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たか
歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年09月11日
于禁の投降
先日来、陳瞬臣氏の「曹操(ソウソウ)」を読んでますが…。

昔読んだ本なんですが、案外覚えてないもんですね。

陳瞬臣氏は三国志関連の小説を色々と書かれてますが、この人の特徴は独自の解釈に基づいて記載している事が多いので、基本を押さえた(吉川英治氏の三国志とか…)人が読むと、なかなか刺激があり、面白い本です。

今丁度于禁(ウキン)の投降の場面なんですが…。

于禁、字は文則(ブンソク)。

三国志演義や吉川三国志、もしくはゲーム等から三国志を知る事になった人は「えっ于禁?あの楽進(ガクシン)とコンビの二流のわき役でしょ?」なんて思うかも知れませんが…。

于禁は必要以上に悪役であったり、弱い将軍として記載されています。

しかしながら、実際にはこの男、曹操の主要な戦には殆ど参加して武功をあげています。
(勿論、楽進もそう。楽進も曹操の主要な戦には参加し、武功をあげています。)

魏で名将といえばぱっと浮かぶのは張遼(チョウリョウ)でしょうか、張ゴウ(字が出ない)でしょうか、もしくは夏侯惇(カコウトン)、夏侯淵(カコウエン)、曹仁(ソウジン)、徐晃(ジョコウ)あたりでしょうか…。

勿論、みんな名将ですが、三国志演義や吉川三国志のみを読まれた方からすると、関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)、趙雲(チョウウン)等に比べると数段落ちる将軍と思われがちです。

そうなんです。

三国志演義は曹操を悪者として書いてますんで、曹操陣営の将軍はあまり良くは記載されません。
(例外は張遼でしょうか…。)

みんな名将なんです。

どちらかというと、関羽や張飛の方が個人の武に頼りすぎで全体的な指揮という点で言うと、超一流かと言えばちょっと疑問がのこります。

当時の魏軍で言えば于禁は張遼、張ゴウ、楽進、徐晃と言った面々と共に名将と謳われています。

元々鮑信(ホウシン)の部下として登場します。

鮑信が戦死した後、曹操の配下になります。

最初は陪臣だったんですが、「優に大将軍とするに足る」として推挙されます。

そこから、彼の抜群の活躍が始まるのですが…。

この人の最後は関羽が襄陽(ジョウヨウ)に攻め込んだ際に于禁は援軍として駆けつけますが、漢水の氾濫の為、于禁はホウ徳(ホウの字は表示されない為カタカナにします)と共に関羽に捕らわれます。

勿論、于禁が率いてきた3万の兵と共に。

ホウ徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となりますが、于禁は関羽に降伏して助命されます。

その際曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知って30年になるが、危機を前にし、困難にあってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったそうです。

その後、関羽は孫権(ソンケン)に攻められ打ち首になり、于禁も孫権に捕らえられ賓客としてもてなされます。

曹操が死に、曹丕(ソウヒ)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に従い、于禁を送り返します。

曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりとやつれていました。

曹丕は于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命し、呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させました。

が、

曹丕はあらかじめ、高陵(曹操の墓)に関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服したありさまを絵に描かせておき、于禁はこれを見ると面目なさと腹立ちのため病に倒れ、死去しました。

北宋の司馬光(シバコウ)は「資治通鑑」で「文帝(曹丕)は于禁を罷免する事も、殺す事も出来たのに陵屋に于禁が降伏した有様を描かせてこれを辱めた。君主のやる事ではない」と言って批判してます。
(ちなみに、ホウ徳は曹操の配下になって約4年)

あれだけ活躍したのに最後でミソをつけてしまった形になりましたが…。

ただ、于禁ってそんなにすぐに降伏する男ではないと思うんですが…。
(勝手な私の思いこみかもしれませんが…)

ここで、陳瞬臣氏はこの于禁の投降を「関羽に投降することによって食糧の負担を大きくした」という観点から記載されています。
(かなりな慧眼だと思います。)

要は、于禁が3万の兵と共に降る事により、関羽軍の兵糧が足りなくなるんですね。

実際、于禁が投降した後、関羽は官庫(多くの米が備蓄されている倉庫)を襲って兵糧を得ます。

おおざっぱな関羽は「また後で返す」と軽く考えているようでしたが…。

この行動が孫権が関羽討伐に踏み切る一因になるんですよね。

となると、于禁の投降って、彼の深謀遠慮と言えなくもないですよね。

結局、ここでの関羽の敗死が諸葛亮(ショカツリョウ)の天下三分の計を狂わせ、蜀(ショク)の飛躍の芽を刈り取った事になりますからね。

曹操は「わしが于禁を知って30年になるが、危機を前にし、困難にあってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ってますが、逆に于禁を曹操が理解していなかった…。

なんて事も考えられますよね。

于禁ってかなりの活躍をした人なのに三国志演義では悪く書かれ、正史でもみじめな死に方をして(死に方は三国志演義もほぼ同じですが、三国志演義では于禁に命乞いをさせてます。)、本当に浮かばれない武将ですね。



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Posted by たか at 02:59 | 三国志 | この記事のURL
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