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歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年09月17日
石田三成の才覚
この所、幕末ネタ、三国志ネタばかりで、全く戦国時代ネタを書いてませんでした…。

という事で!!

強引にネタを作ってみました。

先日、何かのテレビで見ましたが最近の教科書には豊臣秀吉よりも石田三成の方が多く出てくるそうですね。

「へぇ〜」って思うのと同時に、「どうかしてるぜ!日本の歴史教科書!!」って思います。

まあ、関ヶ原の部分で多いんだと思うんですが…。

秀吉は三成の主君ですよ!

何故に負けるんだろう…。

秀吉は天下統一したし、太閤検地、刀狩り、利休の切腹、朝鮮出兵等々…。

教科書に取り上げられそうなネタも三成よりもかなり多いと思うのですが…。
(三成って朝鮮出兵と関ヶ原くらいでしょ?まあ、太閤検地にも絡んでますが、そこまで教科書で欠くとは思えないし…)

この事実、私はほんとうに???ですね。

前置きはこれくらいにして…。

じゃあ、石田三成ってどういう男なんだろう…と考えた時、私にはあまり良いイメージがありませんね。
(多くの人もそうだと思いますが…)

秀吉の側近として、太閤検地等に関わり、かなりの頭の切れを発揮した男なんですが、その後はダメダメですね。

以前なにかの映画で(「梟の城」だったと思いますが…)三成がぼけてきた秀吉を上手い事使っているシーンを見た事がありますが、私のイメージも結構そんなところですね。

この人が崩れだすのは、恐らく秀吉の朝鮮出兵の頃からでしょうね。

この頃から加藤清正や福島正則といったいわゆる武断派の人達との溝が深くなっていきますし…。

この人のええ加減な対応が気になる所です。

明や朝鮮からの使者と秀吉の間に立って、どちらにもいい事をいい(要はちゃんと通訳をしないで話している事を捻じ曲げて場を取り繕うとした)、その結果、再度の朝鮮出兵となり、そこでも講和を進めようとするんですが、不調に終わってます。

三成から言わせれば「豊臣家の為にやった事」となるんでしょうが…。

私に言わせれば、「豊臣家の為を思うのであれば、一番やってはいけない事」です。

小手先の口車で盤石な講和を結べるわけがない。

すぐに再戦となりますよ普通。

また、武将としての才覚は…。

これがまたひどい。

関ヶ原の際も総大将は毛利輝元なんですが、実際の総大将は三成のようなものでした。

この時点で、もう関ヶ原は負けているんです。

三成の才覚云々以前に、全国的にも小規模の領土しか与えられていない大名が大大名達を動かすんですから…。

そういう立場であるにも関わらず三成は軍議で島津や他の大名が提案した夜襲を一蹴したり、その他の策も取り入れていません。

大名側からすれば、格下の大名に自分の提案を一蹴される訳です。

こら、やる気をなくしますよね。

しかも、戦の経験の少ない青二才に…。

本当に身の程をわきまえない男です。

また、関ヶ原にしても…。

大垣城に寄り美濃にて家康軍を食い止めるはずが、そこは攻城戦の苦手な家康。

あえて西に向かい、その動きをみた三成が決戦の地を関ヶ原と踏み、先に現場について有利な土地を占拠しようとして夜通し駆けて、先に到着、見事な迎撃の陣を敷きます。

ここも、武将としてダメな所なんですが…というか戦の経験のなさというか…。

まず、有利な地形を占拠するのは戦の常識ですが、夜通し駆けて早朝から戦というのは、かなり無理な話です。

人はサイボーグではないんですから…。

さらに軍議での態度から、積極的に協力してくれる大名をかなり減らしています。
(実際に戦の際、鶴翼の陣の右翼は全て家康に寝返り、島津は全く動かなかったですからね。)

これではどうあがいても勝てるわけがありません。

この一連の流れを見ると、この人は野戦の将としては最低ランクの武将だと言えますよね。

机上では正しい事も、実際にそれを実行するにはタイミングや条件によって正しくなくなる事もあるんですね。

そこが分かっていない、悲しき秀才ですね。

この石田三成を思うたびに、永田町に巣食う官僚達と全く同じだなと感じてしまいます…。

能力は認めるが、なんとなく好きになれない武将です。



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2010年05月07日
信長とキリスト教
織田信長は映画や記録等から見ると、南蛮物の鎧を着て、いつも黒人を一人側に侍らせ、キリスト教の布教を容認し、宣教師達とも付き合い…。

ともすれば、キリスト教信者なのかと思われるような動きを見せています。

しかしながら、彼は紛れもなく仏教徒です。

比叡山の焼き討ちなどから、彼は仏教を憎んでいたとか無神論者だという見かたをされる方もおられますが、恐らく、それは間違いと思います。

彼は何よりも現実主義者、合理主義者なんですよね。

彼が比叡山を焼き討ちにしたのは、恐らく、人の魂を救うのが坊主の役目であるにも関わらず、武装して浅井、朝倉をかくまっているという状況が許せなかったのでしょう。

当時の比叡山は仏教の日本における聖地ですし、そこに胡坐をかいてやりたい放題の坊主どもに我慢がならなかったんだと思われます。

比叡山側としては仏教の聖地に攻め込んでくる奴などいないなんてたかをくくっていたんでしょう。

それが、比叡山焼き討ちにつながったんでしょうね。

信長という男は昔からの権威などは殆ど気にも留めない男だったんでしょうね。

それよりも、今現在坊主がどういう動きをしているのか、本来の仕事をちゃんとこなしているのかという所に主眼をおいて、本来あるべき姿ではない坊主どもを討伐したというのが彼の考えではないでしょうか。

この比叡山の焼き討ちはものすごい規模を焼いたという説と、実はちょっとだけ焼いたのみとう説とあるそうですが…。

その話はまたにして、本題に戻します。

また、キリスト教を保護しながら、彼自身は洗礼を受けていませんね。

キリスト教は異国の文化ですので、当然異国人達が広めるのですが、彼等は当時の日本に無いものを数多く持っていました。

例えば地球儀、望遠鏡、もちろん鉄砲、大筒等々。

そういった物や技術を手に入れる為に付き合っていたんでしょうね。

そのあたりはいかにも合理的な彼らしいです。

ここまで私のブログを読んで下さった方々は「キリスト教信者ではない事はわかったが、仏教徒かどうかは判らないのでは?」と思われるでしょうが…。

私が仏教徒であると考える一番の要因は、安土城にあります。

信長は安土城を築城するにあたって、その中にハ見寺(ソウケンジ)という寺を建立しています。

建物は近隣の社寺から多くの建物を移築して建立したようですが…。

仏教徒で無い人が城の中に寺を建てるでしょうか?

やはり彼は仏教徒だったと考えるのが自然かと思われます。

ちなみに…。

信長がキリスト教を気に入った理由として、もう1つあると聞いた事がありますし、私もそう考えているのですが、それは神が人であるという事です。

キリストが死んで神になった訳ですから…。

そこに信長は恐らく、自分も神になる事が出来ると考えたのではないでしょうか。

信長は恐らく、日本を統一していたならば、朝廷の帝に取って代わる事はしなかったと考えています。

そんな存在をも超える事。

神になる事を望んでいたのではないでしょうか…。

神になると帝の存在を超えてしまう訳ですし、そうなると帝に取って代わる意味が無くなりますし、もっと言うとわざわざ帝を廃さなくてもいい訳です。

神になりたかった男…。

私は信長をそう見ています。

2010年04月30日
光秀と天海
明智光秀は本能寺の変で有名な信長殺しの主犯ですね。

ずいぶん昔から、明智光秀は天海だという説が流布してますね。

ちなみに天海とは、晩年の家康陣営に突如ブレーンとして現れた天台宗の僧、南光坊天海の事です。

彼は家康の神号(東照大権現)と決めたり、日光東照宮の建立に携わったり、3大将軍家光の頃には江戸の都市計画にも加わった人です。

光秀が天海という理由としては、本能寺の変後に突如家康の側近として天海が登場する事、日光に明智平と呼ばれる区画がある事、光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以降に比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている事、光秀の家老、斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日野局)になっている事他、色々と理由が取りざたされています。

また、筆跡も似ているそうで…。

こうなるとあやしい気分になってきますね。

光秀は秀吉に敗れた後、居城の坂本を目指して落ちのびる途中に小栗栖で落ち武者狩りにあって落命したと伝わってます。

また、秀吉の前に首実検として出された首級は腐敗が激しかった等とも言われてます。

なかなかあやしげな最後ですよね。

でもどうなんでしょうか…。

光秀って天海なんですかね?

Wikipediaを調べてみるともし光秀が天海だった場合、116歳で死んだ事になるそうです。

これに対し、天海が死んだのは108歳という事になっていて会わないそうですが…。

私的には、それ以前に明智光秀の産まれた年って正確にわかっていなかったと思っているのですが…。
(諸説ある為)

116歳と決定できるレベルのものではないと思うのですが…。

まあ、何にせよ当時の平均年齢からいったら倍くらいの長生きになりますね。

ちょっとあり得ない気もします。

天海がいきなり家康の側近になったのは確かにあやしいですが…。

もし天海が光秀ならば、本能寺の変の黒幕は家康ですね。

でなければ、光秀を厚遇する理由がない。

もし、本能寺の変で家康が黒幕でなければ、光秀を雇った家康は秀吉が家康を攻める為の絶好の口実を作ることになりますしね。

小牧、長久手の戦いで秀吉は家康に敗れたと言っても、その当時と天下統一後の秀吉では動かせる兵力が違います。

当時の家康は、秀吉に睨まれたら確実に攻め滅ぼされる立場に会った訳です。

そんな危ない橋を渡る男ではないです。

そういった辺りから考えるとやっぱり、天海は光秀ではないのでは?と思います。

天海が名付けた明智平、比叡山に残る光秀死後に光秀の名前で寄進された石碑等、あやしい要素はありますが…。

光秀=天海ではないにせよ、天海は光秀に同情的だったか、光秀に関係していた人なんでしょうね。

明智平と名付けたのは光秀をしのぶ為で、光秀の名前で比叡山に寄進した石碑は、光秀が信長の命令で焼き討ちにした比叡山に対し、どこか気にかけていて日ごろから何かしたいという事を漏らしていたかもしれない。

その事を覚えていた生き残りの家臣か、縁者が光秀の名前で寄進したのかもしれない。

いずれにせよ、天海は光秀ではないと考えています。

2010年04月10日
我こそは本多平八郎忠勝なり!!
この所、気にはなっていたのですが、三国志ネタ、幕末ネタに押されて戦国時代ネタが少ないなって思ってました。
(だから4月5日はちょっと強引に戦国時代について記載しました。)

今日もちょっと強引ですが…。

本多平八郎忠勝は徳川家康に仕えた猛将で、四天王と呼ばれる武将の一人です。

この男、本当に信じられない男です。

有名な話なんですが…。

彼は生涯五十七度の合戦に参加しているようですが、その身に傷を負った事が一度もなかったそうです。

「へぇ〜」なんかですむ人もいるでしょうが…。

正直言って、これはあり得ない事ですよ。

戦場では目の前の敵だけじゃなくて、当然虚を突かれたり、流れ矢が飛んできたりしますよね。

しかも、彼は安全な本陣近くばかりにいた訳ではなく、しっかりと敵と戦っています。

武田信玄に攻められて敗走した際は殿を務めてますしね。

そんな男が無傷とは…。

本当にすごいですね。

愛槍「蜻蛉切(トンボギリ)」を片手に戦場を疾駆する様はかなり敵に恐怖を与えたのでしょうね。

ちなみに、蜻蛉切の名前の由来は彼の槍に蜻蛉がとまった際に、その蜻蛉がはらりと切れてしまったという逸話から蜻蛉切という名前になったそうです。

こちらはかなり胡散臭い話ですが…。
(っていうか切れるか?切れるようなとまり方をするか?)

まあ、箔を付ける為にそういった話を流布させたのかも知れませんね。

ちなみに真田昌幸の長男、信之の妻は本多忠勝の娘で、池波正太郎氏の「真田太平記」では、関ヶ原の後家康に対し父である真田昌幸と弟である真田幸村の命乞いをする信之に味方し、「かなわぬ時は殿と一戦も辞さない!」というスタンスで家康を説得してます。

これはかっこいいですよ。

本当かどうかは知りませんが…。

私は大阪に生まれ育った関係で、やはり徳川家康に対しては好印象を持てない(土地がら?)のですが、本多忠勝は好感を持つというか、結構好きな武将ですね。

2010年04月06日
本能寺の変、黒幕一人消します?
日本史において、これほど未来の日本に影響を与えた事件は無いのでは?
なんて思えるのが本能寺の変です。

この事件、それほど重要な事件であるにも関わらず、今なお謎の多い事件ではあります。

まず、光秀の単独行動なのか?もしくは黒幕がいたのか?といった部分からして明白ではありません。

事件後の光秀の無計画さを考えると単独犯かも知れませんが…私としてはやはり黒幕がいたんじゃないかな?と思ってます。

以前、2009年11月10日のブログで「本能寺の変、光秀の勝算」という記事を書きましたが、単独犯(野望説)ではない理由についてはそちらに記載しています。
(ファンブログ版をご覧の方はリンク集から私的歴史道seesaa版をクリックしていただければご覧頂く事が出来ます。)

現在、黒幕説を取られている方々の中で有名なのは下記方々。

1.朝廷
2.羽柴秀吉
3.徳川家康
4.足利義昭


この中で、朝廷はありうる事ですし、羽柴秀吉はそもそも信長が討たれる状況(少人数で滞在する)をお膳立てした人物。
しかも、中国大返しという離れ業をしたタイミングからも、黒幕ではないとは言い切れません。

徳川家康はかなりの少人数で畿内にいたにも関わらず逃げおおせている辺り、あやしいにおいもします。

という事で、先ほど挙げた1〜3はいまだに私の中ではグレーです。

しかしながら足利義昭に関しては…黒幕ではなかったと考えられます。

彼は本能寺の変が起こった時点で毛利家にやっかいになってます。

もし、彼が黒幕であるならば当然、毛利家を抱き込んでいるはずです。

本能寺の変が起こった際、通説では光秀が毛利家に宛てた密使が間違って秀吉の陣営に入ってしまったという事になってます。

これだけを考えたら、毛利家との連携がありそうな匂いがしますが…。

普通、密使が陣営を間違えるでしょうか?

最もあり得ない話と思います。

この話はフィクションの匂いがしますね。

ただ、光秀は当然毛利家にも密使を送ったとは考えられます。

理由としては、織田軍団の敵でもありますし、今後手を握る事も視野に入れないといけない勢力ですからね。

その為、密使を毛利に放ったからと言って、光秀と毛利のラインが出来上がっていたと考えるのは早計と思います。

一番注目しなければいけない事は、秀吉が毛利と和議を結んだ事と考えます。

もし、足利義昭がこの一件に絡んでいたら、毛利家を抱き込んでいるはずなので、当然ここでの和議は考えられません。

毛利家は、強気に秀吉との決戦を望むはずです。

また、本能寺の変を知った毛利家は秀吉の追撃について議論してますが、ここも当然、追撃をするはずです。

が、実際は小早川隆景の「秀吉に恩を売る」という主張が通り、追撃をしていませんよね。
(でも吉川元春は追撃論で、採用されなかった彼はへそを曲げて隠居しますが…。)

こういう状況から考えると、足利義昭が黒幕という説は根本的に無理があると考えます。

まあ、実際に事が起こった際に毛利家が足利義昭を裏切ったと考える事もできますが…。

どうでしょう。

光秀と完全なラインが出来上がっているのでしたら、秀吉を追撃して、上手くいけば尼崎辺りまで毛利の領地にすることができた状況を捨てますかね。

私は、そんなことはできないと思います。

という事は、やはり光秀との共謀はなかったと考えるのが自然と思われます。

2010年02月27日
大谷刑部の病気
大谷吉継という武将は地味だけどなかなかの活躍をした武将でした。

生まれた時期がもう少し早ければ、かなりの名将として名を残したかもしれませんね。

この人は病気で、関ヶ原の頃はもう目も見えなかったそうですね。

惜しい人物です。

この人の病気には諸説ありますが、一般的にはライ病(ハンセン病)とされています。

しかしながら、ずいぶんと前に見たテレビでちょっとタイトルを忘れてしまった(歴史秘話ヒストリアだったと思うのですが…違ったらすみません)のですが、大谷吉継はライ病ではなかったというのを見た事があります。

それによると、大谷吉継の病状を記載した物をじっくりと医者に読んでもらうとライ病ではないらしいのです。

そこでその医者が下した結論は「進行性梅毒」でした。

この病気は感染後10年以内に発病するとの事で、関ヶ原の頃の大谷吉継が重度の難病にかかってましたのでそこから10年以内にあった事と言えば…。

そう、朝鮮の役です。

この戦に大谷吉継は出兵してますが、どうもここで感染したのでは?と結論付けてました。

戦というのは結構破廉恥な物で、女の人を帯同しませんので陣中の性のはけ口として小姓を連れていったり、攻め取った土地の女性をさらったりしていたらしいです。
(ちなみに、そういう事が目的で城を落そうとした軍もあるらしいですよ。恐ろしい話ですね。)

その結果、病気をもらう事もあったらしい。

もし大谷吉継が進行性梅毒だったとすれば…彼もそういった行為をしていたという事ですね。
(あまりイメージに合わないですが…。)

まあ、この戦国時代というのはあまりモラルを感じない所がありますしね。

例えば、家来は毎朝お城に登城したりする訳ですが、その折にすでに酒に酔っている人なんかも結構いたそうですしね。

現代人からしたらちょっとあり得ないと思える行為も、当時では普通だったんでしょうね。

大谷刑部はライ病だったのか、進行性梅毒だったのか、どっちなんでしょうね…。



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2010年02月02日
武田家の盛衰
日本の戦国時代において恐らく最強を誇った武田軍。

この軍団には名将と言われる人が数えきれないほどいます。

しかしながら信玄亡き後、かなりもろく崩れ去りますね。

それは武田勝頼の器量が足りなかった等と言われていますが…。

実はもっと現実的な理由がありました。

武田家の名将達をつなぎとめていたのは、領地から産出される金だったんですね。

一説によると大将首を取ると1500万円位もらえたそうです。

そらやる気出しますよね。

世の中、大金がかかるほど人をやる気にさせるものはないですからね。

そんな武田家が衰退を始めるのは勝頼の代からですが、この頃になると領地からの金の産出量が激減しているようですね。

しかし、さすがは戦国時代!恐ろしや。

この金が激減した武田家に対し、小山田信茂(信玄の従兄弟)、穴山信君(信玄の甥)など、一門衆が離反してますからね。

そう考えるとちょっと怖い時代ですが…。

ただ、確かにトップの器量の差はあったんでしょうね。

武田信玄と武田勝頼では器量が違いすぎる…。

というか、武田信玄なんてバケモノを親に持った勝頼が不幸だったのかも知れませんが…。

武田信玄という男は本当に頭の良い男だったんですね。

例えば、「武田の赤備え」と言えば戦国時代でも一二を争うほど有名な最強騎馬軍ですが、これは信玄(もしくはその側近)が考えたイメージ戦略だったんですね。

どういう事かというと、赤備えは戦争が始まって、勝敗が決するまでまったく動かないんですね。

武田軍の勝利が見えた時点で動き出して、的に大ダメージを与える訳です。
(当然、敵は崩れているのでそこに今まで戦場にいなかった部隊を投入されたらさらに大きく崩れますよね。)

これを繰り返す事により、「武田の赤備えが動いた時は、戦争が終わる時。」というイメージを持たせる訳です。

これにより、「赤備えは最強の部隊。」、「赤備えは死を呼ぶ部隊。」といったイメージが広まっていき、ついには「戦国最強の部隊」となった訳ですね。

情報戦を効果的に使った武田信玄はやはり戦国屈指の名将ですね。


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2010年01月23日
桶狭間の合戦の謎
以前、このブログで、2009年10月27日の記事「桶狭間という名の招く誤解」(fanblogをご覧の方は申し訳ございませんが、ブログの中のリンク集から「私的歴史道seesaa版」で飛んで頂くと、以前の記事を見ていただけます)で少し述べましたが、本日もまた桶狭間について記載したいと思います。

ご存じの通り、織田信長のメジャーデビュー戦で一般的には京を目指して進軍してくる今川軍を信長は約10分の1の兵力で勝利した戦いです。

ちなみに、前の記事でも述べてますが、今川は駿府(今の静岡県)にいて京を目指すという事は途中に織田、斉藤、浅井、六角と言った面々を撃破しなければ京に辿りつかないので、普通に尾張を攻めただけと思われます。

以前述べたのは
1.桶狭間の史跡は2つある。
2.桶狭間は谷ではなく山である。
3.信長の奇襲ではなかったかも?
4.手柄を立てた武将は地味。

といった事を書きました。

一部内容がかぶるかもしれませんが、また記載します。

一番基本的な謎は今川軍の正式な兵力が分かってないのです。

私も多くの本で桶狭間を読みましたが、2万4千とか3万5千とか、4万とか…「どれが本当なん?」って言いたくなるような記載でした。

ちなみにWikipediaで桶狭間の戦いを調べると下の方にまとめてあったので引用します。
(まあ、Wikipediaだけに絶対正しいデータかは保証できませんが…。)

当時の資料で桶狭間の記載がある物を列挙すると…。

甲陽軍鑑     2万余
武功夜話     3万余
徳川実紀     4万余
武徳編年集成   4万余
総見記      4万余
信長公記     4万5千
改正三河後風土記 4万5千
信長記      数万騎
絵本太閤記    5万余

ほんとばらばらですね。

当時は写真もTVもラジオも無く、当然情報に混乱はあるでしょうが、一番少ない兵力と一番多い兵力が倍の誤差って…。

恐らく、「信長が何か凄い事をした!」っていう感覚でいろんな尾ひれがついて各地に伝わったんでしょうね。

それよりも、前にも述べたこの戦で手柄を立てた方々が不思議です。

今川義元に初太刀を浴びせた服部小兵太、討ち取った毛利新助、義元の位置をつかんだ簗田政綱(ヤナダマサツナ)。

ちなみにこの戦の勲功第一は簗田政綱ですが、この人たち、この後の信長軍で重要な役割を果たしません。

簗田政綱は沓掛城主となったらしいですが、服部小兵太は秀吉の時代に松坂城主(時間流れすぎ!)、毛利新助にいたっては本能寺の変で信長の長男、信忠と一緒に戦って戦死という、信長の生死をかけた戦いで活躍した彼らのその後が地味なのも謎な所です。

勿論、この戦いがどういう経緯で決着がついたのかも謎。

奇襲説、正攻法説、偶然説など、色々と入り乱れてます。

私が思うに、結果として信長が今川を討ち取った際、日本中は恐らく仰天したでしょうが、他の大名達により以上の凄味を感じてもらう為にあえて神秘的に脚色したイメージを流し、この戦の全体像がつかめないようにしたのでは?と一人考えています。


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