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糸東流と中国拳法

昨日もご覧いただいた下の図ですが、今日は「その他」にあたる部分をご紹介します。



以前の投稿記事にも書かせていただきましたが、糸東流は「首里手」と「那覇手」、つまり、「糸洲系統」と「東恩納系統」が大きな柱ではありますが、それだけではありません。

初代宗家・摩文仁賢和先生は、様々な流派から技や形を吸収し、泊手や新垣派をはじめ他流派の形も糸東流の中に組み込まれています。

現役部員の皆さんや若手OB諸先輩方はよくご存じ方かと思いますが、全空連第2指定形として、糸東流の形の中に、ニーパイポ(二十八歩)というのがあります。

この形は一体、どの「派」に属するのでしょうか?

実はどれにもあてはまりません。

この形は、中国拳法の流れを汲むもので、独特の円の動きを取り入れた特徴的な動作が多く含まれます。

賢和先生は中国拳法まで習っておられたのでしょうか。。。?

事実はそうではないようです。

賢和先生のお弟子さんの中に、中国人で拳法の使い手「呉賢貴(ごけんき)」という方がおられ、このニーパイポを伝えたと言われます。

ちなみに、この形の原型は、「ネーパイ」と呼んでいたそうです。

中国・福州地方では二十八を単に二八(ネーパイ)という風習があったことからこう呼ばれていたようです。

右の写真は、大変珍しい、「呉賢貴」の演武している姿です。

斜め後ろにおられるのが、摩文仁賢和先生で、場所は関西大学だそうです。

現役部員の皆さんは、「呉賢貴」という名前をぜひ覚えておいてください。


最後に、昨年度新潟国体で梶川凛美選手の演じるニーパイポです。

ちなみに糸東会の選手で、現在関西大学の学生さんです。



以上で、簡単ではありましたが、糸東流の源流を辿る一連の投稿は一区切りとさせていただきます。

さて、今日は4回生の追いコンです。

立派に本学空手道部を卒業し、晴れて社会へ出て行く彼らの門出を祝ってあげましょう!

泊手について

ここまであちこち寄り道しながらも「糸東流の源流を辿って行こう!」シリーズ(今、思いつきでネーミングしただけですが・笑)ということで原稿を書いてきました。


一応、下の図において青枠の部分は、簡単にではありますが触れてきました。



あと、残っているのは赤枠の部分です。

今日は泊手について簡単にご紹介したいと思います。

泊手は、技法的にも地理的にも、首里手と那覇手の中間に位置します。

技法的には、どちらかというと首里手に似ているかも知れません。

口碑に「山東省出身の禅南(チャンナン)という漂流人が伝えた」とあるだけで、それ以外のことはほとんどわかっていないそうです。

チャンナンについては、以前、糸洲安恒先生に関する記事の中で、「洞窟に住む謎の漂流民」としてご紹介しました。

泊手の代表的な指導者としては「中興の祖」と呼ばれる松茂良興作(まつもらこうさく)先生が有名です(右の図)

ただ、当時の稽古方法は、パッサイはA先生に、ナイハンチはB先生に習えという考え方で、一人の生徒が複数の師につくことが当たり前の時代でした。

実際、松茂良興作先生も、泊手と同時に首里手も学ばれていたそうです。

ですから、純粋に泊手のみを伝承した人というのはほとんどいないようです。

現在でも、首里手や那覇手の系統の道場はたくさんありますが、泊手系統の道場はと言われると、数は非常に少ないと思います。

しかし、形(かた)については、今の時代でも、競技でよく使用されるものが、元来泊手であったりということがあります。

例えば、「バッサイ」というのは、もともと泊手の古伝の形だそうです。

「トマリバッサイ」という形はよく試合でも使われますよね。

さらに先日もご紹介した「チャタンヤラクーシャンクー」も泊手と言われています。

あと、ポピュラーなものとしては「ローハイ」があります。

ほか、糸東流には、「松茂良」の名を冠する形がいくつもあります。

ちなみに、発音が「マツムラ〜」と「マツモラ〜」で似ているものがいくつかありますが、形としては両者は全く異なるものです。

現役部員の皆さんへ。

泊手のキーワードとしては「チャンナン」「中興の祖・松茂良興作」を覚えておいてください。


以上、簡単にではありますが、首里手、那覇手、泊手の違いについて説明させていただきました。

本土の四大流派はいずれもこれらの「手」が発展し、形成されています。

例えば、松涛館流は首里手の一部を採り入れ剛柔流は那覇手のみ和道流は首里手の一部を柔術流にアレンジしています。

しかし、糸東流は、流祖・摩文仁賢和先生がこれらすべての「手」を習得し、さらに他の流派も採り入れて開いた流派です。

何度もご説明いたしましたが、「糸東流」の名称は、首里手の大家・糸州安恒先生と那覇手の大家・東恩納寛量先生の頭文字を取ってつけられています。

では最後に、「トマリバッサイ」の演武をご覧いただきましょう。

演武者は、これまで何度もご紹介した宇佐見選手で、新潟国体での試合です。



同じ「バッサイ」という名称であっても、バッサイ大とは、一見似ているようでも、実際にやってみると、表現するべきものが全然違うことがわかります。

この映像をご覧いただけると一目瞭然ですが、縦の動きをいかに大きく、ダイナミックに表現できるかがポイントです。

単に手技を素速く行うというだけで、小さくまとまってしまうと、この形の「味」は失われてしまいます。

バッサイダイと同じような感覚で演武すると失敗しやすいと思います(自分の経験から)

明日は、もう一つだけ、糸東流に影響を与えたものをご紹介します。

「転掌」=「六機手」?

「三戦」以外にもう一つ、那覇手の鍛錬形といえば「転掌(てんしょう)」があります。

「三戦」と比べると円を描くような、しなやかな軌道が特徴的です。

まずは全日本空手道剛柔会最高師範・山口剛史先生の演武をご覧下さい。



この形は、剛柔流開祖・宮城長順先生が創作されたものと言われています。

実は、昭和初期までは「六機手(ろっきしゅ)」と呼ばれていました。

えっ!?ろ・っ・き・し・ゅ?

とても形の名前とは思えませんね(笑)

そもそも、「六機手」とは、6種類の手技の総称でした。

右の写真をご覧下さい。

これは、宮城先生が東恩納完量先生から伝承された「武備誌(ぶびし)」という大変貴重な文献です。








この中に6種類の手技が「六機手」として、図入りで説明されています(右の図)

そしてこの「六機手」の用法を練習するための形として宮城先生が創作されたのが、形・「六機手」だそうです。

それが後に「転掌」と名称変更されたというのが、定説です。




。。。が、これには反論があります。(私じゃありませんよ・笑)

そもそも武備誌の「六機手」をもとに創作したのなら、もっと形の動きの中にこの手技が入っていてもいいはずです。

しかし実際には、6個の手技はあまり形の中には含まれていません。

そこで「転掌」のルーツは武備誌の「六機手」ではなく、中国拳法の「八分寸」という「套路(とうろ)」に由来するのではないかという武術家もおられます。

中国拳法では、「形(かた)」とはいわず、「套路(とうろ)」と言います。

では一度、右の写真をクリックして「八分寸」の演武をご覧下さい。

確かに、一部分、「転掌」の動きにそっくりな箇所がありますよね。

皆さんはどう思われますか?



さて、ここからは余談なのですが、今日は武備誌と宮城長順先生の話題が絡みましたので、現役部員の皆さんにはぜひ覚えておいていただきたい雑学があります。

糸東流と並んで、現在わが国の「四大流派」の一つとして名高い「剛柔流」というのがありますが、そもそも「剛柔流」という名称は何に由来しているのでしょうか?

実は「武備誌」の中に「拳之大要八句」というのがあるのですが、そこに記されている「法剛柔呑吐」という言葉から来ていると言われます。



これは「法は剛柔を呑吐する」の意味で、「一切の存在、事象は全て「剛」と「柔」からなり、剛は陽、柔は陰となって万物を構成し、闘争における剛は攻めとなり柔は守りとしてその安全を計る。剛柔の一体化は闘争を避ける無我の心境へと導かれるのである。」ということだそうです。

何やら難しい言い回しですが。。。(笑)

最後の「剛柔の一体化は闘争を避ける無我の心境」というのが、宮城先生の、この遺句に通じるのでしょう。

人に打たれず人打たず、

事なきを、もととするなり


これが剛柔流空手道の修行の心得となっているそうです。

でもこれって、何かに似ていませんか?

「君子の拳」、つまり首里手の大家・糸洲安恒先生の言葉です。

この思想を受け継いだ糸東流開祖・摩文仁賢和先生は、剛柔流開祖・宮城長順先生と大変親交が深かったそうです。

やはり達人同士、相通じるものがあったのでしょうか。


では最後に糸東流の「転掌」の動画をご覧いただいて、那覇手の話題は一区切りとします。



「三戦」と「転掌」を毎日の稽古の最後に、整理体操みたいな感じで採り入れている道場も多いようです。

現役部員の皆さんもやってみてはどうですか?

三戦のルーツと変遷

昨日の動画でご紹介しましたが。。。

那覇手といえば代表的な鍛錬形に「三戦(サンチン)」があります。

挙動数の少ない形ではありますが、大きく吸って吐きながらゆっくり突き、そして構えるという動作が繰り返されます。

このとき、那覇手独特の呼吸法、つまり(文字で表現するのは難しいですが)「カハーッ、ハッ」という息吹に乗せて技を繰り出す流れは、重厚さを十分に感じます。

ところで、この三戦という形は、誰が作ったのでしょうか?

ルーツは一体どこにあるのでしょうか?

実は中国拳法の中に「三戦」という名称のものは多数あります。

ただ、中国拳法では「三戦」=「基本」というニュアンスを持つらしく、現在、我々が国内で目にする三戦の流れとほぼ同じものを中国拳法の中に見つけるのは至難の業です。

そもそも中国では、「三戦」は一部の例外を除いてほとんど全て「開掌」で行います。(右の写真)

従って攻撃は「貫手(ぬきて)」ということになり、指先で攻撃するのは大変危険であるために、沖縄では途中から握拳に変更したと言われます。

その結果、現在、国内で見られる三戦はほとんど全て握拳で行われています。

開掌を握拳に変更したのは、那覇手の祖・東恩納寛量先生です。

また、同じ三戦でも、時代とともに、指導者が変わるにつれ、様相が変わっていきます。

現在、標準的なスタイルの三戦は、ゆっくり突いて引き、息吹も長く、「カハーッ、ハッ」という激しい呼吸音の出るものですが、これは宮城長順先生の頃からこのようになったとも言われています。

東恩納寛量先生の頃の三戦は、もともと素速く突いて引き、呼吸も「スッ」という鋭く短い音を時々出していた程度だそうです。

また、宮城長順先生の三戦は、一時期、三歩前進した後、そのまま三歩後退するというやり方であったという記録も残っています。

ともかく、現在では三戦といえば握拳が当たり前のような感じですが、唯一、上地(うえち)流だけは、中国拳法の流れを忠実に残し、開掌の三戦が残っています。(右の写真)







では、ここで、上地流に残る、開掌の三戦を、ご覧下さい。

かなり古い映像ですが、昨日ご覧いただいた重厚な三戦に比べて、こちらはあっさりした感じです。

でもこれが上地流三戦の特徴なのです。



参考までに、中国拳法の三戦を一つだけご紹介します。

これは五祖拳の三戦です。日本国内で見る三戦とどのような点が違うのでしょうか?



はい、全く違いますね(笑)

日本の三戦とは似ても似つかぬ流れでした(笑)

ただ、全般的な流れの違いよりも、以下の2つのポイントに着目していただきたいと思います。


1)攻撃を出す手が両手か片手か

2)進み方が左右交互に足を前に出す方式か片足ずつ前に出す方式か


1)については、

ア)両手で攻撃する・・・双技三戦(そうぎさんちん)
イ)片手で攻撃する・・・単技三戦(たんぎさんちん)


2)については

A)左右交互に足を前に出す・・・双馬三戦(そうばさんちん)
B)同じ側の足を前に出す・・・単馬三戦(たんばさんちん)


といい、中国拳法では、ア)イ)とA)B)の組み合わせで三戦のタイプは分類されます。

ですからこの映像の三戦は「双技単馬三戦」の分類、日本の三戦は「単技双馬三戦」の分類に入ることになります。

ちなみに現在、中国拳法での三戦は、双技三戦、つまり両手で同時に攻撃するタイプが主流を占めているそうで、日本の三戦のように片手で攻撃するタイプのものはあまりないそうです。

このように三戦のルーツを訪ねていくといろいろと新たな発見があります。


では最後に、糸東流の三戦をご覧いただいて今日は終わりにしたいと思います。

現役部員の皆さんへ。

よく見ていただきたいのは、「三戦立ち」の立ち方と進み方です。

まず、立ち方ですが、前足は正面に対して60度で内側に向け、後ろ足は正面を向いています。

進み方は、まず前足のかかとを内側にひねるようにして戻してから、逆の足を前に進め、内側に向けます。

最近の形競技では、「前足のかかとを内側にひねって戻す」という動作を省略してリズミカルに表現しようとする選手が大半ですが、本来はこの動作をしなければならないということは覚えておいて下さい。



現役部員の皆さん。ここまで見てきたように、首里手と那覇手は体の使い方・技の出し方が随分違います。同時に、選手のタイプもいろいろで、首里手に向いている人もいれば那覇手に向いている人もいます。

日頃の稽古の中で、まずは両方の体の動きを覚え、次に、自分に合っているタイプの形を選択してより専門的に取り組んでいくというのも一つの方法です。

そういう意味では、今日ご紹介した「三戦」あるいは、後日述べる「転掌(てんしょう)」はぜひ練習に採り入れてもらいたい鍛錬形です。

東恩納寛量と沖縄訛り

今日は、那覇手の祖・東恩納寛量(ひがおんなかんりょう)先生(右の写真)について書かせていただきます。

東恩納先生は、下級士族の家に生まれ、長じてからは父親の伝馬船の海運業を手伝っておられたそうですが、結果的には、船を自由自在に操ることができたことがその後の運命を大きく変えることになったようです。

こんな逸話が残されています。

新垣先生に師事した後、中国へ渡った際、トゥルーコウ(ルールーコウ)(右下の写真)の門人となられました。

ところが、いつまで経っても、薪割など師の雑用ばかりで、拳法の修行は全くさせてもらえなかったそうです。

そんなある日、大洪水の襲来に巻き込まれました。

そのとき、東恩納寛量先生は、身命を投げ打ってトゥルーコウ一家を救助されたそうです。

特にトゥルーコウの娘が濁流にのまれて流された時、必死の救助で九死に一生を得ることができたとのことです。

伝馬戦による海運業に従事していたおかげで、荒波や濁流の扱いには慣れておられたようです。

これに感動したトゥルーコウが、東恩納寛量先生を内弟子とし、拳技を伝授するようになったという伝説が残っています。

修行を終えて帰国後、数名の弟子を指導されたそうですが、その中には、後に「東恩流」を開かれた許田重発先生、「剛柔流」の祖・宮城長順先生(右の写真)、そして宮城先生の紹介で、その後糸東流の開祖となられた摩文仁賢和先生がおられました。








ここまでの流れを、糸東流に関係する部分だけをピックアップして大ざっぱに図にするとこんな感じになります。
(泊手については後日書かせていただきます)



但し、実際の系図はもっと複雑で、いろいろな人物名が入ってきますので、誤解のないようにお願いします。

もっと詳しい系図をご覧になりたい方はこちらをクリックして下さい

首里手の系図

那覇手の系図


ということで、現役部員の皆さんは、「トゥルーコウ(ルールーコウ)〜東恩納完量」という流れを新たに覚えて下さい。

あと、できれば剛柔流の開祖・宮城長順先生の名前は覚えておいてほしいですね。


しかし、実を言うと、「トゥルーコウ」という人物が一体誰なのか明確にされていないのが本当のところなのです。

右上2つ目の写真も果たして本物なのかどうなのか。。。(笑)

何やそれ。。。!?

すいません。。。

実はトゥルーコウに限らず、空手の歴史は不明な点があまりにも多いので、様々な説が飛びかっています。

一体なぜなのでしょうか?

理由はいろいろありますが。。。

中国語の発音の聞き取りにくさ(しかも地方によって方言が様々に変わってきます)
沖縄訛り
・当時の沖縄の識字率の低さ(ほとんど文字の読み書きのできる人がいなかった)

特に沖縄訛りでは、「あ・い・う」の3つの母音しか使わないということが、名称の伝達を著しく妨げました。

「え」音は「い」音に、「お」音は「う」音に置き換えられてしまうため、例えば、「ソバ」は「スバ」、「タバコ」は「タバク」という発音になります。

その結果、形の名称もいろいろで、同じ形なのに、いくつも名前があったりします。

例えば、昨日ご紹介した「スーパーリンペイ」でも「ベッチューリン」「ソパーリンパイ」その他いくつかの形名が存在します。

しかも文字の読み書きが難しかったために、記録が残らず、様々な当て字が用いられています。

例えば、「バッサイ」は「抜塞」「抜砦」という表記、セイエンチンは「征遠鎮」「制引戦」「制引鎮」「清栄戦」「青鷹戦」という表記があるのはほんの一例です。

ですから、空手の歴史については数多くの文献がありますが、どれが真実であるかは、正直、小生のレベルでは何とも言えないところがあります。


では、最後に、剛柔流の「三戦(サンチン)」という形をご覧下さい。

演武者は全日本空手道剛柔会最高師範・山口剛史先生です。

実は「三戦」にもいろいろあるのですが、詳しくは次回ご紹介いたします。

今日はまずオーソドックスな剛柔流三戦から。。。



明日は三戦のルーツと変遷についてご紹介します。

那覇手について

今日から3月です。2月中は「毎日更新」を心がけてきましたが、さて今月は。。。絶対無理でしょう(笑)

ここまで、糸東流の空手道を理解する上で、大きな2つの源流を遡ろうとしてきました。

とりあえず、前半の首里手の話題が終わったところでちょっと休憩していましたが、いよいよ後半戦(?)の那覇手に話題は移ります。


那覇手は首里手に比べて歴史的には新しく、那覇の久米村に伝えられた拳法が基礎となり、その原型を色濃く残しています。

このとき伝えられたのは、中国福建省の南派拳法で、接近戦を得意とします。

余談ですが、首里手と那覇手の違いを表す「南拳北腿」という言葉があります。

北派拳法は概して足技が多様で動作が大きく雄壮であり、南派拳法は手技を重んじ、しかも短打(接近戦法)が多いということに由来します。

久米村の新垣世璋(あらがきせしょう)という先生は、「猫(マヤー)新垣」という異名をとる達人で、那覇手は、新垣先生に師事した東恩納寛量(ひがおんなかんりょう)先生(右の写真)によって大成されました。

。。。と書くとすんなり終わってしまいますが、実は、この久米村に伝えられた拳法は、外部の者には相伝しないものとされていました。

にもかかわらず、久米村の住人でもない東恩納寛量先生が、その技法を伝授されたというのは、歴史上の一つの疑問でもあります。

新垣先生がよほど東恩納先生の素質をすぐれたものとみなしておられたのか、商売上の取引関係の延長でこのようになったのか。。。



那覇手の技法としては、首里手にはない独特の気息(きそく)法を行いながら、全身の筋肉を収縮させる練習をし、基本形として「三戦(さんちん)」「転掌(てんしょう)」を修練します。

これらの形については、後日あらためてご紹介しますが、右の写真をクリックしていただくと、鍛錬型によって稽古している様子を動画でご覧いただけます(WindowsMediaPlayerで再生して下さい)

独特の気息と筋肉の締めというのがご理解いただけるのではないかと思います。







ここで首里手と那覇手の技法の違いを一つだけご紹介します。

例えば「掛け手」という技に関して、首里手は剣を相手にした遠距離戦を想定していますので、離れた間合いから相手の腕を巻き込んでこちらに引くように掛けます(右の写真上側)

一方、接近戦を想定した那覇手では、相手との間合いが詰まっていますから、手の平を立てるようにして使います(右の写真下側)

実際、競技を行っている選手がこの違いを意識しているかどうかはわかりませんが、那覇手は受け方にも独特の理論があり、首里手と比較すると結構面白いものです。



現役部員の皆さんへ。

ここまでの「那覇手」のキーワードとして、「新垣世璋」・「東恩納寛量」の流れ「南派」、「接近戦」、「三戦」、「転掌」という言葉を覚えておいて下さい。


さて、肝心な話はここまでにして、得意の「脱線」に移ります(笑)

いきなりですが、、右の写真、何だかわかりますか?

コートでも引っ掛けるのでしょうか?(笑)そんなわけないですよね?

これは「木人(ぼくじん)」といって、主に南派拳術で使用される木製の丸太人形です。

腕が3本、足が1本の合計4本の棒状の突起が本体から出ていますよね?

一体、これでどういう練習をするのでしょうか?

次の動画をご覧下さい。昔、ジャッキー・チェンの映画でも似たような稽古風景の場面がありました。




次に、こうした練習をするとどういう実践につながるのでしょうか?

この動画をご覧いただければ、南派拳法が接近戦を得意にしているということがイメージとしてご理解いただけるのではないかと思います。




さらにこういう接近戦を見ると、空手道の「回し受け」(左図)という技法が那覇手の形に多く見られるのも納得できますよね。

では、最後に那覇手の最高の形・スーパーリンペイという形をご覧下さい。演武するのは、豊見城あずさ選手です。

最初の方に四方向に何度も回し受けの場面が出て来ます。但しこの動画は糸東流のスーパーリンペイではありません。



今日は珍しく一度脱線してまた元に戻ってきました(笑)

「平安」=「チャンナン」?

首里手の話題がずっと続きましたが、とりあえず今日で一区切りとします。

右の写真は、現役諸君もよくご存じの通り、昇級審査で使っている「平安(へいあん)」の形です。

今さら申し上げるまでもありませんが、右側が平安初段、左側が平安二段です。



この形を創作されたのは、以前ご紹介した首里手の大家・糸洲安恒(いとすあんこう)先生です。

右下は、昭和初期、首里城で平安の形を集団演武している有名な写真です。

このように、糸洲先生は、唐手を体育的に普及させようと努力されました。





ところで、周知の通り、平安は初段〜五段までありますが、実はこれらの形の原型「チャンナン」と呼ばれたそうです。

「チャンナン」と「平安」???

日本語読みと中国語読みの違いでしょうか?

いいえ、そうではありません。

ではなぜこんなにも呼び方が違うのでしょうか?

幕末の頃、沖縄の泊地方に漂流した一人の清国人がいました。

その人の名前を「チャンナン」といいます。

実は、洞窟で暮らすこの謎の漂流民「チャンナン」がものすごい拳法の達人であるという噂が広まり、多くの人たちが弟子入りしました。

その弟子の一人に、糸洲安恒先生がおられたわけです。

糸洲先生は、このときチャンナンから教わった形を、後に形名「チャンナン」として門下生に指導しておられましたが、その後「クーサンクー」その他の形の技法を採り入れ、改正し、「平安」初段〜五段までを完成されたそうです。


ところで、なぜこの形名を「平安」と名付けたのでしょう?

それは糸洲先生の唐手(空手道)に対する思想が如実に反映されていると言われます。

決して好戦的に利用してはならず、暴を禁じ、やむをえざる時に悪を制して平和の実現を樹立することの教示が込められているそうです。

それはまさに「空手に先手なし」・「君子の拳」の教育思想に合致するものでした。

先の記事にも書きましたが、「君子の拳」という言葉を最初に用いたのは糸洲安恒先生です。

ちなみに形名の読み方も日本語音ではなく、中国音で「ピンアン」と呼ばせることで、源流国・中国への敬意を示そうという意図があったようです。


現役部員の皆さんへ。

これで1本の線がつながったでしょうか?

「空手に先手なし」・「君子の拳」・「平安」、これら全てが首里手の大家・「糸洲安恒」先生というキーワードで括られます。

その教えが、弟子の摩文仁賢和先生、さらには第2代宗家・摩文仁賢榮先生や辻川元老へと受け継がれました。

そしてその延長上に神戸大学空手道部があります。

小生が何を言いたいかわかりますか?

この糸洲先生の根本思想が、本学空手道部の伝統である「五誓」の5番目の文言に通じるということです。

一、至誠に悖る事なし

一、言行に恥ずる事なし

一、気力に欠くる事なし

一、努力を惜しむ事なし

一、血気の勇に逸(はや)る事なし


「五誓」は糸東流空手道の根本精神を受け継いでいます。

ぜひ復活させて下さい!


最後に糸東流の平安初段を動画でご覧いただきたいと思います。

演武されているのは、全国糸東会理事長の岩田源三先生です。

周囲の方々は、親しみを込めて「源三さん」とか「源三先生」と呼んでおられます。

現役部員の皆さんは、最初の方の挙動で、後方に向きながら中段横受けと蹴りを同時に行っている点に注目して下さい。

本学の昇級審査ではほとんどの人ができていませんが、我々審査員はこういう点を見ていますよ。
しっかり稽古して下さいね!笑顔



明日は、那覇手の話に移る前に、ちょっとしたカレントトピックスをお伝えします。

示現流剣術と巻き藁突きの関係

今日は、首里手についてちょっと寄り道したいと思います(笑)

昨日の首里手の説明の中でご紹介した松村宗棍(まつむらそうこん)先生は、示現流(じげんりゅう)剣術も極められました。

実は、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術であるこの示現流剣術と空手には、あるつながりがあります。





空手に「一撃必殺」という言葉がありますが、この思想は松村先生によって形成され、それに大きな影響を与えたのが示現流剣術と言われています。

示現流の極意は、常に機先を制するにあり、一の太刀、つまり「初太刀」がすべてであるという教えを基本にしているそうで、西南戦争でも、薩摩武士の斬り下ろす初太刀の威力と速度は群を抜いていたそうです。

もう1つ、示現流剣術が空手に影響を与えたことがあります。

示現流の達人は、軒の雨だれが地に落ちるまでに、三回抜き打ちができたそうですが、驚異的なスピードと初太刀にかける気魄を練るために、示現流では独特の「立木打ち」というものを行っているそうです。

これは木を適当な長さに切って木刀代わりとし、直立した丸太を袈裟がけに左右からすさまじい気合とともに打ち込みます。(右の写真)



この稽古方法がヒントとなって、松村先生が考案されたのが、空手の伝統的な稽古法である「巻き藁突き」なのだそうです。(右の写真)








では示現流の「立木打ち」とは一体どのようなものなのでしょうか。
ここをクリックしていただければ映像をご覧いただけます。

※ものすごい気合い(奇声?)が音声として流れますので、周囲に誰かおられるときはできるだけボリュームを下げて動画再生して下さい(笑)
「一体何事か!?」とビックリされるかも知れませんので。。。
何人か登場しますが、一人分ご覧いただければ十分(?)かと思います。


このように、首里手の大成者・松村先生が示現流の免許皆伝であったことが、空手道が発達する上での決定的な要因となりました。

ところで我らが六甲台道場の巻き藁はというと。。。あれ?ない。。。(涙)

沖縄古来の「手(ティ)」 〜首里手〜

以前の投稿記事の中で、「首里手」「那覇手」「泊手」という言葉を紹介させていただきました。

なぜ「首里空手」と呼ばず「首里手」なのでしょうか?

現在の「四大流派」の区分とこれらの「手」の区分は無関係なのでしょうか?

まず、名称からお察しいただけるかと思いますが、「首里」も「那覇」も「泊」も地名です。
(右の写真は首里城跡の守礼門

そしてそれぞれの地で特色ある拳法が発達し、研究も盛んに行われました。

この、中国拳法を取り入れながら沖縄で発達した拳法のことを「手(ティ)」と呼び、中国伝来の拳法を「唐手(トゥディ)」と呼んで区別していたそうです。

そしてそれぞれの地名を冠して「首里手」「那覇手」「泊手」と呼ぶようになったということです。

では、これらはどういう特徴を持っているのでしょうか?

3つの「手」のうち、最も古いのは首里手で、沖縄本来の「手」が中国拳法を取り込んで独自に発達したと言われ、首里士族の間で極秘裡に伝えられたそうです。

不世出の拳聖・松村宗棍(まつむらそうこん)先生とその後継者・糸洲安恒(いとすあんこう)先生によって首里手は大成されました。

(左の写真 左:松村先生 右:糸洲先生)






そして松村先生が師事されたのが、佐久川寛賀先生(左の写真)で、中国から唐手(トゥディ)を学んで首里士族に教示したため「唐手(トゥディ)佐久川」という異名を持っておられます。

さらに、佐久川先生が学ばれたのは、北京の北派拳法で、これが首里手の原型になったと言われています。
また、首里手は、剣を相手にする遠距離戦を想定しています。



そして、この首里手からは後に船腰義珍(ふなこしぎちん/松涛館流創始者)先生、さらにその弟子に大塚博紀(和道流創始者)先生が出たため、後の四大流派のうちの二流派が、この首里手から発生したということになります。

(左の写真 左:船腰先生 右:大塚先生)




現役部員の皆さんへ。

ここまでの「首里手」のキーワードとして、「佐久川寛賀(唐手佐久川)」・「松村宗棍」・「糸洲安恒」の流れと「北派」・「遠距離戦」という言葉は、ぜひ教養として覚えておいて下さい。

簡単に言ってしまえば、形競技を見ていて、「ビシッ、バシッ」と素速い動きで軽快に技を極めていく形は北派の系統と思っていただいてよいのではないでしょうか。

今日はちょっとカラフルにいってみました。
   
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