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2018年02月13日

戦争はだめだから、スパイを探す馬鹿がのさばらさせてはいけない。

「誰がスパイなんだ」と馬鹿が言う

http://shionandshieun.hatenablog.com/entry/2018/02/12/160623

何で戦争はダメなのかという質問をされたら、声を合わせてこう答えるに違いない。

「スパイを探す馬鹿がのさばるからね。」
沖縄戦ー沖縄県民の虐殺に見る戦争犯罪
13/12/27 政治
http://blog.goo.ne.jp/autumnleaf100/e/200dbee1907fc522f74d539016bfcba1
沖縄の戦没者については戸籍が焼けてしまったり、一家全滅が多かったり、全県的な調査も行われなかったので正確な数字は分からない。沖縄県の公式発表では、住民戦没者(94,000人)、日本軍戦没者(94,136人)、米軍戦没者(12,520人)、合計戦没者(200,656人)となっている。
当時の沖縄県の人口が491,912人(1944年・昭19・2月)、県出身軍人・軍属戦没者が28,228人、一般住民戦没者が94,490人で、沖縄県人の総戦没者は122,718人となり、戦没者の割合は約25%となります。「4名に1人」の県人が沖縄戦で亡くなったことになる。最も犠牲の大きかったのは、幼児と老人だ。体力のない幼児や老人に最も戦争の犠牲がふりかかってきたともいえる。

「少年団」「義勇隊」「学徒看護隊」「鉄血勤皇隊」「防衛隊」「補助看護婦」「農兵隊」「護郷隊」というように、いろいろな形で動員させられた。アメリカの艦船から撃ち込まれる砲弾は、その跡が蜂の巣状になる程の数だった。「道路」、「屋敷」、「空き家」、「豚小屋」、「木の下」、「岩蔭」、「ガマ(壕)の中」などありとあらゆる場所で砲弾が炸裂した。アメ リカ軍は、「ガマ(壕)の中」に隠れている住民や日本兵が投降に応じなければ、爆弾やガス弾投下、火焔放射、ガソリン放火をした。「ガマ(壕)の中」では、日本軍による虐殺や集団自決、強要死もある。

 住民を巻き込んだ戦争は、このように複雑多様な犠牲をおしつけた。しかも、直接戦闘と無関係な死に方(殺され方)の多いことにも驚かされる。

戦争に関係のない住民同士が、日本軍のデマを信じて、自ら自分の命を絶つことを覚悟し、「どうせ死ぬなら自分たちの手で…」という身内の愛情表現として殺し合ったり、命を断ったりしたことは、沖縄戦特有の悲惨な事象であった。軍隊が住民を守らないのは、どの戦争でも同じだろうが、「沖縄戦」では、守らないどころか住民を殺す軍隊になっていた。軍は自らの移動の際には、傷病兵や住民の殺害、放置または自決を強要している。

 いたる所に死体が転がっている。多くの証言に共通していることは、それらの死体に出会うと、次第に慣れてきて、結局何も感じなくなっていったということだ。放置されている死体に対する「かわいそう」とか「酷たらしい」という感情は、自分もそのような目に遭うのだという気持ちが重なって、同じ死ぬなら爆弾の直撃を受けて一瞬に死にたい、という死の方法に気持ちが移り、恐怖感は無くなっていく様子が多く見受けられた。「死」と直面し、「生きる」ための条件が見つからない状況の中では、人は「生きる」ことを考えないようにする、人間であることを止めることで、精神のバランスを保っていたのかもしれない。

そして、考えられないことが起こった。日本兵が住民から食糧を奪ったり、スパイ容疑や邪魔者扱いでガマ(壕)から住民を追い出したり、直接手を下したり、殺させたりしたのである。

証言1
「…鬼畜の如き米兵が、男は殺し、女は辱しめると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。…村長の音頭で天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷の人のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。…若い者が、私の手から手榴弾を奪いとって、パカパカくり返すのですが、私のときと同じです。とうとう、この若者は、手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それでもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのか−、誰か殺して−」とわめいていました。男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて、出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに私は死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった時です。私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず…。目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのですが、誰だったか、わかりません。そのあと死んでいった私の義兄だったかも知りません。私は、殺されて私の側に横たわる二人の息子に、雨がっぱをかぶせました。」
証言2
「…もう行く所もないということで壕にひきかえし、持っていた縄で最初に奥さんの首をしめ、次に娘さんの首を強くしめました。そしてそれぞれの死を確認したあと、自分の首を無我夢中でしめている所を米兵に見つかり、未すいに終わって捕虜となりました。」
証言3
「玉砕の際、他の人たちは家族で首をしめて殺しあっているのに、妹と二人だけなので、首をしめるにも女の力では失敗するという気持があった。ちょうど米軍機から爆弾が落とされ、近くの山が燃えていたので、その火の中にとびこんでいきました。」
証言4
「木麻黄には多くの人々が顔を黒くしてぶら下がり、中には生後18日目の赤ん防が母親の下がった隣の枝にぶらさがっている様子や、また、木の下では、首に縄が巻きつけられたままの赤ん坊が、すでに死んでしまった母親のお乳をさかんに吸っている様子などは何とも表現のしようのない痛ましい光景でした。」
証言5
「上陸してきた米兵を見た時、立ちむかうというより、すぐ死ぬ事を考えました。一緒にいた部落民は、父親が妻や子の首をしめたり、夢中になって木にぶら下がるもの、猫いらずをうばいあって、なめて苦しむ者、表現できないほど残虐な事がやってのけられていました。」
証言6
「私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引受けてくれ、身仕度を整えるよういいつけました。「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持を惜しまないでりっぱに死んでいきましょう」と言ってから、1人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぼうに手りゅう弾を投げつけました。その中の2コが1人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。…水をくんで壕に戻ると、重傷を負った女の子が、「おばさん、苦しいよ−、水、水…」と水を要求してきました。傷口からは息がもれて、非常に苦しそうです。その子とかかわっている最中、突然、校長先生が、奥さんの首を切り始めました。すると奥さんの方は切られながらも、「お父さん、まだですよ。もう少しですよ」と言っています。そこら一帯は血がとびちり、帳簿などにも血がべっとりとくっつきました。校長先生は奥さんの首を切り終えると、先程最後に死んでくれるようお願いしたにも拘らず、今度は自らの首を切ったため、「シューッ」と血の出る音と同時に倒れてしまいました。私達はびっくりして校長先生の名前を呼び続けましたが、もう何の反応もありません。私の着ている服は返り血をあびて、まっ赤に染まってしまいました。未すいに終わった奥さんは私に、「お父さんのそばに寝かせて手をくませて下さい。私が死んだら、故郷(佐敷村)に連れて行って下さい」と頼んでいました。最後には、重傷の女の子も息をひきとりました。」
証言7
「私達や残った家族は最後まで死ぬ覚悟で、いつまでも壕の中にいました。さて、どのようにして死んだらいいものかと、武器を調べてみると、手りゅう弾一コとカミソリしかありません。手りゅう弾では失敗するかも知れないと、年輩の女の先生は、カミソリを取り出して自分の子供たちの首を切り、最後に自分の首をきりましたが、みんな未遂に終わりました。私はそれを見てかわいそうになり、『どうせ死んでしまうんだから』と水をくんできて与えようとしましたが飲みたがる様子もありませんでした。」
証言8
「渡嘉敷村の人たちは、鍬や、ナタを使って自決を計ったらしく、体の一部分に鍬のたてられた跡が残っている人もいます。…渡嘉敷から来た重体患者の中に、一家玉砕し、1人だけ未遂に終わり、米兵に救われた女の子が運ばれてきていました。」
証言9
「米兵が壕の前にずらりとならんでいる。あまりの数に私達はびっくりして、さっさと死ななければ、と思い、まず父がかたい縄で私達四人の首をしめたが、なかなか死ぬことができない。これではだめだと思い、今度は父が南洋から持ってきたカミソリで首を切ることにした。まず初めに、母の首を切り、次に私の首を切った。私は、何かノド元をさわったかな、と思うと同時になま暖かい血が胸を流れはじめたため、その時首が切れたんだな、と思った。そして次には、弟、妹という順で切っていくと、母が、「まだ死ねないからもう一度切ってごらん」というので父は、それでは、と再び母のノド元を切りつけた。その時に弟は、『おとうさん』という一声を出してそのまま倒れてしまい出血多量で死んでしまった。最後に父も自分の首を切っていた。」


 「自決」に使われたのは、カミソリ、ナタ、縄、手榴弾、クワ、カマ、包丁、猫いらず等の農薬、注射、岩石、材木など、身の回りにあったものが凶器となっている。「自決」にいたる経過には共通するものがある。
〇逃げ場がなくどうしようもない状況
〇米軍の上陸が目前、または米軍の攻撃が近づいてくる恐怖感
〇助けを求めた日本軍に拒否されたり、追い返されたりした。
〇捕虜になるよりは死んだ方が…。
〇日本軍に「自決せよ」と言われた。
〇「死ぬ」のが当然という気持ち
〇自分だけ生き残れない。
〇生き残るのが恥ずかしい。
〇死ねないのは申し訳ない。

  沖縄戦における「集団自決」の特異性は、その「死」の覚悟の中に共通したものがある。一人一人が「死」を覚悟し、それを実行に移している。それを証明しているのが、「自決」に使われたカミソリや農薬などだ。事前に覚悟を決めていなければ持って避難することはないものだ。また、実際の「自決」現場で、異議を唱える人がいないというのも特異な状況だ。 激しい戦場では、戦死を免れても逃げ場を失えば、捕虜(民間人は「捕虜」ではなく「保護」だった)になるしかない。「米軍に対する恐怖感」と「日本軍に対する恐怖感」が同時にあったから、捕虜にはなれなかった。 「自決」という考えが沖縄県民にいつごろ芽生えたのか定かではないが、「皇国」と「軍隊」思想が持ち込まれ、学校教育を中心にあらゆる教育の場で叩き込まれていたからだ。その根底には「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う「戦陣訓」の玉砕精神が潜んでいた。沖縄は、琉球王国だったから、「大和・日本」のような天皇を頂点にした政治にはなじまなかった。ところが、明治に沖縄県になってから、中央の力が強く押しつけられるようになる。その中心が「天皇」と「軍隊」思想だった。もちろん、この考え方の浸透は他府県に比べて遅れていたので、そのことが他府県からの差別のもととなった。 そこで、この遅れを取り戻すために、軍に協力する形で、県 ・市郡町村・学校 ・警察によって強力な教育が開始された。知事以下、沖縄県内の要職のほとんどを「本土人」によって占め、沖縄の「皇国化」に強力な指導を加えた。このような教育は、民主主義の考え方を否定し、明治、大正、昭和と続いていく。そして、日本軍は、沖縄の人たちに「供出」と「徴用」の二つを要求してきた。つまり、戦争のために、兵隊の食糧や兵舎の資材などを出させたり、飛行場の建設や軍の陣地づくりに動員した。  沖縄の人たちは、日本軍のことを「友軍」と呼んで最大限の協力をした。部隊の将校たちは、たいてい民家に宿泊し、兵隊なども部隊によっては民家に宿泊していたから、住民と日本軍は親しくなる。そのことを誇りにも思っていた。そして、住民は、これまで徹底的に教育されてきた「天皇のために(国のために)」身を犠牲にすることを率先してこなしていった。 日本軍の兵隊たちはその多くが、沖縄を日本とは思っていなかった。明治になって日本に属した所という意味で、「内地とは違う所」という受けとめ方で差別していた。沖縄に来た日本軍の兵隊たちはその多くが「外地」である中国の「満州国」から移動した部隊だったから、沖縄を守るという気構えはなく、「祖国=天皇の国(俗に言う本土)」を守るためにいるのだという気持ちが強かった。もともと、沖縄に対しては、差別感があり、その最たるものが「沖縄県人総スパイ」という見方だった。沖縄戦を前に、三十二軍の指揮官となった牛島司令官がはじめに将校たちに訓示した中に、「スパイには注意しろ」という項目がある。献身的に協力している沖縄の人々を「スパイ視」していたわけだ。 沖縄戦が始まって、食糧を奪い、避難壕から追い出し、泣く子を殺し、方言の老人を虐殺する……。 このように、戦場で日本兵と接していく中で、県民の日本軍に対する恐怖感と不信感は募っていった。一方、日本軍は、陣地づくりや飛行場づくり等に住民を動員していたので日本軍の秘密がアメ リカ軍に漏れるのを恐れた。また、将校や兵隊たちが民家に宿泊していたため日本軍と住民が親しくなり、それらのことから、住民がアメリカ軍の「捕虜」になると、軍の秘密がもれるのではないかという危機感があった。捕虜になるのを防ぐために、米軍の残酷さを宣伝し、捕虜にしないために殺害したり、脅したりしていた。 住民の心はアメリカ軍と日本軍への恐怖感で一杯だった。捕虜になることは、アメリカ軍の虐待や暴行をうけることであり、日本軍からスパイ容疑で殺されると言う絶望的な状況に追い詰められていた。その結果、「自決」の道へと突き進んで行ったというのが実状だったろう。

◇久米島の場合 
 久米島で起きた「日本軍による虐殺事件」は、部隊長の鹿山が起こした住民虐殺事件だが、鹿山は、米軍が久米島に上陸した6月下旬、まだ山中に閉じこもり、米軍の攻撃を封じ込めるために、住民を人質状態にしていた。つまり、山中に避難していた住民に、下山する者はスパイと見なして銃殺にする、と住民の投降を阻止していた。しかし、鹿山の統制力が弱い山に避難していた住民はすでに下山していた。村の安全さが山に伝わると、下山する者が増えたが、そういう中で、鹿山は住民虐殺に走った。
〇6月13日…3人の住民が米軍に拉致されたが、それを伝え聞いた鹿山は布告をだした。
〇6月27日…米軍の投降勧告書を持たされて山に入った郵便局員が殺害された。
〇6月29日…米兵に拉致された住民の3人の内2人が帰島したが、鹿山は、その2人の家族と区長及び警防団長を殺害し、家を焼き払った。
〇8月17日…本島で米軍の捕虜となり、住民の投降勧告担当として、米軍の攻撃を止めさせ、山中の住民に投降を呼びかけていた住民の家族全員が斬殺された。
〇8月20日…戦前から久米島に住んでいた朝鮮人の家族(妻は沖縄女性)7人を事実無根のスパイ視で惨殺した。
〇未遂には終わったが、農業会長はじめ米軍との接触のあった者は全員射殺するという計画が伝えられていた。
 米軍との接触は「スパイ」と同じことだという観念が強く働いていた。朝鮮人家族の虐殺事件では、日本兵が子どもたちを刺殺する時、「こやつも将来日本を売ることになる」とか「朝鮮の子供は大人になると何をするかわからない」というセリフを吐いている。いずれの場合も、「我々の命令は天皇陛下の命令と同じだ」(住民に対して強く出る時の日本兵の代表的なセリフ)からもわかるように「国体護持」へとつながっている。

◇渡嘉敷島(赤松隊)の場合
・米軍は、伊江島から収容した伊江村民男女6名を選び出し、投降勧告文書を持たせて、西山陣地に送り出した。赤松は、この6名を拘束して自決か処刑かの選択をさせている。6名は自決を選び、うち5名は自決し、逃げた1人は斬首された。
・7月2日、部隊は防衛隊員を敵に通ずる恐れがあるとして処刑した。
・2少年が、米兵に発砲されて山に逃げたところ、日本兵に捕まり「日本人として捕虜になった」として自決させられた。
・米軍は、村民下山後、更に降伏勧告のために4名を派遣した。2人は帰って来たが、2人は殺害された。
・赤松は、村民を下山させた村長と郵便局長を捕えようと捜索していた。

◇伊是名島の場合
・戦争中も自由に歩きまわっていたバクロー(家畜仲買人)が、スパイという嫌疑をかけられて敗残兵に殺された。
・漁師の傭い子が、スパイのおそれがあるといって、少なくとも2人は殺された。1人は後から追っかけられ日本刀で首を斬り落された。

◇本部の場合
・国民学校の校長が、山の中をさまよい歩いているうちに日本軍に捕まえられ、スパイ呼ばわりされたあげくに斬殺された。
・他の男性は、日本兵に道案内をしてくれと誘い出され、斬殺された。
・5名の部下をひき連れた敗残兵が、「私は運天から来た者だ。きさまらがスパイをしたために日本は負けてしまった。外へ出ろ。斬り殺してやる」とどなりながら、軍刀をチャラチャラさせていた。(未遂。食糧を強奪して去る)。
・ポケットから帳面を出して、これとこれは明日斬ってやる、などと残忍な言葉を吐いていた。その帳面には、村の指導者層の名前が殆んど書きつらねられていた(事後不明)。

◇大宜味村の場合
・収容所襲撃事件…5月12日の真夜中、十数名の日本兵が米軍管理下の捕虜収容の民家を襲撃し、数十名(推定)の避難民を虐殺。
・7月22日の夕方、紫雲隊所属の伊沢曹長以下数名が民家へ来て、スパイ行為をしていると称し、目隠しをし、両手を後手に縛りつけ、銃剣で刺殺し山林内へ埋めた。
・数名がスパイ容疑でリスト・アップされていたが、部落民の下山が早くなってその難を免がれた。

◇今帰仁村の場合
・アメ リカ帰りでスペイン語が話せる平良コウ何とかいう人が日本軍に最初にやられた。
・うちのおやじ連中のことを、後で祖父から聞かされたわけですが、夜、藷畑に引き出されて行ってとり囲んでいた。相手は5、6名だったらしい。何の抵抗したあともなく、バッサリやられたらしいですね。

◇首里の場合
・方言しか話せない老人が、自分の家族を捜すためにガマの中を捜しているのを、日本兵の軍曹が捕まえて縛り上げ、何日も見せしめにし、最後は日本刀で殺した。

日本軍(兵)による沖縄住民の虐殺は調査がないので正確な数字は不明のままだが、約40件数百人と言われている。 久米島や渡嘉敷島での虐殺はよく知られているが、その他の離島や沖縄本島の各地でも住民虐殺があり、特に大宜味村での収容所襲撃虐殺事件は、数十名に及ぶ大量虐殺事件として残忍極まるものだった。また、厚生省が調査をした「14歳未満のケース別戦没理由」にも、「友軍よりの射殺14人」というのがある。射殺のみならず毒殺、絞殺、刺殺、斬殺等も証言では見られるので、その数はもっと増える可能性がある。国内の戦場で、味方の兵隊に殺害されるという虐殺事件は、「集団自決」と共に沖縄戦における日本軍の残虐性をあらわにしたものの一つとなっている。
 日本人である沖縄県民ですら、こんな残虐非道な殺し方をしている。日本軍は海外で何をしてきたか?侵略戦争であることを認めず、戦争犯罪人を英霊として敬う現政権の意図は?
 
 戦前の靖国神社は、亡くなった軍人らを「神」としてまつる国家神道の中心だった。日本の兵士に死を強制したのは国家である。国家は国民の生命と財産と権利を守る義務があるにも拘らず、国民を死へ追いやったのである。ミッドウエイ海戦以降日本の敗北は、はっきりしていた。ドイツの降伏後、軍部の判断が正常であれば、原爆投下も大都市の空襲も北方領土問題もシベリヤ抑留もなかった。これらの判断を狂わせたのが、本土決戦、そして美しき玉砕の夢に恍惚としていた軍部である。国のためと信じて疑わず、国家や軍、天皇への忠誠を強制する体制が国を無条件降伏まで追いやった。死を美化し、戦没者、特に戦犯を英霊として神格化することは断じて許されない。戦局の判断すらできず、国力の正当な評価も出来なかった指導者たちによって、無為の死を遂げた多くの兵士の神格化もまた戦争行為の賛美につながる。侵略した事実を曲げ、戦争を正当化することにつながる。
 閣僚らの靖国神社参拝に関して、「国のために尊い命を落とした英霊に尊崇の念を表するのは当たり前だ。当然だろう」と述べた。更に、「韓国は盧武鉉政権になって初めて、靖国参拝を問題にし始めた。」と述べた。中国に対しても「A級戦犯が合祀されたとき、首相の参拝に抗議せず、ある日突然抗議をしはじめた」とも発言した。
 多くの戦死者は、国に騙され、自分の家族を守るために命を捧げた一介の国民であって英霊などではない。国家に命を捧げたとする表現は、戦争を正当化するものである。戦死すれば神になると、戦意を鼓舞し死を称えるのが、靖国神社の存在である。時の宮司が内密に、A級戦犯の合祀を行い翌年それが発覚した。戦後33年も経ってのことである。靖国神社の本質的問題は、遊就館の再建だ。1985年、中曽根内閣の時代に、侵略を否定し、戦争を称賛する施設として、再開された。靖国神社が世界各国の慰霊施設と異なるのは、個人を悼む施設、戦没者の霊を慰める施設ではなく、国家の戦闘を鼓舞し称える施設であることである。安倍首相は参拝後、「母を残し、愛する妻や子を残し、戦場で散った英霊のご冥福をお祈りし、手を合わせる。それ以外のものでは全くない」と語った。あの戦争に巻き込まれ、理不尽な死を余儀なくされた人たちを悼む気持ちに異論はない。だが、靖国神社に現職の首相や閣僚が参拝すれば、純粋な追悼を超える別の意味が加わる。政教分離は憲法が定める原則である。軍国主義と国家神道が結びついた戦争を繰り返さないための条文である。二度と戦争を繰り返さないと言う決意が本物なら、戦没者を神格化する言動は慎まねばならない。ジハードに参加して自爆した魂は天国に召される。御国のために命を捧げた魂は英霊となり、神格化され全国民に敬われる。若者を戦闘に駆り出したいものの常套句にしか聞こえない・・・・・・
石原昌家沖縄国際大学名誉教授が指摘するように「日本政府は沖縄住民の最も残酷な無念の死を、崇高な犠牲的精神によって自らの命を絶った集団自決(殉国死)として美化していった」のである。沖縄にとって靖国神社は、ゼロ歳児が「英霊」としてまつられる「ねつ造された」空間でもある。沖縄戦の記憶をなし崩しにし、アジアに非難されるような偏狭な歴史観は共有できない。(琉球新報)
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