2016年11月28日

第391回 おいねさん






文●ツルシカズヒコ



『労働運動』三次十一号(一九二三年二月十日)に、野枝は「日本機械工組合の内紛ーー機械工組合の新陣容 関東機械工組合の創立」、「恐くないロシア」、「行衛不明」を書いた。

「恐くないロシア」は、ヨッフェ・ソ連極東部代表の来日について言及している。

 ヨッフェは、日ソ国交回復について会談するため、後藤新平の招きで二月一日に来日した。

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 大杉の行方についてはいろいろな報道や噂があった。

 当初、警視庁の話では、十二月中旬から風邪で寝ていた大杉がいつのまにか抜け出し、年が押しつまってから大騒ぎを始めたが、上海で捕まって二十日間の拘留後、一月末には帰るはずだった。

 しかし、少し経つと話が違ってきて、北京にいてロシアからの申し出で、山川、堺の了解の下に片山潜に会いに行くことになった、所在はわかったが警視庁は捕らえることはしないという。

 警視庁から旅券と金をもらってドイツに行ったという噂も流れた。

 雪に埋もれた越後赤倉の温泉で悠々自適に著述に耽っているという新聞報道もあった。





 かうなると留守居連も豆鉄砲の包囲に会つた鳩よろしく、目ばかりパチクリだ。

 だが、何といふ結構づくめな話だらう。

 ロシアへ行つてシコタマ金を持つて来るだらうといふのも耳よりな話なら、何しに行つたか知らないが、とても手に入りさうもない旅券と、たんまり貰つた金で、マルク暴落のドイツを大名旅行も至極結構な話。

 又温泉で、天下の騒ぎを他所(よそ)に悠々自適もまんざら捨てたものぢやない。

 これがみんな本当だつたら福徳の三年目だけれど。

 尤も、警視庁の話には、もし大杉がボルに宗旨がへをしなければ生きてロシアを出る事は出来まいと云ふ不吉な話もあるにはあるけれど。

 さて此の噂の御本尊は一体何処におさまつてゐるか。

 何をしてゐるか。

 此処に種をあかしたいのは山々だが、実はまだ本人から一回も通信もない。

 其処で、やがては来る其の通信を待つて、来月号には、其の行動を明かにする事が出来ようと思ふ。

(一・二五)


(「行衛不明」/『労働運動』一九二三年二月十日・第三次第十一号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





『労働運動』二月十日号が発行されたころ、大杉が乗船しているアンドレ・ルボン号は地中海を航行していた。


 地中海にて

 地中海はいつも荒れるので有名なところだ。

 大いに恐れをなしてゐたが、案外静かだ。

 尤も、紅海でちよつと荒れた時位には、いつも船が動揺してゐる。

 しかしまだ一度も吐かない。

 飯もいつも通り食つてゐる。

 けさ起きると直ぐ、イタリイとシシリ島の間の狭い海峡を通つた。

 いよ/\ヨオロツパにはいつたのだ。

 エトナ山は盛んに煙を吐いてゐた。

 今も或る火山島の直ぐそばを通つてゐる。

 長い間の船ももうあしたでおしまひだ。

 あさつての朝は早くマルセイユに着く。

 何よりも先づ、船の中の食事のまづかつた補ひに、うんとうまいものを食ひたいと思ふ。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六五 伊藤野枝宛・一九二三年二月十一日)





 船中の食事は、朝はパンとコーヒーかミルク、昼と晩は三皿、昼はチーズがつくが、バターは一週間に一度しかつかなかった。

 大杉は砂糖気に飢えていた。

 三等にはお茶が出ないので、毎日四時になると、大杉は一等の例のマダムのところへお茶をご馳走になりに行った。

 マダムにはロシア人のお供がひとりいたが、フランス語ができないので、大杉はマダムからニースまで一緒に行かないかと誘われた。

 大杉はマルセイユに着いたら電報を打ち、もし大会が終わっていたら、一週間ばかりニースに滞在することにした。


 ニイスはイタリアの国境に近い、フランス第一の好避寒避暑地だ。

 そこへロハでうんといいホテルに泊つて、まだ書き残してある原稿を書くのも悪くはない。

 尤も御亭主がすつかり衰弱してまるで動けないのだから、マルセイユへ行つてからの都合で、どうなるかまだよく分らない。

 時間がなくて、行きたいと思つてゐたカイロへ行けなかつたので、ポオトサイドで其の写真帳を買つた。

 魔子へのお土産にフランスから送らう。

 ポオトサイドではエヂプト煙草やトルコ煙草が馬鹿に安いのでうんと買ひ込んだ。

 尤も百本以上はマルセイユで高い税金をとられるさうだから、何んとかしてうまく持ち出さなくちやならない。


(同上)





 大杉はカイロでピラミッドを見に行きたかったのだろう。

 魔子へのお土産に買った写真帳は、ピラミッドの写真帳と思われる。

 アンドレ・ルボン号がマルセイユに着いたのは、二月十三日の早朝だった。


 リオンにて 十六日正午

 十三日の朝早くマルセイユに着いた。

 前文を書いてからそれまではキヤビンの中にばかり閉ぢこもつてゐた。

 大して荒れたわけでもないが。

 マダムのニイス行きが少し延びる事になつて、僕は一日マルセイユ第一のホテルにお客となつて、翌日リヨンに来た。

 おいねさんは受取つた。

 二、三日中にパリへ行く。

 会は注文通り四月一日に延びた。

 きょう××宛で電報を打つ。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六六 伊藤野枝宛・一九二三年二月十六日)


「おいねさん」は『大杉栄書簡集』によれば「金の意味の符牒か」。


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2016年11月27日

第390回 アナナス






文●ツルシカズヒコ



 一九二三(大正十二)年二月、野枝は実家に手紙を書いた。


 久しく御無沙汰を致しました。

 其後皆様お変りもございませんか。

 叔母やエマがいろ/\お世話になつてゐる事と存じます。

 実はもつと早くおたより申上げる筈のところ、実は私が突然帰りましたのは大杉外遊の為めで、旧冬中は其の準備に忙殺され、出立と同時に子供が代りばんこに病気を致しまして、一月中は人出なしのところに、赤ん坊の病気で殆ど不眠不休に続いて、雑誌の編輯といふ訳けで、今まで殆ど寸暇もない有様でしたので、気にかかりながらも失礼してしまひました。

 大杉は旧冬中に立つて、先月末ヨオロツパに到着しました筈で、来春帰る予定です。

 何分急の事でしたので、後々の事もろくに相談が出来ず、内外一切のことを委されてゐますので、今までの呑気に引きかへて急に責任が重くなり弱つてゐます。(以下紛失してなし)

 野枝

 父上様


(「消息(伊藤)」「大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 伊藤亀吉宛」一九二三年二月推定『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

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 二月初旬、大杉はジプチから野枝に手紙を出した。


 コロンボを出てから七日目、あしたは漸くジプチに着く。

 ジプチと云つても分るまいが、紅海のはいり口の、アフリカの仏領のごく小さな港だ。

 イギリスや日本の船だと、大がいその向こう岸のアデンに着くのだ。

 七日は少しうんざりする。

 しかし、あともうジプチとポオトサイドの二つしか港がないんだと思ふと、大ぶ心強くもなる。

 もう十日でマルセイユだ。

 コロンボでは碇泊時間が短かかつたので遠出は出来なかつたが、近郊だけは走り廻つて見た。

 そして新聞を買つて見て、フランス軍がドイツのルウル地方を占拠した事を知つて、内心大いに喜んでゐる。

 そんな事で或は大会が遅れるかも知れない。

 船の中では毎日其の話で持ちきつてゐる。

 そしてきのふからは、フランスが一部の動員をしたと云ふうはさが広まつてゐる。

 それだと僕にとつては猶いい。

 願はくば一度戦争が始まつて欲しい。

 そしていろ/\面白い事を見たい。

 が、ロシア人共は大恐慌だ。

 若し戦争が始まれば、フランスやスヰツルにゐる旧政府の大官共がきつとロシア人を動員してフランスを助けるに違ひない。

 そんな目に遭つちや大変だ。

 と云ふので、中にはすつかりふさぎこんでゐるものもある。

 僕はポオトサイドで降りようかしら、などと云つてゐるものもある。

 きのふの夕方近くから、始めて船が少し揺れた。

 僕は例の通りで、直ぐキヤビンで横になつたが、しかし夕飯は食堂へ食べに行つた。

 西洋人の女が一人と支那人が一人とのほかは皆んな出て来てゐた。

 しかしそれもゆうべ寝てゐるうちにすつかり治つて了つた。

 けふは大ぶ勉強して、デツキ・パツセンジアのあとを書き続けた。

 ポオトサイドまでには書いて了ひたいと思ふが、あてにならない。

 コロンボで買った人間の頭位ゐの大きさのアナナスの貯へが尽きて閉口してゐる。

 アナナス、バナナ、僕はこんなにうまい果物をこんなにうんと毎日食つただけでも、こんどの旅行は十分に値打ちがあると思つてゐる。


(「脱走中の消息」大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六二 伊藤野枝他宛・一九二三年)





 以下、大杉の紅海航行を伝える手紙である。


 紅海にて

 ヂブチには夜着いて朝早く出帆したので何も見る事が出来なかつた。

 尤も、ごく小さな町で、ほんの石炭を積み込むに寄るところなので、別に見るものも何もないんださうだ。

 紅海と云つたところで別に赤くはない。

 やつぱり青い海だ。

 ほんの小さな、狭い海かと思つてゐたが、所々に島が見えるだけで、両岸はちつとも見えない。

 そして此の紅海にはいつてから、此の航路での最初の暴風に会つた。

 ヂブチを出た翌日の夕方から始まつて、次の日の朝には静かになつたが、始めて僕は朝食を食ひに食堂へ行かなかつた。

 しかし吐いたり唸つたりする醜体は演じなかつたからえらいものだ。

 けふうはこの紅海が大ぶ狭くなつて、アフリカとアラビアの両方の山が見える。

 多分シナイ山だらうと云ふのも見た。

 あすの朝はスエズだ。

 そこには寄港しない事と思つてゐたら、やはりちよつととまるらしい。


(「脱走中の消息」大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六三 伊藤野枝他宛・一九二三年二月六日)






 以下、大杉のスエズ運河の航行を伝える書簡である。


 スエズ運河にて 七日夜

 朝起きて見たら、とうにスエズに着いて船はとまつてゐる。

 が、上陸する時間はなく、朝食を食つてゐる最中に船は運河の中にはいつた。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六四 伊藤野枝他宛・一九二三年二月七日)



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2016年11月23日

第389回 仏歯寺






文●ツルシカズヒコ

 一九二三(大正十二)年一月中旬ごろ、大杉は安南(ベトナム)から国外脱出後、最初の便りを野枝に書いた。


 此のおどり子の顔はちよつときれいだが、安南の女ときたらとても見られたものでない。

 女も男もみなおはぐろをつけてゐるが、女は殊にこれが甚だしい。

 そして彼女等はよく道で唾をするが、その唾がおはぐろの色そのままの黒ずんだ朱のやうな色だ。

 到る処のペエブペントに此の唾のあとが点々としてゐる。

 そして皆なまるで乞食のやうな生活をしてゐる。

 これは安南の旧王朝のおどりだが、ちよつと日本のおどりと似たところがあるやうだね。


(「脱走中の消息」 野枝子・外諸兄宛(絵はがき)/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六〇 伊藤野枝他宛・一九二三年)

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 大杉は絵葉書を出したようだが、「おはぐろ」と書いているのは檳榔(ビンロウ)のことであろう。

「ロシアへ行つたか 大杉氏の国外脱走 一ヶ月前から日本に居ない 警視庁大狼狽を極め 秘し隠しに隠して八方大捜索」という見出しで、大杉の国外脱出を報じたのは、一月二十日『読売新聞』だった。


 大杉氏は……十二月中旬風邪を引いて寝てゐたが警視庁が同氏の居ないことを知つたのは夫れから僅数日後の二十二日で所轄本富士署に輪をかけた狼狽振りで殊に山田特別高等課長は着任早々の大痛事とて秘し隠しに隠して八方大追跡を始め満州里(マンチユリア)、上海等の国外の関所の警戒厳重を極めてゐるが、未だに何の手係も無い。

(『読売新聞』一九二三年一月二十日・五面)


「野枝氏の謎の笑ひ 一と月もすれば分るでせう」という見出しの野枝のコメントも載っている。


『もう一と月も経てば何処へ行つたか分るかも知れません、案外そこらの温泉で原稿でも書いてゐたら面白いでせうね』

 と謎の様に笑つて

『警視庁では北京にゐるが態(わざ)と捕まへないのだとか、ロシアへ行つたのだ、そして米国を廻つて帰るつもりらしいがうまくロシアを出られるかどうかなどと心配してゐて呉れます。

 さうかと思ふと確に欧州航路にテイ・コジマと名乗つて乗り香港で船を乗り換へる為に降りた事が分つたと言つたりしますが定めしそのテイ・コジマといふ人は大杉と間違はれて、ひどい目に会つたことでせうがお気の毒です』


(同上)





 一月末、大杉はコロンボ(スリランカ)から野枝に手紙を出した。


 印度洋にて

 今晩コロンボに着く。

 着いたらそこから出すつもりで此の手紙を書く。

 僕がフランスに着いてからそちらへ届くのだから、もう心配はない。

 漸くあともう二週間と少しになつた。

 此の分ならどうやら無事に着けさうだ。

 上海でのことはいろ/\聞いたらうから別に書かない。


(「脱走中の消息」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一六一 伊藤野枝他宛・一九二三年)





 大杉が「上海でのこと」を書かなかったのは、野枝が山鹿からいろいろ聞いただろうと思ったからだ。

 船は三等だが日本の船の二等のような感じで、ふたりで一室、大杉が上のベッドで下のベッドは支那の若い学生だった。

 その支那の学生は少し英語を話すので都合がよかったが、「少し馬鹿でね、折々なぐってやろうかと思うことがあるが、辛棒している」。

 食堂でも支那の男女学生十一名と大杉がひとつの卓だった。

 支那の学生たちもみなマルセイユ行きだった。

 大杉は香港から夏服に着替えたが、それでも汗だくになるので、一日中デッキに出ていた。

 狭いデッキがみんなの籐椅子でいっぱいだったが、キャビンの扇風機ではとてもたえられない。

 大杉は昼は三等のデッキで過ごしたが、夕飯後は四等のデッキ・パッセンジャーのデッキに遊びに行った。

 そこにはシベリアから来たロシアの学生がたくさんいて、大杉は彼らといい友達になった。

 ロシアの学生たちはたいがい英語が少し話せ、フランス語を話す奴も二、三人いた。

 大杉は彼らのことをペチカ(ピーター)、ミンカ(ミハエル)だのと呼び、彼らは大杉をマサチカ(正一)と呼んだ。

 大杉は中国人になりすましていたが、彼らの間では日本人であり、寄港地に上陸するときもたいがいは彼らと一緒だった。





 そして、大杉はその学生のひとりの紹介で、一等にいるロシアの五十に近い貴婦人と知り合いになった。

 夫は七十に近い総領事で、リュウマチで一日中寝ている。

 貴婦人は太ってもいず、身長も鼻も高くないので、西洋人らしい圧迫を大杉に感じさせなかった。

 一年ばかり夫婦で七里ケ浜にいたという。

 大杉は婦人の望みで毎日二時間ばかり、彼女に日本語を教えた。

 ふたりの会話はフランス語だったから、大杉にとっては彼女はいいフランス語の先生だった。

 この婦人のおかげで、大杉は上陸するたびに車に同乗させてもらった。


 モスクワ大学で歴史を専門にやつたとか云つてゐるが、切りに民衆の生活を見たがつて、田舎へ遠乗りしては百姓家などにはいつて見る。

 僕が漢文の筆談でいろ/\用を足すので細君は大喜びだ。

 ペナンまでの支那人の勢力は実に恐ろしい位だ。

 あしたも亦、細君と二人で、コロンボから四五里程ある、セイロン島第一の高峯何んとか云ふのに登つて、釈迦昇天の旧跡だと云ふ大きなお寺へ行く筈だ。


(同上)


「セイロン島第一の高峯」は標高2,524mのセイロン島の最高峰ピドゥルタラーガラ山、「釈迦昇天の旧跡」はダラダー・マーリガーワ寺院(仏歯寺)のことであろう。


 このロシアの婦人について、大杉は「日本脱出記」に「モスクワ大学出身の女で、嘗つてパリに幾年か留学した事があり、其の兄が社会革命党に関係してゐた事から彼女までもツアルの官憲から危険人物扱ひされた事があると云ふ……。彼女は暫く日本にゐて、今僕と同じやうにやはりフランスへ行くのだつた」と書いている。





 大杉は船の中でやろうと思った仕事はちっともできなかった。

 暑くてキャビンにはいられず、デッキや食堂兼喫煙室は騒々しくて、仕事をやる場所がなかった。

『種の起原』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいで、「自叙伝」には何も手をつけていなかった。

 大杉は『改造』の連載の題を「デッキ・パッセンジャー」にして、そこのいろいろな人のことを書いてみようと思っていた。


 海は実に平穏無事で、今までまだ船の動揺を感じた事がない位だ。

 これだけは実に有難り。

 それでも、一時間ほど仕事をすると、少し胸が変な気持になる。

 やつぱり酔心地でゐるんだね。

 マルセイユに着いたら電報をうつが、これからはもう心配なしに港々で手紙を書かう。

 合服と夏服とレエンコートを直ぐ送つてくれ。

 船がどこの国の何んという船かと云ふ事が分つてはまづいから、途中の手紙は一切発表してはいけない。


(同上)





 なお、大杉はアンドレ・ルボン号での航海中、同船した中国人、ロシア人、フランス人、ベトナム人、ユダヤ人などと積極的に交流をし、かつ寄港地でもさまざまな観察をしているが、その詳細は「外遊雑話」(『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)に記している。

「外遊雑話」は大杉が帰国後に単行本『日本脱出記』出版のために書き下ろしたものであるが、その原稿の元は『改造』に連載予定だった「デッキ・パッセンジャー」だったと思われる。



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2016年11月04日

第388回 アンドレ・ルボン号






文●ツルシカズヒコ



 大杉がフランス船、アンドレ・ルボン号に乗船して上海から出航したのは一九二三(大正十二)年一月五日、マルセイユに到着したのは二月十三日だった(「入獄から追放まで」/『改造』一九二三年九月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)

 ちなみに、向井孝『アナキズムとエスペラントーー山鹿泰治・人とその生涯』によれば、大杉の上海出航は一月七日。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、アンドレ・ルボン号は一三,六八二総トンの貨客船、マルセイユ〜横浜間を五十日で結ぶ定期航路に就航(一九〇〇年〜一九三三年)、関東大震災の際に横浜港に碇泊していた同号は被災者二千人を救出した。

 船賃は一九三一年の日本郵船の場合、上海・マルセイユ間の三等料金は三百二十五円、二等は五百八十五円(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

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 上海からフランスのマルセイユまで、大杉の船旅は約四十日の航海である。

 航路は以下である。

 上海(中国)→香港(イギリス)→ハイフォン(海防・ベトナム)→サイゴン(西貢・ベトナム)→シンガポール→ペナン(マレーシア)→コロンボ(スリランカ)→ジプチ→スエズ(エジプト)→ポートサイド(エジプト)→マルセイユ(フランス)

 国際無政府主義大会はベルリンで一月の末から二月初めに開催されることになっていたので、予定通りこの大会が開催されれば、大杉の参加はこの時点で不可能だった。

 上海で大杉の船出を見送った山鹿泰治がすぐに東京に帰ると、それを待ちかねたように長女・アイノが生まれたが、山鹿の妻・ミカの産後の世話を毎日したのは野枝だった(向井孝『アナキズムとエスペラントーー山鹿泰治・人とその生涯』)。





 一月十五日、野枝はアメリカのポートランド在住の大杉の末妹・橘あやめに手紙を書いた。

 前年の十一月末か十二月初旬ごろに届いたあやめからの手紙への返信だが、そのころ野枝は今宿から慌ただしく帰京し、大杉のヨーロッパへの旅立ちの準備、年末の忙しさのために、気にかけてはいたが返事が遅れたのである。


 お手紙を頂いて直ぐ御返事を書きませうと思ひながら、丁度私は十月はじめに逗子の家を引き払つて一ケ月ばかり国へ帰つて、此方へ帰つたばかりでゴタ/\してゐましたのに、引きつゞいて大杉が少し遠い旅行に出るので準備したりいろ/\して、年の暮れと一緒に少し忙しかつたものですから、気にかけながら失礼しました。

 あなたも御無事で何よりです。

 宗坊(橘宗一)ちやんも大変丈夫さうに大きくおなりですのね。

 でも、ちつとも赤ちやんの時と違つてゐませんのね。

 マコに見せましたが、もう忘れてしまつてゐます。

 尤も、宗ちやんの名はよく憶えてゐるやうですけれど。

 私達の話で憶えてゐるので、本当に知つてゐるのではないやうです。

 大杉も、もう今では、あなたなどは一寸わからないほど肥つて丈夫になつてゐます。

 ロシアを通つてヨオロツパの方に旅行に出かけました。

 大いそぎなので、来年の春には帰つてまゐります。

 伸さんは本当に可哀さうな事を致しました。

 お骨が届きましたら、皆んなで集つて、本当に心持のよいお葬式をしたいと思つてゐます。

 松枝さんも健康がよくないやうで困りますのね。

 私のところの二番目の子(幸子)が松枝さんの子になつてゐます。

 もう今年五つになりました。

 時々たよりがあります。

 一月十五日(大正十二年)

 野枝

 橘あやめ様

(東京本郷区駒込片町からアメリカ・ポオトランドへ)


(「消息(伊藤)」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・一九二六年九月八日/安成二郎編『大杉栄随筆集』・人文会・一九二七年)





 以上、大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』からの全文引用であるが、『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の堀切利高による解題によれば、初出(初収録)の同書も再録の安成二郎編『大杉栄随筆集』も、野枝が橘あやめに宛てたこの手紙の全文を掲載しておらず抄録という体裁を取っている。

 以下が『定本 伊藤野枝全集 第三巻』に掲載されている、全文である。

 ブラウンで表示されている個所が、『大杉栄全集 第四巻』と安成二郎編『大杉栄随筆集』では削除されている。


 お手紙を頂いて、直ぐ御返事を書きませうとおもひながら、丁度私は十月はじめに逗子の家を引き払つて一ケ月ばかり国へ帰つて此方(こちら)へ帰つたばかりでゴタ/\してゐましたのに、引きつゞいて大杉が少し遠い旅行に出るので準備をしたりいろ/\して年の暮れと一しよに少しいそがしかつたものですから気にかけながら失礼しました。

 あなたも御無事で何よりです。

 宗坊(橘宗一)ちやんも大変丈夫さうに大きくおなりですのね、でもちつとも赤ちやんの時とちがつてゐませんのね。

 まこに見せましたがもう忘れてしまつてゐます。

 もつとも、宗ちやんの名はよくおぼへてゐるやうですけれど。

 私たちの話でおぼへてゐるので、本当に知つてゐるのではないやうです。

 まこも大きくなりました。

 三年程鎌倉と逗子にゐましたのですつかり丈夫になりました。


 大杉ももう今ではあなたなどは一寸(ちよつと)わからないほど肥つて丈夫になつてゐます。

 ロシアを通つて、ヨオロツパの方に旅行に出かけました。

 大いそぎなので、来年の春には帰つてまゐります。

 弱くなつたのは私だけです。

 伸さんは本当に可哀想なことをいたしました。

 用心しなければ二三ケ年内にぶり返すし、ぶり返せば駄目だと医者に注意はされてゐたのですけれど、

何しろ食物の摂生といふ事はそばに誰かゐて看てゐなくては六ケ(むずか)しいのですね。


 お骨が届きましたら、皆んなで集つて、本当に心持のよいお葬式をしたいとおもつてゐます。

 勇さんもお嫁さんが出来て落ちつきました。

 私はまだお嫁さんを見ませんけれど、勇さんは大変気に入つてゐるようですから何よりです。

 進さんももうそろ/\お嫁さがしをしてもいゝ頃かも知れません。


 松枝さんも健康がよくないようで困りますのね 私の処の二番目の子が松枝さんの子になつてゐます。

 もう今年五つになりました。

 時々たよりがあります。

 あなたの事も始終うはさをしてゐましたけれど何しろお処がしれないし、勇さんへも進さんへもおたよりがないといふこと故何か御都合のわるいことがあるのだらうとおもつてゐました。

 いろ/\な事もありましたけれど、とにかくあなたを幸福にしたいといふ皆ののぞみからだつたのですから、あなたが現在幸福でさへゐらつしやればみんなよろこんでゐるのです。

 私もあなたにはずいぶんいろんな不満なおもひやつらい思ひをおさせしたかもしれませんけれど、もう過去のことゝして水にながして下さい。

 そして、時々おたよりして下さい。

 私も出来るだけいたします。

 子供の写真、沢山あるのですけれど、みんなうちで写しますので、種板だけで焼いたのが生憎ありません。

 丁度満六半歳のがありますからお目にかけます。

 そのうちもつといゝのを焼いて送ります。

 何分素人写真なので上手にはまゐりません。

 それから今日、あなたからお金が五十円ばかり届きましたがあれはどういふお金でせうか。

 何か買物でもいたしますのですか。

 いづれ何んとかおたよりはあることゝおもひますが、とにかくつくのはつきました故御安心下さいまし


 十五日

 野枝 

 あやめ様


(「書簡 橘あやめ宛」一九二三年一月十五日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』・學藝書林・二〇〇〇年九月)





 文面は十ノ廿(二百字詰め)松屋製原稿用紙五枚にペン書きである。

「ロシアを通つて、ヨオロツパの方に旅行に出かけました」と野枝は書いているが、大杉の渡仏のルートはこの時点では隠されていた。

 さて、ブラウンで表示されている『大杉栄全集 第四巻』と安成二郎編『大杉栄随筆集』では削除されている文面である。

『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会)のメインの編集にあたったのは近藤憲二であるから(安成二郎はアドバイザー的なスタンスで近藤に協力)、近藤の判断で削除したのである。

 前半部分の削除はともかく、「あなたの事も始終うはさをしてゐましたけれど……」以下の後半部分、橘あやめの近況に関する削除に注目してみたい。

 以下、私見ではあるが、筆者(ツルシカズヒコ)の推測を述べてみたい。

 この下りは、おそらくあやめとその夫である橘惣三郎の夫婦仲についての言及で、ふたりの夫婦仲は芳しくなかったのであろう。

『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会)の発刊は甘粕事件の三年後、一九二六(昭和二)年九月であるが、甘粕事件後にあやめは夫・惣三郎と離婚し、近藤憲二と再婚(一九二八年三月)した。

 あやめは一九二九(昭和四)年に肺結核で死去したので、彼女と近藤との結婚生活は短かったが、ともかくあやめの離婚、近藤との再婚にはいろいろと擦った揉んだがあったようだ。

 そのあたりについては、『日録・大杉栄伝』の著者・大杉豊(大杉栄の次弟・勇の子)「大杉栄を受けとめた弟妹と娘たち」(『新日本文学』二〇〇三年九・十月号)に詳しいので後述するつもりだが、『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会)の編集に尽力した近藤が、野枝の手紙の中のあやめの夫婦仲について言及した下りを削除したのは、おそらくこの「擦った揉んだ」の渦中にあったからだろう。





 もうひとつ気になることがある。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・二〇〇〇年九月)を編集した堀切利高は、野枝があやめに宛てた原稿用紙五枚にペン書きしたこの手紙の実物を確認しているわけだが、それは誰が所有していたのだろうか。

 そして、その手紙は今、どこにあり誰が保管しているのだろうか。

 野枝からあやめに渡った手紙は、あやめの死後は再婚相手の近藤憲二が所持し、近藤の死(一九六九年八月)後は彼の再婚相手だった近藤真柄(堺利彦の娘)の手に渡り、真柄の死(一九八三年三月)後は近藤憲二・真柄の娘の近藤千浪が保管していたと考えられる。

 近藤千浪さんも他界(二〇一〇年)された今、この手紙はどこにあり、誰が保管しているのだろうか。 

 千浪さんの繫累が保管していると考えるのがもっとも自然ではある。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年11月01日

第387回 頭脳改造






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『婦人世界』一九二三年一月号に「婦人自らの頭脳を改造すること」を書いた。

「新時代の婦人はその力を如何なる方面に用ゐるべきか」欄の一文である。

 他の執筆者は石本静枝、神近市子、奥むめお河本亀子

 以下、前半部分、要約。

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●私はもう十年以上も日本の婦人の生活をかなり注意深く見てきましたが、この四、五年来はもうまったく日本の婦人の頭には愛想をつかしています。

●表面上の婦人の生活様式はだいぶ変わり、いくぶんかは婦人の生活も自由になってはきましたが、その基調は十年前となんの変わりもありません。

●安っぽいセンティメンタリズムから一歩も出ず、勝手なロマンティックな空想から一気に現実のドン底に引きずり下ろされても、敢えて不思議な顔つきもせず、すましていられる人たちです。

●他人のいい加減な意見を丸呑みにする、ときには中毒を起こすような腐った意見まで、なんの選択もなしにつめ込むところは、まるで豚の胃袋です。

●今や学校は人間の立派な能力を殺し、馬鹿な人間を育成することに骨を折っているのです。

●自分で研究させることをしないで、やたらに詰め込みます。教え込むのではなく、頭の中に押し込むのです。

●おかげで男も女も自分で自分の頭脳を働かすことができず、いくつになっても、頭が白くなっても、自分の頭を動かしてくれる先生が必要なのです。

●ことに女は従属的な生活の習慣から、他人を当てにすることを少しも恥としないどころではなく、他人を当てにすることが一番の美徳であるかのようです。

●何か困ることがある。考える習慣も判断する能力もないから、すぐに他人に相談する。一切のことが他人まかせなのです。

●「あの奥さんはなかなかしっかりしている。立派な意見を持っている」。たまにこういう評判のいい奥さんがいるが、実は何かの雑誌の受売りで、某氏を崇拝していてその某氏の意見を鵜呑みにしているというケースが多いようです。

●そもそも、婦人の眼にふれるところに意見を発表する人々の顔ぶれが、十年以前とほとんど変わっていません。彼女たちは婦人の生活に対してどれほどの理解があるのか疑わしい連中ばかりですが、今日の新進の婦人連中が、みんなその連中の意見をありがたがっているのです。

●もっと頭脳を働かせることができるようにならなければなりません。





 以下、後半部分を抜粋引用。


 手近い日常生活の事に於いてさへ、日本婦人の頭は呆れるほど馬鹿です。

 私は二三年前ミシンを買ひました。

 教師が通ってくれる事になつて一二回来ました。

 私はこの教師から先づ機械の組み立て、分解等の構造についての知識を得ようと思ひました。

 が……先生はまるでその知識がないのです。

 少しこみ入つた注意の要る附属機械のつかひ方も満足には出来ないのです。

 私は直ぐ断つて、ひとりで研究しました。

 あとで聞きますと、その教師は立派にそれで教師がやつて行けるのです。

 ミシンを買へばただそれで物が縫へさへすればいい、といふのが一般の人達の考へです。

 で、機械の故障はミシン屋を呼べばいいといふのでせう。

 が、それでは機械を使へるとはいへません。

 子供の洋服がはやる。

 子供服に対する根本的な知識を少しも持たずに、ただ奇妙な格好のものをつくる。

 いい加減に出来たパツタアンのとほりに、体と少しも相談せずに、とてつもないものをつくり上げる、といつた調子です。

 洋服の講習会がある。

 といつても、此処でも根本原理そつちのけで、その会で一枚の洋服を縫ひあげさへすればいいといふ方が多いやうです。

 すべてさういふ調子で、頭を働かさないやうに、頭に骨の折れないやうにといふ風にばかり教へられ、教はらうとするのです。

 で、何もかも、すこしも本当の自分のものにはならないのです。

 何事によらず、先づ物の根本をきはめる事が肝心です。

 それから先きは自由に自分で頭を働かすのです。

 それが今の日本婦人に一番必要な事だと思ひます。


(「婦人自らの頭脳を改造すること」/『婦人世界』一九二三年一月号・第十八巻第一号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 辻一(まこと)が、野枝の洋裁について、菅沼幸子(次女・エマ)にジョーク混じりに、こんな思い出を語ったという。

「おふくろときたら、シンガーミシンを買って、ハイカラな洋服を縫っては、子供たちに着せるんだ。ピラピラなんかついたのを、むりに着せられて。なんでも新しがりやで、挑戦するのはいいけど、子供心にも迷惑だったよ。あの人のことだ、今まで生きていたら、選挙なんかに打って出て、おれたちみんな、トラックへ乗せられてるに違いない」

(菅沼幸子「伊藤野枝 はるかなる存在のひと」/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』「月報1」・二〇〇〇年三月)


 糸島高女四年生の伊藤留意子(四女・ルイズ)が修学旅行で上京したのは、一九三七(昭和十二)年六月だった。

 このとき、留意子は辻一に会い、野枝のこんな思い出を聞かされたという。


「……おかしなママでね、ミシンを買って僕に半ズボンを縫ってくれるんだよ。それも洋裁の本をわざわざ取り寄せてね。まだ、下町じゃあ半ズボンの子なんかいなくてね、こっちは恥ずかしてたまらないのに、ママはそんなことは全然平気なんだなあ……人のことなんか全然配慮しなかった」

(松下竜一『ルイズーー父に貰いし名は』/講談社・一九八二年三月十日)


 一(まこと)は二十四歳、留意子は十五歳であった。



1995年の墓前祭・中央左から伊藤ルイ、菅沼幸子、野沢笑子の3遺児



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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