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2016年08月30日

第337回 壟断(ろうだん)






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『女の世界』一九二一年三月号に「現代婦人と経済的独立の基礎ーー謬られた思想で養われた独立婦人に与ふ」を寄稿した。

 以下、抜粋要約。

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〈一〉

 ●婦人の完全なる解放のためには、婦人の経済的独立がなくてはならないと、女権論者の方は主張しています。

 ●女権論者は自ら働きさえすれば、婦人は親なり夫なりの奴隷の境涯から解放されると考えていますが、主人が代わるだけでやはり奴隷の境涯から抜け出せないことには一向に気づいていません。

〈二〉

 ●彼女たちは婦人が各方面の職業に従事するようになったのは、婦人の経済的独立の自覚によるものだなどと言われています。

 ●確かにそういう側面もあるでしょうが、職業婦人が増えたのは、現在社会の経済の仕組みが多くの婦人に徒食を許さなくなってきたからです。

 ●知識や教養ある婦人がその才能を発揮するため、あるいは結婚によって衣食住の保証を得るよりは独力で生活を営むことに対する誇りから、職業に就く婦人たちもいます。

 ●しかし、このような呑気な動機から職業を求めた婦人がどのくらいありましょうか。

 ●近代の経済の仕組みは、少数の資本家の利益壟断(ろうだん)を生みましたが、資本家たちはその下で使役される賃金奴隷の範囲を大人から子供へ、男から女へと拡大してきました。

 ●資本家が使用人に払う賃金では、今や一家を支えていくだけの余裕がなくなりました。

 ●生活程度が低くなればなるほど、女でも幼い子供でも徒食は許されなくなった、というのが現在の経済の仕組みなのです。

 ●大資本家が小資本家を飲み込み、徐々に中産階級の存在をも許さなくなってきています。

 ●中産階級も大資本家の使用人として賃金をアテにせざるを得なくなった。どうかすれば、子女の助けを必要とするようになった。

 ●多くの青年が、自分ひとりの生活を維持していくための収入を得ることが困難になってきました。

 ●世間に出て働くに充分な準備を授けて貰うことができる青年たちですら、両親から容易に独立することができないのです。

 ●彼らは結婚を急ぐような幸福な場所には置かれません。

 ●妻子を養う収入を得るには、どんなに辛い仕事をしなけらばならないかを知っているからです。

 ●利口な青年たちは、そんなことをしてまで女に徒食をさせることの馬鹿馬鹿しさを知っています。

 ●娘たちの親は、娘をかかえて求婚者を待つような境遇にいることを許されなくなります。

 ●娘もその保護者である父や兄から、独立することを強いられるようになってきました。

 ●いわゆる職業婦人ですが、職業を求める動機は労働者階級と少しもかわりません。そして、雇主に隷属させられている境遇も同じです。

 ●女権論者たちが、どれほど声を大にして婦人の経済的独立を祝福、主張しても、現在の職業婦人の大部分が自分の境遇を幸福と感じることができない間は、経済的独立が婦人解放問題にいい解決を与えるとは思えません。

 ●そして、職業婦人たちは自分たちが営むことができない家庭生活に、どれほど憧れているかということも、女権論者たちには知ってもらいたい。





〈三〉

 ●職業婦人の賃金の最初の基準は、女一人が自活できるものではなく、女を養う余裕のなくなった男の経済状態を補う程度のものでした。

 ●仕事に不馴れで能率が悪いことなどが低賃金の理由にされていましたが、今ではこれが虚偽であることが明白です。

 ●資本家にとって婦人を雇うほど得なことはありません。彼女たちはよく働きますが、資本家は報酬をできるだけ安く抑えて、彼女たちの若い精力を絞りつくします。

 ●正直な職業婦人は、男子より劣った賃金で勤務時間中、休む間もなく働きます。

 ●仕事から解放されると、後は疲労を癒すために眠るだけです。

 ●なんのためにそれをしているのかを知ることもなく、ただ間断なく強いられる労働があるだけで、生活に娘らしい色彩も潤いもありません。

 ●若い娘らしい色彩や潤いを求めるなら、彼女ひとりの収入では食べていけなくなります。

 ●そして、誘惑の手がたちまちに襲いかかってきます。

 ●こうして、なんと多くの若い娘たちが恥ずべき職業に就いていくことでしょう。

 ●職業婦人の大半は、できるだけ早く仕事を辞めたいと思っています。

 ●どんなに過酷な雇主に対しても、「もうすぐ辞めるのだから」という理由で抵抗しません。

 ●女を雇うことが得なことを知った雇主は、どんどん女を雇用するので、女の働く範囲は広くなりましたが、それによって男の収入が低減したり、男の働く場が奪われることになりました。

 ●妻が働き出ることによって、夫の賃金が低減したり職場を失ったするので、家族の生活は苦しくなるばかり です。

 ●職業婦人たちの憧れる家庭生活は遠ざかるばかりで、過労と堕落に陥れられるだけです。

 ●彼女たちが資本家と労働者の利害関係に無頓着であるかぎり、彼女たちの境遇は改善されません。

 ●女権論者たちの目には、こういう事実が見えないのでしょうか。

 ●女権論者たちは言うでしょう。

 ●「それは職場婦人としての自覚がないからだ。職業的利害に目覚めて、それを改善すれば仕事はもっと楽になるし、収入も増す。そして婦人も立派に経済的な独立ができる」

 ●しかし、大部分の職業婦人たちが思想的基礎の上に立たず、経済的必要に迫られて職業に就いているのだとすれば、それは無駄な自覚です。

 ●彼女たちは、女権論者たちが最も唾棄すべき、男の保護をどれだけ望んでいることでしょうか。

 ●彼女たちは長くその職場に止まっていても、自分をその境遇から救い出すのは、求婚者であると考えているにちがいありません。

 ●そうして、男に保護されることを屈辱に感じて職を求めて独立したはずの彼女たちは、当初の志を翻せざるを得ないのです。





〈四〉

 ●女権論者の有力な味方になり、自覚ある職業婦人として立つ人々は、ただ男子を相手に競争することに懸命になり、女らしい情緒も色彩も涸らしつくしてしまった、少数の刺々(とげとげ)しい人々です。

 ●その人たちはただ一個の機械と同じです。自分の生活に少しも自由を持ちません。

 ●彼女には天真爛漫さなど少しもありません。いつも眉を寄せ、唇を一文字に結び、青白い顔に冷たい表情を浮かべて人の顔を見据えます。

 ●彼女たちには、洒落や空談はもちろんのこと、およそ人の気を軽くする言葉や表情は一切禁物なのです。

 ●これは決して私の誇張でもなんでもありません。

 ●今日、知識があり教養がある職業婦人として、一般人の尊敬を集めている少数の人は、実にここまでの修養を積んだ人たちなのです。

 ●意地悪な世間の人々に尊敬されるには、このような離れ業をして見せなければならないのです。
 
 ●常識を持った世間の人々は、はたしてこんな婦人たちをたくさん作り出すことを喜ぶでしょうか。これが真の婦人と言えるでしょうか。

 ●今日、どれほど多くの職業婦人が、結婚と同時に職業を投げ出していることでしょう。

 ●既婚者や母親となった婦人が働くことができる設備が、少しも整っていないからだと力説されています。

 ●しかし、かりにその設備が充分だとしても、婦人たちに充分な仕事が与えられるでしょうか。その夫にも父にも兄にも妹にも、すべての人にまんべんなく相当な仕事が与えられるでしょうか。

 ●利口な資本家は熟練した労働者の就職を脅かして、その補助の位置にいるものに、もっと悪い条件で仕事を分け与えるというようなやり方をします。

 ●こうして人間の労働価値はどんどん低下していきます。

 ●資本家はいかに安く労働者を使うかしか考えていません。





〈五〉

 ●婦人が経済的に独立して、親や夫の干渉圧迫を退けただけでは、問題は解決しません。

 ●大多数の婦人労働者が、雇主というタイラントからさらに大きな圧迫暴虐を蒙るのです。

 ●女権論者たちによく考えてもらいたいのは、ここなのです。

 ●どんな人間でも徒食するということはゆるされないことですから、私は婦人の経済的独立に反対するものではなく、むしろ積極的にそれを主張する必要を感じています。

 ●しかし、中産階級に属する女権論者たちの狭い視野からの議論では、婦人の経済的独立や女性の完全なる解放の問題は、根本的な解決にはいたらないのですーー私はそれを明確にし強調したいのです。

 野枝はこの評論をこう結んでいる。


 問題は深く一般の社会問題と交錯してゐます。

 そして今、世界中の大問題になつてゐます。

 経済組織の重要な点にまでふれてゐます。

 すべての婦人達は先づ何よりも現在の重大な社会問題について研究する必要があります。

 その経済組織について考慮を要します。

 此の根本的な問題の解決は必ず、婦人問題にも、根本的に何の不合理も残さない解決を与へるにちがひありません。


(「現代婦人と経済的独立の基礎ーー謬られた思想で養われた独立婦人に与ふ」/『女の世界』一九二一年三月号・第七巻第三号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



タグ:伊藤野枝
posted by kazuhikotsurushi2 at 13:08| 本文

2016年08月29日

第336回 高村光太郎






文●ツルシカズヒコ





 大杉が聖路加病院から退院したのは、一九二一(大正十)年三月二十八日だった。


 聖路加病院に入院中であつた大杉栄氏は

 廿八日午後三時退院して午後四時十六分新橋発の列車で鎌倉雪の下の住居に帰つたが

 伊藤野枝 村木源次郎の両氏が付添つて保護に努めた


(『読売新聞』一九二一年三月二十九日)

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「日本脱出記」によれば、大杉が入院したために上海の社会主義者との連絡が絶たれ、ヴォイチンスキー(ロシア共産党の極東責任者)が送ってくるはずだった金も入手できなかったが、「近藤憲二が僕の名で本屋から借金して来て、皆んな一緒になつてよく働いた」。

 近藤栄蔵も大杉が入院中の近藤憲二の奮闘を記している。


『労運』の経営に主役をつとめた近藤憲二の奮闘ぶりは、また実に涙ぐましいものであった。

 とくに大杉が病気で倒れていた間の金策のための彼の活躍は大変なものであった。

 栄蔵はこれらの同志のなかに交って、歳こそ上だが運動経験においては遥か後輩として、気持よく起臥をともにし、机を向い合せて、仲よく仕事をしたものである。


(同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自伝』・ひえい書房・一九七〇年一月)


『近藤栄蔵自伝』によれば、労働運動社に対する警察官憲の警戒は厳重で、大杉個人に三名の尾行がつき、労働運動社そのものにも昼夜交代で四人の私服が、朝七時から夜十一時まで目を光らせていた。

 私服は目新しい訪問者に姓名、住所、用件を訊ねて手帖にひかえた。

 社員が仕事を終えて夜の散歩にでも出る際には、石塀の暗い陰にやもりか蝙蝠のようにペタリと平たく身を寄せて様子をうかがい、外出者の人数に応じてひとりかふたりが尾行してきた。

 近所の風呂に行く際にも尾行がついた。





 近藤憲二は金にまつわる、あるエピソードを記している。

 二月か三月の寒い日であった。

 神田区駿河台北甲賀町一二番地の駿台倶楽部内の労働運動社で仕事をしていると、隣りの部屋に人が来た気配がした。

 声をかけても返事がない。

 襖を開けると、部屋の真ん中に袴をはいたインバネスの男が立っていた。

「どなたですか?」

 近藤が声をかけたが、その男は答えず無表情のまま近藤のそばへ来て、

「僕、高村光太郎です」

 とだけモソモソと言って、持ってきた風呂敷包みをとき、机の上に『手』のブロンズを置いた。

「これをあなたたちにあげます。金に代えて使ってもいいですよ」

 それだけ言って、その男は牛のようにヌーッとしていた。

 近藤はむろん高村の名は知っていたが、初対面であり、あまりに出し抜けな話なので面喰らった。





 ブロンズは、親指を少しそらし、小指をややまげたもの、そのときは知らなかったが、氏の代表作になっている『』と同じ形、もっともそれが代表作そのものであったか、そのころ、ああいうのを幾つか作られたのか、その辺はわからない。

 しかし彫刻がわかりもしない私たちがそれを貰う資格はないし、金にかえてもいいといったところで適当なところを知らないし、魂をこめて作られたものを金になりさえすればというわけにもいかぬ。

 私はそういう理由を述べて、「せっかくのご厚意ですが、お断わりするのがいちばんいいと思います」といった。

 氏は遠慮するなともいわず、別に話すでもなく、やはり無表情で、風呂敷に包んで帰られた。

 話はそれだけ、氏の三十七、八歳のときだった。

 その後逢う機会は遂になかったが、その日の氏の牛のような感じを今も思い起こす。

 そういえば氏にはたしか『鈍牛の言葉』という詩があり、その中に

 おれはのろまな牛(べここ)だが

 じりじりまっすぐにやるばかりだ

 の一節があったと記憶する。



(近藤憲二『一無政府主義者の回想』・平凡社・一九六五年六月三十日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 10:30| 本文

2016年08月27日

第335回 聖路加病院(五)






文●ツルシカズヒコ





『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男は、日蔭茶屋事件の際にも逗子の千葉病院に駆けつけたが、このときにも病床の大杉に面会に来た。

 宮崎はまあ大丈夫だろうと思い、見舞いにも行かないでいた。

 ところが、社の早出し版(東京市外版)を見ると、大杉はもはや死人扱いで、堺利彦や堀保子のおくやみ話まで載っていた。

 あわてて車で聖路加病院に駆けつけた宮崎は、大杉を病気で死なせるのは惜しいと思い、できるなら早出し版の記事を市内版ではひっくり返してやりたいものだと念じていた。

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 宮崎は広くて、人影がなく、電燈が薄暗い聖路加病院分院の中を歩きながら、革命家の終焉を彩るにはあまりに淋しいその雰囲気に涙が流れた。

 しかし、病室のドアに近づいて、そっと中を覗いた次の瞬間、宮崎は明るい微笑を浮かべた。

 ベッドの上に仰向きになって、額に氷嚢をあてがったまま、目をつぶって静臥していた大杉が、ほんの一瞬ではあるが、逗子の病院で見たときのあの底光りする生気のある目を、じろりと天井に向かって見開いたからである。


 上からぶら下がつた暗い電燈の光りに映えた凄いその目に、僕は『これだ。この目だ』と自分の心につぶやきながら、枕頭にしよんぼりと立つてゐる野枝さんに、目で挨拶するや否や、急いで社にひきかえして、悲観記事の撤回を迫つたばかりか、彼の容態が必ず快方に向かひつゝあることを記述した。

(宮崎光男「反逆者の片影ーー大杉君を偲ぶーー」/『文藝春秋』一九二三年十一月号)


 一九二一(大正十)年二月二十一日から一週間ほどして、大杉の熱は下がり始めた。

 しかし、肺炎は峠を越したが、今度は心臓が弱ってきた。

 奥山は野枝に油断は禁物だと、注意を促した。





 三月一日、随筆集『悪戯』(アルス)が発行された。

 大杉、野枝、荒畑寒村、和田久太郎、山崎今朝弥の共著で「発禁や監視など主として警察・司法との攻防を綴った軽妙な随筆をまとめた」(大杉豊『日録・大杉栄』)のである。

 野枝の作品は以下の五タイトルが収録されている。

●「獄中へ」(『文明批評』一九一八年四月号・第一巻第三号/大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「消息(伊藤)」【大正七年三月七日・東京監獄内大杉栄宛】/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「化の皮」(初出紙誌は不明だが一九一九年一月ごろの執筆と推測される/大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「男に蹤〈つ〉かれるの記」(「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『夢の世界』一九一九年三月号・第二巻第三号/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で大杉栄らの共著『悪戯』・アルス・一九二一年三月一日/「男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』に収録/「夢に男に蹤〈つ〉かれるの記」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「拘禁されるまで」(「拘禁される日の前後」の表題で『新小説』一九一九年九月号・第二四年第九号/「拘禁されるまで」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「拘禁される日の前後」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

●「アナキストの悪戯」(「悪戯」の表題で『ニコニコ』一九二〇年二月号・第一〇四号/「アナキストの悪戯」の表題で大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/「悪戯」の表題で『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 三月初旬になり、大杉の危険期は過ぎ、容態は快復に向かった。

 日蔭茶屋事件と今回の入院で二度「死にそこなった」大杉は、「死にそこないの記」にこの入院、闘病についてこう書いている。


 病院にはいるまでは、熱も四十度も越していたんだが、気はたしかだった。

 からだはまだ少しは動けた。

 自動車に乗るのに、「なあに下までぐらい、自分で歩いて行けるよ。」なんて、三階で威張っていたほどだった。

 それで病院のベッドの上に横たわったほとんどその瞬間から、二週間ほどは、まるで夢うつつの間に過ごした。

 ほとんど何にも覚えがない。

 そしてこの間に死にそこなってしまったんだ。

 ……生きるということは実に面白いね。

 僕は葉山の時に初めて、本当にこの面白味を味わった。

 そして今度また、再びその味を貪りなめた。

 こんども意識がすっかり目ざめた時には、もうこの生の力がからだ中に充ち充ちていた。

 毎日何かの能力が一つずつ目ざめて来る。

 動けなかった手足が動いて来る。

 寝返りができるようになる。

 きのうはまだ一人で立つことができなかったのに、きょうはもうそれができる。

 あすはひと足ふた足歩ける。

 そしてあさってはもう室の中をあちこちとよちよちしながら歩く。

 ふだんこのいろんな能力を十分に働かして行ったら、できるだけ自分の思う通りの、我がままな生活をして行ったら、生の歓楽を貪って行ったら、いつ、どこにどうして死んだって、大して不足もあるまいじゃないか。


(「死にそこないの記」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『大杉栄全集 第14巻』)





 聖路加病院で大杉の主治医を務めたのが、板橋鴻だった。

「私にエスペラントをすすめた大杉栄」によれば、板橋は新聞記者には「肺結核兼腸チフス」と発表したが、チフスのみに注目されて「大杉がチフスで死にそうだ」と喧伝されたという。

 板橋は大杉の入院後、血液やその他の培養においてチフスの可能性をチェックしたが、チフス菌は発見できなかったと書いている。

 大杉が危篤になったのは、肺結核のシュープ(新しい病巣を作って広がっていくこと)と見るのが至当のようだ。


 患者としての大杉氏はよく医師や看護婦の言ふ事を聞く人であつた。

 看護婦達は異口同音に「恐ろしい思想を持つた人のやうにはチツトも見えないわね」と言ひ合つて居つた。

 夫人の伊藤野枝氏は大きな腹を抱へて看護して居つた。

 大杉氏が快復する、野枝氏がお産をするといふ順序であつた。

 病院の同じ食堂で同じ食事をしたこともあるが、野枝氏は色の浅黒い小柄なやさしい口のきき方をする女であつた。

 しよつちう来て看護に当つてゐたのは村木源次郎氏であつた。

 何時も刑事が二人病院の近所にブラブラして居つた。

 時には小使室に入り込んで居ることもあつた。

 そして折々医者や看護婦をつかまへては大杉氏の様子を尋ねる。

 村木源次郎氏は……実にまめまめしく看護婦のやうな仕事をしたり走りづかひをしたりしていた。


(板橋鴻「私にエスペラントをすすめた大杉栄」/『ラ・レヴオ・オリエンタ』一九三六年六月号)


 回復期になった大杉が、科学的研究はみなエスペラントで発表されるような時代が今にも来るようなことを板橋に言ったので、板橋は村木が買ってきてくれた『エスペラント全程』を、試験前の学生のような気持ちで読み耽ったという。

 板橋は聖路加病院勤務時代を「朝に夕に大島通ひの汽船のボーを聞きながら暮らしたあの時分」と回想しているので、野枝も大杉を看病しながら朝に夕に汽笛の音を聞いていたことだろう。





 野枝が三女を出産したのは三月十三日だった。


 危険期が過ぎると、病気はだん/\打ちまかされて行きました。

 そして、全く何の点からも危険がなくなつた処で、始終周囲の人の心配の種だつた、私のお産の時が来たのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 特にそのことに触れている資料はないが、野枝は聖路加病院の産婦人科で三女を出産したと考えてよいのだろう。

 次女のエマを中国・天津在住の牧野田彦松、松枝(大杉の三妹)夫妻の養女(牧野田幸子、結婚後は菅沼幸子)にしたので、野枝は三女に再び「エマ」(のちに伊藤笑子に改名、結婚後は野澤笑子、歌人名は野澤恵美子)と命名した。

 三女・エマの戸籍上の出生は二月十三日である(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』「伊藤野枝年譜」)

新発田を訪れた菅沼幸子、野澤笑子

大杉栄、伊藤野枝、橘宗一の墓前祭に参加する菅沼幸子、野澤笑子




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:35| 本文

第334回 聖路加病院(四)






文●ツルシカズヒコ




「ああしてあのベッドの上で死んでいくのだろうか?」

 野枝の頭の中は不安でいっぱいになった。

 しかし、やがて彼女の気持ちは不思議なほど澄んできた。

 二、三日前からいろいろな見舞いの葉書が届いていた。

 その中にはまったく見も知らぬ人からの、心からの祈りが記された見舞い状もあった。

 そして、野枝の脳裏に今までの大杉の生き様が浮かんできた。

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 野枝は大杉と暮らすようになってから接してきた、彼の友人たちや同志のことがいちいち脳裏に浮かんだ。

「これ限りの生命なのなら、今までの人生でも十分だけれどーー」

 野枝はとめどもなく考えた。

 もし彼が生き延びることができるとすれば、それこそ彼が一命を賭けてもやりたいような生き甲斐のある仕事も待ち受けているかもしれないのにーー。

「でもやっぱし、このまま死んでいくのだろうか?」

 残された自分や魔子のさびしさや心もとのなさが、重く立ちふさがるだろう。

「あんなに可愛がっていた魔子とも、十八日に会ったのが最後だったのかもしれない」

 野枝の眼から涙があふれ出てきた。

「だけれども、生命というものはなんという不思議なものなのだろう?」

 野枝は考え続けた。





 丈夫な人の生命が、たゞ一寸偶然の出来事で一瞬のうちに絶たれてしまふ事があるかと思へば、今にも死にさうに脅かされつゞけてゐながら、細く/\いつまでも続くと云ふような事がある。

 Oだつて、どの瞬間にあの呼吸が止まるか分らない。

 十分あとでか一時間あとでか或は今夜中もつても明日死ぬか、或は又全然たすかる事も出来るのだ。

 けれども、誰がそれを本当に知り得ることが出来ようか?


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


 しかし、大杉が眼を覚ますと同時に、野枝はそんな考えは棄てた。

 野枝が大杉にうがいをさせてそばに腰を下ろすと、大杉は彼女に少し話しかけた。

 野枝は絶望するのはまだ早いと思った。

 医者が見放しても、最後の最後までできるだけの看護はつくそう、それが大杉の奇跡的は快復につながるかもしれないし、死ぬ運命にあるとしてもそれがせめての思いやりであり、あきらめもつくーー野枝はそう思った。





 しかし、一九二一(大正十)年二月二十一日、その夜、聖路加病院を訪れた奥山の顔は前夜にもまして曇っていた。

 大杉はその日の夕方から、ほとんど口もきかなくなった。

 唇はすっかり干からびて、うがいくらいではおっつかなくなっていた。

 奥山が声をひそめて言った。

「非常に危険ですね、重態ですね、もうお知らせになるところには、お知らせになりましたか?」

 野枝は一瞬、体中の血が逆上するような感じがした。

 信頼している奥山のこの言葉は、野枝からすべての希望を追い出してしまった。

 しかし、我に返った野枝は不思議にも、反抗心にも似た闘争心が湧き上がってきた。

「絶対にこの重態から大杉を救い出してみせる!」

 奥山もまだ完全に諦めているようではなく、細かないいろいろな注意をしてから、

「今夜と、もうあと二、三日をどうにか切り抜けられればいいのです。ぜひ切り抜けたいものですね」

 と言い残し、十一時ごろに帰っていった。

「今夜とあと二、三日」という言葉がいっそう、野枝に不思議に力強い自信を抱かせた。

 野枝はその不思議な澄んだ気持ちを抱きながら、しばらくストオブの前に腰を下ろし、火を見つめていた。





『今夜は、どんな事があっても、私はあのいのちをつなぎとめておかねばならない。そして、明日も明後日もーー』

 突然、私は自分をふりかへつて見る機会を与えられたのでした。

 私は、とにかく一生懸命に今まで看病をして来ました。

 が、私の意志は、今日まで何をぼんやりしてゐたのでせう?

 Oは……損はれかけた意識の下にゐてさへも……病気に打ち克つ努力をしようとしたのですのに、私の心は、それを聞いても、たゞ涙ぐんだばかりでした。

 今までOの持つてゐたすべてのものは、彼自身に絶対のものであつたと同時に、私にも亦唯一のものではなかつたか?

 Oは今の此のかすかな一脈の呼吸を賭けて、病気と争つてゐるのではないか……。

 私にはたゞ病気を恐がる不安があるばかし……病気にすつかり負けてゐる事ではないだらうか?

 そして医者が負け、私まで負けてどうなるのだ?

 きつときつと病気を私の意志の力で押しかへして見せる!

 と私は心に叫びました。

 もう不安はなくなりました。

 そして、彼の死を想像する代りに、恢復のよろこびに遇はうとする努力に熱中しました。

 私は看病の上には一点の手落ちもつくるまいと努力したのでした。


(同上)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:18| 本文

2016年08月24日

第333回 聖路加病院(三)






文●ツルシカズヒコ




 二月二十一日『読売新聞』五面に、「大杉栄氏 愈(いよい)よ絶望 聖路加分院で野枝子婦人等に守らる 皮肉なのは厳しい官憲の眼」という見出しの記事が載った。

「愈(いよい)よ重態に陥つた大杉栄氏」というキャプションがついた、大杉のバストアップの写真も掲載されている。

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 宿痾(しゅくあ)の肺患○り去る十五日午後有楽町露国興信所三階の仮室から伊藤野枝子夫人に援(たす)けられて築地聖路加分院第二号室に入院した大杉栄氏は爾後の容態面白からず

 入院以来三十九度乃至四十度一分の発熱と尿便失禁等があつて重態に陥りつつあつたが昨日午後から更に険悪となつて脈拍は九十前後に衰へ意識は混濁して左右両肺の結核症の外腸窒扶斯(ちぶす)を併発

 食欲無く辛じて野枝子夫人の勧める少量の牛乳・果汁・スープなどを摂つて居るが刻々危篤に傾かんとして居る

 医師の云ふ所によれば生死の程は覚つかなく両三日を経過しなければ何とも予測し得ないさうである

 昨日夜来口唇乾燥の為めグリセリンを毛筆に湿めして唇に塗つて居る程で野枝子夫人は一人枕頭に不眠不休で付添ひ看護に努めてゐる 

 因(ちなみ)に氏の容態が極めて険悪である際にも官憲の警戒は依然厳格にして築地署の警官二名乃至三名は始終氏の病室付近に接近して皮肉な警戒に務めている


(『読売新聞』一九二一年二月二十一日)





 二月二十一日の朝、大杉は病勢が進んでいたが、やはり野枝に病状を尋ねた。

 見舞いに来た人の名前も尋ねた。

 しかし、日が高くなるにつれて、また徐々に元気がなくなった。

 野枝には聖路加病院の看護婦も医者も、治すことはまったく断念してただ傍観しているように見えた。

 回診に来た医者が「非常に重体だ」「お大事に」という言葉を残して去って行った。

 野枝は悲痛な気持ちで、ジッと大杉の顔を見つめた。

 優れた意志も力も感情も、そこに横たわった大杉の体からは消え去っていた。

 強靭な精神の現われであったその顔の魅力も表情も、すっかり死んでしまっていた。

 ベッドには、ただかろうじて息をしている大杉の体が横たわっているだけだ。





 その朝、野枝は眠っている大杉のそばを離れて、窓辺で新聞を広げていた。

 すると目覚めた大杉が、声をかけた。

「野枝子……」

 野枝が返事をすると、大杉は何をしているのかと聞いた。

「あなたが眠っていらしたから、こっちで新聞を読んでいたのですよ」

「じゃあ、こっちへ来てごらんよ。眠っているときだって、そばを離れるんじゃないよ」

 大杉は微かに笑いながら低い声で冗談を言った。

 野枝も少し気持ちが軽くなり、笑いながらベッドのそばに腰を下ろした。

 その朝も大杉は新聞の主な記事について、野枝に尋ねた。


 で、私は其の頃紙面を賑はしてゐた二つの殺人事件の後報が出てゐると云つて、その事をはなしました。

 処がその二つともOは初耳のやうな顔をしました。

『何だいそれは?』

『おや、きのふも、おとついも話して上げたぢやありませんか。覚えてゐないの?』

『あゝ、覚えてないよ』

『まあ。』


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 野枝は初めからおさらいするように、そのふたつの事件について話して聞かせた。

「あなたはね、昨日から少し意識が混同するのですよ。ほんのちょっとですけれども。だから、昨日のことなんかやっぱし覚えていられないのですね。あまりいろいろなことを考えてはいけませんよ」

「考えるもんか。そんなことはちゃんと心得てるよ。だが、そんなに混同するのかね。どんなことを言うんだい?」

「ええ、いろんなわからないことを、ちょいちょい言うのですよ」

 野枝はそう言って笑った。

 大杉は黙っていたが、少ししてしみじみとした調子で言った。

「病気って、いやなものだな。もうこんな大きい病気はごめんだ! まったく無力になってしまうのだからなあ。こうして寝ている僕に何が残っているんだい。ただこうして体がころがっているきりじゃないか。普段、大威張りで持っているものは、みんな今の僕にはない。意気地のないものだなあ」

 そして、何を考え出したかのか、こんなことも言った。


『これで、頭が馬鹿にでもなつて生きてはたまらないなあ。』

『本当にさうですね。でも大丈夫よ、若しあなたがそんな事にでもなるようになつたら、そんな生き恥なんかかゝないように私が殺して上げますよ。』

 私は半ば笑ひながら、でもこみ上げてくる涙をどうすることも出来ず半ば泣きながらさう答へました。

『さうだ、是非さうしてくれ。』


(同上)


 もうまったく死相を呈した大杉の顔を見守りながら、野枝の眼にはひとりでに涙が湧いてきた。

 それ以上、大杉の顔を見ていることができなくなった野枝は、そっと立ち上がって窓のそばの低い椅子に深く腰を下ろした。

 ガラス戸ごしに見える庭は、殺風景な荒れ方をしていた。





 ちなみに「其の頃紙面を賑はしてゐた二つの殺人事件」のひとつは、「大杉栄重態」を報じている『読売新聞』五面のトップ記事のことであろう。

 こんな見出しが躍っている


 東海道下り寝台車中 二等客の残殺死体

 被害者は大阪の運送業者阿野徳次郎と判明し

 兇行は箱根通過の際か

 鉄道開通以来の椿事 車中で殺人され得るか

 阿野は国粋会の顔役 酒豪家で荒い気肌の男

 新富町に妾があり月数回 東京大阪間を往復してゐた


(『読売新聞』一九二一年二月二十一日)



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第332回 聖路加病院(二)






文●ツルシカズヒコ




「大杉栄の死を救う」によれば、大杉の病名がチブスと決定し、同時に気管支カタルを併発したのは、一九二一(大正十)年二月二十日だった。

「大杉栄の死を救う」には、大杉の容態の推移が詳細に記されている。

 聖路加病院の病室で野枝が一番に気にしていたのは、室温だった。

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 部屋が広いので石炭ストオブに石炭をドンドン入れても、なかなか暖まらなかった。

 左には広い部屋があり人気がなく、右は壁で壁の向こうは便所になっていた。

 向かいの部屋も二階も空き部屋だった。

 暖気がみんな天井や壁に吸われてしまうのだった。

 そして二四方くらいの大きな張り出した窓にはカーテンがついていなかった。
 
 野枝はこの窓の下半分を毛布で覆って少しでも寒さを防ぎ、一生懸命にストオブの火に注意して華氏六十度くらいの室温を保つようにした。

 しかし、室内の空気の乾燥を防ぐ方法がどうもうまくいかず、ずいぶんと気管支の方の心配もした。

 ついうっかり……が命取りになるのだ。

 野枝の緊張感は高まった。





 大杉は二月十八日の午後から、安眠のできない状態になっていた。

 野枝は大杉を安眠させるために、足音ひとつ立てないような注意を払った。

 ストオブに石炭を入れたり、灰を落としたりする際にも音を立てないように細心の注意をした。

 大杉は毎朝、自分の病気がどんな状態なのかを野枝に聞いた。


 そして、自分でもひどく病気に打ちまかされてゐることを意識してゐるように、『斯うして、たゞ病気にまけてばかりゐて長い間黙つて寝てゐるのでは仕様がない。医者に許り頼つてゐないで何んとか病気に抵抗する方法を考へなくつちや』と云ふのでした。

 ……どんな場合に、どんなものに向つても、必ず独特な意志の力で、打ち克たずにはおかないと云ふ精神のあらはれを、私は涙ぐみながら聞いたのででした。

 そして必ず、私の口から、病気の状態をすつかり聞きとるのでした。

 それから、新聞の時事問題、社会記事の主だつたものの要領を話さすのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 野枝が最初に大杉の意識の混濁に気づいたのは、二月二十日の午後だった。

 二、三回、話の途中に突然意味不明のことを口にしたのだ。

 夕方になると眼がすっかり上ずり、顔の相がまるで変わってしまった。

 口の乾きが激しいので始終うがいをさせていたが、うがいの水を飲み込んでしまわないくらいの意識の確かさはまだあったが、「世の中にこんな気のきいた、気持ちのいいものはない」などと意味不明なことを言いながら微かな笑い顔を見せたりした。

 熱はどうしても三十九度を下まわらない。

 野枝の不安は刻々と増していった。





 夜、野枝が待ちかねていた奥山が来た。

 奥山はチブスの前途は見えてきたが、気管支カタルが肺炎になったので、その対策を講じなければならないと言った。

 大杉の生死はこの肺炎対策次第だという。

 聖路加病院に入院するまで、大杉と野枝は奥山の指示に従い、湿布で間に合わない場合は胸に氷を当てていたが、聖路加病院では氷の手当はしない方針だった。

 奥山も礼儀上、他院の方針に差し出口を挟むことはできないのだが、野枝の強い主張を受け入れて、聖路加病院のふたりの看護婦に言い含めてくれた。

 野枝が奥山の遠慮を受け入れることができなかったのは、大杉の体を動かすことを絶対に避けたかったからだ。

 体を動かすと腸出血の恐れがあった。

 二時間ごとに湿布を取り替えると、その度に多少なりとも体を動かすことになり、腸出血の危険があった。

 野枝は氷を当てるのが最上の手段だと思った。

 もし聖路加病院の医師からとがめられたら、野枝は病人が長い間こうすることを習慣にしているのだと、主張するつもりだった。





 腸チフスが進行すると腸内出血から始まって腸穿孔を起こし死に至るのだが、野枝はそれを恐れていたのだろう。

 ちなみに前年五月、岩野泡鳴は腸チブスを病み、入院中に林檎を食べて腸穿孔を起こし死去した。

 野枝の頭の中には、この泡鳴の例がインプットされていたのではないか。

 結局、湿布と氷嚢の件は、背中には湿布をすることにして、四時間ごとに取り替えることになった。


 胸には左右ともに二つづつ四つの氷嚢をあてました。

 室の空気に湿り気を与へること、吸入、と云ふ風に、一生懸命にその手当をしたのでした。

 しかし、その午後から失禁をはじめてゐましたが、それでも夕方までははづすと直ぐ気味をわるがつてしらせてゐましたのが夕方からは、それもどうやら分らなくなつて来たようでした。

 病勢はただ進んでゆくばかりでした。

 睡眠剤をやつても依然として安眠は出来ないようでした。


(同上)




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2016年08月23日

第331回 聖路加病院(一)






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年二月十三日の正午、野枝は福岡から上京した叔父・代準介の乗った列車を横浜駅で迎え、すぐに「病室」に戻った。

 村木には魔子を連れて鎌倉に帰ってもらった。

 大杉の熱は少しも下がらなかった。

 大杉は体が非常にだるいと訴えたが、元気はいつもどおりで、平常どおりに話し、妊娠中の野枝の体の心配までしてくれた。

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 二月十四日、大杉の入院が決定した。

『労働運動』の仕事、生活費、入院費……二ヶ月やそこら入院することを想定し、その間に滞りのないように、大杉はたいぶ頭を働かせた。

 大杉と野枝は入院についてもかなり迷った。

 ふたりは奥山を信頼し、看護婦を雇って、このままの状態がいいとも思った。

 ふたりは不備な病室に入れられ、奥山の治療も受けられなくなることを危惧した。

 しかし、一間だけの狭い部屋では、なにもかもが不便だらけだった。

 できるだけ設備のいい病院を探すことに決めた後も、野枝は奥山の手を離れることに大きな不安を覚えた。

 大杉は日ごろ、奥山のおかげで自分は生命を保って来た、彼がいればどんな病気にとりつかれても大丈夫だと言い、奥山に絶対の信頼を置いていた。

 うまく望みどおりの病院に入れるかも問題だった。

 ふたりは有楽町から近い、なるべく設備のいい病院を望んでいた。





 二月十五日、大杉は聖路加病院に入院した。

 心配したわりには容易に聖路加病院に入院できたので、ふたりはひと安心した。

 京橋区築地にある聖路加病院はふたりの第一希望だった。

 本院に空き室はなく、まだ新しくて設備が本院のようには完備していない分院への入院だったが、野枝は病室が新しく広い純西洋室だと聞いて安心した。

 西洋室みたいなところに畳を敷いた病室や、狭い窮屈な部屋、廊下をバタバタ駆けられたり……とりあえず、野枝はそんな不愉快をせずにすむと思った。

 聖路加病院の分院は、あるドイツ人の住居を改築したものだった。


 ……実際に落ちついてみると、気持ちがようございました。

 Oも、室に運びこまれて、寝台の上に横になると直ぐに室を見まはして、いい室だなどゝ云つてゐました。

 それにまだ新しいので、私達のゐた室も、私達が最初のはいり手なのでした。

 大きなストオブや、東南に向いた大きな高い張り出しの窓やが、それから室の広さやが、少しも、幾つも小さなおなじ室のならんだ、他の病院の建物にあるやうな事務的な不親切な感を起させないのでした。

 それから病院付の看護婦たちも、他の上草履を引きずつて歩く種類の人たちとは大分ちがつて確(し)つかりした人達でした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 二月十六日、有楽町の「病室」の後かたづけをして来た野枝が、聖路加病院に戻ると、大杉はすっかり安心しきったような表情で眠っていた。

 折よく九州から叔母の坂口モトが来たので(「大杉栄の死を救う」解題)、野枝は鎌倉の家の留守をモトに頼み、村木にもしばらく休んでもらうことにした。

 出産間近になったので、野枝がモトに家事の助っ人を依頼し、代準介がモトを連れて来たと推測される。

 野枝が看護婦とふたりで大杉の完全看護体制に入ったのは二月十八日だったが、二月十九日の朝から大杉の容態が悪化し始めた。

 熱に苦しみ始めて一週間目だった。

 食欲がない大杉は、終始鬱々としていた。

 まだ病名ははっきりしていなかったが、チブスの兆候が徐々に出始めていた。

 そうだとしたらーー奥山から聞いていたチブスに関する話がいちいち、野枝を不安にした。

 奥山によれば、今日の医術ではチブスに対する積極的な治療方法はないという。

 経過を看視すること、余病を防止すること、食餌の注意しかないという。

 しかも、大杉は肺結核という大病も患っていて、奥山は大杉の肋骨にも異常を認めていた。





 では、これで死ぬのだらうか?

 私にはとてもそんな事は考へられませんでした。

 私はどうかして此の難関を切りぬけなければならない、とおもひました。

 医者や看護婦の、事務的な無関心から起る手落ちに基く危険が若しあれば、私の看護は、Oを其の危機にさらさぬ為めにされなければならない、そして其の危険は、可なり有り得ると、私は考へたのでした。

 そして、その時に私に最も不安あったのは、病気に対する知識がまるでない事でした。

 それはたゞ医者によるより仕方がなかつたのでした。

 けれど、私は病院の医者からはOの病気については、何んにも聞くことができませんでした。

 たゞ重態だといふことのみしか話して貰へなかつたのです。


(同上)





 野枝は知りたかった。

 どの程度に重体なのか、どいう場合に危険が来るのか、どういう点に注意して看護しなければならないのか。

 野枝は奥山を頼るしかなかった。

 奥山は本当にすべての指図をしてくれた。

 奥山は二月のまだ寒い時期に、かつ奥山自身が万全の健康体でもないのに、三田にある奥山病院から築地まで毎晩来てくれた。

 毎晩、奥山に大杉の容態を話してもらわないうちは、野枝は不安でたまらなかった。

 野枝は聖路加病院の「医者や看護婦の、事務的な無関心から起る手落ちに基く危険」に言及しているが、大杉が社会主義者だから「ぞんざい」に扱われる可能性があると言いたいようにも読み取れる。


聖路加病院




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月22日

第330回 チブス






文●ツルシカズヒコ



 伊藤野枝「大杉栄の死を救う」によれば、一九二一(大正十)年二月九日、大杉は有楽町の「病室」から午前中に鎌倉に行き、その晩は自宅に泊まった。

 翌二月十日、天気がよかったので野枝、大杉、魔子、そして遊びに来ていた労働運動社の和田久太郎の四人は、馬車で金沢に遊びに出かけた。

 金沢は当時、神奈川県久良岐郡(くらきぐん)金沢町、現在の横浜市金沢区である。

 その日は馬車の窓を開けていても、ポカポカするような暖かさだった。

 二匹の馬に引かれた馬車が、静かな街道を東に進み、馬の蹄(ひずめ)の音が何か心を浮き浮きさせるように響いた。

 金沢に着くと、風が冷たいので、野枝たちはちょっと風景を見ただけで引き返した。

 大杉は帰る途中、馬車のクッションにもたれてウトウトと眠った。

 帰宅すると、三時間あまりも馬車に乗っていたので、野枝も大杉も疲れていた。

 夕食をすますと、大杉はすぐに寝てしまった。

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 翌日の紀元節は、雨が降り寒かった。

 改造社から依頼された原稿の締め切りが迫っていたので、大杉は東京に帰らず書斎に入った。

 野枝が一生懸命に書斎を暖めたので、室温はかなり高くなったはずなのに、大杉はしきりに寒がった。

 しまいには、ペンを置いてコタツの中に入って寝てしまった。

 そこに改造社の秋田忠義が来た。

 大杉は東京に帰ることにして、秋田と一緒に鎌倉の家を出た。

 野枝は大杉の体調をあまり気にせず、風邪でも引いたのかなと思ったぐらいだった。





 二月十二日の午前中、労働運動社の寺田鼎が大杉からの手紙を携えて、吸入器を取りに来たので、野枝は驚いた。

 大杉の手紙にはこう書いてあった。


 昨夜九時頃に熱を計つてみたら九度三分あつたので、奥山氏に来て貰つて診て貰つたが、又何だかわからない。

 村木を呼んで看護して貰つてゐる。

 吸入器を持たしてよこしてくれ。

 あなたは来ない方がいゝ。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 とにかく寺田に吸入器を持たせて帰した野枝は、心配でたまらなかった。

 来ない方がいいと書いてはあるが、そして自分で手紙を書けるのだからとは思ったが、野枝は九度何分という熱が心配でならなかった。

 すぐに行きたいと思ったが、ちょうど女中も風邪で自宅に帰っていた。

 半病人の和田と魔子を置いて行くわけにもいかない。

 そして、翌日は九州から上京する叔父・代準介が立ち寄ることになっていた。

 どうしようと思っているところに、電報が届いた。

 五年前に千葉県夷隅郡大原町(現・いすみ市)の若松家に里子に出した、流二が肺炎で重体だから来てくれという。

 なにもかも一時に降って湧いたような騒ぎになった。

 野枝はまず大杉の病気の具合いを知りたいと思い、留守を和田に頼み、魔子を連れて東京に向かった。





 二月十二日、大杉が臥せっている有楽町の「病室」に着いた野枝は、まずドキッとした。

 部屋の扉を開けるなり、部屋中にこもった熱の臭いが野枝の鼻を突いたからだ。

 大杉は寝台の上に氷嚢をあてて寝ていた。

 部屋の空気がすっかり病室のそれになっていた。

 一緒に連れて来た魔子も不安げに父親を見つめていた。

 ふたりの姿が目に入った大杉は、

「やあ、来たな」

 と元気のいい声で笑いかけ、前日、鎌倉の家を出てからのことをひと通り話し始めた。

 鎌倉からの車中、大杉は改造社の秋田忠義とはほとんど口をきかず、眠っていた。

 有楽町の「病室」に着くなり、寝台の上に横になり、留守中の新聞に目を通し終わった。

 そして、そこで初めてたいぶ熱があるらしいことに気づき、計ってみると九度何分だった。

 それまで大杉の熱は七度二三分、五六分あたりを上下していた。





 とにかく、九度を超す熱にびっくりして、女中に近所の知人のところに走ってもらい応急手当をした。

「大杉栄の死を救う」には、「近所の知人」としか記されていないが、おそらく「日比谷洋服店」を営む服部浜次のことだろう。

 それから医師の奥山伸に往診に来てもらい、村木を呼んだ。

「なんの病気かわからないって、まだわからないんですか?」

「ああ、わからないそうだ。胸が別に悪くなった訳でもないし、肺炎でもないようだし、何だかまだよくわからないそうだ。腸が少し悪いようだから、ひょっとしたらチブスかもしれないとも言うのだが、今年の流行性感冒は非常にチブスに似た兆候があり、その判断が難しいそうだ」

 大杉の話の調子は普段と変わらなかったが、病名がわからないことに野枝は不安を覚えた。

 この時点で、野枝には鎌倉に帰ろうという考えがなくなった。

 長い間、病身でいる村木の看病で衰弱した真っ青な顔を見ているだけで、野枝は自分がそこを離れるわけにはいかないと思った。





 流二のことは鎌倉から上京する汽車の中で、野枝はこう決断していた。


 よしOの病気が左様(そう)でなかつたとしても、楽な東海道線や横須賀線とちがつて房総線の四時間は丈夫な時でさえも考え込む程ですから、もう出産までいくらも間がない体では、とても無事に行きつけるとは想像することが出来ませんでした。

 行つて、もし先方で、瀕死の者で忙がしがつてゐる人の手を必要とするやうな事になつてはならないし、殊に病人のOに心配をかけるのもよくないし、という風にいろんな事が、行くことを容易に断念させたのでした。

 で私は、何よりも必要なお金を送つてやつて行かれないことを電報で断つて、むかうからの、あとのしらせを待つことにしたのでした。


(「大杉栄の死を救う」/『野依雑誌』一九二一年六月号・第一巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


「せっかく来たついでだ、二日三日看病して行け」

 大杉はそう言って笑っていた。

 その日の夜、往診に来た奥山の話を聞いた野枝は、ますます心配になった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第329回 新婦人協会






文●ツルシカズヒコ




 一九二一(大正十)年二月一日、『労働運動』二次二号が発刊された。

 労働運動社が神田区駿河台北甲賀町の駿台倶楽部内に移ったのは一月中旬だったが、以降、大杉は麹町区有楽町の露国興信所(ロシア人経営の貸しアパート)から、駿河台の労働運動社まで通った。

「病室から」(『労働運動』二次二号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、大杉は奥山医師からは「絶対安静」を命じられていたが、『労働運動』二次の初号ができるまでは無理をして朝から晩まで社で仕事をしていたので、夕方、有楽町のアパートに帰宅すると氷嚢で胸を冷やさなければならないほど体調が悪化していた。

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『労働運動』二次二号の仕事は有楽町の「病室」(アパート)でやっていたようで、「病室から」には友人同志諸君へのお願いを四つ書いている。

 面会謝絶の札がかかっているときには黙って帰ってほしい、面会時間は十分ぐらいにしてほしい、病室内での禁煙、昼はともかく夜の誘いは絶対お断り、以上四つのお願いである。

 野枝は『改造』二月号(第三巻第二号)に「中産階級婦人の利己的運動ーー婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」を寄稿した。

「婦人参政・拒婚同盟」特集欄の一文である。

 平塚らいてうら七名が執筆しているが、「婦人参政」については他に長谷川如是閑が執筆している。

 以下、抜粋要約。





〈一〉

 ●私は現在の婦人の政治運動には、男子のそれと同様に、なんの興味もありません。

 ●だから、婦人の政治運動の実際に関しても知識がありませんが、なんの引け目も感じません。

 ●その気になれば、そんなものの知識などすぐに身につけることができるでしょうから。

 ●私は婦人の政治運動に関する知識は持っていませんが、その運動の精神に対する理解は持ち合わせているつもりですから、批評をすることはできます。

 ●婦人参政権運動と言えば、英米の猛烈な示威運動や宣伝を第一に思い浮かべます。

 ●その団結や意気には感心し、羨ましくも思いますが、あれだけの努力が婦人たちのために実際どれだけ役に立っているのかを考えると、馬鹿らしくなります。

 ●婦人が参政権を得て政治に参加し、男子の勝手な為政から婦人や子供の権利を獲得し、擁護するのは非常に結構なことだと思います。

 ●しかし、考えなければならないことは、政治がどこまで信頼できるものかということです。

 ●現在の政治は立派な理想や希望を受け容れるような、余地を持っているでしょうか?

 ●ある社会的事業を成し遂げるには、その事業を多数の人に認めてもらうことが必要になり、最も多数の意志によって成り立っているのが政府だから、政府に認めさせるのが最上の方法とされています。

 ●しかし、「多数」の意志によって決定したことが、民衆の上にどれほど禍をもたらしていることでしょう。

 ●「もっともよき内容」を供えた「多数」なら問題はないのです。

 ●けれども、今は「最も多くの人々の心に遍在する醜悪なもの」が「多数」としてまかり通っています。

 ●すなわち、すべてのことが「数」で決定されていて、内容はまるで問題にされていないのです。

 ●議院において民衆の代表者である議員はどんなことしているでしょう。

 ●民衆の真の要求は常に裏切られ、権力や財貨が常に勝利しているのです。





〈二〉

 ●英米ことに英国の婦人参政権の運動者たちが、政府の圧力に対して憤激し反抗し戦ったにもかかわらず、彼女たちは政府の権力を認めて政治に頼る道を選びましたが、私の婦人参政権運動に対する最初のそして最大の侮蔑は、それに対してでした。

 ●女権論者である彼女たちは、権力からの圧迫を、女性の反抗に対する男性の因習的な圧迫だと解釈しているようですが、それは事実に対する正しい観察や批判を欠いていると思います。

 ●彼女たちは男性が女性に対して与える不平等暴虐は知り抜いていますが、自分たちの親兄弟たちがそれ以上の暴虐を、他の婦人の夫や親兄弟に与えている事実についてはまるで知りもしなければ、考えてみようともしません。

 ●彼女たちは参政権を得ることができるでしょう。現に獲得してもいます。

 ●しかし、彼女たちは自分たちの要求がいかに浅薄皮相なものであったか、そしてその努力がいかに徒労であったかを、すぐに知るでしょう。

 ●彼女たちが本当に婦人や子供たちのために何かをなそうとするならば、参政権の行使ではなく他の手段によらなければならないことに気づくはずです。

 ●「男子同様に」だけで満足している女権論者は論外です。





〈三〉

 ●最近、新婦人協会は日本の婦人界の一勢力になっていますが、彼女たちの政治に対する盲目的な態度に、私はイラつきます。

 ●新婦人協会が掲げる綱領や事業は、婦人にとって極めてありがたいことですが、彼女たちの実際運動に対しては、私はなんの敬意も払うことができません。

 ●彼女たちは女性の政治活動を禁止した治安警察法第五条修正と、花柳病の男性の結婚制限に関する「母性の保護の要求」請願運動をしています。

 ●この請願運動は、婦人の参政権要求運動を引き起こすことになるのでしょう。

 ●それが成功して、婦人が男性と同等に政治的な自由を獲得したとして、その自由を謳歌できるのはどんな階級に属する婦人でしょうか。

 ●婦人や子供の問題も重要ですが、その婦人や子供の夫や父親が彼らの雇い主からどれほど過酷な扱いを受けているかという視点が、新婦人協会の面々にはありません。

 ●貧しい多くの娘たちは、不味いものを食べるだけのわずかな報酬しか得られない賃金奴隷として、雇い主を肥やすために利用されています。

 ●彼女たちには母性の保護など考える余裕はありません。





〈四〉

 ●新婦人協会の運動は、中産階級の利己的な運動にすぎません。

 ●彼女たちは、自分たちが特殊な階級に属していることに気づいていません。

 ●彼女たちは、政治が権力保護、利益壟断(ろうだん)の機関にすぎないのに、あたかも民衆の要求が受け容れられる機関だと信じているおめでたい人々です。

 ●新婦人協会の面々は、今日までの自分の生活において不都合不自由を感じたことを改善するという狭い思考の持ち主です。

 ●たとえば、子供についても、自分たちの子供に対する不安を具体的に示したものばかりです。

 ●中産階級知識階級婦人は婦人労働者に優越感を持ち、婦人労働者を卑下し「教化」指導していますが、まずこれを恥ずべきです。

 ●欧州各国において、中産階級婦人の援助のために、労働組合の発達を阻害された例がいくつもあります。

 ●新婦人協会の運動の成果が平等にゆきわたるには、それを受け容れる生活状態が平等でなければならないのです。

 ●新婦人協会の面々は、それに気づいていません。





〈五〉

 ●新婦人協会は自分たちの立場だけを考えて、利己的な運動に専念すればよい。

 ●しかし、婦人労働者を「教化」することはやめてほしい。

 ●不幸な労働者階級の婦人たちは、夫や子供たちと協力して、切実に彼らに迫っている悲壮な戦いに参加するでしょう。

 ●そして、ここでも私は真に暖かい心の持ち主だったロシアの婦人たちがやったことを思います。

 ●大学の開放を要求して拒絶されれば、すぐに他の方法で要求を貫徹させました。

 ●彼女たちは、あらゆる暴虐と戦い、人民の無知な心を叩いてまわりました。

 ●不正なものに対しては、男子と肩をすり合わせて勇敢に戦いました。

 ●彼女たちは知識も教養も持っていましたが、利己心を棄てて命をかけて戦いました。

 ●現在の切迫した社会状態に一切無関心な新婦人協会の婦人たちは、中産階級の女だけの内輪な運動を推進していけば、権力の保護の下、その運動は着々と効果を納めていくでしょう。





 野枝は此の原稿の最後に「附記」を記している。

 附記ーー私はこの一文を書くに当たつていくつもの不自由を感じました。

 その不自由の内、最も私の筆を渋らせたのは、新婦人協会の重な人々の思想的な基礎についての批評を除外した事です。

 私は以前から表面に表はれた運動の批評よりは、その思想的方面に対する批評をして見ようと企てゝゐるのです。

 そして、其女性偏重及び教育過信に対しては充分な意見を発表して見たい希望で、其腹案も半分以上は出来てゐるのです。

 で、此度改造社からのお話で此一文を書くにあたつてもそれが始終邪魔をしてどうしてもうまくまとめることが出来ないのです。

 それで申訳けのない次第ながら此儘発表します。

 そして他日、前述のものが書けました際にまた併せて読んで頂きたいと思ひます。


(「中産階級婦人の利己的運動ーー婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」/『改造』一九二一年二月号・第三巻第二号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第三巻』解題によれば、「新婦人協会の重な人々」は誰なのかはっきりしないが、同協会の理事三人は平塚らいてう、市川房枝奥むめお、評議員は山田わか、坂本真琴、田中孝子、矢部初子ら十人である。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年08月20日

第328回 アナ・ボル協同戦線






文●ツルシカズヒコ



 第二次『労働運動』で政治面を担当した高津は、早大時代に「暁民会」を設立し右翼の猛者学生を向こうにまわして血を流したこともあるが、『近藤栄蔵自伝』によれば、『労働運動』においても筆よりはむしろ行動の男だった。

 伊井敬(近藤栄蔵)の「ボルシェヴィズム研究」は、労働運動社外の無政府主義者からの批判もあったが、日本で最初の順序立てたロシア革命紹介記事として注目された。

 近藤憲二はアナ・ボル協同戦線を具体化した第二次『労働運動』について、こう回想している。

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 ……伊井敬君の「ボルシェヴィズム研究」や第三インターナショナルの紹介にたいして、無政府主義側のサンジカリズム論やクロポトキン思想の紹介が同居していたが、報道の主体は国内の労働組合運動の動きであって、心配してくれる人もあったが、雑然渾然たる中にけっこう円満と協力があって、うまくやっていたのである。

 要するに『週刊労運』だけではなく、社会主義同盟も日本社会運動の大勢も、アナ・ボル協同戦線の時代だったのだ。

 気の早い私などは妊娠二ヶ月を九ヶ月と誤診したかも知れぬが、鉄は熱いうちに打つべしだ、慎重に観察ばかりしていては冷めてしまう。

 上げ潮に乗って競い立とう、みんなもそう信じて動いていたのだ。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』)





『日録・大杉栄伝』によれば、九津見房子は労働運動社で炊事や掃除を、名簿の整理や発送を引き受け、月給三十円で三人の子供と暮らした。

『労働運動』二次一号の「お伽噺」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)で、大杉は「日本脱出」中のことについて触れているが、本人は借金原稿の整理をしにある温泉に隠れていたと書いている。

 大杉の行き先についてさまざまな憶測が流れたが、『報知新聞』はロシアだと報じた。

 神奈川県警のある警部の話によると、一週間ばかり東京にいて、それから但馬の城崎温泉に行ったことまではわかっているが、それからは敦賀からシベリア方面に行ったらしいというものだ。

 大杉はロシア人の下宿屋の一室を借りたが、そのロシア人はボルシェヴィキの疑いがある男で、それと大杉のロシア行きを結びつけて報じたのが『東京日日新聞』(一九二一年一月十三日)だった。

 シベリアじゃなくて上海に行った、いやシベリアから上海に行ったという話もあった。

『労働運動』の復活は大杉が持ち帰った金の話と結びつき、警視庁の某警部は二万円と言っているが、神奈川県の某警部は五万円と言っている、あげくのはてには時価十五万円の五貫目のプラチナを持って帰り、十二万円で売ろうしているという噂まで流れた。





 一月二十二日の『東京朝日新聞』の五面に、社会主義者が右翼に襲撃されたというふたつの記事が載っている。

 一月二十一日、日本橋区万町の常磐木倶楽部で社会主義同盟新年会が開催されたが、国粋会大和民労会と称する一団の男たちに襲われ、堺ら三名が鉄拳、木刀で乱打された。

 さらに同日、自由人連盟が市外大崎の相生(あいおい)亭で演説会を催したが、棍棒やステッキを持った国粋会と大和民労会の両会員が乱入し、自由人連盟会員の松本淳三中外社員)が腹部を日本刀で刺され重傷を負い、犯人は逃走した。

 自由人連盟を代表して江口渙が労働運動社を訪れ、大杉に応援を求めた。

 労働運動社と自由人連盟が中心となり会合を持ち、自衛のための武器を用意して赤衛団を結成した。

『読売新聞』(一月三十日)によれば、一月二十九日午後八時半ごろ、社会主義者の一団約六十名が浅草観音堂仁王門そばに結集。

 手に樫の杖を持った一団は、風呂敷を旗にして赤衛団の檄文を撒布しながら革命歌を歌いつつ、水族館そばから六区に練り歩き、象潟署の警官とオペラ館そばで小競り合いをし、五名が同署に検束された。

 このデモに参加した近藤憲二の『一無政府主義者の回想』によれば、浅草観音堂裏には大和民労会の本部があり、そこにデモをかけるのが目的だったが、デモ参加者が持っていた樫の棒は中外社の社長・内藤民治の百円のカンパで購入したという。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 15:06| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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