2010年12月09日
三国志 曹操と荀ケのつながり
三国志での名コンビのひとつとして、曹操(ソウソウ)と荀ケ(ジュンイク)があげられますね。
ただ、荀ケの死に方から、この二人に関してはさまざまな事が言われています。
大宦官の家系から生まれた曹操に対し、当時の清流派知識人筆頭ともいえる荀ケが完全に心服していたはずがないといったような扱いもちらほらと目にします。
確かに、当時の状況では、清流派知識人の筆頭として荀ケを出した荀氏があげられます。
荀ケの叔父に当たる荀爽(ジュンソウ)は無位無官から90日で司空にまで上った人物ですしね。
まあ、これは当時宦官に虐げられていた清流派知識人に目を付けた董卓(トウタク)が自身の政権のイメージアップの為に清流派知識人をどんどん登用したことが理由ですが…。
要は、荀ケは清流派知識人の筆頭格として、曹操を利用して漢王室の再興を考えていたというのが、結構定説的に扱われています。
しかしながら、曹操を主君に選んだのは荀ケなんですよね。
当時袁紹(エンショウ)幕下にいた荀ケは、袁紹が大事を成す男ではない事を見切り、曹操の元に走った訳ですよ。
その当時の袁紹勢力と曹操勢力は、圧倒的に袁紹が大勢力でしたよね。
しかも、曹操は袁紹派閥とみられていた時期です。
そんなときに曹操の元に荀ケが走った訳ですから、これは凄いことですよ。
単純に曹操を利用して漢王朝を再興しようなんて理由で、そんな博打に出るはずがありません。
やっぱり荀ケから見た曹操は、かなり魅力的な男だったということですよね。
その後はことごとく荀ケの方策が当たり、曹操が最大の勢力になることになるのですが…。
曹操は宦官の家系ということで、清流派から当初は敬遠される人物だったんでしょうね。
そこに清流派知識人筆頭格の荀ケが飛び込んだ訳ですから、曹操は清流派の人々からも一目おかれる存在になる訳ですよね。
曹操にしてみれば、荀ケのおかげで、かなりの清流派を幕下に従える事ができるようになった訳です。
そんな清流派知識人筆頭格の荀ケ…。
曹操と荀ケの関係を語られる上であまり論じられないんですが…。
荀ケの妻も宦官の家系から出ているんですよね。
荀ケは、当時中常侍という宦官の総元締めの役職について権威を振るっていた唐衡(トウコウ)の娘を娶っているんです。
恐らく、いかに荀氏とはいえ、大宦官の家から持ちかけられた縁談を父の荀コン(ジュンコン/コンは糸偏に昆)が断れなかったという所なんでしょうね。
もし断ったら、下手をすると荀氏一族が皆殺しという事もあり得ますしね。
しかしながら、この事が荀ケの目を開眼させたと考えられます。
要は、一般的な清流派の人々は濁流中の濁流である宦官の家系を忌み嫌っている為、曹操に仕えるという発想がわかないですが、荀ケには「宦官の所業と宦官の出自は異なる」という明確な認識が存在していたんでしょうね。
そこが一般の清流派と荀ケが違う所ですね。
そんな荀ケですので、「宦官の出自である曹操に心服する訳がない」という説は当てはまらないと考えております。
曹操と荀ケというのは、本当に表裏一体の名コンビだったと考えています。
なお、荀ケの死についての私なりの考えは以前このブログで記載しました。
ご興味のある方は下記をクリックしてください。
>>荀ケは自殺?
ただ、荀ケの死に方から、この二人に関してはさまざまな事が言われています。
大宦官の家系から生まれた曹操に対し、当時の清流派知識人筆頭ともいえる荀ケが完全に心服していたはずがないといったような扱いもちらほらと目にします。
確かに、当時の状況では、清流派知識人の筆頭として荀ケを出した荀氏があげられます。
荀ケの叔父に当たる荀爽(ジュンソウ)は無位無官から90日で司空にまで上った人物ですしね。
まあ、これは当時宦官に虐げられていた清流派知識人に目を付けた董卓(トウタク)が自身の政権のイメージアップの為に清流派知識人をどんどん登用したことが理由ですが…。
要は、荀ケは清流派知識人の筆頭格として、曹操を利用して漢王室の再興を考えていたというのが、結構定説的に扱われています。
しかしながら、曹操を主君に選んだのは荀ケなんですよね。
当時袁紹(エンショウ)幕下にいた荀ケは、袁紹が大事を成す男ではない事を見切り、曹操の元に走った訳ですよ。
その当時の袁紹勢力と曹操勢力は、圧倒的に袁紹が大勢力でしたよね。
しかも、曹操は袁紹派閥とみられていた時期です。
そんなときに曹操の元に荀ケが走った訳ですから、これは凄いことですよ。
単純に曹操を利用して漢王朝を再興しようなんて理由で、そんな博打に出るはずがありません。
やっぱり荀ケから見た曹操は、かなり魅力的な男だったということですよね。
その後はことごとく荀ケの方策が当たり、曹操が最大の勢力になることになるのですが…。
曹操は宦官の家系ということで、清流派から当初は敬遠される人物だったんでしょうね。
そこに清流派知識人筆頭格の荀ケが飛び込んだ訳ですから、曹操は清流派の人々からも一目おかれる存在になる訳ですよね。
曹操にしてみれば、荀ケのおかげで、かなりの清流派を幕下に従える事ができるようになった訳です。
そんな清流派知識人筆頭格の荀ケ…。
曹操と荀ケの関係を語られる上であまり論じられないんですが…。
荀ケの妻も宦官の家系から出ているんですよね。
荀ケは、当時中常侍という宦官の総元締めの役職について権威を振るっていた唐衡(トウコウ)の娘を娶っているんです。
恐らく、いかに荀氏とはいえ、大宦官の家から持ちかけられた縁談を父の荀コン(ジュンコン/コンは糸偏に昆)が断れなかったという所なんでしょうね。
もし断ったら、下手をすると荀氏一族が皆殺しという事もあり得ますしね。
しかしながら、この事が荀ケの目を開眼させたと考えられます。
要は、一般的な清流派の人々は濁流中の濁流である宦官の家系を忌み嫌っている為、曹操に仕えるという発想がわかないですが、荀ケには「宦官の所業と宦官の出自は異なる」という明確な認識が存在していたんでしょうね。
そこが一般の清流派と荀ケが違う所ですね。
そんな荀ケですので、「宦官の出自である曹操に心服する訳がない」という説は当てはまらないと考えております。
曹操と荀ケというのは、本当に表裏一体の名コンビだったと考えています。
なお、荀ケの死についての私なりの考えは以前このブログで記載しました。
ご興味のある方は下記をクリックしてください。
>>荀ケは自殺?