2016年12月31日

第404回 平林たい子






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年四月二十九日の昼下がり。

 佐藤紅緑、大杉栄、林倭衛の三人は、パリの紅緑の宿泊先を出た。

 シャンゼリゼ公園に春の光が漲っていた。

 マロニエやプラタナスの美しい芽が吹き出していた。

 パリの市民は若返ったような顔をして散歩している。

 大杉は林と並んでしきりに、林のフランス語の発音に注意をしたり、友達の噂話をしたりした。

 紅緑は少し離れてふたりの後を歩いた。

 ふたりはときどき、年長者をいたわるように紅緑を振り返った。

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 私は又しても奇妙な感想に捉へられた、此処に三人の男が歩いて居る、一人は純社会主義者で一人は純国家主義者だ。

 さうして今一人は夫等を超脱した純芸術家だ。

 離れ/\の思想を抱いた三人が胸に滴るが如き親みを以て腕を組んで行くのはどういふわけだらう。

 私は思想問題に就いて語る事を避けた如く、大杉氏も夫れを避けた。

 三人は散々遊んで疲れた。

 すると大杉氏はパリで第一等の料理を食ひたひと言た。

「よし、行かう」

 林氏は第一等の料理屋と称する処へ案内した。


(佐藤紅緑「巴里に於ける大杉栄氏」/『文藝春秋』一九三〇年一月号)





 林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、「その夜はS・Kに誘はれて晩飯を喰いに三人で出掛けた。レストランの案内は僕にしろと云ふので、僕は二人をグラン・ブルヴアルの巴里でもまづ上等と云へる家へ連れて行つた」。

 大杉たち三人の向かいのテーブルには、六十くらいの男と四十くらいの女が座っていた。


 二人は食事中にも拘はらず小刀と肉叉を置いて接吻した。

「やあ、またやりあがった」

 林氏は眼前の接吻を見る度に言た。

「驚いたものだ、まるでカナリヤの様だ」

 私は恁(こ)う言た。

 林氏と私がそんな事を屢々(しばしば)言たが大杉氏は何にも言はなかつた。

 彼は夫れだけ洗練されて居たのである。

 他人の自由に対して批評を加へないのはパリジヤンの道徳である。


(同上)





 あっちこっちでキスが始まったので、キスに酔ったように三人は店を出た。

 まだ時間が早かったので、三人はカフェ廻りをした。

 大杉が女郎屋を見たいと言うと、紅緑も賛同し、三人は赤い軒燈の家へ入った。

 トンネルのような細長い路地をつき当たった扉を押すと、昼のように明るい電燈の下に十人ばかりの裸の女が並んでいた。


 何しろ身体に一糸を纏はぬ十人の女ーー身に着けたものは靴だけであるーーが私達を見るや否や灯取蟲が電燈に群る様に跳び付いて来たのだから堪らない。

 いかに肉を売るのが商売とはいふものゝ赤裸々の肉其のものを店頭に晒らすに至つては外国人は日本人よりも遥かに惨忍であり非美術的であり低級趣味であると思つた。

 だがそんな事を考へては居られない。

 女はどしどし肱を取り首に巻き付き大蛇の様な唇を寄せて来るのだ。

「ビールを飲まう」と大杉氏は言ひ出した。

 裸体女の曲芸が始まった。

 女の中に一人の黒人種があつた。

 白人の中の黒人は益々黒く見へる。

 其顔は破れた古靴の如く横に広がつて唇だけは赤子を食つた様に赤い。

 此の怪物は私を目がけて突進して来た。

 恰も夫れは有色人種同士だから同情してくれと言ふかの如く見へた。

 同情はするが近寄られては困る。

 私は逃げ出さうとした。

 すると大杉氏は彼女を自分の傍に坐らせた。

「こいつは可愛さうだよ」と彼は言った。

 私はそこに大杉氏の片鱗を見た。

 彼は洋盃を捧げて女に飲ませ、それから煙草を一本くれてやつた。


(同上)





 三人が娼家を出ると、大杉が言った。

「あれに比べると、日本の公娼の方が遥かに上品だ」

 廃娼論者の紅緑もそれに首肯しないわけにいかなかった。

 三人は再びカフェに行き、午前二時ごろに紅緑はタクシーで宿に帰った。

 紅緑がタクシーに乗るとき、大杉が紅緑に言った。

「明後日(あさって)の労働祭に労働者が芝居をやります。木戸銭は一フランです。見て行きませんか」

「結構、見たいな」

「じゃ、僕が迎えに行くから待っててくれ給え」

「ああ、待ってるよ」

 四月三十日、大杉は『東京日日新聞』の記者・井沢弘に原稿を渡したが、その原稿は「仏京に納まつて」というタイトルで六月二十二日から四日連続で同紙に掲載された

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』「編集後記」によれば、この時点ではまだ大杉の国外脱出後の行動の詳細が不明だったので、『東京日日新聞』に「仏京に納まつて」(単行本『日本脱出記』には「パリの便所」と改題収録)が掲載されたことにより、大杉の滞仏が明白になったという。

 四月三十日の夜、大杉はオペラ座の近所に出かけた。





 ……夕飯を食ひがてらオペラ近所へ行つて、そこから更に時間を計つてドリイに会ひに行かうと思つた。

 が、そのオペラの近くのグラン・キャフェで、前に一度あそんだ事のある、そして二度目の約束の時に何かの都合で会へなかつて、それつきりになつてゐる或る女につかまつてしまつた。


(「牢屋の歌」/『東京日日新聞』一九二三年○月○日/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


 ドリイは踊り場、バル・タラバンの踊り子で、大杉のお気に入りだった。

 彼女との関係について、大杉はこう書いている。


 牢やの中では、いつも僕は聖者のやうなのだ。

 時々思ひだしたドリイだつて、実は一緒に寝たには寝たが、要するにたゞそれつきりの事だつたのだ。
 
 ――Faire lmour, ce n'est pas tout. Ju es trop jolie pour cela. Je t'adore.

 と云ふやうな甘い事を、実際甘すぎてちょつと日本語では書きにくいのだ、子守歌でも歌つて聞かせるやうな調子でお喋舌りしながら寝かしつけてゐたのだ。

 そして又、それだからこそ、時々彼女を思ひだしたのだらうと思う。


(同上)


「牢屋の歌」の末尾に「ーー 一九二三年七月十一日、箱根丸にて ーー」とある。

 この日は大杉を乗せた箱根丸が神戸に入港した日なので、大杉はこの原稿を神戸上陸の寸前に書き上げたことになる。

 なお大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』「編集後記」によれば、「牢屋の歌」は大杉が帰国してまもなく『東京日日新聞』に掲載されたとあるが、その掲載日は調査中。





 このころ、アナーキスト山本虎三と同棲していた平林たい子は、山本と一緒に野枝を訪問した。


「労働運動社」という表札のかかった大杉家の表には、私服の刑事がうろついていて、堺家と同じに来訪者をいちいち検問する。

 家には中年の、筒袖を着た大杉氏の同志が、主義のために結婚もあきらめてごろごろしていた。

 のち、堺真柄さんの夫君になられた近藤憲二氏もいた。

 氏は、大杉氏最愛の後輩で、そのころはまだ若く独身だった。

 野枝さんは、神近さんと違って、ちょっと頽(くず)れたやわらかい感じのする小柄な人だった。

 長い煙管を持って、立膝で煙草をすいながら、

「若くていいわね。おいくつ?」

 と私に声をかける。

 私はまだ数え年で十九にしかなっていなかった。

 そう答えると、

「前途有望ね。あなたは勝気そうだから気に入ったわ。」

 こんな口調は、どこからみてもインテリ婦人とは見えなかった。

 が、大杉氏と並んで、「改造」や「解放」などにむずかしい論文を書いている婦人評論家としては、足許にもよりつけない高嶺にそびえてみえた。


(『砂漠の花』・光文社 ・一九五七年/『平林たい子全集7』・潮出版社・一九七七年)



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2016年12月25日

第403回 日本人







文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年四月二十二日、林倭衛と『東京日日新聞』の井沢記者が、パリからリヨンにやって来た。

 フランスに留学中の北白川宮成久王が、自動車を運転中に事故死したのは四月一日だったが、その霊柩車がパリからマルセイユに向かうことになり、井沢はその随行取材をすることになっていた。

 井沢がリヨンに来たもうひとつの目的は、大杉本人の許可を得て、大杉の記事を書くことだった。

 早晩、大杉がフランスに滞在していることが知れるなら、先手を打って取材をしてみたらどうだと、林が井沢に話をもちかけたのだ。

 マルセイユの取材を終えた井沢と林はパリに帰ったが、大杉もパリに出てみることにした。

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 春にはなる。

 街路樹のマロニエやプラタナスが日一日と新芽を出して来る。

 僕は郊外の小高い丘の上にゐたのだが、フランスの新緑には、日本のそれのやうに黒ずんだ色がまじつてゐない。

 ただ薄い青々とした色だけだ。

 其の間に、梨子だの桜だのいろんな白や赤の花が点せつする。

 そして、それを透かして、向ふの家々の壁や屋根の、オランジユ・ルウジユ色が映える。

 それは、ほんとうに浮々とした、明るい、少しいやになる位に軽い、いい景色だ。

 が、其の景色も少しも僕の心を浮き立たせない。

 それに、よくもよくも雨が降りやがつた。

 もうメエ・デエ近くになつた。

 僕は殆どドイツ行きをあきらめた。

 そして窃かに又パリへ出かけようと決心した。

 パリのメエ・デエの実況も見たかつた。

 もう一ヶ月ばかり続けているミデイネツト(裁縫女工)の大罷工も見たかつた。

 ついでに今まで遠慮してゐたあちこちの集会へも顔を出して見たかつた。

 いろんな研究材料も集めて見たかつた。

 又新装をこらしたパリの街路樹の景色も見たかつた。

 女の顔も見たかつた。


(「入獄から追放まで」/『改造』一九二三年九月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 四月二十九日、パリにやって来た大杉はリベルテール社のコロメルを訪ねて、メーデー当日にセン・ドニの集会で再会することにした。

 林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、セーヌ河岸、サン・ミシェル橋近くの林の宿を訪れた大杉に、林が文士の佐藤紅緑がパリに来ていることを話すと、大杉は自分も紅緑のことを知っているし、芝居のことを話したいからと言って、ふたりはタクシーに乗りエッフェル塔近くの紅緑の滞在先を訪れた。

 佐藤愛子『血脈 上』(文藝春秋社/二〇〇一年一月)によれば、紅緑は外務省の情報局嘱託として渡欧、目的はヨーロッパ各国の映画研究だった。

 この年の二月十八日に横浜から鹿島丸で出港した紅緑の滞欧期間は、一年間の予定だったが、滞欧中に関東大震災の報せを受け、予定を二ヶ月早めて帰国した。

 ちなみに、このとき紅緑は四十九才、佐藤愛子は一九二三年十一月生まれなのでまだ生まれていない。

 紅緑と大杉が対面するのは、一九一五年十二月、日本著作家協会の設立準備会以来、八年ぶりだった。

 紅緑は「私は社会主義は大嫌なのだ」という人間だったが、大杉に対しては好印象を持っていた。


 私は氏の謙遜で無邪気で而も礼儀に篤い諸想と、いかにも明晰な頭脳と理智に輝やく眼の光をとを見た。

 このをとなしい男がどうしてあんなに暴れるのだろうと思つた。

 当時社会主義運動者の運動は幼稚であり、其れに対する政府の取締方法は疎放であり、私としても社会主義の研究が極めて貧しかった。

 私は青年は暴れるだけ暴れるが可い、暴れない様な奴は頼母しくない、どうせ理想の夢を実際に当てはめてやうとするのだから無理が出るだらう。

 其中に段々穏健な考が出る様になるだらうから政府だつてそんなことに慌てるに及ばない事だと考へて居た。


(佐藤紅緑「巴里に於ける大杉栄氏」/『文藝春秋』一九三〇年一月号)





 紅緑は大杉にいろいろと訊ねた。

 大杉はベルリンで開かれる世界アナキスト大会に出るために来たこと、支那人の同志がいるリヨンに滞在していることなどを話した。

「君は日本では日本のお尋ね者であったが、今度は世界的のお尋ね者になったのだね」

 と紅緑が言うと、

「そうだ」

 と大杉は笑った。

「どこから金が出たのか?」

 そんなに親しくもない人に向かって失礼千万な質問だったが、大杉は感情を害した様子もなく答えた。

「横浜の某氏からもらった」

「後藤新平伯が出したという新聞が出たが、あれは?」

「嘘でもないが本当でもない」

 こんな無作法な対話が、紅緑と大杉の間に気安さを生んだ。

「それで君はいつパリに来たのか?」

「昨夜」

「密偵がついているだろう?」

「たぶん!」

「どこへ泊まった?」

「林君の宿へ」

「どうしてパリへ来たのか?」

「君がパリへ来たことを新聞で見た、ちょっと会いたくなったから」

「そうか」





 大杉は紅緑に会うためにパリに来たわけではないので、悪戯好きの大杉はその場のノリで調子のいい嘘をついたことになるが、紅緑は大杉が面会に来てくれたことについて、こう記している。


 私は極めて奇妙な気持に襲はれたので黙つた。

 左までに懇意でもなし、公開席上で二三度会つたばかリの人間が、一寸私に会ひたくなつて人目を忍んでリオンから来たといふ事は余りに不思議な話である。

 不思議ではあるが、あり得べからざる事ではない。

 我等は日本人である。

 同主義者として来たのではない。

 親友として来たのではない。

 日本人として日本人が懐かしくなつたのである。

 エトランジエの気持はエトランジエでなければ解らない。

 二人の主義が異つて居ても、主義よりももつと大きなものが二人を結び付けたのだ。

 面白く一日を暮らさう。


(同上)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年12月19日

第402回 rien á faire






文●ツルシカズヒコ



 林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、アンチーブに滞在していた林は、小松清の誘いでアンリ・バルビュスに面会し、林はバルビュスの肖像画を描くことを了承してもらった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、林がバルビュスに面会したのは、一九二三(大正十二)年三月三十日だった。

 大杉が林に出した手紙の中にも、バルビュスについての言及がある。


 バルビユスの肖像画がうまく行くといいがね。

 僕もバルビユス(共産党)とアナトル・フランス(共産党から除名された)とロメン・ロオラン(先づ無政府主義)との三人に会つて、三人の比較評論を書いて見たいと思つてゐるんだが、それには三人の本を大ぶ読まなければならんので、まだいつの事になるか分らない。

 リオンではまだ女を知らない。

 君のやうな悪友がゐないもんだからね。

 火曜二日。


(『改造』一九二四年六月号・林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「脱走中の消息」/大杉栄研究会『大杉栄書簡集』一七九 林倭衛宛・一九二三年四月二日)

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 ちなみに林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」には小松清はKと記されているが、『大杉栄書簡集』・一七八の補注がKを小松清と指摘している。

 林は結局、バルビュスの肖像画を描くことをキャンセルし、四月九日ごろリヨンに行き、二十日ぶりに大杉と会った。

 林と一緒に小松も来たが、小松はその日のうちにパリに向かった。

 林は大杉が滞在しているオテール・ル・ポワン・デュ・ジュールの一室に投宿し、一週間ほどリヨンで過ごした。

 大杉は「日本脱出記」の原稿の末尾に「ーー 一九二三年四月五日、リヨンにて ーー」と記している。

 つまり『改造』七月号(一九二三年)に掲載された「日本脱出記」を脱稿したのが「一九二三年四月五日、リヨンにて」だったわけだが、この原稿を日本に送る段取りをしたのは林だった。

 林は「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に「……彼は改造に送つた『日本脱出記』に手を入れ、其が出来たので僕の手を経て巴里に廻し、そこから日本へ送つた」と書いている。





 待てども待てども、大杉のドイツ行きのビザは下りなかった。

 春爛漫。

 リヨンの畑には林檎や梨子の花が咲き、道ばたのプラタナスやマロニエが青々とした若葉を茂らせていた。

 大杉と林は地図を頼りに、リヨン郊外に散歩に出かけた。

 カフェで大杉は熱い珈琲を飲み、林は葡萄酒の杯を傾けた。

 林は大杉が語った、ある計画を記している。


 彼は或時斯麼 (こんな)ことを云つた。

『ドイツから帰つたら、ローン河を船でアビニオン辺りまで下だらうぢやないか、アビニオンの近傍に、フアブルの居たところがあるんだ、そこへ行つて見たい』

 このローン下りは僕も……考へてゐたことだつたので、大いに乗気になつて、その計画などを話し合つた。


(林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/『改造』一九二四年六月号)





 そうこうしているうちに、大杉のドイツ行きの旅費をほとんど使いはたしたので、とりあえず林はパリに出ることにした。

 パリに出た林は、サン・ミシェル橋に近いセーヌ河岸に宿をとった。

 向かいはパリ法院警視庁ノートルダム寺院、下流の方にはルーヴル宮殿が見える。

 金を都合してリヨンの大杉に送った林に、大杉から二通の手紙が届いた。


 きのふ高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今から直ぐ向へ行くといゝ、多分もう出来てゐるだろうから、と云ふ。

 喜んで行つて見ると、まだゞ、Il faut attendre quelques jours だと云ふ。

 ……要するに、Il faut attendre quelques jours のほかに rien á faire だ。

 ……ケルク・ヂュウルになると、あしたになつてもあさつてになつてもやはりまだケルク・ヂュウルだ。

 ……きのふは……ゴリキイの Engagnant mon Pain と云ふ自叙伝小説を買つて来て、けふまでそれを読み耽つてゐる。

 もう十七日だ いやになつちまうよ。


(『改造』一九二四年六月号・林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「脱走中の消息」/大杉栄研究会『大杉栄書簡集』一八〇 林倭衛宛・一九二三年四月十七日)


「Il faut attendre quelques jours」の英訳は「It takes a few days」で和訳は「数日かかります」、「rien á faire」は「 nothing to do」で「どうしようもない」。





 きのふ電報を受取つた。

 金はまだ来ない。

 きのふ午後又警視庁へ行つた。

 するとこんどはケルク・ヂュウルどころではなく、ア・ラ・スメエン・プロシエンになつた。

 来週になつて又行けば、こんどはオ・モ・プロシエンになるのかも知れない。

 ……オ・モ・プロシエンがこんどは又ア・ランネ・プロシエンになるだろう。

 くさ/\すろ事おびたゞしい。

 十九日。


(『改造』一九二四年六月号・林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「脱走中の消息」/大杉栄研究会『大杉栄書簡集』一八一 林倭衛宛・一九二三年四月十九日)


 大杉栄研究会『大杉栄書簡集』一八一によれば、「ア・ラ・スメエン・プロシエン」は「来週に」、「オ・モ・プロシエン」は「来月に」、「ア・ランネ・プロシエン」は「来年に」である。

 このあたりの苛立ちを、大杉はこんなふうに書いている。


 ……又例の日参だ。

 あした、あさつてと云はれるのにも飽きて、少々理屈を並べると、フランス人の癖の両方の肩を少しあげて、『俺あはそんな事は何んにも知らねえ』と云つたまま相手にならない。

 其の肩のあげかたと、にや/\した笑顔の癪に触るつたらない。

 行くたびにむしやくしやしながら帰つて来る。


(「入獄から追放まで」/『改造』一九二三年九月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第401回 裁縫の話






文●ツルシカズヒコ




 野枝が『女性改造』一九二三年四月号に寄稿した「私共を結びつけるもの」は、同誌の「愛の夫婦生活」欄の一文であり、他に若山喜志子武林文子原阿佐緒が執筆している。

「愛の夫婦生活」という甘ったるい特集タイトルではあるが、野枝が寄稿した文章は大杉と自分との関係を総括したような渾身の力作だった。

 かつて野枝の親友だった野上弥生子は、野枝が辻と別れ大杉との恋愛に走った際、野枝の「軽率さ」を厳しくたしなめたが、この文章は弥生子に対する7年越しの野枝の回答でもある。

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 この頃、大杉の行方不明について、ちよいちよい新聞記者の訪問を受けます。

 ……少しのたよりもないのによく心配せずにゐられると不思議さうに首をかしげて帰ります。

 ……私としてはたよりがあつてもなくても、とにかく大して心配せずとも済むものを持つてゐるからです。

 彼はどんな計画をする時でも非常に周到な用意を致します。

 しかし……その成功に十二分の自信をもつ事が出来ても、彼は決して其の自信にはたよりません。

 常に其の失敗に際しての用意をする事を怠らないのです。

 彼はいつも人間の計画の邪魔をする『偶然』を勘定に入れる事を忘れません。

 彼は其の点では、私の且(か)つて見た事のない『実際家』です。

 私が彼の一身に就いて安心してゐられる重要な信頼は、其処にあるのです。

 二ケ月間、或は三ケ月も一度も便りがなくても、私には其の間に彼の計画がどういう風に進行してゐるか、と云ふ事は容易に察する事が出来るのです。

 彼は其の計画にとりかゝる前にとにかく此の推定に必要な材料を充分において行きます。

 もしそれ以上の不幸が来れば、それには私はもう一切の未練気はない筈なのです。

 何故なら、彼が私の……いゝ良人であり、子供等の……慈悲深い父として自家の畳の上に寝ころんでゐる時にでも、思ひがけない災が来ないと云ふ事は決して予想の出来ない事ではありませんから。

 或る新聞記者は私にむかつて、私共の家庭が不安定であり、子供や私や大杉は不幸ではないだらうかと云ひます。

 ……彼の主義主張が勿論その生活の全部ではありません。

 或る時には、世間普通の人達以上の家庭生活の享楽者であります。

 彼は大抵の場合子供を連れて歩きまはります。

 子供と一しよに玩具をあさり、食物を撰び、其の着物、シヤツ、靴足袋の類までも世話を焼きます。

 彼が格別の用事を持たずに家にゐる時には大部分子供と一しよです。

 出るにも入るにも子供を連れてゐます。

 同時に亦私の相手もよくしてくれます。

 私が夕食の支度でもするときにはお芋や大根の皮むき位は引き受けます。

 七論のそばにしやがみ込んで、はじめからしまひまで、見物してゐます。

 御飯を炊く火なぞは大よろこびで燃します。

 よく、出入りをする御用聞きや職人が呆れてゐた位です。

 要するに家庭では実に善良な父であり良人なのです。

 足掛八年間の同棲生活の間に私は省みて彼に持つ不満は一つもありません。

 折々の不機嫌も、殆どすべて、と云つていゝ位に私の我まゝな感情のこぢれに基くのです。

 しかしまた、彼の家庭外の生活が、彼にとつてどれ程重要なものであるかも、十二分に認めて居ります。

 ……彼の懸命な対社会の仕事がなかつたら、どうして私共がいつもいつも家庭生活の幸福を享受することが出来よう? という事もよく知つて居ります。

 彼が或る人々から此の享楽についての多少の非難のある事を知りながらそれを意に介せずに享楽することが出来るのは、寧ろそれ程彼を引きつけてゐる家庭でも、必要の時になれば未練気なく離れる事のできる覚悟があるからだと私は信じて居ります。

 けれども彼は本当に私共を愛して居ります。

 彼は私共を愛する為めに、臆病にも卑怯にもなりはしません。

 しかし、慎重になり周到にはなります。

 彼は自分の心の底から湧き上つて来るアムビシヨンの赴くまゝに、計画し企図して躊躇なく其の実行に移ります。

 しかし、其の自分の満足と同時に私共の上に深い注意を払う事を怠らないのです。

 私の、彼の妻として、子供等の母としての、彼に対する信頼も、感謝も、あきらめも、たゞ其の彼の態度にあります。

 他所目(よそめ)にはどれ程不安定な家庭らしく見えやうとも事実私共には決して不安定でもなく、私も大杉も子供達も、決して不幸ではないと私は信じてゐます。

 更に、私一身の上から云へば、彼は足掛八年の間変らぬ愛で我儘な私を包んでくれた寛大な愛人であり、思ひやり深い友人であり、信頼すべき先輩であり、同志です。

 私共は最初お互ひに非常に不利な状態の下に結びつきました。

 私共は其の時に、より悧巧な方法を知らなかった訳では決してありません。

 むしろ私はその方法を取らうとして一ヶ月もの間苦しんだ位です。

 しかし、私共はお互ひに世間体を繕ふ事を恥ぢないではゐられませんでした。

 また、世間体を繕ふ事が、自分の心の中まで繕ひおほせない以上、最後まで繕ひとほせるといふ事も考へられませんでした。

 で、私共は進んで自分達を世間の悪評の中に投げ込みましたので、何が私共を結びつけたかと云ふ本当の事を他人に知らす機会も別にありませんでした。

 当時の私の最も親しい友人にすら私はそれを話す気にはなりませんでした。


(「私共を結びつけるもの」/『女性改造』一九二三年四月号・第二巻第四号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





「当時の私の最も親しい友人」とは、野上弥生子のことである。


 其の友人は……私がつまらない恋愛にひかされる事を極力批難しました。

 当時私は、自分に知的教養の足りない事を痛感してゐましたから、学生のやうになつて勉強したいと思つてもゐましたし、云つてもゐました。

 私の希望はうんと本を読む事だつたのです。

 其の友人はそれに賛成しました。

 けれども、実際には其の時既に私には社会運動に対する熱情が確かに燃え上つてゐたのです。

 私は自分でそれに気がつかなかつたのです。

 或は気がついてゐても、もつと自分をえらくしてからでなければならないと思つてその熱情を重く観てゐなかつたのです。

 が大杉は決してそれを見のがしませんでした。

 彼の情熱が私の其の押へられた熱情を揺り動かしたのです。

 斯くして私は私の単純な知識探究の道をかへました。

 友人はそれを批難したのです。

 その人は、私がたゞ恋のたはむれに惑はされたと思つたのです。

 で、やがてはまた、私が恋の報酬として、自分自身を束縛する家庭と、幾人かの子供の為めに一生を棒にふつてしまふのだ。

 あなたは第一の牢から出て、また少し形のちがつた第二の牢に入るのだと云ひました。

 その人は第一の牢と称する、私の第一の家庭生活に於ける私の惨めさをよく知りぬいてゐました。

 ……形の上から云へば、私は……第二の牢にはいつたと云へます。

 が、それは私には牢と云ふ意味のものからは全くかけ離れたものとしか思へません。

 私は其処で自由にのび/\と育てられました。

 先づ私は活きた社会的事実を観る眼をあけて貰ひました。

 私は其処に力強い事実を観、熱情を煽られましたが、もう決して無知を悲観しませんでした。

 私は其の事実から多くの力強いものを学びました。

 次に私は大杉によつて実に多くの糧を得ました。

 彼は私の唯一の親友でした。

 彼は友人として、私の感じたこと、考へた事、饒舌(しやべ)つたことの全部を、深い理解と同情を以て受け容れてくれました。

 ……私の些細な……趣味に渉つてまで、とにかく話相手になれるだけの理解を持たうと努力するのです。

 私の心の底にうごめきわだかまつてゐる苦痛も煩悶も不平も不満も私の言をまたないでも直接に感じて、いつもデリケエトな心づかひで先きまはりをします。

 裁縫の話でも、料理の話でも、洗濯の話でも、彼は私が興味を以て話すときに、その私の興味を外すやうな下手な話し相手ではありません。

 彼はいつでも台所や井戸端にしやがんで、料理や洗濯に自分の興味をさがし出してゐるのです。

 ミシンの働きにも、着物のデザインにも、興味を見出すのです。

 最初は何んの興味もなかつた音楽に対しても、少しも退屈を感ずることなしにいゝものとつまらないものを聞き分けるやうになり、やがていろんな批評をするやうになつた位真面目に興味を見出すのです。

 家庭は決して私を束縛しませんでした。

 私共二人の友人としての話題は実に多種多様なものなのです。

 ですから私共は一緒にゐれば絶えずしやべつてゐますけれど、話に退屈することは先づありません。

 そして大抵の場合私は其の友人としての会話の間に教育されてゐるのです。

 多くの知識を授けられ、鞭撻され、警(いま)しめられ、訓(おし)へられるのです。

 同時に又、彼れは何時でも私を一人の同志として扱うことを忘れません。

 私は彼と一しよになる時には、常に運動の第一線に立つことを辞せぬ覚悟でした。

 今もその覚悟は棄てはしませんが、そして必要の場合には飛び出しもするつもりですが、それでも今までの処では引つこんでゐます。

 が、彼は私に対しても他の少数の同志と変らぬ厳粛なコンフイデンスを何時も示してゐます。

 私は、彼の妻としてよりも友人としても、より深い信頼を示された一同志として、彼の運動に際して、後顧の憂をなからしめる事につとめなければならないのです。

 私共の生活は、世間の人達の眼からは全くノルマルな生活だとは思へないかもしれません。

 しかし、私はそれ故にこそ世間の人の眼からは牢屋とも見ゆる家庭の内でいぢけてしぼむ筈の処を兎にも角にも、自分を一人の人間として信ずる事の出来る処まで育つことが出来たのだと信じます。

 が、これは決して世間で観てゐるやうな私共二人の甘い恋愛の実ではありません。

 尤もそれなしには成就したとは云ひませんが、しかしいつも私共の生活を結びあはせ、向上さしてくれたのは、たゞ生命をかけた、同志としての信頼と、深い理解を伴う友情です。

『恋はよき刹那を必要とする、走る火花だ、ぐづ/\してゐるうちには消えて、よき刹那は永久に飛んでしまふといふ人間(ひと)があるかも知れません。そんな恋なら消えてもいゝ筈ですね、又そんな恋まで欲しがるのはドン・フアン宗の安価なエピキユリアンです。あなたはその人々の如く恋愛を一生の大事業に数えますか。』

 これは先きに云つた私の友人の、私に対する忠告の言葉です。

 世間の人はともあれ、私のあれ程理解ある友人が、私をその安価なエピキユリアンの一人に数えるのか?

 私は……口惜(くやし)涙を流したものです。

 けれども、もう年月が流れました。

 今では、私には此の言葉も何んの感情も煽りません。

 たゞ私が此の年月の間に学んだ事は『恋は、走る火花、とは云へないが、持続性を持つてゐない事はたしかだ。』と云ふ事です。

 が、其の恋に友情の実がむすべば、恋は常に生き返り。

 実を結ばない空花(あだばな)の恋は別です。

 実が結ばれゝば恋は不朽です。

 不断の生命を持つて居ります。

 その不朽の恋を得ることならば、私は一生の大事業の一つに数へてもいゝと思ひます。

 私共の恋はずゐぶん呪はれました。

 が、空花ではありませんでした。

 大きな実を結びました。

 新しい生命の糧が出来たのです。

 エピキユリアンの欲しがる恋は決して実を結びません。

 それは本当に甘い安価な恋です。

 空花です。

 それは本当に走る火花です。

 それは恋の真似事です。

 恋のたはむれです。

 それは仕事ではありません。

 そんなものが何んで二人の人間を結びつけておく事が出来ませう。

 火花が消えれば真暗です。

 何もありません。

 もうすべてが終つたのです。

 また新しい火花をさがさなければなりません。

『ねえ、あなたの友達は馬鹿でなかつた事が分かつて下すつたでせうね。』

 私は何時かさういつて友人の信用をもう一度とりかへせるやうになつたのです。

 そして、それは此の七年間一日もかはる事のなかつた私の……たつた一人の友人であり、同志であつた愛人の思慮深いたすけによるのだと云ふ事を、誇らして頂きます。

 一九二三・二・二二


(同上)





 野枝にしか書けない大杉の素顔を記した貴重な証言でもあり、鋭い野上弥生子批判(野上個人の批判にとどまらない物書きとしてのスタンスの違いを指摘している)でもあるこの文章であるが、ひとつ疑問がある。

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(一九二五年十二月八日発行)に、この「私共を結びつけるもの」が収録されていないことだ。

 紙幅の関係で省かれたにすぎないとも考えられるが、大杉に関して言及したこれほどの力作が収録されない、その理由が見当たらないと思うのである。


原阿佐緒記念館


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2016年12月18日

第400回 水平運動






文●ツルシカズヒコ


『労働運動』三次・十三号に、野枝は「失業防止の形式的運動に対する一見解ーー生きる権利の強調と徹底」と「お花見眼鏡(時事短評)」を寄稿した。

「失業防止の形式的運動に対する一見解ーー生きる権利の強調と徹底」は、『労働運動』同号の一面巻頭の論説である。

 以下、その抜粋要約と引用。

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〈一、形式的な運動〉

 ●「失業防止」の声がだいぶ大きくなってきた。

 ●だが、政府や資本家はこの運動の恐ろしさを充分に感じてはいない。まだ窮迫した失業者の真剣な自覚的運動ではないからだ。

 ●なにがその運動の根本精神を妨げているのだろうか?

 ●指導者らが目の前の小さな効果だけを急ぎ、それによって労働者の信望をつなぎ、自己の野心を満たそうとしているかである。

〈二、権力者と労働者〉

 ●「失業防止労働者同盟」前半、失業の不合理を指摘した点はなんの異存もない。まさにその通りである。

 ●「失業の悲惨を完全に無くする方法は唯だ資本主義の撤廃である」とまではいい。

 ●「現に資本主義が存続してゐる限りは、失業の全責任は資本家階級と其の代表者たる政府の追うべきものである。八十万の失業者は資本家階級と政府に対して生活の保証を要求する当然の権利がある」

 ●だから「吾々は労働階級の当然の権利として、政府に対して失業問題の解決を要求するために一斉に決起しなければならぬ」とある。

 ●なるほど、当然の言い分だ。しかし、労働者の当然の権利を資本家階級が本当に認めるだろうか?

 ●彼らは自分たちの冨を擁護するためには、労働者の正しい権利ぐらいはいつでも一蹴する。

 ●政府は絶対の権力者であり、資本家擁護の機関だ。彼らは厳として労働者の生殺与奪の権を握っているのだ。

 ●「合法的」と称する手続きを踏んで、労働者の正当な「権利」が「恩恵」として「許可」されるまでの月日は容易なものではない。


〈三、矛盾した要求〉

 ●「失業防止労働者同盟」前半は、政府や資本家の横暴や不信をあますところなく糾弾しているが、後半にいたっては譲歩して「最少限度」の六つの要求をしている。

 ●労働者が譲歩の意を示せば、資本家や政府がその意を諒とするとでもいうのだろうか。そんなことはありえないのだ。

 ●なぜ、そんな可能性の少ない妥協的な「要求」を持ち出したのだろうか? 私が腑に落ちないのはその点である。

 ●自覚した労働者は、このような空虚な標語を掲げることを恥とするに違いない。


〈四、飢餓の恐怖〉

 失業は、今に始まつた事ではない。

 労働者は資本家の都合次第で、どんな好景気のときにでも失業する。

 資本家共は労働者や其の家族を飢えに追ひやる事を何とも思つてはゐない。

 まして不景気に際しての解雇にどれ程の責任を感じ得よう。

 労働者は其の失業に対する責任を資本家や政府に問う権利はある。

 しかし彼等の感じない責任をいくら問ふたと処でどうする。

 飢餓に迫られて、人間としてのすべての教養によつて得た誇りを、省みる事の出来なくなつた人間には、此の世の中はどういう風に見えるだらう?

〈五、生きる権利〉

 失業者は、空虚な標語によつて指導者を仰いでの空騒ぎを止めなければならない。

 必要なのはたゞ、失業者がその職を奪はれても、食物をもぎとられても、必ず堂々と生きる道を見出すであらうと云ふことを、権力者に宣言することだ。

 彼等の権力が、その資力が、其の支配が、どれ程大きいものであらうとも、遂に人間の生きる権利を奪ふ事は出来ないのだと云ふ人間の命の貴さに持つ自負を、彼等に示してやる事だ。

 生きる権利!
 
 飢えた人間の、最大の、そして最後の仕事は、其の生きる権利を恥かしめない事だ。

 自分の為めに当然与へられたものを、他人に乞ふと云ふやうな情けない真似をしない事だ。

 どうすれば、誰もが飢えずに、誰もが公平な分け前に与(あずか)り、他人を犯さずに生きていけるか、と云ふ事は、失業したものと、せぬものとの別なく、間違つた制度の下に苦しめられてゐる人間の、等しく考へなければならぬ事だ。

 此の資本家の横暴な支配下に生きてゐる労働者の間には、失業者と失業者でないものとの間にどれ程の隔りがあらう?

 両者の不安は、飢えは、五十歩と百歩の相違もない。

 殆んど同一だ。

〈六、正しい主張〉

 少々の目腐れ金では失業者は救はれないのだ。

 少々の政策の改善では労働階級の飢えは癒されないのだ。

 乞ふて与へられるものには、必ず恩恵が付随して来るのだ。

 自覚した労働者は、かかる侮辱を甘受する忍耐は持たないだらう。

 権利は譲歩から、自屈からは生まれない。

 譲歩は主張を卑しめる。

 生きる権利!

 それのみが凡ての人間に一様に与へられた唯一無二の正しい権利だ。

 そして他人の生きる権利を犯す事は、何よりも許しがたい人間の最大の罪悪である。

 失業者よ!

 諸君は政府や資本家の保護を求める前に、其の仕事を乞ふ前に、諸君が生産した物資が、一切の食物が、何処に処分されつゝあるかを知らなければならない。

 搾取機械にとりすがる前に、先づ考へなければならない。

 失業労働者団結せよ!


(「失業防止の形式的運動に対する一見解ーー生きる権利の強調と徹底」/『労働運動』三次十三号・一九二三年四月一日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 以下、「お花見眼鏡(時事短評)」の抜粋要約と引用。

〈直接行動の流行〉

 ●今から五、六年前だったら、直接行動という文字を書いただけで、雑誌は販売頒布禁止にされた。そのころと比べたら、昨今の進歩は驚くほどだ。

 ●神聖なはずの議会で「ポカポカ」殴り合いをする程度はまだ罪はないが、このごろニョキニョキと台頭してきた反動主義者の直接行動。官憲が彼らの直接行動をありがたがっているにいたっては、呆れるほかはない。

 ●しかし、いわゆる「国粋」を主張する面々によって、直接行動が正当な手段だという風潮になれば、これは結構なことだ。

 ●誰も彼も、他人の手ぬるいやり方を、黙って我慢しているものは少なくなっていくだろう。直接行動! ありがたい流行ではないか。

〈紳士的労働者〉

 ●野心家の社会主義者、そんなのは本当は労働者でもなければ労働者の味方でもない。

 ●「資本家は悪辣横暴の手段で圧迫する、が、僕達はあくまでも紳士的態度でーー」などと、労働運動のリーダーは労働者を指導するが、労働者の真の利害はこの不当な「紳士的態度」と称する屈辱のために犠牲にされている。

 ●いつまでもおとなしくリーダーどものいうことを聞いていても、いつまでたっても「時機が到らない」のだ。

〈抜け目のない利用〉

 水平運動が大分活気を呈して来た。

 結構な事だ。

 吾々は全人類の解放運動の戦線に立つてゐる以上は、その運動への充分な協力はしなければならない。

 しかし、吾々は、水平社の人々と共に局部的なその戦線に立つ必要はないのだ。

 吾々は別の方面で、そして同じ人類の解放運動の上での同志として、お互ひの必要に応じた協力をすれば足りるのだ。

 最近、少し世間の耳目を聳(そばだ)たせる運動があると、抜目なく其の運動に媚びを送つて勢力扶植に余念のないものに、共産党がある。

 彼等は水平運動のその牢固たる結束の力を、其の権力獲得運動に利用しようとするのだ。

 彼等は決して虐げられたる階級の解放の為めに働いてゐのではない。

 彼等は虐げられた者の偉大な反抗の力を利用して、自家の権力を固めようとする、恐ろしい野心の虜となつてゐるのだ。


(「お花見眼鏡(時事短評)」/『労働運動』三次十三号・一九二三年四月一日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)



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2016年12月17日

第399回 ヤキモチ屋






文●ツルシカズヒコ




 大杉は近藤憲二にも便りを書いた。


 No news is good news

(近藤憲二『一無政府主義者の回想』/『大杉栄書簡集』一七四 近藤憲二宛・一九二三年)

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 いろんな奴に会つてみたが、理論家としては偉い奴は一人もゐないね。

 其の方が却つていいのかも知れないが。

 戦争中すつかり駄目になつた運動が、今漸く復活しかけてゐるところで、其の点は中々面白い。

 そして若いしつかりした闘士が労働者の中からどし/\出て来るやうだ。

 此の具合いで進めば、共産党位は何んの事もあるまい。

 共産党は分裂また分裂だ。

 イタリアはフアシストの黒シヤツのために無政府党も共産党もすつかり姿をかくして了つた。

 ドイツは余程、と云ふよりは寧ろ、今ヨオロツパで一番面白さうだ。

 そこでは、無政府党と一番勢力のある労働組合とが、殆ど一体のやうになつてゐる。

 そしてロシアから追ひ出された無政府主義の連中が大ぶ大勢かたまつてゐる。

 ちつとも通信をしないんで編集の方に困つたらうが、こんどは書く。

 もう大ぶ書けさうになつて来た。

(絵はがきの女に)

 どうだい、これなら君の好きさうな女だろう。

 一晩十五円なら大喜びで応じてくれるよ。

 やつて来ないか。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一七五 近藤憲二宛・一九二三年)


「どうだい、これなら君の好きそうな女だろう」は、大杉が近藤に送った絵葉書の「ピンナップガール」のことだろう。





 三月三十一日、野枝からの手紙が届いた大杉は、すぐに返事を書いた。


 前の手紙を書いた翌日は、金のついた知らせが来た。

 思ひがけなく着いたものだから、やつぱりウチが一番有難いなと云つて皆んなに笑はれた。

 尤もどうした間違ひか、あれは銀行へ預金する事になつてゐるさうで、直ぐ手にはいらない。

 それをいろ/\と手を廻して、今朝は受取れる筈だと云つてゐたが、まだ何んの沙汰もない。

 あすは日曜で駄目、あさつても祭日で駄目。

 三日には手にはいるだらう。

 それともう一つの面倒は、銀行でも、郵便局でも、すべて金を受取るのには警察の身分証明書と云ふ奴が要るんだ。

 だから、宛名はやはり実際にゐる人でないと駄目だ。

 で、前便に云つたやうに、これからは総て××××にあててくれ。

 風も腹ももうすつかり治つた。

 が、其後又雨が降りだしたので、まだ本当にいい気持にならない。

 原稿もけふ漸くあとを書き続けたところだ。

 昼飯を食つているところへ、コロンボからの手紙を見たと云ふ、大変なお叱りの手紙がとどいた。

 あなたからあれに似たやうな宣言を受けた事がもうこれで幾度目だらう。

 そして其のたんびに、果してそれは僕の方が悪かつたのだらうか、あなたの方の考へ違いだつたのだらうか。

 僕は後者だと云ひきる。

 あなたはいつもあとでさうだとは云つてゐたが、心の奥底の中ではどう思つてゐたか知らない。

 こんなに幾度も同じ事が繰返されて来るんでは猶更僕には分らなくなる。

 其後又、幾度も同じやうな手紙が船から出されてゐるのだから、あなたの其のいやな気持はたぶん益々つのつてゐるのだらうが、甚だ相済まない気持もすると同時に、僕の方でも少々いやになる。

 もう幾年もの間一緒にゐて、それでまだそんなに僕はあなたにとって不信用な人間なのだらうか。

 そんな時の僕のモツトオはいつも、ぢや勝手にしやがれだ。

 が、其のモツトオをあなたにだけはまだ一度も出した事がないのが僕の弱味だ。

 こんどだつてやはり出せない。

 が、もうそんな話をくど/\とするのはいやだ。

 此の手紙の着く頃には、いやもう其の余程以前に、あなたの心はきつと、もと通りに和らいでゐるに違ひない。

 若しさうでなかつたら、其時には又其時の事だ。

 尤も、今くど/\と其の話をする方が、あなたの或る心を満足させるに違ひない事は分つてゐる。

 しかし、これはお願ひもするのだが、もう少し女らしくなつてくれ。

 あなたの心の中の女の増長をとめてくれ。

 もういいね。

 それとももつと書こうか。

 あなたの事ばつかり考えてゐる、子供の事ばかり考えてゐる、と云ふ嘘つぱちをうんと並べて見ようか。

 そんな事もいやだろう。

 実際僕は、あなたもよく知つてゐる通り、そしてあなたがよく不平を云ふ通り、余計な事(でもないだらうが)はあんまり考へない人間だ。

 考へたつて分らない、又どうとも仕方のない事は、先づ考へない事にきめてゐる人間だ。

 さう修業して来た人間だ。

 今も、実際、ウチの事なぞはそうくよ/\と考へてゐない。

 これからだつて、そうくよ/\と考へさうもない。

 社の事だつてそうだ。

 又日本の運動の事だつてさうだ。

 留守中に何んとかしてやつて行けるだけの方法はとにかくつけて来たつもりだ。

 それが出来る出来ないは、後に残るものの力だ。

 力がなくつて、又は何にかの不慮の出来事で、それが出来なくなつたところで、仕方がない。

 そんな事はウチを出るとうの前からあきらめてゐる。

 だが、やはりもう止さう。

 いくら云つたつてきりがない。

 ここまで書いたところへ、前に云つた金が受取れたと云つて持つて来た。

 これで、先づ大助かりだ。

 あとは、ドイツへ行くヴヰザの問題だが、これは大ぶ難問題らしい。

 まだ何んともきまりがつかない。

 都合では、ベルギイ、オランダ、と廻つてドイツへはいらうかとも思つてゐる。

 あす、あさつての休みが済んだら、自分で警察へ行つて、何んとか話しをつけて来ようと思ふ。

 パリで事を運ばせるつもりだつたんだが、やはり其の前にこつちの警察の証明が要るんだ。

 そして其の警察が又、バカにうるさいんださうだ。

 国境を窃つと抜けてみたいんだが、ほかの先生等が危険を慮かつて中々承知しない。

 警察の方の話がついたら又パリ行きだ。

 それからあとは何処へどうふつ飛ぶ事やら。

 が、行く先の国が変るたびには電報をうつ。

 けふはもう原稿もよしだ。

 これからリオンの町へでも遊びに行かう。

 ここは郊外だ。

 そして靴がもう底に穴があいたから新しいのを一つ買はう。

 百法なら上等のがある。

 子供等にも何にか買はう。

 が、ここから出すのは少し危険だから、パリから送る。

 三月三十一日


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一七七 伊藤野枝宛・一九二三年三月三十一日)





 大杉のコロンボからの手紙を読んだ野枝が、大杉にどんな「お叱りの手紙」を書いたのか、それは不明である。

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』にも學藝書林『定本 伊藤野枝全集 第三巻』にも、「お叱りの手紙」が掲載されていないからである。

 大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』(一九二六年九月八日)が発行された時点で、その手紙が存在していなかったのか、存在したが編集者・近藤憲二の判断で不掲載になったのか、それも不明である。

 大杉がフランス滞在中に受け取った手紙なので、大杉が現地で処分してしまった可能性が高いのかもしれない。

 しかし、野枝さんが大杉にぶつけた怒りのおおよその予想はつく。

 つまり、ロシア人のN婦人との関係を叱ったのだろう。

 しかし、大杉が野枝さんに訴えている「しかし、これはお願ひもするのだが、もう少し女らしくなつてくれ」と「あなたの心の中の女の増長をとめてくれ」の二文が、文意として矛盾しているので、大杉の言わんとすることがちょっとわかりづらい。

「女の増長をとめてくれ」は「不必要な焼きもちをやかないでくれ」の意に受け取れるが、そうすると辻潤が「ふもれすく」に記した「野枝さんは恐ろしいヤキモチ屋であつた」という一文が想起される。


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2016年12月16日

第398回 足下






文●ツルシカズヒコ


 近藤憲二はそれがいつのことかは特定していないが、野枝が駒込の労働運動社の二階で起居していたころの一シーンとして、こんな回想をしている。

 おそらく大杉が日本を脱出していたころのことだと思われる。

 みんな出かけて労働運動社には野枝と近藤しかいなかったある日、反動団体の男たちが四、五人で押しかけて来た。

 階下にいた近藤が玄関に出て行くと、連中は肩をいからし両手を袴の腰のあたりにあてて、馬鹿慇懃な挨拶をし、やがてドヤドヤと上がりこんできた。

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「フーン、こ奴等あばれに来やがったナ」

 そう思った私は、テーブルを背にして、火鉢の近くに陣どった。

 やかんの湯が煮立っている。

 それに、幸い、いま買いに出ようとしていた油の一升ビンが手近にある。

 そいつの底を火鉢のふちでたたきわれば、これも、いよいよのときには武器になる、そう考えていた。

「こいつ、生意気な奴だ、国賊が、きょうは、あやまり証文をとりに来たんだ、書けッ!」

 兄きぶんの奴が怒鳴った。

 一人は、いかにも何かを呑んでいるかのように、懐に手を入れてモズモズさせている。

 一人は、しきりにうしろにまわろうとする。

 何をどう罵り合ったかは今では忘れたが、いい争っているところへ、いつの間にか二階にいた野枝さんがきて、ふすまをパタッとあけた。

「あなた達なにしに来たんだ! 大勢で見っともない!」

「なにを! このアマ!」

 またも暫くもんだが、まもなく奴さんたちは退散した。

 野枝さんはいつの間にか、梯子段のところに、灰をいっぱい入れたバケツをかくしていたのである。

 いざの時に目つぶしをくれるつもりだったらしい。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』・平凡社・一九六五年六月三十日)





 一九六四(昭和三十九)年の春、福岡に取材に訪れた瀬戸内晴美(寂聴)は真子(魔子/当時四十七歳)に話を聞いているが、真子はこのときの野枝の「武勇伝」をこう語っている。


 これだけは、不思議に、一つだけはっきり覚えている場面があるんです。

 何でも父の留守のことで、二階家に住んでいた時でした。

 玄関にどやどや人のけはいがすると、母が珍しく恐い顔をして、私を二階に追いあげ、絶対下へ来ちゃあいけないっていうんです。

 近藤憲二さんが、玄関でしきりに大声でわめきあうようにいっている声がするんです。

 何となく子供心にも怖くなって、二階の踊り場から、そうっと首だけのばして階下をうかがったんですよ。

 すると階段の一番下の段に、母がどかんと真中に腰をかけていて、横に、灰をいっぱい入れたバケツをひきつけているんです。

 その時の母の妙にどかっと坐った恰好と、灰のバケツが、くっきり目の中に残っています。

 怖かった気持と、母の姿が何となく頼もしかったのと、バケツの灰が子供の目にも異様だったんでしょう。

 もしふみこまれたら、灰で防ぐつもりだったんですね。


(瀬戸内晴美・寂聴『美は乱調にあり』/『文藝春秋』一九六五年四月号〜十二月号に連載)


 このときの野枝の「武勇伝」は、四十年のときを超えて、魔子の中にも鮮明な記憶として残っていたのである。





 一九二三(大正十二)年三月二十一日から、大杉はリヨンのオテール・ル・ポワン・デュ・ジュールに滞在していたが、ドイツに入国するための警察からの許可はなかなか下りない。

 大杉栄「入獄から追放まで」によれば、そもそも四月一日にベルリンで開催されるはずの国際アナキスト大会は八月ごろに延期になり、それすらやれるかどうか危うい状況になっていた。

 グズグズしている間に、金はなくなり、おまけに風邪を引き寝て暮らした。

 大杉は野枝に三月一日以来、久しぶりの手紙を書いた。


 直ぐドイツへ行くつもりで二十日にここへ来たのだが、それ以来風引きで寝たきりである。

 尤もパリを出る晩から少しいけなかつたのだけれど。

 風は大した事ではなかつた。

 が、宿のお神さんの親切で、キニンとアスピリンとを飲んだら、すつかり腹をこはして了つた。

 幾度下痢をしたかと聞くから、けふは五度だと云ふとそんな事では駄目だ、もつとうんと下さなければ風は治らない、と云ふのだ。

 とてもたまつたもんぢやない。

 それから、もうお神さんの一切の親切を辞退して、三日間食はず飲まずで寝たきりでゐた。

 それで、けふは下痢もとまつたやうだ。

 風の方も鼻がまだ少しグズ/\云つてゐる位でも殆んどいい。

 それに此の間、実はまるで無一文でゐたのだ。

 パリを立つ時にCに少し貰つて来たのだがHと僕との二人分のホテル代を払つたり、汽車賃を払つたりなんかしてゐるうちに、其の金がすつかり無くなつて了つたのだ。

 Hは南の方に帰つて閉息してゐる。

 又、Cに無心状を出して置いたが、まだ返事がない。

 外国でこんな目に遭ふのもちよつと面白い。

 ここへ来たら、ちようど二月はじめの手紙がついてゐた。

 僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちよい/\見てゐる。

 仲間同志の事や運動の事は、遠くからやきもきした処で何んにもならないから、一切なるがままに任して置かう。

 太つたのはいいね。

 僕は船の中で大ぶ痩せたのが、其後又益々痩せて、カラやシヤツを買ひ代へた位だ。

 そして又こんどの病気でゲツソリ痩せた。

 あの手紙を出した直ぐあと頃に、僕からの電報が着き、猶続いて船中からの手紙が着いたのだらうと思ふが、随分不便なものだよ。

 Yに話したKへの言づては間違つてゐる。

 毎月と云ふのではない。

 ただあの時きりの約束なのだ。

 社での問題の、結局は大衆と共にやるか、純然たるアナアキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷つてゐる。

 純然たるアナアキスト運動と云ふその事にはまだ僕は疑ひを持つてゐるのだ。

 これはヨオロツパで今問題の焦点になつてゐる。

 其の事は通信で書いて行く。

 風で寝た二日目か三日目かに労運への第一回の通信を書き出した。

 そして三十枚近く書いてて熱で殆んど倒れるやうにして寝てしまつた。

 あしたから又其のあとを書き続けよう。

 要するに大会を理解するために、大会前のいろんな形勢を書かうと思ふんだが、それだけでも大分長くなりさうだ。

 改造への通信もまだ未定のあま放つてある。

 これもこんどこそは本当に書きあげる。

 原稿は×××に宛てよう。

 大会は又日延べになつて、処もどこかほかに変る事になつた。

 ドイツではとてもやれさうにないのだ。

 しかし、とにかく僕は今直ぐドイツへ行く。

 ベルクマンエマもゐるやうだし、マフノと一緒に仕事をしたヴオリンなどと云ふ猛者もゐる。

 ロシアの事はベルリンに行かないと分らない。

 本月中には其の手続きが出来さうだつたのが、もう十日位延びさうだ。

 若し出来なければ窃つと国境を歩いて、越さうと思つてゐる。

 それもイタリイとイギリスへ行けば僕の用事は大がい済みさうだ。

 大会が延びるなら延びるで、其の前に出来るだけあちこち廻つて来たい。

 愚図々々して大して研究すると云ふ程の事もなささうだ。

 材料だけ集めれば沢山だ。

 一年の予定は多分もつと余程縮まるだらう。

 前の手紙で金を千円つくつて送るように書いたが、都合では其の半分でもいい。

 電報為替で。

 そしてそのあとは、改造の原稿料だけを普通の為替にして送る事にしてくれ。

 毎月三百円は欲しいのだが、二百円位しか書けない。

 宛名は以後すべて所は同じで Monsieur T. John. としてくれ。

 そして手紙ならそのそばに漢字で章先生と書いて置いてくれ。

 フランスに来てから殆ど毎日雨ばかりだつたのがーーちようど雨季だつたのだーー三四日前から晴れて、大ぶ春らしくなつて来た。

 パリの街路樹が新芽を出す頃は随分よからうと思ふのだが、其頃は暗いドイツにゐさうだ。

 フランスの景は実に明るい。

 都会でも田舎でも、重苦しいやうな処はちつともない。

 足下や子供等のからだにつけるもののいろんな寸法(メエトル)を知らしてくれ。

 二百円もあればいい加減にトランクに一ぱいほど買へよう。

 もう目がまいさうだ。

 二月号の労運見た。

 三月二十八日


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一七三 伊藤野枝宛・一九二三年三月二十八日)



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2016年12月13日

第397回 Vous avez une raison






文●ツルシカズヒコ



 林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、一九二三(大正十二)年三月十八日、この日の夜の汽車でリヨンを発った大杉と林は、三月十九日の朝、マルセイユに着いた。

 ふたりは大杉がアンドレ・ルボン号でマルセイユに着いた日に泊まったホテル・ノアイユに宿を取り、そこでマダムNの行き先を聞いてみることにした。

 マダムNの滞在先はマルセイユの町外れにある、素晴らしく広い立派な庭園の中の貸し別荘のひとつだった。

 大杉はマダムNの話をするとき、何か妙に面映い顔で「別嬪じゃないよ、もうお婆さんさ」と言っていた。

「まあ、井上さんよく来て下さいましたわね」

 マダムNが「井上さん」と呼んでいる大杉の突然の訪問は、彼女をひどく驚かせたようだったが、彼女は悦びのあふれた顔を生き生きさせて大杉を歓迎した。

 大杉が言ったように、マダムNは綺麗とは言えなかったが、お婆さんというほどではなく、三十六、七に見えた。

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 マダムNが昼食の準備をしている間、大杉と林は広い庭に出て散歩をした。

 大杉はマダムNになにもかも話しているのだと言った。

 彼女は大杉を「井上さん」と呼んでいるが、その正体が大杉栄であることも知っていれば、彼の思想も日本人のパスポートを持っていないことも知っていた。

「僕にね、革命家なんて止めろと言うんだよ、そんな危険なことをせずに、学者として安全な道を歩めって勧めているんだ。そんなことはできないっていくら言っても、そこは解らないのさ。僕がその気になるかと思って、まだ今日なんかも言っているんだぜ、弱るね」

 大杉はそう言って笑っていた。





 ふたりが深い草の中を散歩していると、マダムNが食事の準備ができたからと迎えに来た。

 食事は純ロシア料理のすこぶる質素なものだった。

 食卓はマダムNと大杉と林、病人を診察に来たロシア人の医者の四人だった。

 マダムNのフランス語は流暢だった。

 しかし、日本に一年近く滞在したことがあるという彼女は、日本語がほとんど話せなかった。

 食事がすむと、マダムNは大杉と林を庭に誘った。

 マダムNはしきりに林に同意を求めるように言った。

「ねえ、林さん、あたなはどう思います? 私の方が真実でしょう」

 林は大杉とマダムNの話の内容がよくわからなかったので、いいかげんな返事をするしかなかった。

 最後に家に入ろうとしたとき、彼女は再度、林に同意を求めた。

 林はよくわからなかったが、その場を取り繕うように答えた。

「C'est vrai(そのとおり)」

 マダムNはニコニコして大杉の方を振り向いて言った。

「どうです、ハヤシさんも私の意見に賛成してるじゃありませんか」

 すると大杉は即座に、こうやり返した。

「なあに、ハヤシは Vous avez une raison(それも一理ある)と言ったのですよ」

 大杉は林宛ての「脱走中の消息」で林がマダムNに「C'est vrai(そのとおり)」と答えたと書いているが、林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」によれば、林は「Vous avez raison」(そのとおりです)と答えたと記している。

 ちなみに「C'est vrai」の英訳は「It's true」であり、「Vous avez raison」は「You are right」、「Vous avez une raison」は「You have a reason」。





 三月二十日、大杉と林はホテル・ノアイユには一泊しただけで、マルセイユを去ることにした。

 林は午後三時の汽車でアンティーブに、大杉は夜の汽車でリヨンに向かうことにした。

 昼食後、林はもう一度マダムNを訪ねるという大杉と別れた。

 大杉はマダムNに会いに行き、林に手紙を書いた。


 やつぱり今日は行くんぢやなかつた。

 きのふのまゝで分かれて了へば、大ぶ甘いロマンスとして其の記憶が残るんだつたらうがけふはもうそれをすつかり打ち毀はして了つた。

 誰にも話してない、又今からも話さない、と云ふ筈だから、其のつもりでゐてくれ。

 もう疲れ切つた。

 マルセイユはいやな処だ。

 アンチーヴはいゝ処であつてくれ。

 マダムは君の事を大変 sympathique だと云つてほめてゐた。

 例の C'est vrai が余程お気にめしたものらしい。

 そして僕が更にそれを説明して、Vous avez une raison と云つた事を、僕が一人ぎめで付け加へたものと考へてゐるようだ。

 又其間違で、そしてこんどはうんと立ち入つて三時間程庭でおしやべりした。

 僕はこれで、外国人とは二度目のプラトニツクだ。

 がプラトニツクはもういやだ。

 バル・タバランのダンスーズの方がよつぽどいゝ。

 二十日午後八時

 今リオンに着いた。

 又あの色つぽい女の処にでも当分ゐよう。

 二十一日朝


(『改造』一九二四年六月号・林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「脱走中の消息」/『大杉栄書簡集』一六九 林倭衛宛・一九二三年三月二十一日)





 三月二十一日の朝、リヨンに着いた大杉は警察本部に行き、ドイツ行きを願い出た。

 その許可がなければ、ドイツ領事にビザを発行してもらえないからだった。

 警察本部の外事課の旅券係によれば、一週間後ぐらいに許可証は間違いなくできているという。


 で、僕は出立の日まできめて、すつかり準備をして、其の日を待つてゐた。

 ドイツに関する最近出版の四五冊の本も読んだ。

 ドイツ語の会話の本の暗唱もした。

 おまけに、帰りにはオオストリイ、スヰツル、イタリイと廻るつもりで、イタリイ語の会話の本までも買つた。


(「入獄から追放まで」/『改造』一九二三年九月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 一週間後の三月二十八日、大杉が警察本部の外事課に行くと、二、三日中に改めて出頭せよという。

 四日目に行ってみると、許可証は出ていなかった。

 その後、警察本部に日参する大杉だったが、一向にらちがあかない。

 その間、当局は大杉本人はもとより、大杉が宿泊している宿の主人や林のことまで取り調べているようだった。

 大杉はだんだん不安になりだした。

 いっそのこと合法的な手続きをうっちゃって、国境越えをしようかとさえ思ったが、もし何かの間違いがあれば、責は世話をしてくれているリヨンの中国人同志にまで及ぶので、それもできない。

 大杉は不安と不愉快の日々を過ごすことになった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 23:32| 本文

第396回 バル・タバラン






文●ツルシカズヒコ




 一九二三(大正十二)年三月三日、大杉の宿を訪ねた林倭衛は、とりあえず昼飯でも食おうかと大杉と連れ立って宿を出た。


 はからず斯うして巴里の街を彼と肩をならべて歩いてゐるのが、いまさら不思議な事のように想はれてきた。

 夢のように懐しんでゐたものが、卒然として目の前に現はれた。

 何にから語そうか、つい順序もなく断片に話し乍ら、ひとり嬉れしい気分になつた。

 今、彼とのこの不思議な邂逅によつて、譬へ一時的なものにしろ、鬱積してゐた悩ましい蟠(わだかま)りが苦もなく解けてゆくのであつた。


(林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」/『改造』一九二四年六月号)

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 大杉は林と相談し、その日のうちに、ベルヴィル通りにある木賃宿からモンマルトルのホテル・ビクトル(ヴィクトル)・マッセに移った。

 二階の部屋で大杉の向かいの部屋には、林も投宿することになった。

 現存しているホテル・ビクトル(ヴィクトル)・マッセについては、松本伸夫『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(p101)に詳しい。

 大杉と林は連れ立ってまるで地廻りのように、夜のモンマルトルの盛り場のカフェを渡り歩いた。

 カフェで林は酒を飲んだが、酒の飲めない大杉は一軒の店で二杯も三杯もコージーをお代わりをし、それと同じことを二軒も三軒もはしごする店でやった。

 あるとき、大杉と林がカフェに座りこんでいると、林を知っている女が入って来た。

 女は大杉と林のテーブルに座りこんで、なかなか動きそうもない。

 退屈していた大杉と林が適当に相手をしていると、女は大杉の腕時計に目をつけ、ちょっと貸してくれと言って自分の腕に巻きつけた。

 その腕時計は、三年前に大杉が上海に密航したとき、野枝に上海土産として買って帰ったものだった。

 今回の国外脱出に際して、大杉はその小さな金時計を野枝から借りて来ていた。





 その内に女が時計を呉れと云ひ出した。

 僕は冗談に云つてゐるものと思つてゐたら、大杉は、そんなに欲しければ興るよと云ふのだ。

 よせ/\莫迦ばかしいぢやないかと、夫れに君のぢやないと云つて居るではないかと僕がとめると、何あに、帰つてから訊かれたら紛失したと云へばいゝさとその彼女に興つて仕舞つた。

 女は寧ろ意外に思つたらう、それを貰ふとさつさと出て行つて了つた。

 彼はそれから帰へるまで時計がなかつた。


(同上)





 大杉と林はホテル・ビクトル(ヴィクトル)・マッセの近くの踊り場(キャバレー)、バル・タバラン(BAL TABARIN)にも繁く通い、ふたりのめぼしい専属踊子とそれぞれ仲良くなった。

 大杉は「どうだい二人であれを引き連れて帰ろうか、そしてあの踊りをやらせれば、そのくらいの費用は出るぜ」などと冗談を言い、ご機嫌だった。

 永井荷風がパリで過ごしていたのは一九〇八(明治四十一)年の春ごろだった。

 荷風はバル・タバランについて、こんな記述をしている。


 バル・タバランは夜の戯れを喜ぶ人の、巴里に入りて、必ず訪ふべき処の一つなるべし。

 肉楽の機関備りて欠くる処なきモンマルトルにある公開の舞踏場なり。

 土曜には殊更に、夜の十二時打つを合図にいと広き場内をば肉襦袢の美女幾十人、花車を引出て歩む余興もありと聞きて、われも行きぬ


(永井荷風『新編ふらんす物語』_p211/博文館・一九一五年十二月一日)





 モンマルトル近辺に住んでいる日本人はほんどいなかったし、ときどき街を歩いているときに林の知り合いの日本人に遭遇しても、林は大杉を「安部」という名前で紹介したので、林の同行者が大杉だとは誰も気がつかなかった。

 ふたりはパリの日本人が多く住むエリアには近づかなかった。

 大杉の部屋をちょいちょい訪問していたのは、若い支那人の無政府主義者のLだった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』は、Lを李卓と推定している。

 昼も夜も遊び暮らした大杉と林だったが、それにも少し飽きて来たころだった。

 日本からパリの日本大使館に、林の行動や素行を至急取り調べろという電報が三週間も前に来ているが、パリの日本大使館では取り合っていないという情報が林の耳に入った。

 ようするに、林を調べれば大杉がフランスに来ているかいないかが判明するという、日本当局の思惑のようだった。

 大杉栄『日本脱出記』によれば、「これはあとで、メエデエの日の前々日かに、パリでそつと耳にした話だが、実は其時既に、日本政府からドイツの大使館に僕の捜索命令が来て、そして其の同文電報がドイツの大使館からさらにヨオロツパ各国の大使館や公使館に来てゐたのだそうだ」。

 四月一日にベルリンで国際アナキスト大会が開催されることになっていたので、大杉はそれまでにドイツに行かなければず、この時点でパリで見つかるわけにはいかなかった。

 大杉がリヨンで申請したドイツに入国するための旅券(ビザ)も、そろそろ受け取れるころだった。





 三月十六日の夜、外出していた林がモンマルトルのホテル・ビクトル・マッセに帰ると、大杉が林の部屋に入ってきた。

 この日、大杉がリベルテール社に行くと、マルセイユに滞在している例のロシアの婦人からの手紙が同社に届いていた。

 どういうわけか、ひと月も前に届いていた手紙だった。

 リヨンからは、ドイツに入国するための旅券(ビザ)も受け取れるという手紙も来ていた。

 三月十七日の夜に汽車でパリを発った大杉と林は、三月十八日の朝にリヨンに着いた。

 ふたりは章謦秋(章桐)夫妻の宿を訪れ、夫妻が中仏大学に行く時間が来ると、大杉が宿泊していたオテール・ル・ポワン・デュ・ジュールのカフェに行き朝飯を食った。

 昼飯は中仏大学前の支那料理屋で、章夫妻やその仲間たちと一緒に食べた。

 昼食後、大杉はソーヌ河岸の警察に立ち寄って旅券を受け取った。

 夕食も一同が支那料理屋に集まり、賑やかな晩餐会になった。

Bal Tabarin (1929)





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2016年12月10日

第394回 パリの便所






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年三月一日、大杉は野枝に手紙を書いた。

 パリに来て十日近くなったこと、リベルテール社でコロメルに会ったこと、そして女性のイタリア人同志の案内で、彼女が宿泊しているリベルテール社のすぐ近くのホテルに投宿したこと、パリの街の様子、中国人同志とのミーテングなどについて、大杉は野枝に手紙で知らせた。


 ホテルと云ふと立派なやうだが、しかもグランドホテル何んとかと云ふのだが、実は木賃宿だ。

 僕の室は三階の六畳敷位の室だが、フアニチュア付で一ケ月百十法(フラン/十五円ばかり)だ。

 ガスがあつて自スイの出来るようになつている。

 リオンから日本語のうまい支那の同志を一人連れて来てゐるので、そいつと二人で自スイをやつてゐる。



(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六八 伊藤野枝宛・一九二三年三月一日)


 大杉と一緒に自炊をしていたのは、リヨン中仏大学学生の章謦秋(章桐)で、大学の無政府主義者のリーダー格である彼は、国際アナキスト大会の中国代表だった(林倭衛「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」『改造』一九二四年六月号/『中国アナキズム運動の回想』)。

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 大杉は外食するためにホテルの近辺を歩いてみて驚いた。


 此の辺はまるで浅草なのだ。

 貧民窟で、淫売窟で、そしてドンチヤンドンチヤンの見世物窟だ。

 軒なみにレストランとカフエとホテルがあつて、そして人道には小舎がけの見世物と玉転がしや鉄砲で何かあてる変な屋台店ばかりが並んでゐる。

 そしてそれが皆な浅草のよりももつと下等で、そこへうぢようぢよ寄つて来る人間も日本のよりももつと下等なやうな気がする。

 浅草と云ふよりも寧ろ、九段の祭りの時のやうなものだ。

 九段の祭りと云つても、もう十年余り或はそれ以上にも行つた事はないが。

 そして其の到る処に、やはり日本のよりももつと汚ない(顔も風も)やうな淫売がうようよしてゐる。


(同上)


 外食は一品料理店では一品二、三十サンチームから一フラン半ぐらいまでで、日本円で一円あれば鱈腹食えた。

 定食のある店では、三品か四品で二フラン半、三フラン、三フラン半くらいだった。


 そして、食つてゐる間にも、あちこちに淫売が陣どつてゐて、切に目でいろんな相図をする。

 一寸でも其の方を見つめてゐると、直ぐそばへやつて来て、坐りこんで、カフエを一杯勝手に注文する。


(同上)





 パリに到着した翌日、二月二十一日ごろから四、五日間、大杉は章の仲介でパリや近郊の中国人同志と接触し、ミーテイングをした。


 翌日、郊外にゐる支那の同志連を訪問した。

 自動車でパリのちようど目抜きの大通りを通つたが、そこで始めて僕はパリに来てゐるのだと云ふ気がした。

 それまでは、どこも分らない、ただヨオロツパの文明のはいつている野蛮国にでもゐるやうな気がしてゐたのだ。

 其の後は殆んど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。

 リオンにも十人ばかりゐたが、ここにも二十人ばかりゐる。

 それを纏めてしつかりした一団体をつくらせようと思ふんだが、随分骨が折れる。

 しかしもうほぼ纏つた。

 そしてベルリン大会のあとで、此の支那人連の大会をやる事にまでこぎつけた。

 パリから四五時間かかる田舎の農学校にも大分同志がゐるので、そこへも四人連れで行つた。

 しかし、もう其の方の用事はほぼ済んだので、リオンからの先生もきのふ帰つた。

 そしてゆうべから一人ぼつちになつて、暫く目でいい気持で寝た。


(同上)


 松本伸夫『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(五十四頁)によれば、「郊外」はラ・ガレンヌ・コロンブ(国鉄名はコロンブ)、「田舎の農学校」はモンタルジ農業学校。






 この間に、ジェルメーヌ・ベルトンと親しかったイタリア人の女性同志は、ホテルから追い出された。


 警察のうるささは、ほとんど日本と違はない。

 或る点ではこつちがもつとうるさいかも知れない。

 リベルテエル社の前には二人か三人制服が見張つてゐる。

 三日ばかり前の晩に、同志の音楽会と芝居とに行つて見たが、其の入口には十人位の憲兵が見はつてゐた。

 しかし、何よりも先づ厄介なのは、外国人は勿論、一切の内国人ですらも、皆な其の居住地の警察の身分証明書を持つてゐなければならない事だ。

 それがないと、直ぐ罰金か牢屋だ。

 フランスへはいればもう大丈夫だと思つて来たが、此の分だと頗る危険だ。

 が、大会の済むまでは捕まりたくないものだ。


(同上)





 なお、大杉がリベルテール社のすぐ近くのホテルとは名ばかりの「木賃宿」の便所について言及しているのが、「パリの便所」である。

 大杉が宿の女将に便所の場所を尋ねると、二階の梯子段のところにあるという。


 が、その便所へ行って見ておどろいた。

 例の腰をかける西洋便所ぢやない。

 たゞ、タゝキが傾斜になつて、その底に小さな穴があるだけなのだ。

 そしてその傾斜の始まるところで跨ぐのだ。

 が、そのきたなさはとても日本の辻便所の比ぢやない。
 
 僕はどうしてもその便所では用をたす事が出来なくて、小便は室の中で、バケツの中へヂャア/\とやつた。

 洗面台はあるが、水道栓もなく従つてまた流しもなく、一々下から水を持つて来て、そしてその使つた水を流しこんで置く、そのバケツの中へだ。

 僕ばかりぢやない。

 あちこちの室から、そのヂャア/\の音がよく聞える。

 大便にはちよつとこまったが、そとへ出て、横町から大通りへ出ると、すぐ有料の辻便所があるのを発見した。

 番人のお婆さんに廿サンテイム(ざつと三銭だ)のところを五十サンテイム奮発してはいつて見ると、そこは本当の綺麗な西洋便所だつた。

 貧民窟の木賃宿だから、などゝ、日本にゐて考へてはいけない。

 その後、パリのあちこちをあるいて見たが、かうした西洋便所ぢやない、そして幾室或は幾軒もの共同の、臭いきたない便所がいくらでもあるのだ。

 そして田舎ではそれがまづ普通なのだ。


(「仏京に納まつて」/『東京日日新聞』一九二三年六月二十二日〜六月二十五日『日本脱出記』「パリの便所」・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)


「パリの便所」は「仏京に納まつて」というタイトルで『東京日日新聞』に掲載されたが、単行本『日本脱出記』に収録する際に「パリの便所」と改題された。



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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