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2020年12月04日

「おちょやん」浪花千栄子の本名と芸名。

 NHK連続ドラマ『おちょやん』が始まった。主人公は竹井千代。杉咲演じる竹井千代は大阪府南河内郡出身の上方女優・浪花千栄子(なにわ ちえこ)がモデルです。
 今日は浪花千栄子さんの本名と芸名について書いてみたいと思います。
■浪花千栄子の本名
 浪花千栄子の本名は南口キクノ(なんこう きくの)です。大阪府南河内郡大伴村大字板持(大阪府富田林市東板持町)の生まれ。
 鎌倉時代の名将・楠木正成は大阪府富田林市の出身と言われており、楠木正成の人気が高かった。楠木正成にちなんだ名前を付ける人が多かったそうです。
 楠木正成の家紋が「菊水」だったことから、楠木正成にちなんで「キクノ」と名付けられました。
 また、南口キクノの母親が「南口キク」というので、母親の名前と楠木正成の家紋とあわせて、名付けられたようです。
 オロナイン軟膏のCMは本名が南口キクだから「なんこう きくの」と「軟膏効くの」との洒落でCMに選ばれたらしい。
■浪花千栄子の芸名
 浪花千栄子の芸名は「三笠澄子(みかさ すみこ)」から「香住千栄子(かすみ ちえこ)」へ「香澄千栄子」から「浪花千栄子(なにわ ちえこ)」へと変わっています。
 1番目の「三笠澄子」という芸名は、最初に入ったプロダクションの監督が付けた芸名でした。
 2番目の「香住千栄子」の芸名は次のように決まりました。
 彼女が京都の三友劇場に出演している村田栄子一座に入り、村田栄子一座で看板女優になった。しかし、師匠の田村栄子はヒステリーの持ち主で、直ぐに物を投げつけるような人だった。彼女は我慢していたが、階段から蹴落とされたりしたので、  三友劇場の主が見るに見かねて、映画の「東亜キネマ」を紹介してくれたのである。その三友劇場の主が「村田栄子を千、超えるように」という願いを込めて、香住千栄子と名付けてくれたので、東亜キネマ時代に「香住千栄子」を使った。
 3番目の芸名は次のように決まりました。
 彼女は「東亜キネマ」を辞めて、市川百々之助に招かれて、市川百々之助のプロダクションに入った。
市川百々之助は「大阪の女優さん」ということで、「浪花千栄子」と名付けたのでした。
■終わりに
 芸能人は次々と名前が変わって覚えるのもたいへんですね。
 浪花千栄子さん本名「南口キクノ」さん芸名「三笠澄子」「香澄千栄子」「浪花千栄子」との多くの名前を使い、彼女は芸能界を登り上がっていったようです。
 ただの名前だと言っても名前は、本当に大切ですね。名前一つで人生が変わってしまったかたも居られたようです。せめて親から貰った名前は大切に使いたいものです。



2020年12月03日

『おちょやん』が始まってわかる古関裕而メロディの偉大さ!

 NHK連続ドラマ『おちょやん』が始まった。主人公は竹井千代。杉咲演じる竹井千代は大阪府南河内郡出身の上方女優・浪花千栄子(なにわ ちえこ)がモデル。
 子役の千代の子ども時代を演じるのは毎田暖乃は(まいだ・のの)さん可愛いくて大阪弁をうまくしゃべっていた。なかなか最近の子役は凄いですね。
■古関裕而作曲の校歌や応援歌は生きている。
 でも前のドラマ『エール』の方と、どうしても比較してしまう。なぜかなかなかドラマに入りこめない。
 主人公のモデル浪花千栄子さんに馴染みがないからだった。
そう、約60年前の上方女優、浪花千栄子さん、確かに松竹新喜劇の旗揚げから、溝口健二や小津安二郎、黒澤明ら巨匠たちの名作映画への出演へと活躍されたのはわかるが、現在その形跡は殆ど残っていない。
 50年の歳月とは大きなものです。
 どんな偉大な女優さんでも歴史の中に埋もれてしまうのです。
 しかし、古関裕而さんの音楽はいまもあちこちで生きています。彼が作った約5000曲に渡る曲は、今も誰かが歌っている曲があるのです。
 とくに校歌や応援歌は必ず、毎日誰かが歌っています。現在も古関裕而作曲の校歌や応援歌は生き続けているのです。
 コロンビアレコードの専属作曲家古関裕而にとっては「校歌や応援歌の作曲は、古関の仕事のおまけみたいなものです」。しかし、このおまけのような校歌や応援歌が現在も彼の作曲した曲の中で歌われ続けているとは皮肉なものです。
校歌や応援歌は「正確な記録がないので、何校で作ったかという数字も生き物のように流動しています」つまり人知れず歌われている古関裕而作曲の校歌や応援歌もると思われます。
■横浜市立大学校歌作詞作曲料は6万円
 ちなみに横浜市立大学の校歌の作曲料は6万円でした。
 1955年(昭和30年)4月に発行された横浜市大新聞によると、作詞作曲料は6万円で、うち1万円を自治会が負担した。当時の公務員の初任給が8700円だったことから、現在の価値に換算すると130万円ほどになるという。結構な料金を貰っていたようです。
■作曲料はお礼の手紙と小豆
 ただ、中にはこんなエピソードもありました。
 四十年位前のある日、北海道のある小学校の校長先生からの手紙が届きました。その手紙は、「古関裕而先生の歌が大好きなので、校歌を作曲してもらいたいが、小さな学校なので予算がなく、お礼らしいお礼が出来ない。それでも、もしかしたら作曲して下さるかもと、思い切って手紙をだしました」とのこと。この校長先生の手紙に父の心は動き、「お礼は結構です」と伝えて、校歌を作曲して送りました。校歌が出来て喜ばれた校長先生から、お礼の手紙と共に、学校の生徒たちからのお礼ですと、一斗缶入りの小豆が届きました。その小豆は、校歌のお礼にと一人一握りずつ、小豆を家から持ち寄った、心のこもったお礼でした。
 古関は『誰にも言わないで』とこの時は言ったようです。
■終わりに
 音楽の力って偉大です。古関裕而の作品は普遍性があります。いつまでも愛され続ける古関裕而メロディただただ感動しています。
 新しいドラマは始まっていますが前のドラマの古関裕而さんの偉大さがなんだかわかってきたような気がします。



2020年12月02日

古関裕而と菊田一夫『恋すれど恋すれど物語』に出演していた『おちょちゃん』浪花千栄子

 NHK連続ドラマ『おちょちゃん』主人公は竹井千代。杉咲演じる竹井千代は大阪府南河内郡出身の上方女優・浪花千栄子(なにわ ちえこ)がモデル。
 えっ、浪花千栄子って誰。知らない。どんな時代のどんな活躍した人。
 全く知らない人向けに、前回のNHK連続ドラマ『エール』菊田一夫と古関裕而のコンビで作った映画「恋すれど恋すれど物語」にも出演していました。
■映画「恋すれど恋すれど物語」
 1955年(昭和30年)東宝の創業者小林一三が菊田一夫を東宝に迎えていきなり取締役に抜擢しました。東宝の演劇を全部任された菊田は、1956年(昭和31年)から、第1回東宝ミュージカル「恋すれど恋すれど物語」(菊田一夫脚本・演出、古関裕而音楽)をはじめました。「泣きべそ天女」という飯沢匡さんの作品との2本立てでした。
 「恋すれど恋すれど物語」出演者は榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)、越路吹雪、宮城まり子
等。注目は当時の喜劇王、エノケンとロッパの共演だった。
 お互いライバルとして戦前は浅草で人気を二分し、一切共演をしなかったが、戦後、1947年(昭和22年)にエノケン劇団とロッパ一座の合同公演にてついに初共演を果たしていた。
 その二人を迎えてのミュージカルだった。内容は時代劇のドタバタ喜劇でした。
 最初の台本では東宝喜劇「恋すれど恋すれど物語」だったのですが、代表の小林一三かわ「東宝喜劇」の「喜劇」を赤鉛筆で消されて「ミュージカル」と修正してしまった。
菊田一夫は本格ミュージカルをやりたかったので、この喜劇ミュージカルと名がつくことに思うところもあり社長に「これはアチャラカです」と言うと小林は「面白ければいいじゃないか」と言って「東宝ミュージカル」でいくことになってしまった。
 当時の笑いに飢えていた人々にうけないわけはなかった。「喜劇王」エノケンこと榎本健一は庶民の生まれ,軽妙な動きで観客を魅了した.「笑の王国」を率いた古川ロッパは華族の家柄,声帯模写で人気を博す.華やかなレビュー,しゃれた寸劇,パロディにナンセンス・ギャグ、浅草で花開きついには丸の内を席巻した。
 以後「東宝ミュージカル」として公演が十何回まで続きました。笑いあり、歌あり、踊りあり、それで最後にちょっと泣かせて、最後に必ず豪華なショー場面が付くもので、豪華な顔触れのスターたちばかりで観客は常にたくさん入っていました。
 1年に3、4本、新作が制作されて、そのほとんどの作品が菊田先生の脚本、古関先生の音楽によるものでした。
 このミュージカルの成功を受けて東宝で1956年(昭和31年)8月1日映画「恋する恋いする物語」は公開されています。
監督:斎藤寅次郎、原作:菊田一夫東京宝塚劇場『恋すれど恋すれど物語』より
■脚本:菊田一夫■撮影:西垣六郎■音楽:古関裕而■美術:加藤雅俊■出演:有島一郎、三木のり平、榎本健一、古川縁波、柳家金語楼、宮城まり子、雪村いづみ、大河内伝次郎■物語:謎の壺を長崎から江戸まで運ぶ二人組(有島、三木)が繰り広げる珍道中。菊田一夫のミュージカルを映画化したオールスター時代物喜劇。いづみが歌で冒頭から盛り上げ、大物喜劇人に大笑い必至!
やはり、昭和初期の戦後の暗い世相の中で、お笑いだけが庶民の心を癒やしてくれる唯一の存在だったようです。
■映画女優、浪花千栄子
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 はい、その時の映画ポスターがこちらです。
原作、脚本、菊田一夫。音楽、古関裕而となってます。出演者の中に浪花千栄子がありますが、わかりますか。
 役は「うば嫁のおたね」です。
 映画では『スリのおたねとお時親子がつ壺を狙う。宿場の第一夜、連夜斎はおかくに、袖下らはおたねに壺を盗まれた。だがおかくの隠した壺も見つけ途方にくれたおたねは、人の気配に二つ共元へ戻し姿を消す。』なんとスリの役でした。
浪花千栄子はどんな女優だったのか?
■昭和の女優 浪花千栄子
 戦後復興期から高度経済成長期(昭和20年代から昭和40年代)の間には、日本を代表する文豪たちの作品が名監督により映画化され、銀幕のスターが人々を元気づけました。
 浪花千栄子さんは当時の並みいる巨匠監督に起用され、映画をはじめ、テレビ、ラジオ、舞台に数多く出演し、有名俳優・歌手と共演されています。
 古関裕而と菊田一夫の『恋すれど恋すれど物語』64年前に昭和の数々の芝居や映画やテレビに出演して笑いと涙とか感動を運んだ『浪花千栄子 -昭和日本を笑顔にした ナニワのおかあちゃん大女優-』それが浪花千栄子『おちょやん』だったようです。
 





2020年12月01日

『おちょやん』浪花千栄子のエピソード。四月馬鹿は古かった。

 NHK連続ドラマ『おちょやん』始まりました。
 タイトルの「おちょやん」とは、小さい女中さんを表す「おちょぼさん」がなまった大阪言葉で、親しみやすさとかわいらしさ、意地と誇りなどの象徴としてタイトルに付けられた。
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 大正5年大阪・南河内の貧しい農家で、養鶏業を営む家に生まれた竹井千代(毎田暖乃)は、幼いころに母を亡くし、飲んだくれの父テルヲ(トータス松本)と弟ヨシヲの3人で暮らしていた。
 千代は口が達者な元気な女の子だったが、弟や鶏の世話などで忙しく、小学校にも通えずにいた。
 千代とヨシヲが鶏の世話をする中、朝っぱらからお酒を飲み続けるテルヲはまさに朝ドラ名物なダメおやじ。
 しかし千代はそんなテルヲに困り果てるのではなく、真っ向から彼を叱り飛ばす。
 千代に押され気味なテルヲは「親に偉そな口たたきさらすな!」と言い返すのだが、千代は母・サエ(三戸なつめ)とした「ヨシヲと家を守る」という約束を胸に決して姿勢を崩さなかった。
 「親やったら親らしいことをさらせ!」
 ドラマの時代は大正10年頃の話しか。
■ドラマの時代背景
 日本は明治維新後、急激に工業化をすすめたが、国全体を見れば、「貧しい農村社会」だった。もともと江戸時代の人口の9割近くが農業をしていたくらいなので、おいそれと改善できるものではない。
 昭和5年の調査では、第1次産業47%、第2次産業20%、第3次産業30%で、就業人口2900万人のうち1370万人が農業に従事していた。そのうち半分近くの600万人は女性だ。男性も女性でも、もっとも多い職業は「農業」だったのだ。
 昭和20年の時点でも農業人口は就労人口の50%近くあり、職業人口としては農業がダントツのナンバーワンだった。
 都市の生活者たちは現在の人とあまり変わらないような、便利で文化的な生活をしていた。しかし、当時の人口の半数近くを占めていた農山村では、まだ江戸時代とほとんど変わらないような生活をしていた。
 農山村では、昭和に入っても上下水道の設備が整っていないところが多く、そのため、生活水は近くの川や井戸から汲んでくることになる。それは大変な重労働であり、農山村の生活の上で「水汲み」は大きな位置を占めていたという。
 また、ガスも入ってきていないところが多かったので、煮炊きにはかまどや囲炉裏を使う。これらには薪や柴が必要であり、その調達も農山村の生活には欠かせないものだった。
 この時代の養鶏は,いわゆる副業的養鶏というべきものであって,農家の庭先で,雄鶏1羽と雌鶏2〜3羽を飼う程度のものが多かった。
 そして2〜3日に1個程度,産卵したものを,1週間か10日間蓄えて置いて,これを販売し,農家の副収入としたものである。
 副収入といっても明治20年代に米価が1キログラム当たり2銭3厘のとき,鶏卵は1キログラム当たり20銭前後であったので,上手に飼っている人にとっては大きな現金収入であった。
■「おちょやん」浪花千栄子のエピソード
 「おちょやん」モデル浪花千栄子は貧しさゆえ、小学教育を受けられず、字が読めないために苦労を重ねた。その後自らの努力で読み書きを習い、文盲から脱した。
 あるとき「驚」という字が読めず、字をそのままうつしたつもりで人に読みを聞いたところ、「けいま」と読むのだと教えた。
 いくらなんでも少し変だとよく考えてみたところ、それはうつす際に「敬」と「馬」の間を離して書いてしまったためだった。
 なんとも笑えない話しである。
■「おちょやん」の生まれた年はエイプリルフールが流行った。
 ちなみに浪花千栄子の生まれた大正5年4月にエイプリル・フールが日本でも流行し始めたのだそうだ。
 エイプリルフールを直訳した「四月馬鹿」として広がりました。 実はそれまで4月1日は、中国伝来の風習で「不義理の日」とされ、ご無沙汰してしまっている(義理を欠いてしまっている)人たちに手紙などであいさつをして日頃の不義理を詫びるための日とされてきました。
 しかし、世界では1698年江戸時代の元禄11年イギリス「ウソの歴史博物館」の館長アレックス・バーザ氏によると、記録に残る最も古いエイプリルフールのウソは1698年のこと。
 「年に一度、ライオンを入浴させるという儀式がロンドン塔で見られるという話を聞きつけて、ロンドン中の人が集まってきたのですが、そんな儀式はそもそもありませんでした」
 イギリスでは既に嘘が笑いになっていたのです。
 なんとも世界の笑いの歴史は古いものです。



2020年11月30日

あなたも『おちょやん』浪花千栄子に出会ったことはありませんか?

 NHK連続テレビ小説『おちょやん』が杉村花をヒロインに30日よりいよいよスタートします。
 杉咲演じる竹井千代は大阪府南河内郡出身の上方女優・浪花千栄子(なにわ ちえこ)がモデル。
 幼い頃から女中奉公に出されるなど貧しい生活を乗り越えて上方を代表する女優となり、「大阪のお母さん」とまで呼ばれ親しまれた。
 えっ、浪花千栄子って誰?
 聞いたことないと思ったら会ったことがありました。
 以前、四国の田舎の辺鄙な所にある木造の壁にかかった看板で。
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 そう、この人が浪花千栄子さんでした。
 おばさん。
 そう、おばさん。
 えっなんで、地方のこんな所にこんか看板があるの?
 だれでもが疑問に思うでしょう。
 これにはいろいろとわけがあるようです。
■あなたは『おちょやん』浪花千栄子に出会ったことはありませんか?
 1953年(昭和28年)前回のNHK連続ドラマ『エール』古関裕而と菊田一夫の「君の名は」が全国的にブームとなり、一世を風靡していました。
 ラジオドラマ「君の名は」映画化され主演した佐田啓二、岸 惠子が大人気となっていました。
 大塚製薬では「オロナイン軟膏」の発売が始まりました。人気の佐田啓二と岸惠子をを起用し、「君の名はオロナイン」というキャッチフレーズで製品名をアピールしたのです。
 1953年はテレビ放送が始まった年でもありました。初期のテレビコマーシャルは、番組の中で出演者が宣伝をしてしまう、いわゆる「生CM」。
 大塚製薬では、1959(昭和34)年の大村崑氏主演「とんま天狗」を皮切りに、松山容子氏の「琴姫七変化」、渋谷天外・中村メイコ両氏の「うちのママ姉ちゃん」といった番組提供や、浪花千栄子氏、香山美子氏、名取裕子氏らを起用したCMを打ちました。
 そして、1963(昭和38)年からは、全国でホーロー看板を貼り出しました。これは営業マンにノルマとして課せられたものです。全国津々浦々に看板が貼られたそうです。それが残っていたのです。
 今ではマニアがプレミア付きで集めるコレクターズアイテムとなっています。
 ちなみに、ホーロー看板に登場し、後にテレビCMのキャラクターともなる浪花千栄子氏の本名は、南口キクノ(なんこう きくの)。「軟膏効くの」本名を知った人が、後で思わずニヤリとするタレント起用でした。
 この時の営業マンの努力が地方の人知れず知らない場所だからこそ残っていたのです。
 あなたも『おちょやん』浪花千栄子に出会ったことはありませんか?
 なんと忘れられた歴史。今でも残っているのでしょうか。
 女優杉村花さんはテレビ味の素のCMで回鍋肉を大きな口を開けて、元気良く食べる姿が印象的でした。明るい前向きな女優さん。
 さて、杉村花さんNHK連続ドラマ『おちょやん』でどんな演技を見せてくれるのか楽しみですね。




2020年11月29日

『エール』ロス!嘘が作った泣いて笑って感動した最高のテレビドラマだ。

 NHK連続ドラマ『エール』は最終回が終わってしまった。なんだろう、なんか忘れものをしたような。『エール』ロスか?
 しかし、ドラマ『エール』は今での朝ドラとは何かが違っていた。
 古関裕而夫婦の物語をモデルにしたフィクションどらまなのだが、史実とは全く違っていた。
 なんせ登場人物もモデルとは違う。そう似ていなかった。
 古関裕而はお酒も飲まない、いつも物静かな落ち着きのある人物だった。古関裕而と俳優の窪田正孝とはタイプが違っていた。
 友人のプリンス久志は山崎郁三郎とモデルにした伊藤久男は豪放磊落なタイプであり、繊細な山崎郁三郎とは全く違っていた。
 ドラマを史実に合わせようとしていないのが今回の『エール』だった。
 ドラマと史実が似ていたのは大筋と代表曲の名前ぐらいのものだ。しかも作曲された順番やヒットした歌手が違ったり、もういい加減。全くいい加減なドラマ。
 しかし、面白かった。笑いあり、涙あり感動あり。さらに音楽が良かった。古関裕而の作曲した曲だから当然なのかも。それを歌う俳優陣の歌が素晴らしい。
 山崎郁三郎、二階堂ふみ、柴咲コウ、薬師丸ひろ子、井上希美等の俳優陣の歌がドラマの展開、展開で聞けて心地良かった。
 ドラマというのは、フィクションですから、史実と違っていい加減でもいいのか。
 ジェームス三木さんは、「脚本家の才能は嘘つきだということ」と述べていた。
 上手な嘘を作るのがフィクションの世界、ドラマの世界ではあり「ドラマは嘘つき」だとも言っている。
なるほど、ドラマは嘘つきなのか。
そう言えば、『エール』に出て来た池田二郎モデルの菊田一夫も脚本家でした。
 彼の作品「鐘の鳴る丘」も「君の名は」も創作。言いかえれば嘘のかたまりです。
 ただ嘘だからでたらめを言えばいいというものでもありません。みんなが納得するものでなければ。
 「大きな嘘はいいが小さな嘘はダメ」細部に本当のこと、ちゃんとしたものを入れることで、大きな嘘が真実になるのです。
 最低の常識や知識、教養を持ち合わせていない人の嘘は、すぐにばれてしまいます。
 ドラマ『エール』はどうでしたか。かなり戦争のシーンもリアルだっし、あちこちとちゃんとした真実が入っていました。嘘の部分を昭和の映像を流して真実ぽくしていた。
嘘だとわかっていてもドラマに入ってしまった。
 また、主人公、古山裕一役、窪田正孝と音役、二階堂ふみがしっかりと安定した演技をしていた。そして周りの俳優陣も、父親唐沢寿明、母親薬師丸ひろ子、姉松井玲奈みんな存在感があり、リアルな家族を描いてみせた。
 古山家の隣の喫茶店バンブーの野間口徹と仲里依紗、こんな喫茶店ないなと思いながらも、あれば楽しいだろうなと思ってしまった。
 さらに、友人のプリンス久志山崎郁三郎と鉄男の中村蒼、ミュージックティチャー御手洗の古山雄太。ドラマの日常生活で格好つけて歌ったり踊ったりした。こんなの普通はあり得ない。ただ、さまになっていたのだ。こんな友人や知人がいたらいいなと思ってしまった。
 結局、脚本家によって創作されたドラマにいつのまにか魅せられていたのです。
 NHK連続ドラマ『エール』は史実の古関裕而夫婦の物語とは全く違った音楽家の世界を描いたドラマとしてお茶の間のテレビドラマを観ている人々を夢中にさせた。
 菊田一夫から続く涙あり、笑いあり感動ありの脚本ドラマとしては良い作品だったと最後は納得してしままった。
 これでNHK連続ドラマ『エール』も見ることが出来なくなるかと思うと一抹の寂しさを感じざるを得ない。




2020年11月28日

NHK連続ドラマ『エール』最終回コンサートを振り返る。


 NHK連続ドラマ『エール』では最終回が総出演のカーテンコール。古関裕而夫婦の物語を締め括るのに一番相応しい終わり方になりました。
 それにしても朝の8時からの15分間だけでしたが、その時間内に8曲を凝縮したのは凄かった。
 たった8曲だけなんですが、なんだか古関裕而の生きた昭和の時代が再現されたような気がしました。
 もう一度、15分の番組の歌を振り返ってみたいと思います。
■「エール」コンサート曲目
●1番「とんがり帽子」
ドラマ役:ミュージックティチャー、藤丸、夏目千鶴子
俳優:古川雄大、井上希美、小南満
佑子、子役
1947年(昭和22年)NHK連続ドラマ「鐘が鳴る丘」主題歌。♪緑の丘の赤い屋根♪とんがり帽子の時計台♪とても可愛いらしい詩、明るいメロディは1度聞いたら耳から離れられませんでした。
作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌手:川田正子
●2番「モスラの歌」
ドラマ役:藤丸、夏目千鶴子
俳優:井上希美、小南満佑子
1961年(昭和36年)7月東宝映画「モスラ」の劇中歌。ゴジラと対決するモスラ。島の守り神を讃え、双子の小人(ザ・ピーナッツ)が歌ってた。モスラやモスラ!忘れられない曲でした。
作詞:本多 猪四郎作曲:古関 裕而、歌手:ザ・ピーナッツ
●3番「福島行進曲」
ドラマ役:ミュージックティチャー
俳優:古川雄大
1931年(昭和6年)古関裕而のデビュー作品、レコードはヒットせず。福島のご当地ソング。ドラマの古山裕一と鉄男が二人が初めて作った作品でした。
作詞:野村俊夫、作曲:古関裕而、歌手:川野三津代
●4番「船頭可愛や」
ドラマ役:佐藤久志、村野鉄男
俳優:山崎郁三郎、ギター・中村蒼
1935年(昭和10年)古関裕而の大ヒット曲、音丸(藤丸)が歌って全国的に歌われました。
作詞:高橋掬太郎、作曲:古関裕而、歌手:藤丸
●5番「フランチェスカの鐘」
ドラマ役:藤堂先生の妻
俳優:堀内敬子
1948年(昭和23年)歌手、ニ葉あき子が歌って大ヒット。フランチェスカの鐘と聞いただけでなんだかロマンチックな感じですが、どこの教会なんでしょうか。菊田一夫は特定の教会はなかったと語っています。彼のイメージ作品でしょうか。
作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌手:ニ葉あき子
●6番「イヨマンテの夜」
ドラマ役:馬具職人、岩城
俳優:吉原光夫
1950年(昭和25年)1月のレコード。楽曲は難しく売れないと思われていたが大ヒット。歌手、伊藤久男の代表作。「のど自慢」の男性がこの曲ばかりを歌うので審査員も困ったとか…。
作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、歌手、伊藤久男
●7番「高原列車は行く」
ドラマ役:音の母、光子
俳優:薬師丸ひろ子
1952年(昭和27年)レコード。日本コロンビア「あなたが選んだ古関メロディ30」の一位に輝いた曲です。♪汽車の窓からハンケチ降れば♪牧場の乙女が花束投げる♪ほんと、どこまでも、どこまでも明るいメロディです。風景が見えるようです。
●8番「栄冠は君に輝く」
藤堂先生と佐藤久志
ドラマ役:森山直太朗、山崎郁三郎
1948年(昭和23年)夏の全国高等学校野球選手権大会の歌として発表されました。♪雲は湧き光溢れて♪天高く純白の球♪この曲が流れるだけで暑い夏と高校生の熱き闘いを思い出してしまいます。
●9番「長崎の鐘」
ドラマ役:古山音と裕一他
俳優:二階堂ふみ、指揮・窪田正孝
1949年(昭和24年)7月1日コロンビアからレコードが販売。長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌として多くの人々の共感を呼び大ヒットした。♪こよなく晴れた青空を♪悲しと思う切なさよ♪長崎の修学旅行のバスで何度も歌った誰もが忘れない曲です。
■終わりに
 NHK連続ドラマ『エール』の出演者が古関裕而作品のコンサートをするなんて夢にも思いませんでした。
 どの出演者も歌がうまい。とくに、馬具職人役の吉原光夫さんの「イヨマンテの夜」の迫力。声量溢れる声と歌唱力には恐れ入りました。
 他のどんな歌番組よりも楽しめたと思います。
 次はNHK連続ドラマ『エール』総集編の別枠として1時間の古関裕而作品コンサートをやっていただきたいと思います。






2020年11月27日

NHKドラマ『エール』最終回。古関裕而死去。

 NHK連続ドラマ『エール』では最終会はNHKホールにてのコンサート。
 司会を務めるのは、主人公・古山裕一を演じた窪田正孝。窪田は、「『エール』は、古関裕而さんがいなければ生まれなかったことも改めて感じましたし、皆さんのパフォーマンスを特等席で聞かせてもらって、夢のような時間でした」と語っています。
 音と古山裕一のドラマ『エール』の最終回です。エンディングとして古関裕而の作曲した音楽の代表曲のメロディリレーです。
■「エール」コンサート曲目
1番「とんがり帽子」
ミュージックティチャー、藤丸、夏目千鶴子
古川雄大、井上希美、小南満佑子、子役
2番「モスラの歌」
藤丸、夏目千鶴子
井上希美、小南満佑子
3番福島行進曲
ミュージックティチャー
古川雄大
4番
「船頭可愛や」
佐藤久志
山崎郁三郎
ギター・中村蒼
5番「フランチェスカの鐘」
堀内敬子
6番
「イヨマンテの夜」
馬具職人、岩城
吉原光夫
7番
「高原列車は行く」
音の母、光子
薬師丸ひろ子
8番
「栄冠は君に輝く」
藤堂先生と佐藤久志
森山直太朗、山崎郁三郎
9番「長崎の鐘」
音とみんな
二階堂ふみ他全員
古山裕一
指揮・窪田正孝
 なんだかとても楽しい音楽会になりそうです。
 古山裕一のモデル古関裕而さんの最後のお話しをします。
■古関裕而死去
 古関裕而は平成元年(1989)年8月18日に亡くなっています。
 8月20日に通夜、21日に告別式が行われいます。地元、自宅近くの代田円乗院。
 葬儀は音楽葬で執り行われ、慶應・早稲田双方の応援団が参加。両校が贈られた応援歌を歌う中、ご遺体は早稲田と慶応の校旗が掲げられて柩が見送られたそうです。
 慶應、早稲田の校歌を古関裕而は作って、どれだけ多くの人々に歌われその校歌が親しまれたのかがわかるエピソードです。
 NHK連続ドラマ『エール』途中コロナで中断などありましたが、本当に楽しく観させて頂きました。ありがとうございます。




2020年11月26日

音のモデルは多彩な才能のスーパーレディ、古関金子死去。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一は病に伏す妻、音(二階堂ふみさん)の療養のため、東京を離れて静かな生活を送っていた。
 ドラマの中の音さんは明るくて元気でいつも主人公を支えてくれていました。声楽を断念しなければならなかったのは残念でしたが、古山にとってはなくてはならない存在でした。
 音のモデル古関裕而さんの奥さんもご主人を支えてくれる素敵な女性でした。しかも才能は多彩で、パワフルな女性でした。
■古関金子の多彩な才能
 古関裕而の金子さんの才能は音楽だけではなく、詩も書いており、1958年(昭和33年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。1960年(昭和40年)に「にあいなめ」の同人となり、1964年(昭和44年)に詩集「極光」を発売しています。
 また、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになっていました。
 古関金子さんは1971年(昭和46年)に油絵の裸婦像『揺炎』が新槐樹社展(東京都美術館)に入選していました。
 音楽の才能もあり、文学や絵画の才能もあり、株の世界では「百戦錬磨の利殖マダム」と呼ばれていました。古関金子さんもあちこちに大活躍をされていました。
 まさに、天下無敵のスーパーレディでした。ほんとドラマの音以上の人物だったようです。
 この頃から古関裕而がフジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員として司会者の萩本欽一と一緒にお茶の間のテレビに登場するようになりました。1972年(昭和47年)。この番組には古関は1984年6月24日降板するまで勤めていました。
 しかし、古関金子はご主人や家族を支え、パワフルな活動を続けた古関金子さんでしたが、やはり病には勝てなかったようです。
 1976年(昭和51年)に乳がんが判明し日本赤十字医療センター、東京大学医学部附属病院、国立ガンセンターに2度の手術を受け、闘病生活を開始します。
■古関裕而、初の福島名誉会員
 1979年(昭和54年)福島市出身であり、昭和を代表する作曲家である古関裕而が、作曲生活50周年を迎えるとともに、「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」「スポーツショー行進曲」など、誰もが一度は耳にしたことのある、数々の名曲を世に送り、郷土福島を広く紹介した功績が認められ、初の名誉市民として推戴されました。
 古関裕而と妻金子は二人で仲良く推戴式に参加しています。この時の金子さんは和服姿でした。
 故郷の福島を心の中から愛してやまなかった古関裕而、ほんとうに嬉しくてたまらなかったようです。
 古関裕而は「いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。」と述べています。
 それから、40年以上が経ちますが、今をもっても福島市名誉市民は古関ただ一人であり、それだけ古関が偉大な存在であることがうかがい知れます。
■古関金子死去
 1980年(昭和55)年6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。
古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり
 1980年(昭和55年)7月に死去し68歳だった。
 夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。
■終わりに
 フジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員とし古関裕而先生の顔はいつもにこにことテレビに映っていました。ああ、この人はいつも幸せなんだなと思っていました。
 しかし、テレビの番組に出ておられる間、奥さんの金子さんの病気が判明し入院し、最後はお亡くなりになったたいへんな時期だったようです。



2020年11月25日

「東京オリンピックマーチ」に挿入された「君が世」日本的なものとはなんだろう。

 古関裕而のもとに開会式用の曲の依頼があったのは、昭和39年2月。オリンピック組織委員会とNHKからの「日本的なもの」という注文に対して、古関は雅楽や民謡を取り入れることを考えた。
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 「日本的なもの」とは何だろうか。
 戦後、アメリカの占領になり、今までの日本はどんどんと変わってきた。すなわち、日本的なものを破壊することで西洋的な発展をしてきた。古い日本から新しい日本に生まれ変わろうとしてる時代でした。
 日本に於いて普遍的なものはなにか。たどり着いた結論が日本国歌「君が代」でした。約2600年の歴史を持つ日本の延々と続く日本人の底にあるものとして選んだのでした。
 しかし、そこにはいろんな葛藤もあったのも事実です。国家のため召集された人々が戦争で多くの犠牲となったのですから、しかし戦争で傷ついた人たちを励まし、勇気づける曲を作ることが、自分の責務だと思ったのでした。東京オリンピックマーチの演奏の一番最後に 君が代のメロディーを挿入したのでした。
 曲の最後に「君が代」の旋律が挿入されています。漫然と聞いていると気付かないかもしれないですが、「オリンピック・マーチ」を聞く時は、注意深く耳を澄ませてみて下さい。
 この手法は戦前のスポーツ音楽の雄、山田耕筰が、昭和7年に開催されたロサンゼルスオリンピックのために作曲した、派遣選手への応援歌『走れ大地を』で取り入れたテクニックでもありました。
 山田耕筰に憧れて作曲家になり、自分のペンネームの中に昭和天皇の名前「裕」を入れ、日本国のため日本国民のために全ての力を出して作曲したのでした。
 そうして、作曲が完成すると古関裕而は大変興奮し、そして、苦心して曲ができあがった時、「会心の作だ」と言ったそうです。
 1963年東京オリンピックはまさに日本の生まれ変わった姿を全世界にアピールする絶好の場面となったのです。
■東京オリンピックの開催宣言
●安川第ゴロ東京オリンピック組織委員会会長挨拶
待望久しい第18回オリンピック競技大会が本日より15日間にわたり、開催されることになりましたことは誠に喜ばしい限りであります。あたかも本年は近代オリンピック復興70周年に当たりますのでこれを記念し皆様と共に近代オリンピックの父、クーベルタン男爵のありし日の声を傾聴して氏の偉業を追想したいと存じます。・・(ここでピエール・ド・クーベルタン男爵のメッセージを録音したテープが流れる)・・オリンピック東京大会はアジアで開催される初めての大会でありますが、幸いこれまでにない多数の選手団の参加をみましたことは誠にご同慶にたえない次第であります。願わくはオリンピック精神に則り、正々堂々たる競技が展開されることを期待してやみません。最後にここにおられる国際オリンピック委員会のアベリー・ブランデージ会長から天皇陛下に第18回オリンピック競技大会の開会宣言を賜りますようお願いしていただきたく、ご依頼申し上げます。
●アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長挨拶
ワタクシハ 1896ネン ピエール・ド・クーベルタン ダンシャク ニ ヨッテフッカツサレタ キンダイオリンピック ノ ダイ18カイ キョウギタイカイ ノ カイカイセンゲン ヲ ココニツツシンデ テンノウヘイカ ニ オネガイモウシアゲマス
(私は1896年ピエール・ド・クーベルタン男爵によって復活された近代オリンピックの第18回競技大会の開会宣言をここに謹んで天皇陛下にお願い申し上げます。)
●昭和天皇開会宣言(午後2時58分)。
第18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します。
■終わりに
 NHK連続ドラマ『エール』では、主人公古山裕一が「東京オリンピックマーチ」を作曲するところまできました。今回の朝ドラもそろそろ終わりとなってきました。
最後に「東京オリンピックマーチ」の作曲で来年の東京オリンピックを迎えることになるなんてNHKさんもなかなかいきなことをやるもんですね。
 日本では寒くなってきて、コロナが増えていますが、あとは来年無事に東京オリンピックを迎えられることを祈るばかりです。




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