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たか
歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年05月31日
龍馬伝22話を見て
新撰組、結構出てきましたね。

近藤勇役の原田さんは…。

立会の際にちょっと間抜けな表情に見えて、残念でした。


岡田以蔵、とうとう捕まってしまいました。

なかなか、魅せてくれましたね。

岡田以蔵って武市半平太の言うとおりに動いた暗殺者の為、ドラマの中で言っていた「何でわしがこんな目に合うんじゃ。正しい事をしちょったのに…。」という言葉は、恐らく本当の岡田以蔵の気持ちそのままだったんでしょうね。

しかしながら、彼は暗殺者でありながら、精神的に脆すぎた感じがしますね。

それが以蔵の運命を悲劇にしてしまったように思われます。
(もっと図太かったら、生き残れたんじゃないでしょうか…。)

ここから、土佐勤皇党及び、武市半平太の処刑が始まりますね。

ドラマにあった通り、土佐勤皇党の拷問は上士には及ぼさないので、上士になっていた武市半平太は拷問されません。

その他の土佐勤皇党の面々は拷問されましたが…。

武市にとっては、自分にはなんの肉体的苦痛も与えられず、自分の同志達が拷問される姿を見せられるのは本当につらかった事でしょうね。

約1年半強の獄中生活の後、武市半平太は切腹する事になります。

この男、優秀だったんでしょうが、どうも傲慢だったのかな?…。

というのは、攘夷の為なら、何をしてもいいという所が見えたり、それは殿さまの為、土佐藩の為と考えていたようです。

正直、独りよがりですね。

でも、山内容堂は維新後、武市を殺した事を後悔していたとか…。

武市半平太は、維新回天の流れの中で沈んでいった俊英ですね。

来週はいよいよ池田屋です。

新撰組がその名を全国に知らしめ、表舞台に躍り出る訳ですね。

新撰組も、輝かしい時代は一瞬ですが…。

次週の池田屋、どういう形で描くのかが楽しみです。

Posted by たか at 02:41 | 幕末 | この記事のURL
2010年05月28日
私的人斬り以蔵の実力評価
先日、YAHOO知恵袋に幕末関連でアクセスする機会があり、色々と質問や意見を見ました。

正直、バカげた意見や質問も多いのですが…。

そんな中で、ひときわ目立ったのが「岡田以蔵最強説」でした。

ちょっと言いすぎですが、岡田以蔵って剣の腕において本当に評価が高いんだなと、かなり驚きました。

私の中の以蔵という男は…。

当時の人々にかなり恐れられた存在ではあったと思いますが、剣の腕がそれ程凄かったんだろうか?という疑問があります。

正直言って、彼が暗殺にかかわったとされる人々の剣の腕が未知数なんですよね。

私の思う所では、以蔵に斬られた人達というのは、剣の腕はそれ程だったのでは?という気がしています。

そういう人達を斬って名を挙げた以蔵は…。

そんなに騒がれるほどの剣の腕ではなかったのでは?というのが正直な所です。

勿論、武市も一目置いたとされる剣の腕をけなす訳ではないのですが、だからと言って、幕末で最強ランクに置かれるのはどうかと思います。

「以蔵が凄い」という人は恐らく、「人斬り以蔵」というフレーズがあまりにも印象的でマッチしている為、必要以上に以蔵を強く感じてしまっているだけなのでは?と考えてます。

YAHOO知恵袋では、幕末で最強の剣士は?という質問では、大体名前を見かけますが…。

真剣を持っての勝負となれば、新撰組隊士の右に出る者はいないと思いますが…。
(しかも、幹部連中)

何故、私が新撰組隊士が一番と考えるかというと…。

彼らが多くの暗殺に関わっていて、実戦経験が豊富なのは勿論ですが、それよりも、彼等は倒幕派の面々からかなり憎まれていたようですからね。

新撰組の暗殺は集団戦法ですが、倒幕派にかなり憎まれている為、彼等は非番のときとか、一人で出歩いている所を襲われるという事があったのでは?と想像されるからです。

特に、近藤や土方と言った面々は格好の標的だったと想像されるのですが…。

勿論、ボディーガードがついていたりするんでしょうが、一人で出歩くことが皆無だったとは思えません。

すると、襲われる事もあったのでは?と…。

以蔵よりもずっと命を狙われる確率が高いですよね。

以蔵も幕府方、新撰組等から狙われていたのでしょうが、基本的に彼等の任務は「以蔵を捕らえる事」で、斬る事ではないのです。

その為、いきなり斬りかかる事はせず、まずは捕らえようとしたと考えられます。

まあ、捕らえる事が困難となった場合に斬るって所ですよね。

それに対し、新撰組を狙ったであろう倒幕派の面々の目的は、「近藤、土方を斬る事」となり、いきなり襲ってくるという事が考えられます。

近藤や土方はそういった死に方をせずに生き延びたという事は、不意をつかれた攻撃を捌くだけの力量があったと判断できるのでは?と考えております。

少なくとも、以蔵よりも土方、沖田と言った面々の方が実戦経験が豊富でしょう。

と考えると、比べるまでもなく、以蔵よりも新撰組の方が実戦では強かったと想像されます。

4大人斬りで比べても、恐らく中村半次郎が一番だったのでは?という気がしています。

あの西郷のボディーガードですからね。

となると、時代的背景や状況判断から考えて、幕末剣士の中で最強を議論する(これはこれでナンセンスと思いますが…)場で「以蔵が最強!」という言葉は胸を張って言えないと思うのですが…。

どうでしょう?

別に私は以蔵が嫌いなわけではなく、というかどちらかというと好感を持っている(同情しているだけ?)人間ですが、それはそれで実力を冷静に考えると、今述べたような結果になるのでは?と考えてます。

また、別に以蔵が弱かったと言っている訳ではありません。

彼も名の通った剣客です。

それ相応の実力を持っていたと思っています。
(ただ、最強と言われるとちょっと「異議あり」というだけです。)

ちなみに…。

以前読んだ本で、タイトルも覚えてないですし、事実を元にした事か、フィクションだったかも忘れましたが、「以蔵の剣術は型にはまらず、以外な所から攻撃してくる」といった話を読んだ記憶があります。

私が想像する真剣の立ち会いは、相手が何流か判明すると、相手の太刀筋がある程度想像できる為、攻撃をよけたり受けたりできるのではないかと考えているのですが、こういう型にはまらない剣術は恐いですよね。

そういう観点から言えば、想像できない攻撃を繰り出す以蔵が案外くせ者かもしれませんね。

Posted by たか at 03:10 | 幕末 | この記事のURL
2010年05月24日
龍馬伝21話を見て
とうとう、武市半平太がしょっぴかれました。

しょっぴかれるシーンは、かなり魅せてくれましたね。

とうとう土佐勤皇党は壊滅です。

それにしても、岩崎弥太郎、良い人になってきましたね。

やはり、三菱グループからクレームが来たからでしょうか…。

香川さんの演技は魅せてくれます。

また、勝海舟もちょっと魅せてくれましたね。

坂本龍馬が暇を欲しいというのに対し、「おめぇは俺の見込んだ男だ!」なんて言って止めています。

土佐に帰ったら土佐勤皇党の粛清に紛れて、一緒に投獄、殺害されかねないとの判断からでしょうね。

ただ、気になるのは…。

今回の放送の最後の方で、以蔵が捕り方に追い詰められてましたが…。

あれって新撰組ですよね。

???

岡田以蔵と新撰組って絡んでましたっけ?

私の記憶ではそんなシーンはないのですが…。

しかも、次回予告を見ていると龍馬とも絡んでますよね。

???

新撰組と龍馬って絡んでましたっけ?

こちらも、私の記憶ではないのですが…。

まあ、物語を盛り上げるためとは思いますが…。

冷静に考えたら、新撰組と坂本龍馬が絡んだシーンって無いですもんね。

でも、この時代をドラマにするにあたり、人気の新撰組を登場させない手はない。

そういった所から、こういうシーンが生まれたんですよね。

恐らく…。

新撰組好きの私としては、新撰組が出てくる事になんら文句はないですが…。
(むしろ、出てこない方が不満だったりしますが…。)

いよいよ、時代が沸騰してきました。

だんだん、龍馬伝にはまってきましたよ!!

Posted by たか at 01:05 | 幕末 | この記事のURL
2010年05月22日
ピラミッドの石はコンクリート?
昨晩の「みんなの教科SHOW」というテレビで、興味深い内容をやってました。

ギザの大ピラミッドなんですが、今までの通説で行くと「石切り場で石を切り出し、人力で運んで積み上げたもので、約25年の歳月をかけて作り上げられた」というものでした。

まあ、私の子供の頃の話と変わっているのは、以前は労働力として奴隷を使ったという事でしたが、近年では正式に雇った人を用いて、人夫には毎日決まった手当と、食事やビール等が配給されていたという資料が見つかり、こちらが定説になった事ですかね。

それが、このテレビを見ていると、石を積み上げたのではなく、コンクリートだったという説があるという事でした。

唱えられているのはフランスの学者の方(すみません名前を忘れました。)だそうです。

また、この学者はコンクリートの造り方まで話をしてました。

さっそく番組では、コンクリートの専門家(確か山口大学の名誉教授)を連れ、その通りのやり方でミニチュアのブロックを1つ造っていました。

そのコンクリートの造り方は…。

石切り場で、石を砕いたモノを採取し、ヤシの木の灰を混ぜ、水にミイラの防腐剤を混ぜたモノを混ぜ、型に入れて3日間待つというものでした。
(今回は入れませんでしたが、貝殻や、骨などを入れて強度を増したとも言われているそうです。)

この制作の過程で、コンクリートの専門家が以下の点を指摘されてました。

1.採石場には地層があり、ピラミッドサイズの石を切り出す事は難しい。
  (地層の部分で薄くはがれてしまう。)
2.ピラミッドの石には貝殻や骨が混ざったモノがあるが、採石場にそれらは無い。

次に、出来上がったモノを成分分析した所、ピラミッドの石は石膏、マグネシウムが入っているのに対し、今回制作した石にはそれらが入っていない(当然ですよね。混ぜてませんから。)ので違うモノとの判断でしたが、制作した石に石膏、マグネシウムを混入するとかなり近いものができると言っていました。

成分分析をされた方は以下の点を指摘されてました。
1.石膏やマグネシウムは天然の石には含まれておらず、人工的に入れないと含有されない。

これらを見ると、どうも人工的に造られた感がありますね。

そうすると、石を運ぶ手間はかなり軽減されますし、これが正しいんでは?なんて思ってしまいます。

現代では時代が進み、どんどん科学が進歩している現在では、歴史に対して科学的アプローチができ、それらによって新説が裏付けられたりしていますね。

子供のころに謎だった事が解明されていく…。

何か本当にわくわくしますね。

Posted by たか at 04:06 | その他 | この記事のURL
2010年05月20日
空城の計
三国志の名場面の一つとして「空城の計」があります。

昔から芝居などでもしばしば上演されたりもしています。

諸葛亮(ショカツリョウ)の施した計略の中でも有名なものですね。

経緯としては…

第一次北伐の際、先発の司令官に抜擢した馬謖(バショク)が大敗したので、孔明は全軍に撤退命令を出すのですが、そこへ司馬懿仲達(シバイチュウタツ)の率いる15万の大軍が攻めよせてきました。

対する孔明は西城という小さな城で撤退の指揮をとっていましたが、主力は全て前線に出払っていた為、城内には弱卒ばかりの2500の兵のみという状況。

早馬がひっきりなしに司馬懿軍の接近を知らせ、浮足立った城内の将兵は「すぐさま撤退を!」と口々に進言しますが、孔明は「待て待て。わしにいい考えがある。いまさら逃げた所で、すぐに捕まってしまう。ここはわしに任せておけ。」と言います。

孔明の指示は、全ての将兵を物陰に潜ませた上、全ての城門を開け放ち、城内には人がいないように見せかけます。

また、20人程の兵に農民の身なりをさせて、城門の辺りを箒で掃いているよう命じました。

孔明自身は、道士の服に着替え、少年二人を連れ城楼に上がり、香を焚き琴を奏で始めました。

一方、仲達の元には物見から報告を受けると自分の目で確かめると言って前線に出て自分の目で確かめると、物見の言った通りだった為、「孔明は元々用心深い男。危険をおかすような男ではない。これには何か計略があるに違いない。迂闊に攻め込んだらとんでもない事になる。」と言って、全軍を撤退させました。

城内の兵は中立つ軍が引いていくのを見て改めて孔明の智謀に感嘆したという話なんですが…。

初めてこのくだりを読んだ時、私の中では、かなり?マークでした。

というのも、小城に15万の兵で攻め込んで、城門が全て開かれ、おかしな状況だったとしても、撤退するんだろうか?という疑問が浮かびました。

兵法に照らし合わせて考えると、ここで司馬懿軍が取る戦略は包囲ですよね。

何故撤退する必要があるんだろう?という疑問が浮かびました。

司馬懿が背後を取られる心配をしたのであれば、おかしいですよね。

撤退する蜀軍を追ってきた訳ですから。

そこに孔明がいて、15万の大軍を率いていて「なんで撤退なん?」というのが正直な私の感想でした。

しかしながら、この疑問はすぐに解けました。

要はフィクションだったんですね。

悪い言い方をすれば、ウソ。

このエピソードは三国志演義のみに出てくる話で、孔明を天才軍師にしたてる為に造られた話でした。

気持ちはわかりますが…。

造るのであれば、もっとつじつまを合わせて造るべきとおもう今日この頃です。
(司馬懿が可哀そうですね。)

Posted by たか at 02:51 | 三国志 | この記事のURL
2010年05月17日
龍馬伝20話を見て
平井収二郎、等々切腹ですね。

もう宮迫さんは出てこない。

とうとう、土佐勤皇党から犠牲者が出ましたね。

武市半平太が完全に崩れてしまいました。

この武市半平太の失敗は、吉田東洋を斬り自身が権力をもつ事により、人を斬れば時代が動くと勘違いした所がそもそもの失敗ですね。

また、山内容堂を測りきれなかった所も、この人の失敗ですね。

究極は、攘夷の為には何をしてもいいと思っていた節がありますが、そこも彼の失敗と考えられます。

そもそも、武市の考えた攘夷ってなんだったんでしょうね。

その骨子は、私は知らないのですが、どうも異人を斬り鎖国を貫く、というおよそ実現不可能な事だったように思えます。

この人は教義もあり、剣の腕も立ち、人望もあるというかなり優れた男なんですが、恐らく、黒船を直に見た事がなかったのでは?と思わせる人ですね。

1度でも、航海術を勉強して、異国の文化の優位性を知ることがあれば、こんなに凝り固まった思想にはならなかったのでは?と思われます。

本当に惜しい人物ですね。

一歩考え方を進化させれば、もっともっと大きな仕事のできた人物だったのでは?と思わせる人物です。

次週はとうとう八月十八日の政変ですね。

会津藩と薩摩藩が手を結び、朝廷に働きかけ長州を九門警護から外し、京都を追放される訳ですね。

新撰組好きの私としては、「もうすぐ出てくる!」という期待をもっているのですが…どうでしょう?

Posted by たか at 03:13 | 幕末 | この記事のURL
2010年05月13日
三国一の色男、周瑜公瑾
周瑜公瑾(シュウユコウキン/公瑾は字)は呉の国建国の功臣です。

三国志演義では諸葛亮(ショカツリョウ)の引き立て役にされ、不当な評価を後世に残した可哀そうな智将です。

正史三国志においては、あまり人の見かけを記載していないのですが、この男に関しては特に「美周郎」と呼ばれたと記載があります。

かなり外見が美しい男だったんでしょうね。

主君である孫策(ソンサク)とは義兄弟ですね。

というのも、孫策の妻と周瑜の妻が姉妹ですから…。

映画「レッドクリフ」では主役でした。

三国志演義においては、本当に不当に陥れられています。

赤壁の戦いにおける彼は、無残にも諸葛亮の引き立て役にさせられてますね。

諸葛亮の才能をねたみ、諸葛亮をなんとか殺そうとしてそのすべてを諸葛亮に見切られ、逆に全て返されています。

諸葛亮を危険視したのかも知れませんが、そんな男ではないと思いますが…。

正史においては、「寛大な性格で、人の心をつかむのが旨かった」と記載されています。

呉の宿将である程普(テイフ)は、周瑜が若輩者であるにも関わらず、自分と同等の地位にいる事に反感を持ち、周瑜とは折り合いが悪く度々周瑜を侮辱していたようですが、周瑜はそんな程普にたいしてあくまで膝を屈して謙譲の姿勢で接した為、程普も感服し、周瑜を尊重するようになったというエピソードも正史に見られます。

そんな周瑜は三国志演義において傲慢で、短慮で、諸葛亮の才を妬むという形で記載されています。

これはひどすぎますよね。

程普に対する姿から見ても、周瑜という男はそんな傲慢でもなく、短慮でもなく、本当に自身を慎む男だった事が分かります。

以前、魯粛(ロシュク)について記載(2010年3月11日「魯粛は伊達じゃない!)しましたが、三国志演義というのは時に人の能力や人格を曲げてまで、諸葛亮を引き立てるように記載されてます。

曹操なんかも、かなり曲げて記載されてますね。

三国志演義の作者は作家としてはかなり優秀ですが、あまりにも人物を曲げて記載している事が多いですね。

その為、無駄に恨みを買ったり、バカにされてきた武将の何と多い事か…。

周瑜という男は程普が言ったとされる次の言葉で全てが表されていると思います。

「周瑜は上等な酒のような人物。知らぬ間に酔わされてしまう。」

なかなか奥ゆかしい男だったようですね。

また、そんな彼は音楽にも精通してました。

正史にあるエピソードですが、宴会で酒に酔っていても、演奏者(当時の宴会の場は、人が曲を演奏している中で酒を飲んでいました。)が僅かでも間違えば、周瑜は気づいたそうです。

その為当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を造ったそうです。

なかなかの風流人ですね。

戦においては鬼謀を発揮する智将、人との付き合いでは寛大で慎み深く、音楽に精通した風流人、そしてさらにかなりのイケメン。

何とも文句のつけようのない男ですね。

この人は36歳という若さで死にましたが、もっと長生きしていれば、歴史はかなり変わっていたと思わせる人物ですね。

Posted by たか at 00:46 | 三国志 | この記事のURL
2010年05月11日
龍馬はどんな人?
最近、大河ドラマの影響で、私のブログに訪問して頂ける方々も、龍馬関連で検索されて訪問して頂くケースが多いです。

本当に、ありがたい話です。

リンク元をたどると、どういった検索エンジンで、どういった言葉で検索されたのか、何ページ目に表示されたのかが見れるのですが、その際に、その検索でヒットした他のHPやブログも表示されます。

そこで、色々と興味を持って見るのですが…。

本当に龍馬という男は多くの方に議論されてますね。

凄い事です。

龍馬を語っている人を分類すると大体傾向が見えます。

1.龍馬を神格化して手放しでほめる人
2.そこに反発して手放しでけなす人
3.龍馬は武士というより商人という人
4.龍馬の認める部分と認めない部分をもっている人

などでしょうか。

まず、1の龍馬を手放しでほめる人は、恐らくそのほとんどは「竜馬が行く」を読んだ人か、もしくはそれを読んでかなり影響された人が書いた小説や漫画を読んだ人でしょうか。

正直それはかなりのフィクションです。

司馬遼太郎氏自身「竜馬」というフィクションを書いたと認めてますし…。
(だから字が龍馬ではない。)

ちょっと危険な龍馬ファンですね。

2の龍馬を手放しでけなす人はそれを知っていて、手放しで龍馬をほめる人に反感を持っている人でしょうね。
(もしくは単純に人気をねたんでる人か…。)

3の龍馬は商人という人に関しては、これはある意味当たっているのですが…ただ、私が読んだ記事の中には「むしろ龍馬は松下幸之助のような商人…云々」と記載してる人がいました。

私も、龍馬の発想は商人と思いますが、これに関しては…。

確かに龍馬の発想は商人的ですが、松下幸之助と比べるとその足元にも及ばないですね。

だって、亀山社中はずっと経営難ですし、挙句の果てには倒産してますしね…。

世界のPanasonicを造った松下幸之助氏と比べるのは失礼というものでしょう。

4の龍馬の認める部分と認めない部分をもった人については…。

私もこの部類に入るのかもしれませんが(2の龍馬を手放しでほめる人に反感をもつというのも結構あります。)、要は、剣の腕はいまいちも薩長同盟、船中八策、大政奉還は認めるとか…。

正直、刀を抜かなかった龍馬の剣の腕を測る事はできないのですが…。
(ですから、このブログでは、私はこう思うって所を記載しましたが…。興味のある方は2010年3月18日に記載してますので、ご覧ください。)

私としては、このブログで結構龍馬の悪口を書いてきましたが、根本的な所としては、それほど嫌いではなく、単に「龍馬という男は点でしか物事を見る事が出来なかったのでは?」と思ってます。

その根拠としては…。

まずは亀山社中と薩長同盟。

これは武器を長州に入れて、長州の武力を増強する目的と、お金を儲けたいという事を商人的発想で結びつけた結果の事と思われますが、明らかに武力討幕の片棒を担いでますよね。

次に暗殺される頃の龍馬は武力討幕を回避する為に動いています。

薩長同盟と亀山社中の頃の龍馬の動きは、明らかに薩摩と長州の武力討幕を助けている動きですが、暗殺される頃は武力討幕を回避する方向に動いている。

年代で行くと、

1865年5月頃、亀山社中発足、1866年1月22日薩長同盟、1867年11月15日龍馬暗殺。

わずか2年半程の間に考えが180°変わっている訳です。

これをどう見るかですね。

このブログでも何度か記載しましたが、坂本龍馬は死の商人(武器を売って利益を得る商人)だった訳です。

それが戦争をしない方向に動くのにわずか2年ほど。

死の商人の頃は、やっぱりグラバーに乗せられていたのでしょうか。

どんどん武器を売って…。

でも利益が出てないので、どうも商売としてはうまく行ってないですよね。

そこが亀山社中のあやしさです。

海援隊の頃に「いろは丸事件」で大金をせしめた(いわゆる当たり屋)事がありますが、これなんかは、この時本当にお金に困っていたんでは?なんて思ってしまいますが…。
(残っている記録を読むと、どうも海援隊側の操船に問題があったようですし…。)

私の考えでは、その場その場で考え方がころころ変わる男ですね。
(正直、頭の回転は速かったのかも知れませんが、頭の良い男ではないと思います。)

このブログで以前に書いた通り、私の龍馬観は…。

昔は龍馬の事が好きだったのですが、知れば知るほど嫌いになった男です。

結局、考えに一貫性がなかったのでは?という所に行きついたのが、そもそもの嫌いになっていく発端だったんですが…。

龍馬を英雄視した小説等は、暗殺された頃の龍馬の考え方(武力討幕を阻止する動き)から逆算して書いていった物で、一貫してそれを貫いていたとして書かれるので、先見性があり、信念を貫いた男というイメージを与えますが、実際は違ったと思ってます。

ただ、彼がいなければ薩摩と長州が手を結べなかった訳で、犬猿の仲だった薩摩と長州の手を結ばせたという所は、彼の大きな功績と言えると思います。

これが無ければ、倒幕はできないですからね。
(勿論、倒幕が良かったのか悪かったのかの議論はここでは省きます。)

結局彼は英雄なんですが、多くの人が手放しでほめるのは、「彼の行動を全て良いように取りすぎやで!」って言いたくなるんです。

結局、私の中の龍馬像は…。

かなりのミーハーで、少ししか知らない事でもかなり知っているように見せ、大風呂敷を広げるのが得意な中身の薄い男。

でも、その子供っぽさが人を惹きつけてやまない仁徳につながる不思議な魅力をもった男。

ってとこですかね。

Posted by たか at 03:50 | 幕末 | この記事のURL
2010年05月10日
龍馬伝19話を見て
とうとう、山内容堂の怪物っぷりが発揮されてきましたね。

土佐勤皇党の粛清が始まりました。

山内容堂はドラマの中でもあった通り、風向きを見るに非常に敏な人でした。

武市半平太を吉田東洋を殺した男としてずっと許さないくせに、攘夷の気風が高いうちはうまく使い、風向きが変わった瞬間粛清するという、人としてはかなり冷酷ですが、うまく立ち回った男ですよね。

さすがは山内一豊の子孫!!

この冷酷さは、武市半平太が下士の出だからですよね。

やっぱり山内家は下士をかなり嫌っていたんですよ。

まあ、下士は元々長曾我部の配下ですもんね。
けっして山内家の配下ではない。

山内一豊が土佐に赴任してきた際に、結構反乱おこしたりしましたもんね。

江戸時代初期において、外様である山内一豊にとってはかなり恐ろしい事だったでしょうね。

反乱なんかを起こすと「その土地を治める能力がない。」なんて難癖つけられてお家断絶なんて事も、かなりな確立である訳ですからね。

土佐藩は代を重ねるごとにそういった恨みが積み重なっていったんでしょうね。

そういった所が、使い捨てにしてもなんとも思わない所以でしょうね。

この山内容堂は幕末四賢侯のひとりですが、現代の人からみれば「どこがやねん!!腹黒すぎ!!」なんて言いたくなるかもしれませんが、まあ、こんなもんですよ。

全体的に見れば山内容堂は、常にスポットライトを浴びる役回りを通ってきたんですからね。

この後の放送でも出くるでしょうが、徳川家に大政奉還の建白書を提出するのもこの人ですしね。
(原案は龍馬)

やっぱり賢侯ですかね。

しかし放送後半の武市はかっこよく描きましたね。

死を覚悟して土佐に帰るという形に仕上げましたか。

成程成程。

以蔵もとうとう追い詰められましたね。

来週、再来週ぐらいは土佐勤皇党の粛清という事で、ちょっと凄惨なシーンになりそうですね。

Posted by たか at 00:06 | 幕末 | この記事のURL
2010年05月08日
黄巾の乱
三国時代の幕開けとも言える黄巾の乱。

これは張角(チョウカク)をトップとする太平道が漢王朝に対して自分の信者達を率いて起こした反乱ですね。

この張角という男。

実はいろんな説があり、実は清流派の知識人では?という話もあります。

また、科挙(カキョ/役人になる為の試験)を2度受けて2度とも落ちているそうです。

こうみると、悲しい男ですね。

この人が何故、太平道という宗教を起こし、力を持てるようになったかというと…。

まず、この人が行ったのは治療です。

患者が現れると、受付であれこれ病状を聞かれます。

一応の問診が終わった後、張角のいる部屋に通されて、そこで張角が患者を見てすぐに「あなたは膝が悪いのですね。」とか言ってその病状をあててしまいます。

処方される薬は布なのか紙なのか、はたまた板なのか分からないですが字を書いた符を渡し、それを水に浸して飲むというだけなんですが…。

こんなので治る訳はないのですが、治らなければ「信仰心が足りない」と言ってその治療を続けるそうです。
(今でもこんな話はちらほらと聞きますが…。)

張角が病状を看破するタネを明かすと、受付で病状を聞いた人が患者と一緒に張角の部屋に入り、患者の後ろから持っていた竹の棒の節目と指で張角にサインを送って病状を知らせていたんですね。

成程、かなりなペテンです。

しかしながら、当時は迷信や邪教がはびこる世の中。

こんなペテンでも一般民衆は「神だ!」なんて思う訳なんですね。

それで信者になる訳ですね。

また、当時の中国は皇帝である霊帝(レイテイ)が売官制度(バイカンセイド)というバカげたことをし始めたんですね。

これは大将軍とか、州牧、太守、とかいった役職を売る訳です。

勿論、上の位や肥沃な土地を治める役職程高い訳ですが…。

当然、その官位を買った人達は任地に行って買った費用の元を取ろうとする訳ですからそこの住民に対し重い税を課します。

また、土地土地には太守等の他にそこを治めている豪族がいたりします。

そうすると、彼等は陰祠邪教等の祠を作り、そこへの貢ぎ物という形で税金を徴収したりするため、結局農民は二重、三重の税を納めることになり、自分で耕した物が殆ど残らない状況になります。

そうすると、農地を捨てる農民が増え、太平道等の勢力に寄りかかる人が出てくる訳ですね。

そういった人達を集めて、結局太平道というのは何十万という民を率いることができ、この民衆が一斉に立ち上がったのが黄巾の乱ですね。

このおかげで劉備(リュウビ)や曹操(ソウソウ)、孫権(ソンケン)といった人達が世に出る事になるのですが…。

ただ、張角という男、清流派の知識人だったとしたら…。

こんな形の乱は起こっていないような気がするのですが…。

どちらかというと、そこまで大きな勢力を手にした訳ですから、知名度としてはかなりメジャーになっていますよね。

もし彼が清流派の知識人であったとすれば、もっと平和裏に朝廷に接触し、皇帝を太平道の信者にし、皇帝を操ることで自分の理想とする国の形を作ると思うのですが…。

実際はそうしなかった…というかできなかった。

というより、そういう発想がなかったような気がするのですが…。

そう考えると…。

やっぱり、張角自身あまり質のいい人間ではなかったと私は考えております。

Posted by たか at 03:08 | 三国志 | この記事のURL
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