『たけくらべ』の発表
その後、「たけくらべ」「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」などの傑作が発表されていく。「文学界」に七回に分けて発表された「たけくらべ」は、書き始めから一年半後、「文芸倶楽部」に一括掲載されて評判となった。夏子は有名になり、夏子の元を訪れる人は後を絶たなかった。泉鏡花、島崎藤村らもその中の一人だった。桃水とは二年の絶交状態を抜け、今は誰もが二人の付き合いを認めてくれている。
『突然の悲劇』
明治二十九年三月、肺結核という診断を受ける。しかもかなり進んでいるという。それから夏子は床にふして過ごす事が多くなった。襲ってくる激しい頭痛とだるさの中、筆も持てない歯がゆさとも闘っていた夏子。そんな中、平田禿木と戸川秋骨(とがわしゅうこつ)が、あるニュースを持ってやってきた。森鴎外(もりおうがい)、斎藤緑雨(さいとうりょくう)、幸田露伴(こうだろはん)、の三人が雑誌「めざまし草」の中で樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛しているという。鴎外は「作者は今の文壇の神のような人だ」とまで言っている。禿木と秋骨は嬉しくてたまらなかった。夏子は二人の姿が嬉しかった。しかし反面、いつか自分の作品があきられるのでは?女の作品だから珍しくて一時的に盛り上がっているのではないか?と冷静に見つめる自分もいた。
その後、批評をした三人のうちの一人、緑雨が夏子の元を訪れた。世間から毒舌家と言われる緑雨は夏子の作品を一味違う観点から見ていた。それが夏子には新鮮だった。緑雨は夏子の元をしばしば訪れるようになり話しを重ねていった。桃水は緑雨には気をつけた方がいいと言っていたが、むしろ緑雨こそ自分の文学の第一の理解者であると考えるようにもなっていた。そんなやり取りを繰り返していくうち夏子は再び筆を取りたい、作品を書きたいと思うようになったが、身体はそれを許してはくれなかった。
『永眠』
その後、幸田露伴(こうだろはん)が「めざまし草」に夏子の作品を載せたいとやってきた。鴎外や緑雨との間に合作小説を作ろうという話しも出ていると伝えてきた。細かい設定なども説明して、明るく帰っていった。しかしその後、夏子の病状は悪化。その中でも夏子は萩の舎の歌会に出席、これが夏子が外出した最後となった。緑雨は鴎外を通し、青山胤通(あおやまたねみち)の往診を依頼した、が、胤通診断は「危篤に近い重病」であった。この事が読売新聞に報じられると、多くの人々が夏子の元にかけつけた。
死んだら、蝶になって、
あなた方の袖に戯れましょう
薄れていく意識の中、訪れる人々にそう言葉をかけた
そして明治二十九年十一月二十三日午前 『夏子、永眠』
二十四日、秋骨、緑雨、眉山らの手でしめやかに通夜が行われた
二十五日、葬儀。参列者わずか数十人のさびしい葬列であった
法名「智相院釈妙葉信女」
〜おわり
参考引用資料
『樋口一葉ものがたり』
(日野多香子作・山本典子絵)
教育出版センター
画像
photographer『エリー』
by ぱくたそ
『樋口一葉』という女性について
この物語を読む前、樋口一葉という女性について、お札の人で女流小説家でとても慎ましやかに暮らしていた、という事くらいしか知らなかった。ところが話しを読み進めていくうちに『樋口一葉』は『活発で行動的で恋にも全力で生きた人なんだ』という女性像になっていた。慎ましやかに暮らし、困窮する生活状況にも耐えて耐えて一家の大黒柱となり奮闘しながらも、最後には誰もが認める女流小説家になる、これは日本のお札の顔になって当然だとも思った。ただ、半井桃水とのやり取りに心ときめかせ、かと思うと誰かが言った噂に腹を立てたり、それが勘違いや真実でないと知った時のハラハラしてる心の様子とか、それを想像しただけで可笑しくなったという方が自分には大きかった。時代が時代だけに心のうちを人にあれやこれや話すなんて事はできなかったし、そういう考えすらなかっただろうけど、樋口夏子が今の時代に生きていたら、いったいどんな女性になってどれほど周りの者に影響を与えただろうかと思うと、そういう夏子も見てみたかった。きっと周りは夏子の活発さ明るさひたむきさに勇気づけられ元気になって、会社のストレスなんて蹴っ飛ばすくらいの力をもらっていただろうなと。
夏子の、短い生涯を駆け抜けた力ある物語を読んで、自分ももっと力出さなきゃなと前向きにさせてくれた一冊でした