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2018年03月15日

世界線を超えろ!人を想う情熱が衝き動かす「STEINS;GATE」

2011年に放送されたアニメ「STEINS;GATE」を今更ながら見ました。

見ようと思ったきっかけは筑波大学の落合陽一さんの「◯◯分遅刻世界線」というTweet。
時々使われるこの不思議な言い回しに「世界線って何だろう?」と興味が湧き、検索して出てきたのが「STEINS;GATE」でした。




ググってみると、世界線というのはタイムトラベルに関する用語らしい。
しかし、書かれているニュアンスが自分にはちょっとピンと来なくて、エピソードを体験して解釈するのが善かな?という事で、善は急げ、とりあえず見てみることにしました。

STEINS;GATEの感想

DVD全9巻を一気に見終わった率直な感想は「面白かった」でした。
最初こそ「何だこの2ちゃんねる用語満載の痛いアニメは・・・」と思いました。
しかしストーリーが加速する中盤以降はぐっと引きこまれ、全力で感情移入し、感動しました。

ストーリーはタイムトラベルもの。
その方法が独特で、メールを過去に飛ばすというもの…しかも字数制限あり。
過去にメールを飛ばすタイムマシンによって世界が少しずつ変わっていく描写が刺激的でした。
間接的な見せ方が良かったと思います。
主人公は過去を変えるプロセスそのものに関与することはできず、結果を観測することでしか過去の改変を知ることができない。
また、送信できる文字数も限られている。
このあたりの限定ルールが物語に緊張感を作っていて面白いなあ、と思いました。

見ていて思い出したのが2002年の映画「タイムマシン」。
この映画は、恋人を事故で失った天才物理学者がタイムマシンを開発し、過去に戻って恋人を助けようとする・・・というところから始まり、一見アカデミックなSF映画かと思いきや、最終的には古代のジャングルみたいなところで古代人同士の戦いに自らの身を投じていく・・・というよく分からんアクション・アドベンチャーだったのですが、この映画の序盤では、
・主人公は過去に戻って恋人を死ぬ原因から遠ざけようとする。
・その度に恋人は別の原因で結局死ぬ。
・何度繰り返しても恋人が死ぬという事象からは逃れることができない。
・運命を変えられないことに苦悩する主人公
といったストーリーが描かれていたのですが、このあたりの様子が「STEINS;GATE」の主人公にとてもよく重なったんですね。

映画「タイムマシン」では、結局当初の恋人は中盤以降全く忘れ去られた存在になってしまったのですが、「STEINS;GATE」の主人公は幼馴染を助けることを決して諦めませんでした。
主人公を突き動かしたのは人を想う情熱。
このあたりは強く共感しましたね。
また、この幼馴染(椎名まゆり)がいい奴なんだ。。。俺だって絶対に諦められないよ。

もとい。

さて、ここで出て来るキーワードが「世界線」です。
主人公は「椎名まゆりを助けるには、α世界線からβ世界線へ移動しなければならない。1%のダイバージェンスの壁を超えて」との助言を受けて、世界線を超えようと何度も何度もトライします。辛い現実をタイムリープにより何度も繰り返しながら挑み続ける姿には心を打たれるものがあります。
それを支えるヒロインや仲間の存在がまた泣かせる展開…。

優しさと執念、残酷さ。
十分に味わえたと思います。

世界線ってどういうことなんだろう?

ところで世界線です。
作中での意味としては「とある時間の流れ」「幾つも並行で流れている時間の異なる在り方」のようなものとして使われていたと解釈しました。
そうすると落合さんの「30分遅刻世界線」とは、どういう意味なのか?ニュアンスなのか?

それはつまり、
「落合陽一が30分遅刻することはこの世界線で抗えない事象であり、運命だ」
という意味なのでしょうか。
あるいは、
「ダイバージェンスの結果、30分遅刻する世界線へと移動した」
という意味なのでしょうか。

あまりにTweetの言葉が短く、前後の文脈も乏しいため断定は出来ません。
逆に言うとどちらの意味でも取れる訳です。

うーん、難しいですが。。。
私の個人的な感覚としては、面白みがあって希望が持てるなあという何となくな考えで、後者の解釈で捉えてみようと思います。

自分も使ってみよう。
「ジャスト5分前到着世界線」
※30分も遅刻したら私の場合は相手にされなくなってしまいますので・・・。

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posted by 霧島もとみ at 2018年03月15日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年11月22日

鉄血のオルフェンズ 第7話「友よ」はとても重厚な回でした。やっぱり名作!

第2期が始まってから8話目となりました。
相変わらず面白い”鉄血のオルフェンズ”。

さきほど7話を見終わりまして(録画)、興奮の残滓が抜け切らないなか、久し振りにオルフェンズの感想を書いてみようと思いついたところです。

ここ数話は鉄華団・地球支部のストーリーが中心となって進んでいました。
前話までは、地球支部長代理となったタカキが、策略により情報を立たれた中で流されるまま戦闘を繰り返し、仲間を失い、見えない戦いに疲弊していく様子がリアルに描かれていました。

状況が見えない中で戦闘を強要されることほど疲弊することはありません。

戦闘を”仕事”や”勉強”という言葉に置き換えると、似たような状況を経験した人も多いのではないでしょうか。

かくいう自分もその一人です。
見えない指示系統、目的、情報・・・目隠しされた中でひたすらに足掻き続けるのはとても辛い。
ああなんか思い出してきた・・・

もとい。
オルフェンズの話です。

第7話はいよいよクライマックスシーン。
冒頭から鉄華団のタカキとアストには死亡フラグを予感させる台詞が連続します。
「一緒にフウカのところへ帰ろう」
「約束だ」

それ以上言ってはダメだ、、、
という心の叫びを他所に、話は一気に加速していきます。

見どころは戦闘が終了した後の詰問シーン。
鉄華団地球支部を裏切り、先の見えない戦いへの引きずり込んだ連絡役の男を、火星支部からやってきた面々が問い詰めます。
なぜ裏切ったのか。
言いたいことはあるのか。

それに対してまあ必死に言い逃れをしようとします。
「地球支部を守るためにしょうがなかったんだ」
「現場で判断しないと駄目な状況だったんだ」
などなど。
それを聞いていたミカヅキがぼそっと一言。

「話なんてする必要あるの?」
「こいつは鉄華団を裏切った。そして仲間を無駄に死なせた。こいつはもう・・・」


と言いながら懐に手をやり、拳銃を取り出そうとします。
制止するようにタカキが「俺に!話をさせてください」と言ったところ、

「話してどうすんの」
と冷たく言い放つミカヅキ。


強い目で見返すタカキ。ついこないだまでは迷いがいつも表情に出ていたのに、決意が漲った表情に変わっています。

「これは地球支部の問題です」

・・・
さながら任侠もののような雰囲気が醸し出されるこのやり取り。
なんだかミカヅキは若頭みたいな風格を醸し出してきました。
戦闘にも、人間にも、物語にも、何だか生々しい血の匂いを感じ、練り上げられたシナリオはまさに「重厚」の一言です。
たまりません。

やっぱりオルフェンズは名作だ!!
という思いをまた強く感じました。

ところで7話タイトルの「友よ」ですが、鉄華団、中でも今回はタカキとアストの関係を暗示したタイトルだなあと思っていたのですが、最後に「友よ」と呟いたのは敵役の黒幕だったギャラルホルンの男でした。
そう、鉄華団からすれば憎むべき敵であっても、彼らもまた友情で結ばれた仲間がいた・・・。
そんな余韻も与えながらの7話でした。


楽しかった。
また、次回が楽しみです。
posted by 霧島もとみ at 2016年11月22日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年03月29日

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ ♯25話(最終話)を見て確信した、「オルフェンズは名作だ!」という思いについて

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ、25話で最終話となりました。

今までのガンダムとは味付けがかなり違っている今回の「鉄血のオルフェンズ」、独特な作品として今後も語り継がれていくであろう名作の気配を感じていましたが、この最終話でもその思いを強くすることが出来ました。

第24話では、今シリーズの最終目的地に到達する直前で、敵(ギャラルホルン)の完全版”阿頼耶識システム”と成り果てたアインが駆るガンダムフレームが突如として現れ、鉄華団とアービンズのモビルスーツを次々と破壊していくという衝撃的な展開となりました。
仲間の犠牲を払っても目的地に辿り着くことができないのか?と視聴者を大いにハラハラさせたことと思います。
そして最後のシーンでは三日月のバルバトスが戦いを挑むこととなり、敵の圧倒的な反応速度・機動力の前にどう戦うんだ!?とアツい展開で最終話へー。
という流れでした。

さて、昨日の最終話です。
前回までの熱い展開をしっかりと受け止め、更なる危機感を演出しながら、最後は三日月がアインを倒し、鉄華団もその目的を果たすという大団円的な話となりました。

しかし、その過程が、「さすがはオルフェンズ・・・」と唸らせるものでした。
主人公である三日月は、敵との反応速度の差を何とか埋めようと、バルバトスのリンクをさらに強化しようともがきます。「もっとよこせ、バルバトス!!」と叫ぶ三日月の右目からは鮮血が溢れていました。その結果、敵を倒すことには成功しましたが、その後のシーンでは右目の視力と右手の運動能力を失った様子が描かれました。
勝利のために大きな代償を払った、ということなのでしょう。

敵モビルスーツ(人間を捨てた完全なる阿頼耶識システム)に勝つために、自分の阿頼耶識システムによる機体とのリンクを極限まで高めた結果、その影響として、右目・右手の感覚を失った三日月。
しかし本人は「バルバトスに乗っている時は動くからちゃんと働ける」と全く気にとめる様子を見せないのも、いかにもオルフェンズ的な演出で印象的でした。

なぜ三日月に代償を払わせたのか?


物語の作り手としては、代償を払わずに「秘めた力を発揮して敵を倒す」という単純な展開で作りこむことも可能だったはずです。
あるいは、ギリギリまで体と精神を追い込んだとしても、「体に後遺症を残すまでの状態にはしない」というパターンもありです(実際にこのパターンは王道と言えるほどよく出てきます)。
しかしオルフェンズでは、これらの展開は使用しませんでした。

なぜ製作者はこれらの手法を使用せず、「代償と引き換えに敵を倒す」というエピソードを選択したのでしょうか。
また、アインを倒す際に、バルバトスの”剣”を敵モビルスーツの胸部、つまりアインそのものに突き刺して殺すという生々しい人の死を感じさせる演出をなぜ使ったのでしょうか。

この理由を考えてみると、「最近のガンダムとは違う」と私がオルフェンズの独自性を強く感じる理由が見えてきます。

戦い・戦争の描き方を通して伝えたい何かがある


オルフェンズの戦闘は、最近のガンダムとは一線を画します。
その要素となっているのは、次の2点です。

・モビルスーツが”叩き壊し合う”戦闘方法
・残酷さを隠さない演出

それぞれについて触れておきます。

1.モビルスーツが”叩き壊し合う”戦闘方法


周知のことですが、バルバトスでは「ビームライフル」「ビームサーベル」といったガンダムお馴染みのビーム兵器は出てきません。
ガンダムの戦闘といえば、

・ビームライフルが当たって爆発する。
・ビームサーベルで真っ二つに機体が切られ、爆発する。
・パイロットは爆発に巻き込まれて絶命する。または、機体の爆発のみで、パイロットの死は直接描かれない。

という描かれ方が主流でした。これに対して、今回のオルフェンズでは

・剣や棍棒、でかいペンチのような武器で敵を殴打して壊す。
・爆発はあまりない。
・パイロットはコクピットごと変形して押し潰されるか、剣などの鋭利な金属によってコクピットごと貫かれて死亡する。

という描かれ方になっています。
ひどく生々しい描かれ方です。
要はモビルスーツを大きな鈍器で”ぶっ叩いて壊す”訳ですが、モビルスーツだって頑丈ですからすぐには壊れません。何度も叩き、突き刺すという攻撃を繰り返さなければなりません。
人型をしたモビルスーツが何度も何度も叩かれ、壊れていく様には、思わず目を背けたくなる時すらありました。

さらに爆発して四散することもありませんから、壊れたモビルスーツや、押しつぶされたコクピットはそのまま現場に残ります。いつまでも破壊の後味が残る戦場の光景は、他のガンダムでは見ることが出来ないオルフェンズ独特の世界です。

2.残酷さを隠さない演出



「どうして戦わなければいけないんだ!」
「争いでは何も解決できないじゃないか」
「こんなことを繰り返していたら、心が壊れて人間ではなくなってしまう!」

近頃のガンダムは、主人公が何かと綺麗事のような叫びを繰り返すシーンが目につくという印象がありました。
これは主観によるところが大ですので、一部だけを捉えた間違った見方かもしれませんが、ユニコーンでも主人公の青臭さがどうしても鼻について作品に没頭できませんでした。
08小隊も私には駄目でした。
更に前になりますが、キャラクターは大好きなガンダムWでも最後は「全モビルスーツを廃棄して戦争のない世界に・・・」とかいう終わり方に悶絶したことを覚えています。

ひとことで言うと、繰り返しになりますが、

「何か綺麗事ばかり言おうとしていないか?」

という疑念をいつしかガンダム作品に対して抱くようになっていたのです。

でもオルフェンズは違います。
主人公は綺麗事は一切言いませんし、敵側が何か理想論的な事をウダウダ言うのですが「うるさいな」と一蹴です。
表情一つ変えずに敵を殺します。

少年どうしが殺し合うシーンもありました。
白兵戦では非戦闘員を装った少年が騙し討ちで銃撃を行い、さらに返り討ちにあって撃ち殺されるという場面では、批判的なコメントも多数寄せられたと聞きます。
あまりにも残虐な描写ではないか?というのがその内容です。

ですが私は、これらの場面に「戦争とは残虐で残酷なものなんだ」というメッセージを受け取りました。
決して残虐さを煽っているものではありません。そのような作品(漫画・映画・ドラマ・ゲーム等いろいろあります)は、残虐さや残酷さをただただ”刺激”として取り扱い、作品を売るためのツールとして活用しています。

しかしオルフェンズは違います。
主人公は「必要だから殺している」のであり、必要がなければ戦いも殺しもしません。中立な存在として描かれています。
ですが、戦闘行為を伴う以上、平和な日常に生きる私たちからすれば「残酷」だと感じる行為は必ず起こるのです。それをただオルフェンズは「そこにあるもの」として描きます。

そうすることで、戦いの残酷さ、理不尽さ、人が殺されることは痛くて辛いことなんだという当たり前のことを、しかし世界から戦いが消えない残酷な現実を、オルフェンズはガンダムファンにもう一度問いかけているんです。

だから三日月は代償を支払わなければならなかった。
戦争がもたらす痛みや悲劇を私たちに伝えるために。

まとめ


これら以外にも、振り返れば見どころがたくさんあったと思います。
仲間との絆、義兄弟の愛情、大人の下ネタ的な台詞、などなど。
何より前期のED曲「オルフェンズの涙」は素晴らしかったです。
後期でも一度だけED曲として流れ、その時は、つい感極まって涙が溢れそうになってしまいました。

第二期は秋に開始との事で、その日を一日千秋の思いで待ちたいと思います!
posted by 霧島もとみ at 2016年03月29日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年03月17日

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を27年の時を超えて見た感想 その2

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を見た感想として、「面白かった!」ということは前回書いたとおりです。

今回は前回書ききれなかった幾つかの「映画を見ていて考えさせられたこと」「ちょっと気になったこと」というのを、決して批判するのではなく、面白がるというスタンスで愛を込めながら書いてみたいと思います。

のび太の子どもっぽさで気付く、自分が大人になった現実


序盤、のび太は母親に怒られたことに腹を立てて「家出をする!」とドラえもんに宣言しました。この時にドラえもんに言ったことは、確か次のようなことだったと思いますが、とても立派な内容でした。

「ドラえもん、僕は家出をして一人で生活する。
誰にも頼らずに独り立ちするんだ。誰にも頼らないということは、衣・食・住を全部自分で用意するということ。誰にも文句を言われない生活を送るんだ!」


のび太、なかなか考えてるじゃん!
と素直に驚きました。まるで一身独立して国家独立すると言った福沢諭吉のような台詞に、一瞬でしたが「のび太カッコイイ」と感心してしまいました。

そう、一瞬でした。
なぜならこのあとに、

「だからドラえもん、道具貸して」

と、いきなりドラえもんに頼る姿勢を見せたからです。
それもただ頼るだけでなく、ドラえもんの「ひみつ道具」というチート手法によっていかに楽をして目的を達成するかという、とことん堕落しきった姿勢なのです。
おいおいのび太、さっきの格好良さはどこへ行ったんだよ!とツッコミまくりです。

といってものび太だけでは無いんですよね。
ジャイアンだって、スネオだって、しずかちゃんだって、この映画の中では結局ドラえもん頼りなんです。例えば皆で家出して古代に行ってしまう訳ですが、そこに行くための手段も「ひみつ道具」ですし、古代でも「ひみつ道具」に頼りきりで「快適で楽な生活」を満喫していました。

家出した先で食事がかつ丼やらカツカレーやら・・・

こいつらどんだけ世の中舐めてるんだ

とついつい思ってしまいます。
でも彼らは悪くありません。だってドラえもんがいるんですから。ドラえもんがいるのに、わざわざ本当のサバイバルに挑む必要性なんて何処にもありません。

でも大人になった今の自分はそんな彼らを見ていて考えてしまいます。
自分たちの力で道を切り拓いたような気になっていても、それは自分以外の誰かの力で用意してもらった環境の中で生かされているに過ぎないってことなんだよ、と。

そのことに気付かないのび太は、やっぱり子どもなんだなと、当たり前のことを改めて納得してしまいました。
そして自分が年を取ったんだなということをしみじみと感じました。

こんなことは27年前は考えなかったものな、と。

のび太が創りだした動物たちについて


のび太はドラえもんのひみつ道具で3匹の動物を生み出します。
ペガサス、ドラゴン、グリフォンという空想の生き物をモデルにした動物です。彼らはのび太を親と慕い、可愛いさを振りまきながら、映画の中でも大活躍をするという重要な存在となります。

のび太がどうやって彼らを生み出したか?というと、動物のアンプル(素材?)を卵型の培養ケースの中に入れることによって生み出しました。
本当は、一つのケースに一つの動物アンプルを入れるという道具で、単純に馬だったり、犬だったりというペットを生み出す道具のはずだったんです。

でものび太は、一つのケースに複数の動物アンプルを投入するというよくよく考えればとても恐ろしい行動に出ます。
生物のキメラを作る行動に他なりません。
遺伝子組み換え動物の作製です。

先生!
この作品の生命倫理は一体どうなっているんでしょうか!?

いやあ、物事をあまり真面目に考えては物語が楽しめないという、典型的なエピソードですね。いいんです。架空の話なんだから。

タイムパトロールについて考えてみると・・・


劇中、ドラえもんは一度ギガゾンビに敗れます。
負けた原因は、ドラえもんが22世紀からやってきたネコ型ロボットだったのに対し、ギガゾンビは23世紀からやってきた博士だったからということでした。
「1世紀分、負けた」
というのがドラえもんの負け台詞。

しかしそんなギガゾンビも最後はドラえもん達に敗れ、さらに駆けつけたタイムパトロールに逮捕されてしまいます。

タイムパトロールというのは、時代の流れを変えようとする「時空犯(だったかな?)」というのを取り締まる警察みたいなものとのこと。
そうですよね。タイムマシンが普通に使用される未来においては、やっぱりそういう組織が必要になりますよね。

でもよく考えたら、このタイムパトロール、一体何世紀からやってきたんだろう?と疑問が生じます。
ドラえもんは1世紀分先を行くギガゾンビに一度は完膚なきまでに負けました。ギガゾンビは僕達が凄い道具だと愛してやまない「ひみつ道具」を「化石みたいな道具」と言い捨ててしまいます。
だとしたら、例えタイムパトロールを組織化したとしても、その1世紀先の未来からやってきた時空犯には手も足も出ないという事にならないでしょうか?タイムパトロールはその時代では国家権力によりおそらく最高の装備を与えられることになるでしょう。しかし1世紀先の未来からやってきた時空犯にとっては「化石みたいな装備」でしか無いわけで、そうなるとおそらく手も足も出ない、ということになります。

でも大丈夫。
またその先の未来からやってきたタイムパトロールがその時空犯を取り締まってくれますから。
しかしそんなタイムパトロールも、更にその先の未来からやってきた時空犯には手も足も出ません。
でも大丈夫。またその先の未来からやってきたタイムパトロールが・・・

という事象が延々と繰り返されることになりますよね。
そうすると、数学的極限から言えば、タイムパトロールは無限の未来からやって来なければ時空犯には対抗できないという事になってしまいます。

ということを考えだしたら夜も眠れなくなりそうです。
タイムパトロールは恐るべき謎を秘めています。

ところで一つ気になったのは、なぜタイムパトロールはギガゾンビを逮捕しても、ドラえもんは逮捕しなかったのだろうか、という事です。
なぜならドラえもんは、ひみつ道具という未来のアイテムを使って、その時代には日本にまだ存在しなかった「ヒカリ族」という人類を移住させたという、明らかな歴史改変を行ったからです。

ドラえもん的には、

「こうやって日本という国のはじまりがつくられたんだよ!」

という事でハッピーエンドなんでしょうけれど、それはあまりにも身勝手な理屈です。
ちなみにそのドラえもん、ヒカリ族が移住先で村を作る際には、一切ひみつ道具での手助けはしません。「この時代にはない道具だから」と、満面の笑みで諭すように解説するドラえもんの姿が強烈に滑稽です。

あんた、ここにどうやってそのヒカリ族を連れてきたんだよ。

でもドラえもんがあまりニコニコしているからでしょうか。それともドラミちゃんに何か袖の下でも貰ったからでしょうか。
タイムパトロールはお目こぼしで、一切そんなドラえもんを咎めません。

タイムパトロールにはもっとしっかりした業務の遂行をしてもらうよう、また、そのために明確な基準を持ってもらうよう、苦情を届けたいと思います(笑)。

それでもドラえもんは面白い


というわけで何だかんだ書きましたが、これだけ書きたくなるのは、やっぱりドラえもんが面白いからです。

私たちに夢や希望、ツッコミどころ、子どもの身勝手さなど、色々なものを提供してくれるドラえもんに感謝して、作者の藤子・F・不二子さん、映画の監督・スタッフさんに敬意を表したいと思います。

ありがとうございました!
posted by 霧島もとみ at 2016年03月17日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年03月16日

「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」を27年の時を超えて見た感想

この週末に映画館で見てきました。
感動やら、子ども時代の思い出やら、色々と刺激を受けることがありましたので記事を書きたいと思います。

さて、「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」については、

あっ、このタイトル知ってる!

というのが第一印象でした。
同じタイトルのドラえもん長編映画を子どもの頃に見た・・・という記憶が自分の中にありましたので。

調べてみるとやはりありました。長編映画では第10作で、何と1989年3月11日公開作品でした。実に27年前の作品ということになります。年がばれますね、てへへ。

さて最近のドラえもん長編映画は、過去の作品をリメイクするものが幾つか出ています。
ついでにこれも調べてみますと、
・のび太の恐竜
・のび太の魔界大冒険
・のび太の宇宙開拓史
・のび太と鉄人兵団
・のび太の大魔境
が2006年以降にリメイクされています。

どれもこれも懐かしい・・・時間を超えて、あの頃の何ともいえない感情が呼び起こされるのを感じます。
タイトルを眺めていると、一番「あっ!」という衝動を覚えたのは「魔界大冒険」でした。
これは特に思い入れがある作品で、確か途中で全員が石にされちゃうんです。漫画を読んでいた時、子どもゴコロに「みんな石になっちゃった!!もう世界の終りだ!!どうなってしまうんだ!!」と本気で絶望を感じたことを強く記憶しています。
そして最後の戦いのシーンでは、ジャイアンが放つダーツをビッグライトで巨大化して・・・という道具の組み合わせの技で魔王の心臓を・・・!
いやー、アツい。思い出すだけでわくわくしますね。

さて、「のび太の日本誕生」です。
自分の中では久し振りのドラえもん長編映画について、幾つかの視点から書いていきたいと思います。

のび太の日本誕生!から考えさせられた、リメイクの魅力


リメイクっていうと、
「昔の作品の焼き直しじゃん?」
「ネタが尽きたから引っ張り出してきたんでしょ?」
的な、どちらかというと負の印象を持っていました。

だから正直、映画にはあまり期待していませんでした。
「話の概要どころか、結末までもう大体知ってる訳ですから、感動なんてしないよね!」と思っていたんです。
内容を知っているものをもう一度見せられたって面白くもなんともないよ、というような考えでした。

しかし、これは完全に浅はかだったことを思い知らされました。
なぜならごく普通に感動していた自分がいたからです。

そう、「予想できない驚きのストーリー展開」や「まったく未知のシナリオ」ということは感動の要因の一つになり得ますが、感動のための絶対条件ではありませんでした。
ではなぜ私は感動したんでしょうか?
映画館で見ていた間のことを回想すると、強く印象に残っていることがありました。

それは「ドラえもんの世界に完全に入り込んでいた状態だった」ということです。
そう、最新の表現手法、CG、音響、声優さんの演技のそれら全てが見事に相まって(流石にキャラクターデザインの古さは否めない感がありましたが・・・)、「今、表現できる最高のドラえもん」が作り上げられていたんです。
ストーリーこそ同じでも、27年前のオリジナル映画とは全く別の世界が表現されていました。

ドラえもんに教えられました。
これがリメイクの魅力なんだよと。

「子どもの時に見たよ」というお父さんお母さん、そうでない大人の人にも、これは是非劇場で見て欲しい作品だなと感じました。

突然ですが、のび太のお母さん


実はドラえもんをちゃんと見たのは随分久し振りでした。
そうすると声優さんも色々変わっている訳ですが、中でも驚きが大きく、心を揺さぶられたのは

のび太のお母さん = 三石琴乃さん

だったことです。
力強く艶のある、色気溢れる女性の声って感じで、もう大好きな声優さんなんですが・・・三石さんといえば、私の中では「エヴァのミサトさん!」の存在が大きすぎて、もうお母さんの声がミサトさんにしか聞こえない!

「のび太〜〜!!」と怒られても、もう嬉しくて嬉しくて。
「のび太・・・」と涙ながらに名前を呼ばれると胸がキュンと締め付けられて。


ああ、このお母さんの声をいい音響で聴けただけでも、映画館に行った甲斐があったな〜と思いました。

その他


これらのほかにも色々感じたことがありました。
しかし、ちょっと長くなりそうなのと、まだ整理しきれていないのとで、今日のところはここで一度記事を終えたいと思います。
続きはまた今度、ということで、今日はここで失礼します。
中途半端で申し訳ありません!
タグ:映画
posted by 霧島もとみ at 2016年03月16日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2016年01月07日

ガンダム 鉄血のオルフェンズ について

ガンダムは幾つかの作品以外は大抵見ています。
が、最近になるにつれ「これはちょっとなあ・・・」と感じることが多くなり、なんだか年を取ったなあ・・・若さゆえの過ちだったのかなあ・・・なんて不安に駆られていたのですが、

「鉄血のオルフェンズ」

かなり面白いと思います!

特に独特なのが、世界観もありますが、妙に”大人”な台詞が多いことです。
登場人物の年齢層は比較的低いはずなんですが・・・
例えば、

「タービンズでストレス溜まってんだ。
 目の前に乳をぶらぶらさせてる女がいて、触れないんだぜ〜」


とか、

「おめえ、なんかツヤッツヤのテッカテカだなー」
「いやあ、久し振りにいい汗かいたっつーかさー」
「俺も大人になりましたんで」


ちょっとガンダムっぽくない台詞で笑ってしまいました。
というか夕方5時のテレビにはそぐわない”大人”の下ネタだろ!と突っこんでいると、今度は

「男の度量は愛の大きさで決まる」

とか

「これはあんたが決めることだ。
 俺が最初に人を殺した時に似ている。その後の生き方を大きく変える決断だ」


とか、

きっちり決める台詞も入れてくる。

面白いなあ。

オルガが仲間内ではリーダーを演じているのが、ナゼの前ではすっかり子供っぽくなってたりと、色々と見どころが多いです。なんか人間臭いガンダム・・・

また、ガンダムバルバトスのデザインが格好良いです!

ソロモン72支柱をガンダムの名前の元ネタに使っているのも渋いなあと思います。
「マギ」好きな自分としては、バルバトスと聞くと「ムー・アキレウス」をすぐに連想してしまいますが・・・
posted by 霧島もとみ at 2016年01月07日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2015年06月01日

アルスラーン戦記 #9 仮面の下

アンドラゴラス王の居場所を探るべくナルサスとダリューンがパルス城に潜入する話。

そこへ銀仮面卿が現れて、ダリューンと剣を交え、ダリューンがその仮面を弾き飛ばして火傷が露わになる・・・という話でした。

ストーリーの核心に繋がるエピソードの一つが今回明らかになった訳ですね。
今回の主題はここでしょう。タイトルにもなっていますし・・・。

でもそれよりも、メッセージとして重要なのは、宗教に関する幾つかのエピソードです。

図書館の貴重な書物(この時代は電子データなんてありませんから、記録の全てといっても過言ではない大事なものです!!)を異教徒のものだからと言って焼き捨てる宗教者。
この宗教者が不細工に描かれているところには作者の意図的なものを感じますが・・・。

あるいは「イアルダボード教の教えに触れれば改宗しないわけがない!!」という思い込み。
「イアルダボート教は万民に平等だ。勿論、異教徒は差別して良いのだ」という理不尽さ。

一方でアルスラーン側の行動としては、自らの神を大事に思いながらも他の神を排除せずに考えてみようという姿勢が目立ちます。

このあたりに田中芳樹さんの宗教観が出ているのかな?と思います。
銀河英雄伝説では政治体制に関する強い思いがふつふつと描かれていましたが、今作では宗教というのがひとつのキーワードかもしれません。

そこに着目してみると、より楽しめるかもです。

あ、今回の、銀仮面とダリューンの剣闘シーンはスピードと迫力があってとても良かったです!!
「あいつは俺に殺させろ」という台詞も良かったなあ・・・。
posted by 霧島もとみ at 2015年06月01日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2015年05月19日

アルスラーン戦記#7 美女と野獣たち

勇気を出して、「アルスラーン戦記」で検索してみました。

第14巻が2014年発刊・・・
やはり完結してなかったんですね。
しかしながら14巻が発刊されていたことにほっとしたような気持ちに・・・いやいや、ダメダメ。
やっぱり遅いものは遅いのです。

知らないうちに「待たされる」「続きが出てこない」ことにすっかり体が慣らされてしまっている弊害でしょうね。
こんなに遅い発刊ペースでもそんなに気にならなくなってしまっているのですから。

何の弊害かといえば、それはもちろんハンター×ハンターです。
富樫のせいであり、そして富樫を忘れられない自分のせい・・・。

さて今回は美女の神官ファランギースが登場しました。
「そこの美女!」
とギーヴがいくら呼びかけても反応しません。業を煮やして「そこの絶世の美女!」と呼びかけるとようやく反応します。
「普通の美女であればいくらでもいるが、絶世の美女といえばそうはいないのでな」

いかにも田中節で若干時代がかった台詞ではありますが、荒川さんの絵とすごくマッチしていて、ごくごく自然に聞こえるのはさすがとしか言いようがありません。
でもファランギースの衣装はいくらなんでもエロすぎでしょう。
胸なんて簡単にこぼれそうな・・・いやいや、ダメダメ。想像してはダメだ!!

そんなわけで今回も雰囲気たっぷりで、大きな話の進展はありませんでしたが、面白い回でした。
また来週が楽しみです!
posted by 霧島もとみ at 2015年05月19日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ

2015年05月15日

アニメのアルスラーン戦記が面白い!

アルスラーン戦記って随分前の話だなーと思い出した方はそれ相応のご年齢になっていると思います。
多分に漏れず私もそうですが・・・

原作はとても面白かったんですよね。
銀河英雄伝説が大好きだったので、同じ作者ということで読み始めたんだったと思いますが、読むのが止まらなくなった記憶があります。

でもすぐに読むのは止まってしまいましたけれどね。
つまらなくなったんじゃないんですよ。
途中から全然続きが出なくなったからです。
この頃の田中さんはもう、そういうのばっかりで、創竜伝だとか、タイタニアだとか、どれもこれも面白いのに途中で放り投げたのかどうか知りませんが一向に続きが出ないものばかりで、やきもきしすぎて手を離してしまったんです。
このアルスラーン戦記はどうなんでしょうね?
果たして完結したんでしょうか・・・
Webで調べたらすぐ分かるんでしょうが、怖くて調べられませんよ。

ところがこのアニメはすごく面白いです!
まあ原作が面白いし、荒川さんの漫画も魅力的な描き方をされているので、面白く無い訳はないんですけれども、、、
とても丁寧な作りです。
戦争シーンとか、人物や背景の描き方とか、とてもしっかりしています。

田中さんの台詞はちょっと芝居がかった大げさなものが多いんですけれど、このアニメ版では、荒川さんのキャラにそれがまた良く似合う!
ナルサスの嫌味っぽさとか、ダリューンの猛者っぷりとか、本当にイイ感じで魅力に溢れていて、全国には相当萌えている人が増えているんじゃないですかね、コレ。

久しぶりに毎週の放送が楽しみな番組になりました。
ああ、次の日曜日が早くこないかな・・・
posted by 霧島もとみ at 2015年05月15日 | Comment(0) | TrackBack(0) | アニメ
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他人との距離感をいつも遠く感じながら生きてきました。高校の体育祭のフィナーレでは、肩を抱き合って大はしゃぎする光景に「何でこんなに盛り上がれるんだろう・・・?」と全く共感できませんでした。共感できない自分が理解できず、いつも悩んでいます。そんな私でも面白いと思うことはこの世界に一杯あります。それが私の生きる糧でした。面白いことが増えていけば、よりたくさんの人が楽しく生きられるはず。そんな世界を夢見ています。
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