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歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年01月23日
桶狭間の合戦の謎
以前、このブログで、2009年10月27日の記事「桶狭間という名の招く誤解」(fanblogをご覧の方は申し訳ございませんが、ブログの中のリンク集から「私的歴史道seesaa版」で飛んで頂くと、以前の記事を見ていただけます)で少し述べましたが、本日もまた桶狭間について記載したいと思います。

ご存じの通り、織田信長のメジャーデビュー戦で一般的には京を目指して進軍してくる今川軍を信長は約10分の1の兵力で勝利した戦いです。

ちなみに、前の記事でも述べてますが、今川は駿府(今の静岡県)にいて京を目指すという事は途中に織田、斉藤、浅井、六角と言った面々を撃破しなければ京に辿りつかないので、普通に尾張を攻めただけと思われます。

以前述べたのは
1.桶狭間の史跡は2つある。
2.桶狭間は谷ではなく山である。
3.信長の奇襲ではなかったかも?
4.手柄を立てた武将は地味。

といった事を書きました。

一部内容がかぶるかもしれませんが、また記載します。

一番基本的な謎は今川軍の正式な兵力が分かってないのです。

私も多くの本で桶狭間を読みましたが、2万4千とか3万5千とか、4万とか…「どれが本当なん?」って言いたくなるような記載でした。

ちなみにWikipediaで桶狭間の戦いを調べると下の方にまとめてあったので引用します。
(まあ、Wikipediaだけに絶対正しいデータかは保証できませんが…。)

当時の資料で桶狭間の記載がある物を列挙すると…。

甲陽軍鑑     2万余
武功夜話     3万余
徳川実紀     4万余
武徳編年集成   4万余
総見記      4万余
信長公記     4万5千
改正三河後風土記 4万5千
信長記      数万騎
絵本太閤記    5万余

ほんとばらばらですね。

当時は写真もTVもラジオも無く、当然情報に混乱はあるでしょうが、一番少ない兵力と一番多い兵力が倍の誤差って…。

恐らく、「信長が何か凄い事をした!」っていう感覚でいろんな尾ひれがついて各地に伝わったんでしょうね。

それよりも、前にも述べたこの戦で手柄を立てた方々が不思議です。

今川義元に初太刀を浴びせた服部小兵太、討ち取った毛利新助、義元の位置をつかんだ簗田政綱(ヤナダマサツナ)。

ちなみにこの戦の勲功第一は簗田政綱ですが、この人たち、この後の信長軍で重要な役割を果たしません。

簗田政綱は沓掛城主となったらしいですが、服部小兵太は秀吉の時代に松坂城主(時間流れすぎ!)、毛利新助にいたっては本能寺の変で信長の長男、信忠と一緒に戦って戦死という、信長の生死をかけた戦いで活躍した彼らのその後が地味なのも謎な所です。

勿論、この戦いがどういう経緯で決着がついたのかも謎。

奇襲説、正攻法説、偶然説など、色々と入り乱れてます。

私が思うに、結果として信長が今川を討ち取った際、日本中は恐らく仰天したでしょうが、他の大名達により以上の凄味を感じてもらう為にあえて神秘的に脚色したイメージを流し、この戦の全体像がつかめないようにしたのでは?と一人考えています。


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