山の神、海の神、火の神、川の神、田の神、竈の神、、、
日本には、実に色々の『神さま』がいて、日本人の生活の中に、深く関わっています
特に『年中行事』には、『神事』と呼ばれるものも多く、神仏の存在を、より身近に感じられるものが、全国各地で行われます
その中で、我々日本人に欠かす事のできない、『お米』を作る場である『田んぼ』で、昔から守り継がれてきた、行事があります
『虫送り』です
下の動画は『虫送り』の美しい風景と音とが感じられる貴重なもので、YouTubeに投稿されていたOlivesimaさんのものをリンクさせていただいています。この風景がこの先、千年残りますように
この、虫送りには『虫の神』が登場します
田んぼには、毎年夏頃になると、虫(害虫)が発生しますが、この虫達を、松明(たいまつ)や、太鼓や、人形などを使って、村外れまで送り出すというもの、それが『虫送り』です
害虫駆除などと、言ってしまえば、簡単でしょう。しかし、昔の人の心持ちというものは、今の人達とは、だいぶ違っていたのです
民俗学の第一人者である、柳田國男氏は『火の昔』という、本の中で『虫送り』について、このように話しています
村に生まれた人達なら、今でも折おり見る事ができるタイマツ行列は『虫送り』であります。害虫が田畑に発生した時に、それを駆除するのは理屈に合ったことで、ただ以前は少し、おまじない(お呪禁)のような心持ちも交えて、それが実行されていたのであります。たとえば、ワラ(藁)で人形をこしらえて害虫の親方と見立てたり、これを馬に乗せ食べ物を持たせ、もしくは苞(つと(ワラの筒)や芋の葉の中へ害虫を集めて入れたものを、この人形に背負わせたりして、それを先頭に立てて松の火をたくさん灯し、時によって村じゅう総出で鉦太鼓(かねだいこ)を叩いて送っていき、しまいには村境の塚の上で燃やしたり、または海、川の中へその人形も松明(タイマツ)も、一切がっさい流してしまうのであります
『おまじない(お呪禁)』や『害虫の親方』などという言葉が出てきます
ちょっと不思議な感じがしてきました
昭和10年に出版された『郷土史研究』という本には、こんな風にも書かれています
鉦太鼓(かねだいこ)の行列を仕立てて、また人形を作り、一村の者が松明(タイマツ)を照らして田の畦(あぜ)を巡って村境に行き、人形も松明も捨て去るので、夜の虫は人の声する方へ飛んで来て、松明(タイマツ)の中に入り焼け死ぬので、つまり虫を焼き殺すためであると近世の者は云っている。然し(しかし)、それは主眼でなく、かついで運ぶ人形を『虫の神』になぞらえて、村境に捨てるのが主眼である。これを人形送りと云う。鉦太鼓(かねだいこ)に合わせて歌を歌い、或(ある)いは念仏を唱えつつ踊りながらゆくのである。他にも、松明(タイマツ)で焼殺すのを少しも考えずに、まず氏神の境内で円形の舞踊を行い、その後で人形を送るので、これを虫送り踊りと云う。『神送り』というものの中の一つである虫送りは『虫の神』を送ることになる
虫を焼き殺すのが、主眼なのではなく、人形を『虫の神』に見立てて送るのが、主眼であると言っています
更には
昭和24年に出版された、研究書『稲の害虫(名和梅吉著)』には、虫送りについて、興味深い面白い事が、書かれています
或(ある)いは御幣をかつぐ者、奇怪な人形、鳥獣虫魚に形どった造り物を、長い青竹の先にかけて持つ者、さては鉦(かね)を叩く者、太鼓を打つ者、ホラガイを吹く者など、数十人が行列を整えて、鎮守の社内をくり出し、田の間を隈なく巡り歩きながら、先頭に立つ者が、御幣を以って軽く稲の葉を撫でて通り過ぎます。これは何の意味かというに、鉦や太鼓やホラガイの音によって、悪虫の夢を覚まし、1匹残らず御幣の中に収めとろうとするのであります。こうして部落の田を一巡して後には、一定の場所 ーー例えば山の上とか川の中とかーー に、御幣や造り物を投げ捨てたまま、大急ぎで、逃げるが如くの帰ったもので、もしもこの場合に、まごまごしていたら、せっかく送った悪虫どもが、またもや後から追っかけて来るというので、さてこそ足早に逃げ帰ったのでありましょう。考えてみると、こっけいではありませんか。
稲の葉を撫でるのは『悪虫の夢を覚ますため』で、送った虫が後から追っかけて来ないよう『急いで逃げ帰る』とか
その様子を想像してみると、なんとも不思議で、可笑しいやら、楽しいやら。それでいて、とても日本人らしい考え方だなと、妙に納得してしまいます。虫と人とが、同じように考えられている所は、西洋の人からしてみれば、ちょっと考え難いものかもしれません
更に、この本の著者は、『虫送りの由来』についての、面白い説も調べていて、少し長いですが紹介します
むかし、平家の大将に『斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり』という人がありました。時は寿永の二年、平維盛(たいらのこれもり)に従って北国に出征し、木曾義仲の大軍と戦いましたが、不幸にも敵の矢に当たって花々しい戦死を遂げました。この実盛は当時七十あまりの老人で、今度の出征に際しても若い者に負けぬようにと、わざわざ白髪を黒く染めて大いに勇気を振るいましたが、その討死に際しても、髪を逆立て、目を怒らせて、ハタと木曾の軍勢をにらまえ、大声を張り上げて
『われ戦死の後は、亡霊必ず悪虫に変じ、行く末永く源氏の世を呪い、国中の五穀成就を妨げるであろう、思い知れや』
と、こう言い残して息を引取りました。
それより幾程もなく、さしも栄えた平家一門は、壇ノ浦の一戦に悉(ことごと)く滅亡して、天下は源氏の世となりましたが、かの実盛の遺言に違わず、果たしてその年には日本全国に稲の害虫がはびこり、中にもウンカとメイチュウの被害によって、収穫皆無という大惨事を招き、殊に源平合戦の四国、九州地方の農民は食う米もなく、餓死する者が続出しました。
思い浮かべて見ると、この惨状を来したのも、全く斎藤別当の怨霊の致すところであろうと、ここに気づいたこの地方の農民たちは、『虫送り』という新しい行事を始めて、斎藤別当の霊をなぐさめ、これを例年の催し事にしましたが、後には全国に広まって、あちらこちらで盛大に行われる事となりました。
こういうわけで、この虫送りは土地によっては『さいねんもり』とも云いますが、その字義については別に何かの意味があるようにも思われます。
虫は『斎藤別当実盛』の霊が変じたもので、その霊を慰めるための行事が『虫送り』というわけです
かの源平合戦が、虫送りに関わっているなんて、ちょっと驚きでした。何事も、由来を調べてみると、思わぬ話しに行き着いたりするので、そういう繋がりを、調べてみるのも結構面白いものです
この由来についての話しは、インターネットでも色々書かれています。下にリンクを貼っておくので、興味のある方は、そちらも見てみて下さいね
『虫送り』という行事は、単に害虫を追い払う(駆除する)、というものではなく、『この世の全てのものに神が宿っている』という、日本民族特有のものの捉え方が、『虫の神を送り出す』というものへと、昇華させているものだと感じました。日本人の、自然に対する感謝と、畏れ、というものが、ここにも出ているのだなと
400年以上前に始まったとされ、江戸時代には日本全国、各地で広く行われていた『虫送り』が、現代は廃れてしまった地域が、とても多いようです。このような、日本人特有の行事は、効率とか簡単とかいうのを抜きにして、日本民族だから行える『神事』として、子ども達に受け継いでいけたらなと強く思っています
と、廃れてしまった地域が多い、と書きましたが、実は近年、この『虫送り』を復活させたという所が増えていってるようなのです。調べてみると、地元でも復活させた地域があり、見に行く事も出来そうです。一度廃れてしまったものを、『復活』させるという事は、容易な事ではないと思います。おそらく、古い書物なども、参考にしながらかもしれませんし、お年寄りの方達の『記憶』も、大いに参考にされた事だろうと、思います
このような、記憶に残る風景を、いつまでも受け継いで行きたい、そう改めて感じた行事です
私らの小さい頃は、夏も終わりに近くになる頃、どこの村でも、このタイマツ行列を代わり番こにしていました。真っ暗な晩だと、田舎ではことにそれが美しく感じられ、いつまでも人がよく覚えているのであります。(『火の昔』柳田國男著より)
参考引用文献(図書館利用)
『火の昔』(柳田國男著)
『夏をたのしむ祭り』(芳賀日出男著)
『郷土史研究』(出版雄山閣)
『稲の害虫』(名和梅吉著)
『虫送りと斎藤別当実盛の話し』リンク
・虫送りとサネモリ(磯本宏紀のホームページ)
・虫送り(いなかパイプ)
・土用(どよう)と虫送り(ひょうごくらしの親子塾)
『虫送りの動画』リンク
・2009虫送り(olivesimaさんのYouTubeチャンネル)