2010年02月14日
歴史の決断
歴史には、さまざまな場面において決断を下します。
その決断は常に正しいとは言えないのがまた、歴史の決断の難しい所です。
何を言いたいかというと…。
一例ですが、紀元前520年の中国において、周王朝に後継者争いが勃発します。
正式な後継者の悼王(トウオウ)と王子朝(オウジチョウ)との戦いです。
当時の中国を主催している覇者は晋(シン)でした。
王朝としては周王朝なんですが、当時の周王朝には力が無く諸侯は晋を盟主として仰ぎ、周王朝を支えるという時代でした。
本来ならば、悼王が普通に王位を継ぐ立場にあったのですが、先代の景王(ケイオウ)が可愛がったのが妾出の王子朝だった所にこの悲劇が生まれました。
王子朝は英邁だった所にも悲劇があります。
王子朝の養育官を賓起(ヒンキ)と言いますがこの男が上手く景王の気を引いて太子を廃嫡し、王子朝を立てる事を考えて、当時の周王朝で実力を持ち、太子の廃嫡に反対していた単公(ゼンコウ)と劉公(リュウコウ)を景王に殺させようとするのですが、逆に景王が死んでしまいます。
この状況の為、王位を争う戦になるのですが、この戦いは王子朝が死ぬ時まで続くと考えれば約15年続きます。
悼王側には単公、劉公という当時の周王朝にて力を持っていた実力者が付き、王子朝には尹氏(インシ)、召氏(ショウシ)、南宮氏(ナングウシ)等、周王朝が開かれて以来の名門で、当時権威が低下していた士族達が付きました。
結局は王子朝を利用して自分達の権威を取り戻そうとした人達の欲望がこの乱を呼んだ訳ですね。
悼王側の使者陰不佞(インフネイ)が晋の大臣趙鞅(チョウオウ)に援軍を依頼し、晋が悼王側に付いた為、次官は長くかかりましたが悼王側の勝利となり、晴れて悼王が王位に就く事になります。
この乱においては、晋に対して当然王子朝側も使者を発しているはずですが、悼王側が先に晋についた訳ですね。
その結果晋は悼王側に付く事になるのですが…。
勿論、正式な太子を支援する事に大義名分は十分立ちますし、正しい選択なんですが、これがもし王子朝側が先に晋に援軍依頼をしていたら…。
晋は王子朝に付いた事になると思います。
(先王は王子朝に嫡子を変えようとしていた訳ですから…。)
悼王よりも王子朝の方が能力を持っていたようですから、その方が素晴らしい王朝になったかも知れません。
ここに歴史の決断の厳しさがあると思います。
このブログにおいて「お家騒動」(2010年2月9日)、「君主の資質」(2009年11月14日 ファンブログ版をご覧の方は左のリンクから私的歴史道seesaa版に飛んでいただければご覧いただく事が出来ます。)でも記載してきた通り、君主の能力は時に邪魔になる。どちらかというと君主には能力が無い方がいいのでは?という意見を述べています。
その意見には変わりがないですが…。
王子朝。
この人はいい補佐役になる事ができれば歴史に違った意味で名を残したと考えています。
自分の能力に自信があったのかも知れませんが、周りの人にそそのかされた感もあります。
そういう雑音を無視していれば…。
という気持ちになります。
歴史というのは本当に時として「それで良かったんだろうか?」という事がまま見受けられます。
それも歴史の決断なんでしょうね。
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その決断は常に正しいとは言えないのがまた、歴史の決断の難しい所です。
何を言いたいかというと…。
一例ですが、紀元前520年の中国において、周王朝に後継者争いが勃発します。
正式な後継者の悼王(トウオウ)と王子朝(オウジチョウ)との戦いです。
当時の中国を主催している覇者は晋(シン)でした。
王朝としては周王朝なんですが、当時の周王朝には力が無く諸侯は晋を盟主として仰ぎ、周王朝を支えるという時代でした。
本来ならば、悼王が普通に王位を継ぐ立場にあったのですが、先代の景王(ケイオウ)が可愛がったのが妾出の王子朝だった所にこの悲劇が生まれました。
王子朝は英邁だった所にも悲劇があります。
王子朝の養育官を賓起(ヒンキ)と言いますがこの男が上手く景王の気を引いて太子を廃嫡し、王子朝を立てる事を考えて、当時の周王朝で実力を持ち、太子の廃嫡に反対していた単公(ゼンコウ)と劉公(リュウコウ)を景王に殺させようとするのですが、逆に景王が死んでしまいます。
この状況の為、王位を争う戦になるのですが、この戦いは王子朝が死ぬ時まで続くと考えれば約15年続きます。
悼王側には単公、劉公という当時の周王朝にて力を持っていた実力者が付き、王子朝には尹氏(インシ)、召氏(ショウシ)、南宮氏(ナングウシ)等、周王朝が開かれて以来の名門で、当時権威が低下していた士族達が付きました。
結局は王子朝を利用して自分達の権威を取り戻そうとした人達の欲望がこの乱を呼んだ訳ですね。
悼王側の使者陰不佞(インフネイ)が晋の大臣趙鞅(チョウオウ)に援軍を依頼し、晋が悼王側に付いた為、次官は長くかかりましたが悼王側の勝利となり、晴れて悼王が王位に就く事になります。
この乱においては、晋に対して当然王子朝側も使者を発しているはずですが、悼王側が先に晋についた訳ですね。
その結果晋は悼王側に付く事になるのですが…。
勿論、正式な太子を支援する事に大義名分は十分立ちますし、正しい選択なんですが、これがもし王子朝側が先に晋に援軍依頼をしていたら…。
晋は王子朝に付いた事になると思います。
(先王は王子朝に嫡子を変えようとしていた訳ですから…。)
悼王よりも王子朝の方が能力を持っていたようですから、その方が素晴らしい王朝になったかも知れません。
ここに歴史の決断の厳しさがあると思います。
このブログにおいて「お家騒動」(2010年2月9日)、「君主の資質」(2009年11月14日 ファンブログ版をご覧の方は左のリンクから私的歴史道seesaa版に飛んでいただければご覧いただく事が出来ます。)でも記載してきた通り、君主の能力は時に邪魔になる。どちらかというと君主には能力が無い方がいいのでは?という意見を述べています。
その意見には変わりがないですが…。
王子朝。
この人はいい補佐役になる事ができれば歴史に違った意味で名を残したと考えています。
自分の能力に自信があったのかも知れませんが、周りの人にそそのかされた感もあります。
そういう雑音を無視していれば…。
という気持ちになります。
歴史というのは本当に時として「それで良かったんだろうか?」という事がまま見受けられます。
それも歴史の決断なんでしょうね。
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