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2018年05月01日

荒の巻 全1帖

岩戸開き成り成るぞ。マコト岩戸は永遠ぞ。火と水ぞ。御位(みくらい)継ぐ道、始めぞ。
月日、世始め出づぞ。月日は結ぶ、魂、月祝うぞ。結び開き、月出づ道に成り、結ぶ魂、月見事に開き大和す道ぞ。道は永遠の極みぞ。日の日、月日極みなり。読むことの極み、弥栄に集い極む世、那美(イザナミ)・ 那岐(イザナキ)の道の魂継ぎ、出づ道開き成る。
月日月日ぞ、三六(みろく)、五六七(みろく)となるぞ。根っこざぞ。マコトざぞ。弥栄弥栄。魂霊出づ道ぞ。魂、キざぞ。月日ぞ。極み成る善き道、火の火ざぞ。水の水ざぞ。
Θ✓✓✓✓✓ Θ✓✓✓✓✓
ここの道、月日出づ。渦右巻き.jpg渦右巻き.jpg(ゼッタイムゲンノハタラキ)ぞ。
成り結ぶ、開きミロク日月出づ道、月日月日、この道継ぐ始めは那美開くぞ。月ことごとく動く世ぞ。文(ふみ)、富士に花咲く時ざぞ。開き結び、魂の魂、月開き月開き、実るぞ。山にも地にも万劫木の花開くのざぞ。
この仕組み、ヨハネとなるぞ。イロハざぞ。
始めキリスト、仏、米の国中に来て今はΘぞ、その極みの極みの十の山に百霊継ぐも千の道、キの極みたり。面白に急ぐなれど、文、道のとどめたり。
月日の道、マコト物言うぞ。霊気世に道みなぎり、国々晴れ渡るぞ。日月開く文字、百になり極むなり。コト始めぞ。人、動く成る始めざぞ。
世、満ち来るぞ、神の名、キに成る始め、伊勢世の始め、富士鳴門の仕組み動くぞ。月成り成りませるこの神には、何事も弥栄弥栄ざぞ。
この神示、よく読む道、御しるしのヨハネざぞ。諏訪、マアカタ、榛名、甲斐、魂和す道ざぞ。
月、言座(ことくら)成り極む道、イシの極み成るぞ。三通りある道ぢゃ。六に結び、咲く花、結び文ぞ。富士、軸ざぞ。宮柱太敷きるぞ。祝詞のこころ、岩に現るぞ。
真心響くマコトぞ。コトざぞ。細工隆々、読みの極みに実る世ぞ。
始めのこの道、Θぞ。始めのこの道、オオスサナル神、五十九にしるし給ひて、道のキ継ぐ、百万万、火の火、水の水、月の月、ΘのΘざぞ。山の文読み、皆喜び、富士成り、道開き、次、富士軸の世。喜びごと、全体に響く道ぞ。八雲出雲は、聞く道じゃ、これは、キのオオスサナル大神、世に光り輝くの道ぞ。道は世の元に成る道ぞ。道、遠きには無し、心せよ。
魂極む道はΘの道ざぞ。世、満ち始めの世ぞ。皆神の子ざと申してあろう。道無き世、シカと開き、キのキ、十六のキの目あれき。太始めの御霊組み組み、Θの肉身となる始めなり。道満つ御子ぞ。軸軸、タマと始め鳴り生り成り、世、道の(黄泉の?)岩戸開くなり。
始めの光、今輝きて、神々様々捧ぐもの、百取(ももとり)、城に満ち満ちて、弥栄、御座湧きに湧き、天晴れ月神、遠にあれ。見よ、御子たち、大き道、坐します言座、あぎとい、光も地仰ぎ、敬い、喜び、申すらくを、天の斑駒(ふちこま)の耳振り聞こし召すらむ、千万の御代。光の神、太光の神、三千の御山の良きを寿ぐ。五十鈴の川の良きを寿ぐ、動くことなく、止まることなく、常世に弥栄弥栄、喜びの今開く地の道成りて、木の花、一時にどっと咲く所、タマの御代とて神代より、生きし生き神、引き合うぞ。
マコトのもの言う時来しと、道、御座の日月地悟りて、道の大神様知るマコト、尊き御代と成りますのぞ、仕事、めんめに動きあるぞよ、借銭大き道、混ぜ動くことのしるしなり。
終わりにことごと神国の、マコトの神々の轟き(とどろき)も、御名、三文字世の始めかし、今、始め成るの世の善き。雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、善きにして、道満つるの常盤の富士の実り良くも、めでためでたざぞ。
弥栄鳴戸は、この御座の十のひつきの開く道。八百の道の世、神、榛名安芸、マコトもの言うΘの世の、夜明けの神々悟れよとすらむ、かむろぎ、かむろみの命もち、八百万(やおよろず)の神々、神集いに集い給い、神祓い(計り)に祓い(計り)給い、言問いし草の片葉(かきは)も言止め、天の岩戸開放ち、天の弥栄弥栄に千別き(ちわき)に千別き、大御光の尊き御代ぞ、Θ坐す天が下、四方の国々治ろしめす皇神、地の道も国ことごとく定まりし、ミロクの世とぞ成りふるなり。
成るはマコトの開きの火の山の、短山(ひきやま)のΘに降り給いし、御子に道は大日月地の火の仰ぐ様の善き時ぞ、道満つる世、戦済みたり、富士の山晴れたり、光り輝きて、御空にフトマニ百草の、片葉も競いかも、寄り集うマコト一つの神の世ぞ。
世満ち、文くくりし世、道は去りながら、世満ち、世、国々所々には嫌なこともあるなれど、道は祓戸、道知れる神、弥栄継ぎに月つきて、御代しるしの元継ぐなるぞ。とどめに富士の神見給いき、富士スサナルの神顕れ生き、生き給いき。ここにイザナキのΘ、神々たちに道給いて、喜び乞う給いき。
日のΘはΘの国、月のΘは水の国、スサナルΘは海原治らせと給ひき。それはその時より道決まれることにぞあれば、何もかも集い道に来いとぞ。あなないの道ざぞ。弥栄の道ざぞ、あなさやけ、あな清々し世ぞ。
顕れし道ぞ、都も鄙(ひな)も皆大御光に寄り集う、マコト一つの道なるぞ、一二三の国ぞ、言霊の弥栄光る国なるぞ。道の言、富士にしるしあり、道の富士、早う開きそ。マコト国の御光の、世界の世満ち喜びに、泣く時来たしるし文、肚に世道ぞ、とどめなり。
問い問い文も、解く成る始め、明日の始めの御光なる世ぞ、世は五十、始め七の光、草の物言う世となりふなり。御魂救うぞ。神の道はキぞ。月日出ず、開きに一二三開き、次魂開きの極み成る道一二三ぞ。神々様お喜びざぞ。今は神憑かり、神がかりし、地に言霊息吹き、成り、息吹きのままに満ち満ち、元の大神ニコニコと、捧ぐるもの召し給い、喜びごとの弥栄弥栄、成れる善き善き御代来るぞ。
目で聞く大神、世のあなないの友、天晴れい世救うのマコトの御代ぞ。田より開く火、月日御稜威(みいず)の花ぞ。悟れ、悟れと、ことごとしくも、迷うはひと時。
神の御言聞く実身 早う掃除一番ぞ。掃除、千座、日月、日月、霊のΘ、岩元Θの極み魂の道、四十七の四十八、目にもの見せて神国の、マコトの善は悪魔まで、皆改め、動くの世と極むぞ。惟神(かむながら)ざぞ。船頭、とく光れる、山には山ぞ。目には目ぞ。富士に花咲く御代、嬉し嬉し、早うこの文字知らせたり。急ぐ心ぞ、世満ちよ。
弥栄に光る文なるぞ。文、ミコトのコトの御代の、月の光なり。魂五十、始めの光り照らして、尊き御代とぞなりふる、マコトのΘの神示なるぞ。心しめて読む時ぞ。マコトのΘと平のΘと皆和す時成るぞ。
あら楽し、あなさやけ、富士は晴れたり、岩戸開けたり。
あなさやけ、おけ、後の世に書きしらすぞ、日月のΘ、書きしらすぞ。

昭和21年1月19日


全体に文章が長く、また、かなり訳に苦労されているようであり、個々の部分では意味不明の個所が多くあります。そこで、気が付いた部分だけコメントさせて頂くにとどめたいとおもいます。

@伊邪那岐・伊邪那美の岩戸閉めを解く(別離から再会へ)ことから始まるようです。しかも、伊邪那美が月神の主役であることを示しています。そして、木之花咲耶姫へ引き継いでいくようです。

Aオオスサナル大神が火の火、水の水、月の月、神の神、キの神として59神(十神と七七神)の指揮を執っていくようです。富士が軸、八雲出雲が岩戸を開く鍵のようです。

B鳴門は十神が開き、最終的にスサナル神が富士に鎮座して、マコトの御代、あなないの世が完成するようです。

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2018年05月02日

地震の巻 全般

さて、地震の巻(全19帖)は、昭和20年9月10日より10月30日の間に降ろされたものです。「御身にきかして御身で書かしたもの」ということで、現代文で書かれ読みやすいものとなっています。従いまして、コメントは必要と思われる場合のみ、限定的に述べさせて頂くことにいたします。

また、岡本天明氏が神から直接描かされたと思われる「絵」が全帖に亘って添えられています。私には何が何だかわかりませんが、一部には、その内容を感じ取れる方もいらっしゃるかと思われます。ぜひ、書籍を購入し、一度ご覧いただきたいと思います。

[完訳] Θ日月神示 上・下巻セット
著者 岡本天明
校訂 中矢伸一
発行所 株式会社 ヒカルランド
ISBN978-4-905027-24-9
C0014 定価5,500円(消費税別)


なお、本ブログでは、同書の文章をできるだけ忠実に記載し、尊重した上で、その意味を正確に解釈するように努めています。これまでに、本稿をご覧頂いた方々も、神が実在するかどうか如何に拘わらず、同書に述べられた「人間としての生き方」の指針に感銘を受けられた方も多いかと存じます。

この素晴らしい書を傍らに置いて、日々の出来事を読み解く参考書としてご活用いただけるようお勧めいたします。

なお、私は、皆さま方の同書のご購入にあたり、一切の利益を受けていないことを付言させて頂きます。

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2018年05月03日

地震の巻 第1帖

われわれの一切は生まれつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉(ことごと)くが、常に生まれつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生まれ続けている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生まれに生まれゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。ただ存在するものが生まれに生まれつつある。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず、美も思わない。ただ自分自身のみの行為はない。ただ生まれゆき栄えゆくのみである。善を思い悪を思うのは、死をつくり出すことである。故に地上人が自分自身でなすことには、すべて永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。思うことは行為することである。生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈打ち、生命し、存在し、弥栄する。また、すべてのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。地上人は、生前に生き、生前に向かって進みゆく。また、地上人は、地上に生き、地上に向かって進みゆく。また、地上人は、死後に生き、死後に向かって進みゆく。しかし、そのすべては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。善でもなく、悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ。霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。また、その理によって一定せる方位もない。また時間もなくただ情動の変化があるのみである。地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙のすべてを創られたもののごとく考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば、永遠性はあり得ない。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、さらに常に神と共に永遠に生まれつつある。その用(はたらき)は愛と現われ、真と見ゆるも、愛というものはなく、また、真なるものも存在しない。ただ大歓喜のみが脈打ち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。存在は千変万化する形において、絶えず弥栄する。それはΘであり、渦右巻き小.jpgなるが故である。Θは大歓喜の本体であり、渦右巻き小.jpgはその用である。それは、善でもなく悪でもない。真でもなく、偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく憎でもない。プラスでもなければマイナスでもない。しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。これらのすべては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。神が意図するということは、神が行為することである。そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。神の歓喜を内的に受け入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人という。神の歓喜を外的に受け入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのまま受け継いでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をそのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために二義的の歓喜となる。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互いに交通し得ないのである。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上のごとくであるから、日と月、愛と信(真)、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。


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TOKIO 山口達也さん 事件

最近、ワイドショーを賑わせているTOKIO山口さんの女子高生に対する強制わいせつ容疑事件。確かに、悪いことではありますが、集団リンチのような状況になっています。特に山口さんの「TOKIOのメンバーに復帰できたら」の発言で大事になっているようです。でも、これはあくまでも本人の希望であって、そう思ったとしても無理からぬこと。それを鬼の首でも取ったように騒ぎ立てるのはいかがなものかと思います。批判している人も自分自身を振り返ってみてください。聖人君子のような生活をしてこられて来たとは到底思えないような方々ばかりとお見受けしますが。もうそろそろ、許してあげたらどうでしょう。
日本人は、もっと優しい心の持ち主と思っておりましたが。それとも、台本はそうじゃない方が作られているのでしょうか。このような状況が続けば、本当に日本はダメになってしまいます。本人たちも気づかない「パワハラ」が正義の味方のふりをして公共の電波でまかり通っているようです。

2018年05月04日

地震の巻 第2帖

天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上における横の交流は、可能である。それはちょうど、地上における各民族がお互いに交流し、融和し得るのと同様である。すべて分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈打たない。分類しては、生命の統一はなくなる。そこに、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用(はたらき)が生じて来る。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。✓については一なるも、Θにおいては二となり、三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人と離れた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神の✓は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは立体をはるかに超えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。すなわち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。
而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真という。外の愛も外の真も共に生命する。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見ればわかるであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性を持つ。故に、外部的に曲げられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽ではない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。さらに善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜という。歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。死後の世界に入った最初の状態は生存時とほとんど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再び繰り返すことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。しかし、かくのごとき死後の最初の状態は長くは続かない。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままに続いているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分にふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的なものは漸次(ぜんじ)うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互いに相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分に還るのである。生存時においては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するがために、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態に置かれる。生存時に偽りのなかった霊人は、この情態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉を開くのである。偽の生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時における、あらゆる行為が清算されるのである。この状態に入ったならば、悪的なものはますます悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力をますます発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。


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2018年05月05日

地震の巻 第3帖

愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する。弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体はますますその次を弥栄する。個と全体、愛と真との差がますます明らかになれば、その結合はますます強固となるのが神律である。霊界と物質界は、かくのごとき関係に置かれている。そこにこそ、大生命があり、大歓喜が生まれ、栄えゆくのである。さらに、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じて渦右巻き小.jpgを為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しくすべてが生まれ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、さらに新しく生まれ給うのである。渦右巻き小.jpgは絶えず繰り返され、さらに新しきすべては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生まれ出て、さらに大完成に向かって進みゆく。親によって子が生まれ、子が生まれることによって親が新しく生まれ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用においては千変万化である。千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属するすべてを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属するすべてを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果す。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実がますます単にしてますます充実し、円通する。されば、Θの中の✓の中なるΘの✓の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが、大歓喜そのものであって、神は、この✓に弥栄し給えるが故に、最外部のΘの外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。始めなき始めの✓の真中の真空にいますが故に、終わりなき終わりのΘの外の無にいまし、中間に位する力の渦右巻き小.jpgの中にも生命し給うのである。一物の中の✓なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸と続き、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。世を捨て、外部的、肉体的諸欲を捨てた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。何故ならば、地上人における肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目を持っているからである。地上人が、その時の社会的、物質的生活を離れて、霊的生活にのみ入るというのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。天国を動かす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗は光明あるが故である。因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程において、歓喜はさらに歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり、吸が長くなれば呼もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に神の呼吸に属し、神の脈打つ一面の現われであることを知らねばならない。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の調整が行なわれるからである。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。また、この平衡の上に置かれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。ただひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。


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2018年05月06日

地震の巻 第4帖

同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合いに正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。同気同一線上にいる霊人たちは、かって一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹であるごとくに、お互いに、そのすべてを知ることができる。生前の世界における、かかる霊人が肉体人として生まれ出でた場合の多くは、同一の思想系を持つ。ただし、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。霊人の同一線上にある場合は、その根本的要貌(容貌)は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一としてない。そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。生前の霊人の場合は、自分自身の持つ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面を持つことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している。生前の世界は、以上のごとくであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、またとくに相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにして出来上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重(いくえ)にも、内分の神に近い霊人の順に座を取り囲み運営されている。もしそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神(かんながら)の流れ、すなわち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人のごとく自由ではない。すべてはΘの✓を中心としてΘの姿を形成しているのである。✓とΘとを、生前の世界において分離することは極めて至難ではあるが、ある段階に進む時は一時的に分離が生ずる。しかし、この場合も✓は✓でありΘはΘである。これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度がさらに加わって、真偽混乱に及ぶものである。悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるがごとく写し出されるのである。生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずしてΘのΘであることを知らねばならない。即ち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。愛は真により、真は愛より向上し、弥栄する。その根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善という。歓喜なき愛を、愛の悪というのである。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、Θとなり、✓と集約され、その集約の✓の中にΘを生じ、さらになお✓と弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向かい進む大歓喜の呼吸である。されど、地上人においては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。そこに時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。そこに、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。霊人においては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかむり得るが、それは長く続かず、自分自身絶え得ぬこととなる。地上人といえども、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時に入ることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、すべてを殺す結果となるからである。霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、初めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。


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2018年05月07日

地震の巻 第5帖

全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性を持ち、同じ質を持ち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成り立っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。悪はすべてを自らつくり得、生み得るものと信じている。善はすべてが神から流れ来たり、自らは何ものをもつくり得ぬものと信じている。故に、悪には本来の力は無く、影にすぎない。善は無限の力を受けるが故に、ますます弥栄する。生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるものではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。地上人的に制限されたる感覚の範囲においては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来たす場合もあるが、それはいずれもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。川上で濁しても川下では澄んでいると同様である。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、さらに超大歓喜に向かって弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは、すでに無き地獄を自らつくり出し、生み出す因(もと)である。本来なきものをつくり出し、一を二に分ける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念するところに地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、離れてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生まれる。すなわち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、なおそれらのすべてはΘである。Θは渦右巻き小.jpgでありΘであり、✓と集約される。故に、これらのすべては無にして有である。人の生後、すなわち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄するところに尽きざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、さらに三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神としてすべてが弥栄ゆるのである。悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。歓喜に審判なく、神に戒律はない。戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべてはこれ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果はただ、結果のみとして終わらず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、さらに原因となりて生前の霊人を生む。Θは渦右巻き小.jpgとなりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上述べたところによって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば、常に歓喜に向かってのみ進むのである。これはただ、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、かつ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一である。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上におけるすべては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像のごとく感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。


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2018年05月08日

地震の巻 第6帖

霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の言う北ではなく、中心という意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、いずれの方向に向かっていようと、その向かっている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈搏の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向に向かっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向かって座し、向かって進んでいる。上下、左右、前後に祈り重なっていると見えても、それは決して、地上人のあり方のごとく、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害を受けない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目で見るものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人においても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下に置かれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのではない。内質においては同一であるが、現われ方や位置においては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長しているという。地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、かつ受け入れて生活しているのであるが、そこにも、それ相応な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜の受け入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することにおいては同様である。歓喜すればこそ、かの霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼といい、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、かつ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界においては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外に置かれるために、その対象とはならない。地上人においても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交(こうさこんこう)する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。


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2018年05月09日

地震の巻 第7帖

地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからといって、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらのすべては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈搏し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見る時は、悪を許し、善の生長弥栄を殺すがごとくに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、さらに活力を与え、悪を浄化して必用の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来悪はなく暗はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。さらに一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ないごとく、地上人に至りては極めて稀(まれ)であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは原因の世界より伝えられたる一つの因果であるという平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べたところで明白となり、己を愛するは、まず悪の第一歩なりと考える。その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来たるべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。さらに弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなけばならぬ。


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2018年05月10日

地震の巻 第8帖

生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす✓が歓喜していた、その✓が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界に続き、死後の世界の様相は✓の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その✓を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的✓に向かって弥栄する面と、外的、地上的に進む✓と、その交叉融和することによってさらに生み出され弥栄する✓と、その各々が各々の立場において✓(進み)✓(呼吸し)✓(脈打ち)✓(生命)していると同時に全体的にも ✓(生命し)✓(歓喜し)✓(弥栄)している。而して、その現われとしては、✓(和)せば ✓(和)するほど相離れ、遠ざかりつつ✓(生長)する。また ✓(生命)の✓(大歓喜)として湧き出でいる。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々より生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入るまでは、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来るまで、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、いずれも✓の形におけるがごとく同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生まれ、より大なるものより、より小なるものが生まれ、より新しきものより、より古きものが生まれ、より古きものより、より新しきものが生まれ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、さらには一つとなることを理解しない。月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれるということを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智に目覚めることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして生まれ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、その以前の自分のすべては失わない。ただその位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりもなお一層、そのままであって何等の変化もないと思えるほどである。蛆が蝶になるごとく弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中において、大神のその質と性とを受け継ぎ呼吸しているからである。すべてのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生まれてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。ただ考えたり意志するのみでは萌え出ない。生命しない。ただ意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界においては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意思を行為することによって初めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階にまず区別され、その段階において、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。もしその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容いかんによって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉(ことごと)くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、すべて自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈搏の中にあり、それらのすべてが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後に基づき、地上人もその周囲を自分化しようとする意志を持っているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、いずれにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ち切ることは出来ない。物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を持つが、霊的角度から見れば永遠性は持たない。しかし、物質面より見れば永遠性を持つものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性を持つ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内臓している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。


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2018年05月11日

地震の巻 第9帖

霊、力、体の三つがよりよく調和するところに真実が生まれ、生命する。これは根元からの存在であり用(はたらき)であるが、動き弥栄する道程にいて、復霊、復力、復体の渦右巻き小.jpg(うごき)をなす。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現われ、呼吸し、脈打ちて生命する。故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。而して、なお地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後の世界との関連により複数的悪善に置かれる。善悪善の立場に置かれる場合が多いために、地上における司宰神としての力を自ら与えられるのである。善悪の、生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、すべてをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。地上人の持つ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神の持つ想念の本は大歓喜である。故に、地上人は霊人によってすべての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりてすべての行為の本とする。故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。いずれも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場において差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生まれてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。常に、動き栄えゆく、大和の渦右巻き小.jpgを中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を✓とする立体的動きの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神(かんながら)の歓喜である。惟神の歓喜はすべてのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。



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2018年05月12日

地震の巻 第10帖

地上人は、内的に生前の霊人と+(通じ)、また死後の霊人と+(通ず)る。地上人が、生前を知得するのは、この霊人を+(通ず)るが故であり、死後を知得するのも、また同様に+(通ず)るからである。生前と死後は同一線上に置かれているが同一ではない。地上には、物質的+(形式)があり、霊界には霊的+(形式)がある。その+(形式)は)+(歓喜)の交叉し、発するところによって自ら+(成る)ものである。+(形式)なくしては+(合一)なく、+(力)なく、+(形式)あるが故に+(もの)が+(総て)に+(合一)し、(弥栄)し、+(力)し、+(大弥栄)するのである。+(形式)の中に+(和)することは、その++(個々)が、++(差別)されているからである。++(差別)し、++(区別)せられることは、その各々に、++(各々)が共通する内質を持つからである。++(共通性)なきものは、++(差別)し、++(区分)することができない。+(霊界)と+(現実界)との関係はかかるものであるが故に、+(常)に+(相応)し、+(力)し、+(力)を生じ、また常に、+(相通)じて+(力)を生みゆく。これは、平面的頭脳では、なかなかに+(理解)しがたいのであるが、この根本+(原理)を体得、理解し得たならば、+(神)+(幽)+(現)三界に通じ、永遠に弥栄する+(大歓喜)に住するのである。されば+(差別)は、+(平等)と+(合一)することによって+(立体)の++(差別)となり、+(平等)は+(差別)と合一することによって++(立体平等)となり得る。+(霊人)が+(地上人)と+(和合)し、また+(地上人)が+(霊人)と+(和合)し、+(弥栄)するのは、この++(立体平等)と++(立体差別)との+(弥栄)ゆるが為であることを知らねばならぬ。この二つの+(相反)するものを+(統一)し、常に+(差別)しつつ+(平等)に導き、++(立体)していく+(力)こそ、(神)そのものの+(力)であり、+(歓喜)である。この(二つの力)と+(神)の+(歓喜)なくしては、+(地上人)なく、また(霊人)もあり得ないのである。++(生成発展)もなく+(神)も+(歓喜)し得ない。この(力)なくしては、+(地上人)は+(霊人)と+(和)し、+(神)に+(和)し奉ることはできない。故に、+(生命)しないのである。



(立体平等)と(立体差別)の統一と(神の力・歓喜)⇒生命(地上人と霊人の和)

ルービックキューブのようなものを思い浮かべてください。九字の呪文「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」です。平面ではなく立体です。一つ一つには差別も平等もありませんが、立体的には差別も平等もあります。横の線が平等、縦の線が差別です。



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2018年05月13日

地震の巻 第11帖

霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。同一線上にいる霊人の言葉は、いずれも同一であって共通する。霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。しかし、相手が聞くことを欲しない時には聞こえない。それはちょうどテレビやラジオのごときものであると考えたらよい。またその語ること、その語音によって、その相手のいかなるものなるかを知り得るのである。すなわち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人のいかなるものなるかは、ただちに判明する。霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、そのいずれかでなくてはならない。しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである。原因と結果とを一にし、さらに結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、かつ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。言葉そのものが弥栄であり、生命である。またすべてであるということは、地上人には理解できぬであろう。それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、さらに生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。また一里先も、百里先もまた千万里離れていても、同一の場所であるのと同様であって、理解するに極めて困難である。だが、地上人においてもそれを知り得る内的な生命を持っているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人の置かれている位置によって二つのものに大別し得る。歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽のΘ(ひかり)と◍(熱)とに譬(たと)えることができる。また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に、清く流れ出でて連続的ではなく、ある種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水のごとき清さとを感じさせる。また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。そして、そのいずれもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力を持っている。しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の✓をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては感得し得ないことを知らねばならないのである。霊界における音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。それは、言葉そのものがかかる内質をもっており、各々が霊界における生命の歓喜の表現なるが為である。またこれら霊人の言葉は、天的の韻律(いんりつ)を持っている。すなわち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。言葉の韻律は、地上人が肉体の立体を持っているごとく、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。


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2018年05月14日

地震の巻 第12帖

霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。霊人が地上人に来る時は、その人の知るすべてを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。霊人は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。しかし、映像と実相の隔たりはかなり遠いものである。霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、その互いに交わされる談話においても前記のごとくであることを知らねばならない。霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、かつ聞いているのである。霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したりすることは、前記のごとき原則によってあり得ないのである。しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである。故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉は、いかに地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ないのである。語れども聞き得ず、読むともその真意は通じ得ないのである。霊人の中には、自分たちの住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。それはちょうど、地上人の多くが、生前及び死後の世界を信じないと同様である。



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2018年05月15日

地震の巻 第13帖

地上人が、限りなきほどの想念的段階をもち、各々の世界をつくり出しているごとく、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念を持つ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界においては必ずしもそうではない。美も醜となり、愛も憎となり、善も真もそのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。と同時に、+(真善)渦右巻き小.jpg(真善美愛)渦右巻き小.jpg(歓喜)渦右巻き小.jpg(大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必要性などが判明するのである。故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面においては、極めて尊いものとなるのである。下級霊人自身が渦右巻き小.jpg(善)なりと信じて行為することが、地上人には渦右巻き小.jpg(悪)と現われることが多いのである。何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性を持ち、他の世界を知らないからである。それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨(みむね)なるがごとくに独断し、ついには、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。所謂(いわゆる)無き地獄をつくり出すからである。地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものを含む。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。浄化し、改心し得ないものである。また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。すべて戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。半面、向上のごとくに見ゆる面があるとも、半面において同様の退歩が必然的に起こってくる。それは強いるが為である。神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。戒律あるところ必ず影生じ、暗を生み出し、カスが残るものである。それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。直線的なものは月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。ただし、文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。しかしこれは不変なものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。



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2018年05月16日

地震の巻 第14帖

霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。そこには、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。すなわち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念を持っている。この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠ということは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切を離れて状態とその変化による霊的なものによって語るのである。しかし、この霊人の語る所を地上人が受け入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解し得るのである。多くの地上人は、霊人を知らない。地上人には、地上世界に顕現するすべてのものの霊体が存在するということをなかなか理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることをなかなか理解しない。ただし、死後の霊人は、相当に長い間地上世界のことを記憶しているものである。地上人が、何故霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。例えば霊人とは、地上人の心に通じ、あるいは、心そのものであると考えるためである。つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。ところが実際は、霊人そのものが手を持つが故に地上人に手があり、指を持っているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。しかも、霊人は、地上人よりはるかに精巧に出来ていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。霊人は、地上人にまして一段の光明の世界にあり、一段と優れた霊体を有している。霊界における事物はすべて霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。それは、地上における場合と同じである。太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生まれたるものはさらに一層の光輝を放ち、弥栄となる。また、霊界には物質世界のごとく空間はない。このことを地上人はなかなかに理解しないのである。霊界における場所の変化は、その内分の変化に他ならない。霊界に距離はない。空間もない。ただ、あるものはその態の変化のみである。故に、離れるとか、分かれるとかいうことは、内分が遠く離れていて、同一線上にないことを物語る。物質的約束における同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。



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2018年05月17日

地震の巻 第15帖

霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類を持つ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、といったふうに、現実世界とほとんど変わりがない。ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であるということを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互いに並び建てられており、地上における都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらのすべてが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、かつ考えるから、真相がなかなかにつかめない。これらすべての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その各々が持つ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応するということは、真理に対応するということになる。ただし、最も中心近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に至れば、すべてが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。しかし他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せるごとく見ゆるのである。また、衣類はすべて霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食している。言うまでもなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人もいずれも食べる、ということによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのかわからないほどである。また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。現実社会における、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられたすべての食物は、悉(ことごと)く食べて一物をも残さないのである。すべての善は✓より起こり、✓に還るのと同様、すべての悪もまた ✓より起こり、✓に還る。故に、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂(いわゆる)、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ✓が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からする時は理解力となり、真理となる。また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰と離れてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生まれ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にて渦右巻き小.jpgの動きをなし、右手にて渦右巻き小.jpgの動きを為す。そこに、地上人としては割り切れないほどの、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨(みむね)である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と言うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕(はら)み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。



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2018年05月18日

地震の巻 第16帖

考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神が為し給うているのである。
そこに、人が地上における司宰者たる、またたり得る本質がある。地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのである。
しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質の衣にすぎないことが判明する。肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。この二つの動きが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である。肉体の呼吸と脈搏とは、新しき霊体の呼吸と脈搏に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。為に、死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。故に、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。而して、霊界においては、先に述べたごとき状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、さらに大宇宙そのものの形である。大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有する。これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。それは心臓としての脈搏でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、すなわち、大神より直流し来たるものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。人間が、一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。



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2018年05月19日

地震の巻 第17帖

地獄はないのであるが、地獄的現われは、生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に、すべてのものが生長しているためである。死後、ひとまず置かれる所は、霊、現の中間の世界であり、そこでは中間物としての中間体を持っている。意思のみでは力を生まない。理解のみでも進展しない。意思と、理解との結合によって弥栄する。このことは、中間の状態、すなわち、死後の最初の世界において、何人もはっきりと知り得る。しかし、生存時において、すでに過去を清算している霊人は、この中間世界にとどまる必要はなく、その結果に対応した状態の霊界に、ただちに入るのである。清算されていない者は、清算が終わるまで、この中間世界にとどまって努力し、精進、教育される。その期間は五十日前後と見てよいが、最も長いものは十五、六年から二十年位を要する。この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、光明に満たされている。故に、何人も、この世界へ進みやすいのである。また、地獄的な世界は暗黒に満たされている故に、この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、極めて進みにくいのである。
天国には昇りやすく、地獄には堕ち難いのが実状であり、神の御意志である。しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進みゆくものもあるのであって、その者たちには、それがふさわしい世界なのである。そこに、はかり知れないほどの大きく広い、神の世界がひらかれている。この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである。以上のごとく、中間世界からは無数の道が無数の世界に通じており、生前から生後を通じて、思想し、行為したことの総決算の結果に現われた状態によって、それぞれの世界に通ずる道が自らにして目前にひらかれてくるのである。否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。故に、迷うことなく、自分の道を自分で進み、その与えられた最もふさわしい世界に落ち着くのである。他から見て、それが苦の世界、不純な世界に見えようとも、当の本人には楽天地なのである。何故ならば、一の世界に住むものには、二の世界は苦の世界となり、二の世界に住むものには、一の世界はまた苦の世界と感覚するからであって、いずれも自ら求むる歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。また一の世界における善は、二の世界では善はなく、二の世界の真が一の世界においては真でない場合も生じてくる。しかし、そのすべての世界を通じて、さらに高き✓に向かって進むことが、彼等の善となるのである。✓は中心であり、大歓喜であり、神である。死後の世界に入る時に、人々はまず自分の中の物質を脱ぎ捨てる。生存時においては物質的な自分、すなわち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、そのものが生命し、かつ自分自身であるかのごとくに感ずるのであるが、それは自分自身の本体ではなく、外皮に過ぎない。生長し、考慮し行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、すなわち霊の自分である。霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。故に、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。しかし、肉体を捨てて霊界に入ったからといって、物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係に置かれる。何故ならば、物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界のいずれもが不離の関係に置かれて、互いに呼吸し合っている。例えば、地上人は生前世界の気を受け、また死後の世界に通じている。現実世界で活動しているのが、半面においては生前の世界ともまた死後の世界とも深い関連をもっており、それらの世界においても、同時に活動しているのである。



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2018年05月20日

地震の巻 第18帖

神から出る真・善・美・愛の用(はたらき)に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、かつ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、そのいずれもが神の秩序、すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、いずれの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。ただ、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用を繰り返しつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人のために存在する。太陽は太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によって生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信(真)の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は、物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力する。秋は、陰であり、月と光り、かつ力する。この春秋の動きを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも言い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、かつ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。



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2018年05月21日

地震の巻 第19帖

天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在するところは、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。
天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、✓によって現わされ、他の二人は、Θによって現わされる。Θは、左右上下二つの動き渦右巻き小.jpgを為すところの立体渦右巻き小.jpgからなっている。統治者の心奥の✓は、さらに高度にして、さらに内奥に位する✓の中の✓によって統一され、統治され、立体渦右巻き小.jpgをなしている。天国では、この✓をスの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ・イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらのすべてを神の力として生かし、さらに高度なる大歓喜に至らんかと努力することである。また統治者自身は、自分たちを他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜をまずよろこび、己はその中に融け入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国における政治の基本は、以上のごとくであるが、さらに各家庭においては、同一の形体をもつ政治が行われている。一家には、一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。すなわち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。礼拝生活である。すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上においては、一つの生き方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上のごとく太陽があり、その太陽より、光と熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球のごとき現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と、熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、はるかにそれらを超越した歓喜の✓が感じられるのみである。この歓喜の✓が、真・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、その受け入れる天人、天使、霊人、地上人たちの持つ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。


アオウエイ.png



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2018年05月22日

光の巻 第1帖

「光の巻」しるすぞ。地(くに)の日月のΘとは臣民のことであるぞ、臣民と申しても今のような臣民ではないぞ、Θ人共に弥栄の臣民のことぞ、今の臣民も掃除すれば地の日月のΘ様となるのざぞ、自分卑(いや)しめるでないぞ、皆々ΘΘ様ざぞ。
もの頂く時は、柏手打ちて頂けよ、Θへの感謝ばかりでないぞ、柏手は弥栄ざぞ、祓いぞ、清めぞと申してあろうが、清め清めて祓いてから頂くのざぞ、わかりたか。
次の五の巻の謄写は四十九でよいぞ、十はΘよきに使うぞ、前のも十はよきに使うたぞ、わかりたか、皆に分けるぞよ、三は十二の巻の中からよきに抜きて謄写よいぞ。サイトウ、ヒノ、マスナガ、カザマ、サトウ、ハヤシ、サイ、カネシゲに神示取らせよ。合わせて四十九の身魂。
二月二十四日、ひつ九のΘ。


身魂を掃除した「神人共に弥栄の臣民」は、「地の日月の神様」となれるそうです。

「次の五の巻」は、「光の巻」から「青葉の巻」までのことだと思われます。「十二の巻」とは、最初の「上つ巻」から「夜明けの巻」までのことでしょう。

十と四十九は、十神(とおかみ)と四十九神(成り鳴る神)です。



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2018年05月23日

光の巻 第2帖

天之日月の大神様は別として、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、釈迦、キリスト、マホメット様、百々の神様、皆同じ所に御神体集めてマツリゴトされよ、天の奥山、地の奥山、皆同じぞ、御土(おつち)皆に分け取らせよ。
二月二十六日朝しるすぞ、ひつ九ノか三。



日月神示では、釈迦、キリスト、マホメット、老子、孔子などの他の宗教の神々も祀れという言葉が出て来ます。私の知っている限りでも、般若心経の世界観と日月神示のそれはほぼ同一です。キリスト、マホメットも元はユダヤ教ですから、「イスラの流れ」で共通点はあるでしょう。老子、孔子も中国大陸からの流れとしてあるでしょう。

キリスト教で「アーメン」という言葉があります。これは「amen」というヘブライ語で「まことに、その通り」という意味だそうですが、「a man」=イエス・キリストのことだという説もあります。読み方も「アーメン」あったり「エイメン」であったりします。英語読みだと文頭の「a」は「エイ」ですから、「エイメン」という発音をしているようです。

「地震の巻 第19帖」で「ス」の神が「ア」の神と現れ、「オ」と「ウ」に開き、さらに「エ」と「イ」に動き現れるとありました。まさに、「a=ア」が「a=エイ」となっているようです。偶然でしょうか、それとも言霊(ことだま)でしょうか。

もし、イエス・キリストが「ア」の神の現れだとすると、「ス」の神は「天の父・ヤハウェ」=弥栄(ヤハエ)となります。マホメットもまた「ア」の神の現れだとすると、「ス」の神は「ア・ラー」(太陽神)ということになりそうです。

老子、孔子だと、「盤古大神」でしょうか。もっとも、大本教では「盤古大神」は「国之常立神」を艮に押し込めた悪神ということになっているようですが。

いずれにしても、世界中の宗教は同根であり、元は一つ(民族によって現れ方が違うだけ)ということが、根底の考え方だと思われます。


余談ですが、先日NHK番組で「四川美人谷」の先祖が「羌(きょう)氏」だという話をしておりました。もしかしたら、遠い昔、日本人の祖先と分かれた同族かもと思います(炎帝神農・姜氏の流れ)。

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2018年05月24日

光の巻 第3帖

今の政治は貪(むさぼ)る政治ぞ、Θのやり方は与え放しざぞ、渦右巻き小.jpgぞ、マコトぞ。今のやり方では世はおさまらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与えるものあるのざぞ、惜しみなく、隈(くま)なく与えて取らせよ、与えると弥栄えるぞ、弥栄になって元に戻るのぞ、国は富んで来るぞ、神徳満ち満つのぢゃ、この道理わかるであろうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、捧げられたものだけがマコトじゃ、乗り物もタダにせよ、田からも家からも税金取るでないぞ、年貢取り立てるでないぞ、何もかもタダぢゃ、日の光見よ、と申してあろうが、(金はいらんと申してあろが、)暮しむきのものもタダで取らせよ、タダで与える方法あるでないか、働かん者食うべからずと申すこと理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与えて取らせよ、与える方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与えぱなしぢゃ、そこにΘの政治始まるのぢゃぞ、Θの経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民の算盤(そろばん)では木の葉一枚でも割り出せないであろうが、この方の申すようにやって見なされ、お上は幸(さち)で埋もれるのぢゃ、余るほど与えて見なされ、お上も余るのぢゃ、この道理わかりたか。仕事させてくれと申して人民喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるのぞ。
皆々Θの子ぢゃ、Θの魂植えつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、惜しみなく与えるうちに人民元の姿現れるぞ。貪(むさぼ)ると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、算盤捨てよ、人民Θとあがめよ、Θとなるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民、地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろうがな、
六月十七日、かのととりの日、ひつ九ノか三。


私有財産制の否定ですね。縄文時代はまさにこのような社会であったと推定されます。皆が優しく平和な理想世界です。税金も存在しないようです。ただ、人々に少しでも私利私欲があると成り立たない社会でしょう。



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2018年05月25日

光の巻 第4帖

祀りてない時はお日様とお月様拝(おろが)めよ、マトとせよ。裁判所(しらす)いらんぞ、牢獄(ろうや)いらんぞ、法律いらんぞ、一家仲ようしたらいらんのぢゃ、国も同様ざぞ。そんなことすれば、世の中メチャメチャぢゃと申すであろうが、悪人が得すると申すであろうが、誰も働かんと申すであろうから、与える政治ダメぢゃと申すであろう、人間の小智恵ぢゃ。そこに人間の算盤(そろばん)の狂うたところ気づかんか、上に立つ人もっともっと大き心結構ぞ、算盤なしで梶(かじ)取らすぞ、Θの申す通りに進むのぢゃ、これが出来ねば一段下がって頭下げてござれ、あまり大き取り違いばかりぢゃぞ、悪の守護となっているからぢゃ、ここの道理わかるまでは動きとれんのぢゃぞ。
世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱現わしてあろうが、これは皆この方の仕組ぢゃから、皆仲良う手引き合ってやってくれよ。
六月十七日、かのととり、火つ九のか三。


人間ひとりひとりが改心して悪を抱きとめ、悪を善に改心させることが唯一の解決方法ということです。悪の守護なので悪を悪とみなし取り締まっていく、という逆説的な見方ですね。悪の環境が悪をつくり、悪をさらに助長していくので、解決策は、悪の環境をなくしていくことに尽きるということでしょう。

世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱とは、ユダヤ・キリスト教における「最後の審判・黙示録」、仏教の「末法思想」マヤの予言等々のいわゆる「終末思想」を唱える預言者のことでしょう。


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2018年05月26日

光の巻 第5帖

病神(やまいがみ)がそこら一面にはびこって、隙(すき)さえあれば人民の肉体に飛び込んでしまう計画であるから、よほど気つけておりて下されよ。大臣(おとど)は火と水と二人でよいぞ、ヤとワと申してあろうが、ヤ、ワ、は火の中の水、水の中の火であるぞ、後はその手伝いぞ、手足ざぞ、役人自ら(おのずから)出来るぞ、役は役であるぞ、今まではΘ国と外国と分れていたが、いよいよ一つにまぜまぜに致して、クルクルかき廻して練り直して、世界一つにして、自ら上下出来て、一つの王で治めるのぢゃぞ。
人民はお土でこねて、Θの息入れてつくったものであるから、もうどうにも人間の力では出来んようになったらお地(つち)に呼びかけよ、お地にまつろえよ、お地は親であるから、親の懐(ふところ)に帰りて来いよ、嬉し嬉しの元のキ甦るぞ、百姓から出直せよ。ミロク様とはマコトの天照皇大神様のことでござるぞ、
六月十七日、一二Θ。


ミロク様とはマコトの天照皇大神様のこととあります。一番おさまりが良さそうなのが饒速日尊ですが、日向系ではないので、神武天皇もしくはその子孫の方(日向・出雲両方の血統)のことでしょうか。後日、判明します。



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2018年05月27日

光の巻 第6帖

今に世界の臣民人民誰にもわからんようになりて、上げも下(おろ)しもならんことになりて来て、これは人民の頭や力でやっているのではないのざということハッキリして来るのざぞ。何処の国、どんな人民も、成程(なるほど)ナァと得心のゆくまで揺すぶるのであるぞ。
今度は根本の天の御先祖様の御霊統と、根本のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラΘとユダヤΘと一つになりなされて、末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれ、楽しけれ。
悪い者殺してしもうて善い者ばかりにすれば、善き世が来るとでも思うているのか、肉体いくら殺しても、霊までは、人民の力ではどうにもならんであろうがな。元の霊まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊に改心させず、肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それくらいわかっておろうが、わかりていりながら、ほかに道ないと、仕方ないと手つけずにいるが、悪に魅入られているのぢゃぞ。
悪は改心早いぞ、悪Θも助けなならんぞ、霊から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、魂も身も一つぢゃ、天地(あめつち)ぢゃとくどう知らしてあろうが。どんなよいこと喜ばして読ましても、聞かせても、今の臣民人民なかなか言うこときかんものぢゃぞ。この道に縁(ゆかり)ある者だけで型出せよ、カタでよいのぢゃぞ。天明は神示書かす御役ぢゃぞ。
六月三十日、一二のΘ。


天地の神の霊統が一つに、神道とユダヤ・キリスト教の統合がなされ、輝く光の世になるそうです。

悪の肉体を殺しても、悪の霊は死なない。悪を霊から改心させることが必要だそうです。

型を出せとは、全世界の悪を改心させるのは難しいので、身近なところで、一人でも善の方向に導くことを努力してみよということでしょう。

現実的には難しいことですよね。今、流行りの言葉で言うなら「対話と圧力」でしょうか。(笑)


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2018年05月28日

光の巻 第7帖

アは元のキのΘの子ぞ。ヤとワは渡りて来たΘの子ぞ。㋳㋻は渡りて来るΘの子ざぞ。十の流れ、十二の流れと今にわかる時来るぞ、三ッ巴現われるぞ、メリカ、キリスも、オロシヤも、世界一つに丸めて一つの王で治めるのぢゃぞ、外国人もΘの目からはないのざぞ。今一度戦あるぞ。早う目覚めて、毛嫌い致さず、仲よう御用結構ぞ。
龍宮の乙姫殿、岩の神殿、荒の神殿、世界の片端からいよいよに取りかかりなされているのざから、世界の出来事気つけて、早う改心結構ぞ。Θ(ス)と二(フ)と四(ヨ)との大き戦あると知らしてありたが、いったんは二(フ)と四(ヨ)との天下になるところまで落ち込むぞ、行く所まで行きて、ナの身魂とノの身魂の和合一致出来てから、スの身魂が天下統一、世界一平(いったいら)となるのぢゃぞ。いよいよ大峠、取り上げにかかるのざぞ。
七月の十九日、一二のか三。


アは縄文人、ヤは弥生人、ワは月氏族(または秦氏)でしょうか。ヤが「十の流れ」、ワが「十二の流れ」とすると、弥生人は北イスラエル10支族、月氏族は南北イスラエル12支族の流れということになるでしょうか。㋳と㋻は、朝鮮系と中国系の人ということかもしれません。三ッ巴というのは「勢力がほぼ同等の三者が入り乱れて争うこと」なので、日中韓(南北朝鮮)の争いを暗示しているようです。

アメリカもイギリスもロシアも含めて世界を一つの王で治めるそうです。神から見ればどの国民も子供なので、毛嫌いをやめて、仲良くしたらどうかということです。

今一度、世界大戦があるようです。Θ(ス)と二(フ)と四(ヨ)との大きな戦だそうです。いったんは二(フ)と四(ヨ)との天下になるところまで落ち込むということですが、フは二なので二本の角を持つ「邪鬼」、ヨは四なので四本足の「金毛」のことでしょう。スは日本のことです。

日本は侵略戦争はしないことに決めているので、日本に攻め込んでくる国がフとヨなのでしょうが、国名としては、後で出て来ます。また、日月神示の別の個所には世界中が敵となって攻めてくるという表現もあるので、フとヨは特定の国ではなく、「拝金主義」とか「利己主義」とか、そういう思想が日本に押し寄せて破壊していくという意味にもとれます。そうであれば、まさに今、大戦のさなかにあるといえるかもしれません。

また、フが米国、ヨがヨーロッパと考えれば、ドルとユーロと円の戦いとも取れます。

ナの身魂とノの身魂の和合一致とは、伊邪那岐尊(日向)と伊邪那美尊(出雲)の和合一致のことでしょうか。「夜明けの巻 第4帖」に「この方、カの神と現われるぞ、サの神と現われるぞ、タの神と現われるぞ、ナの神と現われるぞ、ハマの神と現われるぞ。ヤラワの神と現われたら、人民目あけておれんことになるぞ(あメのひつ九のか三)」という記載がありました。





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2018年05月29日

光の巻 第8帖

何によらず不足ありたら、Θの前に来て不足申して、心カラリと晴らされよ、どんなことでも聞くだけは聞いてやるぞ、不足あると曇り出るぞ、曇り出ると、身魂曇るから、身魂苦しくなりて天地曇るから、遠慮いらん、この方に不足申せよ、この方親であるから不足一応は聞いてやるぞ。気晴らしてカラリとなって天地に働けよ、心の富士晴れるぞ、始めの岩戸開けるぞ。
早呑(の)み込み大怪我の元、じっくりと繰り返し繰り返し神示読めよ、神示肚の肚に入れよ、神示が元ざぞ、今度は昔からの苦労のかたまり、生き魂でないと御用難しいぞ。世のたとえ出て来るぞ。Θが人の口使うて言わせてあるのぢゃぞ。Θ国は神力受けねば立ちては行けんぞ、Θなくして神力ないぞ、Θなくなれば丸潰れざぞ。
まわりに動く集団(まどい)早う作れよ。数で決めようとするから数に引かれて悪となるのぞ、数に引かれて困らんよう気つけよ。この神示解くのはタマでないと、少しでも曇りあったら解けんぞ。悪に見せて善行わなならんことあるぞ。この行なかなかざぞ。
この世の鬼平らげるぞよ。鬼なき世となりけるのざぞ、わかりたか。キリストの取次さん、仏の取次さん、今のうちに改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気づかんのか。
同じ名のΘ二つあるぞ。人民三つ四つにも拝んで御座るぞ、文出すもよいなれど、神示読むのが先ざぞ。Θ第一ざぞと申してあろうが。暫し待て、世界の文出す時来るぞ。アワの様な今の文何にもならんぞ、時待てと申してあろうがな、この巻から謄写もならんぞ、時来るまで写して皆に分け取らせよ。
七月の二十七日、ひつ九のか三。三年の立て替えぞ。


「世のたとえ出て来るぞ。Θが人の口使うて言わせてあるのぢゃぞ。」
人の言動の中に「世のたとえ」が出て来るようです。世界の動きを見ていると、自国第一主義が蔓延しているようです。これが、「世のたとえ」なのでしょうか。

「Θ国は神力受けねば立ちては行けんぞ、Θなくして神力ないぞ、Θなくなれば丸潰れざぞ。」
日本には、正神の力が絶対に必要で、神心を持つ民の存在が重要だということです。

「数で決めようとするから数に引かれて悪となるのぞ、数に引かれて困らんよう気つけよ。」
民主主義では多数決が原則ですから、政治的に重要な決定は数をもとになされますが、数に頼り過ぎるとそれ故に「悪」と見做されることもあります。やはり、少数意見の人にも丁寧に説明して理解を得るという努力が必要ということでしょう。また、皆が正しい判断ができるような環境の構築も必要と思われます。

「悪に見せて善行わなならんことあるぞ。この行なかなかざぞ。」
時には、一見「悪」と見えるようなことで「善」を行う必要もあるようです。

「この世の鬼平らげるぞよ。鬼なき世となりけるのざぞ、わかりたか。」
鬼とは「我れ善し」の心のことでしょう。この世の殆ど全てが「我れ善し」で動いています。

「キリストの取次さん、仏の取次さん、今のうちに改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気づかんのか。」
キリスト教も仏教も、もとは正しいものを、人間がねじ曲げて伝えていることを理解し、改心しないと世界丸潰れの時、道を誤るぞということでしょう。

「同じ名のΘ二つあるぞ。人民三つ四つにも拝んで御座るぞ」
同じ名前の善神と悪神と思われます。今の人々は、それを3つにも4つにも取り違えて拝んでいるということでしょう。

「暫し待て、世界の文出す時来るぞ。アワの様な今の文何にもならんぞ、時待てと申してあろうがな」
時が来たら、日月神示と同様の文が世界に示されるということでしょう。

「三年の立て替えぞ。」
戌年、亥年、子の年の3年と思われます。


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2018年05月30日

まつりの巻 第1帖

五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採(と)る気ぢゃ。今までの教ではこの道わからんぞ、ますます食う物なく曇りてくるぞ、その国その所々で当分暮し向き出来るぞ。野見よ、森見よと申してあろう、青山も泣き枯る時来ると申してあろう、海川も泣き枯る時来るぞ、まだ気づかず我さえよけらよいと、我れ善しして御座る人民、神々様、気の毒来るぞ、今まではΘも仏も同じぞと申していたが、Θと仏とは違うのざぞ、十(かみ)の動くが卍(ほとけ)ぞ、卍の動くが渦右巻き.jpgぞ、渦右巻き.jpgの澄みきりがΘぞ、Θと仏と臣民とは違うのぢゃぞ。
八月八日、一二Θ。


古来、日本で花といえば、奈良時代は梅、平安時代以降は桜となります。奈良時代に梅であったのは、当時の先進文化であった仏教およびその中心の中国の影響があったからでしょう。平安時代に入り、西行法師の「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」の歌や「左近の桜、右近の橘」にも見られるように桜が国花となりました。現在のソメイヨシノは「江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された」とありますので、当時の桜は山桜(ヤマザクラ)であったと思われます。日月神示では「木之花咲耶姫」の象徴として、桜花をあてているようです。「五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採る気ぢゃ」というのは、神道、仏教のどちらを選ぶのかということに聞こえます。

十(かみ)が右回りに動いて卍(ほとけ)となり、卍がさらに動いて渦右巻き.jpg(渦)となります。そして、澄みきり渡った姿がΘ(神)となるのだそうです。言い換えれば、十は人、卍は霊、Θが神となります。だから、「Θと仏と臣民とは違うのぢゃぞ」ということでしょう。

前にも触れたかもしれませんが、東京オリンピックの折り寺院の記号卍がナチスのマークに似ているので変更したいみたいな話がありました。これはどちらも十字の一種であり、それを言うなら、キリスト教会の十も変更する必要があります。「旭日旗」もそうですが、もっと、歴史や文化を勉強し、ましな議論をして欲しいものです。


2018年05月31日

まつりの巻 第2帖

これまでは「いろは」でありたが、いよいよ「一二三」(ひふみ)の力加わるぞ、「いろは」はやさしいが「一二三」は荒いから、荒事(あらごと)もするから、その覚悟致されよ、その覚悟よいか、汚い心捨てていると、小さい心大きくなりて自分でもびっくりするよう、結構が来るぞ。警察いらんと申してあるぞ。
八月九日、一二Θ


これは、前帖に引き続き、仏教と神道のことを言っているのだと思います。つまり、「いろは」は仏教であり、「仏の名を唱えていれば誰でも救われる」という優しい教えであるが、「一二三」は神道であり、天変地異を含め、荒事をもって警告したり警鐘を鳴らしたりするので、「改心」することが必要であるぞということだと思われます。「改心」すれば、警察も不要な、びっくりするような平和な社会が訪れるということでしょう。


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