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糸東流初代宗家・摩文仁賢和先生

昨日、糸東流第2代宗家のことを書かせていただきましたが、せっかくですので初代宗家のことも少しだけ触れさせていただきたいと思います。

初代宗家の人となりについては、様々な視点から論じられておりますが、ご長男である第2代宗家・摩文仁賢榮先生からご覧になった初代宗家について、昨日ご紹介した『武道空手への招待』では次のように書かれています。

「おおらかというか、人なつっこいというか、父は誰からも好かれる性格でした。

無欲恬淡で、自分は困っていても、どんどん他人に与えて、後で困るようなことがたびたびありました。

明治の廃藩置県で、摩文仁家も士族となり、祖父は政府から一時金を得て菓子屋をはじめたことがあったそうです。

ところが、父が次から次へと気前よく友人にお菓子をあげてしまうため、結局すぐに廃業してしまった、という冗談のような話もあります。

生来、不器用であった父は、碁、将棋、賭事は一切嫌いでした。

酒は中年以後はほとんど飲みませんでしたが、煙草は好きでゴールデンバットを愛用していました。

終戦直後は、すべてのものが配給で、煙草のような嗜好品は、なかなか手に入りません。

父は、せっかく頂いた煙草でも、弟子が吸いたそうにしていると、自分が吸う分がなくなるのも平気で、一本といわず箱ごとあげてしまう。

一事が万事、こんな調子でした。

このように、父は金銭や物に対する欲はなかったですが、武道に対してだけは、誰よりも貪欲でした。

大きく押し寄せてくる近代化の波によって、沖縄の≪手≫が失われてしまうという無意識の危機感があったのかもしれません。

父は、沖縄各地に伝わる≪手≫を一心に修得しようとしました。」

「沖縄時代、裸電球の灯りのもと、心胆相照らす仲間たちと、昼夜を忘れて空手の稽古に打ち込んでいた父。

来阪してからは、明日の生活すらおぼつかないなかで、いつも二、三人の居候たちと、ひたすら研鑽に励んでいた父。

若い弟子たちが、無事戦地から帰ったことを我が事のように喜び、ふたたび彼らが畳をボロボロにしながら稽古する様子を、目を細めながら見守っていた父。

その父の薫りが、この体にこびりついて離れません。」

空手の修行に没頭される初代宗家のご様子が、当時の時代背景とともにイメージとして浮かびます。

ちなみに、昨年は、摩文仁賢和先生の生誕120周年でもありました。

最後に、こちらの写真ですが、左側が摩文仁賢和先生です。

では右側はどなたでしょうか?

ヒント:我々が大変お世話になった方です。

もうおわかりですね。
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