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2018年02月25日
『そして天神となった』【菅原道真】の其之三
素晴らしい学者であり、素晴らしい歌人であった菅原道真が何故『天神』として祀られるようになったのでしょうか?
前回の記事
『梅をこよなく愛した歌人の悲しく切なく美しい歌』菅原道真の其之二の続きです
藤原時平の陰謀により太宰府へ流されることとなった道真は寂しさを紛らわせるように詩や歌を作って過ごしていましたが三年目の延喜三年(903)に五十九歳で亡くなってしまいました。
さぁ道真を太宰府へと追いやった藤原時平はここぞとばかりに思うままの政治を行います。が、しかしおかしな事にその頃から次々と悪い病気が流行り、日照りは続き、災難もしきりに起こり始め、それは長く長く続いてゆくのです
世間の人々は『これは何も悪いことをしていないのに太宰府へと流されそのまま死んでしまった道真が天神(天候などを司る神)となって、罪におとしいれた者達を呪っているのだ』と口々に言うようになりました
この世評をほうっておくわけにはいかない天皇は、道真が死んでからやっと二十年目に生前の罪を許し、取り上げた大臣の位を戻すことにしました。しかしそんな事ではこの事態はおさまりません、もう時すでに遅しです
それからも不幸な出来事は止む事はなく、この年皇太子の安明親王(やすあきらしんのう)が二十一歳で亡くなり、この後皇太子となった慶頼王(よしよりおう)も五歳で亡くなってしまいます
延長八年(930)六月、さっぱり雨が降らないので雨乞いをしようと清涼殿に高官達が集まり相談をしていると、突然空が真っ暗になったかと思いやいなや、もの凄い雷が響き渡ります。大納言藤原清貫(きよつら)は雷に打たれ即死、やけどをする人も現れました
この時、藤原時平はただ一人刀を抜いて雷に向かって『お前は生前、オレの次の位だったではないか。いくら神になったとはいえ少しは遠慮したらどうだ』と怒鳴ったという話しが伝えられていますが、その時平もこの翌年三十九歳で亡くなってしまいます
こういう事が続いた為、道真の霊を慰めるのにはどうしても神として祀る他はないという事で、それまであった地の神である北野天神に一緒に祀ることにしました。これが今京都にある『北野天満宮』です
そして『学問の神様』『書道の神様』として『天神さま』が各地に建てられるようになったのです
『◯◯天神』と呼ばれる神社には必ず『梅の木』が沢山植えてあり、『天神さま』の紋は「梅鉢」です
これは道真が梅を愛していたこと、またその梅が太宰府まで飛んでいったという伝説によったものです
ちょうど梅が咲く季節と受験シーズンが重なるのも、なにか『千年の縁』というものを感じます
『学問の神様』として有名な菅原道真が『天神』となるまでの話しはここで終わりです
最後に、素晴らしい歌人としての道真が『菅家』という名で『小倉百人一首』に選ばれた歌を一首あげておきます
幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま)
紅葉(もみじ)の錦(にしき)
神のまにまに
今度はあわただしく旅に出たので幣(ぬさ)を持って来ず、供えることができませんが、この手向山の美しい紅葉を神の御心(みこころ)のままに、幣としてお受け取り下さい
*幣(ぬさ)・・・・・木綿や紙で作った供え物
*手向け(たむけ)・・旅の道中、逆を登り切った所で、神仏に幣を供え、旅中の平安を祈る事
2018年02月08日
『梅をこよなく愛した歌人の悲しく切なく美しい歌』【菅原道真】の其之二
以前話題にした競技かるたで使用する『小倉百人一首』にも一首入っているほど
ただ、今回タイトルにある「悲しく切なく美しい歌」というのは小倉百人一首のそれとはまた別の歌です
菅原道真は何故『天神』と言われるようになったのか?
実はそこに関わってくる出来事から詠まれた歌なのです
その歌がどのように生まれ詠まれたのか、名著『百人一首物語(司代隆三)』からその話しを紐解いていきましょう
政治家として順調に出世していた菅原道真は当時、宇多天皇に特別にかわいがられていました。宇多天皇は位(くらい)を醍醐天皇に譲る時『これからの政治はお前たちで見よ』と命じておいたので、左大臣に藤原時平が、右大臣に菅原道真が任命されたのです
道真のように学者でこのような高官にのぼったのは大変珍しいことでした
ここから道真の行く末を決めていく展開となってゆきます
父の代から開かれている道真の塾「菅家廊下(かんけろうか)」は当時の高級官吏の半分ぐらいの人達が学んだ塾でした
そんなこともあり、左大臣時平は道真が右大臣についてから『これはうかうかしてられない』と藤原家の勢力が菅原家の勢力に圧倒されてしまうのではないかととても心配していました。そこで時平は企みを起こし、醍醐天皇に告げ口をします
『道真は、あなたを退位させ、斉世親王(ときよしんのう)をたてようとしています』
斉世親王は醍醐天皇の弟でしたが、道真の娘の夫でもあったのです。つまり時平は
道真は娘婿を天皇にして自分が政治の実権を握ろうとしていますよ
と言ったわけです
もちろんこんな話しは時平のでっちあげだったのですが、この時の陰謀のために道真は九州の太宰府に流されることになってしまいました
一国の政治を動かしていた大臣からいっぺんに罪人にされてしまった道真。更に当時の九州というとまるで外国に行くかのような遠さです。道真は深い悲しみとともに太宰府へ出発するのですが、この時かねがね愛していた梅の木にむかって歌を詠んだのです
これがその歌...
東風ふかば 匂ひおこせよ梅の花
主なしとて 春を忘るな
"こちふかば においおこせよ うめのはな
あるじなしとて はるをわするな"
歌の意味
梅の花よ、東風が吹いたら素晴らしい
その花を咲かせておくれ
私(主人)がいなくても春を忘れるなよ
道真は太宰府へ来てから、詩や和歌を作って寂しさをまぎらわせていましたが、三年目の延喜三年(903年)に五十九歳で亡くなりました
菅原道真が亡くなったのちの出来事が道真を天神とする話しになっていくのですが、それはまた別の回に
参考文献
『百人一首物語』司代隆三著
2018年02月06日
『競技かるたの父』黒岩涙香
漫画や映画【ちはやふる】など、それまで以上に多くの人の視線が注がれることになった『競技かるた』
今や日本のみならず海外にも多くのファンがいて、日本と外国との良い繋がりがまたひとつ増えている事にワクワクしている今日この頃
以前投稿した記事「宮崎駿初監督作品”ルパン三世カリオストロの城”の元になった小説」の中で、小説【幽霊塔】を翻案小説にしたのが【黒岩涙香氏】だという話しをしたのだけど、実はその黒岩涙香氏こそ『競技かるたの父』と呼ばれる人だったのです
明治期のジャーナリストだった黒岩涙香はそれまで統一したルールが存在していなかった「かるた競技」の競技方法統一を図るべく、明治37年(1904年)に「東京かるた会」を結成。自らが主催する新聞「萬朝報」に広告を出し選手を募り、同年2月11日日本橋常磐木倶楽部にて「第一回かるた大会」を開催する。その他、同新聞に 「小倉百人一首かるた早取り秘伝」を掲載したり、現在のかるた競技の基底となるもの「最も公平なる歌留多」を提唱している。
それ以前のかるた競技において、かるた札の並べ方は2段から4段と各自まちまちだったが、それを行儀上3段に統一。持ち札の枚数を各自25枚と定めたのも「東京かるた会」であった(ただし当時4開戦までは予選で予選での持ち札は16枚だった)。など
(競技かるたの夜明参照)
『競技かるた』についてより詳しく知りたい方は”たこるさん”のサイト競技かるたのページ(日本競技かるた史(2))で沢山学べます
早すぎて手が見えない。。。
最新作映画【ちはやふる-結び-】が春に公開される事で更に注目度が上がりそうな『競技かるた』
その競技かるたには『競技かるたの父』と呼ばれる人がいて、それが「幽霊塔」に繋がる『黒岩涙香』氏だったというのが意外性特大で驚きました。幽霊塔を元に『カリオストロの城』が作られているなど、ひとつを深く掘り下げていくと、意外なものが意外な繋がりを見せてくれたりするので、そこがまた面白い所です
『競技かるたの父』についてはここまでですが、『競技かるた』に使われる『小倉百人一首』についてもまた別の機会に投稿できたらいいなと思います
<かるた関連サイト>
全日本かるた協会
小倉百人一首を見て聞いて遊べる百人一首
2018年02月05日
『百七十年間に合格者わずか数十人
超難関の試験「方略試」に合格した学問の神様』
【菅原道真】の其之一
受験シーズンには多くの人が合格を祈願しにお詣りに訪れたり、正月の書き初めを奉納したりする『天満宮』
そこに祀られている神様が『菅原道真』です
『学問の神様』として日本全国に知れ渡り、信仰を集める菅原道真。その道真が『学問の神様』と言われる所以をご存知の方も多いと思いますが、今回はあまり知られていない『超難関の試験に合格していた』という話しをひとつ取り上げたいと思います
祖父である清公(きよただ)は、唐へ留学して文章博士となり学問によって公卿(くぎょう)となった人物であり、父である是善(これよし)も同じく文章博士となり当時の学問の世界で最も高い地位をしめた人物だった
このような家柄に生まれた道真は11-12歳の時には立派な漢詩を作るようになる。そして、それまでの最年少の十八歳で文章生(今の大学生)となり、文章生二十人の中から選ばれた二人として得業生(今の大学院生)に進みました。得業生(とくぎょうせい)は秀才と呼ばれ、最高の国家試験を受ける資格が与えられます
道真は二十六歳の時にこの国家試験である『方略試(ほうりゃくし)』に挑み見事合格
この『方略試』こそが百七十年ほどの間に数十人しか合格者がいないという非常に難しい試験だったのです
その後、菅原道真は三十三歳で祖父や父に続き『文章博士』となり、それからは政治家としても順調な出世をしていきました
菅原道真といえば『学問の神様』ということはよく知っていても、その背景や歴史を知ると様々な要素が絡まってそうなっていったという事がよくわかってきます。それにしても百七十年間に数十人しか合格者がいないなんて、桁違い過ぎて比べるものがちょっと思いつきません
その他
・菅原道真が何故天神様といわれるのか?
・小倉百人一首にも歌が残される歌人としての菅原道真
など『菅原道真』についてはまた別のタイトルで投稿をしていきたいと思います
2018年01月29日
『大納言あずき』が『大納言』な理由
『あんこ』になる小豆は、『おしるこ』『どら焼き』『おまんじゅう』などなど、あげたらキリがないほど多くの『和菓子』に使われ、またおめでたい日には『赤飯』となって、日本のハレの日をいっそう盛り立てる
その『小豆(あずき)』の中で、有名なものに『大納言あずき』というものがある
では、この『大納言』という名前、はたしてどこから来たのでしょうか?
【言葉の由来】
このあずきは、煮ても腹切れがしにくい。”腹が切きれる”といえば日本人が想像できるものに”切腹(せっぷく)”がある。しかし、切腹が行われていた時代にも”切腹”の習慣がない官位があった、それが”大納言”である。つまり切腹の習慣がない大納言にちなんで『腹切れのしにくいあずき』に『大納言』という名前がつけられたのだ(大納言しるこ参照)
『切腹をしない』という所からの『大納言』とは、面白い名前をつたなと思うと同時に、実に日本らしい名前で、由来のなかに日本民族の歴史が見えるのもまた面白い
しかし、今年再び同じ商品を購入した時には由来話しは消えていました。たまたま違うバージョンのモノだったのか、それとも記載するのをやめてしまったのかそれはわかりませんが、ふと購入したモノなどに新たな発見があったりもするので、何か買った時に商品の側面などを「ちら」と読んでみるのも結構おすすめです
大納言あずきのテーマ
立石典子さんのYoutubeチャンネルよりお借りしました
2018年01月28日
『真の大和魂』が目覚める時
プロパガンダは日本人を崩せない
数年前まで戦後のプロパガンダ政策にすっかりはまっていた多くの日本人。今それが崩れはじめている。いや『気づきはじめている』と言った方が正しいだろうか
いつからかプロパガンダに関する知識や情報を個人個人がインターネットを介し発信し『大東亜戦争』の真実が多くの人に知れ渡るようになり、同時に書籍等も数多く出版されることで、それらを初めて見た人達が一気に『目覚める』という現象が起きています
『日本民族の真の姿』を目のあたりにした時、今まで感じていた日本に対する考え、日本人に対する考えが根底から覆されるのです
あの大戦は、どのような経緯で始まりどのように終わったのか。A級B級C級戦犯などと呼ばれた方達の事、その裁判のこと。神風特別攻撃隊とはいかなるものだったのか、またそれを見送る人達は。GHQ司令官マッカーサーに面会した昭和天皇の御言葉
他にも、日本人が知っておかねばならない事が山のようにあります
この事が真実なのかどうかは、自分がどう感じるかでわかります
脈々と流れる血や魂がそれに応えるからです
自分は涙がその応えとなりました
勤務先の休憩時に見ていたにもかかわらず、涙が止まりませんでした
あとからあとから目から勝手に溢れてくるのです
知人に、自分が見た内容のものを教え、見てもらった所、全く同じ状態になったそうです
涙を流しながら頭に浮かんだこと
『今まで自分はなんて無駄な生き方をしてきたのか』
それが自分の真の日本民族としての目覚めでした
どう思い、どう考えるかは人それぞれだと思いますが、自分の知る限り多くの人は泣いています
男も女も関係ありません
プロパガンダに気づいていなかった自分は、日本民族でありながら日本民族ではありませんでした
では、プロパガンダを受ける前の日本人というものは、いかなるものだったのか
『神風特別攻撃隊』の真の姿とは
(当初8:44からは森山直太朗さんの『さくら』がかかっていました)
いかにして、今自分達が日本という国に、こうして立つ事が出来ているのか、言葉には言い表せません
今、この眠った状態でさえ、日本人の立ち居振る舞いは世界の人々から、年を追うごとに注目されています
海外メディアでは、日本人の行動に賞賛の言葉が贈られていたり、有り難い事には、その姿に驚いたり感動したりしている声を、動画サイトに投稿している外国人の姿も、多く見つける事ができます
日本民族の古い魂、眠ったままの『真の大和魂』を、今目覚めさせる事ができたならば、昨日までの自分とは全く違う境地を見ることになると思います
戦後、GHQの大きな誤算、それは、日本民族はどのような状況におかれても、決して誇りを失わない民族であり、いつでも当たり前のようにそれを行うことのできる人々だったということ。そして、日本人全ての心の奥深くに眠る『真の大和魂』は、今まさに『目覚め』の時を迎えています
2018年01月23日
マイク無しで心に響く歌声を放つ女の子
『メリッサクニヨシ』
女の子の名前は”メリッサクニヨシ”
ブラジルで生まれブラジルに住んでいたが、あるテレビ番組がきっかけでその歌声が日本でも評判となり、今は日本に住みながら歌の活動をしている
初めて”メリッサ”の歌を聴いたのはメリッサがもっと小さい時のものだったのだけど、その歌声がまた衝撃的で…あまりの衝撃に何度繰り返し聴いたか
先日YouTubeを見ていたら、偶然にも成長したメリッサが歌っている動画を発見!おぉ!メリッサ!と驚きつつもすぐさま視聴
久しぶりに聴いたメリッサの声、しかも成長した声は進化していた
マイク無しでこの歌声…けして大きな声を出しているわけじゃないのに歌詞がスッと心地良く入ってくる
小さな頃のメリッサの歌声は全力にダイナミックに響いてくる感じだったけど、成長した生声は静かに穏やかに、それでいてしっかり言葉が伝わってくる感じで
たぶん外だし声を抑えているのだろうなと思いながら『思い切り歌ったらいったいどんな事になるんだ?』と、そんな生歌ライブをいつか実現させてくれたらいいなと期待
言葉のひとつひとつがしっかり伝わってくるところは相変わらず流石のひと言。日本でのメリッサの活躍を心待ちにしたい
作曲家『鈴木淳ブログ』(この方の元で歌のレッスンをしています)
メリッサのデビュー曲