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2017年11月16日

追悼文を拒否する防災管理者としても不適切な小池東京都知事。虐殺否定論の過ちと1923年東日本大震災での朝鮮人、中国人、内地人虐殺。






映画『隠された爪跡 関東大震災朝鮮人虐殺記録映画』
関東大震災朝鮮人虐殺事件
関東大震災朝鮮人虐殺事件 (かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん) とは、1923年の関東大地震によりもたらされた関東大震災の混乱の中で、民間の自警団などによって少なくとも233人(司法庁調査)[注釈 1][2](朝鮮総督府官憲調査では813人[1])の朝鮮人が殺害された事件である。その他に朝鮮人に間違えられて内地人58人[3]、中国人3人が少なくとも殺害されている。また、軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、中国人200人、内地人27人である[4][5]。

朝鮮人虐殺−関東大震災時の虐殺事件C
 関東大震災時の虐殺事件を書く4回目(最後)。毎日書いているけど、最初に書いたように、2003年に書いた個人的メルマガをもとにしている。その時は一週間に一回ぐらいかけて書いた。そうでないと、調べて書くのは大変だ。4回目に朝鮮人虐殺事件を書くけど、それは「あったか、なかったか」を書くためではない。そんなことは明白すぎて書く意味もない。歴史学的観点からは、「デマはなぜ生まれ、どのように広がっていったか」に問題はしぼられるだろう。

 関東大震災は1923年(大正12年)9月1日に発生したわけだけど、もちろんそれを予知してい人はいない。プレートテクトニクス理論が確立した現在でも、東日本大震災の発生は不意打ちだった。熊本の地震もそうだ。関東大震災では皇族も犠牲になっている。若い人ばかりで当主はいないけど、閑院宮の4女や東久邇宮の次男などが亡くなった。いずれも小田原や藤沢などに避暑に来ていて、別荘が崩落したのである。前回書いたように震災は権力側にも不意打ちだったわけで、朝鮮人だけが予知できたわけがない。事前に判ってない限り、井戸に入れる毒を用意できるはずがない。

 常識で考えれば、劣悪な環境に置かれた朝鮮人労働者の方が、震災で家屋が崩壊して生き延びるだけで大変だったろうと判る。日本の植民地だった朝鮮だが、日本に自由に往来できたわけではない。だが、困窮した人々は日本へ流入した。(南部の人は日本へ、北部の人は中国の間島=現在の延辺朝鮮族自治州に行った人が多い。)朝鮮人は荒川放水路の工事など様々な下層労働をして、バラバラに居住していた。集団で「暴動」を起こせるわけがないし、故郷を食い詰めて日本に来たのだから、独立運動家というわけでもない。こうして、虐殺事件があちこちで起こったわけである。

 東京東部を見てみると、本所区(墨田区南部)と深川区(江東区西部)一帯はほとんど焼けた。東部から逃げるとなると、千葉か茨城に向かうことになる。どう行っても、川がある。都心から順に、隅田川(大川)、荒川(放水路)、中川、新中川、江戸川となる。今、都心から千葉、茨城に車で行くときは、(大体は首都高から東関東道や常磐道に乗るだろうけど)そこをあえて下を行くと、京葉道路と水戸街道になる。環状道路の明治通りが、京葉道路と交差するのが亀戸、水戸街道と交差するのが東向島である。(明治通りは震災当時はないが、交通の基本は変わらない。)

 避難する朝鮮人を大量に「捕獲」したのは、亀戸署と寺島署だったのは、そういう交通事情による。(現在、亀戸署は城東署、寺島署は向島署。)荒川放水路の掘削現場とか、下町の零細工場地帯のスラムにいた朝鮮人が、千葉。茨城方面に向かう時、必ず通る橋に軍が展開し、だから四ツ木橋や小松川橋際で虐殺が起きることになった。四ツ木橋(墨田区と葛飾区の間)で、軍による大量の虐殺があったという証言を地元の老人の聞き取りで明らかにしたのは、絹田幸恵だった。僕の母校である足立区立伊興小の先生で、地元の教材を求めて荒川放水路建設の話を聞いて回っていた。(その聞き取りは『荒川放水路物語』という名著に結実した。)
  (墨田区八広にある追悼碑)
 絹田先生は聞き取りで聞いた虐殺の話を放っておけなくなり、荒川の堤防内を発掘し遺骨を掘り出そうと考えた。した。当時立教大学教授だった山田昭次氏に代表を依頼する。1982年の話である。結局遺骨の発掘はならなかったが、そのグループが多くの聞き取りを行った。『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992)にまとまっているが、9月1日当日の夜から、群集による朝鮮人虐殺が始まったという証言がある。また警察も朝鮮人を捕らえて虐殺をしている。荒川土手や寺島署にたくさんの朝鮮人がいたところへ戒厳軍が到着し、旧四ツ木橋に機関銃をすえて、大量の虐殺を開始した。そういう証言が得られたのである。この軍隊は近衛師団習志野騎兵連隊の機関銃部隊である。

 その後、政府は朝鮮人、中国人をまとめて、習志野俘虜収容所へおくることに政策転換をした。そこはかつてロシア人、ドイツ人の捕虜を収容した施設で、この時は空いているわけだから、そこに「保護」の名目で押し込んだ。そこに軍はスパイをいれ、朝鮮独立運動家らしき者を探り、怪しいと思われた者を虐殺した。また、付近の「村の自警団」に下げ渡し、村で「処理」させた。この事実は20年前に千葉のグループが発掘し衝撃を与えた。そういうことまで起こったのである。

 ところで、「朝鮮人暴動」のデマがなぜ生じたのだろうか? はっきり言えるのは、2日に流言を広めたのは、明らかに警察と軍隊である。警察が触れ回ったから信じたという、震災後の証言は無数にある。また軍が率先して虐殺したので、民衆も信じたのである。しかし、その段階で広めているのは、警察や軍の中間管理職や下っ端である。上から命じられたのか、自分もデマを信じ込んだのか、根っから朝鮮人を差別しているのか、そのあたりが判らない。9月1日当日に、上層部から意図的に流された陰謀か、それとも民衆の差別意識が生んだ自然発生的デマなのか。

 「富士山が噴火した」というデマがあったことも判っている。富士山噴火というデマを権力が意図的に流すとは思えないから、自然発生的デマがあったのである。自警団の虐殺を見ると、民衆の差別意識も否定できず、民衆からの自然発生もあり得るだろう。だけど、軍の展開地域に沿ってデマが拡大している側面も指摘されていて、「デマ」そのものが権力側の陰謀という説も否定しにくい。

 この問題は「戒厳令がなぜ出されたか」になる。戒厳令は、そもそも戦時に軍が行政を行なう事を想定している。その他に緊急勅令で「行政戒厳」を布告したことが3回ある。最初が1905年の日比谷焼き討ち事件で、最後が1936年の二・二六事件。戦時ではないけれど、確かに大事件である。しかし、震災は災害であり戒厳令を出す理由にならない。倒壊家屋や火災の救援だったら、何も戒厳令はいらない。実際、軍は震災後すぐに宮城(皇居)や各宮家の安否確認に駆け回っている。
  (横網町公園の追悼碑)
 ところで、関東大震災当日の総理大臣を知っているだろうか? ほとんど知らないのではないかと思う。震災当日は首相はいなかったのである。1921年に「平民宰相」原敬が暗殺され、高橋是清が後を継ぐが、短命。1922年、海軍大将加藤友三郎が首相になるが、1923年8月25日に病死する。そこで内田康哉外相が臨時首相となっていた。

 2日午前に戒厳令を出した時は内田臨時内閣である。実は8月28日に後継に海軍の山本権兵衛が指名されていた。組閣が遅れていたが、2日午後に山本内閣が成立。なぜ、後継内閣成立を待たなかったか。そもそも戒厳令の発動要件を満たさないので、形式は議会閉会中の緊急勅令となるが、枢密院議員が安否不明で、枢密院が開かれていない。つまり違法な戒厳令なのである。

 加藤内閣の水野錬太郎内相、赤池濃警視総監は、朝鮮総督府に勤務して三一独立運動弾圧に関わった。それが朝鮮人暴動の「妄想的警戒心」を生んだと言う説もある。後任内相は、大物後藤新平だったので、震災前に山本内閣が成立していたら、後藤新平内相はどうしていたろう? 災害救援も国内の治安維持も地方との連絡もすべて内務省の所管なのだから、後藤内相は、軍の口出しをきらい戒厳令はなかったかもしれないのではないか。

 戒厳令により動員された軍は、死体や倒壊家屋の片付けに来たのではない。当然戒厳出動だから、敵をやっつけるつもりで来た。それはいろいろ証言があり、(例えば戦後に中国との平和を訴えた反戦軍人遠藤三郎の日記)、朝鮮人暴動を信じ込んでいるのである。(軍が兵士に対して、「これはデマだけど」と説明するわけがない。兵は上官の命令に従って、虐殺に努めたのである。)

 軍、警察が殺人をしているのだから、民衆が国家公認の「天下晴れての殺人」と思い込んだのも無理はない。政府は後にいくつかの事件で自警団を裁判にかけたが、おざなりのものだった。軍、警察の関わりを裁かない以上、当然だ。だから「民衆の差別意識からデマがおこり自警団による虐殺があった」という理解では不十分なのである。軍や警察が組織的に関わらなければ、これほどの規模の虐殺事件にはならない。やはり「軍隊」というものは恐ろしい。「暴力装置」なのだから。
 
 世界の類似の事件との比較も大事だと思う。前に書いたが、第一次世界大戦時のオスマン帝国におけるアルメニア人虐殺が時間的にも内容的にも似ている。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人虐殺)や、インドネシアの「9.30事件」後の虐殺(記録映画「アクト・オブ・キリング」で追及されている)、ルワンダ、ブルンジの虐殺、ボスニアの虐殺なども考えないといけない。それと同時に、今も当時の事件を調査せず、国家責任を認めない日本政府も問わないといけないだろう。
[インタビュー]関東大震災虐殺後に遺された家族の歴史を映画に込める
3作目の映画を作る呉充功監督
「来年には必ず完成させたい。財政問題もあって難しいが、やらなければ」。韓国ではあまり知られていないが、関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺問題に関心がある人ならば、呉充功(オ・チュンゴン)監督(59)の名は決して忘れられない。彼が30年以上前に作った二本のドキュメンタリー映画『隠された爪跡-関東大震災と朝鮮人虐殺』(1983)と『払い下げられた朝鮮人-関東大震災と習志野収容所』(1986)は、1923年の関東大震災後に起きた朝鮮人虐殺を、当時加害と被害の側に立った生存者の証言を通じて再構成している。 当時の大虐殺を90余年前に発生した偶発的事件程度として記憶している多くの韓国人は、映画を見た後に押し寄せてくる衝撃に当惑し耐えらえれなくなる。

 在日朝鮮人2世の呉充功監督は、朝鮮人虐殺に関連した二本の問題映画を出した後、30年余り映画の世界から離れていた。33歳で結婚した後、茨城県にある父親の会社を経営し生業に従事してきたためだ。

83年『隠された…』 86年『払い下げられた…』
関東大震災朝鮮人虐殺記録映画2本を作り
30年ぶりの映画 その後を扱った作品製作
「東日本大震災と嫌韓熱風を見て
今日までに真相究明のためにどんな努力が
なされたかを込めたいと思った」

 4年前の2011年3月、東日本大震災が起きた。呉充功監督は関東大震災研究で名高い在日史学者の姜徳相(カン・ドクサン)先生(在日韓人歴史資料館館長、83)から連絡を受ける。彼は呉充功監督に「2作目の映画を撮った後30年間に起きた変化をもう一度記録として残す必要があるのではないか。このまま止めれば呉充功監督は未完成で終わってしまった」と話した。

 「その話を聞いて悩みに悩んだ」当時、地震被害によって複雑な状況に置かれていた呉充功監督は、長い悩みの末に3作目の映画を作ることを決意する。当時、日本社会で少しずつ吹き始めた“ヘイトスピーチ”等の嫌韓熱風も彼の決心に少なからぬ影響を与えた。

 呉充功監督は「新しい映画では、1923年9月1日に関東大震災が発生した後、2015年までにこの死を巡ってどんなことが起きて、真相究明のためにどんな努力が続けられたのか、歴史全体を扱う予定」と話した。大地震が発生した後に日本に来て、初めての真相究明活動をした故崔承萬(チェ・スンマン、1897〜1984)から、その後に関連研究を進めてきた研究者の姜徳相、故琴秉洞(クム・ビョンドン)、山田昭次(85)、そして地域で着実に真相究明運動をしてきた日本の草の根団体と韓国の遺族たちの経過を盛り込む予定だ。 映画のタイトルはひとまず「遺族と遺骨はどこに」に決めた。呉充功監督の新作に関心が集中する理由の一つは、彼の前作が成し遂げた優れた成就のためだ。

 呉充功監督の初めての映画である『隠された爪跡』は、1923年の大虐殺の時にかろうじて生き残った在日朝鮮人チョ・インスン(1902〜1984)老人の事情を軸に、事件を直接目撃した20人余の証言を集めた作品だ。 この映画は最初は彼が通っていた横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の卒業作品として企画された。「関東大震災の時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」が1982年9月に東京荒川辺の旧四つ木橋付近で起きた虐殺犠牲者の遺骨を発掘するという消息を聞いた呉充功監督は、カメラを持って発掘現場で駆け付けた。

 映画の主人公であるチョ老人は、1923年2月に慶尚南道居昌(コチャン)から日本に渡って来た後、あちこちを転々として建設現場で日雇い労働者として働いた。地震が起きた日は現在の東京押上付近の工事現場にいたチョ老人一行は、避難して四つ木橋付近で消防団に捕らえられた。以後、チョ老人は自警団、日本民衆、警察などから攻撃を受けからがら助かった。2作目の作品である『払い下げされた朝鮮人』では、チョ老人が収容されていた千葉県の“習志野収容所”で、当時の日本軍が周辺の村人たちに朝鮮人を虐殺するとして“払い下げ”した事件を扱った作品だ。 「日本人も日本政府も、自分がやったことはやったとはっきり話さなければならない!」(チョ・インスン) 、「村の人々が「長くは生きられないだろう。どのように死にたいか」と(縛られてきた朝鮮人に)尋ねた」(虐殺に加担した村の住民、君塚氏)。呉充功監督が記録していなければそのまま消えてしまった被害者と加害者の生き生きした証言が残って、当時の惨状を私たちに伝える。 特に加害者である君塚氏がカメラを前に自身の加害経験を告白した長い証言は、この映画の白眉だ。

 以後、30年余りの間に韓国と日本の市民の努力で多くの変化が起きた。彼の初めての映画の背景になった東京荒川辺の虐殺現場には、2009年に日本政府と民衆の責任に明確に言及した追悼費が建設され、2作目の映画の背景である習志野では無惨に虐殺された朝鮮人のものと推定される遺骨6体が発掘された。 以後、韓国の遺族たちがあちこちで確認されている。呉充功監督は韓国の遺族たちに会うために昨年は済州島(チェジュド)、先月は慶尚南道咸安(ハマン)を訪ねた。 彼は「犠牲者の後には遺された家族がいる。そのような歴史を映画に多く盛り込みたい」と話した。

 呉充功監督は当時の朝鮮人虐殺事件の真相究明が難しいのは、「加害の主体が日本軍や警察ではなく日本の民衆自身であるため」と話した。 真実を隠そうとする地域社会の無言の圧力は今でも続いている。「日本の人々が再びこうしたことを繰り返さないようにするためには、加害者と被害者が同時に歴史を認識しなければなりません。しかしそのような共同作業にはまだ道が遠いようです。当時、虐殺に民衆が直接加担したという傷が深いということでしょう」

東京/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2015-09-23 18:43
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/710122.html 訳J.S(2594字)
小池都知事の追悼文送付取りやめは歴史的事実も防災上の教訓も踏みにじる行為だ
2017年09月16日 政治・経済
国も認めている関東大震災時の朝鮮人虐殺
 中央防災会議(設置根拠法は災害対策基本法・議長は内閣総理大臣が務める)は、2008年に発表した『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書』で、「犠牲者の正確な数は掴めない」「公式の記録で全貌をたどることはできない」としながらも、「当時の公的記録と公文書に依存した叙述を行う」と極めて抑制的な集計であるとした上で、関東大震災後の虐殺事件の被害者数を、朝鮮人488名、中国人3名、日本人87名と発表している。(参照:「中央防災会議」)つまり、関東大震災直後の朝鮮人虐殺は、国の防災政策を立案・企画する中央防災会議さえもが認める、歴史的事実なのだ。
 この報告書は中央防災会議がまとめただけあり、その主目的を「歴史的事実の検証」ではなく「防災上の教訓の継承」に置いている。そして、上記のとおり朝鮮人虐殺が発生したことを認めた上で、「歴史研究、あるいは民族の共存、共生のためには、これらの要因について個別的な検討を深め、また、反省することが必要である」とし、「時代や地域が変わっても、言語、習慣、信条等の相違により異質性が感じられる人間集団はいかなる社会にも常に存在しており、そのような集団が標的となり得るという一般的な課題」として、「関東大震災後の朝鮮人虐殺」を重要な「防災上の教訓」として認識している。

 このように、あの朝鮮人虐殺は、防災という観点からみても、極めて今日的な課題であり、不断にその検証と反省が加えられるべきものであることは疑いの余地はない。

小池都知事は防災責任者として不適格
 しかるに、東京都の小池知事は、9月1日に開催された朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典への追悼文送付をとりやめた。さらには記者会見において「あらゆる犠牲者を追悼していく」と自己の立場を正当化し、震災という「天災」による犠牲者と、官憲や一般市民による虐殺という「人災」の犠牲者を同一視するかのような、歴史的事実を踏みにじる無謀な発言を行なった。また、この小池知事の態度は、上記中央防災会議の報告書が朝鮮人虐殺を「防災上の教訓」としている立場から見ても、東京都の防災責任者として極めて不適格であると言わざるを得ないだろう。この知事のもとでは、東京都は「言語、習慣、信条等の相違により異質性が感じられる集団が標的となり得るという一般的な課題」を克服しえないまま、防災にあたらねばならぬことになるのだから。

 こうした小池知事の暴挙ともいえる言動に対して、関東大震災後の朝鮮人虐殺について詳述する『九月、東京の路上で』の著者、加藤直樹氏が、「小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します」という声明文を発表した。(参照)
歴史の教訓をみつめ、いつ起きてもおかしくない災害に備えるためにも、上記声明文が広く共有され、無謀な振る舞いをつづける小池都知事に反省を迫るものとなるよう、願ってやまない。
<文/HBO取材班 写真/時事通信>
“極右”小池東京都知事、朝鮮人虐殺追悼文を拒否
登録 : 2017.08.24 22:11
9月1日の犠牲者追悼行事に追悼文送った慣例破り 
極右勢力の朝鮮人被害歪曲加速を憂慮
 “安倍対抗馬”に浮上した小池百合子東京都知事が、慣例を破って関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に追悼文を送らないことにした。関東大震災当時の朝鮮人虐殺を否定する動きを助長したという批判が提起されている。
 小池知事は、来月1日に東京都墨田区の横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で開かれる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事に追悼文を送ってほしいという主催側要求を断ったと、東京新聞が24日報道した。関東大震災当時、日本人自警団などにより虐殺された朝鮮人犠牲者を記憶するこの行事は、日本の市民団体の主管で毎年開かれてきたもので、これまで石原慎太郎、猪瀬直樹、舛添要一など前任の東京都知事は毎年追悼文を送ってきた。小池知事も就任直後の昨年には追悼文を送ったが、今年は突然立場を変えた。

 ここには追悼碑に書かれた「朝鮮人犠牲者数6千人余り」という字句と関連した論議が原因になったと東京新聞は伝えた。今年3月、東京都議会で自民党所属の都議会議員が「碑文に書かれた犠牲者数の根拠が薄弱だ」と主張すると、小池知事は「慣例的に追悼文を出していたが、今後は内容を調べたうえで追悼文を発表するか否かを決める」と答えた経緯がある。

 1923年9月1日、東京など関東地方でマグニチュード7.9の大地震が発生し「朝鮮人が井戸に毒を撒いた」などのデマが流布され、自警団、警察、軍人らが在日朝鮮人を虐殺した。日本では小池知事の追悼文提出拒否が関東大震災の朝鮮人被害事実を歪曲しようとする動きを加速させるのではという観測が出ている。日本の右翼勢力は、関東大震災朝鮮人虐殺事件の被害者数が水増しされており、また事件は当時朝鮮人が起こした暴動に対する正当防衛だったと主張している。

 小池知事は最近人気が急上昇した政治家だが、平和憲法を否定しようとする極右保守団体の日本会議で活動し、慰安婦強制連行を否定した極右人物だ。
東京/チョ・ギウォン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2017-08-24 16:42
「朝鮮人虐殺」記載の報告書 朝日新聞の削除報道に内閣府「言った言わないで抗議はしない」
朝鮮人虐殺の記述に批判が集まり、報告書が削除されたと報じた朝日新聞。内閣府は否定し、産経新聞は「抗議も検討」と報じましたが……。

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−関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する−

忙しい人のためにかいつまんで説明
1923年(大正12年)9月の関東大震災時、混乱のなかで流れたデマによって人々が自警団を結成し、軍や警察も関与する形で、朝鮮人を無差別に虐殺するという事件が関東各地で起こりました。この出来事は、歴史の常識として中学の教科書にも載っていますが、最近、「朝鮮人虐殺などなかった」と否定する人々がいます。しかしこうした主張は荒唐無稽であり、史実・論理・常識に照らして、全く成り立つ余地がありません。そのうえ、こうした考えが広がることは、私たちの社会にとって現実的な危険をはらんでさえいます。それはなぜでしょうか。忙しい人のために、かいつまんで説明しましょう。

◉関東大震災時の朝鮮人虐殺とは?
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生。昼前という時間と強風の日であったことから火災が拡大し、東京や横浜を中心に10万5000人以上が亡くなりました。

このとき、思いがけない災害を目の当たりにした人々の間で「火災の拡大は朝鮮人が爆弾を投げたからだ」「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった悪質なデマが広がったのです。

デマを信じ込んだ人々は各地で武装して「自警団」を結成。朝鮮人や、朝鮮人と誤認された日本人や中国人を殺害しました。警察も数日の間、流言を信じ込んで拡散に加担してしまい、戒厳令で出動した軍もまた、殺害に手を染めました。

殺された朝鮮人の数は不明ですが、数千人に上るともいわれます。

◉関東大震災時の朝鮮人虐殺は「なかった」という人々
ところが最近、インターネット上には「朝鮮人暴動は流言ではなく事実」「暴徒への反撃だから虐殺ではない。つまり朝鮮人虐殺はなかった」と主張する人々がいます。そうした書籍も出ています。彼らが根拠とするのは、震災直後の新聞記事です。確かにそこには「朝鮮人が放火してまわる」「朝鮮人1000名と軍が戦闘/1個小隊が全滅」といった見出しが躍っています。ここにしっかりと書いてあるじゃないかというわけです。

確かにこの時期にはそうした記事が無数に書かれているのは事実です。しかし、これらの記事の存在を「証拠」として「朝鮮人暴動が本当にあった」とする主張は成立しません。

◉「デマによる朝鮮人虐殺」は歴史学の常識
まず、歴史学においては、「朝鮮人暴動というデマによって多くの朝鮮人が虐殺された」ということは、学問的には動かしようがない定説であり、明らかな史実と認識されていることを押える必要があります。日本女子大の成田龍一教授のようなリベラル派から東京大学の北岡伸一名誉教授のような保守派に至るまで、まともな歴史学者でこれを否定する人は一人もいません。保守系の育鵬社も含め、ほとんどの中学の教科書にも書かれています。
2008年、自民党政権下で、内閣府中央防災会議の専門調査会が作成した『1923関東大震災報告書第2編』でも、流言の拡大と朝鮮人虐殺についてくわしく書かれています。そこでは「震災直後の殺傷事件で中心をなしたのは朝鮮人への迫害であった」「軍、警察、市民ともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使した」「日本の災害史上、最悪の事態」だったとまとめています。

内閣府中央防災会議専門調査会『1923関東大震災報告書第2編』→リンク。とくに同報告書の第4章「混乱の拡大」、同第2節「殺傷事件の発生」→PDFを参照のこと。
この報告は歴史学者、社会学者によって書かれていますが、こうした専門家たちは当然、最近のネット上で「朝鮮人暴動の証拠」として騒がれている当時の記事を読み込んでいるはずです。そもそもこうした記事は、どこかにひた隠しにされていた古新聞がネットに流出したのではなく、専門家が縮刷版にまとめ、専門家が研究のために読み込んでいるものです。にもかかわらず、これらの専門家たちはそうした記事を暴動の証拠として読むことはないわけです。なぜでしょうか。

◉デマが横行した震災直後の新聞
震災直後、東京では通信・交通機能が崩壊しました。東京にあった十数社の新聞社のうち、焼け残ったのは3社のみ。この3社も、取材や新聞発行はなかなかままならない状況でした。地方紙は、壊滅した東京の状況を避難民からの聞き取り取材で知ろうとしました。こうして、裏もとらずに伝聞を書く記事が氾濫してしまいます。「伊豆諸島すべて沈没」「富士山爆発」「品川が津波で壊滅」「名古屋も全滅」「首相暗殺」等です。流言をそのまま書いているのです。見てきたような朝鮮人暴動記事も、こうした流言記事の一つでした。

◉誰も朝鮮人暴徒を見なかった
1〜2ヶ月して落ち着いてみれば、名古屋が全滅していないことや、富士山が爆発していないこと、首相が殺されていないことは誰の目にも明らかでしたので、これらの記事は当然、「デマだった」ということになりました。



「朝鮮人1000名が軍と戦闘」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といった類の流言やそれを書きとめた流言記事も同じです。落ち着いてみれば、朝鮮人暴徒を「この目で」見たという人は一人もおらず、毒が検出された井戸もありませんでした。爆弾をもっているとして朝鮮人を捕らえてみれば、それはパイナップルの缶詰にすぎなかった―といった話がたくさんあります。こうして数ヵ月後には、「朝鮮人暴動」の流言や流言記事を、事実と受け止める人はほとんどいなくなったのです。関東大震災の回想の類は、有名人から無名人まで大量にありますが、90年後の今に至るまで、「数百人の朝鮮人暴徒が進撃するのを見た」とか、「井戸に入れられた毒で死ぬ人を見た」といった証言は一つもありません(一方で朝鮮人虐殺の目撃証言はたくさんあります)。そんなものは、震災直後のデマ記事のなかにしかないのです。

◉当時の公式記録もメディアも「虐殺」を記録
世の中が落ち着いてきて、一体何が起きていたのかが見えてくると、ほとんどの人が、朝鮮人暴動が存在しなかったこと、逆に罪のない朝鮮人が多く虐殺されていたことを理解します。戦前の代表的保守派ジャーナリストの徳富蘇峰は、震災火災に匹敵したのが朝鮮人大陰謀という流言飛語災だったと書き、作家の田中貢太郎は「鮮人暴動の流言に血迷った自警団の鮮人および鮮人と誤った内地人に対する虐殺事件」について記述しています。これが、震災から1〜2ヵ月後の世の中の常識なのです。ある新聞関係者は、だいぶ後になって、震災直後の「朝鮮人暴動」などのデマ記事横行について、「数えるだに苦悩を覚える」と振り返っています
行政当局も同じです。震災から数日間は流言を真に受ける部分もあった行政当局も、しばらく経つとそれが事実でないことを理解します。司法省の報告書は、組織的な「不逞計画」(暴動やテロのこと)は存在しなかったと書いていますし、警視庁は、民衆が朝鮮人に「猛烈なる迫害」を加え、殺傷にさえ至ったことを「一大恨事」だと報告しています。結局、残ったのは、根拠のない流言によって多くの朝鮮人が殺されてしまったという事実でした。先に紹介した内閣府中央防災会議専門調査会の報告書は、朝鮮人と、朝鮮人と誤認されて殺された日本人、そして中国人の被殺者数を、震災の死者(10万5000人)の1%〜数%に上ると推測しています。

◉震災直後の記事は朝鮮人暴動の証拠になりえない

以上の事実経過を踏まえれば、ネット上に震災直後の新聞記事を貼り付けては「ここに書いてあるから実際に暴動はあったんだ」と主張する人々がいかに馬鹿げているか、分かってもらえるかと思います。
ちょっとたとえ話で説明してみましょう
1994年、松本サリン事件がおきました。このとき、「ガレージに農薬があったからあやしい」といった理由で、会社員の河野義行さんが警察に犯人扱いされ、メディアもこれに便乗して、プライバシーまで含めて、あることないことを大量に書き、河野さんの一家を苦しめました。しかし結局、警察は彼を逮捕できず、翌年には地下鉄サリン事件が起こったことで、真犯人はオウム真理教の教団であることが分かりました。結局、河野さんへの人権侵害によって、捜査機関やメディアは深刻な反省を求めらることなったのです。

ところが、もし誰かが、2014年のいま、松本サリン事件直後の新聞や雑誌をコピーしてネットに貼り付け、「これを見ろ、ここに『この会社員が怪しい』とはっきり報道されているじゃないか。我々はこれまで、サリン事件の犯人はオウム真理教だという俗説にだまされてきたのだ」と主張したらどうでしょうか。

彼が本当に、誠実に、「サリン事件の真相を知りたい」と思うのであれば、事件直後の誤った報道、誤りであったことが明らかになっている報道に執着するのではなく、その後の事実経過を含めて検証するべきです。もしサリン事件の犯人について新説を主張したいのであれば、これまでの定説、証拠の山を否定するに足るそれなりの論証を行わなくてはならないはずです(そんなことは不可能でしょうけど)。

ネット上で、あるいは書籍で「朝鮮人暴動はあった」「その証拠に記事があるじゃないか」という人々が行っているのはこういうことです。彼らは「書いてあるから事実」と繰り返すだけで、震災直後の新聞がどういう状況にあったのか、そして朝鮮人虐殺問題をめぐる「その後」、落ち着いて以降の時期の行政の記録やメディアの報道、90年間に書き残された様々な証言に目を向けることは、全くしないのです。
そもそも、関東大震災時に朝鮮人や、朝鮮人と誤認して日本人や中国人を殺傷した事件で起訴された日本人の数は566人に上ります。一方で殺人や放火の罪で起訴された朝鮮人は1人もいません。もし虐殺否定論者が言うように、自警団が朝鮮人暴徒と戦ったのであれば、同数か、せめて半分くらいの人数の朝鮮人が起訴されてもよさそうなものです。また、朝鮮人が竹ヤリや日本刀で殺されているのを目撃した証言は無数にあるのに、朝鮮人が竹ヤリや日本刀で日本人を襲っているのを見たという証言は、震災直後のデマ記事以外にはありません。これだけでも答えははっきりしているのではないでしょうか。

◉虐殺否定論は社会にとって現実的に危険
以上見てきたように、関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する論は非常に浅はかなものですが、笑ってみすごすわけにはいかない問題性があります。ひとつは、言うまでもなく、いわれなく殺された90年前の犠牲者たちに濡れ衣を着せ、被害者を加害者に仕立てるという、非道徳的な行為であることです。



もうひとつは、現代の社会に危険な影響を与えるということです。災害時には、外国人や他民族、マイノリティを危険視する流言がしばしば流れます。そしてそうした差別的な流言が悲劇につながってしまう事例も、古今東西に見られます。
関東大震災の時に、朝鮮人が地震に乗じて暴動を起こしたのだ―というトンデモ歴史観を持つ人は、今後、大きな災害が起こった場合にも、真っ先に「外国人が暴動を起こすに違いない」と考えることでしょう。そうした流言を拡散するかもしれないし、とんでもなく誤った判断を選択するかもしれません。こうした人が増えてしまったら、社会におよぼす危険性はさらに高まります。
虐殺否定論の言説が広がることで、ごく普通の人々は「歴史学には『虐殺はあった』派と『虐殺はなかった』派の対立がある、真実はきっとその中間にあるのだろう」などと思うようになるかもしれません。それだけでも、結局は先に書いたような危険性に行き着くでしょう。外国人が暴動を起こすといった流言をわずかでも信じてしまう可能性があるからです。実際には、歴史学に「虐殺はなかった」などという言説の居場所はありません。虐殺否定論は、ホロコースト否定論(ナチスドイツがガス室でユダヤ人を虐殺したなんてウソだというトンデモ歴史観)と同レベルに荒唐無稽であり、同レベルに危険なのです。

さて、「はじめに」はこれで終わります。

「もっと詳しく話を聞きたい」という方は、次の文章へと進んでいただければと思います。
はじめに忙しい人のためにかいつまんで説明
その2誰も暴徒を見なかった―同時代人の常識だった「暴動は流言」

その3「虐殺の証拠はない」は大間違い

その4震災直後の新聞のデタラメ
その5「政府が暴動を隠蔽した」という荒唐無稽
その6「悪いことをした朝鮮人もいた」のか




posted by koko at 11:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 人権
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