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一冊のノート

「何事も打ち忘れたりひたすらに 武の島さして漕ぐが楽しき」

糸東会で活動しておられる方なら、恐らく誰でも一度は聞き覚えのあるこの歌。

そういえば糸東会のTシャツなどにもプリントされているのをよく見かけます。

実はこの歌、糸東流初代宗家・摩文仁賢和先生の遺句と言われています。

これに関連して、第2代宗家・摩文仁賢榮先生は、著書『武道空手への招待』の中で次のように述べておられます。

「空手をやることが楽しくて、誰が何といってもやめられない、というところまでいかないと、ほんものではありません。他人のための修行ではなく、自分自身が止むに止まれぬ空手の修行の楽しみを味わうのでなければ、この無限の道をたどっていけるものではありません。」

そしてこの修行三昧の境地を、賢和先生は歌に託してこのように詠まれたそうです。

ところでこの歌は、どこで詠まれたものなのでしょうか?

ここに一冊の古いノートがあります。摩文仁賢和先生が、日頃の研究の成果をびっしりと書き留めたノートです。いわば賢和先生の分身と言っても過言ではない貴重なノートです。

この覚え書きの中に、たった2行にわたって、この歌が綴られています。(赤枠は管理人による)

そして何とこのノートが摩文仁賢和先生から辻川先生に手渡されたそうです。

時期は賢和先生が亡くなる12〜17年前と言われています。

ノートの中央に「研究」という文字が見えますが、その右上に縦書きで「辻川君」という文字がうっすら見えるのがご覧いただけますでしょうか?

これは小生の勝手な推測ですが、一体なぜ、賢和先生は、これほど大切なノートを、ご長男の賢榮先生ではなく辻川先生に手渡されたのでしょうか。。。?

晩年の賢和先生が辻川先生に託する重大な決意があったのでしょうか?

もし、時計を「あの日」に戻せたなら、その後の空手界が現在とは変わった流れになっていたのかも知れません。

考えれば考えるほど「謎」は深まるばかりです。

「あの日」とは一体。。。?

それは明日の投稿記事に関連します。

※今回のモノクロ写真の出典は、昨年行われた摩文仁賢和先生生誕120周年記念行事で配布された資料です。
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