2016年09月29日

第361回 里見ク(一)






文●ツルシカズヒコ




 里見ク「春めいた日の出来事」によれば、魔子の手を引いた大杉が改造社の上村清敏と連れ立って里見の家を訪れたのは、春らしいうららかな陽が射す一九二二(大正十一)年三月の午前中だった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によればこの日は三月二日であるが、小谷野敦「里見ク・詳細年譜」によれば二月二十五日である。

 大杉は『改造』で「自叙伝」を連載していたが、その連載が前年の十二月号で中断していたので、上村はその打ち合わせに訪れたようだ(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

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 里見一家が四谷区右京町から逗子新宿に転居したのは前年の十月で、里見はその家に白酔亭と名づけた。

 里見は前年秋、鎌倉在住の次兄・有島生馬と一緒に上京した際、新橋駅のホームで生馬から大杉を紹介してもらったことがあった。

 逗子に引っ越して来た大杉一家とは家が近所だったが、お互いの家を行き来するほどの仲ではなかった。

 この日の大杉の来訪は、里見にとってはちょっと意外だった。

 この日の大杉は八端(はったん)の筒袖のどてらに兵児帯というくつろいだ格好だった。

 里見は大杉の思想は思想として、大杉が日常生活では要もない圭角(けいかく)など見せない人物であることを、久米正雄田中純などから聞いていた。

 また生馬に紹介された印象もそれを裏切るものではなかったので、里見は大杉の訪問を歓迎し二階の書斎に招き入れた。





 この年一番の春めいた陽気だった。

 ちょうどそのころ『時事新報』に、近松秋江が時候がよくなってくると畿内の山河が恋しくなり、月ヶ瀬から吉野の方へでも行ってみようかと思っているというような随筆を載せていた。

 里見も大杉もこの随筆を読んでいたので、その話になった。

「僕らが、こんなことを言っちゃあ、相済まないわけだけれど……」

 普段は少し凄いほどに鋭い目を、しきりにグリグリと動かすことにより、愛嬌をまき散らしながら、大杉がしゃべり始めた。

 そして、いくらか吃り加減の早口で、

「こんな天気の日に、月ヶ瀬あたりでもブラブラしてみたまえ、すっかり天下泰平になっちまうぜ」

 などと笑った。

「また実際あのへんの春はたまらない……」

 里見は十二、三年前の春に、志賀直哉と木下利玄と三人で月ヶ瀬を旅した呑気きわまる気持ちを思い出しながら、同感の意を表した。





 このとき、里見家には長男・洋一(五歳)、次男・鉞郎(四歳)、次女・瑠璃子(三歳)の三人の子供がいた(長女は夭折)。

 魔子(五歳)は洋一らとたちまち仲良くなり、階下で遊んでいたが、ときどきお菓子をねだりに二階に上がって来た。

 里見は訪問者があると洒落で「宿帳」に記帳してもらっていたが、大杉もこのとき記帳した。


 同住もまづいが とにかく 相憐れまうぢやないか ご近所の大杉栄

(里見ク「白酔亭宿帳よりーーその五 大杉栄」/『味の味』一九七四年六月号)


「白酔亭宿帳よりーーその五 大杉栄」には、その大杉の記帳した頁の写真が掲載されていて、魔子が書いた姉様の絵と「MAKO」というローマ字のサインもある。

 そのときの様子を里見がこう記している。


 二階の、私の書斎で、早速もち出した「宿帳」に、「同病」を「同住」ともぢつた、あまり冴えない文句を書き終るのを待ちかねたやうに、名は魔子でも、天真爛漫神にちかい愛嬢が、

 ーーあたしも書いてあげる、とばかり、父の手から筆をひつたくるや否や、ご覧のとほりの姉様と横文字の署名、同じ硯箱のなかに朱筆を見つけると、すぐさまそれで色をさし、

 ーーうまい/\と私が褒めるのにます/\気負ひ込んで、

 ーーぢやア、もつとかいてあげる、と頁をめくらうとするのを、親仁(おやじ)殿、慌(あわて)て、

 ーーもういゝ/\

 ーーいやア、もつとかくんだ、で筆の奪い合ひの揚句、二つ折りに抄(すく)ひあげられて縁側へ、見おろす芝生では……年子の、うちの子供たちが駆けずり廻つてゐる。

 よそのうちの子でも以心伝心か、いきなりあばれだして、父の腕からずりおりるなり、ドタバタと梯子段、呆れて見る間もあらばこそ、もう庭先へ、鞠の如くにはづみ出る……。

 ……魔子は……闊達自在の育ちとて、すぐさまガキ大将となり、その嬉しさ、楽しさ、

 ーーもうお午食(ひる)だから、と、とつ捕(つかま)へる父の腕のなかでピンシヤンはねる。


(同上)





「春めいた日の出来事」によれば、里見と大杉は一時間半ばかり話しこみ、大杉が帰り仕度をしたが、魔子が言うことを聞かない。

 玄関の三和土(たたき)にふんぞり返ってしまって、もっと遊んでいくか、洋一たちが自分の家に来なければいやだと駄々をこねた。

 さすがの大杉も手こずっていた。

「じゃあ、送って行ってあげよう」

「送るだけじゃあ、いや、うちに来て遊ぶの」

「よしよし、じゃ洋一、行こうよ」

 里見はとうとうふたりの男の子を連れて、一緒に出かけた。

 尾行がすぐ後からついて来た。

 役場の書記のような人のよさそうな男だった。

 葉山街道まで来ると、人垣ができていて巡査や憲兵がうようよいた。

 それは摂政宮殿下の一行が通過するのを見物する人垣と警戒をする面々だった。

 こいつは厄介だという表情で、大杉が巡査のひとりに、

「どうだい、うちまで帰る時間があるかね」

 と声をかけると、巡査は苦々しげに胸のポケットから時計を取り出して言った。

「ええ。すぐいらっしゃれば間に合います」

 言葉は丁寧だったが、うさん臭い目つきが八方から里見と大杉たちに注がれた。

 改造社の上村は停車場の方へ行ったが、大杉がすぐに連れて帰ろうとする魔子と里見の子供たちの意見が食い違った。

 洋一たちは「宮様の赤い自動車」を見たいと言うし、魔子は帰るなら洋一たちが一緒でなければいやだと言う。

 しまいには、手を取って引っ張りっこが始まった。

 そのうちに時間が経つ。

 とうとう、大杉までが人垣の後ろに立って、摂政宮殿下の「お通りを拝む」態(かたち)になってしまった。

 目立たぬほどに、私服がそろそろと寄って来て、この社会主義一方の大立者を取りまいてしまった。

 里見は子供たちがよく見えるように、魔子も連れて前の方に行ったが、さすがに大杉をそうはできない。

 子供たちの歓声が上がり、赤い自動車がたくさん通った。





 そのうちの一つには、学習院で上の級にゐた男が、高帽(トールハット)などをかぶつて、すましこんでゐた。

 それをちよつと滑稽に思つたくらゐで、私の心はまつたく水のやうに淡々たるものだった。

 恐らく、大杉氏だつて、似たやうな気持だつたに違ひない。

 或る一人の善良らしい青年に対して、特に憎悪の念など抱けさうには思われないのだ。

 ーー筒つぽのどてらを着た大杉氏は、しかし私服や警部たちに、もの/\しく取り囲まれて、苦りきつて立つてゐる……。

 ……いつの間にか、私には、朝からの晴々とした気持が失はれてゐた。

 まだ強情をはり通さうとする魔子君や、大杉氏に別れを告げて、子供たちの手を引いて、私はうちの方へ帰つて来たが……もう「春の最初の訪れ」といふやうな感じではなかつた。

 理由なしに、心持が陰鬱にされて行つた……。

 この「出来事」のために、私の身元が、四谷署で、詳しく調べられたさうである。

 それを聞いた時には、いふまでもなく、なほさら不愉快にされた。

 もとより大杉氏の来訪に対してではない。

 また、警察のやり方だけからでもない。

 ……こんな、気持の食ひ違つたやうな世の有様が見られるのは、とにかく、聖人君主の代(よ)ではあるまい……。


(「白酔亭漫記3・春めいた日の出来事」/『新小説』一九二二年六月号/『里見ク全集 第十巻』筑摩書房)


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第360回 浅原健三






文●ツルシカズヒコ




 一九二二(大正十一)年二月一日、『労働運動』三次二号が発刊された。

 野枝は「無政府の事実」の後半を寄稿している。

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 二月五日、福岡県八幡市の映画館「有楽館」で八幡製鉄所罷工(ひこう)記念演説会が開催された。

 八幡製鉄所の労働者がストライキに突入、八幡製鉄所の大罷工を決行したのが、二年前の二月五日だった。

 大杉、近藤憲二、和田久太郎、岩佐作太郎、渡辺満三が記念演説会に参加した。

 大杉らを招いたのは、八幡製鉄所の大罷工を指導した浅原健三だった。

 浅原健三『溶鉱炉の火は消えたり』によれば、大杉だけが近藤たちと別行動で九州入りした。

 出迎えた浅原が変装した近藤たちの風体を、こう記している。

 近藤は「ハンチング、巻ゲートル、小さいズツクの手提鞄といった軽装」、岩佐は「毛皮の襟巻で顔の半分を埋め、帽子は深く額を閉してゐるので、顔だけでは判らないが、彼の田舎小学校の校長さん然たる風態(ふうてい)」、和田は「ハンチングをグツと眼深(まぶか)にかぶつて、襟巻で鼻の上まで包んでゐるが、ロイド眼鏡の底で梟(ふくろう)の眼のやうにグルリとした円な眼」。





 午後七時に開会、渡辺、和田、浅原、近藤らに続いて大杉が登壇した。

 大杉が招かれていることは公表されていなかったので、「只今、東京から駆けつけた、我が国無政府主義者の巨頭、大杉栄君を紹介します」という主催者の紹介に、会場内は騒然、「わあっー」という歓声と嵐のごとき拍手が巻き起こった。

 大杉は悠々と舞台に出た。

 ベルト付きのオーヴァ・コートを着たまま、ネクタイはない、純白の襟巻きがのぞいていた。 

 大杉が演壇に立つと、浅原と近藤がその背後に立ち、その後ろには三十人ばかりの同志がずらりと並んだ。

「私が大杉栄であります」

 二階の一隅から「本物ですか」という声が聞こえた。

「いや、まったくの本物です」

 例のように吃りながら話す大杉だった。

「近ごろ偽物の大杉が徘徊するが、けれども、僕は本物である」

 聴衆がドッと吹き出した。

 大杉たちはその夜は浅原の家に宿泊し、朝まで語り明かした。






 翌二月六日の朝、浅原が大杉と一緒に洗面をしていると、大杉はカバンから七つ道具を取り出した。

 まず石鹸で丁寧に洗顔をし、当時はまだ珍しかった安全剃刀で入念に髭を剃り、剃りあとにはフェイス・クリームを塗り、髪にはポマードをつけて櫛を通した。

 無精者の浅原が言った。

「そんなことを毎日していたら、留置所や監獄で困るじゃないか」

「だから、俺は検束されると洗面道具を真っ先に差し入れてもらうんだ」

「へえ……忙しいのに、下らぬことをする暇があるものだねえ」

 大杉は心持ち顔を赤らめて、キマリ悪そうに「ううん」と言った。

 この日、大杉は今宿の野枝の実家を訪れ一泊したが、浅原がこう記している。





 ……大杉は福岡市外の今宿、伊藤野枝の郷里に行くと云つて出かけた。

 今、此所(こつち)の松林の中に、彼と野枝との自然石の共同の墓地が在る。

 彼は一年有半後の自分の運命を知らずに、墓地見分に出かけたやうなものであつた。


(浅原健三『溶鉱炉の火は消えたり』/新建社/一九三〇年)


 二月に「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止する過激社会運動取締法案が帝国議会に提出されたが、三月一日、その反対演説会が東京基督教青年会館で開かれ、大杉は近藤憲二らと聴講に行った。

 過激社会運動取締法案は結局、廃案になったが、三年後に治安維持法として成立する。


浅原健三



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2016年09月27日

第359回 猫越(ねっこ)峠






文●ツルシカズヒコ


 絵画の道具を持ち伊豆方面に写生に出かけた久板卯之助は、一九二二(大正十一)年一月二十二日午後、天城山中猫越(ねっこ)峠で凍死しているのを発見された。

 神近市子によれば、久板は前年の十二月二十五日、居候をしていた池尻の神近の家から伊豆に出発した。


 ……暮れの二十四日になって、突然伊豆へ写生に行くといい出して、私たちを驚かせた。
 
「せめてお正月をいっしょに迎えてから、お出かけになったら……」

 と私たちは引きとめた。

 お金も十分にないだろうからとはいえなかったが、むろんその意味もあった。

「伊豆には知り合いがあって、来いといってくれますから、あすでかけます。絵をかいてくる約束で二、三人から前金をもらいました」

 といって、有島武郎氏や数人の文士の名を挙げた。

 その晩は久板氏が好きな鱈チリで別れの晩餐会をした。


(『神近市子自伝』・講談社・一九七二年三月)


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 小松隆二『大正自由人物語』(岩波書店・一九八八年八月)によれば、久板は下田方面から天城山中猫越峠を越えて、湯ケ島方面に出ようとした。

 峠の麓の宮ノ原を発ったのは一月二十一日午後三時半ごろだった。

 健脚が自慢だった久板は、茶屋の老婆の制止を振り切って出かけたのだった。

 この日は数十年ぶりの寒さだった。

 一月二十五日、岩佐作太郎、村木源次郎、望月桂らが現地に急行した。

 望月らが尽力し猫越地域の人々の厚意により「久板卯之助終焉の地」という石碑が伊豆・湯ケ島に建てられた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一月上旬から伊豆地方に写生旅行をしていた久板は、六十センチ余の新雪と暗闇と寒さに倒れ、二十二日に峠を七、八丁越えたところで死体が発見された。

 地元・上狩野村の村人が遺体を運び納棺して火葬に一夜を費やしてくれたという。

『労働運動』三次三号は「久板君の追悼」特集をし、大杉は「久板の生活」を寄稿、野枝も「決死の尾行」を寄稿した。





 久板さん程よく歩いた人はさう沢山はあるまい。

 其の死が、やはり健脚が災ひした形になつてゐるのも、考へて見れば不思議はない。

 今の労運社の直ぐ下の曙町に最初の労働運動社があつた頃、駒込署では久板さんの尾行に非常に困つた。

 誰も彼も、久板さんの尾行と云ふと尻込みしてなりてがなかつたさうだ。

 最初の久板さんの尾行は二十の上を幾つも出ない血気盛んの丈夫な男だつた。

 処が此の男久板さんに尾(つ)いて歩いてゐるうちにすつかり体を壊してしまつた。

 先づ久板さんの徒歩主義が此の男を可なり弱らした。

 しかも余程敏捷にしないと、一日中食事をする時間がない。

 隙を見ては何かを頬張るなり掻つ込むなりする。

 が、直ぐに歩き出さなければならない。

 おまけに毎日食事時間がちがふ。

 食べる物も行きあたりバツタリ手当り次第の出鱈目で、或る時には、朝から晩まで飲まず食はずでゐなければならない。

 彼はとうとう此の不規則な乱暴な食事の為に胃腸をこわした。

 それに過度の疲労が手伝つて、この男は僅かの間に死んで了つた。

 で、他の連中がそれを見聞きして、久板さんの尾行には決死の覚悟が要ると宣伝し初めたと云ふ話だつた。

 私達が鎌倉へ越してからは、一度か二度会つたきりでもう長い事会ふ機会がなかつた。

 久板さんが死んだ、と聞いても、生憎(あいにく)の風邪で告別も出来なかつた私は、今でも、どうしても久板さんが死んだとは思へない。

 機会さへあれば、何処かで『やあ』と手をこすり合はせてにこにこしてゐる久板さんに会へるやうな気がして仕方がない。


(「決死の尾行」/『労働運動』一九二二年三月十五日・三次三号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一月三十一日に神田中央仏教会館で約百人列席の告別式が営まれたが、野枝は風邪のため列席できなかったようだ。

『定本 伊藤野枝全集 第三巻』の「決死の尾行」解題によれば、久板が大杉グループと疎遠になったのは、第二次『労働運動』のアナ・ボル提携に批判的だった久板が、『労働者』の労働者グループに参加していたからである。



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2016年09月23日

第358回 ヒサイタアマギニシス






文●ツルシカズヒコ




 一九二二(大正十一)年一月五日、野枝は江口渙千代子宛てにハガキ(官製)を書いた。

 宛先は「神奈川県藤沢町鵠沼海岸六七三九番地」。


 お帰りになつたことを新聞で拝見。

 お伺ひしようと云つてゐますが、大杉は元日早々から二月号の原稿をせめられて書いてゐまして、なか/\ひまになりません。

 何卒あなたの方からお出かけ下さい。

 お待ちしてゐます。

 私共は今本当に二人きりです。

 女中なしの処に子供を二人とも叔母と従妹で九州に連れて行つてしまひましたのでさびしくてたまりません。

 大杉は毎日二階で仕事をしてゐますし、私はひとりで下でポツンとしてゐます。

 何卒出かけてゐらして下さい。

 お待ちしてゐます。


(「書簡 江口渙・千代子宛」・一九二二年一月五日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 野枝が「お帰りになつたことを新聞で拝見」と書いているのは、江口が前年の秋から冬にかけて栃木県那須温泉の小松屋で暮らしていたが、そこを引き上げて鵠沼に住むことになったことを指している(江口渙『続 わが文学半生記』)。

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 一月十六日、野枝は東京監獄に入獄中の堺真柄にハガキ(官製)を書いた。

 真柄は前年十月に起きた軍隊赤化事件(暁民共産党事件)に関与し、東京監獄の未決檻に入獄中だった(近藤真柄『わたしの回想(下)』)。

 宛先と宛名は「東京市牛込区市谷富久町 東京監獄内 堺まがら様」。

 ハガキ表の発信地は「相州逗子町」。


 どうです、未決檻のゐごゝちは?

 長い接見禁止には、さぞいやにおなりでせう。

 早くお目に懸りにゆかうと思つてゐますが少し風邪気味なのでまだ果しません。

 がぜひ近日お目にかゝりにゆきます。

 寒さがお正月以来急にはげしくなりましたからさぞ体にきくでせう。

 何卒大切にして風邪をひかないやうになすつて下さい。

 体さへうまくもつてゆけば、精神を破られるやうな事はありません。

 其のうち無聊(ぶりょう)をなぐさめるやうな手紙を書いて送ります。

 今日はこれで失礼。

 十六日


(「書簡 堺真柄宛」・一九二二年一月十六日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 林倭衛は前年七月に絵を学ぶために渡仏していたが、一月末、野枝はアルルに滞在中の林に手紙を書いた。


 ファブルの書物有難うございました。

 私共も幸ひに皆な無事です。

 殊に大杉は病気以来すつかり体がよくなつて、此の節ではもう十七と云ふ大きな体になりました。

 昨年の十一月……逗子に越して来ました。

 今度は鎌倉の家とは較べものにならぬほど広い邸です。

 家も広いし庭もかなりあります。

 あなたが此方にゐらつしやれば貸してあげたいやうな広い西洋室もついてゐます。

 何しろ門内に六畳三畳という番人の家までついてゐるのですから大したものです。

 それでも、日本一の方だからと云ふので、家賃なんか一文もいらないと云ふ結構な家主さんですから全く申分なしでせう。

 あなたもつまらないフランス三界をうろついていないで帰つて来てはどうです。

 相変らずお酒を飲んでゐるのでせうね。

 安くていいお酒が飲めるのだから、それだけでもそちらの方がよささうなものですのにね。

 大杉も奥山さんにすすめられて、此頃はウヰスキイを少しづつ飲む、と云ふよりはなめてゐます。

 何しろ、茶さじに二杯のウヰスキイで陶然とするのですから世話なしです。

 それでも、兎に角、三月に一本位の割にはなるのでせうね。

 タバコはやつぱし我慢してゐます。

 いやなお知らせをしなければならないようになりました。

 それは久板さんの死です。

 二十四日の夕刊に『偽大杉栄凍死』と云ふ題で、四十五位の男が天城山のある峠で二尺位の積雪の中に死んでゐた、懐ろには大杉栄の名刺三枚を持つて、何処のものとも知れない、とあるのです。

 私達は、二人で笑ひながらその新聞を見てゐたのです。

 するとそれから三十分ばかりすぎに「ヒサイタアマギニシス」と云ふ電報が東京から来ました。

『如何にも久板らしい死に様だな』と大杉は云ひました。

 本当にさうです。

 けれども、何んと云ふ可哀さうな死に方でせう。

 凍死は非常にいい気持に眠つて死ぬのださうですが、それでもあんまり情けないやうな気もします。

 私の考へでは、伊豆の風景は、嘗つて宮崎安右衛門と云ふ人と二度ばかり伊東あたりに滞在してゐてよく知つてゐるので、絵を描きに出かけて行つたのだらうと思ひます。

 四十すぎて、本当の興味を打ち込む事を見出して、その為めにさういふ最後にまで行つたと云へば、久板さん自身にとつていい最後だつたのかもしれません。

 今後生きてゐても、どれだけその生活を享楽する事が出来得るようになるかどうかは、全くわからないのですからね。

 まあ恐らくは一層惨めにする位だつたのかも知れませんものね。

 けれども、本当に人間と云ふものは何時何処でどんな死方をするか分りませんね。

 死骸を引きとりに、昨日村木(源次郎)、岩佐(作太郎)、望月(桂)と三人で大仁に出かけて行つたさうです。

 あなたの描いた久板さんの肖像も思ひ出の深いものになりました。

 亀戸時代からあの肖像画をお描きになつた頃が、あの人の一番元気のいい盛りだつたのですね。

 あなたは、度々ベルリンにゐらつしやるのならば今度森戸辰男氏を訪ねて御覧なさい。

 此の四日に奥さんが坊ちやんを連れて出かけてお出になりました。

 いづれ家をお持ちになるのでせう。

 森戸さんも奥さんも気持のいい方ですから訪ねて御覧なさい。

 私共の名前を云つてゐらつしやれば、きつと気持よくおつき合ひが出来ようかと思ひます。

(もつとも、お酒は飲みませんよ。)

 野枝

 林倭衛様


(「書簡 林倭衛宛」・一九二二年一月末推定/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


「あなたの描いた久板さんの肖像」とは、一九一八(大正七)年九月の第五回二科展に出品された林倭衛「H氏肖像」のことである。



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第357回 徳富蘇峰






文●ツルシカズヒコ



 内田魯庵『思ひ出す人々』が出版されたのは、一九二五(大正十四)年だった。

 一九二八(昭和三年)に出版された、徳富蘇峰好書品題』に「思ひ出す人々を読む」が収録されているが、これは蘇峰が魯庵の『思ひ出す人々』を読んで書いた一文である。

 蘇峰と魯庵はほぼ同世代であるから、ふたりが交わった人々も重なるものがある。

 魯庵の『思ひ出す人々』には「最後の大杉」という一文が収録されていて、これは魯庵一家と大杉一家との親交を書いたものだが、蘇峰も「思ひ出す人々を読む」の中で大杉との交流について言及している。

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 魯庵君は、最後の大杉栄と題して、大杉栄に就き、微にして婉なる追憶記を掲げてゐる。

 記者は大杉に対して、何等同情す可き理由を持たない。

 併(しか)し偶然の事から彼と相知り、相語る機会を得た。


(「思ひ出す人々を読む」/徳富蘇峰『好書品題 蘇峰叢書4』・民友社・一九二八年四月二十七日)





 蘇峰が病を養うために逗子に「老龍庵」という居を構えたのは一九一九(大正八)年八月だったが、大杉一家が借りた家は逗子停車場と「老龍庵」の中間にあった。


 其の家は先づ中等以上の邸宅と云うても、苦しくなかった。

 其の周辺には、警察の見張小屋が設けられた。

 記者は大杉の容貌風彩(ふうさい)を前知しなかつた。

 されど逗子東京間の汽車中にて、其の随伴者の熟面警吏によりて、記者の向に座したるものが、大杉たるを知つた。

 大杉は立派な服装をしてゐたが、何となく意気軒昂で、車中を睥睨(へいげい)するが如き態度を持してゐた。


(同上)





 汽車の中で蘇峰が自ら脱帽し大杉に挨拶をし、大杉の隣りの席に座り、新橋までの間、ふたりは種々の談話をした。

 このとき、蘇峰は五十八歳である。


 記者は必ずしも交(まじはり)を求めたのではない。

 然(しか)も機会があらば、予の意見を、彼に語りたいと思うた。

 固(もと)より彼を改悔(かいくわい)せしめんと試みたのではない。

 然(しか)もせめて我等の側の意見の、何者であるかを、知らしめんと欲したのであつた。


(同上)


 大杉は吃ったが、談話を好んだ。

 ふたりは敢えて議論を避けていたが、お互いに腹蔵なく語り、相互の意見を聞いた。

 それ以来、停車場や汽車の中で遭遇すると、蘇峰と大杉は会話をするようになり、蘇峰は野枝や魔子とも相知る関係になった。





 蘇峰は野枝についてこんな記述をしている。


 爾来大杉とは勿論、野枝とも汽車中にて相見た。

 其の子供とも相見た。

 野枝は熊本に在りたとて、互ひに熊本に就いて語つた。

 而(しか)して野枝の話には『先生の御本は、私共の仲間では、獄中で能く読んでゐます。先生の御本は、読みでがありますから、獄中の差入物には、誠に調法であります。』と。

 記者は之を聞いて、獄中でなくとも、娑婆にても、読んでいたヾきたいものであると、笑ひつゝ答へた。

 野枝は農村の問題などを研究しつゝありとて、種々の質問をした。

 彼女の風采(ふうさい)は、大杉の堂々たるに比して、較べものにならなかつた。

 田舎の女子師範学校の生徒とも紛ふばかりであつた。

 老龍庵の側(かたわら)に、饅頭屋がある。

 そこに野枝は子供を携へ、警吏を随伴して、屡(しばし)ば往(ゆ)くから、老龍庵の光景は、外から瞥見したと語つた。


(同上)


 野枝たちが獄中の同志に差し入れていた蘇峰の著作は、蘇峰のライフワークとなった『近世日本国民史』だろうか。

 wikiの徳富蘇峰の「歴史家蘇峰」の項に「杉原志啓によれば、アナキストの大杉栄が獄中で読みふけっていたのが蘇峰の『近世日本国民史』であり」とある。





 蘇峰は大杉に関してこんな記述もしている。


 大杉は本郷教会で洗礼を受け、又た現枢密院顧問官某氏から、屢(しばし)ば示諭(しゆ)を蒙(かうむ)つたなどと語つた。

 而(しか)して其の自伝の出版せられたならば、進呈す可しと云うた。

 余は又た大杉に向て、君は何故(なにゆゑ)に賀川豊彦氏の事業を妨げんとする乎(か)。

 過日も同氏の演説会を打毀(うちこは)しにかゝつたと聞く。

 賀川氏は余と知人である。

 今後は左様なる手荒らき事は、差控へては如何と云つた。

 併(しか)し大杉は此れに就(つい)ては、明白な返答を与へなかつた。

 余と大杉の交際は、停車場、若(も)しくは汽車中のみにて、互に往来はしなかつた。

 大杉は車中でも、原稿を携へて、それを読んでゐた。

 或時は之(これ)を予(よ)に示して、私共の文章は、此(かく)の如く、苦心を要す、然もそれでさへ中々其筋の通過が、面倒であると云うた。


(同上)



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2016年09月20日

第356回 無政府の事実






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『労働運動』三次一号に「無政府の事実」の前半を書いた。

 以下、抜粋要約したが、〈二〉の一部は引用。


〈一〉

 ●無政府主義は理想である、空想であるという非難がある。

 ●中央政府の手を借りなければ、どんな自治も可能にならないという。

 ●聡明な社会主義者ですら、無政府主義の「夢」を嘲笑っている。

 ●しかし、私たちの祖先から今日まで伝わっている村の小さな「自治」の事実が、無政府主義が「夢」ではないことを証明していると思う。

 ●いわゆる「文化」の恩恵を充分に受けることができない地方に、権力も支配も命令もない、ただ人々が必要とする相互扶助の精神と真の自由合意による社会があるのではないだろうか。

 ●それは中央政府の監督下にある「行政」とはまるで別物で、「行政機関」という難しいものがなかった昔、必要に迫られて起こった相互扶助の組織が、今日まで表向きの「行政」とは別個に存続してきたのである。





〈二〉

 ●自分の生まれた村について直接、見聞きした事実とそれについての考えを書いてみたい。

 以下、引用。


 私の生まれた村は、福岡市から西に三里ばかり、昔、福岡と唐津の城下とをつないだ街道に沿うた村で、父の家のある字は、昔、陸路の交通の不便な時代には、一つの港だつた。

 今はもう昔の繁盛のあとなどは何処にもない一廃村で、住民も半商半農の貧乏な人間ばかりで、死んだやうな村だ。

 この字は、俗に『松原』」と呼ばれてゐて、戸数はざつと六七十位。

 大体街道に沿うて並んでゐる。

 此の六七十位の家が六つの小さな『組合』に分かれてゐる。

 そして此の六つの『組合』は必要に感じて連合する。

 即ち、一つの字は六つの『組合』の一致『連合』である。

 しかし、此の『連合』はふだんは解体してゐる。

『組合』は細長い町の両側を端から順に十二三軒か十四五軒づつに区切つて行つたもので、もう余程の昔からの決めのままらしい。


(「無政府の事実」/『労働運動』一九二一年十二月二十六日・三次一号/『労働運動』一九二二年二月一日・三次二号/大杉栄と伊藤野枝共著『二人の革命家』・アルス・一九二二年七月十一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 ●「組合」も用のないときは、解体している。型にはまった規約もなければ、役員もいない。

 ●「組合」を形つくる精神は、遠い祖先から「不自由を助け合う」ということのみだ。

〈三〉

 ●組合のどの家も太平無事なときには組合の仕事は何もしないが、ある家に何かが起これば、すぐに組合の仕事にとりかかる。

 ●家数が少なく、家と家が接近しているので、ある家に何かが起こればすぐに組合中に知れ渡る。

 ●知れば仕事を半ばにしても、すぐ駆けつけるか、事前に相談をする。

 ●相談する場所もその時々で変わり、誰かの家の土間だったり、誰かの働いている畑ですむこともある。
 
 ●人が集まればすぐに相談が始まり、みんな思うことを正直に言い合う。
 
 ●そこには他人の思惑を気にして、自分の意見を言うことに臆病になる空気がまったくない。

 ●村長だろうが、日雇いだろうが、自由に思うことを述べる。年長者や家柄が田舎の習わしで尊重されはするが、仕事の妨げになるようなことはない。

〈四〉

 ●相談の結論は誰がつけるのか? それもみんなでつける。

 ●相談は具体的な、誰の目にも明らかな事実に基づくことであり、結論はひとりでに出る。誰かに暗示されるようなことはない。

 ●しかし、どうかして意見がまちまちになり、どうしても一致しないことがある。

 ●幾人もの見方がそれぞれ違い、その理由も複雑で、容易にどれが真に近いのかわからないようなことがある。

 ●そういう場合は、幾晩も集まり熱心に話し合う。

 ●できるだけみんなが正しいと思う標準から離れないように努める。

 ●みんなが納得できないような理屈を言ったり、それを押し通そうとしたりする者があれば、みんなが納得できるように問い糺す。どうしても納得できず、それが正しい方法でもないとわかれば、みんなは正面からその人間をたしなめる。





〈五〉

 ●ある家に病人が出る。すぐに組合中に知れる。みんなは急いでその家に駆けつける。

 ●そして医者を呼びに行くとか、近親の家に知らせに行くとか、看病の手伝いなど親切に働く。

 ●病人が少し悪いとなれば、二、三人ずつ交替で毎晩徹夜して看病する。

 ●人が死ぬと、方々の知らせ、その他の使いはもちろん、墓穴を掘る、棺をかつぐ、葬式に必要な一切の道具を作る、大勢の食事の世話、何から何まで組合が処理する。

 ●子供が生まれるときは、組合の女たちが集まる。産婦が起きるようになるまで一切の世話を組合の女たちが引き受ける。

 ●みんなから好かれる家ばかりではない。陰口もささやけば不平も言うが、手伝っている仕事を粗末にするようなことはない。その家に対する各人の感情と、組合としてしなければならないことは、ちゃんと別物にする。

〈六〉

 ●組合員はときどき懇談会をする。たいていどこか一軒の家に集まり、午餐のご馳走を食べたり飲んだりする会で、米何合、金いくらと決めて持ち寄る。

 ●他家の葬式、病人、出産婚礼、なんでも組合で手伝った場合には、たいていの買い物は組合の顔で借りてすます。お金の計算は手伝いの後でやり、その会計の報告を家の人にして、組合の仕事は終わる。

 ●みんなが組合に対して持つ責任は、押しつけられたものではなく、大勢の人にたいしてすまないという良心に基づいている。

 ●だからなんの命令も監督もいらない。

〈七〉

 ●火の番、神社の掃除、修繕、お祭りなど、ひとつの字を通じてやる仕事は、六つの組合が一緒になってやる。

 ●この場合、各組合から二、三人の人を出して相談する。

 ●相談が決まって仕事に取りかかるときには、小さな組合は解体して、連合がひとつの組合になる。

 ●連合の単位は組合ではなく、一軒ずつの家だ。





〈八〉

 ●神社の修繕費などは、みんなで相談して貯金をする。字全体の戸主の名を書いた帳面と一緒に、一戸から三銭とか五銭とかと決めたお金を入れる箱が回される。箱は間違いなく隣りから隣りへと回っていく。

 ●母親たちが、学校へ通う道が悪くて子供たちが難儀するとこぼす。するとすぐに、誰かの発議で暇のある人たちが道を平にしてしまう。

 ●こうしてすべてのことが実によく運んでいる。他との協力が必要な場合は、字全体でひとつになる。

 ●村の自治と村役場の行政は別ものなのである。

 ●大部分の人は組合の相談には熱心だが、村会議員が誰だとか村会で何が議題になっているかなどには無関心だ。

 ●村役場は税金、戸籍、徴兵、学校のことなどの仕事をしているところというのが、たいていの人の役場に対する考え方だ。

〈九〉

 ●村の駐在や巡査も、組合のおかげで無用に近い観がある。

 ●個人間の喧嘩でも、家同士の不和でも、たいていは組合でおさめてしまう。

 ●泥棒が捕まっても、土地の者はもちろん、他所の者でもなるべく警察には秘密にする。

 ●最近、ある家の夫婦が盗みをした。度々のことなので、おおよその見当をつけていた被害者に証拠をおさえられた。

 ●盗まれた方も盗んだ方も同じ組合だったので、さっそく組合の人が駆けつけた。盗んだ夫婦はみんなから散々、油を絞られた。

 ●以後、こんなことは決してしないと盗んだ夫婦が謝罪したので、被害者の主人も許すことにした。

 ●組合は盗んだ夫婦が再度こんなことをしたら組合から仲間はずれにするという決議をして、一件落着した。

 ●この事件に対する村の人たちは、たいていこう考えている。

 ●盗みは当然、よくないことだ。しかし、盗みをはたらいた者を監獄にやってどうなる。彼らにも子供もあれば親類もある。その人たちの迷惑も考えてやらねばならない。盗みをはたらいた者は、組合の人たちの前で謝るだけで充分に恥じている。この土地で暮らそうと思うなら、組合から仲間はずれになるようなことは、もう仕出かさないだろう。二度と盗みをさせないように、まわりが用心して、機会を与えないようにすることだ。それで盗みをはたらいた者は救われるだろう。





〈十〉

 ●この話は字の者の耳には入っているが、巡査の耳には入らないように充分に注意されている。

 ●普段、巡査と親しくしていても、決してしゃべらない。

 ●巡査にしゃべる人があれば、たちまち村中の人から警戒される。

 ●役人というのはそもそも昔から、他人の不幸を狙っているような役回りである。巡査に秘密にするのは、村の平和を保護しようとする、真の自治的精神ではないだろうか。

 ●組合が課す懲罰の最後は、仲間はずれであり、それはすなわちその土地から追われることである。

 ●ある組合から仲間はずれになったら、他の組合に入ることはできない。

 ●この最後の制裁を受けたら、どこか違う土地に行くしかないので、村の者はこの最後の制裁を非常に重く考えている。

 ●私の見聞の範囲では、この最後の制裁を受けた家の例はない。それだけこの最後の制裁の効果は絶大なのだ。

〈十一〉

 ●私はこれまで村人たちの村のつまらない生活に対する執着を理解することができなかった。

 ●いったん村を離れる決心をして、都会に出てひとかどの商人になることを覚えた青年たちまでもが、村に帰って来て、貧乏な活気のない生活に執着していることが不思議だった。

 ●しかし、私は初めて理解した。

 ●村の生活に馴れた者には、都会の利己的な生活はとても堪えられないのだ。

 ●成功の望みはなくても、貧乏でも、組合で助け合う暖かい生活の方が、彼らにははるかに住み心地がいいのであろう。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第355回 直接行動論






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二一(大正十)年十二月四日、大杉は赤瀾会本部で開かれた親睦会に出席した。

 列席した秋田雨雀が、こう書いている。


 寒い。

 非常に寒い。

 今日、元園町で赤瀾会の会合があって招待された。

 赤飯をご馳走になり、みんなで赤飯会だなぞと洒落た。

 野村女史の挨拶があった。

 ぼくも何かしゃべらせれた。

 この会の健全な発達を希望した。

(社会主義の運動は政府の方針によって次第に秘密主義的になっていくようだ。)


(『秋田雨雀日記 第一巻』・未来社 ・一九六五年)


 「野村女史」とあるが、これは「野枝女史」の誤植であろう。

 とすれば、野枝は大杉と一緒に参加したのだろう。

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 民衆芸術展が神田の駿台倶楽部で、十二月二十四日から三日間、開催された。

『読売新聞』(十二月二十四日)によれば、堺、大杉、長谷川如是閑、小川未明、馬場孤蝶、山川均、山川菊栄、与謝野鉄幹、与謝野晶子、神近市子、足助素一、有島武郎、武者小路実篤、望月桂、秋田雨雀、加藤一夫などが出品した。

 しかし、前日の下見展示で当局の臨検があり、大杉、山川夫妻、望月桂らの作品は撤廃された。

 下見展示を見たらしい古田大次郎によれば、油絵、水彩画、鉛筆画、書、短冊などがあり、奇抜なものでは、一枚の板に赤絵具をベットリこねつけて「幸徳秋水の血」と題したものもあった。

 古田はある掛け物の前で足が止まり、凝視したまま考えこんでしまった。

 そこには達筆な筆文字でこう書かれていた。


 乞ひ願うものには与へられず

 強請するものには少しく与へられ

 強奪するものには全てを与えられる。

                栄


(古田大次郎『死の懺悔』・春秋社・一九二六年)





『日録・大杉栄伝』によれば、これは一九一四(大正三)年四月十五日に荒畑寒村宅で開かれたサンジカリズム研究会で、大杉がA・ローレル『直接行動論』から引用して紹介したドイツの俚言である。

 しかし、大杉のこの掛け軸は「幸徳秋水の血」などとともに、当局の臨検により撤去命令が下され、展示はされなかった。

『日録・大杉栄伝』に大杉が書いたこのドイツの俚言の書の写真が掲載されているが、それを解読するとこう書かれている。


 乞ひ願うものは何物も与へられず

 強請するものは少しく与へられ

 強奪するものはすべてを与えらる

             大杉栄



 古田が書き残した文面と若干の違いがある。





 大杉自身は「籐椅子の上にて」でこのドイツの俚言について言及している。


 僕自身は革命家だと自称してゐる。

 そして此の誇りから、平民階級の自覚を促し、その反逆を煽動する事を、自分の仕事としてゐる。

 一昨夜も僕は、大久保の近代思想社で開かれたセンデイカリスム研究会に於て、矢張り此の誇りからArnold RollerのDie direkte Aktion(直接行動論)の一章を講じた。

 題は革命的同盟罷工ーー経済的および社会的テロリズムと云ふ、甚だ元気のいい、従つて其の内容も、『乞ひねがふものには何物も与へられない、おびやかすものには多少与へられる、無法を働くものには総べてを与へられる』と云ふ俚言をモツトウとした、極力的暴力論の主張であつた。

 けれども今考えて見ると、よくもそんな雄弁がふるえたものだと、冷汗が出る。

 前科の五犯や六犯あつた所で、それが僕に取つて、何の誇りになるのだ。

 いつだつて僕自身自ら進んで其の犠牲を払つたのではない。

 いつも不用意でやつた事から、強いて其の犠牲を払はせられたのだ。

 ……僅かに『近代思想』というやうなintellectual masturbationで満足しているのぢやないか。

 革命家が聞いてあきれる。

 そして其の資格のない他人が革命を云々するからと云つて、冷笑したり罵倒したりする僕自身の軽薄さ加減がいやになる。


(「籐椅子の上にて」/『生活と芸術』一九一四年五月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第5巻』)


「籐椅子の上にて」は土岐善麿に宛てた手紙文形式で書かれていて、大杉は土岐のディレッタントを批判しているが、その根底には真の革命家になりきれていない大杉自身の自己批判が込められている。





 十二月二十六日、月刊『労働運動』第三次第一号を発刊。

 大杉がこう書いている。


 三度目の『労働運動』だ。

 最初は月刊で、大正八年十月に出して、翌年六月に六号で止めた。

 次ぎには週刊と号して、実は月二三回で終つたが、大正十年一月に出して、六月に十三号で止めた。

 こんどは、又もとに戻つて月刊にした。

 ……最初の『労働運動』から第二のそれに、そして又其の第二からこんどの第三に到るまでに、其の態度や方針に多少の変化があつたことは争はれない。

 それは社を組織する同人が変つたのにも拠れば、又時勢の変化にも拠る。

 社の同人は、こんどは、最初の『労働運動』を発起した極く小人数に帰つた。

 それには経済上の理由もあれば、又結束の上の理由もある。

 同人、伊藤野枝、近藤憲二、和田久太郎、大杉栄。

 発行所、本郷区駒込片町十五番地。


(「二度目の復活に際して」/『労働運動』一九二一年十二月二十六日・三次一号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、発行編輯兼印刷人は近藤憲二。

 第三次『労働運動』は一九二三(大正十二)年七月一日に十五号を出して終わるが、それは関東大震災、そして大杉と野枝の死によるためである。



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2016年09月18日

第354回 暁民共産党事件






文●ツルシカズヒコ




 暁民共産党事件が起きていた、一九二一(大正十)年十一月十二日、大杉は朝早く大森の山川の家を訪ねた。

「やあ、どうだい」

「うん、相変わらずだ」

 ふたりは、十幾年かの間、繰り返してきたこのお定まりの挨拶を交わした。

 ベルトのついた茶色の外套を着た大杉は、バスケットを提げ、珍しく魔子を連れていなかった。

「ひとりなのかい?」

「なに、今日は奥山さんにお詣りだ」

「菊栄君にはずいぶん逢わぬな。この前もいなかったよ」

 この前とは前年八月、大杉と和田久太郎と近藤憲二が焼豚を手みやげに訪れたときのことである。

 そのときも菊栄は転地療養中で留守だったが、この日も奥山医院に行って留守だった。

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『今日はこれから仙台まで往くんだ。』

 斯う云つて大杉君は立ち上つた。

『しかし僕等がロシアにゐたら、大体に於て、まああの通りをやつたらうな。』

 大杉は外套のボタンを掛けながら、斯う云つた。

『そうさ、君が彼の時、彼の人たちの代りロシアにゐたら、精密に同じ事をやつたらう。』

『ナニ、精密に同じ事はやらぬさ。プリンシプルが違うから。』

『そのプリンシプルと云ふ奴が、滅多に当てにならぬ奴でね。』

『滅多に当てにならぬ奴でね』と大杉君は口真似のやうに繰返した。

 そして直ぐそのあとから、何時もの通りの如何にも罪のない、面白そうな、ヒ、ヒ、ヒといふ笑声を残して、バスケットを提げて出て往つた。


(山川均「大杉君と最後に会ふた時」/『改造』一九二三年十一月号)





『東京朝日新聞』(十一月十四日)によれば、大杉は仙台赤化協会主催の社会問題講演会に出席するために、加藤一夫岩佐作太郎らと仙台に向かったのである。

 講演会は十一月十三日、午後六時から仙台歌舞伎座で開催された。

 元寺小路の中央ホテルから会場に向かう途中、大杉と加藤は一番丁(ママ)の鳥屋で夕飯を食べようとしていたところを、仙台署の刑事に引致された。

 岩佐も滞在していた旅館で引致され、検束された大杉、加藤、岩佐は講演会には出席できなかった。

 三人が出席できなくなったため、講演会に詰めかけた数百名の聴衆が騒ぎ出し、百八十名の巡査が会場の内外を警戒する事態になった。

 大杉ら三人はそれぞれに尾行の巡査をつけられ、東京に送還された。





 鎌倉に住んでいたころの野枝について、和田久太郎はこう評している。


 大杉君の原稿が盛んに雑誌界で迎へられるやうになつた。

 社会的名声が高くなつて行つたのだ。

 それに伴(つ)れて野枝さんの原稿も相当売れるやうになり、生活がよほど楽になつて来た。

 で、鎌倉へ行つてからは、蓄音機(ママ)を買つたり、写真機を買つたり、時々は帝劇の音楽会などの一等席へ大杉君共に姿を現はしたりするやうになつた。

 そして又、その頃から新聞記者や出入の商人に対する応対振りに、実に嫌やな、高慢ちきな、傲慢な態度を見せるやうにもなつて来た。


(和田久太郎「僕の見た野枝さん」/『婦人公論』一九二三年十一月・十二月合併号)





 十一月二十三日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地から、同郡逗子町字亀井九六九番地に引っ越した。

『読売新聞』(十一月二十四日)が「其筋を巧みにまいて 大杉栄氏転居 逗子に七十円の別荘」という見出しで報じている。

 ひと月の家賃七十円の借家だが、その家は鎌倉の家同様、大谷嘉兵衛名義である。

『読売新聞』には「引越先は葉山御用邸に通ずる沿道であるし県警察部でも警戒の眼を放つている」とある。

 中浜鉄「逗子の大杉」(『自由と祖国』一九二五年九月号)によれば、その家は駅から南に三、四丁のところにあり、浜辺へ下るダラダラ坂に沿って冠木門(かぶきもん)を抱いた人造石の高塀があり、家はかなり凝った和洋折衷で屋の棟が高くそびえていた。

 門前は街道を隔てて鉄道線路まで野菜畑が広がり、畑の中には刑事たちの監視小屋があり刑事が四人常駐していた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、逗子に転居してまもない十二月一日、大杉宅が暁民共産党事件の関与の疑いで警視庁の家宅捜索を受けた。

 官房長官・正力松太郎、特高・外事課長らが刑事十数名を率いて家宅捜索を行なったが、確証は得られなかった。

 結局、大杉も堺も山川も暁民共産党事件の累を免れたのである。





『夢を食いつづけた男  おやじ徹誠一代記 』は、植木等の語り下ろし調で綴られた、植木の父・植木徹誠(うえき-てつじょう)の一代記である。

 御木本貴金属工場に勤務していた植木徹誠は、大正デモクラシー隆盛期の一九二一(大正十)年当時、労働運動に強い関心を抱き、「労働学校」に通ったり、「建設者同盟」の研究会に参加、若手の無政府主義者たちが作っていた「バガボンド社」にも顔を出していたという。


「バガボンド社」では、伊藤野枝や、彼女との恋愛で有名なダダイストの辻潤、俳優大泉晃の父、大泉黒石にもあった。

 伊藤は、すでにこの頃、辻と別れて大杉栄と一緒になっていたが、たまたま辻と同席することがあっても、さすがに平然としていたそうだ。

 服装は地味だが、身体の内部から利発さがにじみ出るような女性だったという。

 こうした錚々たる人たちの間で、ひときわおやじ……たちに強い印象を与えたのは、大杉栄だった。

 大杉は、茶系統の背広に派手な柄のネクタイを締めていた。

 平素は口ごもる癖があったが、話が興に乗ると能弁になった。

 講演よりは、むしろ座談の名手だったそうで、ヨーロッパの労働運動の状態、小さい船で日本を脱出した時の話、地方分権でなければ自由は保障されないということなどを説き来り説き去って、おやじたちを魅了した。

 大山郁夫が学者タイプで謹厳だったのに比べ、大杉は人間的魅力が横溢していたそうだ。


(植木等・著 北畠清泰・構成『夢を食いつづけた男  おやじ徹誠一代記 』/朝日新聞社・一九八四年四月/朝日文庫・一九八七年二月二十日_p39-40)


 ちなみに、植木徹誠の生年月日は一八九五(明治二十八)年一月二十一日、野枝と同じである。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第353回 ピンポン






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年十一月、大杉が藤沢・鵠沼海岸の旅館東屋で『改造』に連載中の「自叙伝」の原稿を書いているころ、宇野浩二も同宿していた。


 その時、東家で、一緒になったのは、里見ク久米正雄、芥川龍之介、佐々木茂索、大杉栄、その他がゐた。

 私が、その時、東家に行くと、大杉が奥の二階の座敷にゐたので、私は、大杉の下の、奥の下の部屋に陣取ることにした。

 この部屋は、落ち着いてゐて、勉強するには持つて来いであつた。

 さうして、大杉の部屋は、見晴らしはよいが、ぽかぽかして暖かく勉強するには適しなかった。

 その代り、里見、久米、芥川、佐佐木、ある時は谷崎潤一郎夫人の妹のせい子、その他が集まつて楽しく遊ぶ時は、大杉の部屋に集まることにした。


(宇野浩二『文学の三十年』・中央公論社・一九四三年)

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 大杉の二階の八畳が一番広くて明るかったので、そこに集まった面々は、まだ麻雀などなかったときだから、「花かるた」をやった。


 その『花かるた』をやりながた、大杉は、窓の下にみえる池のそばの、亭を指さしながら、「あすこに、番人がゐるから大丈夫だよ」といつた。

 番人とは、その六畳ぐらゐの部屋のある亭に、大杉についてゐる、刑事が二人ゐたからである。

 さうして、それを大丈夫といつたのは、大杉がその部屋にゐると、刑事が尾行する必要がなかつたからである。


(宇野浩二『思ひがけない人』・法文館・一九五七年四月)


 面々はよく写真も撮ったという。


 里見と佐佐木が東屋の庭園に立つてる図、砂浜にあげられた和船に大杉がもたれ、その前に久米が踞んでゐる図、芥川と佐佐木が、何の苦もなささうに、窓際の椅子に、ならんで、腰かけてゐる図、江口が愛犬をつれて海岸歩く図、その他ーーこれらの写真は、みな二十年ほど前のものなれば、人人は若く、人の世の風は柔かく、回想すれば、この鵠沼時代は、みなみな、人の世の楽しい時であつた、ただ一人の人を除けば……。

(宇野浩二『文学の三十年』)





 この東家に滞在中に、大杉は吉屋信子と卓球をした。

 吉屋はこのとき二十五歳である。


 ……徳田秋声先生が鵠沼海岸の東屋旅館に保養中を見舞うと、その座敷に目のぎょろりとした人物が宿のたんぜん姿であぐらをかいて先生にしゃべりつづけていた。

 大杉栄だと私にはすぐわかった。

 その彼は私を無視して秋声とだけ語り合っていたが、やがていきなり立上がると私に「おい君、ピンポンやろう」と言う。

 宿のピンポン台に向うとボールの割れるほど烈しい打込み方で、私は冬だのに汗をかくほど悪戦苦闘だった。

 これが大杉栄を見た最初であり、また最後であった。


(吉屋信子『私の見た人』・朝日新聞社・一九六三年九月)





 田辺聖子『ゆめはるか 吉屋信子(上)』(朝日新聞社・二〇〇二年四月)によれば、吉屋一家と大杉一家はかつて近所に住んでいたことがあった。

 吉屋の父が新潟県の佐渡郡長から北蒲原郡の郡長に転勤になり、吉屋一家が新発田に引っ越しして来たのは一八九九(明治三十二)年だった。

 このとき大杉は十四歳、新発田中学三年生、信子は三歳だった。

 信子が吉屋一家と大杉一家がかつて近所だったことを知ったのは、日蔭茶屋事件のときだった。


 大杉栄訳のダーウィンの「種の起原」をナンデモむやみと読みましょうだった私が買ってまもなく、その学識のある訳者が艶福の三角関係で傷害をこうむった事件が新聞紙上をにぎわした。

 母がその新聞の写真を見てびっくりした。

「まあ、これは大杉さんの坊ちゃんだよ」

 かつて父の任地だった新潟新発田でわが家の近くに住んだ大杉少佐の長子「中学から幼年学校へいったはずだのにーー」そのころの面影にそっくりという。

 母はその坊ちゃんがいつの間にかおそろしき無政府主義者などになったのか合点がゆかぬらしかった。

 新発田では私は三、四歳の童女で何も知らない。


(吉屋信子『私の見た人』)





 吉屋はその後の「大杉との縁」についても記している。

 吉屋がパリに滞在中のことだった。

 知人の奥さんをアパートの住居に訪問した冬の夜、その部屋へ通じる廊下ですれ違ったのは、濃茶のソフトと同色の外套、眼鏡をかけた丸い感じの顔の日本人男性だった。

 そのアパートには邦人の家族が二、三組、並んだ部屋に住んでいたので、日本人男性を見かけても不思議ではない。

 知人の奥さんの部屋の扉をノックすると、不在だったが、ちょうどその尋ねる奥さんが隣りの邦人の部屋から出て来るところだった。

 そして彼女はホットニュースをすぐに告げたいような素振りで、吉屋に言った。

「今、お隣りにそら、あの、甘粕大尉が来ていたのよ」

 吉屋がすれ違った男が甘粕だという。

 甘粕正彦がフランスに滞在したのは一九二七(昭和二)年から一九三〇(昭和五)年、吉屋のパリ滞在は一九二八(昭和三)年から一九二九(昭和四)年なので、一九二八年か一九二九年の冬のことだと思われる。





 吉屋は大杉がラ・サンテ監獄から魔子に宛てた電文に触れ、こう記している。


 ……その思想はともあれ、子ぼんのうのよきパパだったにちがいない。

 その魔子ちゃんは孤児となってのち親戚に引取られて成長、女学生になった姿がずっと以前の「婦人之友」の写真に出た時、彼女の小さい書だなに私の少女小説が数冊ならんであったと報じられて、ひどく胸が熱くなってしまった。


(吉屋信子『私の見た人』)



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2016年09月16日

第352回 新興芸術






文●ツルシカズヒコ




 原敬の暗殺を報じる号外を読み終えた佐藤春夫と大杉は、佐藤の部屋に入り対座した。

 佐藤が大杉が執筆している自叙伝について聞いた。

「どうだ、書けた?」

「いや、何もしやしない」

「自分のことを書くのは難しいだろうね。どんな点が難しい?」

 大杉はこう答えた。


「何でもない事だがね、なるべく嘘を少くしようと思ふからね。ところで書くだけの事が本当でも、書くべき事を書かないでしまつたのではやはり嘘になる。折角書いた本当までそのためにみんな嘘になる。ところが、事実といふものは何事でもこんがらがつてゐるから、それを一つ一つ辿つてゐると、どこからどこまでを書く可きかその判断と選択とが厄介なのだ」

(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』一九二三年十一月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』講談社)

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「なるほど……」

 佐藤は半ば賛成して続けた。

「だが結局は、そう神経質にならず、思うことを平気に書きなぐるしかあるまいね。それで他人を傷つけたら、書いた当人が浅ましさを暴露するのだから、何にしても人間、自分以上のことはできっこはないのだから」

 そんな話題になり、「セント・オウガスチンジャンジャック・ルッソーも結局本当の告白はしなかった」というアナトオル・フランスの言葉やら、問わず語りということもあるなどの話になった。

 なにかのはずみで、大杉が近ごろ小説というものがつまらなく退屈なものになったと言い出した。

 そのかわり、自然科学の書物などを読むと、以前、小説の好きなころに小説を読んで覚えたのとまったく同じ種類、いやそれ以上の面白さを感じると、大杉は言った。





「うむ。就中、僕の小説などは君にとつて最も退屈だらうな。第一読んでくれた事があるかい?」

「読んだことはあるよ。君のなどはさう退屈ぢやない方だ」

 私は冗談のつもりで言つたのに、大杉は案外真面目な返答だつたので私は少しテレてしまつた。

「それぢや一たいどんな小説が最も退屈なのだい」

「それがね。本当の話、所謂左傾した作家という連中のが一番退屈だよ。第一、まああの仲間はどうしてああまづいのだらうなーー(ここで、三四の作家の名を挙げて)まるでまづいのばかりが左傾したやうなものぢやないか。ハ、ハ、ハ」

 大杉が数へた作家といふのは、新しい名ではなかつた。

 既成作家的の左傾したものであつた。

 所謂新興芸術なるものに彼は一顧をも拂つてゐなかつたやうである。


(同上)





 翌日、十一月六日の晩にも、大杉は佐藤の部屋に遊びに来た。

 ふたりは二時間ばかり、雑談に耽った。

 佐藤はふと思い出して、世上で取り沙汰している堺利彦の婿選びのことを、大杉に聞いてみた。

 堺が娘の真柄が年ごろになって、その婿の適任者に煩悩しているという噂が流れていたのである。

 このとき真柄は十八歳である。

 危険人物視される同志で、いわんや素寒貧書生では困る、だからと言って堺が侮辱しているブルジョアの手合いを婿にするわけにはいかない、手ごろな学士かなにかで学者ふうな同志はいないものかと、堺が目をつけているーーという井戸端会議的な噂があったが、それが根も葉もないものかどうか、佐藤は大杉に聞いてみた。

「さあ、僕もよくは知らないが。そんなこともないとは限らないね。だが、若い奴は気が利いているよ。娘の方でどんどん自覚して、今になんでも好きなことをするだろうよ」

 そういうと、大杉は例のように笑った。

 まったくからりとした、なんの底意味もないいい笑顔だった。

 社会主義思想家が過激な実行運動をするとき、妻子を思い志が鈍ることはないかと、佐藤は質問してみた。

 大杉はこんな旨のことを語った。





 妻のことはともかく、子供のことはずいぶん心を悩ます。

 早い話が、収監されたときにでも、夕方などに自分の家庭のことを思って、今ごろ何をしているだろうと考えて、ふと子供の様子などがありありと目に浮かんでくると、もういけない。

 涙が出て女々しい自分をたしなめてみても、涙が止まらない。

 そこへいくと、妻の方はなんでもない。

 が、それでも収監中、家に残してきた女が出入りの青年などとふざけているような夢を見る。

 そして次の日には一日考えこまされる。

 大杉はさらに続けた。


「もう女の方は卒業したが、子供だよ心配なのは。子供といふものは全く可愛いい。だから、さつきの堺の話だつても……子供が一人前の娘になるころには、おやぢだつて年も取るだらうし、気が弱くなつて、娘の婿などで若い奴らに笑はれないとも限らないね」

 そこで大杉はまた例のやうに笑つた。

 何しろよく笑ふ男であつた。

 全くからりとした何の底意味もないいい笑であつた。


(同上)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 22:12| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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