2016年10月30日

第386回 フランス租界






文●ツルシカズヒコ



 一九二二(大正十一)年十二月十四日にエンプレス・オブ・ルシア号で神戸港を出航した大杉が、上海に着いたのは十二月十七日ごろだった。


 上海に着いた。

 そこの税関の出口にも、やはり私服らしいのが二人見はつてゐた。

 警視庁警から四人とか五人とか出張して来てゐるさうだから、多分それなのだらう。

 僕は税関を出ると直ぐ、馬車を呼んで走らした。

 そして暫く行つてから角々で二三度あとをふり返つて見たが、あとをつけて来るらしいものは何んにもなかつた。

 最初僕は此の上海に上陸する事が一番難関だと思つてゐた。

 そして多分ここで捕まるものと先づ覚悟して、捕まつた上での逃げ道までもそつと考へてゐたのだつた。

 それが、かうして何んの事もなくコトコトと馬車を走らしてゐるとなると、少々張合ひぬけの感じがしないでもない。

『フランス租界へ。』

 御者にただかう云つただけなのだが、上海の銀座通り大馬路を通りぬけて、二大歓楽場の新世界の角から大世界の方へ、馬車は先年始めてここに来た時と同じ道を走つて行く。


(「日本脱出記」/『改造』一九二三年七月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)

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 大杉から旅券工作を依頼されていた山鹿泰治は、北京から陸路で上海に到着した。


 ……すぐフランス租界霞飛路の華光医院に電話すると、数日前に大杉はもう着いて、近所のイギリス婦人の家に一室を借り、私を待っているという。

 院長のケ夢仙は、相変わらず穏やかな温顔で出迎えてくれ、手紙で頼んであった旅券入手については、上海の同志たちがいろいろ手をうっていて、もうほとんど目安がついているとのことであった。


(向井孝『アナキズムとエスペラントーー山鹿泰治・人とその生涯』/JCA出版・一九八〇年三月十五日)


 ちょうどリヨンにある中仏大学(中国留学生の寄宿学校)の校長が帰国し、まもなく渡仏することになっていた。

 大杉を中仏大学の留学生に仕立て、名は唐継(タン・ジー)、訛りのひどい台山県生まれの広東人、写真は大杉自身のものを貼って、中法大学校長を保証人として旅券を申請したのである。

 手続きは完了し、旅券もできあがったが、本人が出頭してフランス官憲から受け取らねばならないという難関が残っていた。


 時あたかも年末年始で休日が続く。

 船は一月七日上海発マルセーユ行きのアンドレ・ルボン号ときまり、それをのがすと大会にはまにあわない。

 中国の同志の一人が中国忍法よろしく正月休みの仏領事館にしのびこんで、その旅券をぬすみ出して来た。

 こうして旅券は大杉のポケットに無事おさまった。


(同上)





 上海のフランス租界に着い後について、大杉はこう書いている。


 で、僕は先づ、支那の同志Bの家へ行つた。

 まだ会つたことのない同志だ。

 ……僕がこんど此の上海に寄つたのは、ベルリンの大会で×××××××××が組織されるのと同時に、僕等にとつてはそれよりももつと必要な××××××××の組織を謀らうと思つたからでもあつた。

 翌日僕は、Bの家の近所を歩き廻つて、ロシア人の下宿屋を見つけた。

 そして、ただ少々の前金を払つただけで、名もなんにも云はずにそこの一室に落ちついた。

 上海に幾日ゐたか、又その間何をしてゐたか、と云ふことに就いては今はまだ何んにも云へない。

 そして、本年某月某日、僕は四月一日の大会に間に合ふように、或る国の或る船で、そつと又上海を出た。

 途中の事も今はまだ何んにも云へない。


(大杉栄「日本脱出記」)


 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、九字削除「×××××××××」は「国際無政府主義同盟」で、八字削除「××××××××」は「亜洲(または極東)無政府主義者」であり、大杉は上海滞在中に中国アナキスト連盟と数度にわたり会談をした。

 大杉は上海在住の長妹・秋山春の家も訪問した。


 また、官憲の気配がなく、安心して街を歩けたので、当時上海に住んでいた妹・晴子(春)の家を訪問し、一泊した。

 晴子は〇九年から中国在住、夫は三菱上海支店長である。

 久しぶりの対面で、先ごろ当地で病死した弟・伸のことをはじめ、日本、中国、アメリカと別れて暮す弟妹の消息など、積もる話は尽きなかった。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年10月27日

第385回 アインシュタイン






文●ツルシカズヒコ



 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二二(大正十一)年十二月上旬、大杉は山崎今朝弥とともに盲腸で鉱泉病院(大森町森ヶ崎/現・大田区大森南)に入院中の堺利彦を見舞った。


 ……大杉君でも堺君でも公私は決して混淆しなかった。

 犬猿啻(ただ)ならぬ両君の間でも、運動上の事や天変地異の挨拶にはよく往来をした。

 大杉君のチブスの見舞には僕と堺君がセントルカへ行った。

 堺君の盲腸炎の時には僕と大杉君とで森ヶ崎へ行った。


(山崎今朝弥著・森長英三郎編『地震・憲兵・火事・巡査』/岩波文庫・一九八二年十二月十六日)


「日本脱出記」によれば、大杉が秘かに自宅を出たのは一九二二(大正十一)年十二月十一日の夜だった。

 大杉がしばらく留守にすることは、魔子には知らせなかった。

 野枝は子供を騙すのは可哀相だと言ったが、尾行の口車に乗せられないともかぎらないと考えた大杉は、十二月十一日の朝、村木に魔子をある同志の家に連れて行ってもらった。

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『こんどは魔子のすきなだけ幾つ泊つて来てもいいんだがね。幾つ泊る? 二つ? 三つ?』

 ……彼女は……ただにこ/\しながら黙つてゐた。

『ぢや、四つ? 五つ?』

 僕は重ねて聞いた。

 やはりにこ/\しながら、首をふつて、

『もつと』

 と云つた。

『もつと? それぢや幾つ?』

 僕が驚いたふりをして尋ねると、彼女は左の掌の上に右の手の中指を三本置いて、

『八つ。』

 と云ひきつた。

『さう、そんなに長い間?』

 僕は彼女を抱きあげて其の顔にキスした。そして

『でも、いやになつたら、いつでもいいからお帰り。』

 と付け加へて彼女を離してやつた。

 彼女は踊るやうにして、Mと一緒に出かけて行つた。


(「日本脱出記」/『改造』一九二三年七月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 その家には魔子より一、二歳下の女の子がいたので、魔子はしばらく泊まってきたいと言った。

 自宅兼労働運動社である駒込片町の家は狭く、すぐ前の空き地の小さなお稲荷さんの小舎に中にいる尾行には、家の中の話し声を聞いているだけでも、大杉がいるかいないかは知られてしまう。

 大杉がちっとも顔を見せないことの口実は、上海に渡航したときと同様に病気ということにして、毎朝氷を一斤ずつ買うことにした。

「それも尾行を使いにやるんですね」

 そんなことには如才のない村木がそう発案して、ひとりニコニコしていた。

 大杉は近藤と一緒に家を出た。

 近所まで近藤と一緒だったが、そこから大杉は自動車で東京駅(大杉豊『日録・大杉栄伝』)近くまで行った。

 駅の近くで小さなトランクひとつとちょっとした買い物をした大杉は、急いで駅の中に入って行った。

 列車の発車時刻が迫っていた。

 大杉はプラットホームを見回したが、風呂敷に入れた荷物を持って来ているはずの和田の姿が見当たらないので、待合室の方に行こうとすると中から男が出てきた。

 男は黒い長いマントを着こみ、前の方を上に折り曲げた黒のソフトをかぶり、足駄をカラカラ鳴らして歩いて来た。

 大杉は変装した和田から荷物を受け取り、発車しようとしている列車に飛び乗った。





 列車が走り出した。

 和田が手を上げたので、大杉も手を上げてそれに応じた。

 和田の姿が見えなくなると、大杉はボーイに顔を見られないように外套の襟を高く立てて、車内に入り寝台の中にもぐりこんだ。

 ひと寝入りした大杉は、夜中にそっと起きて洗面場に行き、まだ剃っていなかった上下の髭を剃り落した。

 そして、大杉は和田が持って来てくれた風呂敷包みの荷物をトランクに入れ替えた。

 荷物は途中、船の中でやる予定の仕事の材料と原稿紙だけだった。

 移動警察官の人数を増やすという記事が新聞に出ていたが、それらしい顔もついに見ないで、十二月十二日の朝、大杉は無事に神戸に着いた。





 大杉にとって神戸は鬼門だった。

 コズロフに会いに来たとき、警察本部の外事課や特別高等課に顔を出しているので、大杉の顔は神戸の刑事たちによく見知られていた。

 その神戸から船に乗るのはずいぶん剣呑(けんのん)だったが、横浜の方が神戸よりさらに剣呑だった。

 鎌倉や逗子に住んでいた間に、代わる代わるいろんな尾行がついたので、横浜の刑事たちのほとんどが大杉の顔を見知っていたからだ。

 神戸駅の改札口を出ようとすると、どこの停車場でもひとりやふたりはいる、怪しい目つきの男がひとり見張っていた。

 大杉はすぐに車に乗り、いい加減なところまで走らせ、それからさらに車を替えてあるホテルまで行った。





 船は翌日十二月十三日に出るはずだったが、出港は翌々日に延びていた。

 十二月十二日、十三日の二日間、大杉は仕方なしにホテルの部屋にこもり、共訳で出すことになっていた『自然科学の話』(大杉豊『日録・大杉栄伝』)の原稿を直して暮らした。

 一度だけ昼飯後の散歩にブラブラと外に出てみた大杉は、改造社の二、三人が車に乗ってその晩(十二月十三日)に開催されるアインシュタインの講演のビラをまいているのを目撃した。

 大杉は髭を剃り落して変装した顔が、彼らにわかるかどうかと思い、わざと彼らの方に近づいてみたが、正体はバレなかった。

 十二月十四日、大杉が船に乗り込むと、五人の私服刑事が船内に入りこんであちこちうろうろしたり、大杉が乗った二等船室の喫煙室に座りこんだりしていた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉が乗船したのはカナダの客船エンプレス・オブ・ルシア号だった。

 船が出るまでキャビンの中に閉じこもっているのが癪だった大杉は、刑事たちをひやかしてみるのもおもしろいと思い、喫煙室とデッキの間をブラブラしたり、一度は私服刑事らしい三、四人以外は誰もいない喫煙室に行って、彼らの横顔を眺めながら煙草をふかした。





 船は門司を通過して長崎に着いた。

 そこでもやはり、二人の制服と四五人の私服刑事がはいつて来た。
 
 そして乗客の日本人を一人一人つかまへて何にかを調べ始めた。

 日本人と云つても、船はイギリスの船なのだから、二等には僕ともで四人しかゐないのだ。

 僕の番は直ぐに来た。

 が、それは寧ろあつけない位に無事に過ぎた。

 そして彼等は一人のヒリツピンの学生をつかまへて何にやかやとひつつこく尋ねてゐた。


(同上)



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2016年10月24日

第384回 有島武郎






文●ツルシカズヒコ



 一九二二(大正十一)年十一月二十一日、大杉は尾行をまいて金策に歩き廻ったが、はたしてうまくいかなかった。

 大杉は「日本脱出記」の中で、この金策について「ふと一人の友人の事を思ひ浮かんで、そこへ電話をかけて見た。そして、最後の幽かな希望のそこで、案外世話なく話しがついた」としか書いていないが、大杉に金を出したのは有島武郎だった。

 有島と大杉の死後、大杉の渡航費の出所が議会で問題になり、内相の後藤新平がその嫌疑をかけられた際に、大杉に資金を提供したのが有島だったことが判明したのである。

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  一九二三(大正十二)年十二月十六日の『読売新聞』五面が、「大杉氏の日本脱出費は有島武郎氏の懐から 死人に口無しーー議会に渦を巻く 問題の鍵を握る足助素一氏言明す 死んでも人気者の二人」という見出しで大々的に報じている。

 有島は大杉に千五百円都合したのだが、そのことを足助は有島と大杉の両人から聞いていたという。

 足助によれば、有島は足助にこう語ったという。


『先日大杉君がやつて来て無政府主義大会にドイツへゆき度(た)いから千五百円旅費がもらい度(た)いといふたから、其の希望通りさしあげた。

 僕は大杉君とは立場は違ふが、あゝいう器局(ききょく)の大きい人物を徒(いたづら)に日本の様なせゝつこましい所に置いて内輪喧嘩をさせて置くのが惜しいやうな気がしたので世界の大勢を見て来た方がよからうと考へたからである。

 別にその他にはなんの意味もない』


(『読売新聞』 一九二三年十二月十六日)





 内相・後藤新平は、議会ではっきりした答弁をしなかった理由を、こう語っている。


『うす/\有島が大杉の旅費を出したといふことことは聞かんでもなかつたが、

 はつきりした事実を知らなかつた、

 然(しか)し自分としては一切このことに関しては身におぼえのないことだから、

 ないと答へて置いたまでゞその上かれこれ非難されやうとも、

 いつかは事実が判明すると信じて大人気ないことでもあるし取合はなかつた、

 殊(こと)に有島と知つても故人の親族等(ら)に迷惑があつてはいかぬと考へたからである』


(同上)





 村木のコメントも載っている。


『……私は有島氏が口癖のやうに私達の運動に対して少しづつでもいゝから援助したいといふことを聞いてゐた、

 ……昨年の十一月二十七、八日頃だつた、

 諸所の出版屋をかけまはつたが思ふやうに金策が出来なかつたので自分は此際だから有島氏から出して貰つたらと大杉君に話し、

 有島氏にも電話をかけると氏は快諾し大杉君は翌日有島氏の宅で千五百円を受取つた

 大杉君は千円あれば結構だといつたが金の少ないほど心細いことはないと千五百円投出したのだ、

 それは大杉君の『日本脱出記』にも出てゐる滞仏中大杉君の留守宅から送つた金も過半は有島氏の好意になるものであった』


(同上)


 十一月二十二日、村木が今宿に向かった。

 野枝が四女・ルイズを連れ、迎えに行った村木とともに、今宿から帰京したのは十一月二十五日だった。

 松下竜一『ルイズーー父に貰いし名は』によれば、三女・エマは叔母の坂口モトに預けてきた。

 エマは翌年七月に大杉がフランスから帰国するまでの八ヶ月間、この叔母の世話になっていた。





 向井孝『アナキズムとエスペラントーー山鹿泰治・人とその生涯』によれば、大杉が山鹿泰治の勤務先である芝の印刷所を突然訪れたのは十一月の二十日すぎだった。

 大杉は日本政府が自分に旅券を出す見込みがないので、山鹿に中国人の偽造旅券工作を頼んだ。

 山鹿はさっそく、その日の夜汽車に乗り中国に先行することにした。


 東京駅から釜山経由奉天まで三等六〇円で旅券も不用(ママ)だった。

 下関の特高の網をくぐって釜山へ上陸すると雪がふっていた。

 鴨緑江を越す時、朝鮮人はいちいち憲兵に調べられて多数が下車させられたが、日本人には丁重であっさりと通過できた。

 そして奉天についたが零下八度の寒さで私のゴム靴は凍って、石のように固まり足はふくれて脱ぐにも脱げない。

 さて奉天から北京への京奉線は、三等に日本人は乗れない。

 私は苦力(クーリー)の群にもぐりこんだ。

 便所が詰まって、まわり一面黄金水があふれている。

 坐っている人混みの中をしずくのしたたる靴でまたいで通るのだが「借光借光」(ごめんごめん)とさえ言えば誰もいやな顔をしない。

 隙間風が吹き込んで寒いし尻は痛いし、体を小さくまるめてうとうとしているうちに山海関に着いた。

 汽車は一時間位停っている。

 車の外へ出て一杯ニ銭の熱いミエンとチーローを食べると生き返る思いがした。

 みんなおしゃべりで「你上那辺去(ニーシャン・ナーピェンチィ)」とくるから困ったが、東京へ留学していて今度北京大学へ行くのだとごまかし、とうとう中国人で押し通した。


(向井孝『アナキズムとエスペラントーー山鹿泰治・人とその生涯』/JCA出版・一九八〇年三月十五日)





 山鹿が北京に着いたのは、東京を出てから六日目だった。

 山鹿は北京大学の講師をしているエロシェンコに会うため、彼が住む北京大学ロシア文学教授、周作人の家を訪れた。

 魯迅の弟である周はエスペランチストでもあり、三人はエス語で会話をした。

 山鹿はエロシェンコから北京大学の学生である陳昆山を紹介してもらい、陳の紹介で大杉の旅券工作を景梅九に頼んだ。

 景は日刊紙『国風日報』を経営する国会議員で、東京滞在中に日本の社会主義者とも交わり、大杉のことも知っていた。

 景は山鹿の頼みを快諾し、山鹿も尽力したが、なかなか事は進展しなかったので、山鹿は北京から上海に行くことにした。





 いよいよ大杉が東京を発つことになったが、有島からもらった金は借金の支払いや労働運動社の費用に使い、あらかたなくなってしまった。

 そこで近藤が一計を案じ、大杉と一緒に武藤重太郎に会いに行った。

 武藤の父・三治は当時「鬼武藤」と称せられる神田駿河台の高利貸だったが、重太郎は父とはタチが違いかつて社会主義同盟に加入していたのをその書記だった近藤は知っていた。


 ……絶体絶命の窮余の一策、当って砕けろと思ったのである。

 むろん事情などいわず、ただ金を貸してほしいといったんだが、若主人、ほんのちょっと考え、気さくに、よろしいといってくれた。

「だが、あなた達に貸したとなるとおやじの手前ぐあいがわるい、どうでしょう、証文も出たらめな名前にしてくれませんか、保証人も」

 もとより異存のあろうはずがない。

 そんなわけで旅費の穴うめはできた。

(ついでに記しておくが、大杉はフランスから帰ると間もなく殺されたし、武藤家は震災で焼けて避難先が分らなくなるし、出たらめ証文でバツを合わせてくれたんだし、そのままにしてしまった。その後逢えなかったが、ここに心からのお礼をいっておく。)


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』/平凡社・一九六五年六月三十日)


 横関愛造『思い出の作家たち』(法政大学出版局・一九五六年十二月五日)によれば、慶応出の武藤重太郎が貸してくれた金は千円だった。



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第383回 国際無政府主義大会






文●ツルシカズヒコ



「日本脱出記」によれば、一九二二(大正十一)年十一月二十日のことだった。

 夕食をすませた大杉が、少し仕事に疲れたので二階の寝床で休んでいると、村木が下から手紙の束を持って来た。

 幾通かの手紙の中に、珍しく横文字で書いた四角い封筒がひとつ交じっていた。

 見ると、かねてから新聞でその名や書いたものはを知つている、フランスの同志アンドレイ・コロメルからだった。

 ちょっとその封筒を透かして見たが、薄い一枚の紙を四つ折りにしたくらいの手触りのものだった。

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 もう長い間の習慣になつてゐるやうに、それがどこかで開封されてゐるかどうか、先づ調べて見たが、それらしい形跡は別になかつた。

 たゞ付箋が三四枚はつてあつたが、それは鎌倉に宛てゝ書いてあつたので、そこから逗子に廻り、更に又東京に廻つて来たしるしに過ぎなかつた。

 ……とにかく開けてみた。

 ほんのたゞ十行ばかり、タイプで打つてある。

 それを読むと、急に僕の心は踊りあがつた。

 一月の末から二月始めにかけて、ベルリンで国際無政府主義大会を開く事になつたが、ぜひやつて来ないか、と云ふ、其の準備委員コロメルの招待状なのだ。

 大会の開かれる事は僕はまだちつとも知らなかつた。

 が、ちようどいゝ機会だ、行かう、と僕は心の中できめた。

 そして枕もとの小さな丸テエブルの上から、其の日の昼に来たまゝまだ封も切つてなかつた、イギリスの無政府主義新聞『フリイドム』を取つて読んで見た。

 果たしてそれには大会の事が載つてゐた。


(「日本脱出記」/『改造』一九二三年七月号/『日本脱出記』・アルス・一九二三年十月二十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』・一九二五年七月二十五日/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 コロメルが大杉の存在を知ったのは、滞仏中の小松清を通じてだった。

 滞仏中に林倭衛とも交流のあった小松は、大杉が渡仏する前年(一九二二年)の春、フランスのアナキストの秘密会合にはじめてこっそりと出て、首領株のコロメルとバーで立ち話をした。


 そのときコロメルから、「国際アナーキスト大会を来春ベルリンで開く予定になっている、その大会にはアナーキストとして世界的に有名なイタリアのアラテスタ(ママ)も出席することになっているが、ぜひ日本の代表にも出てもらいたいと思っている。適当な人はいないだろうか?」といわれたとき、小松の胸にはふと大杉の名前が浮かんだ。

 今まで大杉とは一度も会ったことはないが、日ごろ私淑していた人物の一人だったからである。

 そこで、「日本にはオオスギサカエという人物がいる。しかし官憲の眼が無茶苦茶にきびしいから、とても日本を脱出することはできないでしょう……」と答えた。

 脱出できるかどうかは別問題として、一応大杉のアドレスを教えてほしい、とコロメルから手帳をさし出されたので、小松は詳しいアドレスはわからぬままに〈ムッシュウ・サカエ・オオスギ・カマクラ・ジャポン〉とだけ書いた。


(青木重雄『青春と冒険ーー神戸の生んだモダニストたち』/中外書房・一九五九年)





 大杉が『フリーダム』を読んでいると、アルスに勤務している近藤憲二が帰宅した。

「おい、こんな手紙が来たんだがね」

 大杉が近藤にコロメルからの手紙の内容と大会の概要について、ざっと話した。

「そりゃ、ぜひ行くんですね」

 近藤もだいぶ興奮しながら言った。

「僕もそう思っているんだがね。問題は金なんだ」

「どのくらいいるんです?」

「さあ、ちょっと見当がつかないがね。最低のところ千円あれば、とにかく向こうへ行って、二、三ヶ月の滞在費は残ろうと思うんだ」

「そのくらいならなんとかなるでしょう。あとはまたあとのことにして」

「僕もそう決めているんだ。明日、一日金策に廻ってみて、その上ではっきり決めようと思うんだ」

「旅行券は?」

「そんなものいらないよ。とうの昔に、うまく誤魔化して行く方法をちゃんと研究してあるんだから。ただその方法を講ずるのにちょっと時間がかかるから、明日中に決めないと、大会に間に合いそうにないんだ」

 この二つの条件を聞いて、近藤は安心したような素振りで下に降りて行ったが、大杉は金の算段を考えると楽観はできなかった。





 借金の当てがほとんどなかった。

 借りられる本屋からは、もう借りられるだけ、いやそれ以上に借りていたし、約束の原稿もまだほとんど渡していなかった。

 かりに借りられたとしても、それは留守中の社や家族の費用に当てなければならない。


 そんな事をそれからそれへと、いろ/\と寝床の中で考へて見たが、要するに考へてきまる事ではない。

 あした早く起きて、あちこち当つて見る事だ、さうきめて、僕は頭と目とを疲らせる眠り薬の、一週間程前から読みかけてゐる『其角研究』を読み始めた。


(「日本脱出記」) 



※大杉栄『日本脱出記』/国立国会図書館デジタル資料



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2016年10月21日

第382回 蕎麦喜千






文●ツルシカズヒコ



 鵠沼の旅館東屋から本郷区駒込片町の労運社兼自宅に戻った大杉は、十一月十二日と十一月十三日は少々疲れたので横になっていたが、いろいろ来客があり閉口した。

 十一月十二日、根岸正吉が死に、村木がその後片づけに横浜に行った。

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『大杉栄書簡集』(一五七)補注によれば、根岸は『労働運動』に詩を寄せていた。

 十一月十四日、大杉が仕事を始めようと思って朝、机に向かうと『東京日日新聞』記者の宮崎光男が来て、続いて三、四人来客があり、何もできないまま頭がボウとしてしまった。

 宮崎によれば、大杉は数日前に国粋会の何とかという男に鈴ヶ森で殺されて、品川の海に放りこまれたという記事が一、二の新聞に載ったという。

 この日は本郷区駒込片町の労働運動社兼大杉の自宅に、代準介も訪問している。


 けさ、宮崎が来る前に、博多のおぢさん(代準介)がひよつこり来た。

 そして魔子を連れて動物園へ行つた。

 午後の五時には出立すると云つてゐたが、まだ魔子は帰つて来ない。

 エマの薬はきのふ送つた。

 あいつは馬鹿に毒深いんだね。

 温泉に行つてそれで治るものなら、それもよかろう。

 二十五六日頃になれば少々金がはいるから、どの位かかるか云つて来るといい。

 しかし虫退治の方はうんとやらないと駄目だね。

 おぢさんが、ルイズが大変知恵がついてね、と云つてゐた。

 あいつは大ぶ発育がいいようだからもうそろそろハイ/\でもしやしないか。

 けふは近藤(憲二)の出がけに、あなたからの手紙を見た。

 ひまなもんだからこんな事を云つてからかつて来やがらあ、と云つてゐた。

 こつちへももちつとからかつて来いよ。

 ヘントウ腺の方は其後いかが。


(「消息・大杉」大正十一年十一月十四日午後六時/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/
 『大杉栄書簡集』一五七)


 代準介は上京すると必ず、頭山満邸と大杉宅を訪れていたという。


 ……代は上京し、頭山満の霊南坂の家を訊ね、福岡・博多の近況を伝えた。

 次に大杉宅を訪ね、大杉と魔子に会い、野枝たちの近況を伝えた。

 代は判で押したように頭山邸、次に大杉宅、この順序は上京する毎に守られていた。

 代の上京はいつも降り分け荷物で、両家へのお土産を肩に携えていた。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』/弦書房・二〇一二年十月三十日)





 三女・エマ(一歳)、四女・ルイズ(生後五ヶ月)を連れて今宿に帰郷していた野枝は、大杉との別居生活を満喫していたようである。


 野枝は一ヶ月余り、本を読み、文を書き、今宿の海や糸島(現・福岡県糸島市)の山、福岡や博多の町を楽しみ、英気を養った。

 平和な村の駐在さんもこの時ばかりは忙しくなる。

 尾行の刑事たちは所轄ごとで入れ替わる。

 野枝は博多の刑事たちともすぐに仲良くなり、子を抱いてもらったり、荷物を持ってもらったりと、上手に司直を使っている。


(同上)


 野枝の従姉の代千代子は、数え年七歳、四歳、二歳の三人の女児の母になっていた。


 当時、代準介は今宿の港湾整備事業や、住吉地区(現・福岡市南区)の大木集落の土地区画整備を本業とし、余業として新柳町(現・中央区清川)に蕎麦屋(蕎麦喜千)を開き、キチに仕切らせていた。

 野枝はもともと子守、子育てが不得手で、おおむね千代子宅に子等を預け、蕎麦を食べがてら博多の目抜きに遊びに来ていた。

 当然、尾行の刑事たちも蕎麦を食べていたに違いない。


(同上)





 以下、十一月十六日、大杉の野枝宛て手紙の要約、および引用。

 ●おばさんが嫁に行くとなると、何かお祝いをしなければなるまいが、着物にする方がいいだろうか、現ナマにする方がよかろうか。百円ぐらいはどうにかしようと思っているんだが。

 ●今日(十一月十六日)、叢文閣の『無政府主義者の見たロシア革命』の足りない部分をやっと書き上げた。まだ体調のよくない足助先生が無理して車でやって来て、大急ぎなんだ。この本が、暮れのそちらと僕との分になるんだ。

 ●昼と晩と自分で飯の仕度をするのと、来客に閉口していたが、十一月十五日の夜に村木が帰って来たので、ようやく昼のひとりぼっちの煩雑さから免れることができる。

 ●今日(十一月十六日)、珍しく坂本先生(大杉の小学校時代の柔道の先生、坂本謹吾)がやって来て、半日遊んでいった。

 ●あした(十一月十七日)の晩は赤化防止団との立ち会い演説だが、こちらからは岩佐作太郎、近藤憲二、売文社から近藤栄蔵、高津正道が出る。


 ハガキの封入されてる手紙、今日鵠沼から廻つて来た。

 下駄のジミな方がお気に入つたのは大しくぢりだね。

 それでもとにかくお気に入つたのがあつてよかつた。

 僕もホウ歯の大きいのを注文して置いたが、まだ取りに行けない。

 いいマサのがあつたもんだから。

 着物の方んは何だか条件付で大してお気に召したとも云へないやうだね。

 本物だといいんだけれど、なぞと贅沢は云ふなよ。

 始めからメイセンが何かという約束だつたんぢやないか。

 其の代りにこんどは羽織の方を少し奮発するかな。

 いや、止さう/\、やつぱりあの位のところが御身分相応だらう。

 あしたからは「自叙伝」の書き足しだ。

 全体で七百枚位になるだらうが、もう三百枚ばかり書かなければならない。

 十二月号の改造には、又例の礼ちやんとのあまいところをうんと書いたから、お千代(江口渙の前妻・北川千代)さんのようにどうぞ怒らずに読んでくれ。


(「消息・大杉」大正十一年十一月十六日夜/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/
 『大杉栄書簡集』一五八)





 以下、十一月十七日、大杉の野枝宛て手紙の引用。


 今三銭切手の手紙が来た。

 皆んなで、『おや/\、急に熱が半分さがつちやつた。女つて頼みにならんもんだな。』つてひやかしてゐるぜ。

 着物にして見たら急に見ばえがして来たものと見えるね。

 それからお気に召して有りがたい。

 何か送るのもいいがそれが心配でね。

 そんなにいろ/\無心を云つて来たつて中々聞いてはやらない。

 まあボツ/\だ。

 久の奴、僕等には何んにも白状しないんだから、其の手紙を送つてくれ。


(「消息・大杉」大正十一年十一月十七日正午/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/
 『大杉栄書簡集』一五九)


しまちゃんの愛し糸島ブログ


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2016年10月20日

第381回 死刑囚の思い出






文●ツルシカズヒコ



 一九二二(大正十一)年十一月十日、大杉は今宿に帰郷している野枝に、こんな文面の手紙を書いている。

 以下、抜粋要約、および引用。

 ●昨日(十一月九日)は、尾行に魔子を迎えにやろうと思ったが、魔子の知らない初めての尾行だったので、自分で鎌倉の長芝家に迎えに行った。長芝家では例の刺繍の展覧会をやるというので、大騒ぎの最中だった。

 ●仕事もだいぶやったし、ここ(鵠沼の旅館東屋)にいるのもあきたから、改造社から金が来たらすぐ帰ろうと思う。

 ●魔子は毎朝早く起きて困るので、朝はパパが起きるまで、絵の勉強をさせることにきめた。黙ってひとりで何か描いている。別紙の絵は写生だ。富士山のあるのはちょっと可笑しいが。

 ●毎日手紙を待っているんだが、ここへ来た知らせを出してから以降は、一本も書いてくれないようだね。どうしたのさ。

 ●「無政府主義者の見たロシア革命」の原稿の整理もすんだ。昨日(十一月九日)、叢文閣に電話したら、先生はまだ寝ているそうだが、大喜びでいた。『昆虫記』もたいへん景気がいいそうだ。再版の用意に誤植の直しをしておいてくれと言っていた。

 ●江口の方の原稿(アルス科学知識叢書)を貰えないので困っている。

 ●今、やっと改造社の電話が通じて、明日(十一月十一日)の朝、電報為替で金が来ることになった。昼過ぎには帰れよう。これからまたひと勉強だ。

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 野枝に任せてある翻訳仕事に関して、こんな厳しい指摘もしている。


 今日は一日、あなたの原稿の直しをやつた。

 ずゐぶん少ししきや、やつてゐないんだね。

 普通のお話しのところはまあいいが、少し込み入つて来るとまるで駄目だね。

 ボルの暴政もやはりさうだつたが。

 こんな事ぢや理屈物はとても読めないよ。

 少しみつしり勉強してくれ。

 ダアヰンはやり始めてゐるかい。


(「消息・大杉」大正十一年十一月十日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一五五)





 翌日も大杉は野枝に手紙を書いた。

 以下、抜粋要約、および引用。

 ●今、帰ろうと思っているところへ手紙が来た。また病気か。そんなに弱くちゃ本当に困るね。お客様の来ないせいもだいぶあるのだろうが。

 ●エビや鯛は奥山の方へ送ってくれ。どうせ僕の方じゃ、何だってうまく食えるんじゃないから、梨だってせっかく送って来たものをいっぺんにみんなに食われてしまうんじゃつまらない。『大杉栄書簡集』(一五六)の補注によれば、「奥山」は医師の奥山伸(一八七四年- ?)、福岡県出身、三田で開業し明治から昭和初期まで社会主義者をよく世話し、「バーチー・ドクトル」と言われた。

 野枝からの手紙に対する不満も書いている。


 じようだんを書いて一々怒られてゐちや堪らないね。

 この間も又似たやうな事を、或はもつと意地悪くであつたかもしれないが、書いてやつたが、又うんと叱られるのかな。

 あんまりあまい事も書けないんで、仕方なしにあんな事を云つてやるんぢやないか。

 それを怒るなんて本当に馬鹿だな。

 人が一生懸命になつて仕事をしてゐるのに、いや好きな女中でなくてお気の毒だとか、ピンポンだのお花だらうなんて、本当に馬鹿もいい加減にするがいいよ。

 そんな事を言われたんぢや、もう仕事もよしだ。


(「消息・大杉」大正十一年十一月十一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一五六)





 十一月十一日、大杉は鵠沼の旅館東屋を引き払い、東屋の近くにある江口渙の家に行った。

 江口渙『続・わが文学半生記』によれば、江口は九月に北川千代と離婚し、ひとり暮らしを始めたが、千代が二ヶ月分の家賃を払っていなかったために借家争議になり、江口が労働運動社に応援を求めると古田大次郎と中浜鉄が応援に駆けつけた。

 古田大次郎『死刑囚の思い出』によれば、その日、湘南の秋は深まっていた。

 松の木に百舌が鋭く鳴き、鶏頭の花が紅に燃え、庭の隅の畑に赤い首輪をつけた黒い子猫が鈴をチャラチャラ鳴らしながら、しきりに何かにじゃれ廻っていた。


 門の戸がいきなりガラ/\と開かれた。

 今迄僕達の脇にヂツとうづくまつてゐた太郎さんはけたゝましく吠えて、飛び出した。

 訪れた人は大杉君だつた。

 吠えつく犬を叱りながら、マコちやんの手を引いて這入つて来た。

 二人の後には、洋服姿の村木君がニコニコしながら跟(つ)いて来た。

 例によつて大杉君は、原稿稼ぎに東家(ママ)に来てゐたのだ。

「これから東京に帰るんだ」

 少時、雑談を交わした後大杉君たちは立ち上つた。

 あの大きな眼にはいつものやうに人の好い、魅するやうな笑を浮かべていた。

 僕等が、大杉君を見たのは、実にこれが最後だつた。


(古田大次郎『死刑囚の思い出』/大森書房・一九三〇年)


「太郎」は江口の愛犬である。




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2016年10月19日

第380回 毛皮






文●ツルシカズヒコ



 十一月二日、野枝は大杉の次妹・柴田菊に手紙を書いた。

 宛先は「静岡市鷹匠町三丁目」。

 発信地は「福岡県糸島郡今宿村」。


 伸(のぶる)さんもとうたうなくなりましたよし。

 本当にお気の毒な事でした。

 もう漢口を立つ時にはよほど悪かつたものでせうね。

 前便に書きましたやうに、大杉の方からはそれに就いては何も聞けませんので分りませんが、遺体の仕末などはどうなるのでございませう。

 何事もお春さんの御厄介ですけれど。

 でもまあ、伸さんもおなじ旅先きでもお姉さんの介抱が受けられただけしあはせでした。

 私共も漢口辺で他人の中でなくなられたのでは心のこりもありますけれども。

 でも、何だかまだ本当になくなつたといふ気持がいたしません。


(「書簡 柴田菊宛」一九二二年十一月二日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、当時、大杉の長妹・秋山春は三菱商事社員の夫(秋山いく禧・いくぎ)の勤務先である上海に在住していた。

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 以下、「消息・大杉」大正十一年十一月三日〜八日(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)、大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』一五二〜一五四(伊藤野枝宛)から、抜粋要約および引用。

 十一月三日、東京の労働運動社宛ての野枝からの手紙が旅館東屋にいる大杉のところに転送されて来たが、「そんなにうはさや人の口を気にする奴があるかい。そんな事で世界を相手に喧嘩が出来るかい」と、大杉は野枝をたしなめている。

「うはさ」というのは、大杉が中名生静とデキてしまい、野枝が和田久太郎とデキているということであろう。

 この野枝の手紙は、大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)には収録されておらず、そのまま闇に葬られたのであろうか。

 筆者が推測するに、大杉と野枝の死後、同書の編集の時点で他の書簡に交じり野枝のこの手紙は存在したが、編集者(主に近藤憲二)が意図的に収録しなかったと思われる。

 それはなぜか?

 激した野枝の実名(たとえば山川均夫妻、堺利彦、和田久太郎など)入り罵詈雑言が、記されていたからではないだろうか。





 十一月四日、大杉は徹夜して朝八時に原稿を書き終えて、すぐ尾行を魔子のところへ使いにやって寝た。

 大杉と望月桂(画)の共著『漫文漫画』(アルス)が出版された十一月五日、大杉は昼過ぎに上京した。

『改造』の原稿は思ったよりだいぶ枚数が減ったので、前借を引かれて七十円ばかりしか貰えなかった。

 魔子が運動会で便所へ靴を落としたので、大杉は編み上げのいいのを買ってやり、さらに鼠色のセーター(いつか千代田屋で見た安い)も買ってやった。

 ブレットにはおむつカバーはもうひとつもなかったので、三越に行ってみることにした。

 大杉はフィルムは忘れたが、下駄二足と足袋二足を野枝に送り、色が「お気に召すかどうか知らないが……」「一足はおばさんに」と書いている。

 自宅兼労運社に寄ると、野枝が送ってくれたエビやカニやハゼの小包が届いていたが、すでにエビやカニは食べられていて、料理が面倒なハゼだけしか残っていなかった。

 ハゼは村木が酒を入れて「ぐつ/\やつてゐるが、果してうまく行くかどうか」。

 大杉は野枝に『労働運動』三次九号と『改造』十一月号を送る。

 大杉がここまで書いていると、赤化防止団の連中が立ち会い演説会の依頼に来たが、大杉は断った。

 堀幸雄『最新右翼辞典』によれば、この立ち会い演説会は神田の中央仏教会館で開催され、赤化防止団から米村嘉一郎、矢野富太郎ら、左翼から岩佐作太郎、近藤憲二らが出て討論が行なわれたが、警察から解散を命じられ会場が混乱すると、米村が日本刀で岩佐を斬りつけるという騒ぎになった。





 十一月六日、大杉は鵠沼の旅館東屋に戻ったが、十一月七日の昼すぎになって、この日、東京基督教青年会館で開かれる大島製鋼所の官憲横暴弾劾演説会に行きたくなり、魔子を鎌倉の長芝(村木の親戚)に預けて、上京。

 しかし、演説会は中止になっていた。

 服部浜次のところへ行った大杉は、服部が野枝に小包を送ったことを確認した。

 大杉が野枝に送ったのは着物で、大杉は野枝にこう書いている。


 ……縞がらがお気に召すかどうかは別として、少しジミだったやうな気もする。

 若しさうだつたら甚だ相すみません。

 新聞は朝日を三ケ月頼んで置いた。


(「消息・大杉」大正十一年十一月八日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一五四 伊藤野枝宛)





 大杉は新橋に向かう道すがら、毛皮屋に立ち寄り、面白いものを見つけたという。


 いつか三越でも見たのだが、羽織の下に着る毛皮のチヨツキ様のものだ。

 其のおもてのきれの縞がらもちよつと面白いし、洋服の上に着たら、オツなものだらうと思つた。

 でも少し長いから、それを縮めたり、つけひもだの脇の方にある前後の毛皮をとめてあるものなぞを少し直しさへすれば。

 しかし銀座にあるのは高かつた。

 百円だ。

 如何です。

 一つ奮発して見ましようかね。

 毛皮の外套とも思つてゐるんだが、うまく丈に合うやうな短かいのが見当らない。

 黙つてゐて何か突然送つてやつて、びつくらさしてやらうかと思ふんだが、おしやべりなので、やつぱりしやべつて了まふ。

 それに、本人がゐて、着て見るか如何かして見ないと、けんのんなんでね。

 ちよつといいと思つても、うつかり買へない。

 おばさんのや、エマやルイズのとも思うが、それはこんどお土産にする事にしよう。


(同上)





 鎌倉の長芝に預けた魔子は、二つか三つ泊まると言っていたから、大杉は明日あたりまた尾行を使いにやることにした。

 大杉は十一月六日半日と十一月七日半日で、「自叙伝」の書いた分を直した。

「書く時には随分一生懸命になつて書いたんだが、今見るとあちこちいやになつて仕方がないが、直すのも大変だし、大がいはその儘にして置いた。直ぐ改造社へ送つて、組みはじめさせる」。

 大杉の長弟・伸の臨終に立ち会ったのは長妹・秋山春だったが、春からの手紙を大杉は野枝に送っていた。

 伸の友人、袋一平がその手紙を見たがっているので、大杉は野枝にその手紙を袋に送らせた。

 大杉は長妹・春には返事は書かなかったが、春の夫の秋山にはすこぶる鄭重な礼状を近親一同に代わってというような書き方で出した。

 執筆に多忙な大杉は、そのせいで目を悪くして、目を冷やしながら奮闘、「早く仕事に一段落をつけて、当分又医者へ通はないと駄目だ」。

 無理をしているがしかし、「からだは割にいい。目方も十六貫を上下してゐる位で、それ以上には減らない」。

 大杉は最後に野枝に不満をぶつけている。





 どうです。

 お一人は、さぞ呑気でいい事でせうな。

 早く、早くと思つて、ただ正月を待つてゐる、どこかの厄介野郎の事なんぞは、もうどうしたつていいことでせうな。

 お邪魔さま。


(同上)



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第379回 東屋






文●ツルシカズヒコ




 一九二二(大正十一)年十月二十七日、大杉は福岡県今宿の実家に帰郷している野枝に手紙を書いた(「消息・大杉」/大正十一年十月二十七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)。

 以下、要約。

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 ●昨日、予定通り『相互扶助論』の印税が春陽堂書店から入ったので、四十円送った。

 ●残りはほかへ出て、あと十円だけになったので、いろいろな買い物は二十九日まで延ばす。

 ●この十円を持って、明日、ちょっと一晩泊まりで東北の方へ行ってくる。

 ●今日やっと雑誌(『労働運動』三次九号)の編集を全部終わった。

 ●久公(和田久太郎)の艶聞は、静ちゃん(中名生静)に騙されていることがわかった。本人のところに言ってやるなよ。先生、それでなくてもみんなに冷やかされて、ショゲ返っているんだから。

 ●久公と言えば、一昨日の晩、ある会合で怪しからん噂を聞いた。僕が静ちゃんとくっつき、久公が伊藤野枝とくっついたというんだ。

 ●そして大森辺(山川均の一派)では、それを大喜びしているということだ。どうだ、覚えがあるか。

 ●そんな風ないろいろな中傷や何かを寄せ集めて、今度「ボルシェヴィキの四十八手裏表」というのを、雑誌(『労働運動』三次九号)の下八段をぶっ通して書いた。

 ●野沢の婆さんを村木に訪わした結果は知らせたい。

 ●晦日(十月三十日)の日に、とにかく百円だけまた電カワで送る。





 十月二十八日、大杉は宇都宮から自動車で五里あまりの真岡に行き、二十人ばかり集まった同志会に出席した(「消息・大杉」大正十一年十月三十日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)。

 帰京すると、留守に来た改造社からの使いがまた来て、十二月号の論文を至急書いてくれという。

 アルスからも叢書(ファブル科学知識叢書)や種の起原を本年中に出したいと急いで来る。

 大杉は執筆に専念するため、十月三十日から二週間ほど、鵠沼海岸の旅館東屋に滞在することにした。


 仕事の予定は、

 自叙伝 十二月号の後半と一月号

 論文 十二月号(十二月号に総連合に就いての、友愛会やボルのコンタンを書いたが、こんどはその理論の方をやる。)

 論文 一月号(マルクスとバクウニンの喧嘩)
 無政府主義者の見たロシア革命(まとめるのと翻訳のまだ済んでゐないのとをやりあげる。)

 種の起原 科学知識の叢書(二冊)  半分やつて印刷所へ廻す。

 こんなに欲ばつて来て、果してやれるかどうか。

 それに此頃又、雑誌の編集以後すつかり目をわるくして了つた。

 けふなんかは真赤だ。


(「消息・大杉」大正十一年十月三十日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、十月下旬ころ、大杉は山鹿泰治に同行して来た黄凌霜と会見、黄は中国のアナキスト連盟の創立者である。

 十月三十日、野枝は江口渙に葉書(官製)を書いた。

 宛先は「神奈川県藤沢町鵠沼海岸六七三九番地」。

 発信地は「福岡県糸島郡今宿村」。


 おはがき拝見。

 あのフイルムは、寺田さんにまかせて来ました。

 うまくいつてゐるかどうかわかりませんが寺田さんに聞きあはして下さい。

 もしうまく行つてゐれば焼いて持つてゐる筈ですから。

 それからお序(つい)でのときに、久米さんが去年鵠沼でおうつしになつた大杉や私のフイルムを全部一寸(ちょっと)貸して頂けないか伺つて見て下さいませんか。

 引きのばして焼いておきたいとおもひます。

 人に持つてゆかれて、一枚もないやうになりましたから。


(「書簡 江口渙宛」一九二二年十月三十日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)






 大杉は東屋に魔子を連れて来ていた。


 又いつかゐたハナレの方の久米(正雄)のゐた室だ。

 隣りにも滞在の客がゐる。

 こんどはおとめさんの番だ。

 ここでの一番田舎者の、あのピンポンのうまい女ね。

 魔子に五時に起こされた。

 東京ぢや困つたが、こんどはあいつと一緒に起きて朝早くから勉強するんだ。


(「消息・大杉」大正十一年十月三十一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄書簡集』一五〇 伊藤野枝宛)





 十月三十一日、大杉は用事で鵠沼海岸の東屋から鎌倉に出かけ、留守中に次弟・勇が来て、大杉が東屋に連れて来た魔子を音楽の先生のところへ連れて行った。

 別居中の大杉と野枝だが、大杉は野枝に対して不満を漏らしている。


 きのう電カワで百円送った。

 魔子の着物を早く作つて送つてくれ。

 あのあちこち破れた汚ない青いの一枚ぢや仕方がない。

 きのうの朝手紙見た。

 御無心はどうぞいくらでも。

 金のあるだけは云ふ事をきく。

 但し別にさへなれば人の事なんぞどうとも思はない人間のは、一番あと廻しだ。

 松枝は其後どうしたの。


(同上)


※クロポトキン原著・大杉栄訳『相互扶助論』(春陽堂・一九一七年)/国立国会図書館近代デジタルライブラリ


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2016年10月17日

第378回 黒地の洋装






文●ツルシカズヒコ




 一九二二(大正十一)年十月十四日、野枝はエマとルイズを連れ、しばらく野枝の家に寄寓していた叔母・坂口モトとともに(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』)、今宿に向かった。

「黒地の洋装で野枝さん九州へ ーー糸島の母を喪つて帰る 明年春迄暖い九州で暮す」という見出しで『福岡日日新聞』が報じている。

「糸島の母を喪つて帰る」とあるが、亡くなったのは母ではなく祖母・サト(八十歳)である。

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 其筋の監視の眼で其身辺を包まれて居る例の社会主義者伊藤野枝女史は
 
 今年生まれの乳飲子を抱き黒地の洋装と云ふ扮装で十五日朝下関着の特急車から突然其姿を現はした

 頬の肉は落ちて蒼白く見えた

 連絡船の一隅に座を占めると同女は子供にミルクを含ませ乍ら記者に対して「貴郎(あなた)は警察ですか」と持前の尖つた神経を浴びせ乍ら語つた。


(『福岡日日新聞』一九二二年十月十六日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』資料篇)





 以下、野枝のコメントの要約。

 ●帰郷したのは昨今、健康を害したので暖かい九州でこの冬を過ごすため、そして祖母を失くしたので家事の整理をするため。

 ●かたわら、翻訳物の整理もしたい。

 ●中国の天津在住の大杉の三妹・牧野田松枝も来ることになっているから、いっしょにどこかの温泉にでも浸かりながら、仕事を進めたい。

 ●明年春ごろまで暖かい九州でのんびりと暮らしたい。

 ●大杉もそのうち来ることになっているが、書かなければならない原稿が溜まっているので、いつ来れるかは判然としない。

 ●いずれにしても保養のために来るのだから、八幡市で主義宣伝の計画があるがごとく世間で誤解されているが迷惑な話で、そんな暇はない。

 十月十七日、大杉は野枝に手紙を書いた。

 小包に同封した手紙らしい。


 今おむつと外に本を二冊送る。

 手工の本と昆虫記とだ。

 菊(妹)から伸(弟)に就いて書いて来た手紙も入れて置いた。

 やつぱりこつちで思つてゐたやうになつたんだね。

 辻(潤)からの手紙も入れて置いた。


(「消息・大杉」大正十一年十月十七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)





 十月二十一日、大杉は野枝に手紙を書いた。

 以下、要約。

 ●十月十八日の夜は徹夜して「自叙伝」を三十枚ばかり書いた。

 ●十月十九日、服部浜次のところに寄ると、みんなから「叔父さん(大杉)はひどい、伯母さん(野枝)はずいぶん淋しそうだったわ」と言って、叱られた。

 ●十月二十一日から『労働運動』三次九号の編集が始まるので、ひと休みしようと思って、十月二十日は天気も好かったので魔子と村木と三人で鵠沼に行った。

 ●「自叙伝」は一日遅れで『改造』十一月号には載らず、書き足して十二月号に載せることにして、その前借をした。

 ●金はまず二十円送った。

 ●明治屋でミルクをひと箱買って送った。二十三円四銭で送料が二円二十五銭、都合二十五円二十九銭かかった。高くついたかもしれないが、そばに大量にあれば心強いだろうと思った。

 ●ミルクと服部浜次のところにある外套は、客車便で代準介宛てに送った。

 ●今宿宛てにお茶を一送った。

 ●昨日だったか一昨日だったか、高野松太郎と北川千代夫妻が中名生のところに来て、おしゃべりして行ったそうだ。ふたりは連名で手紙をよこし、僕らのことを本当かどうかと聞いて、世間は嘘ばかり言っていやになるから、お互いに打ち明けて話をしようと言って来たのだそうだ。笑わせるね。

 ●静ちゃん(中名生静)は今月いっぱいでおいとまだ、御安心を。

 ●いつかの手紙は六銭の不足税を取られた。あなたには昔からこれでずいぶん損をかけられる。

 魔子についてはこう書いている。


 魔子の奴、憎らしくてね。

 ママはどうしたらうともちつとも云はないんだ。

 そして俺が毎日一度位ママの話をして聞かせても、ちつとも気のないやうな顔をしてゐるんだ。

 そして人に何か云はれても、お正月に行くんだからいいやい、と云つている。

 が、エマとルイズとの話しなら、少しは話しに乗る。

 妙な奴だね。


(「消息・大杉」/大正十一年十月二十一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)


 大杉はこのとき「自叙伝 六」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』では「母の憶出」)を執筆していたのである。

「自叙伝 六」前編が『改造』十二月号に、後編が一月に掲載された。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、十月二十三日、中国の三菱漢口支店に勤務していた大杉の長弟・伸(のぶる)が、肺結核治療のため帰国途中、上海の病院で死亡した。

 当時、上海にいて看病をした大杉の長妹・秋山春が、手紙で知らせてきた。

 大杉はその手紙を、伸の友人・袋一平に送った。

 十月二十四日、大杉は野枝に手紙を書いた。


 もう手紙が来さうなものだと思つて、心まちに待つてゐるんだが、どうしてゐる?

 ルイズは其後いいか。

 そんなに御ぶさたをするつもりなのなら、こつちにも其の考へがあるが、いいか。


(「消息・大杉」/大正十一年十月二十四日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)


 以下、要約。

 ●一昨日と昨日、二日かかって「革命の研究」「ボルの暴政」を書いたんで、今日はうんざりしてしまった。

 ●朝、馬鹿にいい天気だったので、飯を食うとすぐみんなを誘って小石川植物園に行った。例のお猿さんも見舞ったが、魔子は自分の持って行ったセンベイを猿が見向きもしないで、よその人の饅頭だのミカンだのばかり食うので、すっかりご機嫌を損じてしまった。が、それもお池の鯉ですっかりまた治った。

 ●昨日、飯野という名の下手な女文字の手紙が来た。開いてみると、野沢の婆さんだ。亭主(野沢重吉)が死んだ慈恵病院にいるそうだ。いろんな病気が出ているとある。ぜひおめもじしたいと言っている。あしたは面会日だそうだから、村木に十円ばかり持たして様子を見て来てもらう。どうせ用事は金のことなんだろうから。

 ●静ちゃん(中名生静)の肝入りで、久(和田久太郎)にちょっと艶聞があるんだ。

●それと、今日の朝早く、しょんぼりと源三(村木の叔父)がやって来た。酒の臭いはするが、いやにしょげ返っ ていた。源兄(あにい)にさんざん意見されて、といっても困ったら泥棒ぐらいする元気がなくっちゃ駄目だというような意見なのだが、二、三円貰って泣き泣き帰って行った。

 ●手紙をくれろよ。





 上記の手紙を出した直後に、野枝から「エビやカニの話のハガキと長い手紙とが来た」ので、大杉は野枝にこの日第二弾の手紙を書いた。


 エビやカニやハゼはぜひ欲しいね。

 此頃、でもない始めつからだが、うちの飯がまづくて食へないで困つてゐるんだ。

 早く、ストオブか何か買つて自分で食はうと思つてゐるんだが、そんな方の金はなか/\出て来ない。

 僕は又こんどは、あなたとはまるで反対なんだ。

 あなたのイメエジが、これは本当の事だよ、しよつちゆう目の前にちらついて邪魔になつて仕方がないんだ。

 そして魔子の奴があんまり平気でゐるんで、シヤクになつて仕方がないんだ。

 そしてその腹いせに、誰も話す人と云つてはないんだから、毎日魔子の奴にママの話しをして聞かしてやるんだ。

 御注文の品物や金は、多分あさつて、ちよつと金がはいりさうだから、直ぐ送らう。


(「消息・大杉」/大正十一年十月二十四日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)


 大杉は魔子と村木を連れて、福岡に行く算段をしていたらしく、その滞在先を野枝に探してもらっているらしき文面もある。



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第377回 求婚広告






文●ツルシカズヒコ



 一九二二(大正十一)年十月一日、『労働運動』三次八号が発刊された。

 大杉は近況をこう書いている。


 僕は本月(※十月)中に逗子の家を引払つて、女子供は当分九州の伊藤の家へ行き、僕自身は夏ぢうと同様、社にゐる事となつた。

 近藤の留守中社に来てゐた村木は、其儘やはり社に住みこんで、そして近藤は本月(※九月)始めから書店アルスへ出かせぎに出てゐる。

 尤も社に住んでゐて社の仕事をする事には以前と少しも変りはない。

 そして和田久は、本月(※九月)三十日の大阪での全国労働組合連合大会へ出かけて、そのまま大阪のどこかに落ちつく筈だ。

 そして又、昔のやうに社の支局をつくつて大いに関西地方に活躍する意気込みでゐる。

 前号から僕等の色合が非常に濃厚に出て来たのでいいと云つて喜んでくれる人が多い。

 本誌は当分此のボルシェヸキの破邪と、実際労働運動の批評紹介とで進む方針だ。


(「第八号・編輯室から」/『労働運動』一九二二年十月一日・三次八号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)

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 大杉は『改造』十月号に「自叙伝 五」とともに、「求婚広告ーー近藤憲二の印象ーー」を寄稿した。


 今ではいが栗坊主になつてゐるが、つい先達までは綺麗な長い髪の毛を房々と長くのばして、それが額の上に垂れさがつて来るのを終始気にしては五本の指で掻き上げてゐた。

 それを何処からの演説会の騒ぎの時に、多勢のお巡り共に取り囲まれて手どり足どりはまだいいとして、髪毛までもつかまへられて殴られたりしたのをひどく口惜しがつて、其の帰り路に安バリカンを買つて来て自分でガリ/\とやつて了つた。

 そして人さへ見れば直ぐ其のバリカンを取り出して、『君、そんな頭をしてゐちや損だよ』と宣伝しては、縁側に座らして新聞紙を広げて其の胸に当てさせる。

 これで大事な『怒髪衝天』の特徴はなくなつて了つたが、それでもまだ、奇峰のやうに聳え立つた肩と、大して大きくはないが炬のやうに光る眼と、口の右の角から上一寸ほどの鼻と並行してる何かの傷あととは、お巡り共をしり込みさせるに十分だ。

 ことしのメエデエの時、彼れが友愛会かどこかの旗を奪ひとつて、其の槍さきをふるつて単身警官隊の中に突撃して行つた光景の物凄かつた事は、今でもまだ仲間の間の話のたねになつてゐる。

 が、彼は好い男だ。

 僕が彼と一緒に行つたカフエの女給どもの間では、『あの好男子のかた』」で通つてゐる位だ。

 従つて、彼れ又よく女にほれられるのだが、女給にだつて戯談一つ言へない野暮天だ。

 ほれて来たつてちよつとよりつきようもない。

 そして、大がいは例の眼でにらみ帰されで了ふ。

 しかし、其の彼にだつて、二三年前にはちようど彼に似合ひの綺麗な若い女があつたんだ。

 今だつて決して女嫌ひという訳ぢやない。

『遊んだつていいんだけれど、どうも僕は直ぐ夢中になつて参つて了う癖があるんでね』と云つてゐる位だ。

 ついでに云つて置くが、彼れは今年二十八歳になる独身者だ。

 そんな風なので、そしてお負けに気の置けない友人とのほかは随分無口なので、敵や或はそれに似た人間共には大ぶ近づきにくいやうだが、しかし友人の間ではなか/\愛嬌者だ。

 もう三四年来僕の名で出してゐる雑誌『労働運動』の実際の経営者なのだが、商売用で行くどこの家にでも頗る評判がいい。

「実におとなしさうな、しかししつかりしたいい人ですよ。」

 と云ふのが、まあ定評だ。

 そして最近にはとうたうアルスの北原君に見こまれて、そこの番頭さんに住み込む事となつた。

 が、彼が『労働運動』の経営者であり、編集長である事には、ちつとも変りはない。

 やはり労働運動社の合宿の中にごろ/\している。

 彼れは早稲田大学政治科の出身だが、学校では文学部の方へばかり顔を出してゐた。

 そして今では政治経済の議論もちつともしなければ、文学臭い事もまるで云はない。

 社会主義同盟の時なぞに、其の執行委員の中の幹事として一番の働き手であつたのだが、それでも何一つ理屈らしい理屈を云ふた事はない。

 今でも、謂はゆる社会主義者等が、ボルシェヸキと無政府主義者とに分かれて、いろ/\といがみ合つてゐるのだが、そして彼れは其の後者に属してゐるのだが、彼れは黙つて何んにも云はない。

 そして彼れがしたいと思うだけの事をコツ/\やつてゐる。

 ボルシェヸキの奴等はちよつと理屈が違えば個人としても敵のやうに思つてゐるが、彼は其のボルシェヸキと平気でつき合ひもすればゆき来もする。

 どうだらう、これで彼れにほれて来て、そして彼れににらまれない女はないものかな。


(「求婚広告ーー近藤憲二の印象」/『改造』一九二二年十月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/『大杉栄全集 第14巻』)


 大杉らしい洒落っ気たっぷりの文章である。

 しかし、さすがの大杉も彼の死後、近藤憲二が大杉の末妹・あやめと結婚し、さらにあやめと死別した近藤が堺真柄と再婚するとは、想定外だっただろう。





『労働運動』三次九号(一九二二年十一月一日)の「編輯室から」によれば、大阪から帰京した大杉は風邪をこじらせて二十日ばかり寝込んだ。

 一九二二(大正十一)年十月八日、大杉一家は引っ越した。

『読売新聞』(一九二二年十月十六日の六面)に「大杉栄氏逗子の寓居を引き払い夫人伊藤野枝さんと市内本郷駒込片町一五労働運動社内に転居した」とある。

 労働運動社の二階には八畳と六畳の二間があり、その二間を編集室に使っていたが、八畳に大杉一家が住み、六畳は近藤憲二の部屋になった。

 野枝がエマとルイズとを連れて帰郷中には、二階の八畳には大杉と魔子が起居していた。

 一階の八畳が編集兼事務室になり、そこに中名生幸力(なかのみょう-こうりょく)と村木が机を並べ、六畳は玄関兼食堂。

 台所の奥の三畳は物置兼村木ご隠居の昼寝部屋である。

 そして寺田鼎が寝泊まりしたり、中名生の妻・静親子が毎日通ってきたり、労働運動社の大阪支局の和田久太郎がちょくちょく帰ってきたりしていた。

 十月十一日、大杉が翻訳した『昆虫記』(ファーブル著)第一巻が叢文閣から出版された。




※大杉栄『昆虫記』/国立国会図書館デジタル資料



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:31| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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