アフィリエイト広告を利用しています
プロフィール
 ♡☆♡ Yamato・Hime ♡☆♡さんの画像
♡☆♡ Yamato・Hime ♡☆♡
プロフィール
日別アーカイブ
最新記事

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2017年09月27日

【実録】レイテ沖海戦【涙なしでは見られない】

【実録】レイテ沖海戦【涙なしでは見られない】

https://youtu.be/jikdhcMcLB0


【実録】レイテ沖海戦【涙なしでは見られない】

https://youtu.be/jikdhcMcLB0



Published on Aug 19, 2017

神風特別攻撃隊実戦初導入の戦い

レイテ沖海戦/ 最後の艦隊決戦
https://youtu.be/cd1Q2t6DuPM

実録 レイテ沖  海戦
https://youtu.be/cpBlaRM61vU

Category People & Blogs
License Standard YouTube License

【太平洋戦争】なぜ、負けた?
 @ガタルカナルの戦い
 Aインパール・コヒマの戦い
 Bレイテ・ルソンの戦い

【太平洋戦争】なぜ、負けた? @ ガタルカナルの戦い

https://youtu.be/YbTL74D5UlI


【太平洋戦争】なぜ、負けた? @ ガタルカナルの戦い

https://youtu.be/YbTL74D5UlI




Published on Jun 16, 2017

@ ガタルカナル島攻防戦の緒戦に大兵力を投入していたら・・・・・・と、言う人もいるが

 しかし、帝国陸軍が大兵力を送り込むことが出来たかは疑問である。

 最大の問題は、船舶事情である。日本では太平洋戦争の全期間を通じて商船が不足し、多くの問題を抱えていたが、比較的商船保有量が多かったこの時期も、戦線を広げすぎたため船舶が足らず、最前線は勿論のこと、後方の基地に至るまで、補給に使われる商船は、自転車操業に近いギリギリのやり繰りを行っていたのが現状であった。

 しかし、ガタルカナル島に大兵力を投入するとなれば、多数の商船が必要になるが、商船を他から引き抜けば、それまで何とか回っていた補給態勢が壊れてしまうことになる。

 それを考えれば、8月のアメリカ軍の上陸直後に、ガタルカナル島に大兵力を送り込む事を決定したとしても、事前に何も用意をしていなかったので、逆上陸の準備だけで1ヶ月以上かかったと思える。

 逆に言えば、8月中に兵力を送り込もうとすれば、帝国陸軍がいかなる認識の下に作戦を立てようが、史実とはそれほど変わることが無かったであろう。

 そして、上陸してきたアメリカ海兵隊は当初から2万人という大兵力であり、その間、飛行場の整備と陣地の構築を進めるだろう事から、この抵抗を排除し飛行場を確保するには、史実におけるガタルカナル島の帝国陸軍最大戦力の三倍、6万人は必要だろう。

 これだけの兵力を運ぶ船舶を用意するだけでも大変であるが、送り込むのはさらに困難である。
 ガタルカナル島周辺海域の制空権は、飛行場を手中に収めている敵の手にある以上、低速の輸送船が島に接近するだけでも危険が大きく、途中での犠牲も考慮しなければならないだろう。

 それに、帝国陸軍はこれまでに強力な敵前で大兵力を揚陸させた経験がなく、機械力にも劣っていることから揚陸能力が極めて低く、物資の陸揚げに時間がかかることが重大な問題で、揚陸中の船舶は格好の攻撃目標になったであろう。

 そして、陸揚げした物資を、敵に攻撃されない処まで運ぶのだが、人力で行わなければならない帝国陸軍にとって、大変な時間と労力が必要になる。

 実際、昭和17年10月15日、輸送船が島への補給を成功させたものの、揚陸した物資は海岸に山積みされたままで、島内に運び込まれないうちに、敵の爆撃・艦砲射撃により大被害を受けている。

 また仮に、兵員の上陸、物資の揚陸が完全に出来たとしても、その後も、この大兵力に見合う定期的な補給が出来なければ、やはり史実と同じように「餓島」と化すことは避けられないだろう。

A ガタルカナル島は、他の基地から離れすぎている。戦前に恐れた消耗戦になることが避けられない。アメリカ軍の本格的な反撃だと判断した時点で放棄すべきだった・・・・・・と、言う人もいるが

 当時は、両軍の戦力が拮抗していた時期であり、ここでアメリカ軍の反撃を見逃すことは、そのまま敵に主導権を渡すことに繋がってしまう。

 また、ガタルカナル島そのものの戦略的意義も大きく、また、これまで一度獲得した占領地を奪われたことがなく、もし明渡せば「初の占領地の失陥」となってしまい、それでなくともミッドウェーの勝利で意気上がるアメリカ軍をさらに勢いづけ、次なる反攻の後押しをすることになったかもしれない。

 結論を言えば、
最初からアメリカ軍の本格的な反攻の第一歩として判断していたとしても、史実と比べて帝国陸軍の投入戦力にそれほど変化はなかったであろうし、戦い方も史実と変わらなかっただろう。

 昭和17(1942)年8月7日のアメリカ軍の上陸より、昭和18(1943)年2月1・4・7日の三回に分けた日本軍の撤退作業により約1万3000人の将兵を収容し撤退するまでの6ヶ月間、結果はアメリカ軍の勝利で幕を閉じたが、この6ヶ月間アメリカ軍の侵攻を押し止めた事も事実であったが、戦略的には、何ら意義を成さなかった。

Category People & Blogs
License Standard YouTube License




☆===================================================☆


【太平洋戦争】なぜ、負けた? A インパール・コヒマの戦い

https://youtu.be/XjJ8onQqHa8


【太平洋戦争】なぜ、負けた? A インパール・コヒマの戦い

https://youtu.be/XjJ8onQqHa8



Published on Jun 16, 2017

 インパール作戦は不要だった戦いで、それだけにとどまらず、急速なビルマ防衛の崩壊をもたらしたとも言われているが・・・・・。

 なぜ、日本帝国陸軍は遥かに遠いミャンマー(1989年よりの国名。大戦当時の国名はビルマ。首都の名もラングーン、ヤンゴン、ネピドーと変わっている)にまで兵を進めたのであろうか、と言う「そもそも論」から始める必要があるだろう。

 公的には、「援蔣ルート」と呼ばれる中国への補給路を止めるためということになっているが、それより大きな理由として、開戦から数ヶ月経ち帝国陸軍400万人の戦う場所がないという不満が帝国陸軍上層部にあったからである。

 中国戦線を除けば、マレー、フィリピン等で戦ってはいたが、当事にあっては兵力に余裕があり過ぎ、これがミャンマーへの大量派兵に繋がっていった。

 昭和17(1940)年5月に第15軍がミャンマー全土を占領する直前の3月、「ビルマ(ミャンマー)方面軍」が新設され、第15軍司令官に牟田口中将が昇任した。

 彼が軍司令官になって、3個師団の兵力で日本本土の3倍にわたるミャンマーの防衛の責任を負わされてみると、今後予想される連合国軍の反攻を阻止するためには、単なる専守防衛では成り立たず、進んで敵反攻の根拠地を覆滅する攻勢作戦が望ましいと、考えるようになった。

 このインパール作戦における日本帝国陸軍の人的損失は、いまだに正確な数が判明していない。一応の推計としては戦死2万人以上、戦傷、戦病死を合わせた損耗率は70〜80%前後と推定されているので、人的損害は4万人前後といえよう。なおイギリス・インド軍の損害も、イギリス第14軍司令官・スリム中将によると死者約1万5千人、負傷者約2万5千人にのぼり、決して軽微なものではなっかった。

 スリム中将は「日本軍の欠陥は ・・・ 作戦計画が仮に誤っていた場合に、これを直ちに立て直す心構えが全くなかった。」と、正確に指摘している。

 牟田口中将はミャンマー防衛のための攻勢防衛の手段としてのインパール占領という、本来の作戦目標を見失って、インパールという一地点の占領を至上目標にすり替えてしまっていたのであった。

Category People & Blogs
License Standard YouTube License





☆===================================================☆


【太平洋戦争】なぜ、負けた? B レイテ・ルソンの戦い

https://youtu.be/nXZ0QZFa7IE

【太平洋戦争】なぜ、負けた? B レイテ・ルソンの戦い


https://youtu.be/nXZ0QZFa7IE




Published on Jun 16, 2017

この戦いこそ、日本帝国陸海軍が総力を結集し、アメリカ軍と雌雄を決するために選んだ、最後の決戦だった。

 昭和19(1944)年に入ると、帝国陸軍は実に40万人という膨大な兵力をフィリピンに送り込み、又、マレーの虎こと山下奉文帝国陸軍大将を着任させ、防衛の強い意思を示した。

 おおざっぱに数えれば、ルソン島に25万人、レイテ島に10万人、その他の島には分散して5万人といった配備がなされた。

 首都の存在するルソン島が重要なことは解かるが、なぜ、この国では中くらいの面積しかないレイテ島に多くの兵力が送り込まれたのかは、軍事の素人の私には理由がはっきりしない。

(しかし、アメリカ軍の反攻も最初からレイテ島に対して行われ、両方の側が重要視していた事実がある。)

 そして、帝国海軍は当時の連合艦隊の保有する艦艇の8割(動かせる艦艇の全て)に相当する艦艇で迎え撃とうとしていた。

その内訳は、戦艦は「大和」「武蔵」「長門」を含め9隻、空母4隻、重巡13隻、軽巡6隻、駆逐艦31隻、潜水艦12隻にものぼった。

 航空機は、陸海軍機計1200機以上がこの作戦のために準備された。

 しかしこれに対して、フィリピン島を奪回しようとするアメリカ軍の投入戦力は、軍艦だけで170隻、総兵力は125万人達していた。

 最初の上陸は昭和19(1944)年10月20日であったが、戦力に余裕のあるアメリカ軍は、レイテ島の戦いの決着が近いとなると、いよいよルソン島への侵攻を開始し、昭和20(1945)年1月9日に部隊を上陸させた。

 最終的にフィリピンでの死傷者数は、日本側はルソン島で20万人、レイテ島で8万人、その他の島々で5万人と言われている。アメリカ軍の戦死者は2万人であった。またフィリピン側では民間人、ゲリラ参加者合わせて18万人と言われている。

日本帝国海軍の戦い

 なぜ、砲撃精度は低かったのだろうか。戦前、日本帝国海軍の戦艦の主砲の命中率は、アメリカの戦艦に比べ3倍と言われていた。砲術の専門家として日本帝国海軍内では名の知られていた重巡利根の艦長・黛治夫大佐に至っては、利根の主砲の命中率はアメリカの5倍と豪語していた。

 しかし、蓋を開けてみると、
昭和19(1944)年10月25日早朝、栗田艦隊旗艦の大和(戦艦武蔵は既に撃沈されていた)の見張員が敵を発見した。それはアメリカの第7艦隊の護衛空母群の内の3番隊であった。

 帝国海軍は戦艦大和、長門を中核とする栗田艦隊、戦艦4隻(戦艦武蔵は既に撃沈されていた)、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦15隻の陣容だった。

 対するアメリカ艦隊は、護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻で編成されていた。

 アメリカ海軍の護衛空母とは戦時急造型の空母で、基準排水量6730d、搭載機は21機、武装は12.7サンチ高射砲2門で、また、護衛駆逐艦とは対潜水艦用に急造された艦で、もともと対水上艦用戦闘は考えられていなかった。

 まともな戦闘にならない戦力差であった。

 それが、2時間あまりの戦闘(ドタバタ騒動)により、アメリカ駆逐艦の12.7サンチ砲という豆鉄砲と、日本帝国海軍酸素魚雷に比べ射程で5分の1、炸薬量で半分の51.3サンチ魚雷とに、散々に叩かれ、護衛空母1隻、駆逐艦2隻をやっと沈めた代償が、重鳥海、筑摩を失い、熊野、鈴谷を大破されたのである。
 
 原因は、主砲命中率の低さにあった。

 モリソン博士の「各艦戦闘詳報」よると、この海戦での栗田艦隊の主砲・副砲の発射弾数は、5千発を超えていた。それで、与えた命中弾数は20発前後であった。

 砲術の大家である黛大佐の利根に限って見ても、初弾から100発以上撃ってわずか命中弾は1発という少なさだった。逆に、敵の駆逐艦から3発の命中弾を受けている。20サンチ主砲を持つ利根のほうが、12.7サンチ主砲のアメリカ駆逐艦より、正確かつ遠距離射撃が出来るはずなのに、実戦ではアメリカ海軍の3分の1の命中率であった。

 戦艦大和の46サンチ主砲に至っては、約100発発射して1発も命中していない。
命中率わずか0.3%というこの海戦を見直すと、戦艦同士の日米決戦が行われなかったことを、帝国海軍は感謝したほうがよさそうに感じられる。

 その後、午後零時30分、栗田艦隊はレイテ湾まで約80kmの地点に進出したが、ここで栗田艦長は反転命令を出し、戦線から離脱し、逃げ帰った。

 この海戦の勝敗がもたらす決定的な意義は、早くから日本帝国海軍首脳部によって認識されていた。フィリピンを失えば、連合艦隊を保全していても、意味がなくなると判断し、成算を無視した決死の殴り込み攻撃を立案した。しかし、栗田艦隊は与えられた稀有の機会を捨て、湾口を目の前にして、反転し逃げ帰った。この瞬間に日本帝国海軍の運命は定まり、日本帝国海軍は消滅した、と言っても良いであろう。

栗田健男という男の戦歴
 1942年2月15日のマレー沖海戦では、戦わずして戦場から逃げている。
 1942年2月27日のスラバヤ沖海戦には、無線が通じなかったとして、戦場には現れなかった。
 1942年3月1日のバタビア沖海戦には、2隻の艦船を支援に出したが、彼自身は戦場に現れなかった。
 
 ミッドウェー海戦では、島から遠く離れた位置でモタモタさせ、中止命令が出ると、あわてて避退しようとして、最上と三隅を衝突させてしまい、この男は両艦を置き去りにして、逃げ帰っている。

 以後3日間、この男は連合艦隊からの合同命令を無視し、安全な西へと全速で自艦を走らせている。
 
 ガタルカナル島砲撃のときも、逃げ足の速さは変わらなかった。
  
 これらの戦い方から考えると、彼にとって、このレイテ沖海戦ではよく粘ばったともいえる。

 しかし、なぜ、この男がここまで前線の指揮官を続けてこれたのか、不思議な気がするが、年功序列の官僚的人事が嫌悪すべき無責任さをもって、進められた結果だったのだろうと思える。

Category People & Blogs
License Standard YouTube License

☆☆☆ドキュメンタリー 海底の戦艦大和 ☆☆☆
Documentary, Battleship Yamato of the bottom of the sea

☆☆☆ドキュメンタリー 海底の戦艦大和☆☆☆

Documentary,
Battleship Yamato of the bottom of the sea

https://youtu.be/RFjCS4GJQWo


☆☆☆ドキュメンタリー 海底の戦艦大和☆☆☆

Documentary,
Battleship Yamato of the bottom of the sea


https://youtu.be/RFjCS4GJQWo



Published on Jul 6, 2017

Category People & Blogs
License Standard YouTube License

戦後70年 「大和」から生還した2人に「最後の瞬間」を聞きま...(15/08/14)

戦後70年 「大和」から生還した2人に「最後の瞬間」を聞きま...(15/08/14)

https://youtu.be/3gTgn9dzpUY


戦後70年 「大和」から生還した2人に「最後の瞬間」を聞きま...(15/08/14)

https://youtu.be/3gTgn9dzpUY



Published on Aug 13, 2015

戦後70年を鍵に、今を読み解いていくシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
アメリカの航空機の攻撃を受けて沈んだ戦艦大和。

http://www.fnn-news.com/news/headline...

※営利目的での映像のエンベッドを禁じます。

Category News & Politics
License Standard YouTube License

2017年09月26日

The Road to War - JAPAN

The Road to War - JAPAN

https://youtu.be/yDv8NxGv9Yg


The Road to War - JAPAN

https://youtu.be/yDv8NxGv9Yg



Published on Feb 1, 2012

Category People & Blogs
License Standard YouTube License

Japan main Battleship Yamato before being sunk by US fighter planes

Japan main Battleship Yamato before being sunk by US fighter planes

https://youtu.be/LbYnOrklxfE

Japan main Battleship Yamato before being sunk
by US fighter planes


https://youtu.be/LbYnOrklxfE




Published on Jul 19, 2017

Japan main Battleship Yamato before being sunk by US fighter planes



Sinking The WW2 Greatest Supership Yamato
| Greatest Naval Disaster | Military Documentary

Sinking The WW2 Greatest Supership Yamato | Greatest Naval Disaster | Military Documentary

https://youtu.be/biYFMmLU9cU


Sinking The WW2 Greatest Supership Yamato
| Greatest Naval Disaster | Military Documentary







Published on Aug 9, 2015

Sinking The WW2 Greatest Supership Yamato | Greatest Naval Disaster | Military Documentary Channel. The final phase of the Pacific war during World War II .

Sinking the Supership Produced by Keiko Hagihara Bang Written and directed by David Axelrod WGBH Boston Video, 2005, 56 min., DVD Yamato, the largest .

Tirpitz was the second of two Bismarck-class battleships built for Nazi Germany's Kriegsmarine (navy) during World War II. Named after Grand Admiral Alfred von .

Category Film & Animation
License Standard YouTube License

☆戦争犯罪とは何か?☆ A【映画】極東国際軍事裁判(東京裁判)

☆戦争犯罪とは何か?☆ A【映画】極東国際軍事裁判(東京裁判)

https://youtu.be/LbYnOrklxfE


☆戦争犯罪とは何か?☆ A【映画】極東国際軍事裁判(東京裁判)


https://youtu.be/LbYnOrklxfE




Published on Jun 16, 2017

大上段から振り降ろすようなことを書くつもりはない。それは他の人に任せたいと思う。
ここでは、人間模様を少しだけ書いてみたいと思う。

★ 真崎甚三郎
(最終階級は帝国陸軍大将。皇道派の重鎮と言うより、皇道派を創った男。)
 彼は太平洋戦争終戦後の1945年11月19日に、A級戦犯として逮捕命令を受け、巣鴨プリズンに入所させられた。
ワシントンのアメリカ公文書館に保管されている尋問調書によれば、尋問が始まると「私はアメリカに対し、尊敬と親愛の情を抱いています。(中略)私は今、日本がみずから、天皇の力をもってさえ実現できなかったことが、アメリカの力によって達成された事を実感しています。このため現在の私の感情は、喜びと後悔とが混じりあっています。」と検事に対して従順的な態度を見せ、グロテスクなおもねりを重ねた結果、被告除外という果実をもたらした。そして、軍人では一番先に保釈された。
 命が掛かっているのである。媚態とも思える協力ぶりも、ここまで徹底すれば立派である。

★ 木戸幸一
(内大臣・侯爵、天皇の側近として東条英機を首相に推薦した)
彼は自分の無罪を勝ち取るためには、天皇の無罪を主張すればよいという考えに至り、すなわち、全ての責任を軍部に被せる事を決意し、検察当局に日記を提出した。これが「木戸日記」といわれるものである。
 だが、この目論見はサケット検事の執拗な追及で破綻してしまった。天皇の平和的意思を強調する木戸に対して、サケットはアメリカ人らしい合理的思考で迫り、重要なのは「天皇の意思」ではなく、戦争回避のためにどのような行動を取ったのかだと、問い詰めた。そして、満州事変や仏印進駐について「事態が絶望的な状態になったとき、天皇は戦争を終わらせるためにきわめて積極的な態度をとったことを知っている。天皇がそう望めば、同じ権限によって、この当時も積極的に指導することが出来たのではないか?。」と天皇の行動を質した後、対米英戦の決定に関して「天皇は、もし日米の交渉が失敗したら、日本は対面を失わずに撤兵することは出来ないので、残された唯一の選択として、アメリカと戦わざるを得ないとの意見を、木戸、あなたに述べたのではないのか?。」と迫った。その結果、木戸は最後の御前会議で「天皇が政府や統帥部の意見を受けて、事態の唯一の解決法として対米開戦にみずから同意した。」ことを認めてしまった。このように検察局は天皇訴追に動いていたのだが、最終的にマッカーサーの強い意志が働いてキーナン検察局長は天皇不訴追を指示したのであった。
 彼の努力は効を発しなかったが、11人中5人が死刑賛成といったわずか1票差で死刑を免れ、終身禁固刑の判決を受けた。

★ 田中隆吉
(最終階級は帝国陸軍少将。元陸軍省兵務局長)
 彼は驚異的な記憶力の持ち主で、その記憶力を十分に発揮し、検事側の証人として、かっての上司であった東条英機などの被告に不利な証言をしたことから「日本のユダ」「裏切り者」という罵声を浴びせる者もいる。
 この男の証言と「木戸日記」が検察当局の戦犯容疑者の選定と有罪立証の最大の武器になった。

★ 広田弘貌
(元内閣総理大臣)
 彼は検事の尋問に、あたうかぎり誠実に答え、責任転嫁をしなかったが、自殺した近衛文麿元内閣総理大臣の戦争責任を押し付けられたかたちで、被告の列に加えられ、文官でただ一人絞首刑の判決を受けた。
 ここから引き出される結論。
 欧米人が相手の場合、どんなに理屈が合っていなかろうが、自己を正当化し弁明に努めた者が勝ち(生き残り)、抗弁しない者は負ける(殺される)ということである。
真崎甚三郎の不起訴、広田弘貌の極刑の分かれ道は、この事実を象徴的に示している。

★ 東條英機
(階級位階勲等功級は帝国陸軍大将従二位勲一等功二級。元内閣総理大臣・参謀総長・陸軍大臣の三職を兼務、その他、軍需大臣・商工大臣・文部大臣・外務大臣・内務大臣を兼務した)
 彼は一言で言えば、KY(風が読めない)男であった。
法廷での検察の尋問に「日本臣民が陛下のご意思に反する行為を行うことは一切無い。」と断言した。この発言には判事、検事、弁護団も椅子から転げ落ちるほどビックリした。
天皇の不訴追は決まっていた。
慌てて休廷にし、この男に発言の撤回を求めたが、説得に丸一日かかった。
再開廷後の検察の際尋問の「戦争は天皇の意思であったか?。」に「ご意思に反したかも知れないが、わが内閣および軍統帥部の進言により、渋々同意なさったのが本当であろう。」と前言を撤回した。
 これにて一件落着、チョ〜ン。本当に、茶番劇であった。

★ 大川周明
(右翼の思想的主柱、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された)
法廷開廷後の休廷中に、前に座っている東條英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩き、退廷させられた。その後、精神異常と判断され、1947年4月9日に正式に裁判から除外された。その後の精神鑑定で異常無しと診断されたが、裁判には戻されなかった。
 東京帝国大学卒業である。頭の良い人のこの発想は、凡人には出て来ない。

★ 岸信介
(元内閣総理大臣、安部晋三の母方の祖父)
 A級戦犯被疑者として巣鴨プリズンに拘置された。
1946年3月7日に第一回尋問を行ったG・サカナリ中尉らは「彼は被告席を飾るにふさわしい男だ。」と報告していたが、何か有ったのだろう、1948年12月23日に巣鴨プリズンで満州時代からの盟友・東條英機の絞首刑による死刑が執行された翌日の24日、岸信介は保釈された。
 2007年にアメリカ国務省は、岸信介内閣に秘密資金を提供し秘密工作を行い、日本政界に対し内政干渉をしていた事を公式に認めた。「週刊文春」2007年10月4日号によれば、岸信介に渡されたCIA資金は一回に7500万円から1億800万円で、今のお金にすれば一回に10億円ぐらいだったと指摘している。
なお、この現金の受け取りは、実弟の佐藤栄作(元内閣総理大臣)が行っていた。

★ 正力松太郎
(現在最大講読者数を誇る読売新聞の元社長)
1945年12月、A級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに収容されたが、1947年9月に不起訴が決定され釈放されている。
 アメリカ公文書館の公開された外交機密文書には、暗号名「PODAM」というアメリカ情報局(CIA)のAGENT(スパイ)だと記されている。

★ 続く

Category People & Blogs
License Standard YouTube License

2017年09月25日

極東国際軍事裁判 前編

極東国際軍事裁判 前編


https://youtu.be/F-jnUehOMsk


極東国際軍事裁判 前編


https://youtu.be/F-jnUehOMsk




Published on Mar 29, 2014

極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん、The International Military Tribunal for the Far East)は、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた、連合国が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判(とうきょうさいばん)とも称される。

起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われた。当初55項目の訴因があげられたが、最終的に10項目の訴因にまとめられた。5月3日午前11時20分、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂において裁判が開廷した。27億円の裁判費用は当時連合国軍の占領下にあった日本政府が支出した。

後編
https://www.youtube.com/watch?v=kVSVB...

Category Education
License Standard YouTube License
Music "National Emblem" by Band and State Trumpeters of the Royal Horse Guards (iTunes)




☆===================================================☆

☆===================================================☆

広告

ふとんクリーナーはレイコップ

医師として働いていた時“アレルギー症状を根本的に予防できるようにしたい”そんな思いからレイコップが生まれました。

◆日本の生活習慣、ふとん環境におススメ!

・ダニ、ハウスダストが気になる方

・妊婦や小さいお子様がいて寝具に不安な方

・布団干しが重労働と感じる方

・質の高い睡眠にこだわりを持つ方









☆===================================================☆

☆===================================================☆






2017年09月24日

The Truth about Japan's War 5/5 : WGIP (War Guilt Information Program)

The Truth about Japan's War 5/5 : WGIP (War Guilt Information Program)

https://youtu.be/054h7aujgY0

The Truth about Japan's War 5/5 :
WGIP (War Guilt Information Program)


https://youtu.be/054h7aujgY0




Published on Mar 2, 2016

※Press code for Japan: To understand the fake and tortured Japanese public discourse
http://hittitemongolwomen.blogspot.jp...

※Prejudice Japanese-Americans Symbol Of Racial Intolerance
by Carey Mcwilliams
https://archive.org/stream/prejudicej...

※l※Anti-Asian riot in Vancouver: 1907
http://marcialalonde.weebly.com/uploa...

※The True Enemy of the Americans was Not Japan.
(引用)戦後70周年 At the 70th anniversary of the end of the Greater East Asian War
https://www.youtube.com/watch?v=u16YX...

※"Masochistic view of history" of WGIP (War Guilt Information Program) by GHQ
※Japanese Still Brainwashed by the War Guilt Information Program (Kent Gilbert)
https://www.youtube.com/watch?v=fpmFS...

※The Press Code:  After its defeat, Japan was occupied by the Allied forces for approximately six years and eight months. Hiroshima was placed under the governance of the British Commonwealth forces.
 Occupation policies included a press code established in September 1945 that provided for strict censorship of published and broadcast reporting. Particularly severe censorship of material related to the A-bomb delayed for years full reporting of the damage done. As a result, the Japanese people only very slowly came to understand the devastation that had occurred and the implications of atomic weapons.

※Greater East Asia Co-Prosperity Sphere, the War and Japan
https://www.youtube.com/watch?v=9tJek...
https://en.wikipedia.org/wiki/Greater...

※Glorious Imperial Japan, Greater East Asia Conference, November 5, 1943
https://www.youtube.com/watch?v=Ue2Lj...
https://www.youtube.com/watch?v=vxwQL...
https://www.youtube.com/watch?v=SDqF7...

※Historical Speech of Netaji Subhash Chandra Bose
https://www.youtube.com/watch?v=k4oTR...

※The Japanese Peace Treaty - J.R. Jayewardene (1951 Sep 01)
https://www.youtube.com/watch?v=e0FTw...

※Japan History /The Truth about Japan's War :
https://www.youtube.com/playlist?list...

Category People & Blogs
License Standard YouTube License



===================================================

===================================================









===================================================

===================================================




×

この広告は30日以上新しい記事の更新がないブログに表示されております。