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たか
歴史と80年代ハードロック、80年代歌謡曲、競馬をこよなく愛する39歳(独身)です。 色々と好き勝手に述べます。
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2010年09月10日
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Posted by たか at 11:03 | お知らせ | この記事のURL
2010年09月08日
龍馬暗殺 西郷黒幕説
龍馬暗殺の黒幕として私が一番疑っているのは西郷隆盛です。

「西郷は龍馬の同志やん!」なんてツッコミを入れる人もいるでしょうが…。

私が最近読んだ本の中で、きれいに西郷黒幕説をまとめていた物がありましたので、そこから抜粋させていただきます。

ちなみにその本は

「暗殺の日本史」 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫

です。

この本の中で挙げられている西郷黒幕説の根拠は以下の通り

1.暗殺集団の声をかくれて聞いていた女中の証言

  暗殺のあった夜、暗殺集団の声を隠れて聞いていたという女中がいるそうです。

  彼女の証言によると、暗殺者は九州の言葉を話していたとの事。

2.肥後の密偵の報告

  当時京にいた肥後の密偵は「薩摩の人間の犯行」と本国に報告しているそうです。

3.実行犯とされる今井信郎の処遇

  龍馬暗殺の供述をした今井信郎は静岡藩預かりの禁固という軽い刑

  明治五年(1872年)には特赦で赦免になっている。
  (約2年で許されている)

  理由としては西郷隆盛が手をまわして今井を助けた為。

  今井信郎の孫、今井幸彦氏も「祖父の助命運動に乗り出してくれたのは西郷隆盛」と証言。


やっぱり西郷隆盛って怪しいですよね。

西郷隆盛は通説では義と情に厚い人ですが、冷酷な革命政治家という面も合わせて持ってますよね。


勿論、この西郷隆盛黒幕説にも難点があります。

1.龍馬暗殺当時、薩摩、長州にとって龍馬はさほど重要な存在ではなくなっていた。

2.龍馬が敵に回ったとしても藩のバックアップも無く、強力な軍隊も持っていない。

3.西郷には龍馬は殺す程の存在ではなく、他に倒すべき人が大勢いた。

といったあたり。

例えば、「龍馬は殺す程の存在ではなく、他に倒すべき人が大勢いた」という事からいえば…。

西郷隆盛という人は肖像画等から勘違いされがちですが、この人、本当に小さい事まで目の届く人です。
(かなりの用心深さを持った人です。)

平和裏の倒幕を目指す坂本龍馬は当然藩のバックアップも無く、強力な軍隊も持っていないですが、そんな彼は薩長同盟を実現しました。

正直言って、西郷にとっての龍馬は何を仕掛けてくるか想像のできない人物なんですね。

その為、取るに足らない存在と侮る事ができないはずです。

西郷にとって龍馬は生かしておいても何もできないでしょうが、龍馬の行動に一抹の不安を持っていたと思われます。

そういう思いにふたが出来る男ではないですよね西郷どんは。

だから、黒幕として龍馬暗殺に関わったのでは?というのが私の勝手な意見です。




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Posted by たか at 09:03 | 幕末 | この記事のURL
2010年09月07日
龍馬伝36話を見て
今日は寺田屋事件でしたね。

通説では、お龍さんがお風呂に入っていて風呂の窓から捕り方を発見して裸のまま龍馬のいる部屋に駆け込み、急を知らせたというくだりですが…流石天下のNHK、お龍さん、ちゃんと服を着てましたね。
(ってツッコミどころではないですが…)

まあ、今回の放送でもあった通り、龍馬はここで左手を負傷する訳ですね。

2009年の12月15日のニュースで寺田屋事件の幕府側の報告書が発見されたとありましたが、その記述に「余程地をしたたらし左の腕」「龍馬手傷を負いたまま立ち入り右場所へ地に染まり候物残り」等と記載され、龍馬が血を流し、逃げ込んだ材木やの納屋に血に染まった小物入れなどが残っていた様子が書かれていますが、龍馬伝でもちゃんと逃げ込んでましたね。
(このニュースに関してはこのブログの2009年12月16日にも記載してます。ファンブログ版をご覧の方は右下のリンク集から「seesaa版私的歴史道」に飛んでいただければご覧頂く事ができます。)

ここでの負傷が原因で彼の左の人差し指が動かなくなるそうですね。

剣士としてはかなりの痛手ですね。

ちなみにこの事件の後で撮影されている龍馬の写真は、どれも左手をかばうようにして写っています。

恐らく、指が不自然な形で写る事を気にしていたんでしょうね。

ここで負った傷はもうひとつ、エピソードを産みます。

この傷をいやすために龍馬はお龍さんと一緒に湯治に出かけますが、これが日本初のハネムーンと言われています。

ただ、湯治に出かけた証拠がない等という事であくまで確定の話ではないそうですが…。

この龍馬伝はどう描くんでしょうね。

次週はお龍さんと結婚する所ですね。

さあ、湯治へ出かけるんでしょうか…。



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Posted by たか at 00:16 | 幕末 | この記事のURL
2010年09月04日
曹操と袁紹、袁術の決定的な違い
またまた、三国志ネタで申し訳ございませんが…。

三国志で群雄が割拠した際に最も勢力をもっていたのは袁紹(エンショウ)と袁術(エンジュツ)という事になるでしょうか…。

多くの群雄はどちらかの勢力圏に入っていた所がありますね。

例えば、曹操(ソウソウ)、劉表(リュウヒョウ)は袁紹派閥、孫堅(ソンケン)は袁術派閥といったように…。

だから孫堅は劉表を攻めて、非業の死を遂げる訳ですね。

袁家というのは、四世三公と言われる名門。

要は、四代続いて三公に就任したという事。

ちなみに三公とは、「司徒」、「司空」、「大尉(司馬)」の三つの役職で、それぞれを説明すると…。

司徒は内閣総理大臣で司空は副総理、さらに建設大臣も兼ねる役職、大尉は兵権を一手に握る役職という所でしょうか。

三国志の舞台となる後漢王朝では、最高の役職と言われた三つのポストです。

そこに四代も続いて就任した者を出したという事は、やはり優れた人物を出す家系だったんでしょう。

その袁家の血を引く二人が袁紹、袁術ですね。

彼等はそういった血統的背景をもっていますので、当然名門意識が強いんですよね。

それに引き換え曹操は…。

おじいさんが大宦官の曹騰(ソウトウ)、お父さんの曹嵩(ソウスウ)はその養子として入り、大尉まで昇りましたが…。

袁家から見ればどこの馬の骨かわからない人なんですね。

また、曹操も大宦官の孫として育った過程で、袁紹、袁術のように蝶よ花よと親類や回りから大事に育てられた訳ではなさそうですね。

恐らく、父親の曹嵩は曹操をかなりかわいがったと思うのですが、名門の子弟達からはさげすまれていたんでしょう。

その育ってきた環境が、袁紹、袁術と曹操との群雄割拠後の明と暗を分けたんでしょうね。

曹操は、一般的には五千の兵で旗揚げした訳ですが、袁紹、袁術というのは各々地盤を持っていたのでかなりの兵がすでに用意されてましたよね。

本当なら、三国志という時代は来ずに、袁紹、袁術で天下分け目の戦いがあってもおかしくない布陣でした。

そこに、何故、曹操が台頭する事が出来たかというと…。

まあ、後に青州兵と言われる青州の太平道信者を取り込んだ事ですよね。
(いわゆる青州黄巾族)

青州黄巾族との戦いは正直いって無謀な戦いでした。

一応青州黄巾族というのは100万と言ってましたしね。
(実際は兵士と統率者とその家族が集まって100万の民衆だったそうですが…)

それでも、手勢の少ない曹操がまともに戦って勝てる相手ではないですよね。

ご存じの通り、曹操はその青州黄巾族を自軍に取り込む訳ですが…。

そこで選抜した兵士三十万を曹操は「青州兵」と名付けてある契約を交わしたようですね。

この青州兵が曹操の切り札として後の戦いを有利に進める原動力となるのですが…。

魏書にも「魏武の強、これより始まる」と書かれている訳ですしね。

ちなみに、曹操が何を青州兵と契約をしたのかは、正直な所完全にわかっている訳ではないのですが…。
(想像する事はできますけどね。)

契約があったのは間違いないですね。

曹操が死ぬと、青州兵は魏を去ってますし…。

ただ、ここが私の思う袁紹、袁術と曹操の決定的な違いなんですよね。

もしこの青州黄巾軍の討伐を袁紹、袁術がしていたら…。

恐らくは二人とも自分が表に立って戦う事のないように逃げたでしょうが、仮に戦っていたとしたら…。

間違いなくこの100万の民衆をたたきつぶしに行きますね。

彼等は名門意識の塊です。

この時代の名門はみんな儒教なんですよね。

当然、この袁家二人も儒教と思われる言動が多いです。

しかも、名門意識が強い二人は儒教信者である事に誇りを持っていたと思われます。

だから、太平道を信じる青州黄巾族と相入れるはずがありません。

太平道というのは、大きく分けると道教の部類に入る宗教で、当時の中国は名門や官僚は儒教、一般民衆は道教といったすみ分けがされてました。

名門を誇る袁家の二人はどうあがいても道教を受け入れる事が出来ないんです。

それに比べて曹操という男は、儒教を勉強していた節がありますが、恐らく儒教信者ではないですね。

儒教というのは家柄や見てくれ、しきたりといった所にかなりうるさい宗教ですが、曹操を見ていると「唯是才」という考え方をもってます。
(唯是才とは、彼が何度か発令した「求賢令」に見られるんですが、家柄や見てくれとか品行方正はどうでもよい。ただ才能のある者を求めるという考え方ですね。)

話がそれましたが…。

だから袁家の二人はどうしても道教を認める訳にはいかないんですね。

そこで徹底的にたたきつぶそうとするでしょうね。

名門が民衆に負けるはずがないと…・

名門袁家として格好よく戦い、格好よく勝とうとするのですが、相手は宗教集団とはいえ数が多すぎます。

結局戦は泥沼化するでしょうね。

勝ったとしても自軍の損傷も大きく、衰退の原因を作った事でしょう。
(袁紹はともかく、袁術は…恐らく勝つ事が出来ないですね。孫家がどれだけ動くかによって決まると思われますが…)

ちょっとした事なんですが、ここが曹操と袁家二人の決定的違いですね。

要は勝てばいい、生き残ればいいという曹操に対して、袁家二人は勝ち方、生き残り方に注文が必要なんですね。

宗教なんかよりも自分の力をどうすれば大きくするかを考える曹操と、名門意識が強く、名門の名門による名門の為の勢力を作る事を考えていた袁家二人。

宗教とか名門とか…たいしたことではないんですが…。

このたいした事でもない事が官渡の戦いで負け、病を発して死んでしまった袁紹、部下に裏切られ、最後は「はちみつがなめたい」と言いながら死んだ袁術と、勢力を拡大し続け、最終的には中国の三分の二を有する事になる曹操との決定的な違いだったんですね。

袁紹、袁術という二人は恐らく治世ではかなりなポストにまで昇り、後に名を残したであろうとは思うのですが、残念ながら乱世を生き抜く能力を持っていなかったんですね。

治世と乱世の切り替えができなかった二人が三国志の前半でその姿を消すというのは、ある意味歴史の必然ですね。


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Posted by たか at 02:17 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月03日
曹操と劉備
ちょっと、三国志ネタが続きますが…。

実は久しぶりに陳瞬臣さんが書かれた「曹操(ソウソウ)」を読んでいるものですから…。

曹操と劉備(リュウビ)は皆さんもご存じの通り、三国志の中で一方の雄同志。

一般的にはライバルですよね。

三国志演義なんかでも、どうしても相いれない相手として描かれます。

この陳瞬臣さんはそういった所に異論を持っている人なんですね。

以前もこのブログで何度か記載しましたが、この陳瞬臣さんが書かれた「秘本三国志」という本がありますが、この中でも今回読んでいる「曹操」と同じような観点で書かれています。

というのは、「曹操が荊州(ケイシュウ)に南下して劉備を撃破するまで、曹操と劉備には秘密同盟があった」という意見を述べておられます。

曹操が劉備に持ちかけて、これから倒したい勢力に劉備が転がり込み、曹操と戦をするように勧めてそれらを曹操が撃破していくというような筋書きです。

確かに、劉備が曹操の元に転がり込んでから、劉備が頼るその先々と曹操は戦争して、ことごとく勝利しています。
(袁紹/エンショウしかり、劉表/リュウヒョウしかり…)

また、劉備もことごとく逃げおおせています。

確かにあやしいと言えばあやしいですね。

私的にも「こういう考え方もありだな」と思わせる観点です。

というのも、そもそも劉備が曹操陣営から脱出した後の経緯を考えると…。

劉備は曹操の元に転がり込んだ際に皇帝を取り巻く董承(トウショウ)から曹操暗殺計画を持ちかけられ、加担します。

結局、その企てはばれるのですが、ばれた頃には劉備は曹操に進言し、袁術(エンジュツ)討伐に向かい、許都(キョト)にはいなかった為、処刑をまぬがれます。

ただ、曹操は電光石火で劉備を攻めて撃破し、劉備は関羽(カンウ)と家族を残したまま袁紹を頼って北へ去っていきますよね。

その後、曹操と袁紹の官渡(カント)の戦いになるという経緯になります。

このくだりの中でおかしいのは、

まず、『何故曹操は劉備を袁術討伐へ向かわしたか』

という所ですよね。

本来の曹操なら、劉備が許都を抜け出したいことぐらいすぐに看破してしまうと思うのですが…。

劉備が許都を抜けた後すぐに董承一派が捕まって処刑されていますよね。

これもあまりにもタイミングが良すぎるような気がします。

また、劉備は曹操に撃破されますが、その際の布陣に疑問があります。

小沛(ショウハイ)に劉備と張飛(チョウヒ)、下ヒ(カヒ/字が出ない)に関羽と劉備の家族という布陣になります。

曹操のいる許都から劉備が謀反を起こした徐州(ジョシュウ)へ攻め込んだ場合、前線となるのは小沛です。

という事は、関羽が後詰という事になりますね。

普通に考えたら、曹操相手に戦う訳ですから、下ヒは守備兵のみで主力は全て小沛に集めて戦うと思います。

曹操相手に関羽抜きというのはおかしいですよね。
(別働隊を率いさせて曹操の背後を突くとかなら分からないでは無いですが…)

また、劉備と張飛の前線が突破された際、劉備は下ヒに向かうのではなく、迷わず北を目指していますよね。

普通なら小沛で撃破されても下ヒにこもって決戦と考えるのが当たり前のように思うのですが、劉備はとっとと袁紹の勢力圏に向かいます。

これもおかしいですよね。

また、関羽があっさりと曹操に下っている辺りもちょっと怪しいと思います。

なんか、このくだりってすっきりしないんですよね。

三国志演義の作者も恐らくすっきりしなかったと思います。

そこで、劉備を尊王の士という事を大々的にアピールして、関羽は劉備の家族を守るためにやむなく降るという事に落ち着かせたんだと思ってます。

このくだりを、陳瞬臣さんが指摘するように曹操と劉備の間に密約があれば…。

かなりすっきり解決するんですよね。

まず曹操暗殺の企ての所は劉備が曹操にその計画を打ち明け、劉備は袁術討伐に向かうという事で許都を出る。

曹操は董承一派を処刑して、劉備に追手を向ける。

激戦を行い、劉備は徐州を放棄して袁紹を頼る。

劉備としては元々袁紹の元に腰を落ち着けるつもりはハナから無いし、曹操との戦をけしかけて袁紹を滅ぼす為に行くわけですから、袁紹勢力から脱出する際に家族がいない方がいいので、曹操に預けていく。

また、曹操に自分の家族を預ける事によって、曹操が「もしや劉備が裏切ったのでは…」という疑心暗鬼を起こさない為の保険にしておく。

ただ、劉備としてもやはり曹操を100%信用するのも少し恐い所があり、自分の家族の護衛として関羽をつけた。

こういった流れで考えれば本当にこのくだりはすっきりするんですよね。

正直、私は劉備に対して聖人君子のイメージは持っていませんので、陳瞬臣さんの指摘の方がしっくりときます。

本当のところはどうだったかなんてわかりませんし、1800年前の事を事細かく検証する事はほぼ無理でしょう。

だから人それぞれの解釈があって、それが歴史に幅を持たせていると思っています。

私は陳瞬臣さんの劉備と曹操の間に密約があったという説に賛成です。



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Posted by たか at 01:39 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月02日
曹嵩の死
曹嵩(ソウスウ)は三国志の英雄のひとり曹操(ソウソウ)の父親ですね。

曹操のおじいさんは曹騰(ソウトウ)という大宦官(宦官は去勢された男の為、子を作る事は出来ない)ですので、勿論、曹嵩は曹騰の養子となった訳ですね。
(ちなみに、この曹嵩は夏侯家から来たと言われており、その為曹操と夏侯惇/カコウトン や夏侯淵/カコウエン が従弟と言われてます。)

曹操は宦官の孫という事で色々と言われたり、いじめ(蔑視)を受けたりしてましたが、よくあるいじめられっ子のようにシュンとするんではなく、どちらかというと「もっといじめてもらおうか!!」という強気の男の為、かれは心を病むことなく育ったんですね。

そんな曹操のお父さんはやはり、宦官の子という事をかなり気にされていたようです。

何故宦官の家系が蔑視されたかというと、当時の世の中は霊帝という暗君がまわりに宦官を侍らせ、ひどい政治をしていたんですね。

人々はこれを皇帝のせいではなく宦官のせいだと考えていた為、宦官が憎まれた訳です。

ちなみにそれは正解ですが…。

ただ、霊帝も「霊」という字を使われている事でもわかる通り、たいがいの暗君でしたが…。

この曹嵩という男、子供の曹操がとにかくかわいかったのか、かなり期待していたのか…。

曹操に箔をつける為だけに「大尉」という役職につきます。
(当時の朝廷では三公と言われた最高の役職の一つ。ちなみに他の二つは司空と司徒。)

この時代は霊帝のバカげた政治の為、役職を金銭で売買していたんですね。
(能力のある人物をそのポストにつけるというわけではなかったんですよ。)

曹嵩は大尉のポストを約1億銭出して買ったと言われています。

そこまでして、曹操の為に、曹家に箔をつけたかったんですね。

かなり親バカの部類に入るとは思いますが…。

勿論、箔をつける為だけに買った地位ですので、実際に彼がその役職に就いていたのは中平4年(187年)の11月〜翌中平5年(188年)の4月という、わずか5カ月だけの大尉でした。

本当は1億銭も出して買った役職なんで、もっと長くいてもよかったんですが、当時の世情から言うとかなり不穏な状況だったんですね。

太平道の張角は怪しい動きをしてますし、涼州の方では乱がおこったりしてますし…。

実はこの大尉という役職、兵権を一手に握る役職です。

乱がおこれば当然討伐に行かなければいけないですし、それに失敗すれば当然大尉の地位を追い出されます。

その為、箔をつけるだけの為に就いた役職ですんで長くいるべき役職じゃないんですね。

だから5カ月だけの就任で辞めています。

ちなみに、何故曹嵩が大尉を選んだかというと、三公の他の役職「司空」「司徒」という役職はなかなか空かないんですよね。

大尉は乱の平定の失敗などで罷免されたりするので、結構空きやすいポジションです。

曹嵩が大尉についた際も前任の崔烈(サイレツ)が危険を感じて辞めた為、ポストが空きました。

ちなみに、その前の大尉張温(チョウオン)は涼州で起こった乱の平定を失敗したため罷免され、さらにその前の大尉は張延(チョウエン)で、この人は宦官の謗りを受けて獄死しています。

なかなか危険なポストですよね…。

そんな曹嵩は大尉を辞めた後は隠居して徐州の方に住みます。

子供の曹操はというと、一応自分の基盤と呼べる土地ができ、親孝行をしようという思い(だったと思うんですが…)で、父親の曹嵩を自分の本拠であるエン(字が出ません)州に迎えようとします。

この悪ガキも親孝行をしたかったんでしょうね。

曹嵩は喜んで曹操の元に行く事にしたんですが、徐州の牧である陶謙(トウケン)が曹操に好を通じようとして護衛を買って出たんですね。

配下の張ガイ(字が出ません/チョウガイ)を護衛に選んだんですが…これがあだとなります。

張ガイは曹嵩の百両余りの輜重車に目がくらみます。
(輜重車とは、女性が乗ったり資産等を運ぶ幌が付いた車)

張ガイは曹嵩が休んでいる宿舎を襲い、曹嵩を殺して輜重車を奪って逃げます。

これが曹操の逆鱗に触れ、徐州に攻め込み、一般民衆も含め男女数十万人を殺し、徐州は人はもとより、犬や鶏さえいなくなったという惨状の舞台となってしまいます。

曹操が何故、徐州で大量虐殺をおこなったかはまたの機会にしますが…。

この大尉まで昇った曹嵩の最後は…。

彼は肥った女の人が好みで、張ガイに襲われた際に垣根を飛び越えて逃げようとしたんですが、妾が肥っているので垣根を越えられず、厠所(いわゆるトイレ)に妾と一緒に隠れましたが、当然見つかって殺されました。
(結構、やさしい人ですよね。)

しかも、逃げる際に彼も妾もりっぱな衣装を脱ぎ棄てていたので、斬られてもその男が曹嵩とは気づかれなかったそうです。

位人臣を極め、かなりの富を所有していた男にしてはかなりさびしい最後でした。

別に、資産をいっぱい持っていただけで、悪い事は何もしてないのに…それだけで殺されてしまうんですね。

しかしながら…。

一人の人間が死んだことがきっかけで、数十万人の人が殺されるという…。

本当に怖い話ですよね。

私も歴史の話は色々と読みましたが、ここまで徹底的に(記載がそうなっているだけで、実際よりオーバーに記載しているのかもしれませんが)人民を殺しつくした例はあまり知りません。

曹嵩という男、三国志的にはそれ程メジャーな男ではないですが、歴史の中で本当に大きな役割を割り当てられた人ですね。



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Posted by たか at 01:36 | 三国志 | この記事のURL
2010年09月01日
まずは隗より始めよ
今、民主党の総裁選真っただ中ですが…。

ちょっと古い話になりますが前の総裁選で樽床氏が出馬した際に「まずは隗よりはじめよ!」なんて言ってました。

ちょっと私は「?」だったんですが…。

というのも、この話は中国の戦国時代に燕という国が乱れ、隣国の斉に国土の多くを占領されました。

そんな最中、太子平が君主に即位しました。

この君主が昭王なんですが、この人は、燕という国に賢者を招かなければならないと常々考えていました。

そんな昭王は戦死者を弔い、生還者を見舞い、へりくだったことばを使い、給料を上げ…等々。

賢者を招こうと必死でした。

ある時、昭王は家臣の郭隗(カクカイ)に「天下の賢者を招き、国政を委ねて、斉に被った恥をすすぐにはどうしたらいいだろうか?」と尋ねた所、郭隗は

「私は、次のような話を聞いたことがあります。
昔、ある君公が千金をもって、一日に千里を走る馬、いわゆる千里の馬を手に入れたいと求めました。しかし、3年経っても手に入れることが出来ません。

すると、宮中の小間使い(取り次ぎの者)が、『私が行きましょう』と言って、探しに出ました。
彼は、3ヶ月後に千里の馬を見つけましたが、すでにその馬は死んでいました。しかし、彼はその死んだ馬の首を五百金で買って帰り、君主に報告しました。

君主はカンカンに怒り、
『私が欲しかったのは、生きている馬だ。どうして死んだ馬に五百金も払って来たんだ。』
と言いました。小間使いは、動じずに、
『死んだ馬ですら五百金で買ったのです。生きている馬なら、いったいいくらで買うのだろうと思うでしょう。千里の馬はたちどころにやって来るでしょう。』
果たして、1年も経たないうちに千里の馬が3頭ももたらされた、ということです。」

と答えた後、

「王がもし、優れた人物を招聘したいとお望みであれば、まず、この私、郭隗よりお始め下さい。私のような者でも取り立てられるとすれば、私より優れた人物はなおさらだと思うでしょう。きっと、千里の道を厭わずにやって来るに違いありません。」

と言ったそうです。

昭王は、郭隗のために宮殿を築いて、彼を師と仰いだ所、楽毅(ガッキ/趙の名将)や趨衍(スウエン/陰陽説の祖)等が続々と集まり、国政に努める事28年、ついに斉を破って滅亡寸前まで追い詰めた。

という故事から、できた言葉なんですが…。

なんか樽床氏の使った意味とは違うような…。

なんて思ってました。

おかしいなと思って当時、ネットで意味を調べたんですが…。

今は「身近な所から手をつける方がよい」という意味や、「物事はまず言い始めの人からやるべきだ」といった意味でつかわれるそうです。

それならなんとなく納得できるのですが…。
(でもやっぱりいまいちすっきりしない。)

ただ、言葉の成り立ちの故事だけを知っていたら、今回の私のような「知識バカ」になるんだなってつくづく思いました。

やはり故事と現代の使われ方をちゃんと知るべきですね。

以前このブログで記載した「背水の陣」(2009年9月30日のブログ/ファンブログ版をご覧の方はリンク集よりseesaa版私的歴史道に飛んでいただければ読んでいただく事ができます。)のように、本来の故事と現在使われている意味が違うものもあるんですからね。


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Posted by たか at 18:18 | お知らせ | この記事のURL
2010年08月31日
土方歳三と刀
新撰組の鬼の副長、土方歳三の刀と言えばまずは私のブログのURLにもなっている「和泉守兼定」が一番有名ですよね。

司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」なんかを読んでいても、朱鞘の和泉守兼定を求めるシーンがありましたね。

和泉守兼定というのは室町時代の美濃国の刀工であった初代兼定の子で2代兼定の事を差すようですね。

この、2代兼定の作刀期間は明応2年(1493年〜大永6年(1526年)ごろまでらしいですね。

ただ、土方歳三の遺品として残されている兼定は11代兼定の作(二尺三寸一分六厘)で2代兼定ではないようですね。

京都では二尺八寸の11代兼定をしようしていたそうです。

以上、Wikipediaを参考にさせていただきました。

恐らく、人を斬りすぎてその血で「刀の中子が腐った」と当人が言っていたのはこの二尺八寸の11代兼定の方なんでしょうね。
(もしくは、本当に和泉守兼定を持っていてそれが腐ってしまったのかも…。)

ちなみに脇差は堀川国広と言われてますが、国広は2尺以下の刀を打っていないとされているそうで、歳三が所持していた国広は1尺9寸5分で、「贋作だったのでは?」と言われているそうです。

堀川国広の部分もWikipediaを参考にさせていただきました。

まあ、人を斬る事が多い新撰組にいて、「いわゆる名刀と言われるキレ味抜群の刀が必要だった」とは思うのですが、そういう刀って本当に実戦で使ったんですかね。

名刀はブランドでもあるので「土方歳三は和泉守兼定」というステータスが欲しかったんじゃないのかな?なんて思ってしまいます。

すると、そんな名刀、バンバン手に入るとは思えませんので、やっぱり本物は持っているが、いざという時にしか使わないようにして、実戦では出来るだけキレ味が良くて、結構手に入る刀(ある程度入手困難だとしても、激レアとまではいかないもの)を使ってたんじゃないのかな?なんて考えています。

だって、人を斬れば刃こぼれもおこしますし、何度も砥げば刀も痩せますし…。
(勝手な私の意見ですが…。でも、壬生義士伝でも刀が痩せたなんて話出てきますしね。)

だから、遺品として残っているのが11代兼定のものだったんじゃないのかな?(本当は和泉守兼定を持っているが…)なんて思ってます。

和泉守兼定はこの時代から行くと200年以上昔に作刀を止めてますので、激レアだった???

なんて想像すると、そうバンバン手に入る刀ではなさそうですし…。

と勝手に思ってます。

だから、土方は和泉守兼定を持っていたが、遺品としては残っていないのでは?というのが私の意見ですね。

ちなみに、昨年日野本陣に行った時に、確か佐藤彦五郎記念館で聞いた話だったと記憶しているんですが…。
(すみません、場所は記憶違いかもしれませんが…)

土方から送られたという刀が展示されていました。

その刀は有名な人(名前忘れましたすみません)が誰々(こちらも名前忘れましたすみません。)を介錯をした際に用いた刀という文を合わせて土方から佐藤彦五郎に送られていました。

当時はそういう有名な人が介錯をした刀とか、有名な人が介錯された刀とかはブランド物だったようです。

土方は結構ブランド物の刀を持っていたという話でした。

という事は…。

案外この人、かなりの刀剣マニアだったのかも知れませんね…。

だから…。

和泉守兼定も持っていた!!と思いたいですね。


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Posted by たか at 15:14 | 幕末 | この記事のURL
2010年08月30日
龍馬伝35話を見て
今回はとうとう薩長同盟が成りましたね。

なかなか、重厚な描き方で良かったですね。

ただ、今回で一番気になったのは別のシーンです。

岩崎弥太郎を拷問している新撰組の所に見廻り組が来ましたね。

今まで、新撰組関連の本を色々と読んできましたが…。

見廻り組と新撰組の関係は、やはり仕事が絡むからある意味ライバル関係で、実績は新撰組が断然上。

見廻り組は新撰組を「どこの馬の骨とも知れぬやつら」と軽蔑して、新撰組は「あんな温室育ちの坊っちゃんに人を斬れるはずはない」というような感情をお互い持ちつつも、表面上はそんなにいがみ合わず、表面だけで付き合っているというような感じが多かったですかね。

また、見廻り組トップの佐々木只三郎と、新撰組隊士が若干絡む程度の関係で記載されているものが多かったと思います。

が!!

この龍馬伝は…。

凄かったですね。あの上から目線!!

確かに、見廻り組っていうのは将軍の旗本の次男坊等、家督を継がない旗本の子弟が集まって組織されたものですから、普通に考えたらあの態度で接してきますよね。

なんとなく、納得してしまうシーンでした。

この描き方は初めてですね。

新撰組も後に幕臣になり、近藤勇が御目見得以上の格になるのですが、それはこの薩長同盟が行われた翌年の話ですもんね。

この時点では、この描き方が正しいのかも知れません。

一応、この見廻り組が龍馬を暗殺したという事になっていますが…。

どうなんでしょう。

京都の治安維持や見廻りで全くその功績を効かない見廻り組にそんな事が出来るんだろうか…。

誰が龍馬を斬ることになるのか…。

はやいとこ見たいですね。

来週は寺田屋事件ですね。

また、寺田屋にでも行ってきましょうか…。


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Posted by たか at 00:12 | 幕末 | この記事のURL
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