2018年03月03日
春の小川で標準語を習った日本の子供たち
episode1 日本の夜明け大ピンチ!言葉が通じない…より
今から150年前の明治時代には
文明開化が興って素晴らしい時代になると思われた。
しかし、明治時代は出身地によって方言があり、
何をいっているか分からないことが多かった。
江戸時代には300藩あって多種多様なお国言葉があり、
同じ日本人なのに言葉が通じないことが多かった。
明治政府も軍隊で言葉が通じないのが問題になって、
共通の言葉の必要性を感じ議論が行われた。
議員の前島密は日本語をひらがなにしようと訴えた。
他にも西周からは日本語をローマ字にしようという訴えが起きた。
さらに森有礼からは日本語を英語にすべきという意見まで出たという。
春の小川
1895年に日本語を滅亡の瀬戸際から救う男が悩んでいた。
上田万年はそこで標準語を作ることを思いついた。
上田万年は日本初の言語学者だ。
上田万年は全国民の模範になる言葉が必要だと考えた。
上田万年は標準語として東京の言葉を選んだ。
具体的には務め人が使うような言葉だと伝えた。
そこで「おかあさん」という言葉から標準語が始まったと伝えた。
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「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、
およそ1900年頃に作られた。
いわゆる言文一致運動の産物である。
自然に変化してこうなったものではなく、
『作られた』日本語である。
・・・言文一致はたったひとりでできるものではなかった。
そして、政府や文部省などが押しつけてやっても、
それだけでどうにかなるものでもなかった。
政府や文部省のなかにも、今のままでいいという人もいたし、
日本語を捨てて英語にしてしまえという人もいたのである」。
こういう状況の中で、言文一致運動を主導したのは上田万年という、
あまり知られていない人物でした。
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