2010年09月04日
曹操と袁紹、袁術の決定的な違い
またまた、三国志ネタで申し訳ございませんが…。
三国志で群雄が割拠した際に最も勢力をもっていたのは袁紹(エンショウ)と袁術(エンジュツ)という事になるでしょうか…。
多くの群雄はどちらかの勢力圏に入っていた所がありますね。
例えば、曹操(ソウソウ)、劉表(リュウヒョウ)は袁紹派閥、孫堅(ソンケン)は袁術派閥といったように…。
だから孫堅は劉表を攻めて、非業の死を遂げる訳ですね。
袁家というのは、四世三公と言われる名門。
要は、四代続いて三公に就任したという事。
ちなみに三公とは、「司徒」、「司空」、「大尉(司馬)」の三つの役職で、それぞれを説明すると…。
司徒は内閣総理大臣で司空は副総理、さらに建設大臣も兼ねる役職、大尉は兵権を一手に握る役職という所でしょうか。
三国志の舞台となる後漢王朝では、最高の役職と言われた三つのポストです。
そこに四代も続いて就任した者を出したという事は、やはり優れた人物を出す家系だったんでしょう。
その袁家の血を引く二人が袁紹、袁術ですね。
彼等はそういった血統的背景をもっていますので、当然名門意識が強いんですよね。
それに引き換え曹操は…。
おじいさんが大宦官の曹騰(ソウトウ)、お父さんの曹嵩(ソウスウ)はその養子として入り、大尉まで昇りましたが…。
袁家から見ればどこの馬の骨かわからない人なんですね。
また、曹操も大宦官の孫として育った過程で、袁紹、袁術のように蝶よ花よと親類や回りから大事に育てられた訳ではなさそうですね。
恐らく、父親の曹嵩は曹操をかなりかわいがったと思うのですが、名門の子弟達からはさげすまれていたんでしょう。
その育ってきた環境が、袁紹、袁術と曹操との群雄割拠後の明と暗を分けたんでしょうね。
曹操は、一般的には五千の兵で旗揚げした訳ですが、袁紹、袁術というのは各々地盤を持っていたのでかなりの兵がすでに用意されてましたよね。
本当なら、三国志という時代は来ずに、袁紹、袁術で天下分け目の戦いがあってもおかしくない布陣でした。
そこに、何故、曹操が台頭する事が出来たかというと…。
まあ、後に青州兵と言われる青州の太平道信者を取り込んだ事ですよね。
(いわゆる青州黄巾族)
青州黄巾族との戦いは正直いって無謀な戦いでした。
一応青州黄巾族というのは100万と言ってましたしね。
(実際は兵士と統率者とその家族が集まって100万の民衆だったそうですが…)
それでも、手勢の少ない曹操がまともに戦って勝てる相手ではないですよね。
ご存じの通り、曹操はその青州黄巾族を自軍に取り込む訳ですが…。
そこで選抜した兵士三十万を曹操は「青州兵」と名付けてある契約を交わしたようですね。
この青州兵が曹操の切り札として後の戦いを有利に進める原動力となるのですが…。
魏書にも「魏武の強、これより始まる」と書かれている訳ですしね。
ちなみに、曹操が何を青州兵と契約をしたのかは、正直な所完全にわかっている訳ではないのですが…。
(想像する事はできますけどね。)
契約があったのは間違いないですね。
曹操が死ぬと、青州兵は魏を去ってますし…。
ただ、ここが私の思う袁紹、袁術と曹操の決定的な違いなんですよね。
もしこの青州黄巾軍の討伐を袁紹、袁術がしていたら…。
恐らくは二人とも自分が表に立って戦う事のないように逃げたでしょうが、仮に戦っていたとしたら…。
間違いなくこの100万の民衆をたたきつぶしに行きますね。
彼等は名門意識の塊です。
この時代の名門はみんな儒教なんですよね。
当然、この袁家二人も儒教と思われる言動が多いです。
しかも、名門意識が強い二人は儒教信者である事に誇りを持っていたと思われます。
だから、太平道を信じる青州黄巾族と相入れるはずがありません。
太平道というのは、大きく分けると道教の部類に入る宗教で、当時の中国は名門や官僚は儒教、一般民衆は道教といったすみ分けがされてました。
名門を誇る袁家の二人はどうあがいても道教を受け入れる事が出来ないんです。
それに比べて曹操という男は、儒教を勉強していた節がありますが、恐らく儒教信者ではないですね。
儒教というのは家柄や見てくれ、しきたりといった所にかなりうるさい宗教ですが、曹操を見ていると「唯是才」という考え方をもってます。
(唯是才とは、彼が何度か発令した「求賢令」に見られるんですが、家柄や見てくれとか品行方正はどうでもよい。ただ才能のある者を求めるという考え方ですね。)
話がそれましたが…。
だから袁家の二人はどうしても道教を認める訳にはいかないんですね。
そこで徹底的にたたきつぶそうとするでしょうね。
名門が民衆に負けるはずがないと…・
名門袁家として格好よく戦い、格好よく勝とうとするのですが、相手は宗教集団とはいえ数が多すぎます。
結局戦は泥沼化するでしょうね。
勝ったとしても自軍の損傷も大きく、衰退の原因を作った事でしょう。
(袁紹はともかく、袁術は…恐らく勝つ事が出来ないですね。孫家がどれだけ動くかによって決まると思われますが…)
ちょっとした事なんですが、ここが曹操と袁家二人の決定的違いですね。
要は勝てばいい、生き残ればいいという曹操に対して、袁家二人は勝ち方、生き残り方に注文が必要なんですね。
宗教なんかよりも自分の力をどうすれば大きくするかを考える曹操と、名門意識が強く、名門の名門による名門の為の勢力を作る事を考えていた袁家二人。
宗教とか名門とか…たいしたことではないんですが…。
このたいした事でもない事が官渡の戦いで負け、病を発して死んでしまった袁紹、部下に裏切られ、最後は「はちみつがなめたい」と言いながら死んだ袁術と、勢力を拡大し続け、最終的には中国の三分の二を有する事になる曹操との決定的な違いだったんですね。
袁紹、袁術という二人は恐らく治世ではかなりなポストにまで昇り、後に名を残したであろうとは思うのですが、残念ながら乱世を生き抜く能力を持っていなかったんですね。
治世と乱世の切り替えができなかった二人が三国志の前半でその姿を消すというのは、ある意味歴史の必然ですね。
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だから孫堅は劉表を攻めて、非業の死を遂げる訳ですね。
袁家というのは、四世三公と言われる名門。
要は、四代続いて三公に就任したという事。
ちなみに三公とは、「司徒」、「司空」、「大尉(司馬)」の三つの役職で、それぞれを説明すると…。
司徒は内閣総理大臣で司空は副総理、さらに建設大臣も兼ねる役職、大尉は兵権を一手に握る役職という所でしょうか。
三国志の舞台となる後漢王朝では、最高の役職と言われた三つのポストです。
そこに四代も続いて就任した者を出したという事は、やはり優れた人物を出す家系だったんでしょう。
その袁家の血を引く二人が袁紹、袁術ですね。
彼等はそういった血統的背景をもっていますので、当然名門意識が強いんですよね。
それに引き換え曹操は…。
おじいさんが大宦官の曹騰(ソウトウ)、お父さんの曹嵩(ソウスウ)はその養子として入り、大尉まで昇りましたが…。
袁家から見ればどこの馬の骨かわからない人なんですね。
また、曹操も大宦官の孫として育った過程で、袁紹、袁術のように蝶よ花よと親類や回りから大事に育てられた訳ではなさそうですね。
恐らく、父親の曹嵩は曹操をかなりかわいがったと思うのですが、名門の子弟達からはさげすまれていたんでしょう。
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曹操は、一般的には五千の兵で旗揚げした訳ですが、袁紹、袁術というのは各々地盤を持っていたのでかなりの兵がすでに用意されてましたよね。
本当なら、三国志という時代は来ずに、袁紹、袁術で天下分け目の戦いがあってもおかしくない布陣でした。
そこに、何故、曹操が台頭する事が出来たかというと…。
まあ、後に青州兵と言われる青州の太平道信者を取り込んだ事ですよね。
(いわゆる青州黄巾族)
青州黄巾族との戦いは正直いって無謀な戦いでした。
一応青州黄巾族というのは100万と言ってましたしね。
(実際は兵士と統率者とその家族が集まって100万の民衆だったそうですが…)
それでも、手勢の少ない曹操がまともに戦って勝てる相手ではないですよね。
ご存じの通り、曹操はその青州黄巾族を自軍に取り込む訳ですが…。
そこで選抜した兵士三十万を曹操は「青州兵」と名付けてある契約を交わしたようですね。
この青州兵が曹操の切り札として後の戦いを有利に進める原動力となるのですが…。
魏書にも「魏武の強、これより始まる」と書かれている訳ですしね。
ちなみに、曹操が何を青州兵と契約をしたのかは、正直な所完全にわかっている訳ではないのですが…。
(想像する事はできますけどね。)
契約があったのは間違いないですね。
曹操が死ぬと、青州兵は魏を去ってますし…。
ただ、ここが私の思う袁紹、袁術と曹操の決定的な違いなんですよね。
もしこの青州黄巾軍の討伐を袁紹、袁術がしていたら…。
恐らくは二人とも自分が表に立って戦う事のないように逃げたでしょうが、仮に戦っていたとしたら…。
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この時代の名門はみんな儒教なんですよね。
当然、この袁家二人も儒教と思われる言動が多いです。
しかも、名門意識が強い二人は儒教信者である事に誇りを持っていたと思われます。
だから、太平道を信じる青州黄巾族と相入れるはずがありません。
太平道というのは、大きく分けると道教の部類に入る宗教で、当時の中国は名門や官僚は儒教、一般民衆は道教といったすみ分けがされてました。
名門を誇る袁家の二人はどうあがいても道教を受け入れる事が出来ないんです。
それに比べて曹操という男は、儒教を勉強していた節がありますが、恐らく儒教信者ではないですね。
儒教というのは家柄や見てくれ、しきたりといった所にかなりうるさい宗教ですが、曹操を見ていると「唯是才」という考え方をもってます。
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名門袁家として格好よく戦い、格好よく勝とうとするのですが、相手は宗教集団とはいえ数が多すぎます。
結局戦は泥沼化するでしょうね。
勝ったとしても自軍の損傷も大きく、衰退の原因を作った事でしょう。
(袁紹はともかく、袁術は…恐らく勝つ事が出来ないですね。孫家がどれだけ動くかによって決まると思われますが…)
ちょっとした事なんですが、ここが曹操と袁家二人の決定的違いですね。
要は勝てばいい、生き残ればいいという曹操に対して、袁家二人は勝ち方、生き残り方に注文が必要なんですね。
宗教なんかよりも自分の力をどうすれば大きくするかを考える曹操と、名門意識が強く、名門の名門による名門の為の勢力を作る事を考えていた袁家二人。
宗教とか名門とか…たいしたことではないんですが…。
このたいした事でもない事が官渡の戦いで負け、病を発して死んでしまった袁紹、部下に裏切られ、最後は「はちみつがなめたい」と言いながら死んだ袁術と、勢力を拡大し続け、最終的には中国の三分の二を有する事になる曹操との決定的な違いだったんですね。
袁紹、袁術という二人は恐らく治世ではかなりなポストにまで昇り、後に名を残したであろうとは思うのですが、残念ながら乱世を生き抜く能力を持っていなかったんですね。
治世と乱世の切り替えができなかった二人が三国志の前半でその姿を消すというのは、ある意味歴史の必然ですね。
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