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第314回 航海記 [2016/08/04 17:54]
文●ツルシカズヒコ
一九二〇(大正九)年六月十五日に開かれた労働運動同盟会の例会で、岩佐作太郎が尼港事件のパルチザンを話題にした。
大杉はパルチザンについてこう書いている。
パルチザンの首領が何んとか云ふ無清酒主義者で、其の秘書官がやはり何んとか云ふヒステリイ性の食人鬼、女無政府主義者だ、と事ふ(ママ/※「云ふ」であろう)やうな事も、誰も問題にはしなかつた。
厄介な手に負へない奴は、何処ででも皆な無政府主義者にし..
第301回 下婢 [2016/07/21 11:55]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『労働運動』一九二〇年二月号(一次四号)に、「堺利彦論」の前編、および八面(婦人欄)に「争議二件」「閑却されたる下婢(かひ)」「友愛会婦人部独立」「消息其他」を書いた。
「争議二件」は富士瓦斯(がす)紡績押上工場の争議、相州平塚町の相模紡績の争議の短信である。
相模紡績について野枝は「女工虐待では有名な」と書いている。
「閑却されたる下婢(かひ)」の冒頭で、野枝はこう書いている。
婦人の労働..
第289回 出獄の日のO氏(一) [2016/07/11 22:38]
文●ツルシカズヒコ
一九一九(大正八)年八月八日、大杉は東京監獄から野枝に第二信を書いた。
シイツがはいつてから何にもかもよくなつた。
あれを広くひろげて寝てゐると、今まで姿の見えなかつた敵が、残らず皆んな眼にはいる。
大きなのそ/\匐つてゐる奴は訳もなくつかまる。
小さなぴよん/\跳ねてゐる奴も、獲物で腹をふくらして大きくなつてゐるやうなのは、直ぐにつかまる。
斯んな風で毎晩々々幾つぴち/\とやつつける..
第272回 山羊乳 [2016/07/03 12:38]
文●ツルシカズヒコ
大杉の末妹、橘あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。
「あやめ」という命名は、六月二十五日生まれだからであろう。
大杉は十五も歳下のあやめを可愛がっていた。
『日録・大杉栄伝』によれば、あやめは一九一六年にアメリカのポートランドのレストラン料理人・橘惣三郎と結婚して渡米した。
一九一八年十二月、病を得て帰国したあやめは、北豊島郡滝野川町大字田端二三七番地の兄・栄の家で養生することになっ..
第268回 無政府主義と国家社会主義 [2016/06/30 10:50]
文●ツルシカズヒコ
野枝は『新日本』十月号に「惑い」、『民衆の芸術』十月号に「白痴の母」を寄稿している。
以下は「白痴の母」の冒頭である。
裏の松原でサラツサラツと砂の上の落松葉を掻きよせる音が高く晴れ渡つた大空に、如何にも気持のよいリズムをもつて響き渡つてゐます。
私は久しぶりで騒々しい都会の轢音(れきおん)から逃れて神経にふれるやうな何の物音もない穏やかな田舎の静寂を歓びながら長々と椽側近くに体をのばして……..
第249回 襁褓(むつき) [2016/06/12 21:09]
文●ツルシカズヒコ
暮れも押し詰まった一九一七(大正六)年十二月二十八日、大杉一家は巣鴨村宮仲二五八三から、南葛飾郡亀戸町二四〇〇に引っ越した。
大杉栄「小紳士的感情」(『文明批評』一九一八年二月号・第一巻第二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』)によれば、大杉には久しい前から労働者町で長屋生活をしてみたいという思いがあった。
従来、小官吏や小番頭など中流階級の逃げ場である静かな郊外にばかり住んでいた大杉は、そういう小紳士..
第246回 第二革命 [2016/06/09 16:27]
文●ツルシカズヒコ
一九一七(大正六)年十月三日、保釈中だった神近は東京監獄八王子分監に下獄した。
二畳ほどの独房に入れられた神近は、午前八時から午後五時まで、屑糸をつなぐ作業に従事させられた。
昼食後の三十分の休憩、夕食後から夜八時の就寝までは仕事がないので、本を読むことができた。
神近が保釈後に執筆を開始した『引かれものの唄』の原稿は、下獄間近に仕上がり、十月三十日に法木書店から出版された。
..
第242回 夫婦喧嘩 [2016/06/07 11:37]
文●ツルシカズヒコ
『女の世界』一九一七年七月号のアンケートに、大杉と野枝は回答を寄せている。
『女の世界』同号は「男女闘争号」と銘打ち、目次に「夫婦喧嘩の功過と責任の所在 名流六十家」とある。
質問一は「夫婦喧嘩の功過」、質問二は「夫婦喧嘩は良人の責か妻の責か」である。
「社会主義者」という肩書きの大杉は、こう回答している。
一、
亭主は女房に出来るだけ甘くして置いて大がいの我儘はうん/\聴..
第211回 菊富士ホテル [2016/05/24 13:20]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十一月二日ころ、五十里(いそり)幸太郎が本郷区菊坂町の菊富士ホテルを訪れた。
五十里は大杉の面前で野枝を殴ったり蹴ったりした。
五十里は野枝に好感を持っていたが、同時に彼女が時として見せる才気が勝ちすぎるところや妙に姉御ぶるところを嫌悪していた。
五十里が野枝に暴力を振るったのは、後者の感情が爆発したからだった。
しかし、野枝と五十里のつき合いは途絶えることはなかっ..
第210回 ポワンチュの髯 [2016/05/23 16:15]
文●ツルシカズヒコ
岩野泡鳴は一九一六(大正五)年十月十二日の日記に、こう書いている。
十月十二日。雨。大杉氏、野枝氏と共に来訪。
(「巣鴨日記」/『泡鳴全集 第十二巻』)
大杉と野枝は泡鳴に借金の申し込みに行ったと推測される。
『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が麹町区三番町六四の下宿・第一福四万館を出て、本郷区菊坂町八二の菊富士ホテルに移ったのは十月十五日だった。
ふたりで三十..
第176回 公娼廃止 [2016/05/15 16:59]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年一月三日、『大阪毎日新聞』で野枝の「雑音ーー『青鞜』の周囲の人々『新しい女』の内部生活」の連載が始まったが(〜四月十七日)、肝心の『青鞜』一九一六(大正五)年一月号の表紙は文字だけになった。
野枝は読者に向けて、こう書いている。
私は自分で編輯するこの雑誌を、出来る丈(だ)け、立派なものにしたひと思ひます。
けれども如何に、私が自惚(うぬぼ)れて見ましても本当に貧弱な内..
第165回 フランス文学研究会 [2016/05/12 19:26]
文●ツルシカズヒコ
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、『平民新聞』を出せなくなった大杉と荒畑は、そのころサンジカリズム研究会を発展させた平民講演会を主宰していた。
平民講演会は労働者を引きつけ新入会者を受け入れ、運動を前進させる橋頭堡だった。
大杉らは平民講演会の会場を確保するため、水道端の大下水彩研究所を借りて平民倶楽部と命名。
大杉が大下水彩研究所の家賃を稼ぐために始めたのが、「仏蘭西(フランス)文学研究会」だっ..