2018年02月08日
『梅をこよなく愛した歌人の悲しく切なく美しい歌』【菅原道真】の其之二
以前話題にした競技かるたで使用する『小倉百人一首』にも一首入っているほど
ただ、今回タイトルにある「悲しく切なく美しい歌」というのは小倉百人一首のそれとはまた別の歌です
菅原道真は何故『天神』と言われるようになったのか?
実はそこに関わってくる出来事から詠まれた歌なのです
その歌がどのように生まれ詠まれたのか、名著『百人一首物語(司代隆三)』からその話しを紐解いていきましょう
政治家として順調に出世していた菅原道真は当時、宇多天皇に特別にかわいがられていました。宇多天皇は位(くらい)を醍醐天皇に譲る時『これからの政治はお前たちで見よ』と命じておいたので、左大臣に藤原時平が、右大臣に菅原道真が任命されたのです
道真のように学者でこのような高官にのぼったのは大変珍しいことでした
ここから道真の行く末を決めていく展開となってゆきます
父の代から開かれている道真の塾「菅家廊下(かんけろうか)」は当時の高級官吏の半分ぐらいの人達が学んだ塾でした
そんなこともあり、左大臣時平は道真が右大臣についてから『これはうかうかしてられない』と藤原家の勢力が菅原家の勢力に圧倒されてしまうのではないかととても心配していました。そこで時平は企みを起こし、醍醐天皇に告げ口をします
『道真は、あなたを退位させ、斉世親王(ときよしんのう)をたてようとしています』
斉世親王は醍醐天皇の弟でしたが、道真の娘の夫でもあったのです。つまり時平は
道真は娘婿を天皇にして自分が政治の実権を握ろうとしていますよ
と言ったわけです
もちろんこんな話しは時平のでっちあげだったのですが、この時の陰謀のために道真は九州の太宰府に流されることになってしまいました
一国の政治を動かしていた大臣からいっぺんに罪人にされてしまった道真。更に当時の九州というとまるで外国に行くかのような遠さです。道真は深い悲しみとともに太宰府へ出発するのですが、この時かねがね愛していた梅の木にむかって歌を詠んだのです
これがその歌...
東風ふかば 匂ひおこせよ梅の花
主なしとて 春を忘るな
"こちふかば においおこせよ うめのはな
あるじなしとて はるをわするな"
歌の意味
梅の花よ、東風が吹いたら素晴らしい
その花を咲かせておくれ
私(主人)がいなくても春を忘れるなよ
道真は太宰府へ来てから、詩や和歌を作って寂しさをまぎらわせていましたが、三年目の延喜三年(903年)に五十九歳で亡くなりました
菅原道真が亡くなったのちの出来事が道真を天神とする話しになっていくのですが、それはまた別の回に
参考文献
『百人一首物語』司代隆三著