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2018年06月25日

梅の巻 第4帖

この神示食い物にしようとて出て来る者だんだんあるなれど、皆当て外れてしまうぞ、当て外れてΘの目的成るぞ、役員殿不調法(ぶちょうほう)ないように気つけてくれよ、まつり結構、Θが預けてあるものは、預かった人民よきに取りはからえよ、大き小さいの区別ないぞ、塵一本でもΘのものざと申してあろうが、塵一本動かすに、いちいちΘの心聞いてやっているとは言わさんぞ、預けるには預けるだけの因縁あるのざぞ、預かった人民よきにせよ、奥山何処に移ってもよいと申してあろうがな、Θの道弥栄。
十月十三日、ひつ九のか三。


ちょっと、支離滅裂な文章に見えますが、その意を解いてみたいと思います。

まず、「この神示食い物にしようとて出て来る者だんだんあるなれど」⇒「皆当て外れてしまうぞ」⇒「当て外れてΘの目的成るぞ」ですが、これは「神示食い物にできない」⇒「神の目的成る」となります。要するに他の宗教のように神示を利用して利益を得たり、食い扶持を得るための手段だけにはさせないぞという意味でしょう。

次に、「神が預けてあるものは、預かった人民よきに取りはからえよ」⇒「大き小さいの区別ないぞ、塵一本でも神のものざ」⇒「塵一本動かすに、いちいち神の心聞いてやっているとは言わさんぞ」⇒「預けるには預けるだけの因縁あるのざぞ、預かった人民よきにせよ」です。これは、神示の取次が「神の心聞いて」預けたものとは言わせないぞ。神が人民に預けているのだぞ、商売にするなよということでしょう。

最後の「奥山何処に移ってもよいと申してあろうがな」というのも、これまでは「世の元の真清水湧きに湧くところ、やがて奥山遷さなならんぞ」(まつりの巻 第6帖)などのようにある程度の指定があったように思われます。「富士と鳴門の仕組」では、富士の奥山は帯那山、海の奥山は印旛沼、穢土の奥山は岡本天明氏となっています。従って、この帖の「奥山」は「岡本天明氏」その人のことと考えられます。即ち、岡本天明氏の居場所は何処でも良いけど、「世の元の真清水湧きに湧くところ」なのでしょう。岐阜へ移住し大病を患ったそうなので、この辺に理由があるのかもしれません。最終的には伊勢の至恩郷に移られたようです。


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2018年06月24日

梅の巻 第3帖

皆の者御苦労ぞ。「世界の民の会」つくれよ、人民拝み合うのざぞ。皆にまつろえと申してあろうがな。集団つくれつくれ、皆拝み合うのざぞ、集団のしるしはΘぞ、拝み合うだけの集団でよいぞ。理屈悪ざぞ、こんなこと言わんでもわかっておろうが、神示読めよ。
十月八日、ひつ九のか三しるす。


印がΘで、拝み合うだけの集団を作れということです。「世界の民の会」だそうです。何をバカなとおっしゃる方もいると思いますが、人の基本は「挨拶」と「感謝」です。そんな簡単なことさえ出来ない人も多くいます。まさに「言わんでもわかっておろうが」です。



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2018年06月23日

梅の巻 第2帖

替え身魂いくらでもつくりあるぞ、心して取り違いせんようにΘの心早う汲みとれよ、この方の仕組、人民にはわからんから、どうなることかと役員も心配なさるなれど、仕上げりゅうりゅう見て下され、めったに間違いないのぢゃぞ。
うまい口に乗るでないぞ、うまい口を今に待(持)って来るが、うまい口に乗るでないぞ、うまい口にはマコトないから、この方三千世界の御道はマコトよりないと申してあろうが、真実(まこと)のマコトは神示読まねばわからんのぢゃぞ。
ひつくの民の家には御神名か御神石か、御神体として、代表の大神様として天(あめ)の日月の大神様、地(くに)の日月の大神様と唱え斎(いつ)き祀り結構致しくれよ、一の宮、二の宮などの祀り天明に知らしてあるぞ。道院殿、老祖様は中の宮に、他は道院のΘΘ様として次の宮に結構祀りてよいぞ、いずれも弥栄弥栄ぞ。
九月二十八日、ひつ九のΘ。


「心して取り違いせんようにΘの心早う汲みとれよ」
神の心を、取り違えないように早く読み取れということです。

「うまい口に乗るでないぞ」
特に日本人は気を付けた方が良い所かもしれませんね。良い意味でも、悪い意味でも、お人好しですから。自分だけ助かれば良いとか、自分だけ良くなるという話は「うまい口」ですから、気を付けましょう。

「道院殿、老祖様は中の宮に、他は道院のΘΘ様として次の宮に結構祀りてよいぞ」
珍しい表現ですね。「紅卍字会」のことでも言っているのでしょうか。だとすれば、「老子、孔子、釈迦、マホメット、キリスト」のことになります。


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2018年06月22日

梅の巻 第1帖

今度の立て替えは敵と手握らねばならんのぢゃ、敵役のΘΘ様、人民よ、早う尋ねて御座れよ、この方待ちに待ちているぞ。引っ張ったのでは、心からでないと役に立たんのぢゃぞ、この神示十三の巻からは、肚の中の奥まで見抜かんでは、見届けんでは、見せて下さるなよ、今にいろいろと身魂集まって来るから、十二の巻も申し付けあるようにちゃんとしておいて下されよ。御剣(みつるぎ)の大神、黄金(こがね)の大神、白銀(しろがね)の大神と唱えまつれ結構結構ぞ、結構致しまつりくれよ、大蛇(オロチ)、九尾(きゅうび)、邪鬼(ジャキ)、の三大将殿の御力まつりて、弥栄よくよきに動くぞ、ひらけ輝くぞ、光の御代となるぞ。
九月二十八日、ひつ九のΘ


大蛇、九尾、邪鬼の三大将の改心を待って、手を握り、今度の立て替えを行うようです。悪の三大将(善い悪いは別として)は、大本教によりますと、どうやら、ロシア、欧州(インド・ヨーロッパ語族)、ユダヤのことのようです。光の巻 第7帖には「Θ(ス)と二(フ)と四(ヨ)との大きな戦あると知らしてありたが」とありますが、どうやら太平洋戦争のことのようです。ただこの神示は太平洋戦争終了後に降ろされているので、将来の話(同じことを二度繰り返す仕組)を指しているのでしょうか。正直言って謎ですね。あるいは、前にも述べた通り、ドル、ユーロ、円の戦いかもしれません。

文脈を素直に読むと、

大蛇(オロチ) 八 = 御剣(みつるぎ)の大神
九尾(きゅうび)四 = 黄金(こがね)の大神
邪鬼(ジャキ) 二 = 白銀(しろがね)の大神

ということになりそうです。

ご参考までに、中矢伸一氏著「日月神示 完全ガイド&ナビゲーション」の一節をご紹介いたします。

これら三種の悪魔ー「邪鬼」「大蛇」「金毛」ーについては、出口王仁三郎の著した代表的神典『霊界物語』
の中に、次のように出てくる。

「露国(ロシア)のあたりに天地の邪気が凝り固まって悪霊が発生した。これが即ち素戔嗚命の言向(ことむけ)やわされた、かのみにくい形の八頭八尾の大蛇の姿をしていたのである。この八頭八尾の大蛇の霊がみたまを分けて、国々の国魂神および番頭神なる八王八頭(やつおうやつがしら)の身魂をおかし、次第に神界を悪化させるように努力しながら、現在に至ったのである。
しかるに一方インドにおいては、極陰性の邪気が凝り固まって、金毛九尾白面(きんもうきゅうびしらおもて)の悪狐(あくこ)が発生した。この霊はおのおのまた霊を分けて、国々の八王八頭の相手方の女の身魂にのりうつった。
しかしてまた一つの邪気が凝り固まって鬼の姿をして発生したのは、ユダヤの土地であった。この邪鬼は、すべての神界ならびに現界の組織を打ち壊して、自分が盟主となって全世界を妖魅界(ようみかい)にしようともくろみている。・・・この悪霊の三つどもえの働きによって、諸国の国魂の神の統制力はなくなり、地上の世界は憤怒と憎悪と、嫉妬と、羨望と闘争などの諸罪悪にみちみちて、ついに収拾すべからざる三界の紛乱状態をかもしたのである」(大正十年十月二十日、『霊界物語』第1巻)
とあります。

続いて
さらに、これら三体の悪魔に加えて、「二大悪神」の正体とその活動についても、明確にしておく必要がある。
『霊界物語』によると、二大悪神とは、盤古大神(ばんこだいじん)とその系統の神々、および大自在天神(だいじざいてんじん)とその系統の神々のことである。盤古大神というのは、天則に違反して太陽神界から中国の北方に天降った神であるが、本来悪神ではなかった。しかし悪魔(八岐大蛇及び金毛九尾)に利用され、悪の働きをするようになり、国常立大神の神政を破壊せんとする悪神の総大将となったのである。
国常立大神の御隠退後、地球神界の主宰神となる盤古大神の神政は、「体主霊従(物質主体、自己中心)」主義である。
もう一つの悪神である大自在天神は、天王星から北米大陸に降臨した豪勇無双の神であるとされており、この神も本来は悪神ではなかったのだが、悪魔(邪鬼)に憑依されて、国常立大神に反抗することになる。この神の主義というのは、「力主霊従(強い者勝ち、弱肉強食)」である。
なお、国常立大神を始めとする正神系の神々の神政は、「霊主体従」主義である。
これら二大悪神と三大悪魔を中心に、邪悪なる勢力が台頭するにつれ、国常立大神の厳しい神政に対して不満を訴えるものが多くなり、ついには国常立大神を悪神なりとして罪を押し付け、隠退を強行に迫るに至った。
とあります。

悪か善かは別として、確かに歴史的事実にも符合しているようです。


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2018年06月21日

まつりの巻 第23帖

悪が善に立ち返りて弥栄なるように、取り違えなきよう祀りくれよ、御用大切ぞ。
八月三十一日、一二Θ

これは、前帖の補完のための神示ですね。八岐大蛇他の悪神に対し、「悪が善に立ち返りて弥栄なるよう」祈り、祀ってくださいということです。


2018年06月20日

まつりの巻 第22帖

「八岐大蛇」(ヤマタのオロチ)を始め、悪のΘΘ様祀りくれよ、心して結構に祀り始め下されよ。このこと役員のみ心得よ、岩戸開く一つの鍵ざぞ、この巻、まつりの巻。
八月三十日、一二Θ


八岐大蛇は、直接的にはロシアのことを指しているようですが、広義には「ローマ帝国」のことかもしれません。ただ、この「八岐大蛇」の他に、「邪鬼」と「四つ足」などの悪の神々がいるわけで、後で出て来ますが、「四つ足」(金毛)がヨーロッパのこととも解釈できます。いずれにしても、これらの悪神に「岩戸を開く一つの鍵」があるそうです。「悪」を祀りやわすことで、大難を小難に祀り替えることが出来るのでしょう。

2018年06月19日

まつりの巻 第21帖

立て替えが十年延びたと知らしてあろうが、立て替え遅くなりて、それから立て直しにかかりたのでは人民丸潰れとなるから、立て直し早う早うかかるからと聞かしてあろうが、人民にはなかなかわからんなれど、世界の動きよく見て御用結構ぞ。世の立て替えは水の守護、火の守護と知らしてあること忘れずに神示読めよ、所々の氏神様は日本の内で御用なさるのぢゃ。どんな集団も神示元ぢゃ、神示で開かなならんぞ、智や学も要るなれど、智や学では開けんぞ、マコトで開いて下されよ。
八月三十日、一二Θ


立て替えは延びに延びて70年以上経ちました。世界の動きを見ていると、そろそろ時節が到来しているようです。世界の人々が改心し、悪から善に変わることで力が生まれます。そのためには、まず、日本人がその「型」を示していくことが必要なのでしょう。


2018年06月18日

まつりの巻 第20帖

ΘΘ様の大前に申し上げます。この度の岩戸開きの御神業に、なお一層の御活動(おはたらき)願い上げます。大神様の大御心と御心併せなされ、いと高き神の能(はたらき)願い上げます。世界の民等が日々(にちにち)犯しました罪、穢れ、過ちは、何卒神直日大直日に見直し聞直し下さいまして、この上ながらの御守護願い上げます。これは神々様への誓であるぞ。
八月二十九日、一二Θ。

まつりの巻 第3帖
旧九月八日からの誓いの言葉知らすぞ。
御三体の大神様、御三体の大神様、天の日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、地(くに)の日月の大神様、世の元からの生神様、百々(もも)の神様の大前に、日々(にちにち)弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業(ごしんぎょう)、いやが上にも千万弥栄の御働き、祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民、一時(ひととき)も早く改心致し、大神様の御心に添い奉り、地(くに)の日月の神と成りなりて、全(まった)き務め果たしまするよう、何卒御守護願い上げます。そがため、この身この霊(たま)は、如何(いか)様にでもお使い下さいませ、何卒三千世界の神々様、臣民人民が、知らず知らずに犯しました罪、穢れや過(あやま)ちは、神直日(かむなおひ)大直日に見直し聞き直し下さいますよう、特にお願い申し上げます。元津神えみため、えみため。

比較してみますと、まつりの巻第3帖の誓いの言葉は、大神様への誓いであって、この帖の誓いは、神々様へ大神様と心を合わせて「岩戸開きの御神業」をして頂くためのお願いのようです。そのため「そがため、この身この霊(たま)は、如何(いか)様にでもお使い下さいませ」という言葉が脱落しているようです。


2018年06月17日

まつりの巻 第19帖

龍宮の乙姫様が神力天晴れぞ、金神殿お手伝い。外国では日の出の神様。神界、幽界、現界、見定めて神示読まねば、表面(うわつら)ばかりでは何もならんのざぞ、気つけて結構ぞ。Θがもの申すうちに聞くものぢゃ、帳面切ったら申さんぞ。悪と学は長うは続かんこと、そろそろわかりて来るぞ。
八月二十九日、一二Θ


現界のことであれば、戦後引き揚げ事業の実施、およびフィリピン、インドネシアなどの独立運動のことでしょうか。どうやら、神界、幽界での出来事のようです。


2018年06月16日

まつりの巻 第18帖

何(ど)の身魂も我の強い身魂ばかり、よく集まったものぢゃと思うであろが、その我の強い者がお互いに我を折りて、融け合って物事成就するのぢゃぞ。旧九月八日までにスックリと祀りかえてくれよ。真中に御三体の大神様、御三体の大神様、天(あめ)の日月の大神々様、地(くに)の日月の大神々様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、弥栄祀り結構ぞ、その左に万霊(よろずたま)の神様、世の元からの生神様、百々の神様、産土様、よきに祀り、結構致し、祀り始めくれよ、その右に地(くに)の日月の神々様、霊(たま)の諸々の神様、篤く祀り結構ぞ。
八月二十九日、一二Θ


我の強い身魂がお互いに我を折って溶け合うということが、「悪から善への動き」と同じで大事なことです。

真中 御三体の大神(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神)
   御三体の大神(伊邪那岐神、伊邪那美神、撞賢木向津媛神)
   天の日月の大神々、地の日月の大神々、雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神

左  万霊の神、世の元からの生神、百々の神、産土神

右  地の日月の神々、霊の諸々の神

注意すべきは、天の日月と地の日月には「大神々」様がありますが、地の日月の「神々」様だけで、天の日月の「神々」様が無いことでしょうか。それから、「木の神」「金の神」(および「火の神」「日の出の神」「竜宮の乙姫神」)はどうも「天の日月の大神々」または「地の日月の大神々」に含まれるようだということでしょう。


2018年06月15日

まつりの巻 第17帖

集団(まどい)のアは神示ぢゃ、ヤとワとは左と右ぢゃ、教左と教右じゃ、㋳と㋻はその補(たすけ)ぢゃ、教左補、教右補ぢゃ、ヤの補は㋻ぢゃ、ワの補は㋳ぢゃ、ア、ヤ、ワ、㋳、㋻、が元ぢゃ、その下に七人と七人ぢゃ、正と副ぢゃ、その下に四十九人ぢゃ、わかりたか、集団弥栄々々。イシイ、ショウダ、カサイ、タケウチ、ご苦労ぞ。イシカミ、イシモト、イトウ、カジワラ、カンベ、ミエダ、ツヅキ、ご苦労。オダ、カドタ、カワムラ、タカタ、サトウ、カツ、カトク、ササキ、ご苦労。アラキ、オオツマ、イソベ、マスナガ、ニカ、ハヤシ、アサカワ、スドウ、カキザキ、キムラ、コマツバラ、アイダ、カイ、ナカジマ、イノ、カネシゲ、カザマ、カワダ、サイトウ、サイ、タカギ、ヤノ、ニシザワ、オガワ、カシマ、ハギワラ、イシイ奥、ショウダ奥、オダ奥、天明奥、かねて併せて四十九、九の柱ぞ。残る神示、天明よきにせよ。皆御苦労ながら、次の御用手引き合って、天晴れやりて下されよ、集団つくってよいぞ。強く踏み出せよ、くどいようなれど元はそのままぢゃぞ。今度の御用は一つの分かれの御用ぢゃぞ、神示よく読むのぢゃぞ、身魂の性来(しょうらい)だんだんわかりて来るぞ、万民御霊祀りの御用からかかりてくれよ、顕(うつ)し世のそれの御用、結構ひらけ輝くぞ。
八月二十八日、一二Θ


5⇒7(4+3)⇒7⇒49です。49柱が勢揃いです(岡本天明氏の奥方も入っていますね)。
夜明けの巻頃までは、5⇒3⇒7⇒49でしたので、4柱増えているようです。この4柱と5柱で、合計「
九の柱ぞ」ということでしょうか(3と7は十柱です)。

今度の御用は一つの分かれの御用というのは、身魂の性来によって、八つ(Θ国は別に七つ)に分かれて行くということでしょう。


2018年06月14日

まつりの巻 第16帖

日本の人民よくならねば、世界の人民よくならんぞ、日本の上の人よくならねば日本人よくならんぞ。祈る土地八つつくれよ。専一(せんいつ)、平和祈らなならんぞ、そのくらいわかりておろうが。今ぢゃ口ばかりぢゃ、口ばかり何もならんぞ、マコト祈らなならんぞ。真中の国、真中に、膝まずいて祈り事されよ。今度のお蔭は神示よく読まねば見当取れんのざぞ。Θはその人民の心通りに写るのであるから、因縁深い者でも御用出来んこともあるから、よほどしっかり致しておりて下されよ。
八月二十日、一二Θ


日本の上の人が良くなり、日本人が良くなれば、世界の人民も良くなるそうです。祈る土地八つとは、日本とは別に七つ、合計八つということでしょう。とにかく平和を祈りなさいということです。今は、口ばかりだそうです。真中の国、真中に、膝まずいて、マコト祈らなければならないそうです。


2018年06月13日

まつりの巻 第15帖

旧九月八日からの当分の礼拝の仕方書き知らすぞ。
大神様には、まず神前に向かって静座し、しばし目つむり、気静め、一揖(ゆう)、一拝二拝八拍手、数歌三回、終わりて「ひふみ」三回宣(の)りあげ、天(あめ)の日月の大神様、弥(や)栄ましませ、弥(いや)栄ましませ、地(くに)の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませと宣りあげ、終わって「誓いの言葉」誓えよ。終わりてΘのキ頂けよ、三回でよいぞ、終わりて八拍手、一拝、二拝、一揖せよ、次に神々様には、一揖、二拝、四拍手、数歌三回宣りて、百々諸々(もももろもろ)の神様、弥栄ましませ弥栄ましませ、と宣りあげ、終わりて「誓いの言葉」誓えよ。終わりて四拍手し、一拝、一揖せよ。霊の宮には、一揖、一拝、二拍手、数歌一回、弥栄ましませ弥栄ましませと宣り、二拍手、一拝、一揖せよ、各(おの)も各もの御霊様には後で「ミタマ祝詞」するもよいぞ。
八月二十日、一二Θ


一揖(ゆう)とは、両手を胸の前で組み合わせて軽くおじぎをすることです。

大神様に対し
@神前に向かって静座、しばし目つむり、気静め、一揖
A一拝、二拝、八拍手、数歌三回
B「ひふみ」三回
C「天の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませ、地の日月の大神様、弥栄ましませ、弥栄ましませ」
D「誓いの言葉」
E神のキ頂く三回
F八拍手、一拝、二拝、一揖

神々様に対し
@一揖、二拝、四拍手、数歌三回
A「百々諸々(もももろもろ)の神様、弥栄ましませ弥栄ましませ」
B「誓いの言葉」
C四拍手し、一拝、一揖

霊の宮に対し
@一揖、一拝、二拍手、数歌一回
A「弥栄ましませ弥栄ましませ」
B二拍手、一拝、一揖

各も各もの御霊様に対し
「ミタマ祝詞」



「数 歌」 一二三四五六七八九十百千万(ひとふたみよいつむゆななやここのたりももちよろづ)

「ひふみ」 ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ

「誓いの言葉」 御三体の大神様、御三体の大神様、天の日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、地(くに)の日月の大神様、世の元からの生神様、百々(もも)の神様の大前に、日々(にちにち)弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業(ごしんぎょう)、いやが上にも千万弥栄の御働き、祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民、一時(ひととき)も早く改心致し、大神様の御心に添い奉り、地(くに)の日月の神と成りなりて、全(まった)き務め果たしまするよう、何卒御守護願い上げます。そがため、この身この霊(たま)は、如何(いか)様にでもお使い下さいませ、何卒三千世界の神々様、臣民人民が、知らず知らずに犯しました罪、穢れや過(あやま)ちは、神直日(かむなおひ)大直日に見直し聞き直し下さいますよう、特にお願い申し上げます。元津神えみため、えみため。

(まつりの巻 第3帖)

「ミタマ祝詞」 
此れのみたまやに神鎮まり坐す。とおつみおやのかみ、代々のおや神達のみまえ、またうからやからのみたまの御前に謹みいやまいもまおす。此れのうちには諸々のまがごと、つみけがれあらしめず、夜の護り、日の守りに守りさきはひ給ひ、まことかみくにのみ民としてのつとめを全うせしめ給へ、夜の護り日の守りに守り、捧ぐるもののたえま無く、うみのこの弥栄継ぎにさかえしめ給へと畏み畏みもまおす、かむながらたまち幸はへませ、かむながらたまち幸はへませ。

(水の巻 第3帖)

2018年06月12日

まつりの巻 第14帖

旧九月八日から、祀り、礼拝、スックリ変えさすぞ、Θ代までにはまだまだ変わるのぢゃぞ。祓いは祓い清めのΘ様にお願いして、北、東、南、西の順に拍手四つずつ打ちて祓い下されよ。Θ国の乱れ、声、キから。世界の戦、天災、皆人民の心からなり。人民一人に一柱ずつの守護神つけあるぞ、日本真中、ボタン一つで世界動くぞ。
八月十九日、一二Θ


この文章を読むと、「日本の人民一人に一柱ずつの守護神つけてあるぞ。日本は真中、世界の戦争、天災も含め、良いことも悪いことも全ては日本人の心構え一つであるぞ」と解釈できそうです。


2018年06月11日

まつりの巻 第13帖

地(くに)の火水(ひみつ)、地の日月の大神、黒住殿、天理殿、金光殿、大本殿、祀りくれよ、併せて七Θ、山に祀り結構致しくれよ。
八月十八日、一二Θ


「併せて七Θ、山に祀り結構致しくれよ。」については「併せて神山にまつり結構致しくれよ。」と書かれているものが多いようです。ここでは、本稿の趣旨から、「七神」の意味を敢えて解釈してみます。


黒住教 天照大御神(あまてらすおおみかみ)、八百萬神(やおよろずのかみ)、教祖宗忠神(きょうそむねただがみ)(以上、黒住教大阪大教会所HPによる)
天理教 天理王命(てんりおうのみこと)
金光教 天地金乃神(てんちかねのかみ)、生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)
大本教 大天主太神(おおもとすめおおみかみ)

以上、七神でしょうか。ちょっと、こじつけがましいですね。(笑)

または、単純に、地(火水)、日、月、黒住、天理、金光、大本の七神なのかもしれません。

地が「ひみつ」(火水)とフリガナが入っているのも、何か「秘密」めいています。


2018年06月10日

まつりの巻 第12帖

肉体あるうちに身魂構うてもらわねば、今度身魂磨けて来たら末代のこと、末代結構ざから、それだけに大層ざから、お互いに手引き合って、磨き合って御用結構ぞ、分け隔てならんぞ、わからん者はチョンに致すぞ。元のキのことは、元のキの血筋でないとわからんのぢゃ、わかる者はわからなならんぞ、わからん者はわからんのがよいのぢゃぞ。何事も人民にわかりかけ致さな、物事遅れるぞ、十年遅れると申してあるが、遅れるとますます苦しくなるから、遅れんよう結構したいなれど、大層な肝腎要(かなめ)はΘΘ様にも申されんことであるが、言わぬうちにわかってもらわねば、知らしてからでは十人並みぢゃ、それではΘの元のコトは申されんぞ、元の身魂に輝くぞ。
八月十七日、一二Θ


肉体のある時にしか身魂磨きは難しいそうです。今度の御用は永久的なものなので、皆で分け隔てなく仲良く手を取り合ってお勤めを果たしてくださいということです。人々が分からないと10年遅れるそうです(既に70年経っておりますが)。遅れれば遅れるほど、苦しいことになるそうです。分かる人だけ分かれば良いそうです。神が知らせる前に分かっていないとダメだそうです。


2018年06月09日

まつりの巻 第11帖

村々に一粒二粒ずつ因縁身魂落としてあるぞ、芽生えて来るぞ。日々天地に、臣民お詫び結構ぞ、地(つち)拝(おろが)めよ。Θ国の臣民はΘ国の行、霊国は霊国の行。
八月十六日、一二Θ


昭和21年時点で、日本の各村々に「因縁」の身魂が落としてあるそうです。今は、皆さん70才以上になられているようです。確かに、この世代の方が今の日本を形作ってこられました。昭和の終わり頃まで、日本は紆余曲折はありつつも平和で他人に優しい時代があったように思われます。平成に入り、バブル発生・崩壊の頃からおかしくなって来たように思います。ただ、痩せても枯れても日本です。次の世代にも、その次の世代にも、きっと新たな「種」はまかれているでしょう。日本人が日本の心を忘れない限り、また日は昇ると思われます。



2018年06月08日

まつりの巻 第10帖

日本の人民の身魂が九分九分九厘まで悪になりているから、外国を日本の地に致さねばならんから、日本の地には置かれんから、どんなことあってもΘはもう知らんぞよ。
八月十六日、一二Θ


今のままでは、日本人は国外追放のようです。でも、ご安心ください。日月神示の神は悪が可愛いそうです。悪が改心することで弥栄します。まだ、チャンスはあります。


2018年06月07日

まつりの巻 第9帖

上は上、中は中、下は下の道と定まっているのぢゃ、まぜこぜならん、ちゃんと礼儀作法正しく致さなΘの光出ないぞ。世に落ちていた鏡、世に出るぞ。
八月十六日、一二Θ


神の世は、競争社会ではありません。職業も生まれながらに決まっています。身分も上中下三段に分かれるようです。但し、今の世の上中下ではありません。お百姓さんが上かもしれません。血統というか霊統と身魂磨きの程度で決定されるようです。

「世に落ちていた鏡」とは、本当の天照大神が世に出るということでしょう。また、別の言葉で言えば、十種神宝「沖津鏡」と「辺津鏡」が象徴する正しい天照大神「饒速日尊」の復権ということでしょう。沖ノ島等の世界遺産登録もその手始めといえるかもしれません。



2018年06月06日

本ブログについて

最近、イエス・キリストが日月神示の神だとお考えの方から、頻繁にコメントの書き込みがあり迷惑しています。いちいち対応するのも大変なので、ここで、私のブログに対する考え方を明らかにさせて頂きたいと思います。

本ブログは、難解な日月神示につき、日月神示の神がルシファー(悪魔)だとかといった誤った偏見をお持ちの方がいらっしゃることを憂い、日月神示の読み方のご参考になればと思い、逐条解説風に私の考えを述べたものです。解釈の仕方は、人それぞれ。身魂磨きの程度に応じて、受け取り方も変わって来るでしょう。

私は、それで良いと思います。日月神示は皆で話し合って決めるものではありません。まして、自分の考えを他人に押し付けるものでもありません。

私は、「ひふみ」自体にも絶対性は感じていません。日月神示は漢数字や記号などで書かれたもので、それを解釈したのは人間です。もとになる文章さえ、正しいものかどうかさえ分からないのです。ただ、全てが捏造かといえばそうでもありません。全体を流れる思想には一貫性があります。

その与えられた資料をもとに、前後の関係や、ご神名、歴史などから、総合的に判断して、なるべく書籍の文章に忠実に、解説させて頂いているつもりです。

真偽のご判断、解釈の仕方、全て読者の皆さんの自由です。日月神示は皆さんの心のものであり、決して、1個人が執着し、固執し、その考え方を他人に押し付けるものではないと考えています。

断定的にああだこうだと言われる方は、日月神示を真に理解されているとは思えません。日月神示は、神しかその真相をご存じでないと考えるからです。

一緒に考えましょうというのは、分からない者同士が知恵を持ち寄って、お互いをけなさず、仲良く読み解いて行きましょうということです。既に、全て分かっているとお考えの方は、このブログに来られる必要はありません。ご自分のブログやYouTubeでご活躍くださいますようお願い申し上げます。


まつりの巻 第8帖

旧九月八日で一切りぢゃ、これで一(はじめ)の御用は済みたぞ、八分通りは落第ぢゃぞ、次の御用改めて致さすから今度は落第せんよう心得なされよ。何もかもΘは見通しざぞ、Θの仕組、人民で遅れんよう気つけて結構致し下されよ。
二(つぎ)の仕組、御用は、集団作りてよいぞ。元はそのままにしておかなならんぞ。天明(岡本天明)まだまだ神示の御用結構ぞ、阿呆(あほう)結構ぞ、利口出ると壊れるぞ。天明ばかりでないぞ、皆同様ぞ、皆利口になったものぢゃなあ、くどうΘに物申さすでないぞ。
八月十五日、一二Θ


昭和21年8月15日ですから、終戦後1年経っています。やっと「九月八日の仕組」が一区切りついたようです。因みに、昭和21年10月2日が旧暦の9月8日です。

御用は、利口になると壊れるそうです。小利口ではなく愚直な生き方をせよということでしょう。


2018年06月05日

まつりの巻 第7帖

金いらんことになると申してあろうが、世界の人民皆青くなって、どうしたらよいかと何処尋ねてもわからんこと近づいたぞ、早うこの神示読ましてくれよ、Θの心が九分通り臣民にわかりたら、Θの政治わかるのぢゃ、与える政治いくらでもあるぞ、一通りと思うなよ、時と所によっていくらでもあるのぢゃ、つまることないΘの政事(まつりごと)ぢゃ。人民の政治、Θ国には用いられんのぢゃぞ、三千世界天晴れの政治早う心得て、まつりくれよ。悪Θの眷属(けんぞく)はまだよいのぢゃぞ、箸にも棒にもかからん、話のわからん動物霊に化かされて、玩具(おもちゃ)にされていて、まだ気づかんのか、Θはいつまでも待たれんから、こんな身魂は一所に集めて灰にするよりほかないから、心得ておりて下されよ。
八月十四日、一二Θ


神の世が来れば、欲しいものが目の前に現れるので、お金は不要になるということでしょう。ただ、時と場所によって、その政治の方法はいくつもあるようです。

悪神やその手下の憑依であればまだなんとかなりますが、動物霊の憑依では手の施しようが無くなるそうです。一か所に集めて灰にされてしまうそうなので気をつけましょう。


2018年06月04日

まつりの巻 第6帖

取られたり、取り返したり、こねまわし、終わりはΘの手に甦る。世の元の真清水湧きに湧くところ、やがて奥山遷さなならんぞ。神示わかる臣民二三分出来たなら、Θいよいよのとどめ刺すなり。三界を貫く道ぞマコトなり、マコトの道は一つなりけり。神界の、マコト隠れし今までの、道はマコトの道でないぞや。鬼、大蛇(おろち)、草木動物虫けらも、一つにえらぐ道ぞマコトぞ。
八月十三日、一二Θ


悪神に取られたり、取り返したり、最終的にはこねまわして正神の手に戻る。「世の元の真清水湧きに湧くところ」に奥山を遷すそうです。日本であれば、富士の「忍野八海」か「柿田川湧水」といった所でしょうか。または、天真名井に着目すれば九州の「高千穂」でしょうか、いずれにしてもキーワードは「真清水湧きに湧くところ」です。

今までのマコトはマコトでないそうです。鬼、大蛇、草木、動物、虫けらでさえも歓喜するマコトの道は一つだそうです。


2018年06月03日

まつりの巻 第5帖

肉体一(はじめ)苦しめたら、今度その守護神にはそれだけの見せしめせなならんことになっているのざぞ。神懸かりでまだ世界のこと何でもわかると思うている人民、気の毒出来るぞ。八百八光の金神殿、いよいよにかかりなされたぞ。出雲の大神様、この世構いなさる大神様なり、その心得ない者、人民ばかりでないぞ、三千世界の迷うミタマに所得さして、嬉し嬉しに祀りてやれよ、コトで慰め弥栄えしめよ、コトまつりてΘの列(つら)に入れしめよ。その国々ぞ、頭(あたま)々で、祀り結構ぞ、祀りくれよ。邪(じゃ)祓うとは、邪無くすることではないぞ、邪を正しく導くことざぞ、追い払うでないぞ、まつろえよ。引き寄せて抱き参らせよ、取り違いならん大切事ぞ、
八月十二日、一二Θ


低級霊の神懸かりは肉体を苦しめることになるのでしょう。低級霊の憑依を許した守護神には罰がくだるぞということでしょう。また、その人自体も残念な結果になるそうです。

八百八光の金神、出雲の大神は、かねの神、龍宮の乙姫と共に、世の立て替えの際にご活躍になると「大本神諭」にもあるようです。

出雲の大神は、須佐鳴大神を始めとする大国主神(大己貴尊)他の出雲・国津神の神々のことでしょう。

コトで慰め弥栄えしめるとは、言葉や行動で出雲の神々を祀りなさいということでしょう。

悪と同様に、邪を物理的に無くすのではなく、邪を引き寄せ、関与して正しく導くことが重要だそうです。


2018年06月02日

まつりの巻 第4帖

世こしらえてから臣民の種植えて、臣民つくったのであるぞ。世、こしらえた神々様は「ながもの」の御姿ぞ、今に生き通しぞ。Θが見て、これならという身魂に磨けたら、Θから直々のΘつけて、天晴れにしてやるから、御用見事仕上げさすぞ、臣民ばかりでは出来ん三千世界の大洗濯、誰一人落しとうもないΘ心、皆揃うてお蔭やりたや、喜ぶ顔見たや、遠い近いの区別なし、皆々我が子ぢゃ、可愛い子ぢゃ、早う親の心汲みとれよ、
八月十一日、一二Θ


世を作った神々は今も生き通しで「ながもの」の姿をされているそうです。この「ながもの」は龍体のことを意味しています。日本列島も2体の龍が上下反対に重なり合った姿とも言われているようです。

2018年06月01日

まつりの巻 第3帖

旧九月八日からの誓いの言葉知らすぞ。
御三体の大神様、御三体の大神様、天の日月の大神様、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、地(くに)の日月の大神様、世の元からの生神様、百々(もも)の神様の大前に、日々(にちにち)弥栄の大息吹、御守護弥栄に御礼申し上げます。この度の三千世界の御神業(ごしんぎょう)、いやが上にも千万弥栄の御働き、祈り上げます。三千世界の神々様、臣民人民、一時(ひととき)も早く改心致し、大神様の御心に添い奉り、地(くに)の日月の神と成りなりて、全(まった)き務め果たしまするよう、何卒御守護願い上げます。そがため、この身この霊(たま)は、如何(いか)様にでもお使い下さいませ、何卒三千世界の神々様、臣民人民が、知らず知らずに犯しました罪、穢れや過(あやま)ちは、神直日(かむなおひ)大直日に見直し聞き直し下さいますよう、特にお願い申し上げます。元津神えみため、えみため。
八月十日、一二Θ


「元津神えみため、えみため。」
本稿では、「十神笑みため」とご説明したことがあると思います。「とおかみえみため」です。ホツマツタエでは「トオカミエヒタメ」となっています。一方、他の古神道には「吐菩加美依身多女」または「吐普加身依身多女」(とおかみえみため)という祓い清め言葉もあります。この「とおかみえみため」は、国之常立大神の8人の子供の名を表しているという説もあります(そういえば牛頭天王=須佐之男命?の子供も八王子でしたね。また、天照大御神と須佐之男命の誓約でも五男三女です。)。また、「遠つ神、恵み賜へ」という伊邪那岐尊の言葉に由来するという話もあります。「えみため」と「エヒタメ」の「み」と「ヒ」の1字の違いですが、「水」(体主霊従)が「火」(霊主体従)に替わったとの説もあります。いずれにしても、日月神示の神は、この「とおかみえみため」または「トオカミエヒタメ」をもじって「えみため」(笑みため、恵み賜へ)と述べられているのだと思います。

なお、日月神示の十神(とおかみ)は雨の神、風の神、岩の神、荒の神、地震の神、木の神、金の神、火の神、日の出の神、龍宮の乙姫のことですので、ご注意ください。





2018年05月31日

まつりの巻 第2帖

これまでは「いろは」でありたが、いよいよ「一二三」(ひふみ)の力加わるぞ、「いろは」はやさしいが「一二三」は荒いから、荒事(あらごと)もするから、その覚悟致されよ、その覚悟よいか、汚い心捨てていると、小さい心大きくなりて自分でもびっくりするよう、結構が来るぞ。警察いらんと申してあるぞ。
八月九日、一二Θ


これは、前帖に引き続き、仏教と神道のことを言っているのだと思います。つまり、「いろは」は仏教であり、「仏の名を唱えていれば誰でも救われる」という優しい教えであるが、「一二三」は神道であり、天変地異を含め、荒事をもって警告したり警鐘を鳴らしたりするので、「改心」することが必要であるぞということだと思われます。「改心」すれば、警察も不要な、びっくりするような平和な社会が訪れるということでしょう。


2018年05月30日

まつりの巻 第1帖

五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採(と)る気ぢゃ。今までの教ではこの道わからんぞ、ますます食う物なく曇りてくるぞ、その国その所々で当分暮し向き出来るぞ。野見よ、森見よと申してあろう、青山も泣き枯る時来ると申してあろう、海川も泣き枯る時来るぞ、まだ気づかず我さえよけらよいと、我れ善しして御座る人民、神々様、気の毒来るぞ、今まではΘも仏も同じぞと申していたが、Θと仏とは違うのざぞ、十(かみ)の動くが卍(ほとけ)ぞ、卍の動くが渦右巻き.jpgぞ、渦右巻き.jpgの澄みきりがΘぞ、Θと仏と臣民とは違うのぢゃぞ。
八月八日、一二Θ。


古来、日本で花といえば、奈良時代は梅、平安時代以降は桜となります。奈良時代に梅であったのは、当時の先進文化であった仏教およびその中心の中国の影響があったからでしょう。平安時代に入り、西行法師の「ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ」の歌や「左近の桜、右近の橘」にも見られるように桜が国花となりました。現在のソメイヨシノは「江戸末期から明治初期に、江戸の染井村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって育成された」とありますので、当時の桜は山桜(ヤマザクラ)であったと思われます。日月神示では「木之花咲耶姫」の象徴として、桜花をあてているようです。「五つに咲いた桜花、五つに咲いた梅の花、どちら採る気ぢゃ」というのは、神道、仏教のどちらを選ぶのかということに聞こえます。

十(かみ)が右回りに動いて卍(ほとけ)となり、卍がさらに動いて渦右巻き.jpg(渦)となります。そして、澄みきり渡った姿がΘ(神)となるのだそうです。言い換えれば、十は人、卍は霊、Θが神となります。だから、「Θと仏と臣民とは違うのぢゃぞ」ということでしょう。

前にも触れたかもしれませんが、東京オリンピックの折り寺院の記号卍がナチスのマークに似ているので変更したいみたいな話がありました。これはどちらも十字の一種であり、それを言うなら、キリスト教会の十も変更する必要があります。「旭日旗」もそうですが、もっと、歴史や文化を勉強し、ましな議論をして欲しいものです。


2018年05月29日

光の巻 第8帖

何によらず不足ありたら、Θの前に来て不足申して、心カラリと晴らされよ、どんなことでも聞くだけは聞いてやるぞ、不足あると曇り出るぞ、曇り出ると、身魂曇るから、身魂苦しくなりて天地曇るから、遠慮いらん、この方に不足申せよ、この方親であるから不足一応は聞いてやるぞ。気晴らしてカラリとなって天地に働けよ、心の富士晴れるぞ、始めの岩戸開けるぞ。
早呑(の)み込み大怪我の元、じっくりと繰り返し繰り返し神示読めよ、神示肚の肚に入れよ、神示が元ざぞ、今度は昔からの苦労のかたまり、生き魂でないと御用難しいぞ。世のたとえ出て来るぞ。Θが人の口使うて言わせてあるのぢゃぞ。Θ国は神力受けねば立ちては行けんぞ、Θなくして神力ないぞ、Θなくなれば丸潰れざぞ。
まわりに動く集団(まどい)早う作れよ。数で決めようとするから数に引かれて悪となるのぞ、数に引かれて困らんよう気つけよ。この神示解くのはタマでないと、少しでも曇りあったら解けんぞ。悪に見せて善行わなならんことあるぞ。この行なかなかざぞ。
この世の鬼平らげるぞよ。鬼なき世となりけるのざぞ、わかりたか。キリストの取次さん、仏の取次さん、今のうちに改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気づかんのか。
同じ名のΘ二つあるぞ。人民三つ四つにも拝んで御座るぞ、文出すもよいなれど、神示読むのが先ざぞ。Θ第一ざぞと申してあろうが。暫し待て、世界の文出す時来るぞ。アワの様な今の文何にもならんぞ、時待てと申してあろうがな、この巻から謄写もならんぞ、時来るまで写して皆に分け取らせよ。
七月の二十七日、ひつ九のか三。三年の立て替えぞ。


「世のたとえ出て来るぞ。Θが人の口使うて言わせてあるのぢゃぞ。」
人の言動の中に「世のたとえ」が出て来るようです。世界の動きを見ていると、自国第一主義が蔓延しているようです。これが、「世のたとえ」なのでしょうか。

「Θ国は神力受けねば立ちては行けんぞ、Θなくして神力ないぞ、Θなくなれば丸潰れざぞ。」
日本には、正神の力が絶対に必要で、神心を持つ民の存在が重要だということです。

「数で決めようとするから数に引かれて悪となるのぞ、数に引かれて困らんよう気つけよ。」
民主主義では多数決が原則ですから、政治的に重要な決定は数をもとになされますが、数に頼り過ぎるとそれ故に「悪」と見做されることもあります。やはり、少数意見の人にも丁寧に説明して理解を得るという努力が必要ということでしょう。また、皆が正しい判断ができるような環境の構築も必要と思われます。

「悪に見せて善行わなならんことあるぞ。この行なかなかざぞ。」
時には、一見「悪」と見えるようなことで「善」を行う必要もあるようです。

「この世の鬼平らげるぞよ。鬼なき世となりけるのざぞ、わかりたか。」
鬼とは「我れ善し」の心のことでしょう。この世の殆ど全てが「我れ善し」で動いています。

「キリストの取次さん、仏の取次さん、今のうちに改心結構ぞ、丸潰れ近づいて御座るに気づかんのか。」
キリスト教も仏教も、もとは正しいものを、人間がねじ曲げて伝えていることを理解し、改心しないと世界丸潰れの時、道を誤るぞということでしょう。

「同じ名のΘ二つあるぞ。人民三つ四つにも拝んで御座るぞ」
同じ名前の善神と悪神と思われます。今の人々は、それを3つにも4つにも取り違えて拝んでいるということでしょう。

「暫し待て、世界の文出す時来るぞ。アワの様な今の文何にもならんぞ、時待てと申してあろうがな」
時が来たら、日月神示と同様の文が世界に示されるということでしょう。

「三年の立て替えぞ。」
戌年、亥年、子の年の3年と思われます。


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2018年05月28日

光の巻 第7帖

アは元のキのΘの子ぞ。ヤとワは渡りて来たΘの子ぞ。㋳㋻は渡りて来るΘの子ざぞ。十の流れ、十二の流れと今にわかる時来るぞ、三ッ巴現われるぞ、メリカ、キリスも、オロシヤも、世界一つに丸めて一つの王で治めるのぢゃぞ、外国人もΘの目からはないのざぞ。今一度戦あるぞ。早う目覚めて、毛嫌い致さず、仲よう御用結構ぞ。
龍宮の乙姫殿、岩の神殿、荒の神殿、世界の片端からいよいよに取りかかりなされているのざから、世界の出来事気つけて、早う改心結構ぞ。Θ(ス)と二(フ)と四(ヨ)との大き戦あると知らしてありたが、いったんは二(フ)と四(ヨ)との天下になるところまで落ち込むぞ、行く所まで行きて、ナの身魂とノの身魂の和合一致出来てから、スの身魂が天下統一、世界一平(いったいら)となるのぢゃぞ。いよいよ大峠、取り上げにかかるのざぞ。
七月の十九日、一二のか三。


アは縄文人、ヤは弥生人、ワは月氏族(または秦氏)でしょうか。ヤが「十の流れ」、ワが「十二の流れ」とすると、弥生人は北イスラエル10支族、月氏族は南北イスラエル12支族の流れということになるでしょうか。㋳と㋻は、朝鮮系と中国系の人ということかもしれません。三ッ巴というのは「勢力がほぼ同等の三者が入り乱れて争うこと」なので、日中韓(南北朝鮮)の争いを暗示しているようです。

アメリカもイギリスもロシアも含めて世界を一つの王で治めるそうです。神から見ればどの国民も子供なので、毛嫌いをやめて、仲良くしたらどうかということです。

今一度、世界大戦があるようです。Θ(ス)と二(フ)と四(ヨ)との大きな戦だそうです。いったんは二(フ)と四(ヨ)との天下になるところまで落ち込むということですが、フは二なので二本の角を持つ「邪鬼」、ヨは四なので四本足の「金毛」のことでしょう。スは日本のことです。

日本は侵略戦争はしないことに決めているので、日本に攻め込んでくる国がフとヨなのでしょうが、国名としては、後で出て来ます。また、日月神示の別の個所には世界中が敵となって攻めてくるという表現もあるので、フとヨは特定の国ではなく、「拝金主義」とか「利己主義」とか、そういう思想が日本に押し寄せて破壊していくという意味にもとれます。そうであれば、まさに今、大戦のさなかにあるといえるかもしれません。

また、フが米国、ヨがヨーロッパと考えれば、ドルとユーロと円の戦いとも取れます。

ナの身魂とノの身魂の和合一致とは、伊邪那岐尊(日向)と伊邪那美尊(出雲)の和合一致のことでしょうか。「夜明けの巻 第4帖」に「この方、カの神と現われるぞ、サの神と現われるぞ、タの神と現われるぞ、ナの神と現われるぞ、ハマの神と現われるぞ。ヤラワの神と現われたら、人民目あけておれんことになるぞ(あメのひつ九のか三)」という記載がありました。





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2018年05月27日

光の巻 第6帖

今に世界の臣民人民誰にもわからんようになりて、上げも下(おろ)しもならんことになりて来て、これは人民の頭や力でやっているのではないのざということハッキリして来るのざぞ。何処の国、どんな人民も、成程(なるほど)ナァと得心のゆくまで揺すぶるのであるぞ。
今度は根本の天の御先祖様の御霊統と、根本のお地(つち)の御先祖様の御霊統とが一つになりなされて、スメラΘとユダヤΘと一つになりなされて、末代動かん光の世と、影ない光の世と致すのぢゃ、今の臣民には見当とれん光の世とするのぢゃ、光りて輝く御代ぞ楽しけれ、楽しけれ。
悪い者殺してしもうて善い者ばかりにすれば、善き世が来るとでも思うているのか、肉体いくら殺しても、霊までは、人民の力ではどうにもならんであろうがな。元の霊まで改心させねば、今度の岩戸開けんのぢゃぞ、元の霊に改心させず、肉体ばかりで、目に見える世界ばかり、理屈でよくしようとて出来はせんぞ、それくらいわかっておろうが、わかりていりながら、ほかに道ないと、仕方ないと手つけずにいるが、悪に魅入られているのぢゃぞ。
悪は改心早いぞ、悪Θも助けなならんぞ、霊から改心させなならんぞ、善も悪も一つぢゃ、魂も身も一つぢゃ、天地(あめつち)ぢゃとくどう知らしてあろうが。どんなよいこと喜ばして読ましても、聞かせても、今の臣民人民なかなか言うこときかんものぢゃぞ。この道に縁(ゆかり)ある者だけで型出せよ、カタでよいのぢゃぞ。天明は神示書かす御役ぢゃぞ。
六月三十日、一二のΘ。


天地の神の霊統が一つに、神道とユダヤ・キリスト教の統合がなされ、輝く光の世になるそうです。

悪の肉体を殺しても、悪の霊は死なない。悪を霊から改心させることが必要だそうです。

型を出せとは、全世界の悪を改心させるのは難しいので、身近なところで、一人でも善の方向に導くことを努力してみよということでしょう。

現実的には難しいことですよね。今、流行りの言葉で言うなら「対話と圧力」でしょうか。(笑)


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2018年05月26日

光の巻 第5帖

病神(やまいがみ)がそこら一面にはびこって、隙(すき)さえあれば人民の肉体に飛び込んでしまう計画であるから、よほど気つけておりて下されよ。大臣(おとど)は火と水と二人でよいぞ、ヤとワと申してあろうが、ヤ、ワ、は火の中の水、水の中の火であるぞ、後はその手伝いぞ、手足ざぞ、役人自ら(おのずから)出来るぞ、役は役であるぞ、今まではΘ国と外国と分れていたが、いよいよ一つにまぜまぜに致して、クルクルかき廻して練り直して、世界一つにして、自ら上下出来て、一つの王で治めるのぢゃぞ。
人民はお土でこねて、Θの息入れてつくったものであるから、もうどうにも人間の力では出来んようになったらお地(つち)に呼びかけよ、お地にまつろえよ、お地は親であるから、親の懐(ふところ)に帰りて来いよ、嬉し嬉しの元のキ甦るぞ、百姓から出直せよ。ミロク様とはマコトの天照皇大神様のことでござるぞ、
六月十七日、一二Θ。


ミロク様とはマコトの天照皇大神様のこととあります。一番おさまりが良さそうなのが饒速日尊ですが、日向系ではないので、神武天皇もしくはその子孫の方(日向・出雲両方の血統)のことでしょうか。後日、判明します。



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2018年05月25日

光の巻 第4帖

祀りてない時はお日様とお月様拝(おろが)めよ、マトとせよ。裁判所(しらす)いらんぞ、牢獄(ろうや)いらんぞ、法律いらんぞ、一家仲ようしたらいらんのぢゃ、国も同様ざぞ。そんなことすれば、世の中メチャメチャぢゃと申すであろうが、悪人が得すると申すであろうが、誰も働かんと申すであろうから、与える政治ダメぢゃと申すであろう、人間の小智恵ぢゃ。そこに人間の算盤(そろばん)の狂うたところ気づかんか、上に立つ人もっともっと大き心結構ぞ、算盤なしで梶(かじ)取らすぞ、Θの申す通りに進むのぢゃ、これが出来ねば一段下がって頭下げてござれ、あまり大き取り違いばかりぢゃぞ、悪の守護となっているからぢゃ、ここの道理わかるまでは動きとれんのぢゃぞ。
世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱現わしてあろうが、これは皆この方の仕組ぢゃから、皆仲良う手引き合ってやってくれよ。
六月十七日、かのととり、火つ九のか三。


人間ひとりひとりが改心して悪を抱きとめ、悪を善に改心させることが唯一の解決方法ということです。悪の守護なので悪を悪とみなし取り締まっていく、という逆説的な見方ですね。悪の環境が悪をつくり、悪をさらに助長していくので、解決策は、悪の環境をなくしていくことに尽きるということでしょう。

世界国々所々に世の大洗濯知らす神柱とは、ユダヤ・キリスト教における「最後の審判・黙示録」、仏教の「末法思想」マヤの予言等々のいわゆる「終末思想」を唱える預言者のことでしょう。


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2018年05月24日

光の巻 第3帖

今の政治は貪(むさぼ)る政治ぞ、Θのやり方は与え放しざぞ、渦右巻き小.jpgぞ、マコトぞ。今のやり方では世はおさまらんぞ、道理ぢゃなあ。天にはいくらでも与えるものあるぞ、地にはいくらでも、どうにでもなる、人民に与えるものあるのざぞ、惜しみなく、隈(くま)なく与えて取らせよ、与えると弥栄えるぞ、弥栄になって元に戻るのぞ、国は富んで来るぞ、神徳満ち満つのぢゃ、この道理わかるであろうがな。取り上げたもの何にもならんのぢゃ、捧げられたものだけがマコトじゃ、乗り物もタダにせよ、田からも家からも税金取るでないぞ、年貢取り立てるでないぞ、何もかもタダぢゃ、日の光見よ、と申してあろうが、(金はいらんと申してあろが、)暮しむきのものもタダで取らせよ、タダで与える方法あるでないか、働かん者食うべからずと申すこと理屈ぢゃ、理屈は悪ぢゃ、悪魔ぢゃ、働かん者にもドシドシ与えて取らせよ、与える方法あるでないか、働かんでも食べさせてやれよ、何もかも与えぱなしぢゃ、そこにΘの政治始まるのぢゃぞ、Θの経済あるのぢゃ。やって見なされ、人民の算盤(そろばん)では木の葉一枚でも割り出せないであろうが、この方の申すようにやって見なされ、お上は幸(さち)で埋もれるのぢゃ、余るほど与えて見なされ、お上も余るのぢゃ、この道理わかりたか。仕事させてくれと申して人民喜んで働くぞ、遊ぶ者なくなるのぞ。
皆々Θの子ぢゃ、Θの魂植えつけてあるのぢゃ、長い目で見てやれ、惜しみなく与えるうちに人民元の姿現れるぞ。貪(むさぼ)ると悪になって来るのぢゃ、今のさま見て改心結構ぞ、算盤捨てよ、人民Θとあがめよ、Θとなるぞ、泥棒と見るキが泥棒つくるのぢゃ、元の元のキの臣民、地(くに)の日月の神ぢゃと申してあろうがな、
六月十七日、かのととりの日、ひつ九ノか三。


私有財産制の否定ですね。縄文時代はまさにこのような社会であったと推定されます。皆が優しく平和な理想世界です。税金も存在しないようです。ただ、人々に少しでも私利私欲があると成り立たない社会でしょう。



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2018年05月23日

光の巻 第2帖

天之日月の大神様は別として、雨の神様、風の神様、岩の神様、荒の神様、地震の神様、釈迦、キリスト、マホメット様、百々の神様、皆同じ所に御神体集めてマツリゴトされよ、天の奥山、地の奥山、皆同じぞ、御土(おつち)皆に分け取らせよ。
二月二十六日朝しるすぞ、ひつ九ノか三。



日月神示では、釈迦、キリスト、マホメット、老子、孔子などの他の宗教の神々も祀れという言葉が出て来ます。私の知っている限りでも、般若心経の世界観と日月神示のそれはほぼ同一です。キリスト、マホメットも元はユダヤ教ですから、「イスラの流れ」で共通点はあるでしょう。老子、孔子も中国大陸からの流れとしてあるでしょう。

キリスト教で「アーメン」という言葉があります。これは「amen」というヘブライ語で「まことに、その通り」という意味だそうですが、「a man」=イエス・キリストのことだという説もあります。読み方も「アーメン」あったり「エイメン」であったりします。英語読みだと文頭の「a」は「エイ」ですから、「エイメン」という発音をしているようです。

「地震の巻 第19帖」で「ス」の神が「ア」の神と現れ、「オ」と「ウ」に開き、さらに「エ」と「イ」に動き現れるとありました。まさに、「a=ア」が「a=エイ」となっているようです。偶然でしょうか、それとも言霊(ことだま)でしょうか。

もし、イエス・キリストが「ア」の神の現れだとすると、「ス」の神は「天の父・ヤハウェ」=弥栄(ヤハエ)となります。マホメットもまた「ア」の神の現れだとすると、「ス」の神は「ア・ラー」(太陽神)ということになりそうです。

老子、孔子だと、「盤古大神」でしょうか。もっとも、大本教では「盤古大神」は「国之常立神」を艮に押し込めた悪神ということになっているようですが。

いずれにしても、世界中の宗教は同根であり、元は一つ(民族によって現れ方が違うだけ)ということが、根底の考え方だと思われます。


余談ですが、先日NHK番組で「四川美人谷」の先祖が「羌(きょう)氏」だという話をしておりました。もしかしたら、遠い昔、日本人の祖先と分かれた同族かもと思います(炎帝神農・姜氏の流れ)。

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2018年05月22日

光の巻 第1帖

「光の巻」しるすぞ。地(くに)の日月のΘとは臣民のことであるぞ、臣民と申しても今のような臣民ではないぞ、Θ人共に弥栄の臣民のことぞ、今の臣民も掃除すれば地の日月のΘ様となるのざぞ、自分卑(いや)しめるでないぞ、皆々ΘΘ様ざぞ。
もの頂く時は、柏手打ちて頂けよ、Θへの感謝ばかりでないぞ、柏手は弥栄ざぞ、祓いぞ、清めぞと申してあろうが、清め清めて祓いてから頂くのざぞ、わかりたか。
次の五の巻の謄写は四十九でよいぞ、十はΘよきに使うぞ、前のも十はよきに使うたぞ、わかりたか、皆に分けるぞよ、三は十二の巻の中からよきに抜きて謄写よいぞ。サイトウ、ヒノ、マスナガ、カザマ、サトウ、ハヤシ、サイ、カネシゲに神示取らせよ。合わせて四十九の身魂。
二月二十四日、ひつ九のΘ。


身魂を掃除した「神人共に弥栄の臣民」は、「地の日月の神様」となれるそうです。

「次の五の巻」は、「光の巻」から「青葉の巻」までのことだと思われます。「十二の巻」とは、最初の「上つ巻」から「夜明けの巻」までのことでしょう。

十と四十九は、十神(とおかみ)と四十九神(成り鳴る神)です。



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2018年05月21日

地震の巻 第19帖

天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在するところは、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。
天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その統治は、各々の団体における最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、✓によって現わされ、他の二人は、Θによって現わされる。Θは、左右上下二つの動き渦右巻き小.jpgを為すところの立体渦右巻き小.jpgからなっている。統治者の心奥の✓は、さらに高度にして、さらに内奥に位する✓の中の✓によって統一され、統治され、立体渦右巻き小.jpgをなしている。天国では、この✓をスの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア・オ・ウは愛であり、エ・イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ・ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ・イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈打ち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、いかにしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらのすべてを神の力として生かし、さらに高度なる大歓喜に至らんかと努力することである。また統治者自身は、自分たちを他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜をまずよろこび、己はその中に融け入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国における政治の基本は、以上のごとくであるが、さらに各家庭においては、同一の形体をもつ政治が行われている。一家には、一家の中心たる主人、すなわち統治者がおり、前記のごとき原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。すなわち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国における天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれのごとき礼拝ではない。礼拝生活である。すべてと拝み合い、かつ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であるという点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上においては、一つの生き方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。
無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上のごとく太陽があり、その太陽より、光と熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球のごとき現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と、熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、はるかにそれらを超越した歓喜の✓が感じられるのみである。この歓喜の✓が、真・善・美・愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、その受け入れる天人、天使、霊人、地上人たちの持つ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。


アオウエイ.png



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2018年05月20日

地震の巻 第18帖

神から出る真・善・美・愛の用(はたらき)に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、かつ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、そのいずれもが神の秩序、すなわち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、いずれの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。すなわち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。ただ、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用を繰り返しつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人のために存在する。太陽は太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によって生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信(真)の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、かつ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は、物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界における春は、陽であり、日と輝き、かつ力する。秋は、陰であり、月と光り、かつ力する。この春秋の動きを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも言い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、かつ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。



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2018年05月19日

地震の巻 第17帖

地獄はないのであるが、地獄的現われは、生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に、すべてのものが生長しているためである。死後、ひとまず置かれる所は、霊、現の中間の世界であり、そこでは中間物としての中間体を持っている。意思のみでは力を生まない。理解のみでも進展しない。意思と、理解との結合によって弥栄する。このことは、中間の状態、すなわち、死後の最初の世界において、何人もはっきりと知り得る。しかし、生存時において、すでに過去を清算している霊人は、この中間世界にとどまる必要はなく、その結果に対応した状態の霊界に、ただちに入るのである。清算されていない者は、清算が終わるまで、この中間世界にとどまって努力し、精進、教育される。その期間は五十日前後と見てよいが、最も長いものは十五、六年から二十年位を要する。この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、光明に満たされている。故に、何人も、この世界へ進みやすいのである。また、地獄的な世界は暗黒に満たされている故に、この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、極めて進みにくいのである。
天国には昇りやすく、地獄には堕ち難いのが実状であり、神の御意志である。しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進みゆくものもあるのであって、その者たちには、それがふさわしい世界なのである。そこに、はかり知れないほどの大きく広い、神の世界がひらかれている。この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである。以上のごとく、中間世界からは無数の道が無数の世界に通じており、生前から生後を通じて、思想し、行為したことの総決算の結果に現われた状態によって、それぞれの世界に通ずる道が自らにして目前にひらかれてくるのである。否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。故に、迷うことなく、自分の道を自分で進み、その与えられた最もふさわしい世界に落ち着くのである。他から見て、それが苦の世界、不純な世界に見えようとも、当の本人には楽天地なのである。何故ならば、一の世界に住むものには、二の世界は苦の世界となり、二の世界に住むものには、一の世界はまた苦の世界と感覚するからであって、いずれも自ら求むる歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。また一の世界における善は、二の世界では善はなく、二の世界の真が一の世界においては真でない場合も生じてくる。しかし、そのすべての世界を通じて、さらに高き✓に向かって進むことが、彼等の善となるのである。✓は中心であり、大歓喜であり、神である。死後の世界に入る時に、人々はまず自分の中の物質を脱ぎ捨てる。生存時においては物質的な自分、すなわち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、そのものが生命し、かつ自分自身であるかのごとくに感ずるのであるが、それは自分自身の本体ではなく、外皮に過ぎない。生長し、考慮し行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、すなわち霊の自分である。霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。故に、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。しかし、肉体を捨てて霊界に入ったからといって、物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係に置かれる。何故ならば、物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界のいずれもが不離の関係に置かれて、互いに呼吸し合っている。例えば、地上人は生前世界の気を受け、また死後の世界に通じている。現実世界で活動しているのが、半面においては生前の世界ともまた死後の世界とも深い関連をもっており、それらの世界においても、同時に活動しているのである。



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2018年05月18日

地震の巻 第16帖

考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分というものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神が為し給うているのである。
そこに、人が地上における司宰者たる、またたり得る本質がある。地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのである。
しかし、肉体を捨てて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質の衣にすぎないことが判明する。肉体を持っている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。この二つの動きが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である。肉体の呼吸と脈搏とは、新しき霊体の呼吸と脈搏に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。かくて、霊界に入った霊人たちは、すべて生存時と同じ想念を持っている。為に、死後の最初の生活は生存時とほとんど同一であることが判明するであろう。故に、そこには地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。而して、霊界においては、先に述べたごとき状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界においても、生前の世界においても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、すなわち肉体を持ち、霊界に入った時はそれに対応した霊体を持つ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、さらに大宇宙そのものの形である。大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、また内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。大歓喜は無限であり、かつ永遠に進展して行くのである。変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有する。これはもはや心臓と表現するにはあまりにも精妙にして、かつ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。それは心臓としての脈搏でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。そこに人間としての、他の動物に比して異なるもの、すなわち、大神より直流し来たるものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。人間が、一度死の関門をくぐり、肉体を捨てた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それはただちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。



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2018年05月17日

地震の巻 第15帖

霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、そこには霊人の住宅があり、霊人はまた衣類を持つ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、といったふうに、現実世界とほとんど変わりがない。ということは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であるということを意味する。また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互いに並び建てられており、地上における都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらのすべてが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、かつ考えるから、真相がなかなかにつかめない。これらすべての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その各々が持つ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応するということは、真理に対応するということになる。ただし、最も中心近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に至れば、すべてが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。しかし他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せるごとく見ゆるのである。また、衣類はすべて霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食している。言うまでもなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人もいずれも食べる、ということによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べるということは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。
これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上のごとくであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのかわからないほどである。また霊人の食物は、その質において、その霊体の持つ質より遠く離れたものを好む。現実社会における、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠く離れた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、かえって不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられたすべての食物は、悉(ことごと)く食べて一物をも残さないのである。すべての善は✓より起こり、✓に還るのと同様、すべての悪もまた ✓より起こり、✓に還る。故に、神を離れた善はなく、また神を離れた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪を取り去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。
この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂(いわゆる)、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの ✓が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からする時は理解力となり、真理となる。また、愛より入る時は善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰と離れてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生まれ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にて渦右巻き小.jpgの動きをなし、右手にて渦右巻き小.jpgの動きを為す。そこに、地上人としては割り切れないほどの、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨(みむね)である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と言うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善・真・悪・偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕(はら)み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終わりなき終わりに至る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。



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2018年05月16日

地震の巻 第14帖

霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。そこには、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。すなわち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念を持っている。この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠ということは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切を離れて状態とその変化による霊的なものによって語るのである。しかし、この霊人の語る所を地上人が受け入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解し得るのである。多くの地上人は、霊人を知らない。地上人には、地上世界に顕現するすべてのものの霊体が存在するということをなかなか理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることをなかなか理解しない。ただし、死後の霊人は、相当に長い間地上世界のことを記憶しているものである。地上人が、何故霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。例えば霊人とは、地上人の心に通じ、あるいは、心そのものであると考えるためである。つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。ところが実際は、霊人そのものが手を持つが故に地上人に手があり、指を持っているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。しかも、霊人は、地上人よりはるかに精巧に出来ていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。霊人は、地上人にまして一段の光明の世界にあり、一段と優れた霊体を有している。霊界における事物はすべて霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。それは、地上における場合と同じである。太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生まれたるものはさらに一層の光輝を放ち、弥栄となる。また、霊界には物質世界のごとく空間はない。このことを地上人はなかなかに理解しないのである。霊界における場所の変化は、その内分の変化に他ならない。霊界に距離はない。空間もない。ただ、あるものはその態の変化のみである。故に、離れるとか、分かれるとかいうことは、内分が遠く離れていて、同一線上にないことを物語る。物質的約束における同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。



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2018年05月15日

地震の巻 第13帖

地上人が、限りなきほどの想念的段階をもち、各々の世界をつくり出しているごとく、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念を持つ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界においては必ずしもそうではない。美も醜となり、愛も憎となり、善も真もそのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。と同時に、+(真善)渦右巻き小.jpg(真善美愛)渦右巻き小.jpg(歓喜)渦右巻き小.jpg(大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必要性などが判明するのである。故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面においては、極めて尊いものとなるのである。下級霊人自身が渦右巻き小.jpg(善)なりと信じて行為することが、地上人には渦右巻き小.jpg(悪)と現われることが多いのである。何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性を持ち、他の世界を知らないからである。それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨(みむね)なるがごとくに独断し、ついには、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。所謂(いわゆる)無き地獄をつくり出すからである。地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものを含む。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。浄化し、改心し得ないものである。また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。すべて戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。半面、向上のごとくに見ゆる面があるとも、半面において同様の退歩が必然的に起こってくる。それは強いるが為である。神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。戒律あるところ必ず影生じ、暗を生み出し、カスが残るものである。それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。直線的なものは月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。ただし、文字として、ほとんど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。しかしこれは不変なものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。



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2018年05月14日

地震の巻 第12帖

霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。霊人が地上人に来る時は、その人の知るすべてを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。霊人は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。しかし、映像と実相の隔たりはかなり遠いものである。霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、その互いに交わされる談話においても前記のごとくであることを知らねばならない。霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、かつ聞いているのである。霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したりすることは、前記のごとき原則によってあり得ないのである。しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである。故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人の持つそれぞれの人語を使用して語り、その地上人の持つそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉は、いかに地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には伝え得ないのである。語れども聞き得ず、読むともその真意は通じ得ないのである。霊人の中には、自分たちの住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。それはちょうど、地上人の多くが、生前及び死後の世界を信じないと同様である。



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2018年05月13日

地震の巻 第11帖

霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。同一線上にいる霊人の言葉は、いずれも同一であって共通する。霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。しかし、相手が聞くことを欲しない時には聞こえない。それはちょうどテレビやラジオのごときものであると考えたらよい。またその語ること、その語音によって、その相手のいかなるものなるかを知り得るのである。すなわち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人のいかなるものなるかは、ただちに判明する。霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、そのいずれかでなくてはならない。しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである。原因と結果とを一にし、さらに結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、かつ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。言葉そのものが弥栄であり、生命である。またすべてであるということは、地上人には理解できぬであろう。それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、さらに生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。また一里先も、百里先もまた千万里離れていても、同一の場所であるのと同様であって、理解するに極めて困難である。だが、地上人においてもそれを知り得る内的な生命を持っているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人の置かれている位置によって二つのものに大別し得る。歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽のΘ(ひかり)と◍(熱)とに譬(たと)えることができる。また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に、清く流れ出でて連続的ではなく、ある種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水のごとき清さとを感じさせる。また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。そして、そのいずれもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力を持っている。しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念の✓をなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては感得し得ないことを知らねばならないのである。霊界における音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。それは、言葉そのものがかかる内質をもっており、各々が霊界における生命の歓喜の表現なるが為である。またこれら霊人の言葉は、天的の韻律(いんりつ)を持っている。すなわち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。言葉の韻律は、地上人が肉体の立体を持っているごとく、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。


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2018年05月12日

地震の巻 第10帖

地上人は、内的に生前の霊人と+(通じ)、また死後の霊人と+(通ず)る。地上人が、生前を知得するのは、この霊人を+(通ず)るが故であり、死後を知得するのも、また同様に+(通ず)るからである。生前と死後は同一線上に置かれているが同一ではない。地上には、物質的+(形式)があり、霊界には霊的+(形式)がある。その+(形式)は)+(歓喜)の交叉し、発するところによって自ら+(成る)ものである。+(形式)なくしては+(合一)なく、+(力)なく、+(形式)あるが故に+(もの)が+(総て)に+(合一)し、(弥栄)し、+(力)し、+(大弥栄)するのである。+(形式)の中に+(和)することは、その++(個々)が、++(差別)されているからである。++(差別)し、++(区別)せられることは、その各々に、++(各々)が共通する内質を持つからである。++(共通性)なきものは、++(差別)し、++(区分)することができない。+(霊界)と+(現実界)との関係はかかるものであるが故に、+(常)に+(相応)し、+(力)し、+(力)を生じ、また常に、+(相通)じて+(力)を生みゆく。これは、平面的頭脳では、なかなかに+(理解)しがたいのであるが、この根本+(原理)を体得、理解し得たならば、+(神)+(幽)+(現)三界に通じ、永遠に弥栄する+(大歓喜)に住するのである。されば+(差別)は、+(平等)と+(合一)することによって+(立体)の++(差別)となり、+(平等)は+(差別)と合一することによって++(立体平等)となり得る。+(霊人)が+(地上人)と+(和合)し、また+(地上人)が+(霊人)と+(和合)し、+(弥栄)するのは、この++(立体平等)と++(立体差別)との+(弥栄)ゆるが為であることを知らねばならぬ。この二つの+(相反)するものを+(統一)し、常に+(差別)しつつ+(平等)に導き、++(立体)していく+(力)こそ、(神)そのものの+(力)であり、+(歓喜)である。この(二つの力)と+(神)の+(歓喜)なくしては、+(地上人)なく、また(霊人)もあり得ないのである。++(生成発展)もなく+(神)も+(歓喜)し得ない。この(力)なくしては、+(地上人)は+(霊人)と+(和)し、+(神)に+(和)し奉ることはできない。故に、+(生命)しないのである。



(立体平等)と(立体差別)の統一と(神の力・歓喜)⇒生命(地上人と霊人の和)

ルービックキューブのようなものを思い浮かべてください。九字の呪文「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」です。平面ではなく立体です。一つ一つには差別も平等もありませんが、立体的には差別も平等もあります。横の線が平等、縦の線が差別です。



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2018年05月11日

地震の巻 第9帖

霊、力、体の三つがよりよく調和するところに真実が生まれ、生命する。これは根元からの存在であり用(はたらき)であるが、動き弥栄する道程にいて、復霊、復力、復体の渦右巻き小.jpg(うごき)をなす。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現われ、呼吸し、脈打ちて生命する。故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。而して、なお地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後の世界との関連により複数的悪善に置かれる。善悪善の立場に置かれる場合が多いために、地上における司宰神としての力を自ら与えられるのである。善悪の、生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、すべてをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。地上人の持つ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神の持つ想念の本は大歓喜である。故に、地上人は霊人によってすべての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりてすべての行為の本とする。故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。いずれも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場において差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生まれてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。常に、動き栄えゆく、大和の渦右巻き小.jpgを中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を✓とする立体的動きの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神(かんながら)の歓喜である。惟神の歓喜はすべてのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。



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2018年05月10日

地震の巻 第8帖

生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす✓が歓喜していた、その✓が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界に続き、死後の世界の様相は✓の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その✓を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的✓に向かって弥栄する面と、外的、地上的に進む✓と、その交叉融和することによってさらに生み出され弥栄する✓と、その各々が各々の立場において✓(進み)✓(呼吸し)✓(脈打ち)✓(生命)していると同時に全体的にも ✓(生命し)✓(歓喜し)✓(弥栄)している。而して、その現われとしては、✓(和)せば ✓(和)するほど相離れ、遠ざかりつつ✓(生長)する。また ✓(生命)の✓(大歓喜)として湧き出でいる。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々より生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入るまでは、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来るまで、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生まれ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、いずれも✓の形におけるがごとく同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生まれ、より大なるものより、より小なるものが生まれ、より新しきものより、より古きものが生まれ、より古きものより、より新しきものが生まれ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、さらには一つとなることを理解しない。月より地球が生まれ、地球より太陽が生まれるということを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智に目覚めることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして生まれ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生まれ、新天新地に住むとも、その以前の自分のすべては失わない。ただその位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を脱ぎ捨てるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりもなお一層、そのままであって何等の変化もないと思えるほどである。蛆が蝶になるごとく弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中において、大神のその質と性とを受け継ぎ呼吸しているからである。すべてのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生まれてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。ただ考えたり意志するのみでは萌え出ない。生命しない。ただ意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界においては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意思を行為することによって初めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階にまず区別され、その段階において、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。もしその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容いかんによって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉(ことごと)くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、すべて自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈搏の中にあり、それらのすべてが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後に基づき、地上人もその周囲を自分化しようとする意志を持っているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、いずれにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ち切ることは出来ない。物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を持つが、霊的角度から見れば永遠性は持たない。しかし、物質面より見れば永遠性を持つものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性を持つ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内臓している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。


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2018年05月09日

地震の巻 第7帖

地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからといって、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらのすべては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈搏し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見る時は、悪を許し、善の生長弥栄を殺すがごとくに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、さらに活力を与え、悪を浄化して必用の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来悪はなく暗はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。さらに一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ないごとく、地上人に至りては極めて稀(まれ)であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは原因の世界より伝えられたる一つの因果であるという平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べたところで明白となり、己を愛するは、まず悪の第一歩なりと考える。その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来たるべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。さらに弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなけばならぬ。


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2018年05月08日

地震の巻 第6帖

霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の言う北ではなく、中心という意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、いずれの方向に向かっていようと、その向かっている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈搏の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向に向かっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向かって座し、向かって進んでいる。上下、左右、前後に祈り重なっていると見えても、それは決して、地上人のあり方のごとく、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害を受けない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目で見るものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人においても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下に置かれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのではない。内質においては同一であるが、現われ方や位置においては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長しているという。地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、かつ受け入れて生活しているのであるが、そこにも、それ相応な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜の受け入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することにおいては同様である。歓喜すればこそ、かの霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼といい、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、かつ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界においては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外に置かれるために、その対象とはならない。地上人においても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交(こうさこんこう)する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。


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