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2017年03月30日

第436回 号外






文●ツルシカズヒコ




 この第436回以降は、一九二三(大正十二)年九月十七日以後、つまり大杉と野枝の死後について記述してみたい。

 時間の経過と出来事は、大杉豊『日録・大杉栄伝』の記述をベースにしている。

 九月十八日、大杉の次弟・勇夫妻が衣類などを受け取りに淀橋町柏木の栄宅を訪問した。

 留守宅では三人が帰らないのは鶴見の勇宅に泊まったと推測していたので、淀橋署に捜索願を出した。

 この日の報知新聞夕刊に、大杉夫妻と「長女」三名が麹町分隊に留置されているという記事が載った。

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 九月十九日、勇は三人が検束されているという記事を読み、大手町の憲兵隊司令部へ行き、面会と宗一の引き取りを要求するが、「そんな者は来ていない」と門前払いされる。

 内相・後藤新平が警察情報により事件を知る。

 首相・山本権兵衛が陸相・田中義一に調査を指示、発覚して陸軍は軍法会議と小泉司令官らの処分を決める。
 
 甘粕らに拘引状、予審開始。

 九月二十日、東京朝日新聞記者から勇へ、栄は憲兵隊によって殺され、他の二人も殺された可能性が高いという知らせがある。

 勇は再度、憲兵隊司令部に行き問い質すが追い払われた。

 大阪朝日新聞と時事新報が号外で「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」の報道、以後、報道が禁じられた。

 午後一時半、三人の遺体は憲兵隊本部の古井戸から引き上げられ、三宅坂の東京第一衛戍病院へ送られ
た。

 死亡鑑定のため、田中隆一軍医が午後三時半から二十一日午前十一時二十六分まで死体解剖を行なう。

 陸軍が東京憲兵隊分隊長・甘粕正彦が違法行為を犯したとして、以下の処分を発表。

 戒厳司令官・福田雅太郎を更迭、憲兵司令官・小泉六一と東京憲兵隊長・小山介蔵を停職。

 大杉が検挙されたという風説を内田魯庵が耳にしたのは、九月十六日の午前中に大杉と野枝が出かけるのを目撃してから二、三日後だった。

 魯庵は風説を一笑に付していたが、九月二十日ころの夜十一時すぎに、安成が来て「大杉が行方不明となりました」とひどく興奮して話した。

「十六日に鶴見へ行ったきりで帰って来ません。家でも心配して八方捜しているのですが、さっぱり行方が解りません。検挙されたならどこかの警察にいそうなもんですが、どこの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないと秘すことは絶対にないので、警察にはいないようです」

 安成は満面に不安の色を浮かべて魯庵に話した。

 魯庵も不安に堪えられなくたった。





 安成は、其日恰も戒厳軍司令官を初め二三の陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長が軍法会議に廻されたといふ明日発表される軍憲の移動を話して、恁(こ)ういふ重職の交迭は決して尋常事(ただごと)では無い。

 余程の重大な原因が無ければならない。

 当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関聯するといふが、その突発事故といふのは何だか、マダ発表を許されないと堅く緘黙(かんもく)してゐる。

 が、ウッカリ当局者が滑らした口吻に由ると不法殺人であつて、殺されたものは支那人や朝鮮人で無いのは明言するといふのだ。

『どうもそれが大杉らしいのです、』と安成は痛(ひど)く昂奮してゐた。


(内田魯庵「最後の大杉」/初出は『読売新聞』一九二三年十月二日〜六日、八日に掲載された「此頃の大杉の思出」/『思ひ出す人々』・春秋社・一九二五年六月)





 九月二十一日、勇が淀橋署と警視庁へ行き、安否確認の要求をするが明確な回答を得ず。

 九月二十二日、村木が布施辰治弁護士と警視庁へ行き、大杉ら三人の調書依頼書を提出。

 神戸在住の大杉の三弟・進が、あやめからの依頼で静岡経由で宗一の衣類を持って柏木の大杉宅に着く。

 この間、魯庵の家には魔子が相変わらず遊びに来ていた。


 兒供の事で周囲の不安には一向感じないらしく、毎日来ては家の兒供と一緒に歌を歌つたりダンスをしたりして無邪気に遊んでゐた。

 大杉の家もヤゝ人出入(ひとでいり)が繁く取込んでゐらしく想像されたが、安成も夫(それ)ぎり見えないので、不安を感じながら身辺の雑事に紛れてゐると、或時魔子がイツモの通り遊びに来てゐると家から迎へが来て帰つた。

 暫らくすると復た来て、新聞社の人が来て写真を撮つたのよと云つた。

 新聞社が兒供の写真を撮りに来たといふは尋常では無いので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫つて来たやうな感じがした。


(同上)





 責任ある役人が大杉の弟に口外した言葉から、安成二郎が大杉の死を確信したのは九月二十二日だった。


 ……私は打ちのめされた。

 がっかりして家に帰ると、私は声を上げて泣いた。

 杉村(大杉のこと。以下同)の殺される時の気持を考へると、たゞもう可哀さうであつた。

「まだわからない、確かなことはまだ解らない」と妻が何と言つてよいか言葉を知らないやうに傍でくり返してゐた。

 とにかく、杉村の親しい友人達に、彼がいよ/\地上から消えるやうに滅んだことの通知をすることになつて、私がその仕事を割当てられた。

「明日、少し早く起してくれ」さう妻に言つて、私は間もなく床についた。

 十年来、絶えずしげ/\と往来したといふのでは無いけれど、杉村はいつも、私の心の中に生きてゐた、会はずにゐても、彼がこの世に存在してゐることは、強い心頼みであつた。

 私が数多くの友人を求めずに、殆ど孤独で居られたのも、二三の真実の友人があるからであつた。

 そして其の一人の杉村を今奪はれて了つたのである。


(「二つの死」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p256・新泉社・一九七三年十月一日)





 大杉と野枝の殺害事件発生後、野枝方の近親者の責任者として、その事後の対処に当たったのが代準介だった。

 代準介はその一連の経過を自伝「牟田乃落穂」に記しており、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に詳述されている。

 大杉が殺害されたという新聞報道があった九月二十日、東京の報知新聞や都(みやこ)新聞から、代準介宛てに電報が入った。

 大杉、野枝、遺児(まだ宗一とは判明していない)三名が、憲兵隊麹町分署で殺害されたという電文だった。

 代は戒厳令下の東京府内に立ち入る許可を得るため、即座に警察と福岡県庁に行き上京許可証を取った。

 福岡日日新聞(一九二三年九月二十八日)に、代キチ、代準介、野枝の父・亀吉のコメントが載っている(取材日は九月二十一日と思われる)。

 代キチは震災直後、米や小児用のミルクを送ってくれという野枝からのハガキや電報が届いたとコメントしている。

 代準介は八月上旬に三女・エマを連れて上京し震災前に帰福、大杉の実弟にだけ任せておくわけにはいかないので自分も上京したい、天津にいる次女・幸子以外の三女一男は無籍なのでその処置もしたいとコメントしている。

 亀吉は、大杉は二度亀吉宅を訪れたことがある、八月中旬にネストルが生まれたという手紙をくれた、おまえらのしていることはよく解らないないと言うと、野枝は言ってもあなたがたには解らない、三十までは自由にさせてくれ、野枝は強情なところもあったが小遣い銭を送ってくれたりだいぶ優しくなったなどのコメントをしている。





 代準介と野枝の父・亀吉が相談した結果、東京事情に詳しく頭山満にも人脈のある代が、一人で上京することになった。

 亀吉も代と一緒に上京した旨の記述や書籍があるが、亀吉は上京していないので、『伊藤野枝と代準介』はその間違いを指摘している。

 たとえば、井出文子『自由 それは私自身 評伝・伊藤野枝』(筑摩書房・ちくまぶっくす20・一九七九年十月三十日)に「九州の実家からかけつけた野枝の父と代準介は、遺児たちをつれて、十月二日に九州に旅立った。」(p212)という記述があるが、これは間違いである。

『伊藤野枝と代準介』によれば「魔子が子供の頃、代準介のことを『おじいちゃん』と呼んでいたので、記述に誤解が生じたのであろうと思う」。

 代は船で下関に渡り、大阪に立ち寄り、食料や幼子たちへの菓子、棺桶まで買い込んだ。

 棺桶類の大きい荷物はすべてチッキにして東京に送った。

 東海道線は小田原あたりが壊滅的状況で不通なので名古屋まで行き、中央線に乗り換えた。

 代が入京したのは九月二十三日だった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 02:53| 本文

2017年03月27日

第435回 梨 






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年九月十六日、大杉たち三人は日比谷を経て往路と逆に帰ったと推測される。

 大杉たちが薩摩原(三田四国町)で下車したときから、尾行が三人を見失った。

 鴨志田が憲兵隊本部に戻ると、佐藤特高係長にお前が淀橋にいると思い、甘粕と森らは淀橋に行ったと言われ、車で淀橋署に駆けつけた。

 江崎は日比谷経由で柏木の大杉の家に行ったが、大杉が不在なので淀橋署に戻った。

 江崎と鴨志田はほとんど同時に張り込み中の甘粕のところへ行き、大杉らがまもなく帰宅することを伝えた。

 甘粕は森、本多、平井利一を従えていた。

 五時半ごろ、大杉、野枝、宗一が柏木に着き、自宅まで二、三分の角にある八百屋で野枝が梨を買い出て来たところを、甘粕らの憲兵隊に検束された。

 甘粕が「調べることがあるから憲兵隊まで同行してもらいたい」と詰め寄ったので、大杉は「用事があるなら行ってもよいが、一度家に帰ってからにしてもらいたい」と言うと、言下に拒否された。

 大杉は淀橋署に停めてあった車に、野枝と宗一は鴨志田が乗って来た車に乗せられ、七時ごろ大手町の憲兵隊本部に連行された。

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 瀬戸内晴美(現・寂聴)が、大杉ら三人が連行されたこのシーンを目撃したという女性から、手紙を受け取ったのは、瀬戸内が『文藝春秋』に「諧調は偽りなり」を連載中の一九八一(昭和五十六)年十二月だった。

『文藝春秋』の創刊以来の愛読者であり「諧調は偽りなり」にも目を通しているという玉井協子は、在米十二年、シアトル郊外に在住、「間もなく八十歳になります」というから当時、満年齢は七十九歳、一九〇二年生まれだろうか。


 あの日はまだ残暑がきびしく流れる汗にまみれ乍ら、私は柏木の当時郡役所通りとよばれる青梅街道の北側の通りを大久保駅方面に歩いて居り、右へ曲ると淀橋第一小学校、今一つは左の方へと三つ股になっている角に公衆電話のある二三軒先の果物店へ参りました。

 どこにもある小さな店で中央と両側に商品を並べてその間が通路になって居ります。

 私より先にその頃としてはまだ珍しいハイヤーが止っていてそこから降りたであろう客が三人店内に居り、洋装の婦人が右奥の方で贈物らしい立派な手かごをとみこうみしておりました。

 婦人の洋装などこの田舎町で身(ママ/筆者ツルシ註)かけたことのない当時二十一歳の至って旧式に育てられた無智な私は忽(たちま)ちこの姿に目を奪われました。

 時たま街中で見かける洋装は大方無地か細い柄ですのにこれは白地に大柄なワンピースで美しいとはいえない平顔にベッタリと厚化粧して智的な感じはなく三十歳代の感じでした。

 同伴の男性はチラッと視た丈(だけ)でどんなだったか殆ど印象に残りませんが婦人よりずっと上品で紳士的でした。

 好奇心に満ちた年頃の娘とて洋装ばかり注目していたので男の子がいたのは見ていますが、これもさっぱりどんな様子だったか記憶にありませんで、その洋装に似合わない厚化粧やら深い夏帽子との調和も考えられずみんなチグハグと私の眼にうつりました。

 唯この三人が親子とも夫婦とも思われず、好感を持てないのに何となくはなやかフンイキが漂い、帽子のツバに手をかけ乍ら車にのり込んで走り去ったあとの淋しさというかホッとためいきをつきたい気分になりました。

 私は店内へ一歩入った所に佇(た)って、多分ポカンと唇でもあけてこの情景をみていた事でしょう。

 後日新聞で、あれは死の首途の数時間前の彼等だったと覚り、読みかけのおくの細道の塚も動けの句に慟哭する芭蕉と一緒にひとの命のはかなさ、測り知られぬ運命等に涙していつになってもこの情景が目に灼きついて忘れることが出来ません。

 其後私は遠方へ移りこの店の前を通る事もなく、どうなったか存じませんがあの辺は明治末年現在の安田ビルあたりに煙草専売局が出来たについて発展した処とて土着の人が多く、戦災は最後の五月二十五日の大空襲を被った処で避難先もなく大部分小屋など建てて居残りましたから今もあるかもしれませんし、付近の古老に知っている人もありますでしょうーー略ーー


(瀬戸内晴美「諧調は偽りなり」・『文藝春秋』・一九八三年五月号/『諧調は偽りなり』・文藝春秋・一九八四年三月/『諧調は偽りなり』・文春文庫・一九八七年四月十日/『瀬戸内寂聴全集 第十二巻』・新潮社・二〇〇二年一月十日/瀬戸内寂聴『諧調は偽りなり 伊藤野枝と大杉栄(下)』p229~232・岩波現代文庫・二〇一七年二月十六日)


 玉井の手紙には地図まで書き込んであったという。

 津田光造(辻潤の妹・恒の夫)も、大杉が憲兵隊本部に引っ張られて行くのを目撃したという(小牧近江『ある現代史』/法政大学出版局/一九六五年 )。

 大杉は八時半ごろ憲兵司令部応接室で、野枝は九時半ごろ元憲兵隊長室で、宗一は同時刻ごろ特高課事務室で、次々に扼殺された。





 安成二郎「甘粕の供述」によれば、扼殺される直前、甘粕に話しかけられた野枝は甘粕とこんな会話を交わした。


 私は室内を歩行しながら、

 戒厳が布かれてバカなことであると思つてゐるであらうと言ひましたら笑つてをり答へませぬから、

 兵隊なんかバカに見えるであらうと言ひましたれば、

 今日兵隊さんで無ければならぬやうに言ふではありませんかと答へ、

 自分等は兵隊で警察官であるから君達から見れば一番いやな者であらうと言ひ、

 且つ君達は只今より一層混乱に陥ることを好んでゐるであらうと言ひましたれば考へ方が違ふのでありますから致し方ありませんと笑ひながら答へ、

 ドウセ斯様(かよう)な状況を原稿の資料にするであらうと言ひましたれば既に本屋から二三申込を受けてゐると答へました。


(「甘粕の供述」/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』・新泉社・一九七三年十月一日)





「甘粕の供述」によれば、十時半ごろ、三人の死体は裸にされ、菰で包み麻縄で梱包され、憲兵隊内の火薬庫のそばにある井戸の中に投げ込まれた。

 三人の遺体が投げ込まれた井戸には、震災で破壊された火薬庫の煉瓦が多数投入され埋められた。

 翌、九月十七日、三人の遺体が投げ込まれた井戸には、甘粕の指図により人夫によってさらに尿糞や塵なども投げ込まれ、井戸は全く埋没してしまった。

 三人の着用していた衣服、およびオペラバッグ、手提袋、帽子、靴下、下駄などは、同日の夕方、甘粕が築地に巡視に行った際、自動車に積み込み、逓信省の焼け跡の石炭が燃えている中に投げ入れて焼却した。

 扼殺される前に、大杉と野枝が肋骨が骨折する激しい暴行を受けていたことが判明したのは、五十三年後の一九七六(昭和五十一)年だった。

 同年八月二十六日の『朝日新聞』が、三人の死体解剖をした軍医・田中隆一の残した「死因鑑定書」が発見されたと報道し、その事実が公になったのである。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 02:17| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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