚さんに、三十年あまり研究に取り組んでいる仏の世界を聞きます。
 
 
柴田:  今の大学で若い人たちを対象に仏教というものを教えていらっしゃるわけですけど、若い人に教えていて気付きとか発見とか、そんなものはどんなものがありますでしょうか?
 
西山: 仏教の話をしているわけではないんですが、奈良の歴史・文化、特に仏教中心に。若い人たちは、良い意味で何も知らなくて、だからこちらの話をほんとに一生懸命素直に聞いてくれていて、それが染み込んでいく様子がとても感じられます。

柴田: 教える中で知識として分かっておくことと、またその先に先生が伝えたいことというのがあると思うんですね。例えば「奈良の」という言葉を言ったら「大仏」というふうになるんですけど。
 
西山: 大仏は、奈良時代、奈良に都がある奈良時代に聖武(しようむ)天皇(奈良時代の天皇。在位724-749年)が造ったわけですね。聖武天皇がどうして大仏を造ったのか、というその一番根本・根源のところが、最後の最後まで一番大事な部分だと思うんですね。それは極論すれば、分からない筈なんですよ。聖武天皇以外の人間には分からない筈なので、私が聖武天皇という人にとても興味を覚えるようになったのは、聖武天皇がとても苦しんでいる人だったからです。聖武天皇の時代はなかなか大変な時代で、雨が降らない。干魃、飢饉、それから大きな地震が起きたり、あるいは天然痘という病気が大流行したり、そういう中でも内乱が起き、人が戦い殺し合う。そして自分の子どもも死んで、聖武天皇は。そういうことがズーッと続いているわけですね。聖武天皇は、ほんとにすべての生あるものが幸せになって欲しいということをほんとに思っていた人なんですね。ところが現実はその逆、逆、逆・・。しかも聖武天皇は、それは全部自分のせいだと考えていた。自分の政治が悪いから、天が罰を与えるのだ。ほんとにみんなを幸せにしたいと心の底から思っているのに、現実は逆で、しかもそれは自分の責任だとなると、聖武天皇は凄く苦しむわけですね。私は、歴史を学ぶ時に一番大事なことは、「他人事にしない」ということだと思っています。つまり聖武天皇は、他人なんですよ。一二五○年昔に死んだ赤の他人ですけど、そう思っている間は理解できなくて、そういう人である聖武天皇は、そういう状況の中でどんな気持ちになっていたんだろうか。苦しむというんだけど、どんなふうに苦しんでいたのかを想像してみる必要があるんですね。それをすることが絶対に必要で、ほんのわずかなりとも、その聖武天皇の苦しみを想像できた人だけが、聖武天皇のことや大仏のことや、奈良時代のことを理解できるようになるのではないか、と思っています。聖武天皇は、ほんとにその苦しみの中で「大仏を造ろう」ということを思い付くんですけど、その時に聖武天皇は不思議なことをいう。「大きな力で造るな。たくさんの富で造るな」こう言うんですね。変ですよね。どうしてそんな変なことを言うのか。じゃどうするのですかというと、またまたおかしなことを聖武天皇はおっしゃっていて、「一本の草を持ってやって来て、私も大仏作りを手伝いたい≠ニいう人がいたら、その人に手伝って貰いなさい。土を握ってやって来て私にも協力さしてください≠ニいう人がいたら、その人に協力して貰いなさい」ということを、聖武天皇はおっしゃるんですね。一本の草なんか持って来て、何の役にも立たないですね。大きな力の方が、沢山の富の方が絶対役に立つと思いますけど、聖武天皇は、一本の草を持って来て、「私にもやらせてください」みたいな人と、どうも大仏を造りたいらしいですね。その造っている最中に、日に「毎日三回その大仏を礼拝せよ」と言うんですね。無いのに。これから造っていくのに。日に三度礼拝せよ。そして関わった人が、「みんなそれぞれ自分の心の中に自分の大仏を作れ」ということをおっしゃっているんですけど、その聖武天皇の発言というのは、もの凄く深いものがありますね。いずれにせよ、聖武天皇が、大きな力ではなく、たくさんな富ではなく、誰が考えたって何の役にも立たないような、一本の草持ってやって来たような人たちと大仏を作りたかったことは事実であり、そしてそういうやり方で大仏は出来たんですね。大仏様造りに関わった人は、二百六十万人という記録が残っています。当時の日本の人口はおよそ五百万人くらいと推定されているので、およそ半分ですね。直接に間接にほんとに多くの人たちが、小さな力を集めて大仏は出来た。それでじゃ大仏が出来て世界は変わったのか。ほんとに生あるものが、みんな幸せになる世界になったのか。ちっともならないですね。聖武天皇は、大仏を作ろうという理由を、ちょっと現代語訳して言えば、「すべての動物すべての植物が共に栄えるような世の中を作りたい。だから私は大仏を造ることを決意した」ということを言っておられるんですね。人間のためではないんです。すべての動物の中には人間も含まれるとして、人間のためだけに作ったわけではない。ほんとに生あるもの、みんなのために。その聖武天皇が言われたことをよくよく読み考えると、聖武天皇が目指していたもの、求めていたものは、それは凄く深いもので、そう簡単に説明できないような、そういう世界があると思っています。
 
ナレーター: 聖武天皇の願いが叶って大仏が完成したのは、天平勝宝(てんぴようしようほう)四年(西暦七五二年)。今から一二六○年あまり前のことです。しかし、今に至る長い歴史の中で、大仏は二度戦に巻き込まれて焼かれているのです。最初に焼かれたのは、今から八○○年あまり前、平安時代末のことでした。

西山: 源氏と平家の争いの時代、東大寺は源氏の側についていたので、平家が、「焼け」と焼かれてしまうわけですね。その時大仏殿には千人ぐらいの人が隠れていたらしいです。ところがやがて大仏殿にも火が掛かって、大仏殿は焼け落ち、大仏さまは溶けてしまった。そして隠れていた千人はみんな焼け死んだんです。すべての動物、全ての植物が共に栄える世の中を願って、聖武天皇は大仏を造った。でもちっとも世の中は変わらない。大仏様の傍に居れば大丈夫だと思ったであろう千人の人は、みんな大仏と共に焼け死んだ。これが現実です。世界はちっとも変わらない。でもまた大仏を造りたいとみんなは思ったわけですね。でもとっても大変な事業。聖武天皇は、「大きな力で造るな。たくさんの富で造るな」とはいうけど、ほんとは大きな力、大きな富がないとなかなか出来ないものなんで、なかなかちょっと出来そうになかった時に、今度は重源(ちようげん)(平安時代末期から鎌倉時代の僧:1121-1206)というお坊さんが現れて、「よし、儂がやってやろう」と言ってくれた。勿論お金は無い。日本中を廻って寄付を集めることになったんですね。その時に重源さんの寄付集めのやり方というのは、「尺布寸鉄(しやくふすんてつ)といえども」という言葉が重源さんの勧進帳に残っています。「尺布」でもいい、「寸鉄」でもいい。「尺布寸鉄といえども」―「尺布」というのは、一尺の布ですから三十センチぐらいの布ということですね。あんまり役に立たんわけですね。着物作って、後ちょっと残っているくらいですね。「寸鉄」というのは、一寸の鉄ということで、三センチの鉄―鉄釘一本とか、それもそう大したものでない。でもそれでいいんだと。そういう表現は違うけれど、聖武天皇と同じやり方ですね。「一本の草、一握りの土」というのと、表現は違うけどもまったく一緒だ。そして大仏は出来た。小さな力をたくさん集めて大仏は出来た。でも、実はまた焼かれるんですね。今度は戦国時代に。今度はなかなか復興出来なかったんですが、百年ほど経った時に、公慶(こうけい)(江戸前期の僧侶:1648-1705)というまたお坊さんが登場して、公慶さんが大仏を復興してくれる。公慶さんも日本中廻って寄付を集めるんです。その勧進状趣旨を綴った文章の中に「一針一草(いつしんいつそう)の喜捨(きしや)」一本の針、一本の草、「一針一草の喜捨でいい」ということが書かれている。この「一本の針でもいい、一本の草でもいい」これってまさに「一本の草」は、聖武天皇のおっしゃった通りだし、それから「一本の針」というのは、重源さんは、「寸鉄」と言って、さっきは「鉄釘一本」とかと言いましたが、鉄の針だったらまさに寸鉄になるわけで、聖武天皇、重源さんと同じことを言っているわけですね。聖武天皇の時代からすれば、九○○年くらい経っていますけど、また同じようなことを言って、小さな力を集めて大仏を復興しようとする人が出てくるわけですね。そしてそんなやり方で大仏は復興し、それが今の大仏さんなんですね。聖武天皇の願いというのは、「すべての動物、すべての植物が共に栄える世の中」そんな世の中なんかある筈ないし、すべての人間がみんな幸せになる世の中だって、私はあり得ないと思っているんです。人は考えが違うから、何が幸せかも違ったふうに考えているから、人が幸せを求めて殺し合うのであって、人類で今までズーッとそうしてきたし、今もそうしているし、これからもそういうことを続けていくんだろうと思うんですね。すべて人間が共に栄える世の中さえ、ましてやすべての動物、すべての植物が共に栄える世の中なんかある筈ないと思っていますけど、なのに何で重源やら公慶やらですね、何百年も経って、また同じような考えで大仏を復興しようとする人たちが出てくるのか。そして公慶さんが亡くなってから、もう三百年以上が過ぎましたけど、またここでこんな話をしている人間がいて、聖武天皇の願いは、聖武天皇の夢は永遠に叶えられる筈はないんだけど、何故聖武天皇のことを思い出す人たちが、時を超えてズッと現れ続けるのかというのが不思議なものですね。

柴田: 聖武天皇の願いが、今この千三百年近くも、表現は違えど受け継がれているわけですよね。それほどまでに受け継がれる根底にあるものということを、ちょっと考えていきたいんですけども。

西山: それは仏教というものが、悲しみの中から誕生したということじゃないかと思うんですね。今からおよそ二千五百年も前に、インドで一人の若い女性が子どもを産んだ。でもそれはどうやら酷い難産だったみたいで、生まれた赤ちゃんは元気だったんですが、お母さんはその赤ちゃんを産んで七日で亡くなった。この世を去った。その赤ちゃんこそ、釈迦なんですね。つまりお釈迦さまはお母さんを知らないわけです。生後七日でお母さんは死んじゃったんだから、お母さんのこと知るはずないですよね。今と違って写真も無いし、何かビデオも録音もされていないし、お母さんに関わるものは何も無いわけですものね。そしてお釈迦さまは、物心が付いてきて、僕にお母さんがいないということがわかったわけですね。僕にお母さんがいない。お母さんは死んだ。僕を生んで死んだ。僕を生んだから死んだ、と考え始めたら、感受性の強い少年だったら、もう抜け出られないような袋小路に入り込んでいく可能性がありますね。でもお釈迦さまは、多分その袋小路から出て来たんです。お母さんはこんなふうに死んだけれど、結局はみんな死ぬ。人は一人残らず、一人の例外もなく人は死ぬ。人はやがて歳老いて病気になって死ぬ、全員。そうしたら人生って何なんだろう。生きていくって何なんだろう。生きていく意味って何なんだろう。どんな楽しいことがあったって、やがて老いて病んで死んでいくんだから、こんな楽しいことなんか意味ないですよね。老いて病んで死ぬことが人生のゴールであるならば、何の意味があるのか、この人生に。そういうことを考え始めるわけですね。そして老いて病んで死ぬことを止めることはできないけれど、老いて病んで死んでいく人生に深い喜びがあり、幸せに死んでいくという道はある筈だと、お釈迦さまは思ったんですね。きっとある筈だ。そしてお釈迦さまは出家して、やがて悟りを開き、仏教が誕生するわけですね。つまりお母さんが死んだということが仏教を誕生させたんですよ。仏教は、初めから悲しみとか苦しみと共にあるんです。仏教は優しい。仏教はとても優しい。それは悲しみ・苦しみの中から生まれてきたからです。元気いっぱい、幸せいっぱいの人には、仏教は要らない。仏教なんか要らない。堪え難い悲しみ、堪え難い苦しみの中で、とても自分一人では生きられない時に、仏教は始めて意味を持つ。病気の人が、病気が治るわけじゃない。老いた人が、その老いが無くなり、若返るわけじゃない。死にかけている人は、そのまま死んでいくんです。それにも関わらず、そこに安らぎがある道がある。仏教はその道を示しているものであると、私は思っているんですね。大仏も聖武天皇の苦しみの中から生まれたものであり、そういうものは歴史の中で無数にあります。それが千年経っても、二千年経っても、同じような悲しみとか苦しみを感じている人にこうヒットするんじゃないですかね。
 
ナレーター: 仏教は、悲しみや苦しみから生まれてきた。人々が心に抱く悲しみは力となり、その力から生まれてくるものこそ掛け替えのないものであると、西山さんは言います。そしてその悲しみをより多く感じるのは、男性より女性の方ではないかと考えています。

西山: 私のライフワークと言うんでしょうか、人生の勉強している一番のテーマは、「女性と仏教」ということなんですね。「女性と仏教」が、私の一番のテーマです。日本の仏教は、女性に支えられてきた。「女性なくして日本の仏教なし」というのが、私の考えです。女性と仏教は、凄く仲がいいんです。合うんですよ、女性と仏教は。仏教は優しくて、そしてそういう悲しみとか苦しみ・悩みというものを、最初から自分の内に含んでいるので、そして「こうでなければならない」とか、「正しいのはこうだ」とかということを一切言わない、本当の仏教は。絶対というものがないんだから、仏教には。絶対の真理というものはないんですから。「これが正しい」というものは、仏教にはないんですね。凄く易しい。仏教と女性は合うんですよ、初めから。そして日本仏教は、特に女性と仏教の関係が良くて、それは仏教が日本に伝わった時に最初に出家したのが女性だったところから始まって、三人の女性が出家するところから日本仏教が始まるんですけど。今日まではっきり言ってお寺だって大きな声では言えないが―テレビカメラの前で小さな声で言ったってしょうがないけど―そのお寺を今お坊さん本人も頑張っておられても、奥さんが凄く頑張ってそのお寺が上手くいっているとこって多いですよ、現実に。昔から今まで日本仏教は女性に支えられてきて、女性と仏教は、凄く関係が多いんですね。女性の方が―勿論男にだって苦しみ悲しみはあるけど、やっぱり社会の中で女の人の方が、より多く悩んだり苦しんだりする、悲しんだりすることが男より多いと思います。男だったら別に悩むことなく仕事を続けられても、例えば子どもができたら仕事どうするかって、もうそこで男と女で違っちゃうわけですよね。男は何のそんな悩みもなく当然のように仕事を続けるけど、それから例えば出産にしたって恐いですよ、今でも。出産というのはほんとに命懸けの行為ですね。それは男はわからんですよね。女の方が新しいいのちを生み育てるという。勿論すべての女性がそうするわけじゃないけれど、多くの女性がそういう体験をする中で、やっぱり男よりも多く悩み苦しみ、時に悲しみを感じることが、私は多いと思っているんですね。それが女性と仏教の親和性というのか、凄く仲良い関係を作りだしているんじゃないかと。この女性と仏教というのが、私のライフワークなんですね。
           
柴田: どうしてそれがライフワークになったんでしょうか?
 
西山: 私が好きなのが、女性と仏教がだった。女性と仏教が、私の好きなトップツーだからと言いたくなりますよ。それはその通りであるのかも知れませんが、私は自分自身もまたそういう―自分で言うとちょっと嫌らしいですけど―そういう苦しみとか悲しみに凄く反応しちゃうんですね。歴史を見ている時も、歴史の人物の悲しみとか苦しみにすぐ反応してしまうんですね。ある先生に、「西山さんは悲しみの哲学だね」と言われたことがあって、それけっこう気に入っているんですけど、確かに悲しみに反応し、悲しみを通して歴史を見る。あるいは苦しみに反応して、苦しみを通して歴史を見るというようなことが、私の基本になっていることは確かなんです。その歴史というのは、過去のものではあるけれど、実は過去で終わっているものではなくて、歴史は必ず今、そして私に繋がっているものなんですね。だから面白いんです。歴史嫌いな人世の中にたくさん居て、それは失礼ながら学校の先生が、歴史を過去のこととしか教えられなかったからだと思います。それはこの話は現代の話なんだと。二千年前のことは、現代のことであり、あなたのことなんだということを、先生が教えられないと、確かに歴史はつまらないですね。
 
ナレーター: 西山さんは、昭和二十八年徳島県で生まれました。父の徳(いさお)さんは歴史学者。母の琴柱(ことじ)さんは、毎晩寝る前に必ず般若心経と観音経を唱えるという信仰心の篤い人でした。ところが西山さんが三歳の時、琴柱さんが大病を患います。検査の結果、すぐに入院し、手術を受けることになりました。

西山: その日の朝の記憶は、まだその時私は三歳でしたけど、鮮明に記憶をしています。母は私を負んぶして家の中をグルグルと回って、「また退院して戻って来たらまた負んぶするわね」と言って、家を出て行った。その時のことを今でもはっきり覚えています。多分母は戻って来れないと思っていたのではないだろうか。そして大手術をして、母は助かったんですね。そして家に戻ってきた。家に戻って来て、負んぶをして貰ったかどうか記憶がないんですけど。でも再発したら終わりだと言われていて、十年再発しなければ助かると言われていて、母は信仰の篤い人で、夜寝る前に―母は嫁いで来る時に、小さな観音像を持って嫁いできた人なんですけど―その観音さまの前で寝る前に毎晩般若心経と観音経を唱えていた。私は小さくて、末っ子で、いつもくっついていたので、毎晩そんなことをしていたわけです。父も病気だった。父も母もそんな状態なんで、両親は、〈もしかしたら私たちにはもう来年はないかも知れない〉という、そういう発想なんですね。もし私たちが死んだら小さい子に何を遺せるのだろうか。きっと私たちのことは忘れてしまうだろう。何を遺せるのだろうか。両親は考えて、私に、『仏教童話全集』というのを買ってくれたんですね。母が観音さまの前でいつも拝んでいた。そして買って貰った『仏教童話全集』をいつも読んでいた。そんなふうにして私は仏教に出会ったわけです。父も母も病気だったから、私は人間は病気であることが当たり前だと思っていました。余所の家のことを知らないし、人は病気であることが当たり前だと思っていました。だからやがて病気でない人がたくさんいることがわかって、ああ、そうか、病気でないというのはよほど恵まれているんだなというふうに思うようになりました。だからものを考える時の基準が、病気であるとか、悩んでいるとか、苦しんでいるとか、深い悲しみの中に沈んでいるとか、そういう人のこと、そういう人生のこと、そういう生き方、今そうなっている。なんかそういうことが、私がものを考える時のもう出発点になっていて、でも病気であることが必ずしもマイナスではないです。病気になったから初めてわかることとかってよくありますよね。こう自然のそういうただ木が生えていて、そこに葉っぱがあって、それに太陽の光が当たってキラキラチリチリしている。それがもうこの世に何ものにもまして美しく見えたりするのは、なかなか元気いっぱい、幸せいっぱいの人は難しいですね。なんかほんとに病気になって、もう自分の人生が、後みたいに思う時に、そのキラキラした光の中の閃きみたいなものが掛けも替え無く美しく見えたりするというのは、病気になったことによって獲得できた大きな幸せですよね。幸せってそんなものであって、病気が治らなくても幸せにはなれるんだ。歳老いても、歳老いて歩けなくなっても、そこで新しい幸せというのはある筈ないです。仏教は、いろんなところから、そういうことを教えてくれて、しかもその時側に、それこそ病気の時はきっと仏様も病んでいるんじゃないですかね。歩けなくなって、こんなになっている時には、同じ状態の仏様が側にいるかも知れませんね。それって、やっぱり凄く大きな救いだと思います。小さい時にそういう体験はありましたけど、でもまた大学の時に、一つの体験がなければ、私はこの世界に入ることはなかった。今ここにいることもなかった。それは大学生の時に、明恵上人(みようえしようにん)(鎌倉時代前期の華厳宗の僧。明恵上人・栂尾上人とも呼ばれる。華厳宗中興の祖と称される:1173-1232)という鎌倉時代の坊さんのことを知ったというか、出会った。父は歴史家だったんで、父からいつも歴史の話を聞いていて、歴史の道を私もまた歩み始めていたんですけど、どうも何か自分の心にしっくりくるテーマに出会うことができなくて、もうどこかに就職しようという気になっていたんですね。研究者としてやっていくのは止めて、そういうテーマが見つからなかったので。その頃に明恵という人と出会ったんですね。それで研究テーマというよりも、明恵というとっても魅力あるその人のことを知りたい。全部正確に知りたいという気持ちになって、それで大学院に進みました。明恵という人は、本当の仏教というものを、どこまでも追い求めていくんですが、なんかピュアーで直向(ひたむ)きなところが、その可愛いところもあって、凄く可愛くって、明恵ファンというのは、いつの時代にもいる。宗派関係なしに、今もいるわけですが、私もその一人ですけど。その明恵上人のことがほんとに好きになって明恵上人のことをもっともっと知りたくなって、そんなことをやり始めたんですね。明恵という人は、またお釈迦様に対してとっても思いのある人で、お釈迦様の国・インドに行きたいということを、鎌倉時代に思い、でもそれはいろんな事情で行くことができなかったんですね。明恵上人のことを勉強しているうちに、じゃまあ代わりにというと烏滸がましいけど、私が行って来よう。明恵上人の肖像画があるんですよ。松の木に坐っている―今ここに本を持って来ているんですけど―こういう松の木に坐る。こういう姿って珍しいですよね。肖像画で松の木に坐っている肖像画なんかないですよ。こういう自然の中で、ほんとに自然を共にして、もうこれで当たり前の姿なんですけどね。この肖像画のコピーを胸に、インドの仏跡をズッと回って来たい。そんなことをしているうちに―修士論文は明恵上人だったんですけど―そんなことをしているうちに、奈良国立博物館からお話を頂いたんで、明恵上人と出会っていなければ、奈良国立博物館に入ることもなかったし、こういう人生を送ることもなかった。明恵上人も八つの時に、お父さんお母さんを亡くしているんですね。それは明恵上人にとって―それでなければ明恵上人は坊さんにもならなかったかも知れないし、まったく違う人生であったことは明らかですね。鎌倉時代に、明恵という人―鎌倉時代の前半の人です。鎌倉時代の後半に、興正(こうしよう)菩薩叡尊(えいそん)(鎌倉時代中期の真言律宗の僧。戒律を復興し、奈良西大寺を復興した僧として知られる:1201-1290)という方がいらっしゃって、この奈良の西大寺を復興した坊さん。その叡尊さんも七つの時にお母さんを亡くしていて、それが叡尊さんの人生を大きく決定付けたところがあります。その時叡尊さんのお母さんは、叡尊が自分でその時の様子を書いておられるんですけど、「悲母、三人小児、置懐内逝去(三人の小児を懐の内に置きて逝去しおわぬ)」と書いてある。「懐の内に置きて」ということは、抱きしめながら死んだということですね。「吾七歳次五歳次三歳也」叡尊は七歳、下の弟が五歳、その下の弟は三歳。三人の子どもがお母さんに縋って泣いたんだと思うんですよ。「お母さん、死んだら嫌だ!」とか言って、三人の子は縋って泣いた。そしてお母さんだって、そんな子ども残して死にたい人なんかいませんから、お母さんも泣きながら、その三人の子どもを抱きしめながら死んだんですよ。これが叡尊の人生をほんとに決定付けたと思いますね。叡尊という人は、その後、今でいう社会福祉的な、例えばハンセン病の人々の救済活動とか、ほんとに素晴らしい活動をズーッとやり続けていく人なんですけどね。その時のことを決して忘れたことはないですね。七歳の時にお母さんが死んだこと、ズーッと思い続けた人なんでしょう。その「三人の小児を懐の内に置きて逝去しおわぬ。吾は七歳、次ぎ五歳、次ぎ三歳なり」と書いたのは、八十五歳の時なんですよ。それはほんとに簡潔な短い文章だけど、自分の母親の死について書いた文章で、その文章以上にほんとに心に沁みるものはないですね。それがでも叡尊の、尋常ならざるそういう貧しい人や病気の人の救済活動のその原動力になっているわけ。つまり悲しみは悲しみだけで終わらない。その悲しみが行動の原動力―力になるんです。悲しみや苦しみは、悲しみや苦しみとしてだけ終わるわけではなくて、それが力になるんです。その人を奮い立たせ、進ませる、やり遂げる、そういう力に悲しみや苦しみってなるんですね。不思議なもんですね。人間というものは不思議なものですね。けっこうそういう小さい時に、親を亡くしている、特に母親を亡くして、のちに偉いお坊さんとなった人ってけっこういるんですよ。お釈迦さまがその代表ですけど、そういう人ってけっこういて、悲しみとか苦しみは別にマイナスじゃないんですよ。それはない方がいいだろうけど、そこから生まれてくるものがあって。
 
ナレーター: 悲しみや苦しみは、必ずしも悪いものではない。悲しみや苦しみを抱えるのは、幼い子どもたちも同じではないだろうか。こんな思いを持つようになった西山さんは、奈良国立博物館に勤務していた時、幼稚園の子どもたちに奈良の歴史とそこで育まれた仏教を伝える活動を始めました。

西山: 人の中にさまざまなものがあるということは、やっぱりその認識は持っておくべきだと思うんですね。大人だけじゃないですよ。子どもだって、子どもの中にも、悲しみや苦しみや悩みはありますよ。三歳の子にだって、苦しみや悩みや悲しみがあるんだもの、三歳の子にも、ましてや中学生がみんな悩まなく、毎日楽しく学校生活送っている筈ないですよ。もっとやっぱり先生もまた家庭でも、もっと子どものことを見てほしいですね。私は小さい子どもが大好きなので、奈良の歴史・文化を子どもに伝えるという活動をズーッとやってきていて、特に幼稚園の子に奈良の歴史文化を伝える活動を十数年もやっているんですよ。
 
柴田: どんなふうに幼稚園の子どもたちに伝えるんですか?
 
西山: 同じです。これは別に変な意味じゃなくて、幼稚園の子に話している時と柴田さんに話している時と、基本的には同じです。つまり伝えたいことは一緒なんだから。大事なことだけを伝えたいと思っているので、その大事なことっていうのは、大人にとっても子どもにとっても同じものです。大事なことというのはわかりやすいですよ、実は。なんか難しい説明を長々としなければいけないことは、一番大事なことじゃないですよ、きっと。二番目か三番目には大事かも知れないけれど、一番大事なことではない。大事なことは分かり易いんで、三歳の子どもでも理解できるんです。但し三歳の子に喋る時には、三歳の子が知っている言葉を使うことが大事です。フランス人にはフランス語を使い、三歳の子には三歳の言葉で喋ったらそれでいいんです。必ず大人以上に伝わりますね。そういう活動をズーッと十数年やってきて、去年も今年もいろんな幼稚園で話をするんですが、可愛いですよ、幼稚園の子はほんとに。幼稚園の子はどんどん言ってくれるので、思い掛けない発言が出てきて、とっても楽しいですね。それこそ台本は通用しませんから。その子どもたちがどんどんいうのを聞いていて、それに答えていくというやり方で進行するんですけどね。だから常に一回勝負。一回ぽっきり。一発勝負なんですけど、とっても楽しくて。なんか帰りは子どもたちに囲まれて、「何でそんなによく知っているんですか?」とか言われて、「これは勉強しているからね」とか言って、偉そうにして帰ったりするんです。別に私はそんな立派な人間じゃないんで、立派な先生でもないし、立派な社会人でも立派な家庭人でもないので、私はその自分なりにいろいろ考えていることがあるので、それを幸いに求めてくれる人もいるし、それを語る。「いのち」というのが、やっぱりこの世で一番不思議で神秘的で貴いものですよね。この世で一番凄いものはいのちですね。人間だけじゃないですよ。ほんとにあらゆるいのち。私、小さい動物とか、昆虫とかも好きで、何でも好きなんですけど、小さな虫たちもほんとにとっても頑張っていますよ。幼虫の時も成虫になってからも、とっても頑張っていて、〈あ、頑張っているな。凄いな、生きているな〉とよく思います。その中でも確かに人間と他の生き物を決定的に区別するものが、どうも私の中にはないみたいで、やっぱりあらゆる生き物、だから聖武天皇が言わんとすることはちょっとわかる気がするんですね。でもそれって無理ですよ。ほんとにいのちというものを実感できるのは小さい子どもですものね。生きているいのち。だからそういうほんとに小さい子どもが側にいたらもの凄く幸せなんですね。自分ができることはそう大したことじゃないんだから、やがてやり終えてこの世を去っていくだけです。

ナレーター: 今、西山さんは、月に何度も全国各地へ講演などに出向いています。
 
西山: 人間は変わらない。そんなに変わりません。いつの時代にも私たちと同じように、悩んだり、苦しんだりしながら、でも幸せを求めてせいいっぱいの人生を送った。飛鳥時代の人も、奈良時代の人も、平安時代の人も、みんなそうであって、その結果が歴史というものとして残っているのである。
 
ナレーター: 釈迦の悲しみ、苦しみから生まれ、時を超えて今に伝えられる仏の教え。その奥深い世界を、西山さんは三十年あまりの研究の成果を通して人々に伝えようとしているのです。

西山: 仏教は何を目指しているのか。これはインドの仏教、中国の仏教、朝鮮半島の仏教、日本の仏教―日本の仏教もいっぱい宗派があるし、宗派によって違うし、時代によっても全部違うので、仏教とは何かということ自体が説明不可能、不能になっているんですね、実は現実には。だからみんなそれぞれの仏教があるようなものなんですが、だからこれは私の仏教になっているんですけど、私はその仏教が目指しているものは、日本の仏教が今目指しているものは、悟りじゃないと思っているんですね。これには異論・反論が当然あるかと思いますが、私は―それは日本の仏教と言ったら失礼で、私がって言っておけばいいんでしょうかね―求めているものは、「安らぎ」だと思っています。「悟りではなくて、安らぎ」。「心満たされて安らかに生き、心満たされて安らかに死ぬ。これが目指すところであって、それは仏教によって可能になる」と、私は思っているわけですね。心満たされて安らかに生き、心満たされて安らかに死ぬ。老いて病んで死ぬことには変わりはないんだけど、でもその中で大きな安らぎを感じつつ死んでいく道はある。現にあると思っています。それは仏教がよい仕事をしてくれているなという感じですね。願い事というのは成就しなくてもいいんですよ。「病気が治りますように」とお願いして病気治らないですよ。治ったらそれはいいけど。治らなくても幸せに生き続けることはできるんですよ。これが仏教の教えだと思いますね。
 
柴田: 願うことで、安らぎは得られますか?
 
西山: 願うことで安らぎが得られるのではなくて―私は、金子みすずさんという詩人が大好きで、あの人はほんとに最高の詩人だと思っているんですが、金子みすずさんには素晴らしい詩がたくさんある。私が一番好きなのは、好きというか、一番心に沁みるのは、「さびしいとき」という題の詩なんですね。それはこんな詩です。

私がさびしいときに
よその人は知らないの
 
私がさびしいときに
お友だちは笑うの
 
私がさびしいときに
お母さんはやさしいの
 
私がさびしいときに
仏さまはさびしいの

という詩なんですよ。私は、これは日本の仏教の一つの到達点だと思っているんですね。今おっしゃった願うことで安らぐわけじゃないんですよ。寂しい時に仏様も寂しいんです。そのことが安らぎになるんです。例えばもう堪え難い寂しさの中にいたとして、誰かやって来たと。「おい、元気だせ!」。〈ほっといてくれ〉という感じ。また違う人が来て「いやぁ、わかるよ。君の気持ちはよくわかる」とか言って。〈わかるか、お前に。そんな簡単に言うな〉という気になったりするんですね。それからまた誰かが来て、こんど何にも言わないんですよ。なんかその辺にいるんだけれど、何にも言わなくて。でも時々ちょっと背中をポンポンと叩いてくれたりして、誰なのかなと思って振り向いたら、なんかその人は目に涙をいっぱい溜めてジーッと私を見ていた、みたいな感じですね。私が寂しいときに、仏さまは寂しいのというのは、これが救いなんですね。
 
柴田: 金子みすずさんの詩をもとに考えますと、つまり何かをしてくれるわけではない。共にあるという。
 
西山: そうですね。共にある。いつでも側にいる。いつも側に居て、それって凄い大きな安らぎで。仏教というものを、繰り返しになりますけど、そういうお母さんを亡くしたお釈迦さまの悲しみや苦しみの中から、仏教は生まれてきて、そしてそういう悲しみや苦しみや悩みの中にある人のために、仏教というのは存在していて、そして現在もそうだと思っているんですね。そういうものに非常に強く心引かれる。仏教は、悲しみと苦しみの中から生まれた。そして悲しみや苦しみの中にいる人々に、仏教は優しい。いつも側にいる。それに支えられて、苦しみがたとい消えなくても、悲しみがたとい無くならなくても、人は心安らかに生きていくことができる。むしろ苦しみの中から、悲しみの中から、何か新しい大切なものが生まれてくるかも知れない。これが私の結論ですね。

柴田: 今日は、長い時間有り難うございました。
 
    これは、平成二十七年八月二十三日に、NHK教育テレビの
    「こころの時代」で放映されたものである






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