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2020年11月02日

顕正会ブログを見て

久しぶりの記事更新となってしまいました。



私事ですが、10月13日付けで他支部の女性信徒さんと入籍致しました。(もちろんこれに伴い、夫の菩提寺となる妙相寺に移籍となります。)



そのため少しバタバタしていましたが、少しずつ落ち着いてきたのでぼちぼちブログを更新しようかな、と思った次第です。



さて、あいも変わらず顕正会の宗門攻撃は留まる所を知りません。



どこどこのお寺に行って住職を論破してやった・・とか、法華講員を黙らせてやった・・とか。



正直、顕正新聞に掲載されている記事は、デタラメや誇張して書くケースが多いので実際と異なる内容が都合よく書かれている事が多いのです。



なので、顕正新聞の記事は基本当てになりません。


とにかく大事な事はもっと客観的に物を見るべきであり、「浅井先生が絶対なんだ」と思う方は一歩引いて物を見る事だと思います。


さて、以前からある顕正会員のブログでありますが、
https://seito-kenshokai.net/


更新する度に「開いた口が塞がらない」というか、反論するのもバカバカしいとしか思えないというのが一線で活躍する法華講員の本音だと思います。



しかし真面目な顕正会員は真剣に信じてしまうと思いますし、うなづいてしまうかもしれません、なので少しずつ書いていこうかと思います。


こちらは最新の記事ですね

https://seito-kenshokai.net/post-1411/

「法華講の登山に功徳がない本当の理由」


なんというか、現役の法華講員からしてみれば笑いしか出ないタイトルではあるのですが。


その記事を読んでみれば


いま法華講では「あり得ないこと」が起きています。それは、宗門(日蓮正宗)から「登山せよ」と言われて登山したのに、「全く功徳がない」ということです。

 「あっ、やっぱり俺だけじゃなかったんだ。そうそう、住職から『登山、登山』って言われて何度も登山するんだけど、お金と時間がかかるだけで、御利益なんて全くないんだよね。むしろ、登山するたびに、なんだか悪いことが起きてくるような気すらするんだけど・・・。なんでなんだろう?」と思われた、そこのあなた!

 実はこれには、宗門(日蓮正宗)では絶対に教えてくれない、仏法上の深い「理由」があるのです



まず、登山というのは「大聖人様の御元に参詣する事」です。

日寛上人も「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、既に本門の戒壇の御本尊存する上は其の住処は即戒壇なり。其の本尊に打ち向ひ戒壇の地に住して南無妙法蓮華経と唱ふる則は本門の題目なり。志有らん人は登山して拝したまへ」(寿量品談義・富要十巻131頁)


と仰せであり、古来より志ある信徒は戒壇の大御本尊様の御前に詣でるというのが一般的でした。



なので、当然大石寺から遠い地域の方や、ましてや海外信徒の方など交通費や時間をかけて戒壇の大御本尊様の御前に詣でるという事がどんなに尊い志なのか。



特に海外では物価が安い国もありますから、一生懸命貯めた旅費でお登山をするその信心というのは、大石寺から近い私からしてみれば計り知れないものがあります。



また登山する度に悪いことが起きる・・、とかそんなの当たり前の話です。



功徳が大きいからこそ魔も強く競い起こるし、今までの罪障も噴き出してきます。


罪障消滅というのは功徳を積むからこそ出てくるものです。


だからこそ戒壇の大御本尊様の御前に詣でる事を御住職が勧めるのも当然だし、嫌な人は行かなきゃいいだけです。強制ではないのですから。


そして

浅井先生のご指導を拝してみましょう。

毎回このワードが出ますけど、だから浅井会長は何者だって話なんですけどね。

 大聖人様の御心に背いては、お題目を唱えても功徳はない。

 いま顕正会を怨嫉する法華講の者たちが、「顕正会は登山行かれなくて、かわいそうですね」などと言っているのは、御法門が全くわかっていない。

 御遺命に背いて登山しても功徳はない。いやかえって大聖人様のお叱りを受けるのです。

 このことは私が勝手に言うのではない。

 内房尼御前が、氏神詣でのついでに、身延にまします大聖人の御許に参詣したとき、大聖人様はお目通りを許されず、返しておられる。この一事を拝すれば、よくわかります。

 大聖人様は後日に三沢殿への御文に託(つ)けて、その理由を次のごとく仰せ下されている。

 「内房の御事は、御年寄らせ給いて御わたりありし、いたわしく思いまいらせ候いしかども、氏神へ参りてあるついでと候いしかば、見参に入るならば定めて罪深かるべし。

 その故は、神は所従なり、法華経は主君なり。所従のついでに主君への見参は世間にも恐れ候。其の上尼の御身になり給いては、まず仏を先とすべし。かたがたの御失ありしかば、見参せず候。

 此れ又、尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人々も、下部の湯のついでと申す者を、あまた追い返して候。尼ごぜんは親のごとくの御としなり。御なげき痛わしく候いしかども、此の義を知らせまいらせんためなり」と。

 この御意は、「神は所従、法華経は主君」と仰せのごとく、内房の尼御前が、自身の氏神参詣を先として、そのついでに大聖人の御許に参詣した、仏法上の失をお誡め下されたものです。「見参に入るならば定めて罪深かるべし」と。もし対面するならかえって罪を作るとまで、仰せ下されている。

 これを以て知るべきです。

 大聖人様の唯一の御遺命に背いて登山しても、全く功徳にならないどころか、かえってお叱りを受けるのであります。

顕正新聞令和2年10月25日号



この指導も全くお門違いです。もう説明しなくても分かりますよね・・


法華講員が志で登山しているのと、氏神詣でのついでに参詣した内房尼御前の事じゃ全然違うじゃないですか。


それに「御遺命に背いて登山しても功徳はない。いやかえって大聖人様のお叱りを受けるのです。このことは私が勝手に言うのではない。」って、日蓮正宗が御遺命に背いてるって言ってるのは浅井会長が勝手に言ってる事です。


次に

 宗門(日蓮正宗)はひた隠しにしていますが、彼らはかつて創価学会の池田大作にへつらい、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇(となる建物)」と偽り、大聖人一期の御遺命である国立戒壇(広宣流布の暁に国家意志の表明を以て建立される本門戒壇)を否定しました。そして、その改悔もなく、未だに国立戒壇を否定し続けているのです。大聖人の御心に背くこと、これより甚だしきはありません(詳しくはこちらの記事をご覧ください)。

 だから、かつての清浄な御開扉とは異なり、いまの宗門(日蓮正宗)の登山には全く功徳がないのです。「付け願い」をはじめ、ただ坊主たちの収入源になっているだけです。



これももう散々破折され尽くしてるので省きます。


付け願いについても書いておきます。


付け願いというのは今回のコロナのように急遽登山が中止になった、あるいは重い病や外出が厳しい高齢な方など登山に行けない方に、「戒壇の大御本尊様に対する御供養」として一律2000円を御供養するものです。


勘違いしている方もいるようですが、登山の御供養は一律2000円でそれ以上もそれ以下もありません。なので大石寺からそれほど遠くない私でも、登山にかかるお金は交通費の方が多いのです。



また付け願いもよほどの事が無いとしません。仕事程度の理由では御住職も受け付けなかったと聞いていますし、また生まれながらの法華講員である私の妻も「付け願いはほとんどした事が無い」とサラっと言っています。


またTwitterで、中道一実さんよりこのようなツイートもされています。

お付け登山(現在の付け願い)は、日有上人の時代にはすでにあります。

これは、宗祖御在世に宗祖の元に、経済や病苦などにより参詣できなかった方が、せめて御供養だけでもと、お手紙と一緒にお届けした故事に倣うものです。

そのときに、宗祖が御供養のお礼状と共に法門をお書きしたお手紙がいわゆる皆様がお読みになられる御書として残っておるのですよ。
だから、御書の冒頭には、御供養くださった目録が、並べられているんですよ。




つまり古来からあるもので、それを最近始めたかのように喧伝する、そもそも浅井会長はその事を知っていたはずですよね。これを姑息や謀りと言わずして何というのか、という話ですよ。

次に

 ちなみに、ある法華講員などは、顕正会を怨嫉して、「遥拝勤行というのは、大石寺仏法にはありません」、「大石寺の方角に遥拝として、その途上のあらゆる謗法に感応したら、どうするのですか?大石寺の方角にはたくさんの、邪宗がありますよ。遥拝だとそれら全てに同時に感応してしまいますよ」などと難癖をつけているそうです。

 では反詰します。入信したばかりで未だに御本尊を頂いていない方は、どうやって日々の勤行を申し上げるのでしょうか。この理屈だと、御本尊を頂くまで、自宅で勤行できないことになってしまいます。拝む先にある謗法の「全てに同時に感応」してしまうそうですから(笑)。

 たぶんこの方は知らないのでしょうが、宗門(日蓮正宗)でも、未だ御本尊を頂いていない信徒に対しては、自宅から富士大石寺にまします「戒壇の大御本尊」を遥拝して勤行するように指導しています。実際、私が折伏して顕正会に入会した法華講員も、そのように指導されたと話していました。

 また、先輩から教えてもらったのですが、宗門が平成30年に発行した「勤行―その仕方と観念文の意義」という本には、「自宅に御本尊をご安置するまでの間は、本門戒壇の大御本尊がまします総本山大石寺(静岡県富士宮市)の方角に向かって勤行・唱題をするようにしましょう」と書いてあるというからオドロキです。

 ところが、先ほどの法華講員は、「遥拝勤行というのは、大石寺仏法にはありません」、「大石寺の方角に遥拝として、その途上のあらゆる謗法に感応したら、どうするのですか?大石寺の方角にはたくさんの、邪宗がありますよ。遥拝だとそれら全てに同時に感応してしまいますよ」などと、何も知らずに言っているわけです。「無智」というのは恐ろしいですね。

 ちなみに、たとえ法華講員が遥拝勤行をしたとしても、御遺命に背く宗門に身を置く以上、大聖人の御心に背き功徳がないことに変わりはありません。

 そこに、いま浅井先生のもと、大聖人の御心に適う遥拝勤行を実践し、大聖人仰せのままの功徳を頂ける顕正会員の立場は、何と有難いことでしょうか。



顕正会で言う遥拝勤行(御本尊様の無い所でやる勤行)は日蓮正宗では「内得信仰」といい、これはあくまで仮の状態です。


基本はあくまで御本尊様を御安置し、仏様に対し御供養しながら信仰する事なのです。


もちろん、御本尊様を御安置していても泊まり勤務や旅行などで内得信仰の形で勤行をする事は割とあります。そんなのは当たり前の事ですね、御本尊様の前じゃないから勤行しないというわけにはいきませんから。


ちなみにその「法華講員」というのはどなたの事なのでしょうか、また会話の全文か録音を是非聞かせて頂きたいものです。


もっとも、顕正会で「法論」の音声を公開する事は無いのでどこまでホントなのかも疑わしい所ではありますが・・




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