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2010年01月30日
楊修の死
楊修(ヨウシュウ)は「四世大尉」と言われた名門に生まれた男です。

ちなみに、大尉とは当時で最高の役職であった3つの位の内の一つです。

そんな名門でしかも、かなりの頭の切れを持っていたようです。

この男、三国志演義では有名な話「鶏肋(鶏のあばら骨)」の故事で殺されてしまいます。

故事の概略としては…

219年、曹操(ソウソウ)は漢中(カンチュウ)という地を劉備(リュウビ)と争っていましたが、曹操軍が苦戦を強いられた時「鶏肋」という言葉を発しますが、それを聞いた楊修が撤退の準備を始めます。

人々が楊修に「あなたは何故撤退の準備をするのか?」というと曹操が言った「鶏肋」に対し、「鶏肋(鶏のあばら骨)は、捨てるには惜しいが、食べても腹の足しになるほど肉がついてない」、すなわち「惜しいが今が撤退の潮時」と解釈し、撤退の準備を命じたと言いました。

そんな楊修に曹操は驚き、「あの頭の切れは危険。自分の事を見通し過ぎている。」と判断して楊修を斬る訳ですが…。

このエピソードはおかしいですよね。

曹操程の人材マニアにとってはよだれが出る人材じゃないですか。

三国志演義は曹操を必要以上に悪く書いている為、この漢中からの撤退の後、楊修が斬られたことにかけて、こういう逸話を残したんでしょうね。

実際はこの時期の曹操には後継者問題がありました。

次男曹丕(ソウヒ)と三男曹植(ソウショク)のどちらを後継者とするかという問題です。
(長男はすでに戦死)

楊修という人は、曹操の三男曹植(ソウショク)の学問の師で後継者問題に関わる程曹植に肩入れしたので自分が死んだ後、害になると考えて因縁をつけて殺したというのが正しい所でしょうね。

中国、日本にかかわらず、後継者問題は良くありますが、大体は後継者本人よりも、その周りの家臣が煽りたてるんですよね。
(自分達の身入りを増やしたいので)

そういった事が家を滅ぼす原因になったりする事を考えると、愚かな行為ですね。

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Posted by たか at 15:34 | 三国志 | この記事のURL
2010年01月29日
三国志演義における諸葛亮の不覚
またまた、諸葛亮(ショカツリョウ)ネタですが…。

三国志には正史と三国志演義という2種類がありますよね。

まあ、ざくっと言えば、正史三国志とは、中国の正式な歴史として認められたもので、三国志演義とは、正史三国志を元に書かれた小説ですね。

日本で一般的に「三国志」と言えば三国志演義を指します。
(まあ、日本の三国志のベースは吉川英治氏、柴田練三郎氏、横山光輝氏等が書かれた三国志が一般的で、それらは三国志演義を元に書かれています。)

三国志演義に出てくる諸葛亮がスーパー軍師で、戦争から外交、内政と、あらゆる局面において完璧な人物として記載されてます。
(正史の諸葛亮というのはちょっと戦争が苦手だったようですが…。)

劉備(リュウビ)を正統として主人公にしている三国志演義ですので、その劉備を支えた諸葛亮は天才軍師でなければいけないという事で、これほどまでに脚色されたんでしょうが…。

そんな、最強軍師に脚色された三国志演義における諸葛亮の事績を見ると、ほぼ完璧なんですが、やはり、傷があります。

それは、劉備に仕えてしばらくした頃、曹操(ソウソウ)が南下してきます。

その際、襄陽(ジョウヨウ)にいる劉j(リュウソウ 父劉表が死んで後継者となる)が曹操軍が攻めて来るという情報に接しすぐに降伏した為、劉備は敵地の真っただ中に置き去りにされた形になってしまいます。

この部分がスーパー諸葛亮の傷となります。

あれほどの天才を発揮する軍師の割には、劉jの降伏を知らないんですね。

新野から撤退してきた劉備軍が襄陽城から矢を浴びせられますが、この状況が諸葛亮がその降伏を知らなかった証拠ですね。

諸葛亮は襄陽にいながら、劉表には仕えず劉備を選んだ訳です。

それは暗黙のうちに劉表政権はNGと言っているのと同じですよね。

劉表の政権に不信感を持っていた彼だからこそ、劉備軍団に入っても劉表政権には間諜をしのばせておくべきなのではないでしょうか?

それをしなかった諸葛亮はスーパーに描く上で少し違和感があるような感じです。

ここでの情報不足は致命的な事になりかねません。

たまたま内応者達のおかげで生き延びる事が出来ましたが…。

まあ、歴史の事実がある上でそこにスーパー軍師として描くという無理からこういった所が出てくるんですね。

念の為ですが、私は別に諸葛亮が嫌いな訳ではなく、どちらかというと好感を持っている人物です。

ただ、三国志演義の諸葛亮はなんとなく人間味が無く、ペテン師に見えてしまいます。

この人は正史の記述の方が人間味があり、良いような気がします。

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Posted by たか at 01:04 | 三国志 | この記事のURL
2010年01月28日
天下三分の計
何とも、諸葛亮(ショカツリョウ)ネタばかり続きましてすみません。

諸葛亮で一番有名な言葉といえばやはり「天下三分の計」でしょう。

彼は三顧の礼(昨日の記事の通りあったのかどうか微妙な所ですが…)をつくしてようやく孔明と出会った際に孔明が語る戦略構想ですね。

概略としては曹操(ソウソウ)は強大なので、今の状態で戦をするのは難しい。
孫権(ソンケン)は長江という天嶮にも恵まれ、臣下も豊富。
こことは戦うのではなく手を取り合うべき。
そこで劉備(リュウビ)としては劉表(リュウヒョウ)が治める荊州(ケイシュウ)と劉章(リュウショウ)が治める益州(エキシュウ)を取り、中国を三分して治め、孫権と手を結び、曹操に対抗するという策です。
(隆中策とも言われます。)

しかしながら、これは本当に検索したのかどうか微妙な話だそうです。
(結果として三分されましたが…。)

まあ、こういう献策があったとして記事を記載します。

諸葛亮は天下三分を唱えましたが、かたや孫権陣営では、周瑜(シュウユ)、魯粛(ロシュク)といった人材が孫権に対して「天下二分」の構想を提示していたようです。

その内容というのは、呉から荊州の劉表、益州の劉章を攻め取り、中国を北と南で分断した後、北の曹操に決戦を挑むという方策ですね。

まあ、普通に考えたらこれが献策されるべき戦略ですよね。

ただ、当時の劉備には地盤がないので、そんな事は無理だった訳ですね。

しかしながら、天下二分構想と天下三分構想ではどちらが優れているか…。

私的にはやはり三分構想の方が優れていると思われます。

天下を三分すると、3つの勢力が金縛りにあうんですね。

1国が他国を攻めると、その2国間で戦っている間に第3の勢力が漁夫の利を得る事になりますよね。

その為膠着してしまいます。

恐らく、天下三分では天下統一まで持って行くのが難しいと思うのですが、膠着状態を作る事により、戦を小休止する事ができ、国力を富ませる事が出来ます。

また、戦争に疲れた民にも休息を与える事ができます。

上手い事やれば、もしかしたら今の中国は無く、その3国が独立したまま現在に至っていたかも知れませんね。

戦争を早く終わらせるとか、民に休息を与えるという意味では三分構想が一番手っ取り早いですね。

ちなみに、天下二分構想が成立すると、決戦となりそこに勝利した方が勢いに乗り統一するという形になりやすいので、戦争状態に休息を与える事はできないですが、案外早い天下統一を迎える事が出来るでしょうね。

当時の中国の状況を考えた場合、天下三分が一番安定して良かったのでは?と思われます。
(ただ、歴史はあまり休息の時間を与えませんでしたが…。)

長い中国の歴史において、天下三分という状況はこの時代以外にもありました。

それは漢王朝を樹立した劉邦(リュウホウ)が項籍(羽/コウセキ いわゆるコウウですね)と戦っていた折、劉邦支配下の韓信(カンシン)が斉の辺りで独立できるほどの勢力を持っていました。

この時、カイ通(カイトウ/字が表示されません)の進言に韓信が耳を傾けていれば、三国の時代が来たかも知れません。

が、彼は進言を入れず、劉邦に味方をして項羽を滅ぼし、中国は天下統一となる訳ですね。

その後、韓信は不幸な最後を遂げますが…。

結局、韓信も天下三分を実現できる所までは行きながら実現できませんでした。

そう考えると、正真正銘天下三分を実現させた諸葛亮は偉い男ですね。












Posted by たか at 01:55 | 三国志 | この記事のURL
2010年01月27日
三顧の礼
「三顧の礼(サンコノレイ)」という言葉は三国志を読まれた方はもちろん、読まれていない方も耳にした事のある言葉では無いでしょか。

言葉としては現代では故事成語の一つとして使われる言葉です。

三顧の礼の概略としては、207年に荊州(ケイシュウ)の劉表(リュウヒョウ)に客分として養われていた劉備(リュウビ)が諸葛亮孔明(ショカツリョウコウメイ)を参謀として迎える為に3度孔明の庵を訪れてようやく幕下に加える事が出来たという故事です。

そこから、重要な人材を招く際に使われる言葉として現代にも残っています。

ちなみに、日本史では戦国時代に羽柴秀吉が竹中(半兵衛)重治を迎える際に三顧の礼をつくしたとして出てきます。
(この際は7度訪れたとか9度訪れたといった話も…。)

三国志演義を読んでいると、このくだりは孔明の神秘性や、その後の活躍を期待させるに十分な効果を持ってます。

しかしながら、あまりにも有名なこの故事、無かったという説もあるのをご存知でしょうか?
(って有名な話なので、知っている人も多いですよね。)

三国志の時代を書いた歴史書の中で「魏略(ギリャク)」という書物があります。

これによると、「諸葛亮は自分から劉備に会いに出向いた」という記載があるそうです。

この事は正史三国志の中でもその注釈を書いた裴松之(ハイショウシ)が指摘されてます。

三顧の礼というのは普通に考えればあり得ない話なんですよね。

現代でいえば、47歳の大臣経験者が27歳の大学を出て家業(この場合は農業)にいそしんでいる人物の元にスカウトに表れて、しかも3度も訪れたという状況になるでしょうか…。

いかに名声が高くてもそんな事があり得るでしょうか?

また、言葉は通じたのでしょうか?という問題もあります。

当時の中国は言語が統一されていませんので…。

まあ、普通に考えたらあり得ない話ですよね。

ただ、三顧の礼は事実とする根拠もあります。

それは、正史三国志の中に北伐に向かう孔明が劉禅(リュウゼン/劉備の子、蜀の2代皇帝)に奉ったと言われる「出師の表(スイシノヒョウ)」です。

一応、この文は諸葛亮の作とされ、この文の中に「三度草盧のうちに顧み…」ときうくだりがあります。

これがもし、正確に伝わっているとすれば、一番信憑性の高い資料という事になります。

私的には…

三顧の礼は常識から考えるとあり得ないのですが常識で測れないのが劉備。

あってもおかしくないかな?なんて思います。
(諸葛亮本人も言ってますし、ロマン的にもあった方が面白いですしね。)









Posted by たか at 14:58 | 三国志 | この記事のURL
2010年01月26日
梁歩吟
梁歩吟(リョウホギン)という言葉を御存じでしょうか?

三国志に少し詳しい人なら分かるかと思いますが…。

言葉だけならば土井晩翠氏作の「星落秋風五丈原」という詩にも出てきます。

梁歩吟とは、天才軍師として有名な諸葛亮孔明がまだ世に出る前に畑を耕しながらよく詠っていたという詩です。

歌の内容の和約は以下の通り。

 斉城の門を出て少し歩くと
 遥かに蕩陰の里が見える

 里には三つの墓があって
 重なり合って見分けがつかぬ

 この墓は誰のものでしょう?
 田彊(デンキョウ)と古冶子(コヤシ)のものです

 彼らの力は南山をどかすほど
 彼らの文は大地をつなぐ綱を断つほど

 でもひとたび朝にそしられたりすれば
 二つの桃で三人のますらおを殺すもやすし

 だれにそんなうまいはかりごとができたのか
 斉の宰相晏嬰(アンエイ)様にほかならぬ

といった詩です。

この詩は春秋時代の故事「二桃をもって三士を殺す」を詠んだ詩です。

晏嬰とは、春秋時代の斉国における名宰相の事で、三士というのは斉の景公に仕えた田開彊(デンカイキョウ)、古冶子、公孫接(コウソンセツ)の事です。
(ちなみに晏嬰は晏子/アンシ、晏平仲/アンヘイチュウ ともいわれます。)

この三士は非常に文武に優れた家臣でしたが、三人が力を合わせると景公に取って代わる事が出来ると案じた晏嬰がこの三士を謀略をもって取り除く事を考えます。

晏嬰は三士を呼び二つの桃を差しだして「君(景公)の贈り物である。功が多いと思う者がこれを取り食べろ」と言います。

公孫接、田開彊が先に桃を取ると古冶子が「私に功績が無いというのか」と言って自分の功績を列挙しだします。

それを聞いているうちに公孫接、田開彊は自分のいやしさを恥じて自害しました。

それを見た古冶子は「功臣を二人も死に追いやった。」という事で、自分も自害します。

こうして、たった二つの桃で功臣である三士を除いたという故事です。

これは、晏嬰の機転を褒めたものか、晏嬰の冷酷さを非難したものか判断に迷う故事ですね。

一応、晏嬰というのは名臣で語り継がれている訳ですからほめていると取って良いんでしょうね。
(この辺の中国人の微妙なニュアンスが、どれだけ中国の本を読んでもつかみきれない所です。)

ちなみに、私個人としては晏嬰は素晴らしい宰相だとは思いますが、その父親である晏弱の方が分かりやすい格好良さを持っていて好きです。
(晏子と言うと、この父親も含めて呼ぶ場合があります。)

この詩に諸葛亮はどんな思いをはせるいたのでしょうか?

推測するに、

1.晏嬰のようになりたい。

2.自分に晏嬰のような策を用いる事が出来るだろうか?

3.自分なら晏嬰のように非情になれる。

と言った辺りでしょうか…。

なんにせよ、諸葛亮は晏嬰を意識していた事は間違いないですね。
(彼の生まれた徐州琅邪ですから、斉国ですしね…。)

Posted by たか at 02:58 | 三国志 | この記事のURL
2010年01月25日
龍馬伝第4話を見て
昨日は「龍馬伝」4話が放送されました。

う〜ん。

面白いと言えば面白いのですが…。

ちょっと龍馬がきれいすぎるような…。

もっと汚くていいのでは?と思います。
(弥太郎はあんなに汚いのにね。ちなみに三菱からクレーム出てるそうですね。)

ただ、龍馬の話というのは今後どういう風に描いていくのか?という興味をそそられますので1年を通じて見れるかも知れませんね。

大河ドラマ恒例の歴史紀行もみましたが、北辰一刀流でしたね。

剣術の流派というのはほんと綿々と受け継がれて今に残っているっていうのもいいですね。
(新撰組の天然理心流も残ってますよ。毎年5月にはお披露目があるそうなので、今年はいきたいと思ってます。)

現代はスピードや情報、変革といった言葉が大事にされてますが、昔から変わらず伝わっている物も大事にしていきたいですね。

そもそも、昔の人達(戦国とかそれ以前とか…)はさらに昔の事を手本に色々とされてましたね。

特に領国経営や政治といった部分は昔のやり方等をうまく取り入れていました。

歴史というのは振り返って参考にする教科書でもあります。

今の時代、政治家や企業達が前ばかり向いています。

特に企業なんかは「日本式経営の撤廃」とか、「アメリカ式経営」とか…。

日本の古き良き方策等もあると思うんですが…。
(そもそも、アメリカ式経営と言われて長いですが、アメリカ人と日本人は全く違う人種ですし、人を管理する上でマッチするとは思えないのですが…。)

一旦、立ち止まって、昔を振り返り、今の時代にマッチさせて実行するなんて事も必要なのではないでしょうか…。

Posted by たか at 18:37 | 幕末 | この記事のURL
2010年01月23日
桶狭間の合戦の謎
以前、このブログで、2009年10月27日の記事「桶狭間という名の招く誤解」(fanblogをご覧の方は申し訳ございませんが、ブログの中のリンク集から「私的歴史道seesaa版」で飛んで頂くと、以前の記事を見ていただけます)で少し述べましたが、本日もまた桶狭間について記載したいと思います。

ご存じの通り、織田信長のメジャーデビュー戦で一般的には京を目指して進軍してくる今川軍を信長は約10分の1の兵力で勝利した戦いです。

ちなみに、前の記事でも述べてますが、今川は駿府(今の静岡県)にいて京を目指すという事は途中に織田、斉藤、浅井、六角と言った面々を撃破しなければ京に辿りつかないので、普通に尾張を攻めただけと思われます。

以前述べたのは
1.桶狭間の史跡は2つある。
2.桶狭間は谷ではなく山である。
3.信長の奇襲ではなかったかも?
4.手柄を立てた武将は地味。

といった事を書きました。

一部内容がかぶるかもしれませんが、また記載します。

一番基本的な謎は今川軍の正式な兵力が分かってないのです。

私も多くの本で桶狭間を読みましたが、2万4千とか3万5千とか、4万とか…「どれが本当なん?」って言いたくなるような記載でした。

ちなみにWikipediaで桶狭間の戦いを調べると下の方にまとめてあったので引用します。
(まあ、Wikipediaだけに絶対正しいデータかは保証できませんが…。)

当時の資料で桶狭間の記載がある物を列挙すると…。

甲陽軍鑑     2万余
武功夜話     3万余
徳川実紀     4万余
武徳編年集成   4万余
総見記      4万余
信長公記     4万5千
改正三河後風土記 4万5千
信長記      数万騎
絵本太閤記    5万余

ほんとばらばらですね。

当時は写真もTVもラジオも無く、当然情報に混乱はあるでしょうが、一番少ない兵力と一番多い兵力が倍の誤差って…。

恐らく、「信長が何か凄い事をした!」っていう感覚でいろんな尾ひれがついて各地に伝わったんでしょうね。

それよりも、前にも述べたこの戦で手柄を立てた方々が不思議です。

今川義元に初太刀を浴びせた服部小兵太、討ち取った毛利新助、義元の位置をつかんだ簗田政綱(ヤナダマサツナ)。

ちなみにこの戦の勲功第一は簗田政綱ですが、この人たち、この後の信長軍で重要な役割を果たしません。

簗田政綱は沓掛城主となったらしいですが、服部小兵太は秀吉の時代に松坂城主(時間流れすぎ!)、毛利新助にいたっては本能寺の変で信長の長男、信忠と一緒に戦って戦死という、信長の生死をかけた戦いで活躍した彼らのその後が地味なのも謎な所です。

勿論、この戦いがどういう経緯で決着がついたのかも謎。

奇襲説、正攻法説、偶然説など、色々と入り乱れてます。

私が思うに、結果として信長が今川を討ち取った際、日本中は恐らく仰天したでしょうが、他の大名達により以上の凄味を感じてもらう為にあえて神秘的に脚色したイメージを流し、この戦の全体像がつかめないようにしたのでは?と一人考えています。

2010年01月22日
介子推
介子推(カイシスイ)という男をご存知でしょうか?

本当の名前は介推(カイスイ)と言いますが、子という文字は中国においては尊敬を表す敬称であったり師匠を意味する文字になります。
(孫子/ソンシ や孔子/コウシ の子も同じ意味ですね。ちなみに孫子は孫武/ソンブ、孔子は孔丘/コウキュウ と言うのが本当の名前です。)

この人、史記や十八史略にも載ってはいますがあまり記載は多くありません。

その為、私の介子推の知識は宮城谷昌光氏が書かれた小説「重耳」及び、「介子推」による所が大なのですが…。

中国の春秋時代に2番目の覇者として君臨した重耳(チョウジ)に仕え、お家騒動により19年間の放浪を余儀なくされた重耳の為に、刺客の刃から守り続け、その飢えをしのぐ為に食糧を調達したり、全身全霊で主君に仕えた男です。

ただ、そういう活躍は陰でなされたもので、重耳に介推の名が届く事はありませんでした。

ようやく晋に帰れる時になって、晋からの内応者が重耳を迎えに来ます。

重耳の側近達は19年間辛苦を共にしてきたのに対し、ほんの数カ月働いただけの内応者が高い位につく事に不快感を持っていた為、重耳の右腕である狐偃/コエン(咎犯/キュウハン) がひと演技して「重耳の元を去りたい」と申し出ます。

重耳はそんな狐偃(咎犯) を泣いて止め、19年間の功績を改めて感じるのですが…。

そのやりとりを見ていた介推は「重耳がまだ公についた訳でもないのに早くも狐偃(咎犯) が賞をねだっている」と言い、「この19年間の放浪を助けたのは多くの人の力であったのに全て自分の功績にすり替えてしまった」と不快感をあらわにします。

その後、晋公の位についた重耳から論功行賞があり、側近達はみんな高い役職についたにも関わらず、介推は書類の整理係にとどまりました。

また、晋の国で前政権の重臣が反乱を起こした際、重耳を守って逃げたのが放浪時代の重耳をしつこく狙った刺客と知り愕然とします。

まあ、彼は晋の国に仕えているので、前政権では重耳の命を狙うというのが仕事だっただけで、今の政権では重耳の命を守るのが仕事と、ある意味プロだった訳ですが介推には納得できない所でした。

そんな状況や、狐偃(咎犯) の配下が特別に出世する現状をみて介推は官を捨てて野に下り、故郷の緜上(メンジョウ)に帰ります。

その際「龍は天に昇らんと欲し、五蛇は輔けをなす。龍は雲に昇り四蛇は各々のきに入るも一蛇は恨み、ついにおる所を見ず」と書いた札を軒先に掲げました。

この札の事を知った重耳が色々と調べた結果、介推の功績が絶大である事を知り、大々的に介推を探したのですが、介推は現れる事がありませんでした。

重耳は介推の隠遁が自分の過失であると公言して、緜上を「介推の領地である」と布れました。

人々は緜上の山を介子推の山という事で「介山」と呼ぶようになったそうです。

この人の話を最初に読んだ際、介子推の言う事や取った行動は理解できるし、尊敬もできるけど「ややこしい男やな」と思いました。
(もちろん、そのややこしい男というのは、介子推を惜しむ気持ちから出てるんですよ。)

また、「清流魚住まず」という言葉がありますが、この言葉を介子推に送ってやりたいとも思いました。

しかしながら最近、あるきっかけからまた久しぶりに宮城谷氏の書かれた「介子推」を読み返す事がありました。

今の私には介子推の考え方、心の重心という所が嫌という程わかり、ちょっと泣きそうになりました。
(もちろん、ややこしい男なんて思わなくなっていました。)

最初にこの本を読んだのは恐らく10年くらい前ですが、年をとるといろんな経験が付加されるからか、こうまで感じる事が違うのかと驚いています。

どこか、今の自分に通じる所があるような…。
そんな気がしてます。

Posted by たか at 16:43 | 春秋時代 | この記事のURL
2010年01月21日
歴史という授業
歴史って「嫌い!」という人が多いですよね。

まあ、近年の歴女ブームで少し見直されているようですが…。

歴史って本当は面白い物だと思います。

例えば日本の歴史で行くと、今の日本を創ってきた過程がそこにありますよね。

多くの人が精いっぱい生きた軌跡がそこにはあるんです。

でも、嫌いっていう人が多いのは歴史の授業が悪いんですね。

私も普通に学校で歴史を学びましたが、確かに学校で習う歴史は面白くありませんでした。

最近の歴史の授業は違うのかも知れませんが、とりあえず暗記モノの授業ですよね。

当然、暗記は繰り返さないとできない訳で、そうなると努力が必要な訳で、そうなると好きになれない訳で…。

わかります。

でも本当の歴史の面白さって点じゃないんですよね。
(暗記は点ですよね。)

例えば「桜田門外の変」という事件を例にとりましょう。

この事件は現役の大老が暗殺されるという、今で言うと総理大臣が暗殺されたような衝撃的な事件です。

これを授業で習うとペリーが来航し、幕府に開国を迫られ井伊直弼は朝廷の勅許を得ず、独断で条約を結んだ事に対して怒った攘夷派が暗殺した。

年代は1860年です。

という感じで終わります。

そんなの面白くないですよね。

桜田門外の変っていうのはそんな簡単な事ではないです。

まず、当時の幕府というのは徳川家が主催していた訳ですが、この徳川家には御三家という物が存在します。

尾張、水戸、紀伊という3つの徳川家が江戸の補佐という事で存在している訳です。

例えば、将軍の世継ぎが絶えた時、その御三家から世継ぎを迎えるとかいった機能も果たしてます。

桜田門外で井伊直弼を斬ったのはその御三家のひとつ、水戸藩の脱藩浪士なんですね。

それだけでも、「なんで?」なんて思うじゃないですか。

江戸の将軍家を支えるはずの水戸藩から幕府の大老を暗殺した者が出たというだけでも大スキャンダルですよね。

要はペリーが来航した1853年以降日本国中は外国人に対してどういう対処を取るかという事で沸騰する訳です。

今まで鎖国をしてきた日本は西洋の列強国の中ではオランダとしか国交をひらいていない訳で、ペリーというアメリカから来た人が貿易をしようと言って来た問題をどう処理するのかという事が日本中の多くの所で議論されてきました。

結局、攘夷派と開国派に分かれる事になりますが、このペリー来航から桜田門外の変までの間に、日本中の塾で、様々な議論や信念が語られ、その殆どは攘夷となっていた訳です。

水戸藩では天狗党と言われる人達が結集し、攘夷に走るべし!という過激な集団になって行きました。

勿論、吉田松陰の松下村塾なんかも断じて攘夷!という塾でかなり過激な人達が日本中を往来することになって行きます。

何故過激かというと、攘夷というのは外国人を打ち払うという事で、外国人を斬るという事なんです。

しかしながら、幕府は開国を決定します。

そうなると、攘夷派の面々はより過激になり、外国人を斬る事に執念を燃やします。

そんな事態を重く見た幕府が過激な指導者等を一斉に検挙し、弾圧したのが「安政の大獄」です。

吉田松陰もここで死にます。

師を殺された人達は当然、幕府の処置を不当とし、より一層攘夷に走り、今度は倒幕を考えだします。

そういったエネルギーが噴出したのが桜田門外の変という訳ですね。

歴史は点では無く、線や面なんです。

ストーリーで理解していくと歴史というのは面白いものなんです。

私が学んだ歴史でテストに出た所というのは年代とか法律の名前とか人物の名前とかで、それらにつながりがないんですよね。

勿論、そう言った事は大事なんですが、それよりももっと大事なのは、事件ならそこに至るまでの経緯、法律ならばそれが必要になった背景、人物ならその人の思考パターンや取った行動というのは、どうしてそうなったのかという所が面白い訳です。

明智光秀は何故織田信長を殺したのか、坂本龍馬は何故殺されなければいけなかったのか、誰が坂本龍馬を殺したのか、その黒幕は…。

どんどん、歴史の面白い所にはまっていく訳です。

歴史は絶対に背景や流れが重要だと思いますし、そういった所が授業で本当にできれば、テストでそういう問題を取り扱えれば、歴史というのは難しいものでも、つまらないものでもなく、むしろ面白いものです。






Posted by たか at 16:41 | その他 | この記事のURL

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