2010年01月26日
梁歩吟
梁歩吟(リョウホギン)という言葉を御存じでしょうか?
三国志に少し詳しい人なら分かるかと思いますが…。
言葉だけならば土井晩翠氏作の「星落秋風五丈原」という詩にも出てきます。
梁歩吟とは、天才軍師として有名な諸葛亮孔明がまだ世に出る前に畑を耕しながらよく詠っていたという詩です。
歌の内容の和約は以下の通り。
斉城の門を出て少し歩くと
遥かに蕩陰の里が見える
里には三つの墓があって
重なり合って見分けがつかぬ
この墓は誰のものでしょう?
田彊(デンキョウ)と古冶子(コヤシ)のものです
彼らの力は南山をどかすほど
彼らの文は大地をつなぐ綱を断つほど
でもひとたび朝にそしられたりすれば
二つの桃で三人のますらおを殺すもやすし
だれにそんなうまいはかりごとができたのか
斉の宰相晏嬰(アンエイ)様にほかならぬ
といった詩です。
この詩は春秋時代の故事「二桃をもって三士を殺す」を詠んだ詩です。
晏嬰とは、春秋時代の斉国における名宰相の事で、三士というのは斉の景公に仕えた田開彊(デンカイキョウ)、古冶子、公孫接(コウソンセツ)の事です。
(ちなみに晏嬰は晏子/アンシ、晏平仲/アンヘイチュウ ともいわれます。)
この三士は非常に文武に優れた家臣でしたが、三人が力を合わせると景公に取って代わる事が出来ると案じた晏嬰がこの三士を謀略をもって取り除く事を考えます。
晏嬰は三士を呼び二つの桃を差しだして「君(景公)の贈り物である。功が多いと思う者がこれを取り食べろ」と言います。
公孫接、田開彊が先に桃を取ると古冶子が「私に功績が無いというのか」と言って自分の功績を列挙しだします。
それを聞いているうちに公孫接、田開彊は自分のいやしさを恥じて自害しました。
それを見た古冶子は「功臣を二人も死に追いやった。」という事で、自分も自害します。
こうして、たった二つの桃で功臣である三士を除いたという故事です。
これは、晏嬰の機転を褒めたものか、晏嬰の冷酷さを非難したものか判断に迷う故事ですね。
一応、晏嬰というのは名臣で語り継がれている訳ですからほめていると取って良いんでしょうね。
(この辺の中国人の微妙なニュアンスが、どれだけ中国の本を読んでもつかみきれない所です。)
ちなみに、私個人としては晏嬰は素晴らしい宰相だとは思いますが、その父親である晏弱の方が分かりやすい格好良さを持っていて好きです。
(晏子と言うと、この父親も含めて呼ぶ場合があります。)
この詩に諸葛亮はどんな思いをはせるいたのでしょうか?
推測するに、
1.晏嬰のようになりたい。
2.自分に晏嬰のような策を用いる事が出来るだろうか?
3.自分なら晏嬰のように非情になれる。
と言った辺りでしょうか…。
なんにせよ、諸葛亮は晏嬰を意識していた事は間違いないですね。
(彼の生まれた徐州琅邪ですから、斉国ですしね…。)
三国志に少し詳しい人なら分かるかと思いますが…。
言葉だけならば土井晩翠氏作の「星落秋風五丈原」という詩にも出てきます。
梁歩吟とは、天才軍師として有名な諸葛亮孔明がまだ世に出る前に畑を耕しながらよく詠っていたという詩です。
歌の内容の和約は以下の通り。
斉城の門を出て少し歩くと
遥かに蕩陰の里が見える
里には三つの墓があって
重なり合って見分けがつかぬ
この墓は誰のものでしょう?
田彊(デンキョウ)と古冶子(コヤシ)のものです
彼らの力は南山をどかすほど
彼らの文は大地をつなぐ綱を断つほど
でもひとたび朝にそしられたりすれば
二つの桃で三人のますらおを殺すもやすし
だれにそんなうまいはかりごとができたのか
斉の宰相晏嬰(アンエイ)様にほかならぬ
といった詩です。
この詩は春秋時代の故事「二桃をもって三士を殺す」を詠んだ詩です。
晏嬰とは、春秋時代の斉国における名宰相の事で、三士というのは斉の景公に仕えた田開彊(デンカイキョウ)、古冶子、公孫接(コウソンセツ)の事です。
(ちなみに晏嬰は晏子/アンシ、晏平仲/アンヘイチュウ ともいわれます。)
この三士は非常に文武に優れた家臣でしたが、三人が力を合わせると景公に取って代わる事が出来ると案じた晏嬰がこの三士を謀略をもって取り除く事を考えます。
晏嬰は三士を呼び二つの桃を差しだして「君(景公)の贈り物である。功が多いと思う者がこれを取り食べろ」と言います。
公孫接、田開彊が先に桃を取ると古冶子が「私に功績が無いというのか」と言って自分の功績を列挙しだします。
それを聞いているうちに公孫接、田開彊は自分のいやしさを恥じて自害しました。
それを見た古冶子は「功臣を二人も死に追いやった。」という事で、自分も自害します。
こうして、たった二つの桃で功臣である三士を除いたという故事です。
これは、晏嬰の機転を褒めたものか、晏嬰の冷酷さを非難したものか判断に迷う故事ですね。
一応、晏嬰というのは名臣で語り継がれている訳ですからほめていると取って良いんでしょうね。
(この辺の中国人の微妙なニュアンスが、どれだけ中国の本を読んでもつかみきれない所です。)
ちなみに、私個人としては晏嬰は素晴らしい宰相だとは思いますが、その父親である晏弱の方が分かりやすい格好良さを持っていて好きです。
(晏子と言うと、この父親も含めて呼ぶ場合があります。)
この詩に諸葛亮はどんな思いをはせるいたのでしょうか?
推測するに、
1.晏嬰のようになりたい。
2.自分に晏嬰のような策を用いる事が出来るだろうか?
3.自分なら晏嬰のように非情になれる。
と言った辺りでしょうか…。
なんにせよ、諸葛亮は晏嬰を意識していた事は間違いないですね。
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