放射性物質に狙い撃ちされた村・飯舘村の悲劇(前篇)
ちょっと車で走った。蓮の花がうつくしい池が道路脇にあった。蓮の葉の上でカエルがけろけろ鳴いている。何と平和で美しい、と写真を撮った。が、線量計を取り出したら、毎時5.18マイクロSvだ。ぎょっとして後退りした。
平和で美しい蓮池の風景。しかし放射線量は毎時5マイクロSvを超えていた。
先ほどまでいた福島市内では、ふだん線量計は0.2〜0.5くらいを指している。1マイクロSvに上がろうものなら心臓がドキドキした。ケタが1つ違うのだ。
「いやいや、そんなもんじゃありませんよ」
案内役の愛澤さんは眉ひとつ動かさず、そう言った。
それぞれ線量計を持ち、まずは7月まで愛澤さんが暮らしていた実家に行った。木枠のつるべ井戸や木造の納屋が残る、大きな農家である。建物の裏は山林の斜面だった。ここなんか高そうですね、と積もった落ち葉の上に線量計を置くと、とたんに12.06マイクロSvに数字が跳ね上がった。ピーピーと音がする。心臓がばくばくする。線量計の警告音だった。
ちょっと置き場所を変えても数字は10を切らないままだ。 【記事NO5より一部抜粋】
2階建ての自宅、玄関を入った右手に彼の寝室があった。2段ベッドの上層、敷き布団の上に線量計を置く。ぎょっとした。デジタル数字は毎時2マイクロSv(シーベルト)を示している。
「今日は2(マイクロSv毎時)ですか。だいぶん下がりましたね。いっときは4ありましたから」
ロシア製の線量計を片手に村を案内してくれた愛澤卓見さんは、カジュアルにそう言った。39歳、独身。生まれ育った実家に住んでいた。村の小学校に事務職として勤める。現在村の小学校は隣町に避難しているので、愛澤さんもそちらに通勤している。
ここで毎日寝ていたんですよね?
私はそう聞かずにはいられなかった。ハイそうです、と愛澤さんは律儀に頷いた。
この家から避難されたのはいつですか?
「結局、7月20日まで引っ越せませんでした」
私は愕然とした。ここ飯舘村に福島第一原発から漏れ出た高濃度の放射能雲が到達したのは、震災の4日後、3月15日であることが文部科学省の調査でも公表されている。愛澤さんは、4カ月以上、そんな高濃度の放射性物質が降り積もった環境にいたというのだ。国が全村民に避難を指示したのは4月22日である。
早く逃げようと焦りませんでしたか?
「いや、なんていうか、もうどうせ被曝しちゃったしなあ、という感じなんです」
【記事NO5より一部抜粋】
以上写真・記事【島賀陽弘道】JBPLESS
3月15日の雨に打たれた飯館村の人や福島から避難してきた人々の想いの中にある
既被爆感
震災以来、気になる情報を拾いアップしてきたが、頭の隅にいつもあったもやもや、
現地の人々と、周りであれこれ言う人々の間に横たわる、拭いようのないギャップ、
それは正に既被爆か否かであることに漸く思い至る。
実際に現地を訪れて線量計の針が振り切れることの恐ろしさに
身を震わせながら書かれた記事は、
うららかな秋の日、溢れかえる情報の海の中、
ともすれば見失いがちなこの国の被爆の現実を鮮明に突きつけてくれる。
既被爆感
震災以来、気になる情報を拾いアップしてきたが、頭の隅にいつもあったもやもや、
現地の人々と、周りであれこれ言う人々の間に横たわる、拭いようのないギャップ、
それは正に既被爆か否かであることに漸く思い至る。
実際に現地を訪れて線量計の針が振り切れることの恐ろしさに
身を震わせながら書かれた記事は、
うららかな秋の日、溢れかえる情報の海の中、
ともすれば見失いがちなこの国の被爆の現実を鮮明に突きつけてくれる。