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2018年02月22日

人殺しは戦争と軍隊の本質

人殺しは戦争と軍隊の本質
2016年06月26日20:44301 view
■防衛予算「人を殺すための予算」 共産・藤野氏が撤回
(朝日新聞デジタル - 06月26日 18:56)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4063135

表現は確かに不穏当であるが、国民の側が忘れるべきでないことは、たとえ防衛目的であろうと人が死なない戦争はないのだということだ。人が一人も死なない場合、定義の問題でそれは戦争とは呼ばれない。戦争では必ず人が死ぬのである。

だから、是非はともかく自衛隊が日々重ねている訓練のうち、こと戦闘訓練については、「人殺し」の訓練なのである。その目的はこの際関係ない。防衛目的であろうと、侵略目的であろうと、戦闘行為は常に人殺しを伴うのだ。こういう突き放した認識を持てない人間から平和ボケに陥ることになるのだ。

防衛費をして「人殺す予算」と表現することは、少なくとも世論の共感は招きにくい。したがってこの発言は完全な失策だし、もっと戦略的に言葉を選べないようでは政治家として未熟である。

しかし、他方において自衛隊などの軍事組織を自国を守るための組織だと安易に位置づけている人々も愚かである。

軍事力というのは、それが戦争目的に用いられる以上、人殺しのための組織であることを宿命づけられている。軍事訓練は必ず人殺しを想定した訓練にならざるを得ないし、それをしなければその組織は軍事組織ではない。こういう組織のために割り当てられる予算は、多かれ少なかれ「人殺す予算」にならざるを得ない。だから政治戦略としては未熟だが、本質の一端は捉えている発言なのである。

これは定義から導かれる論理的必然であって、好き嫌いの問題ではない。自衛隊を支持するにしても、自分が自衛隊員に人殺しの覚悟を要求していることには自覚的であるべきだ。そうでなければ、それこそ自衛隊員に対して失礼というものだろう。

ところが勇ましく集団的自衛権の必要性を説いたり、自衛隊と在日米軍を頼みとした国防を語る人間ほど、こういった本質を欺瞞で糊塗したがる。自衛隊員は体を張って国民の生命・財産を守っていくれている、といった片手落ちの議論で本質から目をそらすのだ。それが自覚的な欺瞞か、無意識的なものかはさておき、人殺しの要求をごまかしている以上、犯罪的な欺瞞と言うべきだろう。

9条が存在している日本においては、自衛隊はその軍隊としての性格を大きく制約されており、世界の軍事組織の中では規模の割に極めて穏健な組織になっている。その穏健さの副作用として、日本人の中には軍隊組織の本質を忘れてしまった人々が多数存在するようになった。

こうした平和ボケした人々は、軍事力に対して実に無邪気である。自国の軍隊が自国を守ってくれる、逆に軍隊がなければ国は守れない、十分に強い軍隊は家に鍵をかけるようなもの、こういった純朴とも言える軍隊観に染め抜かれている。

実際には自衛隊をそのような穏健な組織たらしめているのは9条があるからであって、9条をなくせば自衛隊も変質し、治安の名のもとに国民に銃口を向ける「普通の軍隊」になるのである。その時、軍隊はもはや「家の鍵」ではない。家の鍵はどれだけ強化しても家主に襲いかかったりはしないが、軍隊はそうではないのだ。

自衛隊といえど、「人殺し」をその本質に抱えていることは厳たる事実である。そういう組織を専守防衛の穏健な組織にしているのは9条である。平和ボケした甘い軍隊観に酔いしれている連中は、自衛隊員のみなさんに土下座で詫びたらよい。
posted by koko at 01:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 憲法
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