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悠久之拳

小生がOBになってからのことですが、審査後のコンパの席で、先代の辻川師範から1冊の本を渡されました。

そのA4版の書物は、包装紙で丁寧にカバーが付けられていましたが、うっすらとタイトルの文字が透けて見えました。

そのタイトルとは、「悠久之拳」

内容は、摩文仁賢榮宗家・辻川禎親元老・崎尾健元糸東会会長(当時)の口述筆記による空手観、人生観をまとめたものです。

中でも辻川名誉師範に関する内容は、生い立ち、両親・兄弟のこと、幼少時の屈辱的な体験、医師からの通告、空手を始めたきっかけ、当時の稽古の様子、辻川師範から見られた初代宗家、2代目宗家決定のいきさつ、糸東会設立の裏話、國分師範との出会い、耀心館の前身などについてわかりやすく書かれています。

あれから十数年、書斎に埋もれたこの大切な書物を、先日久々に紐解きながら、あのときの辻川師範のお言葉を思い出し、自責の念に駆られました。

「これ渡すからみんなで読んでくれな」

小生は辻川師範との約束を果たせていなかったのです。。。

久しぶりに読み返しながら、あらためてこの書物は、我々霜友会として共有すべき大変貴重な資料となりうるのではないかと考えましたので、その辻川名誉師範の記述部分を転記し、ファイルとして諸先輩方にご提供できればと思います。

尚、文章中、不適切な表現や明らかに誤植と思われる部分もございま
すが、原文のまま入力しておりますのでご了承下さい。

よろしくお願いします。

一冊のノート

「何事も打ち忘れたりひたすらに 武の島さして漕ぐが楽しき」

糸東会で活動しておられる方なら、恐らく誰でも一度は聞き覚えのあるこの歌。

そういえば糸東会のTシャツなどにもプリントされているのをよく見かけます。

実はこの歌、糸東流初代宗家・摩文仁賢和先生の遺句と言われています。

これに関連して、第2代宗家・摩文仁賢榮先生は、著書『武道空手への招待』の中で次のように述べておられます。

「空手をやることが楽しくて、誰が何といってもやめられない、というところまでいかないと、ほんものではありません。他人のための修行ではなく、自分自身が止むに止まれぬ空手の修行の楽しみを味わうのでなければ、この無限の道をたどっていけるものではありません。」

そしてこの修行三昧の境地を、賢和先生は歌に託してこのように詠まれたそうです。

ところでこの歌は、どこで詠まれたものなのでしょうか?

ここに一冊の古いノートがあります。摩文仁賢和先生が、日頃の研究の成果をびっしりと書き留めたノートです。いわば賢和先生の分身と言っても過言ではない貴重なノートです。

この覚え書きの中に、たった2行にわたって、この歌が綴られています。(赤枠は管理人による)

そして何とこのノートが摩文仁賢和先生から辻川先生に手渡されたそうです。

時期は賢和先生が亡くなる12〜17年前と言われています。

ノートの中央に「研究」という文字が見えますが、その右上に縦書きで「辻川君」という文字がうっすら見えるのがご覧いただけますでしょうか?

これは小生の勝手な推測ですが、一体なぜ、賢和先生は、これほど大切なノートを、ご長男の賢榮先生ではなく辻川先生に手渡されたのでしょうか。。。?

晩年の賢和先生が辻川先生に託する重大な決意があったのでしょうか?

もし、時計を「あの日」に戻せたなら、その後の空手界が現在とは変わった流れになっていたのかも知れません。

考えれば考えるほど「謎」は深まるばかりです。

「あの日」とは一体。。。?

それは明日の投稿記事に関連します。

※今回のモノクロ写真の出典は、昨年行われた摩文仁賢和先生生誕120周年記念行事で配布された資料です。

辻川禎親名誉師範について

小生が辻川名誉師範について、今さら述べるのは誠におこがましい限りではございますが、本日の記事は、明日、あさっての投稿に備え、特に現役諸君に読んでおいてもらいたいという思いで書かせていただきます。

昨年、指導体制が一新したことに伴い、それまで、本学空手道部を永年にわたってご指導下さった辻川禎親(よしあき)師範と國分和夫師範は、ともに名誉師範となられました。

ただ、辻川名誉師範はお体の都合で、ここ数年、六甲台道場に上がって来られていませんので、現役諸君にとっては「伝説上の師範」になりつつあったかも知れません。

昨年5月に糸東会主催で行われた辻川元老の講習会には数名の現役部員が集まって下さいましたが、それでも全員ではありませんでした。

今後、辻川名誉師範のことを全く知らない現役部員が増えていくことを考えると寂しい限りですので、ここで一度、せめてお顔だけでも記憶にとどめておいていただきたいと思います。

辻川禎親名誉師範は、文献によると1916年2月10日生ということですから、つい先日95歳のお誕生日を迎えられたところです。

ということは、糸東流第2代宗家・摩文仁賢榮先生より2歳上でいらっしゃいます。

あさっての投稿記事にも関連しますが、辻川名誉師範は、初代宗家・摩文仁賢和先生に師事され、糸東流だけでなく、日本の空手界の礎を築いて来られた方であることは、霜友会諸先輩方にとっては、今さら申し上げるまでもございません。

本学空手道部も辻川師範のご指導を受けて、数多くの諸先輩方がこの六甲台道場を巣立って行かれました。

小生も現役時代は随分叱られましたが、卒業後、糸東会の行事などでお会いする度に、ニコニコとよく声をかけていただきました。

現役の頃、直接ご指導を受けることができて本当に幸せだったと思います。

上の2枚の写真は、数年前、六甲台道場に上がって来られ、現役部員に手取り足取り指導をされている様子です。

ここ数年は、日常生活でも杖を手放すことができないということですが、このときはその杖を足下に放り投げて、自ら模範を示され、情熱をふりしぼってご指導下さいました。

昨年5月30日の投稿記事をご参照いただけましたら、辻川元老の講習会(「レベルアップ講座」)に関するJKFanの記事をご覧いただけますが、あらためてその原稿の一部と神大関係者での記念写真を掲載させていただきます。

尚、下のモノクロ写真は、糸東会会報記事の写真です。この写真をクリックしていただきますと、PDFファイルで閲覧可能です。適宜文字を大きくしてご覧下さい。

(以下引用)

参加者の多くは予定時間前から集まり始め、当日の講師・糸東会元老・辻川禎親先生に挨拶をし、道着に着替えレベルアップ講座の開始を待った。受講生の中には、辻川元老が永年指導をされていた神戸大学のOBが多く見受けられた。

辻川元老の貴重な講義が受けられるという事で、博多から遠路はるばる駆けつけたOBもおられた。皆さん辻川元老の元気なお姿に感動をされていたのが印象的であった。

神戸大学からは、現役生も参加しており、神戸大学での辻川先生の貢献がどれ程のものであったかをうかがい知ることができた。

予定通り午前9時30分から開講式を行い、最初は辻川元老の「糸東流の歴史と昔の練習」と題した講義がスタートすると、参加者は内容を一言も聞き漏らすまいと真剣な表情でメモをとり、また熱心に耳をかたむけた。
途中3回ほどの休憩をはさみ、講義は昼まで続けられた。
質問の時間には、多くの熱心な質問が寄せられ、辻川元老も疲れを見せることなく、全ての質問に答えておられた。

(以上)

空手界の歴史の「生き証人」である辻川元老が本学の名誉師範であることを、あらためて誇りに思います。

君子の拳

「空手に先手無し」の教えと相通じるのが、糸東流でよく使われる「君子の拳」という言葉です。

これも、霜友会諸先輩方よくご存じの通り、「拳足はみだりに使うな。手足を喧嘩に使ってはいけない。」という意味です。

ただし、この言葉を最初に使われたのは、一部「糸東流」の名の由来ともなった糸洲安恒先生(右の写真)で、その教えを受けられた流祖・摩文仁賢和先生がその言葉を受け継ぎ、現在に至っています。

終戦後の沖縄では、空手をやっている者は「野蛮人」とみなされ、空手を習う場合は警察に届けなければならなかったり、どういうことをやっているのかをいろいろ尋ねられたりしたそうです。

そんな時代背景だったからこそ、精神教育に重点を置いた開祖・摩文仁賢和先生は「君子の拳」を標榜し、円満な人格の形成・向上を目指した指導を行い、空手道の普及に努められたのでしょう。

その成果として、(当時の日本は、剣道が禁止されていたこともあり、)手軽に始められる空手が普及し始め、大学にクラブがどんどんできていったそうです。

こうした動きは、やがて学生空手道連盟の結成、そして全日本空手道連盟の設立へとつながり、現在に至っているということです。

「君子の拳」は糸東流のみならず、空手道全般に通じる根本精神と言っても過言ではありません。

糸洲安恒先生については、またいつかあらためてご紹介できればと思っています。

空手に先手無し

先日、南先輩(S47卒)が提供して下さいました「突きと蹴り」の歌詞(3番目)に

鍛えに鍛えし

この拳足も

守る空手に先手無し


というフレーズがあります。

この「空手に先手無し」という言葉は、霜友会諸先輩方もよくご存じの通り、意味としては、空手道を心得る者は、決して自分から事を起こしたり、好戦的な態度をとってはならず、自分自身の力をひけらかすような態度は戒めるべきであるという意味です。

武道の「武」という文字は、「戈(ほこ)」を「止める」という意味に由来しているそうですが、「空手に先手無し」とはこうした「武」の本義に従って、戈を止めるためにのみ行動しなければならないという教訓として解釈されます。

ちなみに、空手の形(かた)は全て、「受け」から始まります。

これも「空手に先手無し」という考え方に通じるのですが、決して「先に攻撃しない」=「消極的」という解釈に基づいているのではありません。

相手の技を受けることによって、その瞬間に、相手の力量を知り、相手の技を見極めることができます。

すなわち、相手の実力を知った上で、有利に事を進めれば百戦百勝の機を捉える事ができるという考え方に基づいています。

古代中国の孫子兵法に

相手を知り己を知れば、百戦危うからず

相手を知らず己を知れば一勝一負す

相手を知らず己を知らざれば戦うこと必ず危うし


とありますが、まさにこれに通じています。

そして、相手の攻撃を受ければ即反撃。

その究極の技術として、空手には、受けながら相手を攻撃する「突き受け」という技があります。

つまり「受け」=「攻撃」なのです。

ボクシングで言えばクロスカウンターに相当します。

例えば右の写真は、バッサイダイの分解の一部ですが、左側の選手は、相手の突きを上方へはじきながら突いているため、右側の選手は突きが不完全な状態で終わっています。

これが「突き受け」という技です。

また、糸東会では、「上段揚げ受け」をするときの拳の位置は、おでこの前ではなく、もう少し前方に置くことで、その拳で同時に相手を攻撃していると言われます。

このような先人の教え、隠れた技を理解しながら形演武を行うと、技の奥深さを味わうことができます。

小生にとっては、この「空手に先手無し」という考え方が、人生の教訓としても大いに役立っています。

「五誓」と「突きと蹴り」

霜友会前会長・南正博先輩(S47卒)より、「拳友会」の原稿と合わせて、「五誓」及び「突きと蹴り」(神戸大学空手道部部歌)の歌詞を送って下さいましたので、今日は、これを記事として投稿させていただきます。

「突きと蹴り」は小生の現役時代にはすでに歌い継がれておりませんでしたし、また「五誓」もかなり以前から聞かれなくなっています。

これらもわが部の伝統を受け継いでいく上で、残していかなければならない「大切な財産」であると思います。

(以下引用)


五 誓


一、至誠に悖る事なし

一、言行に恥ずる事なし

一、気力に欠くる事なし

一、努力を惜しむ事なし

一、血気の勇に逸る事なし
 



突きと蹴り

〜神戸大学体育会空手道部 部歌〜


一、

突きと蹴りとは

空手の技よ

妙は虚実の間にあり

五条の誓いを道一筋に

進む男の心意気


二、

熱と力と

意気地と技に

掛けた命の空手道

きりり締めたるこの黒帯は

汗と涙の結晶さ


三、

鍛えに鍛えし

この拳足も

守る空手に先手無し

高く掲げた理想の炬火に

男一途の火が燃ゆる


四、

見よや遙けき

秀嶺富士を

仰ぐ瞳に虹の橋

燃ゆる思いに拳を上げりゃ

明日は晴れかよ茜雲

明日は晴れかよ茜雲

(以上)


そういえば、我々が現役の頃よく皆で歌った「六甲台節」も長らく聴いていないですね。

たまにOBが集まったときにカラオケで唄うくらいでしょうか(笑)

世代を越えて、同じ六甲台道場で汗を流したOB同士が同じ歌で気持ちを一つにできるというのはすばらしいことだと思うのですが。。。

神戸商船大学空手道部「拳友会」について

霜友会諸先輩方ご存じの通り、数年前、本学は神戸商船大学と統合し、学内に新たに「海事科学部」を設置し、現在に至っております。

ただ、統合から数年経過する中で、小生自身、空手道部の統合に関する経緯やOB会同士の合意内容、両OB会の交流に関する現状と今後の方向性について、恥ずかしながら認識があいまいな部分が多々ありました。

そこで、先日、霜友会前会長の南正博先輩(S47卒)に、そのあたりを原稿としてまとめていただけませんかとご無理を申し上げましたところ、大変お忙しい中、早速原稿を送って下さいましたので、本日のブログ記事に掲載させていただきました。

特に、現役諸君や、卒業後間もないOB諸先輩方の中で、部レベルでの統合に関して経緯を正確に把握されていない方は、ぜひご一読いただければと思います。

(以下引用)


神戸商船大学空手道部「拳友会」について


■神戸商船大学

神戸商船大学の空手道部OB会は「拳友会」と称し、昭和32年の発足以来、百数十名の諸先輩を擁して活発なOB活動を続けておられます。

現在の会長は26期生の乾 孝宏氏で、毎年5月開催の「深江祭」には神戸大学空手道部員もご招待頂いているのは皆さんご承知の事と思います。

そもそも神戸商船大学は、大正6年に私立川崎商船学校として設立され、その名の示す通り、海洋船舶への乗船や、関連技術者を育成する目的で発足しました。

その後、大正9年8月に官立神戸高等商船学校と改められ、昭和27年5月に神戸商船大学となりました。

空手道部の創部は2年後の昭和29年4月とお聞きしております。

専攻する学業の性質上、上級生になれば半年間の航海訓練に出る事が必須となり、空手道に限らず、課外活動には大きな制約を受けておりましたが、我が神戸大学空手道部と同じ国分先生を師範と仰ぎ、深江キャンパスにて心身の錬磨に励んで来られました。

この航海訓練を通じた体験から来るのでしょうが、「拳友会」の方々は皆豪放磊落で後輩や現役に対する面倒見が良く、少数ながらも大変結束力の強い組織であると思います。


■神戸大学と神戸商船大学の統合

さて、この神戸商船大学ですが、国立学校設置法の改正によって平成15年10月に神戸大学と統合、神戸大学海事科学部として継承され、翌平成16年3月31日をもって廃校となりました。

この事により、自然の流れとして同大学空手道部は神戸大学の本学空手道部と統合の形となり、深江キャンパスで練習を継続する商船大現役部員との合同練習や、海事科学部新入部員の受け入れを行って来ました。

当時は、統合前年に当たる平成14年10月に創部50周年を記念する式典と「霜友会」総会が開催され、当時「拳友会」の野中良一会長ほか幹部の方もお呼びしての事態説明と意見交換の結果、現役の練習は一本化を基本としながらも深江道場に於ける海事部員の練習を認め、OB会としては将来的にも「霜友会」と「拳友会」の二本立てで友好的に存続して行く事で全員のご了解が得られました。


■これからの事

あれから早や6年が経過し、普段の部活動で海事科学部のメンバーを意識する事はなくなったように思いますが、専門課程ではキャンパスを異にし、航海実習を重要な課題とする海事の学生諸君にとっては、やはり体育会の部活動を続けて行くのは相当な負担になるであろうと思います。

昨年末、「拳友会」からの呼びかけで、両OB会の交流をもっと密にしようと、当時商船大空手道部主将であり、長田高校時代の同窓生でもあった神野信行氏との接触を深めながら橋渡しを始めたところですが、これを機会に現役の練習の在り方としても、海事科学部学生に対する対応を再考し、研究して行く必要があるように思います。


平成23年2月
                     
昭和47年卒 前霜友会会長  南 正博

(以上)

南先輩、お忙しい中、貴重な原稿を提供していただき、本当にありがとうございました。

テンカウントルール

組手競技のルールの中には、昨日の記事の中でご紹介した「テンカウントルール」というのがあります。

決して新しいルールというわけではなく、小生の現役時代よりずっと以前、国内の大会でも導入されたことがあると聞いていますので、霜友会諸先輩方の中にはご経験のある方もいらっしゃるかも知れません。

このルールは、簡単に言ってしまえば、倒れて10秒以内に立ち上がれなかった選手は、以後大会期間中、一切の組手競技、つまり団体組手も個人組手も出場することができないというものです。

従って、例えば相手に当てられて倒れ、10秒間立ち上がれず、ドクターにも「試合続行不可能」と判断された選手は「反則勝ち」になります。。。が、以後、大会期間中は一切の組手競技に出場できないため、その試合には勝ったことになりますが、事実上、その先へは進めません。

ではなぜこのようなルールがあるのでしょうか?

それは、特に外国人選手に顕著であると言われますが、当てられて、それほどダメージがないのにもかかわらず、故意に立ち上がらず、反則勝ちをもらおうとする選手が多いため、そのような不正を防止することが本来のねらいのようです。

ただ、ケースに応じて対処方法がいくつか分かれます。

例えば上記のように、当てられて倒れ、10秒以内に立ち上がらなかったとしても、立ち上がれないほどのダメージではなかったとドクターが判断した場合、つまり「フェイク」とみなされた場合、倒れた選手はスポーツマン精神に反するという意味で「失格」となり、以後、大会期間中、組手競技はもちろん形競技にも出場することが出来なくなります。

一方、相手に当てられたのではなく、自損により倒れて10秒以内に立ち上がれなかった選手は、「棄権」となり、当然相手選手の勝ちとなるだけでなく、倒れた側の選手は、以後組手競技には一切出場できません。

このテンカウントルールを実際に採用する大会は、国内ではあまり多くないため、いざその場面に遭遇した際、審判員も慌ててしまう恐れがあります。

従ってこうした場合に備えて、昨日は審判講習会で全員が対処方法を確認した次第です。

本学空手道部現役諸君、あるいは今後も糸東会、府県連、全空連等で活動される諸先輩方はぜひご記憶にとどめておいていただければと思います。

褒められて反省、叱られて感謝

今日は、全国糸東会主催の審判講習会(関西会場)とランク付け審査がポートアイランドのニチイ学館で行われました。

予想通り(?)、開始早々、小生は講師の先生に叱られまくって即「炎上」(笑)

しかし、この年齢になっても、こんな自分のために必死に叱って下さる先生がどこにいらっしゃるかと考えると、小生の場合、この糸東会以外にはあり得ないのが現実です。

他会派も同じだとは思いますが、糸東会においてもよく、同じ会派の者同士は「仲間」という言い方をされます。

が、それは決して楽しくて居心地がいいという意味だけではなく、その人のために真剣に叱っていただける方の存在があるからこそ、年齢に関係なく、皆良き「仲間」なのだと実感しています。

どんなに叱られても歯を食いしばってついて行ける。。。本当に自然にそう思えるくらい尊敬できて器の大きな指導者が糸東会にはたくさんいらっしゃることも事実です。

「褒められて反省、叱られて感謝」。。。この心がけを失ってしまえば、小生など、とうの昔にこの世界から放り出されていたでしょう。

糸東会にいて本当によかったと思っています。

まだまだ、石にかじりついてでもくらいついていきますよ!

写真は学科講習と実技講習のものをそれぞれ1枚ずつ表示しています。

学科講習で身振り手振り説明されているのは、昨日の記事でもご紹介しました大出敏夫先生、向かってその左隣が全国糸東会副理事長の野澤幸洋先生、その左隣は、全国糸東会副会長の新居正先生です。

さらに大出先生の向かって右隣が、昨年の本学前期昇段審査で立ち会いをして下さいました五誓会の村田勲先生です。

実技講習の写真は、一体何が起こったのかと思いたくなりますが、大出先生が、「テンカウントルール」について、その処置の仕方を説明されているものです。

(テンカウントルールについては、明日あらためて簡単にご説明いたします)

糸東会の懇親会

今日は、明日行われる糸東会審判講習会(関西会場)で講師をつとめて下さるお二人の先生方を囲んで楽しい懇親会が開かれ、兵庫県はもちろん、大阪や三重からも多数の方々が参加されました。

そして、講師として大出敏夫先生(埼玉)と野澤幸洋先生(栃木)が今回、わざわざ神戸までお越し下さいました。

大出先生は、糸東会の誇る全空連1級資格審査員です。

糸東会には、もうお一方、全空連1級資格審査員の原口高司先生がおられますが、明日は関東会場(糸東会本部道場)で同じく審判講習会の講師をされるそうです。

国内で現役の全空連1級資格審査員は極めて少ないのですが、そのうちお二人も糸東会にいらっしゃるというのは本会にとって非常に大きな財産です。

一方、野澤幸洋先生も、空手道に関する見識が大変豊かですばらしい先生です。

実は、昨年、小生が先代の國分師範に代わって、審査に関する手続きを行うようになったとき、何をどうしてよいか全くわからなかったのですが、野澤先生には何度も何度もメールやお電話でお尋ねしました。

そのたびに親切に回答して下さり、大変感謝しています。

「寄らば大樹の陰」といいますが、糸東会というのは本当に大きなしっかりした組織であると同時にすばらしい指導者、優秀な選手がたくさんいらっしゃいます。

もし自分が糸東会に所属していなかったらどうなっていただろうかと考えると恐ろしくなります(笑)
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