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2017年05月28日

第446回 本能主義者






文●ツルシカズヒコ




『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集「殺された野枝さんの事」。

 山川菊栄が寄稿した「大杉さんと野枝さん」はまず、菊栄と野枝の最初の接点となった、『青鞜』誌上で交わされたふたりの廃娼論争について言及。

 それが縁になり、一九一六(大正五)年の一月に野枝、菊栄、神近が対面し、菊栄が大杉の仲介で野枝宅(辻家)を訪問したこと、一九一七(大正六)年暮れには大杉一家が山川夫妻宅を訪れて正月を過ごしたことなどに言及している。

 大杉と野枝、両者と親交があった菊栄の証言には重みがある。

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 私は結婚後程なく病を得て籠居(ろうきよ)がちであつたから、大杉さんと野枝さんの同棲生活を訪(と)ふたことも遂に一回として無く、殊にこの三四年殆ど交際が絶えてゐたので家庭の様子などは一向知らない。

 が金のはいつた時は、いはゞ手当り次第賑やかに華やかに面白可笑(おかし)く使つて楽しむ代り、無い時はまた極端で、文字通り飢ゑるやうな生活にも平気でゐるやうな点では、二人ともいかにも呼吸が合つてゐたらしかたつた。

 或年の冬、私のところで主人が入獄の留守中に、『野枝さんが見舞にいきたがつてゐんだが、まだ浴衣の寝衣(ねまき)で顫(ふる)へてゐる仕末で外出ができない』といふ手紙が大杉さんから来たことがある。

 がその後程なく、どこからか好い風が吹いて来たと見えて、野枝さんが新調のお召の重ねで自働車をとばしてゐるといふ噂が伝はつて来た。

 二人は何年かの間、パツと日の射すやうな華やかな享楽生活と、食ふにも事を欠く寒貧(かんぴん)な生活とを交互に繰返して、その間ぢう、降つても照つても呑気に睦まじく暮して来たらしく想像される。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号))





 大杉については「彼は天成(てんせい)の社交家であり、天才的な魅力の持主」であり、「男に珍らしい子供好き」だったと言及。


 今度殺された宗(そう)一さんなども、大杉さんがその病身を気づかふ余り、自分の手許へ引取ることにした上、鶴見からの帰りをわざ/\診察を受けさせるために医者の家へよつて一時間余り待ち、それから柏木へ帰る途中であんなことになつたのだといふ。

 大杉さんの例外の子供好きと其親切とが、却(かへつ)て自分と子供とを亡す結果にならうとは誰が思ひがけよう?


(同上)





 野枝については、以下である。


 野枝さんの方は、大杉さんのやうに著しい特徴のある人でもなく、世間の愛憎の的となるやうな英雄的な人物でもなかつた。

 至つて普通な婦人でどちらかといへば寧(むし)ろ非理智的な、感情によつて動くたちの人で、理論的な方面ではとり立てゝ云ふほどのこともなく、何処までも本能的、衝動的な、単純な人だと思はれた。

 外出の時はよく夏も冬も無地の縮緬(ちりめん)の羽織などを着流してなまめいた様子をしてゐたに拘らず、都会人といふ感じがせず、何となく野生的な、生地のまゝの『文明』や『教養』によつて磨きもかけられぬ代り、自然を曲げたり偽善化されたりしてもゐない原始的の女性を思はせるところがあつた。

 時には非打算的で強く勇敢に、時には無思慮無責任でめくら滅法、行(ゆ)き当りバツタリの感を抱かせたのもそのためであつた、その云ふこと、為(す)ることに秩序が立たず、矛盾があつて足もとが危なかしく思はれた一方、人間としては無邪気な、表裏(へうり)のない、気分にムラはあつても悪気のない人であつた。

 その美点でもあれば欠点でもあつた単純な衝動的な性格こそは、それよりも遥かにスケールが大きく、複雑で、よく発達しては居(お)つたが、同じく本能的、衝動的な傾向を多量に帯び、且つその傾向を理論的に重要視してゐた大杉さんとよく一致した原因かと思はれる。

 野枝さんのやうな人は、世間の賢夫人とか貞女とかの標準から見ればいろ/\難も多いことであらうが、少くとも大杉さんにとつては申分のない良妻であつたらしい。

 実際あの二人は無政府主義者であると同時に、かなり徹底した本能主義者であり享楽主義者であつた。


(同上)





 菊栄はこの文章を、こう結んでいる。


 天才的、劇的な大杉さんの一生は、名誉ある帝国軍人の活動により、おあつらへ向きの劇的な場面をもつて其幕を閉ぢられた。

 日本の陸軍が天才的な戯曲家の役を務めることにならうとは、運命の皮肉も徹底して居(ゐ)る。(十月十五日)


(同上)





 なお、菊栄が大杉と野枝、橘宗一虐殺の第一報を得たのは、麹町区四番町の彼女の実家に一家で寄寓しているときであったが、その感懐をこう回想している。


 九月二十三日の朝でしたか、まだしらじら明けのころ「お客さま」といって姉によび起され、玄関へ出ると、

「ああ生きてましたか。山川さんは? 山川さんはぶじですか」

 と、とびつきそうにして感動に声をふるわせている人は、もう十年も前、まだ若々しい学生姿で私の家へ一、二度来たこのある吉本哲三氏。

 今は見ちがえるほど成長して、堂々とした『時事新報』の記者で、ゲートルばきの非常時姿でした。

「大杉君がやられましたよ、野枝さんもいっしょに、憲兵隊で。あなた方もやられた、行方不明だというもっぱらの評判で、心配してとんで来たんですよ、ここへきたらわかると思って。ああよかった。よく生きてましたね」。

 子供好きの大杉さんは妹あやめさんの子で病身の橘宗一少年を震災のドサクサから守るために引きとって帰る途中、奥山先生に寄って注射をうけさせ、自宅まで来た所を待ちうけた憲兵の車にのせられたのでした。

 その夏奥山先生の所で会った美しく弱々しいあやめさんと、関節炎で片腕のうごかぬ青白い宗一少年の顔を思いうかべ、私の子と同じ年ごろだけに、私には言葉も出ませんでした。

 あやめさんもこのあと幾年も生きなかったようです。

 大杉さんたちの虐殺は吉本記者がまっさきに知り、その日『時事新報』のスクープとなって世論をわきたた せ、それによってそれ以上の残虐行為が防がれたのでした。

 もしもあの事件があんなに早く新聞にもれなかったら、何も知らずにこの憲兵隊本部とは眼と鼻の麹町の実家へ避難した私たち一家も、大杉さんと同じ運命にあったかもしれません。

 そのころ、松下芳男という陸軍中尉が軍人をやめて一時社会主義者の仲間入りをしていましたが、後年山川にあったとき、士官学校のクラス会で同期生の一人がこんな思い出話をしたと話したそうです。

「あの当時自分は大森方面の警備隊長を命ぜられ、山川夫妻をやるつもりでさんざんさがしたが家がつぶれてどこかへ避難した、警察にきいても、誰にきいても、わからなかった。そこへ大杉の事件がバッとなり、甘粕が軍法会議にひっぱられてびっくりした。あの時は社会主義者をやっつければ出世できるとわれわれ仲間はみな思ってたんだが、危いところだったよ」。

 結局私たち親子三人は天災と人災とをともにまぬがれ、一時に二度命びろいをしたわけですが……。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p356~357/岩波文庫・二〇一四年七月十六日)







●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:05| 本文

2017年05月22日

第445回 野枝姉さん






文●ツルシカズヒコ




『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号の特集タイトルは「殺された野枝さんの事」である。

 以下の面々が寄稿している。

 山川菊栄「大杉さんと野枝さん」

 和田久太郎「僕の見た野枝さん」

 橘あやめ「親切な野枝姉さん」

 らいてう「私の見た野枝さんといふ人」

 五十里幸太「世話女房の野枝さん」

 荒木滋子「あの時の野枝さん」

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 橘あやめ「親切な野枝姉さん」は、冒頭で野枝が大杉の次妹・柴田菊に書いた手紙(九月十五日投函した絶筆)を引用し、こう記している。


 思ひやりの深い親切な野枝姉さんは、以上の手紙を静岡の姉(栄兄さんから二人目の姉)に下すつて、そして、翌十六日に勇(やはり私の実兄)さん夫婦の避難所へ栄兄さんと二人で駆けつけ下さいました。

 避難所から幼い宗一(むねかづ)の身を引取らうとして行つて下さいました。

 同志の方々から『危険だから成可(なるべ)く外出しないやうに……』と度々注意されてゐるその危険をも冒(おか)して、勇さん夫婦と宗一とのために鶴見まで出向いて下さいました。

 そして、あゝ、そして、宗一をやゝ安全な自分達の家へ引取らうと急いで東京へ連れて帰つて下さる途中だつたのです。

 栄兄さんも、野枝姉さんも、宗一も、三人共憲兵隊に連れ行(ゆ)かれて、あのやうな惨(むご)い非道な殺され方をして了ひましたのはーー。

 私は、栄兄さんや野枝姉さんの思想だとか行動だとかゞ、何(ど)れ程社会に害を流すものなのか、或は又、どんなに立派な尊いことなのか、一向に存じません。

 そんな難しい事は私には解りません。

 ですけれども、虐殺して仕舞はねばならぬ程に悪い人間なのなら、その罪状を詳しく社会に発表して正々堂々とやつたらよささうなもの、と、女の浅はかな愚痴かも知りませんが、私は考へます。

 宗一のことは此処(ここ)に何事も申しませんが、兎に角憲兵隊ともあらうものゝ行動としては、随分と卑劣ななされ方だと思ひます。

 栄兄さんや野枝姉さんには、『何時(いつ)死んでもいゝ』といふ立派な覚悟が常からちやんと出来てゐたことゝ思ひます。

 が、しかしあの場合、何事も知らぬ頑是(ぐわむぜ)ない宗一が一緒であつたために二人は何(ど)れほど心を患(わずら)はされたか知れなかつた事でせう。

 いはゞまあ、宗坊(むねぼう)のためにわざ/\危険を冒して鶴見へ行つて下すつた姉さん兄さんですもの、惨殺される間際までも、毒手をあの兒が逃れるやうと、あらゆる手段をつくして下すつた在様が、私には眼に見えるやうにはつきりと感じられます。

『姉さんや兄さんは宗一を迎へに鶴見へ行つて下すつた為にあんな最後をなさつて了つたーー』。

 夜中にふとんなことを考へ出しますと、熱い/\涙がとめどないほど流れてまゐります。

『なあに、予審調書を見ても分るぢやありませんか、あの日は何うしたつて駄目だつたんです。お湯に出たつて、煙草を買ひに出たつてやられたんです。鶴見へさへ行かなかつたら、宗坊を道連れにせず済んだ位のものなんですーー』と、斯(か)う労働運動社の人達は言つて下さいますが私や宗坊のことをあんなに思つて下すつた姉さんのことを憶ひますと、私にはどうも宗坊のために死なれたやうにしか考(かんが)ら(※ママ)れません。

 済まない事だつたと思つて居ります。

 野枝姉さんは、ほんたうにいゝ姉さんでした。

 私が初めて姉さんに会ひましたのは、大正七年の冬に四年振りでアメリカから帰つて来た時でした。

 田端の小さな家に貧しい暮しをして居られましたが、初対面の私を幼ない時から共に育つて来た親味のやうにやさしくして下すつたので、遠い処から久し振りに帰つて来ました私は、まあ何(ど)んなに嬉しかつたことでせう。

 その時には、いつとう上の魔子ちやんがまだ歩くか歩かないかでしたが、私の宗坊は、同い年でも少し早く生まれましたのでそろ/\歩くやうになつて居りました。

 で、二人を日向で遊ばせながら、姉さんと私は子供の話しでよく夢中になつてゐる事がありました。

 今年の春、私が病気のために再び宗一を連れて日本へ帰つて来ました時も、姉さんは魔子ちやんを連れて横浜の波止場まで迎へに来て下さいました。

 そして、栄兄さんがフランスへ行つて居られる留守中なので、いろんな心配ごとや忙しい事に追はれてゐたんでせうに、私の病気のために、病院から何から何までよく世話をして下さいました。


(橘あやめ「親切な野枝姉さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)





 文の最後にあやめは、野枝が七月の末に菊に宛てた宗一とあやめの体調を気遣った手紙を引用しているが、その前文でその手紙を読んだ気持ちを、こう記している。


 左に記します野枝さんの手紙は、私も最近になつて菊子姉さんから見せて戴き、嬉し涙に濡れながら読んだ手紙なのです。

 これは七月の末頃に菊子姉さん宛てに下すつたものでして、宗坊の病気のことが書いてある為に、菊子姉さんは病院に居る私の体を気遣つて其の当時は見せて下さらなかつたのでした。


(同上)





 荒木滋子は玉名館に訪れた野枝と大杉の思い出を書いている。

 一九一六(大正五)年春、そして一九一九(大正八)年ごろの思い出である。

 滋子は冒頭でこう記している。


 さうですね、野枝さんに就(つ)いて何かと云ふお話ですが、私は野枝さんと格別のおつき合ひがあつたと云ふわけでもないし、と云つて無いと云ふわけでもありませんけれども、差出てお話する程の事も、実は無いのです。

 併(しか)し、あの方が、ああ云ふことになつたに就いて、種々の思出も私にはあります。

 とりとめもないことですが、それでも書かせて頂きませう。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:55| 本文

2017年05月17日

第444回 お餅代






文●ツルシカズヒコ



 橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」は、あやめが大杉と野枝、および橘宗一について書いてほしいという依頼に応じたものだが、しかし、あやめは宗一について書くことはできないと冒頭で記し、その心境をこう述べている。


 最初の程は、親切にお見舞ひ下さいます人々から『宗(そう)一さんが……』の一言を云はれましたゞけで、直ぐ悲しさに身中が慄(ふる)へて了ひました。

 泣き崩れて了ひました。

 私のこの様子を見て傍(そば)の人達ちも『それでは貴女の体が持つまいからーー』と種々になぐさめて下さいますし、それに私自身でも『こんなに泣いてばかり居ては折角アメリカから養生に帰つて来て入院してゐ程の私の体が一さう悪くならう。ーーさうなつては猶さら夫に申訳けが立たない』と思ひ、気を取り直しまして、其の後ちは成可く誰れにも御会ひせぬやう、たゞ静かに寝てゐるやう、そして、なるだけ宗一の事は考へぬやう、憶はぬやうと心懸けて来ました。

 さうして、只今では少しく心も静まつて参りました。

 ですけれど、宗一のことを憶ひ出すまゝ、それを文字で記して行かうといたしましたなら、悲しい私は、二三行書きかけてゐるうちに必(き)つと泣き崩れて了ふことでせうーー。


(橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」/『女性改造』一九二三年十一月号・第二巻第十一号)

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 兄・栄については、まずこう記している。


 栄兄さんは学問の出来る偉い人なのだと、たゞぼんや知つて居ましたばかりで、兄さんの書かれた本などは全(ま)るで読んだことのありません。

 兄さんの主張なさる思想や、行動などが、どんなに悪いことなのか、いゝことなのか、私には少しも分りません。

 けれども、四五年前に一度久しぶりでアメリカから帰つて参りました時、いくら牢に入れられても少しもひるまず、ひどい貧乏な生活をしながら自分の主張のために活動せられてゐる兄さんを見ましては、『あゝ偉い人だーーと』感ぜずにはゐられませんでした。


(同上)





 あやめは一九〇〇(明治三十三)年生まれである。

 二歳の時に母・豊(とよ)を亡くし、継母や親戚の手で育ち、九歳の時に父・東(あずま)を亡くした。

 あやめは父の死に際して、初めて十五歳年長の長兄・栄の存在を知った。

 この時、長兄・栄は赤旗事件で千葉監獄に入獄中だったので、妻の堀保子があやめに面会に来た。

 一時、保子があやめを引き取り面倒を見ていた時期があったが、あやめは間もなく甲府の親戚に預けられた。

 大逆事件との関連の取り調べのため、千葉監獄から東京監獄に移監されていた大杉は、一九一〇(明治四十三)年十一月に出獄。

 出獄後、大杉は甲府の親戚に預けられていたあやめを引き取りに行った。



 
 或る日のこと、私が近所の子供たちとおもての柳の木の下で遊んで居りますと、がらがらつといふ響きと共に私の家の前へ俥(くるま)が着きました。

『あらつ俥が来たーー』と、子供心にたゞ何んとなく嬉しい様な気がして傍(そば)へ駆け寄つて見ますと、それは洋服姿の、大きな眼がぎろつと光つてゐるおつかない人でした。

 そして、其のおつかない人が私の顔ばかりをじろじろと見ますので、私はそつとお友達の後ろへ隠れて了ひました。

 これが千葉監獄から出たばかりの栄兄さんだつたので、私は此の時初めて栄兄さんの顔を知つたのです。

 私は栄兄さんに連れられてまた東京(家は大久保にあつた)へ参りました。


(同上)


 一九一六(大正五)年にあやめはポートランド在住の橘惣三郎と結婚、一九一七(大正六)年に宗一を出産、一九一八(大正七)年暮れに病気療養のために宗一を連れて帰国し、当時、田端に住んでいた大杉家に寄寓した。

 大杉一家はその後、西ヶ原、千葉県の中山、駒込と転居したが、その都度あやめも同居。

 あやめが帰米したのは一九一九(大正八)年秋だった。

 帰米したあやめは大杉一家と折々に文通するようになり、野枝からは「女らしい注意の行き届いた」手紙をもらうようになった。

 あやめはアメリカから大杉一家に送金したこともあったという。


 私は田端に居りました時に、栄兄さん達(た)ちがお正月のお餅を買へなかつた状態をつくづく見て来て居(ゐ)ますので、せめてお餅代なりともお送りしたいと思つて少しづゝ貯め始めました。

 いつの年だつたかよく覚えませんがそのお金を送つて、その後しばらくたつてからふと新聞を見ますと、『大杉栄は近頃非常な成金になつて逗子へ大きな家を構へた』といふ記事が載つております。

 それでは、あのお送りしたお金は正月のお餅代にならずに何にかのご馳走になつたことだらうと、私はその新聞を眺めながら独りでほゝえんだことでした。


(同上)





 大杉一家が逗子に引っ越したのは一九二一(大正十)年十一月だから、あやめが送金したのは、この年の暮れであろう。

 あやめが再度、病気療養のため宗一を連れて帰国したのは、一九二三(大正十二)年四月だった。


 ……栄兄さんはフランスへ行つて居(を)られる(※ママ)お留守で、野枝さん一人で何やかやと親切に世話をして下さいました。

 病院のことや何にやかやと、本当に親味の姉も及ばぬごめんどうを見て下さいました。

 女は女同志ーーと深く感じました。

 それらの親切が、胸の底からこみ上げて来る程嬉しく感じました。

 あゝ、しかしその野枝さんも今は殺されて了ひました。

 栄兄さんも殺されて了ひました。

 可愛い宗坊(そうぼう)までが惨(むごたら)しく殺されて了ひました! ーー十月十六日夜ーー


(同上)





『女性改造』一九二三年十一月号巻末の「文芸欄」に掲載された「或る男の堕落(遺稿)」は、例の吉田一(はじめ)の一件について野枝が書き残していた原稿を掲載したものである。

 アナからボルに転向したかつての同志についての記述だけに、その原稿の発表の場がなかったのか、あるいは発表のタイミングを計っていたのか、ともかく野枝の死後に未発表の原稿が発見され掲載されたのであろう。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 01:56| 本文

2017年05月11日

第443回 可愛い単純な女性






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年十一月から十二月にかけて発行された主な雑誌で、大杉栄と伊藤野枝の虐殺に関して特集を組んだのは『女性改造』『婦人公論』『改造』である。


『女性改造』十一月号(第二巻第十一号)には、特に特集のタイトルはないが、野上弥生子「野枝さんのこと」、大杉栄・伊藤野枝「七年前の恋の往復」、橘あやめ「憶ひ出すまゝ(栄兄さん夫婦と宗坊のこと)」(目次は「憶ひ出づるまゝ」)を掲載。

 巻末の「文芸欄」には伊藤野枝「或る男の堕落(遺稿)」を掲載している。

「哀しき避難者の手記」という記事もあり、何人かの寄稿者に交じって、平塚明子が寄稿した「震災雑記」が掲載されている。

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『女性改造』同号の編集後記「読者諸姉へ」には、こう記されている。


「女性改造」も今月でほぼ復旧しました。

 殊に本月号には野枝さんの最後の作で、女史近来の力作と称せらるる遺稿や、殺された宗一少年の母である橘あやめ女史のとどろく胸を打ちおさへつゝ追憶の筆を執つて下さつた原稿、大杉夫妻の若き日の燃ゆるやうな恋文、我一流作家たる野上女史の追憶記などは他の雑誌には見られぬ異彩あるものであります。


(『女性改造』一九二三年十一月号「読者諸姉へ」)


「七年前の恋の往復」には、大杉と野枝が交わした手紙三通が掲載されている。

 大杉から野枝宛て・一九一六年五月二日野枝から大杉宛て・一九一六年六月六日、大杉から野枝宛て・一九一六年六月二十五日(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「戀の手紙ーー大杉から」の日付けは六月二十三日)、の三通である。

「七年前の恋の往復」のリードには、こう記されている。


 我武者と思はれる大杉氏にもかうしたこまやかな情の半面があつた。

 野枝さん神近市子さんとの三角恋愛はこの大杉氏の書翰により多く明瞭になります。

 この恋文は例の葉山事件前後(大正五年)野枝さんと大杉氏との恋愛の高潮時代に往復されたものです。

 そして上記の写真は、大地震の日柏木の大杉氏宅前の路次に避難中の氏夫妻を、安成二郎氏が撮影された二人の最後の写真です。


(『女性改造』一九二三年十一月号「七年前の恋の往復」)


「上記の写真」はタイトルとリードの上に掲載されている。





 野上弥生子「野枝さんのこと」は、冒頭に「野枝さんに就いて何か話せと云ふことでお引き受けしたけれども」とあるので、記者による口述筆記であろう。

 野上は『青鞜』を通じて野枝と出会い、自宅が隣接していたことによりふたりの交流が親密になり、野枝が辻家を出て大杉のもとに走り、葉山事件が起きて、それ以来まったく疎遠になったことなど、小説「彼女」(『中央公論』一九一七年二月号/『野上弥生子全集 第三巻』・岩波書店・一九八〇年)に記されていることをまず時間軸に沿って語っている。

「彼女」には記されていない、こんな記述がある。


 大杉氏とのことが起つたのは野枝さんがもう小石川の方へ引き越された後でしたからその過程に就いては私は何んにも存じません。

 たゞたつた一度その家へお訪ねした時に(二度目の赤さんに産着を持つて行つてあげたのだと記憶します)、野枝さんのゐた小部屋の机の上に大杉氏の訳した「相互扶助論」が置いてあつたのを覚えてゐます。

 発売禁止だけれども借りてゐるのだとか云ひました。

 でも誰から借りたのか私は聞かうともしなかつたし、野枝され(※ママ/「野枝さん」)も黙つてゐました。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)





 さらに、野枝が辻との結婚を解消して辻家から出る決意をしたことを報告をするために、野上家を訪れた一件について野上が語っている。

 野枝が訪れたその日、野上家では謡会(うたいかい)が催されていたが、小説「彼女」ではその日が「四月下旬の或日」と記されているが、「野枝さんのこと」では「大正五年の三月」と記述されている。

 この一九一六(大正五)年春の野上家でのふたりの面会が、野上と生前の野枝との永久の別れになったが、「野枝さんのこと」によれば、一九二二(大正十一)年春にふたりは手紙を交わしたという。


 昨年の春であつたと思ひます。

 私たちは或る機会に一度何年ぶりかで手紙の往復をしました。

 野枝さんはいつもの情味のこもつた長い手紙でいろ/\書いて来ました。

 人間は本質的にさう変はるものではありません。

 私はあの頃と何んにも変はつてはをりません。ーーそんなことも書いてありました。

 それから又、考へると今直ぐにも訪ねて行(ゆ)き度(た)い気がするけれども、私のためにあなたの静かな生活を乱すことを思ふと気が引けて行(ゆ)かれません。

 私には尾行なぞがついてゐるものですからーーと云ふ意味を書いて、何処かで偶然の機会で逢へるのを待つてゐるとありました。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)


 一九二二年春といえば、大杉がアルスに売り込んだファーブルの「科学知識叢書」の出版企画が通り、大杉と野枝はその準備に取りかかっていたころである。

 野枝はどんな手紙を野上に書いたのであろうか。

 翻訳仕事をすることになった野枝が、近況報告と久闊を叙する手紙を野上に出したのかもしれない。





 それから一年半後、甘粕事件で野枝が虐殺されたことを知った野上は、その悲しみをこう語っている。


 併(しか)しどんな偶然も決してこの地球上では私たちを出逢はせはしないと云ふことを知つた時の私の驚きと悲しみを想像して下さい。

 あの人に何の罪がありませう。

 あの人の社会主義かぶれなぞ、私の信ずるところが間違つてゐなければ、百姓の妻が夫について畑の仕事に出ると同程度のものにすぎないと思ひます。

 若(も)し大杉氏が貴族か金持であつたら、悦んで貴族や金持の生活をしたでせう。

 ーーこれは決して野枝さんを軽蔑しての意味ではなく、それ程にあの人は愛する人の世界に身を打ちはめて行(ゆ)ける人だと申すのです。

 あの人の一番美しいのはその点ではなかつたか。

 ただそれだけの可愛い単純な女性が、何故生かしておかれなかつたらうと思ふと、可哀想でなりません。


(野上弥生子「野枝さんのこと」/『女性改造』一九二三年十一月号)


 この期に及んでの野上の野枝に対する評価が、「ただそれだけの可愛い単純な女性」という夫唱婦随の良妻の枠にとどまっていることに注目したい。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:38| 本文

2017年05月03日

第442回 今宿の葬儀






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年十月八日、事件の第一回公判が青山一丁目の第一師団軍法会議公判で開かれた。

 同日、事件の記事が解禁になり「外二名」が伊藤野枝と甥の橘宗一であることが発表される。

 十月十六日、福岡県糸島郡今宿村の野枝の実家近くの松林(松原)で三人の葬儀、埋骨式が営まれる。

 親族の他、東京の同志代表・川口慶助、村人など百名近くが参列し、遺骨は今宿海岸の墓地に埋葬された。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、その葬儀には右翼や在郷軍人らの反対が多く、警察が警備に当たった。

 右翼系国士の非情さに真の国士とは何かを考え始めていた代準介は、今宿や福岡博多一帯での葬儀反対を覚悟を持って一蹴し、執り行った。

 この時、陰に陽に葬儀を妨害から守ったのが松本治一郎だったという。

 今宿の松原で執り行われた葬儀の模様を『福岡日日新聞』が報じている。


「開会に先立ち野枝の伯父代準介は遺児ネストルを栄と改名し、之を喪主とする旨挨拶をなし、僧侶数名の読経につぎ、代氏は先ず野枝の叔母(モト)に抱かれたネストルの栄に代わって焼香をし、続いて海老茶色の洋装をした眞子、並びに灰色の洋装をした可愛らしきエミ子ルイ子等は、何れも親類の人達に抱かれ無邪気な眼を瞠(みは)って焼香場に導かれた」

(『福岡日日新聞』一九二三年十月十七日/矢野寛治『伊藤野枝と代準介』より孫引き引用)

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 野枝が十四、十五歳の時に作った短歌もその場で紹介された。


 死なばみな一切の事のがれ得て いかによからん等とふと云ふ

 みすぎとはかなしからずやあはれあはれ 女の声のほそかりしかな


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』)


「枝折れて根はなおのびん杉木立」と弔句した代は、野枝が上野高女入学を切望した際、妻・キチに「伸びる木を根本から伐れるもんか」と言ったことを思い出していたという。

 十月二十二日、代家に引き取られた真子が春吉尋常小学校一年生として初登校。

 一九一七年九月生まれの真子は満六歳で学齢前だったが、三月生まれとして届け出たのである。

 福岡市住吉花園町の代家は、代千代子(今宿村在住)の長女・嘉代子も預かっていたので、真子は嘉代子と一緒に春吉尋常小学校に通い始めた(嘉代子は四年生)。

 大杉が訳した『ファブルの昆虫記』や大杉と野枝の共訳ファブルの『科学の不思議』を、嘉代子は真子に読み聞かせたという。





 十月二十五日、大杉の著作『日本脱出記』(アルス)が発行されたが、収録原稿中「外遊雑記」と「同志諸君へ」は、大杉の死後に机の引出しから見つけ出された遺稿である。

 十一月二十一日から二十五日まで、軍法会議の第三回〜七回公判、重要証拠である「死亡鑑定書」が非審議になる。

 十一月二十四日、大杉の著作『自叙伝』(改造社)発行。

 十一月二十五日、伊藤野枝の追悼会が野上弥生子宅で旧青鞜同人によって開かれる。

 幹事は平塚らいてうと岩野英枝(故・岩野泡鳴夫人)。

 十二月八日、軍法会議で甘粕ら五名に判決が下る。

 東京憲兵隊大尉・甘粕正彦 懲役十年

 憲兵隊曹長・森慶次郎 懲役三年

 憲兵隊上等兵・鴨志田安五郎 無罪

 憲兵隊上等兵・本多重雄 無罪

 憲兵隊伍長・平井利一 無罪

 十二月十一日、大杉の遺骨は親族相談の結果、父・東の墓所である静岡県清水町の鉄舟寺に埋葬することにしたが、同寺住職・伊藤月庵は断ると言明した。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 00:50| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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