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2016年03月29日

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ ♯25話(最終話)を見て確信した、「オルフェンズは名作だ!」という思いについて

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ、25話で最終話となりました。

今までのガンダムとは味付けがかなり違っている今回の「鉄血のオルフェンズ」、独特な作品として今後も語り継がれていくであろう名作の気配を感じていましたが、この最終話でもその思いを強くすることが出来ました。

第24話では、今シリーズの最終目的地に到達する直前で、敵(ギャラルホルン)の完全版”阿頼耶識システム”と成り果てたアインが駆るガンダムフレームが突如として現れ、鉄華団とアービンズのモビルスーツを次々と破壊していくという衝撃的な展開となりました。
仲間の犠牲を払っても目的地に辿り着くことができないのか?と視聴者を大いにハラハラさせたことと思います。
そして最後のシーンでは三日月のバルバトスが戦いを挑むこととなり、敵の圧倒的な反応速度・機動力の前にどう戦うんだ!?とアツい展開で最終話へー。
という流れでした。

さて、昨日の最終話です。
前回までの熱い展開をしっかりと受け止め、更なる危機感を演出しながら、最後は三日月がアインを倒し、鉄華団もその目的を果たすという大団円的な話となりました。

しかし、その過程が、「さすがはオルフェンズ・・・」と唸らせるものでした。
主人公である三日月は、敵との反応速度の差を何とか埋めようと、バルバトスのリンクをさらに強化しようともがきます。「もっとよこせ、バルバトス!!」と叫ぶ三日月の右目からは鮮血が溢れていました。その結果、敵を倒すことには成功しましたが、その後のシーンでは右目の視力と右手の運動能力を失った様子が描かれました。
勝利のために大きな代償を払った、ということなのでしょう。

敵モビルスーツ(人間を捨てた完全なる阿頼耶識システム)に勝つために、自分の阿頼耶識システムによる機体とのリンクを極限まで高めた結果、その影響として、右目・右手の感覚を失った三日月。
しかし本人は「バルバトスに乗っている時は動くからちゃんと働ける」と全く気にとめる様子を見せないのも、いかにもオルフェンズ的な演出で印象的でした。

なぜ三日月に代償を払わせたのか?


物語の作り手としては、代償を払わずに「秘めた力を発揮して敵を倒す」という単純な展開で作りこむことも可能だったはずです。
あるいは、ギリギリまで体と精神を追い込んだとしても、「体に後遺症を残すまでの状態にはしない」というパターンもありです(実際にこのパターンは王道と言えるほどよく出てきます)。
しかしオルフェンズでは、これらの展開は使用しませんでした。

なぜ製作者はこれらの手法を使用せず、「代償と引き換えに敵を倒す」というエピソードを選択したのでしょうか。
また、アインを倒す際に、バルバトスの”剣”を敵モビルスーツの胸部、つまりアインそのものに突き刺して殺すという生々しい人の死を感じさせる演出をなぜ使ったのでしょうか。

この理由を考えてみると、「最近のガンダムとは違う」と私がオルフェンズの独自性を強く感じる理由が見えてきます。

戦い・戦争の描き方を通して伝えたい何かがある


オルフェンズの戦闘は、最近のガンダムとは一線を画します。
その要素となっているのは、次の2点です。

・モビルスーツが”叩き壊し合う”戦闘方法
・残酷さを隠さない演出

それぞれについて触れておきます。

1.モビルスーツが”叩き壊し合う”戦闘方法


周知のことですが、バルバトスでは「ビームライフル」「ビームサーベル」といったガンダムお馴染みのビーム兵器は出てきません。
ガンダムの戦闘といえば、

・ビームライフルが当たって爆発する。
・ビームサーベルで真っ二つに機体が切られ、爆発する。
・パイロットは爆発に巻き込まれて絶命する。または、機体の爆発のみで、パイロットの死は直接描かれない。

という描かれ方が主流でした。これに対して、今回のオルフェンズでは

・剣や棍棒、でかいペンチのような武器で敵を殴打して壊す。
・爆発はあまりない。
・パイロットはコクピットごと変形して押し潰されるか、剣などの鋭利な金属によってコクピットごと貫かれて死亡する。

という描かれ方になっています。
ひどく生々しい描かれ方です。
要はモビルスーツを大きな鈍器で”ぶっ叩いて壊す”訳ですが、モビルスーツだって頑丈ですからすぐには壊れません。何度も叩き、突き刺すという攻撃を繰り返さなければなりません。
人型をしたモビルスーツが何度も何度も叩かれ、壊れていく様には、思わず目を背けたくなる時すらありました。

さらに爆発して四散することもありませんから、壊れたモビルスーツや、押しつぶされたコクピットはそのまま現場に残ります。いつまでも破壊の後味が残る戦場の光景は、他のガンダムでは見ることが出来ないオルフェンズ独特の世界です。

2.残酷さを隠さない演出



「どうして戦わなければいけないんだ!」
「争いでは何も解決できないじゃないか」
「こんなことを繰り返していたら、心が壊れて人間ではなくなってしまう!」

近頃のガンダムは、主人公が何かと綺麗事のような叫びを繰り返すシーンが目につくという印象がありました。
これは主観によるところが大ですので、一部だけを捉えた間違った見方かもしれませんが、ユニコーンでも主人公の青臭さがどうしても鼻について作品に没頭できませんでした。
08小隊も私には駄目でした。
更に前になりますが、キャラクターは大好きなガンダムWでも最後は「全モビルスーツを廃棄して戦争のない世界に・・・」とかいう終わり方に悶絶したことを覚えています。

ひとことで言うと、繰り返しになりますが、

「何か綺麗事ばかり言おうとしていないか?」

という疑念をいつしかガンダム作品に対して抱くようになっていたのです。

でもオルフェンズは違います。
主人公は綺麗事は一切言いませんし、敵側が何か理想論的な事をウダウダ言うのですが「うるさいな」と一蹴です。
表情一つ変えずに敵を殺します。

少年どうしが殺し合うシーンもありました。
白兵戦では非戦闘員を装った少年が騙し討ちで銃撃を行い、さらに返り討ちにあって撃ち殺されるという場面では、批判的なコメントも多数寄せられたと聞きます。
あまりにも残虐な描写ではないか?というのがその内容です。

ですが私は、これらの場面に「戦争とは残虐で残酷なものなんだ」というメッセージを受け取りました。
決して残虐さを煽っているものではありません。そのような作品(漫画・映画・ドラマ・ゲーム等いろいろあります)は、残虐さや残酷さをただただ”刺激”として取り扱い、作品を売るためのツールとして活用しています。

しかしオルフェンズは違います。
主人公は「必要だから殺している」のであり、必要がなければ戦いも殺しもしません。中立な存在として描かれています。
ですが、戦闘行為を伴う以上、平和な日常に生きる私たちからすれば「残酷」だと感じる行為は必ず起こるのです。それをただオルフェンズは「そこにあるもの」として描きます。

そうすることで、戦いの残酷さ、理不尽さ、人が殺されることは痛くて辛いことなんだという当たり前のことを、しかし世界から戦いが消えない残酷な現実を、オルフェンズはガンダムファンにもう一度問いかけているんです。

だから三日月は代償を支払わなければならなかった。
戦争がもたらす痛みや悲劇を私たちに伝えるために。

まとめ


これら以外にも、振り返れば見どころがたくさんあったと思います。
仲間との絆、義兄弟の愛情、大人の下ネタ的な台詞、などなど。
何より前期のED曲「オルフェンズの涙」は素晴らしかったです。
後期でも一度だけED曲として流れ、その時は、つい感極まって涙が溢れそうになってしまいました。

第二期は秋に開始との事で、その日を一日千秋の思いで待ちたいと思います!
posted by 霧島もとみ at 2016年03月29日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年03月23日

1つのテーマごとに1つのブログ?それって面倒くさくない?と考えたかつての自分にこの記事を捧げます

このブログは、今のところ、自分が読んで「面白い!」と感じた本や漫画の感想を紹介したり、テレビを見ていて考えたことを綴ったり、ブログそのものについて考えたことを書いているブログです。

まずはとにかく何でも書いてみよう!
「習うより慣れろ」だ!

という感じで「とにかく書くこと」だけを考えているブログです。
ですが今日、

このままではイマイチなんじゃないか?

と、ふと考えさせられました。

このブログを振り返ってみる


今の書き方は、

1.書くことを思いつく・考える
2.PCに向かって書く。
3.出来上がった記事を装飾したあと、今ブログの中にあるカテゴリーの中で「どれに当てはまるかな?」と考えて選ぶ。

という感じです。
・・・まあ、別に悪くない気もします。
普通というか、当たり前のことのようにも感じられます。

そもそもブログというのは、本来Web(ウェブ)上に何かの記録(ログ)を残していくもの、という意味合いのものですから、日記のように思いついたことをひたすら残していけば良い訳です。

でもこれ、あくまでも自分目線での話じゃないか?というのが今日の疑問の本質です。

ブログは書き手の目線?読み手の目線?


自分が「書く」という事に対しては、今、書いているこの記事を書ききればそれで作業は終わります。ある程度考えの整理もできて、それを第三者に伝える文章に変え、これをブログにUPすることで第三者に対して発信できる場所を作り出せます。
これはコレで意味があることだと思います。

でも発信した情報は「誰かに読んでもらいたい」という性格を備えたもののはずです。そうでなければ自分のPCの中で密かに日記なりEvernoteなりで書き溜めていけばいい。であれば、「記事を読む人」の存在を何も考えないというのは、両輪のうち片輪を欠いたままの状態と同じではないか?と自分自身で疑問に思ったんですね。

記事を読む人の存在を考えたとき、意識しなければならないのは「読み手の目線」です。
この目線から自分のブログを見ると一体どのように見えるだろう?そう考えを巡らせてみたとき・・・その様相は一変しました。

見にくい。

何が見にくいのか?といいますと、「自分が読みたい記事がどこにあるのか全然分からない」ということです。

読み手目線で考えて「読みやすい」「面白い」ブログとは?


仮に自分がたまたまこのブログを訪れたとします。
それはおそらく、グーグルなどで検索して、たまたま検索結果に表示されたページを順番に見ていき、たまたま訪問したということでしょうか。
そのとき、読み手である自分が何を読みたいかというと、「自分が検索したキーワードに関連する記事」です。

確かに、検索に表示された記事自体は面白いかもしれません。
グーグルなどの検索エンジンがアルゴリズムで判断した結果ですからまず関連はあるはずですし、一応、自分としてもそれなりに内容や表現を考えて書いた記事でもありますから、記事単体は「面白いね」と考えてもらえるかもしれません。

では仮にたまたま訪れたそのページを「面白い」と感じてくれた人が次に何を考えるか?
それはやはり、

1.面白い記事だから、
2.このサイト中の、
3.このキーワードに関連した別の記事を
4.簡単に探して読んでみたい。

ということでは無いでしょうか?
例えその記事が面白かったとしても、読み手との関係性はあくまで「特定のキーワードに関連した内容」という事でしかないんです。
まだまだ「書き手と読み手の関係」では無い訳ですね。だとするとやはり読みたいと思ってもらえるのは、あくまでも「特定のキーワードに関連した内容」でなければならない訳です。

「書き手と読み手の関係」で興味を持ってもらえるのは、つまり「書き手そのもの」に興味を持ってもらえる場合です。
例えば書き手が有名人なら、最初からこの構図が成り立ちます。
書かれた記事は時系列でどんどん読んでもらえる可能性が高いと想像します。

しかし有名人でなければ、よほど多くの記事を「面白い」と思ってもらってからではなければ、この構図は成り立ちません。

であれば、やはり「特定のキーワード」の記事を探しやすいサイトを構築しなければならないんじゃないか。
こういう結論に至りました。

今のところ、このブログは「書き手目線」のものでしかありません。
そのことを今日はっきりと自覚しましたので、サイトの構築デザインとでもいうのでしょうか、組み立てを考えてみたいと思います。

”1つのテーマごとに1つのブログ”

これが常道です!と書かれたブログを以前に読んだ時に、正直「面倒くさいのになんで?」と感じたことを思い出しました。
やっぱりちゃんと理由があるってことですね。こんな事でも、やはり体験してみないと自分の経験としては腑に落ちない訳で、やはりどんな形でもブログを書いていて良かったなと思いました。
タグ:ブログ
posted by 霧島もとみ at 2016年03月23日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2016年03月20日

ブログを継続して書いてみて初めて気付いた、書き続けるために重要だと気付いた3つのこと。

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”継続は力なり”という名言があります。

どんなことでも続けることで力になる。
逆の見方で言えば、どんなに素晴らしいことでも継続できないものは何の意味もなさない、という大変厳しい言葉ですが、私は「続けることが力になる」という意味だと信じたいと考えています。

信じたいと「考えている」・・・?

それは違う!と今、突然に自分にツッコミを入れました。

ちょっと脱線しますが、信じることは考えることではない。
「信じるということは技術なんです」と、サッカー日本代表の本田圭佑選手がNHKのプロフェッショナルという番組で話していました。
つまり、一もニもなく信じるということ。時には不安に揺れ動く弱い心に「信じる」という一本の芯を通し、それを貫くという意思の技術なんだということ。
そして「信じる」という行為が自分に力を与えてくれると本田選手は話していました。

この記憶が今突然よみがえり、自分を突き動かすのを感じました。
ということでもう一度宣言します。

続けることが力になるのだと。

では何を続けているのかというと、このブログです。前置きが大変長くなりましたが、今日はふと感じた、記事を書き続けていくなかで、

・やたらと記事がすんなり書ける日
・どれだけ捻り出そうとしても何も浮かび上がらない日


という波があるという感想です。
生物である以上波があることは当然だと思いますが、この波の理由についてひらめき的なものがあったので、書いておくことにします。

まず、それぞれの状態の時の自分を思い出してみます。

書ける時の状態


・短時間で一気に書ける。
・内容を見返してみてもそれなりに書けている。
・面白いと感じることが多い。
・パソコンに向かう前に「今日はこれを書こう」とイメージが湧いている気がする。


書けない時の状態


・とにかく時間がかかる。
・指が全然進まない。
・書いては消し、書いては消しの繰り返しになることが多い。
・読んでみても何だかイマイチ。
・「今日はとりあえず書いておかないと駄目だ」という半ば義務的な感情で記事を書き始めている。

大体こんな感じですね。はっきりと状態に違いがあることが分かります。
書いているのは同じ人間なのにどうしてこの差が出るんでしょうか?
これを考察してみたいと思います。

両極端な2つの状態、違ってしまう理由は何だろう?と考えてみる


自分で書いていて、それぞれの状態の最終項目が気になりました。

書ける時・・・”パソコンに向かう前に「今日はこれを書こう」とイメージが湧いている気がする。”
書けない時・・・”「今日はとりあえず書いておかないと駄目だ」という半ば義務的な感情で記事を書き始めている。”

つまりパソコンに向かって記事を書き始める前の時点で、自分の中で記事を書く準備が整っているかどうか、つまるところこれが原因だということが考えられます。
記事のイメージが具体化している時は前者となり、何のイメージも持っていない時は後者となる、とても分かりやすい話ですね。ということは、ブログを継続して書くためには、記事のイメージを常に具体化しておくことが必要だということです。

言うのは簡単ですが、これは実際にはとても難しいことです。
簡単に出来るのなら、私のブログは最低1日1回の記事が書き込まれ、かつ、そのどれもクオリティが高いものになるということになるのですから。

正直、毎日これをするなんてことは当然ながら出来ていません。
ではどうしたら、「記事のイメージを具体化した」という状態を自分の中に作ることができるのでしょうか?

考えると、次のような事が挙げられました。
・材料となる情報をしっかりとインプット
・刺激を見逃さないため、何事にも興味を持って物事を見る
・それによりインスピレーションを得る
・インスピーレーションと、材料になる情報とを結びつけたうえで、アレンジして表現する技術を身につける→整理力・表現力

ということは、つまり、これらの事を「普段から意識して持っておくこと」が、実はブログを継続していくうえのコツなんだな、という考えに至りました。

いざ記事を書こうとパソコンに向かってから、あれこれ考えるのでは遅い!とうことで、こんな場合は面白い記事にはならないってことです。


仮説的な今日の結論


【問い】
・ブログを書き続けていくためには?
・書く行為のムラを解消するためにはどうすればいい?

【答え】
・とにかく書き続けること。
・面白い記事を書くためには、PCの前でじゃなく、普段の生活のなかで「面白いこと」を探す意識を持ち、無意識化で編集作業を行うこと。
・面白いことにセンサーを働かせるためのインプットを欠かさないこと。

ということで、引き続き頑張っていこうと考えを新たにしました!
タグ:ブログ
posted by 霧島もとみ at 2016年03月20日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2016年03月17日

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を27年の時を超えて見た感想 その2

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を見た感想として、「面白かった!」ということは前回書いたとおりです。

今回は前回書ききれなかった幾つかの「映画を見ていて考えさせられたこと」「ちょっと気になったこと」というのを、決して批判するのではなく、面白がるというスタンスで愛を込めながら書いてみたいと思います。

のび太の子どもっぽさで気付く、自分が大人になった現実


序盤、のび太は母親に怒られたことに腹を立てて「家出をする!」とドラえもんに宣言しました。この時にドラえもんに言ったことは、確か次のようなことだったと思いますが、とても立派な内容でした。

「ドラえもん、僕は家出をして一人で生活する。
誰にも頼らずに独り立ちするんだ。誰にも頼らないということは、衣・食・住を全部自分で用意するということ。誰にも文句を言われない生活を送るんだ!」


のび太、なかなか考えてるじゃん!
と素直に驚きました。まるで一身独立して国家独立すると言った福沢諭吉のような台詞に、一瞬でしたが「のび太カッコイイ」と感心してしまいました。

そう、一瞬でした。
なぜならこのあとに、

「だからドラえもん、道具貸して」

と、いきなりドラえもんに頼る姿勢を見せたからです。
それもただ頼るだけでなく、ドラえもんの「ひみつ道具」というチート手法によっていかに楽をして目的を達成するかという、とことん堕落しきった姿勢なのです。
おいおいのび太、さっきの格好良さはどこへ行ったんだよ!とツッコミまくりです。

といってものび太だけでは無いんですよね。
ジャイアンだって、スネオだって、しずかちゃんだって、この映画の中では結局ドラえもん頼りなんです。例えば皆で家出して古代に行ってしまう訳ですが、そこに行くための手段も「ひみつ道具」ですし、古代でも「ひみつ道具」に頼りきりで「快適で楽な生活」を満喫していました。

家出した先で食事がかつ丼やらカツカレーやら・・・

こいつらどんだけ世の中舐めてるんだ

とついつい思ってしまいます。
でも彼らは悪くありません。だってドラえもんがいるんですから。ドラえもんがいるのに、わざわざ本当のサバイバルに挑む必要性なんて何処にもありません。

でも大人になった今の自分はそんな彼らを見ていて考えてしまいます。
自分たちの力で道を切り拓いたような気になっていても、それは自分以外の誰かの力で用意してもらった環境の中で生かされているに過ぎないってことなんだよ、と。

そのことに気付かないのび太は、やっぱり子どもなんだなと、当たり前のことを改めて納得してしまいました。
そして自分が年を取ったんだなということをしみじみと感じました。

こんなことは27年前は考えなかったものな、と。

のび太が創りだした動物たちについて


のび太はドラえもんのひみつ道具で3匹の動物を生み出します。
ペガサス、ドラゴン、グリフォンという空想の生き物をモデルにした動物です。彼らはのび太を親と慕い、可愛いさを振りまきながら、映画の中でも大活躍をするという重要な存在となります。

のび太がどうやって彼らを生み出したか?というと、動物のアンプル(素材?)を卵型の培養ケースの中に入れることによって生み出しました。
本当は、一つのケースに一つの動物アンプルを入れるという道具で、単純に馬だったり、犬だったりというペットを生み出す道具のはずだったんです。

でものび太は、一つのケースに複数の動物アンプルを投入するというよくよく考えればとても恐ろしい行動に出ます。
生物のキメラを作る行動に他なりません。
遺伝子組み換え動物の作製です。

先生!
この作品の生命倫理は一体どうなっているんでしょうか!?

いやあ、物事をあまり真面目に考えては物語が楽しめないという、典型的なエピソードですね。いいんです。架空の話なんだから。

タイムパトロールについて考えてみると・・・


劇中、ドラえもんは一度ギガゾンビに敗れます。
負けた原因は、ドラえもんが22世紀からやってきたネコ型ロボットだったのに対し、ギガゾンビは23世紀からやってきた博士だったからということでした。
「1世紀分、負けた」
というのがドラえもんの負け台詞。

しかしそんなギガゾンビも最後はドラえもん達に敗れ、さらに駆けつけたタイムパトロールに逮捕されてしまいます。

タイムパトロールというのは、時代の流れを変えようとする「時空犯(だったかな?)」というのを取り締まる警察みたいなものとのこと。
そうですよね。タイムマシンが普通に使用される未来においては、やっぱりそういう組織が必要になりますよね。

でもよく考えたら、このタイムパトロール、一体何世紀からやってきたんだろう?と疑問が生じます。
ドラえもんは1世紀分先を行くギガゾンビに一度は完膚なきまでに負けました。ギガゾンビは僕達が凄い道具だと愛してやまない「ひみつ道具」を「化石みたいな道具」と言い捨ててしまいます。
だとしたら、例えタイムパトロールを組織化したとしても、その1世紀先の未来からやってきた時空犯には手も足も出ないという事にならないでしょうか?タイムパトロールはその時代では国家権力によりおそらく最高の装備を与えられることになるでしょう。しかし1世紀先の未来からやってきた時空犯にとっては「化石みたいな装備」でしか無いわけで、そうなるとおそらく手も足も出ない、ということになります。

でも大丈夫。
またその先の未来からやってきたタイムパトロールがその時空犯を取り締まってくれますから。
しかしそんなタイムパトロールも、更にその先の未来からやってきた時空犯には手も足も出ません。
でも大丈夫。またその先の未来からやってきたタイムパトロールが・・・

という事象が延々と繰り返されることになりますよね。
そうすると、数学的極限から言えば、タイムパトロールは無限の未来からやって来なければ時空犯には対抗できないという事になってしまいます。

ということを考えだしたら夜も眠れなくなりそうです。
タイムパトロールは恐るべき謎を秘めています。

ところで一つ気になったのは、なぜタイムパトロールはギガゾンビを逮捕しても、ドラえもんは逮捕しなかったのだろうか、という事です。
なぜならドラえもんは、ひみつ道具という未来のアイテムを使って、その時代には日本にまだ存在しなかった「ヒカリ族」という人類を移住させたという、明らかな歴史改変を行ったからです。

ドラえもん的には、

「こうやって日本という国のはじまりがつくられたんだよ!」

という事でハッピーエンドなんでしょうけれど、それはあまりにも身勝手な理屈です。
ちなみにそのドラえもん、ヒカリ族が移住先で村を作る際には、一切ひみつ道具での手助けはしません。「この時代にはない道具だから」と、満面の笑みで諭すように解説するドラえもんの姿が強烈に滑稽です。

あんた、ここにどうやってそのヒカリ族を連れてきたんだよ。

でもドラえもんがあまりニコニコしているからでしょうか。それともドラミちゃんに何か袖の下でも貰ったからでしょうか。
タイムパトロールはお目こぼしで、一切そんなドラえもんを咎めません。

タイムパトロールにはもっとしっかりした業務の遂行をしてもらうよう、また、そのために明確な基準を持ってもらうよう、苦情を届けたいと思います(笑)。

それでもドラえもんは面白い


というわけで何だかんだ書きましたが、これだけ書きたくなるのは、やっぱりドラえもんが面白いからです。

私たちに夢や希望、ツッコミどころ、子どもの身勝手さなど、色々なものを提供してくれるドラえもんに感謝して、作者の藤子・F・不二子さん、映画の監督・スタッフさんに敬意を表したいと思います。

ありがとうございました!
posted by 霧島もとみ at 2016年03月17日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年03月16日

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を27年の時を超えて見た感想

この週末に映画館で見てきました。
感動やら、子ども時代の思い出やら、色々と刺激を受けることがありましたので記事を書きたいと思います。

さて、「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」については、

あっ、このタイトル知ってる!

というのが第一印象でした。
同じタイトルのドラえもん長編映画を子どもの頃に見た・・・という記憶が自分の中にありましたので。

調べてみるとやはりありました。長編映画では第10作で、何と1989年3月11日公開作品でした。実に27年前の作品ということになります。年がばれますね、てへへ。

さて最近のドラえもん長編映画は、過去の作品をリメイクするものが幾つか出ています。
ついでにこれも調べてみますと、
・のび太の恐竜
・のび太の魔界大冒険
・のび太の宇宙開拓史
・のび太と鉄人兵団
・のび太の大魔境
が2006年以降にリメイクされています。

どれもこれも懐かしい・・・時間を超えて、あの頃の何ともいえない感情が呼び起こされるのを感じます。
タイトルを眺めていると、一番「あっ!」という衝動を覚えたのは「魔界大冒険」でした。
これは特に思い入れがある作品で、確か途中で全員が石にされちゃうんです。漫画を読んでいた時、子どもゴコロに「みんな石になっちゃった!!もう世界の終りだ!!どうなってしまうんだ!!」と本気で絶望を感じたことを強く記憶しています。
そして最後の戦いのシーンでは、ジャイアンが放つダーツをビッグライトで巨大化して・・・という道具の組み合わせの技で魔王の心臓を・・・!
いやー、アツい。思い出すだけでわくわくしますね。

さて、「のび太の日本誕生」です。
自分の中では久し振りのドラえもん長編映画について、幾つかの視点から書いていきたいと思います。

のび太の日本誕生!から考えさせられた、リメイクの魅力


リメイクっていうと、
「昔の作品の焼き直しじゃん?」
「ネタが尽きたから引っ張り出してきたんでしょ?」
的な、どちらかというと負の印象を持っていました。

だから正直、映画にはあまり期待していませんでした。
「話の概要どころか、結末までもう大体知ってる訳ですから、感動なんてしないよね!」と思っていたんです。
内容を知っているものをもう一度見せられたって面白くもなんともないよ、というような考えでした。

しかし、これは完全に浅はかだったことを思い知らされました。
なぜならごく普通に感動していた自分がいたからです。

そう、「予想できない驚きのストーリー展開」や「まったく未知のシナリオ」ということは感動の要因の一つになり得ますが、感動のための絶対条件ではありませんでした。
ではなぜ私は感動したんでしょうか?
映画館で見ていた間のことを回想すると、強く印象に残っていることがありました。

それは「ドラえもんの世界に完全に入り込んでいた状態だった」ということです。
そう、最新の表現手法、CG、音響、声優さんの演技のそれら全てが見事に相まって(流石にキャラクターデザインの古さは否めない感がありましたが・・・)、「今、表現できる最高のドラえもん」が作り上げられていたんです。
ストーリーこそ同じでも、27年前のオリジナル映画とは全く別の世界が表現されていました。

ドラえもんに教えられました。
これがリメイクの魅力なんだよと。

「子どもの時に見たよ」というお父さんお母さん、そうでない大人の人にも、これは是非劇場で見て欲しい作品だなと感じました。

突然ですが、のび太のお母さん


実はドラえもんをちゃんと見たのは随分久し振りでした。
そうすると声優さんも色々変わっている訳ですが、中でも驚きが大きく、心を揺さぶられたのは

のび太のお母さん = 三石琴乃さん

だったことです。
力強く艶のある、色気溢れる女性の声って感じで、もう大好きな声優さんなんですが・・・三石さんといえば、私の中では「エヴァのミサトさん!」の存在が大きすぎて、もうお母さんの声がミサトさんにしか聞こえない!

「のび太〜〜!!」と怒られても、もう嬉しくて嬉しくて。
「のび太・・・」と涙ながらに名前を呼ばれると胸がキュンと締め付けられて。


ああ、このお母さんの声をいい音響で聴けただけでも、映画館に行った甲斐があったな〜と思いました。

その他


これらのほかにも色々感じたことがありました。
しかし、ちょっと長くなりそうなのと、まだ整理しきれていないのとで、今日のところはここで一度記事を終えたいと思います。
続きはまた今度、ということで、今日はここで失礼します。
中途半端で申し訳ありません!
タグ:映画
posted by 霧島もとみ at 2016年03月16日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年03月13日

「動ける身体」を一瞬で手に入れる本 中嶋 輝彦


忘れるといけないので最初に言っておきます。

これは私の腰痛の悩みをまさに一瞬で解決してくれた凄い本です。

腰痛で悩む知人にも貸したところ「効果があった」と嬉しいコメントがありました。

この本との馴れ初め


この本との出会いは、知人とサッカーをしていた数年前のあの秋の日に遡ります。
普段あまり運動をしないだらけた身体だった私は、何をかくそう腰痛持ちでした。その日も例にもれず、朝から軽い腰痛があり、サッカーという大変ハードな運動に耐えれるのかどうか大きな不安を抱えていました。

実際に人工芝のピッチの上を走ってみると、ああほらもう、いきなりズキズキとうずくわけですよ。
「こりゃだめかも」そう思いました。しかし残念ながら、人数がチーム定員丁度しかいなかったため、とても「腰が痛いからちょっと休ませてほしい」なんて言い出せる状態ではありません。
ままよ!
と気を強く持ち、腰に軽い爆弾を抱えたまま、サッカーという激しい運動環境に己を投じたのです。

結果、あっさりとぎっくり腰をゲットしました。
その日の試合を全て終了し、ピッチから休憩場所に移動しようと歩き出した5歩目で膝から崩れ落ちるように倒れこみ、そのまま痛みで動けなくなってしまったのです。

翌日接骨院で治療を受けているときに、次のようなアドバイスをもらいました。
「君は太ももの筋肉が硬いのもあるけど、今回はあれだね、骨盤の使い方がもうだめだね。腰痛の人が気を付けないといけないのは、骨盤をしっかりと前傾させるってことなんだよ。
 しゃがむ時は、骨盤をとにかく前傾させる!
 歯磨きで口の中の物を出す時も軽くしゃがむだろ?その時に腰が痛いって人、結構多いんだけどさ、こうやって!
(と言いながら、重量挙げの選手がバーベルを抱え上げるような姿勢を取る)
しっかり足の付根をかくっと折って、骨盤を前傾させるんだ!
 そしたら、腰に負担がかからないから、すっごい楽なんだよ。君はこの動きをマスターしないと駄目だね。頑張ろう!」

ちょっと長くなってしまいましたが、要は
・骨盤を前傾させることが大事
ということを教えてもらいました。

しかし困りました。言葉で言うのは簡単ですが、なかなか身体にそれを覚えこまさせるためにどうしたらいいかまでは、その先生は教えてくれなかったのです。「ガッ!」とか、「こう!」とか、ちょっとビジュアル的というか、長嶋茂雄的なアドバイスしかしてくれなかったので、ちょっと凡人肌の自分にはすぐには理解は難しいものでした。

何か分かりやすいマニュアルのようなものが欲しい。

そこでパソコンに向かい、
「骨盤」「前傾」「本」というキーワードを打ち込んでググりました。

そうして出会ったのがこの「動ける身体を一瞬で手に入れる本」でした。

どんな本だった?


この本では、ロコムーブと名付けられた運動を行うことで、

”人間が生きて行く上で必要な運動の原点である「移動」に立ち返り、移動に適した身体、野生動物のように動ける身体をつくる”

ことを目的としています。

そのための動作メソッドとして、
・フェニックス
・カンガルー
・チーター

の基本動作を紹介し、解説しています。

特徴的なのが、紹介している主な運動メソッドがこの3点だけということ。
この動作を理解するための前段の動作とか、次の応用動作とかも紹介されていますが、主となる動作はこのたった3つのメソッドです。

少なっ!!
と思いませんか?
大体の筋肉トレーニングとか、ストレッチの本とかだと、ざっと20〜30くらいの運動メニューは紹介されています。

なのにこの本ではたったの3つ。
それも動物の名前が3つ並んだだけ。

これって本当に効果があるの?
と、きっと怪しい気持ちになることでしょう。

でも大丈夫。安心してください。
繰り返しますが、私はこの本で腰痛の悩みから解き放たれました。

3つの動作で得られるもの


理論としては、広背筋を目覚めさせることで身体の緊張を解き、また、体幹の可動域を広げることで、動きやすい身体になる、ということだそうです。
広背筋が普段使う筋肉の”拮抗筋”としての役割をかなりの部分で果たすというのがその理由だそうですが、このあたりは専門家でないので正直良くわかりません。

先ほどこの本では「主に3つの動作しか紹介されていない」と書きました。
しかし3つしか紹介していないということは、それだけ、一つ一つの動作について詳しい解説が行われているということです。
実際にこの本では、実に丁寧に解説がされています。
順を追って読み進めていくことで、自然にこの3種類の動作が理解できるように書かれています。

私が一番大きく実感したのは、「骨盤が前傾するようになった」ということです。


フェニックス、カンガルーと進め、チーターの動作をやってみたときに、自分の骨盤がグッと前傾姿勢を取っている感覚が分かったのです。
その感覚を得た私は、早速洗面所に行きました。
そしてうがいをして、口の中のものを吐き出そうとかがみました。

い、痛くない!

前傾した骨盤がまるでバネのように状態からの荷重をしなやかに受け止め(ちょっと言い過ぎ)、ごくごく自然にかがめていたんです。

(これが接骨院の先生が言っていたことなんだ・・・)

それからこの3つの動作を2週間ほど続けた頃、これまで私を慢性的に悩ませていた腰痛は、全く感じられなくなっていました。

そして今も腰痛はほとんどありません。
たまにちょっと「きてるかな?こようとしているかな?」という時がありますが、その時はこの3つの運動を何日かまたやると、そのまま何事もなかったかのように収まります。

それともう一つ、前屈がとてもやりやすくなりました。

頑張っても指先が床に届かなかったのが、簡単に届くようになり、調子の良いときは手のひらが床につくくらいになりました。

これは、おそらく股関節を動かすという認識を持ったことの影響でしょうね。
前屈する時に「とにかく固くて、どこを曲げればいいのか分からない」という感覚だったのが、「足の付根の股関節のところでカクッと曲げる」という感覚に変わったというのをはっきりと感じました。
嬉しい副次効果でしたね。

こんな人におすすめ


・腰痛に悩まされている人
・前屈で床に手が届かない人
・色々な運動やストレッチをするのは面倒だという人

には、強くオススメします。

まあ身体のことなので、合う・合わないはどうしてもありますが、可能性を試してみる価値は十分にある本だと思います。

最後にこの場をお借りして、著者の中嶋輝彦さんに、この本を書いてくださったことにお礼を述べたいと思います。
私はこれで腰痛が消えました!ありがとうございました!
posted by 霧島もとみ at 2016年03月13日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本:健康

2016年03月12日

命売ります 三島由紀夫


書店をふらふら歩いているときに、ドンと目に飛び込んできた「命売ります」という刺激的なタイトルに、作者名「三島由紀夫」というインパクト。

そして手書き風の帯の言葉が秀逸でした。
”もっとはやく教えてほしかった・・・・・・
 隠れた怪作小説発見!
想像よりも数十倍オモシロイ”

三島由紀夫は名前は勿論知っているけれども、なんだか敷居が高いような気がして実はほとんど読んだことがありません。
でもこの本はそんなに堅苦しくなさそうな雰囲気で、何よりも「命売ります」というフレーズに興味をそそられる!
ということで買ってしまいました。

どんな本だった?


これはオモシロイ!
なんだか型破りというか、神秘的でミステリアスなストーリーに、癖のある登場人物。。。どれもが魅力的で、一気に不可思議な世界に引きずり込まれます。
それにこの表現力!
三島由紀夫という人は天才なんだなあと脱帽してしまいます。

例えば、割と序盤に出てくるフレーズですが、

”落ちた新聞の上で、ゴキブリがじっとしている。そして彼が手をのばすと同時に、そのつやつやしたマホガニー色の虫が、すごい勢いで逃げ出して、新聞の、活字の間に紛れ込んでしまったのだ。”

ありえない光景です。
しかし、この小説中で読んだ時、私にとっては不思議とごく普通の景色のように自然と受け止められて、その様がありありと映像化されて、息づかいさえ聞こえてくるかのような錯覚をもたらしました。

どうしたらこんな文章が生み出せるのだろう。

そして全編がもうずっとこのような飄々とした、しかし不可思議な、ありえない、何とも奇妙珍妙な文章で綴られていくのです。

でも、それでいて、ストーリーやテーマをしっかりと感じる事ができます。これだけ意味不明な主人公、登場人物、世界観で構成しておきながら、最終的にはするするとそれらの要素が繋がりを見せ始めていくところは圧巻です。

テーマはやはり「命」ということかな、と感じました。
いや、もう一つ踏み込むと、「命についての”思考”がもたらす事象の変化」を、ちょっと変わったテイストで描いてみせたという言い方に変わるでしょう。

ストーリーの序盤から中盤にかけては「命なんてどうでもいい」と心の底から考えていた主人公は、怖いものなんて何もないという豪胆なふるまいを見せて妙に魅力的な輝きを放ち、様々な活躍を見せます。
一方、「命を大事にしたい」という思考が生まれた途端、目に見えない危険に怯えるただの人間に姿に成り下がってしまいます。

これがこの作品の中で見せたかった「命」の一つの形なのだと感じました。

ちょっと仏教的です。
執着が恐れを生み出すのだという考えは、まさに仏の教えそのものですから。
心を解き放て・・・そうすれば安息が訪れますよ、という話なのでしょうか。

イヤイヤ。
違います。

それにしては、この小説は毒々しすぎます。やたらとくどい言い回しや、胡散臭い登場人物たち、どこか間の抜けた敵対者たち・・・。
そこに私は、「命というものに対して普通の人間が抱く考え方」を風刺したかのような、あるいはそれは得体のしれないものなんだぜと言っているような、そんな著者の意図が潜んでいる印象を受けました。

読んで単純に面白い、しかしただ面白いだけでは済ましてくれない、気が付けば心の中に楔を知らず打ち込んでくるような、そんな本でした。

レビューがちょっと支離滅裂な感じになってしまいましたが、この本に対しては、こういうレビューになるのもしょうが無い・・・
まだまだ、文章力、読解力が足りない!ということを痛感させられました。
posted by 霧島もとみ at 2016年03月12日 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本:小説

2016年03月10日

社会学者・古市憲寿さんの「(オリンピックに)出た方がやっぱりいいですか?」発言に思う

3月6日(日)の「ワイドナショー(フジテレビ系)」で前園真聖さんが女子サッカー代表・なでしこジャパンのことについて触れたときのこと。
内容は、オリンピック最終予選で2敗を喫してリオ五輪への出場が絶望的になったというものでした。
前園さんは非常に残念な様子を見せて、「今大会に限っては少し、なでしこらしい部分がなかった」「僕の中ではショック」と話したのですが、それに対して社会学者の古市憲寿さんが「出た方がやっぱりいいですか?」と無表情でコメントしました。

前園さんは唖然。
「お前は何を言っているんだ」とばかりの表情です。
スタジオにも何とも言えない違和感が一瞬漂い、テレビを見ていた自分も「また古市さんが人の気持を考えずに言ってるよ・・・」という感情を覚えました。

しかし、はっと我に帰りました。
なぜこの場面に違和感を感じたのだろうと。
それは当たり前のようであり、しかしそれを「当たり前」として見過ごしてしまうのは何か危険な気がする、そんな予感がしたのです。

そこで、この違和感の正体について、古市さんの「(オリンピックに)出た方がやっぱりいいですか?」発言について考えてみたいと思います。

前園さんが唖然とした理由


前園さんは元サッカー日本代表選手です。
今はタレントとして定着してきた感がありますが、Jリーガーとしての現役時代はまさに日本を代表する選手の一人であり、僕のように詳しくサッカーを知らない人でも名前と顔が一致する、知名度のある選手です。

もちろん、現役を退いた今もサッカーに対する情熱があります。
そんな前園さんにとって現役の選手の活躍を応援するのは当然であり、当たり前であり、オリンピックという大舞台での活躍を期待することもごくごく普通のことです。

それに「なでしこジャパン」についても、前々回のワールドカップ優勝以降知名度はぐんと上昇し、メディアの注目度も上がり、国際試合についてはテレビ中継もされるようになってきました。
ニュースでも応援するファンの姿がよく映ります。

だから前園さんは「なでしこジャパンは大勢の日本のファンが応援するようになった。”みんな”オリンピックに出ることを願っていた」ということを無意識に感じていたんでしょう。
だからオリンピックに出られなかったことを「残念だ」といえば、それはその場にいる皆、またテレビの向こうの視聴者もきっと同じ気持で、共感を得ることができるんじゃないかという思いがあったはずです。

こうなると人間の心理としては、既に「そうですよね」という反応に対しての準備をしてしまいます。例えば、重たいものを運ぶ前には、体が無意識に力を入れてその重さに備えるように。

しかしそこに、いきなり真反対の言葉・感情をぶつけられてしまいました。

「(オリンピックに)出た方がやっぱりいいですか?」

そりゃあ唖然としてしまいますよね。

整理すると、
・サッカー女子を応援する気持ちは多くの人が持ってくれている。
・だからオリンピックに出られなかったことを残念だと思う気持ちはみんなに共有される。
・それと真反対のことを言われることを想定していなかった。

ということが、前園さんが唖然とした理由、ということです。

では次に、その言葉を投げかけた古市さんの視点から考えてみたいと思います。

古市さんの視点


古市さんの視点としては、まず、サッカーそのものに興味がありません。
サッカーに興味があり、応援する人の気持ちが理解できません。
だからサッカー女子代表がオリンピックに出場する・しないについても全く興味が無く、そのことがファンにとってどのような意味を持つかも分からないのです。

それ自体は別に良いことでも悪いことでもありません。
中立というか、客観的なだけ。
古市さん得意の「無属性な視点」であり、社会を冷徹に見ている社会学者としての視点なんですよね。

古市さんとしては、別に前園さんや多くのサッカーファンを馬鹿にしているわけではなく、純粋に「自分には分からないから教えてほしい」という意見を提示したに過ぎません。

これが古市さんの視点です。

それ自体は、冷静に考えると、良くも悪くもないことのように思えます。
ではなぜこの発言に自分は違和感を感じたのか?

違和感の正体


正直に告白します。
私も古市さんのコメントに対して嫌な気持ちを覚えました。
「何冷めたことを言っているんだコイツ!」という反感を持ちました。

しかし冷静に考えると、その発言の内容自体は、良くも悪くもないんですよね。

誰でも同じだと思います。
私も興味があまりない分野については、同じような思いを持つでしょう。
例えば私はプロ野球についてほとんど興味がありませんから、どのチームが優勝しようがしまいが何の問題もありませんし、そもそもたった12球団で毎年優勝を競うことの意味も良く分からない・・・といったことをボソッと言ってしまうかもしれません。

それなのに違和感を感じてしまい、反感までも感じてしまった。

その理由は?と考えると、
「世の中には自分と違い意見を持った人がいるという当たり前のことを忘れていた」
ということに尽きるのかなと。
または忘れるようにメディアに印象操作されていたのかもしれませんが。

基本的には、ごくごく当たり前のことです。
「世の中の人の考えは一人一人違う」
これに反対する人はまずいないでしょう。
けれども何か特定のトピックに関しては、何か大多数の人が同じ意見を持つような、それを当たり前と考えてしまう、そんな錯覚が作用するのかもしれません。
今回はそのトピックが「サッカー女子日本代表」だったという事でしょう。

この錯覚に陥っていたこと、それを自分自身では気付いておらず、古市さんの発言によって思い出さされたことが、違和感として感じたものの正体だったのです。

まとめ


・人は、気がつかないうちに、何か特定の意見・思想に対して「みんながそう思うことが普通だ」と考えてしまいがち。
・その錯覚に陥ると、異なる意見・思想に対して思わぬ反感が自分の中に生まれてしまう危険性がある。

ということを、考えました。

ていうか、元々はサッカー日本女子代表のニュースなのに、全然関係ないことを考えている自分がシュールすぎてちょっと怖いです。
posted by 霧島もとみ at 2016年03月10日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2016年03月09日

ブロガーとしての自分を想像した時に考えた3つのこと

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ブログについてのネット記事や、既にブロガーとして活躍している人たちのブログを読んでいると、現実から逃避して夢想に耽ることがあります。

「今の仕事を離れて、ブロガーとして独立したらどんなになるだろう」

という夢想です。

それは例えば、こんな思考になって現れてきたりします。
  • 今の組織を離れて、もっとシンプルに自分自身のやりたいことを、自分自身の責任で追求していく。それを仕事にすることって、何だか生きがいがありそう。
  • 自分の好きなことを好きなときにやれるというのは、何だか楽しそう。
  • ネットを通じてたくさんの人に影響を与える事ができるって良さそう。

そんな一方で、自分のブログを見てしまうと急に現実に引き戻されます。
  • こんな内容、アクセス数でブログで飯が食えるわけがない。仮に将来的にたくさんのPVが稼げるようになるとして、一体それまでに何年かかるのか?
  • 今の収入と比べて、果たして独立するだけのメリットがあるのか?
  • ていうかそもそも何をネタにブログを続けていく?誰かに発信できるコンテンツがある?

そして再び日常に帰っていくという訳ですが、これらの思考実験は一見無駄なようにも見えて、しかしながら「ブログ」というのものをどんな形にせよ具体的な思考の元に考えてみるということで、何らかのヒントをもたらす作業のようにも思えます。

そこでこれらの思い付き・・・想像上の「ブロガーとして独立した自分」像に対して、幾つかの観点からこの機会に考えを整理してみようと思います。

ブロガーとして独立するということはどういうこと?


ブロガーとして独立するということは、
・ブログを継続して発信すること。
・自分のブログまたはブログを通じたネット活動により収入を得ること。
 (広告、アフィリエイト、あるいは有料メルマガの発刊など。)
・その収入を、現在から将来にわたり、自分が十分に生活できるだけのレベルで継続して得ること。
 (生活レベルの設定にもよりますが、瞬間風速的な収入では駄目で、何十年とかいう長いスパンで継続して収入を得ることが必要となります。生きて行くために。)
・その収入を得るためには、多くの人間に見られるブログにならなければならないこと。
・そのためには、人に何か価値を与えるものを継続して提供できなければならないこと。

なるほど(と、自分で書いたことに自分で納得する)。そうですよね。やはりブロガーとして独立する=生活するということは、収入が必要です。人間ですから食わなくては死んでしまいますし、生活を維持するためには光熱水費などもろもろの諸経費がかかるわけです。
それをブログで稼ぐ。
言葉にするのは簡単ですが、そのためにどうしなければならないかというと、多くの人に読んでもらえる「価値のあるもの」を提供しなければならないということです。

サイボウズの青野社長の講演で「人のために動くということが、働くということ」という話を聞きましたが、ブロガーとしてするべき事も、実は同じだということです。

他人に対して何を提供できる?


例えば、
・何か一つのことに精通した技術、テクニック
・特定の項目に対する深い知識
・業界情報
・独自ノウハウ
・なかなか出来ないような特別な経験談
というようなものがあれば、これをネタにして上手にまとめれば、価値のある内容になるでしょう。
または、
・特別な人間(タレント的な)の日常の光景
的なものも人気が出そうです。

しかし、自分を振り返ってみると、残念なことにどれにも当てはまるものがありません。
正確に言えば、あるにはあるのですが、どちらかというと器用貧乏・広く浅くという性格で、幅広く知っていても、それぞれの分野にはそれぞれもっと精通した誰かが余裕でいる訳なんですよね。
個人的な体験としてもそこまで面白いと言えるものはありませんし。
ましてやタレント的な知名度は勿論皆無です。

困った。
何を発信しよう。


というわけでさっそく躓きました。
どうやらブロガーとしてやっていくためには、「特別なコンテンツ」が必要になってくるようです。

特別なコンテンツとは?


「特別なコンテンツ」って何なんでしょう?
少し落ち着いて周りを見てみると、インターネット上に溢れている記事や日記、ブログは山程ありますが、その中で先に挙げたような「特別なコンテンツ」を提供しているものがどれだけあるのかな、と疑問を感じます。

勿論専門的な知識・経験を踏まえたコンテンツや、凄いノウハウ、写真、映像を提供するサイトもごまんとあります。

でも、掲載しているそれらのコンテンツが、高い専門性を元に書かれているものばかりではなく、むしろ素人がちょっと調べてみました・考えてみました的なコンテンツであることも普通に多いんですよね。

・それっぽく
・しかし意味のあることを
・読みやすく纏め、提供する

読んでいて自分が「面白い」と思うものの中にはこういうブログが結構あります。そのブログに対して「この記事はしっかりウラを取っているのか」「エビデンスはあるのか」などと学術的な視点から批判することは、まずありません。
だとすると、インターネット上の記事、その中でも特に「ブログ」については、「専門的な知識や経験に裏付けられた情報」が実は求められている訳ではないということになります。
そこから考えますと、導き出されるのは、ブログにおける「特別なコンテンツ」とは、いわゆる「専門家的なコンテンツ」ではない。
むしろ、日常にちょっと+αをしたような、「素人の観点からいろいろな話を書いたコンテンツ」ではないか、という推論です。

だとするとこのコンテンツを提供するために必要なことは、掘り下げまくった専門性のある知識ではない。

必要なものは「ちょっと面白い独自の視点」であり、面白く記事を読ませることができる「表現力」「編集力」ということになります。
さらに言えば、それをWebというフィールドで表現できるちょっとしたIT力ですね。

これなら、自分にも出来るかもしれない。
いや、誰にだってやれば出来ると思います。後はやるかやらないか、の世界なんですね。
ということで、やはり「実行力」が必要になるってことです。

結論


ブロガーとしての自分を想像するという思考実験によって得られたのは次のことでした。

・ブロガーとして必要なことは、他人に価値のあるものを提供しつづけていくこと。
・提供するコンテツは何も「特別なもの」である必要はなく、独自の視点を持って作られた日常に+αのコンテンツ。
・能力としては、表現力・編集力・実行力。


ブロガーになれるかどうかは全く夢想上の話なのでとりあえず置いておいて、でもせっかくブログを書いていくのですから、この3点を意識してやっていこうと思います。

長い記事にお付き合いありがとうございました。
posted by 霧島もとみ at 2016年03月09日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと

2016年03月07日

花粉症の季節がやって来た・・・

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花粉症の季節がやって来ました。
例に漏れず(何の?)私も花粉症です。

10年程前まではノンケだったんですが、ある年、突然急に来たんですよね。
「ある程度体の中に花粉症の要素が蓄積されると、コップから水が溢れだすように急に発症します」
という話をテレビでまことしやかに話しているのを聞きながら、

「へーそうなんだ。でも俺には全然関係ない話だね」

と他人事として聞いていたのですが、全くその通り、急に発症した訳です。

それからはこの季節になると抗アレルギー剤を飲んでビクビクしながら過ごすという日々を送っています。
今年は何だかキツイ感じですね。目・鼻への刺激がとにかく多く、また、そのせいか頭がぼやーっとしてやる気が起きない感じです。疲労感ももの凄い。
そのせいでしょうか?ここ数日は「ブログを書こう」という気が全く起きませんでした。

いや、今も正直そうなんですけれど・・・。
本当は考えて記事を作るべきなんですが、その作業は、今はちょっと出来ない感じです。

今日の「そこまで言って委員会NP」で「花粉症により作業効率が落ちて、経済損失をもたらす」という説があるというVTRが流されていましたが、大いに納得してしまいました。少なくとも、ここ3日間の「何かをしよう」という情熱は花粉症によって大打撃を受けているというのが実感です。

でもそれではダメだ!ということで、とりあえず”花粉症に困ってますよ〜”という話を今日は書くことにしました。
今は書く話を選べる状態ではないので、「とりあえず書く」という行為を優先することを重視した結果です。

それにしても「花粉症」って、書くことが山程ありそうな材料ですが、自分としては今のところ全く書くことは無いですね。
自分の症状の事を書いても仕方ないし・・・。
何か変わった花粉症対策や、特別に有効な対策方法を知っているわけでもないですし・・・。

でもただ苦しんでいるというのも癪に触るので、何か花粉症で書けるネタを探したい!と思います。
ふう。今日はこんなところで・・・。
posted by 霧島もとみ at 2016年03月07日 | Comment(0) | TrackBack(0) | そこはかなきこと
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他人との距離感をいつも遠く感じながら生きてきました。高校の体育祭のフィナーレでは、肩を抱き合って大はしゃぎする光景に「何でこんなに盛り上がれるんだろう・・・?」と全く共感できませんでした。共感できない自分が理解できず、いつも悩んでいます。そんな私でも面白いと思うことはこの世界に一杯あります。それが私の生きる糧でした。面白いことが増えていけば、よりたくさんの人が楽しく生きられるはず。そんな世界を夢見ています。
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