素晴らしい学者であり、素晴らしい歌人であった菅原道真が何故『天神』として祀られるようになったのでしょうか?
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『梅をこよなく愛した歌人の悲しく切なく美しい歌』菅原道真の其之二の続きです
藤原時平の陰謀により太宰府へ流されることとなった道真は寂しさを紛らわせるように詩や歌を作って過ごしていましたが三年目の延喜三年(903)に五十九歳で亡くなってしまいました。
さぁ道真を太宰府へと追いやった藤原時平はここぞとばかりに思うままの政治を行います。が、しかしおかしな事にその頃から次々と悪い病気が流行り、日照りは続き、災難もしきりに起こり始め、それは長く長く続いてゆくのです
世間の人々は『これは何も悪いことをしていないのに太宰府へと流されそのまま死んでしまった道真が天神(天候などを司る神)となって、罪におとしいれた者達を呪っているのだ』と口々に言うようになりました
この世評をほうっておくわけにはいかない天皇は、道真が死んでからやっと二十年目に生前の罪を許し、取り上げた大臣の位を戻すことにしました。しかしそんな事ではこの事態はおさまりません、もう時すでに遅しです
それからも不幸な出来事は止む事はなく、この年皇太子の安明親王(やすあきらしんのう)が二十一歳で亡くなり、この後皇太子となった慶頼王(よしよりおう)も五歳で亡くなってしまいます
延長八年(930)六月、さっぱり雨が降らないので雨乞いをしようと清涼殿に高官達が集まり相談をしていると、突然空が真っ暗になったかと思いやいなや、もの凄い雷が響き渡ります。大納言藤原清貫(きよつら)は雷に打たれ即死、やけどをする人も現れました
この時、藤原時平はただ一人刀を抜いて雷に向かって『お前は生前、オレの次の位だったではないか。いくら神になったとはいえ少しは遠慮したらどうだ』と怒鳴ったという話しが伝えられていますが、その時平もこの翌年三十九歳で亡くなってしまいます
こういう事が続いた為、道真の霊を慰めるのにはどうしても神として祀る他はないという事で、それまであった地の神である北野天神に一緒に祀ることにしました。これが今京都にある『北野天満宮』です
そして『学問の神様』『書道の神様』として『天神さま』が各地に建てられるようになったのです
『◯◯天神』と呼ばれる神社には必ず『梅の木』が沢山植えてあり、『天神さま』の紋は「梅鉢」です
これは道真が梅を愛していたこと、またその梅が太宰府まで飛んでいったという伝説によったものです
ちょうど梅が咲く季節と受験シーズンが重なるのも、なにか『千年の縁』というものを感じます
『学問の神様』として有名な菅原道真が『天神』となるまでの話しはここで終わりです
最後に、素晴らしい歌人としての道真が『菅家』という名で『小倉百人一首』に選ばれた歌を一首あげておきます
幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみじ)の錦(にしき)
神のまにまに
今度はあわただしく旅に出たので幣(ぬさ)を持って来ず、供えることができませんが、この手向山の美しい紅葉を神の御心(みこころ)のままに、幣としてお受け取り下さい
*幣(ぬさ)・・・・・木綿や紙で作った供え物
*手向け(たむけ)・・旅の道中、逆を登り切った所で、神仏に幣を供え、旅中の平安を祈る事