いつもありがとうございます。
ちょむ吉です。
株って一喜一憂してしまいますよね。
ちょむ吉もよく一喜一憂しています。
でも、心がけていることがあります。
それは
「粋」です。
「粋の構造 (九鬼周造)」で著者は粋について下記のように説明しています。
「粋」は
「媚態」、「意気地」、「諦め」の三つの要素からなっています。
まず、第一の特徴である
「媚態」についてです。
「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定そていし、
自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。」
と、説明しています。
つまり、異性を想定してその関係の中に、あなたとの関係には何か特別なことが
起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。
しかし、何も起こらない前提としての異性ではなく、何かしらの可能性を秘めている
状態を「媚態」と言います。
次に第二の特徴である
「意気地」についてです。
異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識が「意気地」になります。
「武士は食わねど高楊枝」、はつらつとして武士道の理想がここにあります。
理想主義の生んだ「意気地」によって媚態が霊化されていることが「いき」の特色であるのです。
最後に
「諦め」についてです。
九鬼周造は「諦め」について以下のように説明しています。
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「諦め」は「運命に対する知見に基づいて執着を離脱した無関心である。
「いき」は垢抜がしていなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒(しょうしゃ)たる心持でなくてはならぬ。
この解脱(げだつ)は何によって生じたのであろうか。
異性間の通路として設けられている特殊な社会の存在は、
恋の実現に関して幻滅の悩みを経験させる機会を与えやすい。
魂を打込んだ真心が幾度か無惨に裏切られ、
悩みに悩みを嘗なめて鍛えられた心がいつわりやすい目的に目をくれなくなるのである。
異性に対する淳朴(じゅんぼく)な信頼を失ってさっぱりと諦むる心は決して無代価で生れたものではない。
「いき」のうちの「諦め」したがって「無関心」は、世智辛い、つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜した心、
現実に対する独断的な執着を離れた瀟洒として未練のない恬淡無碍(てんたんむげ)の心である。
「野暮は揉もまれて粋となる」というのはこの謂いいにほかならない。
婀娜あだっぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯しんしな熱い涙のほのかな痕跡こんせきを見詰めたときに、
はじめて「いき」の真相を把握し得たのである。
この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって
自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して
「垢抜して(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ(媚態)」ということができないであろうか。
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何か宗教っぽくなってしまいましたが、
株に対する姿勢として「粋」の考えは参考になると思うのです。
「垢抜けして、張りをもった、色っぽさ」ある種の諦めを持ち、かつ客観的な二元的態度を持って、しかし二元的な可能性をそこに内在している。この姿勢が市場の動向に左右されない心をつくることが大切だと思うのです。