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第320回 コミンテルン(三) [2016/08/10 23:05]
文●ツルシカズヒコ
大杉が上海に着いたのは一九二〇(大正九)年十月二十五日ごろだったが、その翌日、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)、陳独秀(中国共産党初代総書記)、呂運亨(大韓民国臨時政府外交次長)ら六、七人が一品香旅館にやって来た。
それから二、三日おきに陳独秀の家で会議を開いた。
支那の同志も朝鮮の同志もヴォイチンスキーの意向にほぼ賛成しているようだったが、大杉はそういうわけにもいかず、会議はいつも大杉と..
第209回 霊南坂 [2016/05/23 14:05]
文●ツルシカズヒコ
一九一六年七月十九日午後の列車で大阪から帰京した野枝は、七月二十五日に大杉と一緒に横浜に行き、大杉の同志である中村勇次郎、伊藤公敬、吉田万太郎、小池潔、磯部雅美らと会った(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
野枝と別れた辻は一時、下谷(したや)区の寺に寄寓していた。
野枝が第一福四万館で大杉と同棲していたころである。
ある日、野枝が寺を訪れ辻に面会したときのことを、宮嶋資夫は書き記している。
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第207回 河原なでしこ [2016/05/22 18:51]
文●ツルシカズヒコ
御宿から帰京した野枝は第一福四万館の大杉の部屋に転がり込んだ。
一九一六(大正五)年七月十三日の夜、野枝は大杉に見送られて東京駅から大阪に向かった。
東京駅は大勢の人でごった返していて、なんだか急かされるような出発だったので、野枝の気持ちは落ちつかなかった。
鶴見あたりになって、ようやく野枝の気持ちは落ちついてきた。
沼津までは車内が混雑していて、体を曲げるのも窮屈だったが、沼津でボー..
第200回 福岡日日新聞 [2016/05/20 20:07]
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月二十日、野枝は『福岡日日新聞』に掲載された「この頃の妾」を脱稿した。
叔父・代準介に宛てた手紙形式の原稿である。
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「この頃の妾」解題によれば、『福岡日日新聞』のはしがきには、こうある。
「新しい女として知られた雑誌『青鞜』伊藤野枝は五年間の結婚生活を弊履の如く棄て其夫辻潤と二人の子を棄てゝいよ/\新しい女に成り澄ましました。
斯して彼は..
第39回 青鞜 [2016/03/22 18:12]
文●ツルシカズヒコ
一九一二(大正元)年九月十三日、明治天皇の大喪の礼が帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で行われた。
乃木希典と妻・静子が自刃したのは、その日の夜だった。
野枝がらいてうから送ってもらった旅費で帰京したのは、「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば九月の末だが、秋たけなわというような「日記より」の文面やサボンの旬は十月ぐらいからなので、野枝の帰京は十月に入ってからかもしれない。
野枝..
第28回 わがまま [2016/03/20 13:56]
文●ツルシカズヒコ
登志子や従姉の家は博多の停車場から三里余りもあった。
その途中でも野枝は身悶えしたいほど、不快なやり場のないおびえたような気持ちになった。
従姉の家に立ち寄った後、安子が従姉の家に泊まることになったので、登志子と男が一緒に帰ることになった。
挨拶をして従姉の家の門を出るやいなや、登志子は後ろも振り向かずにできるだけ大急ぎに、袴の裾を蹴って松原が続く町の家の方に歩いて行った。
登志子はひたす..