2016年07月31日

第311回 堺利彦論





文●ツルシカズヒコ




 野枝は『労働運動』第一次第五号に「堺利彦論(五〜九)」を書いている。

『労働運動』第一次第四号に掲載した「堺利彦論(一〜四)」(「堺利彦論」/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』)の続編である。

 「労働運動理論家」という人物評論欄に掲載されたものだが、大杉の「加賀豊彦論」(第一次第一号)、「鈴木文治論」(第一次第二号)、「加賀豊彦論(続)」(第一次第三号)に続く人物評論である。

「堺利彦論(一〜四)」の前書きによれば、この「堺利彦論」は山川均が執筆することになっていたが、山川が風邪を引き、急きょ、野枝が書くことになった。

 準備をする時間がなかったので、堺の近々の著書の中で読んだのは『労働運動の天下』だけだった。

 労働者向けに平易な文章で書かれた『労働運動の天下』は、新社会社から前年の十月に発行されたパンフレット第一冊、二十八頁、定価十銭。

 以下、抜粋要約。





〈一〉

 ●堺利彦氏は大らかな感情で目下の者を包んでしまうような物わかりのいい小父さん、些事にこだわらない太っ腹の親分、若者を引きつける中年の人の魅力を持っていると思う。

 ●『労働運動の天下』も、そういう魅力を持っている。

 ●実に見事な平明な文章には、他の人には真似できない親しみ深さがある。

 ●多くの労働者の信頼を得ることは間違いない。労働者の自覚を呼び覚ます上において、不可欠な人物である。

〈二〉

 ●氏は多くの人が知っているように、普通選挙運動をしている。

 ●氏は現在の資本制度がことごとく労働者の福利を蹂躙しつつある事実を挙げ、この事実に眼を開けと教える。

 ●そして氏は労働者の団結を説き、その団結力を利用せよと教える。

 ●一方、氏は資本の力を濫用しつつある政治を別な努力で改善しようとしている。

 ●労働者は団結の力で何をすべきか? 労働者団結の最後の目的は何か? 横暴な資本家といかに戦うべきか? 

 ●私はこれについて大胆に書く自由は持たないが、組合の威力と労働党の力、どちらが信頼できるかという質問をすることはできる。

〈三〉

 ●氏は政治的方向と経済的方向のふたつの方向を労働者に示した。

 ●しかし、労組者が具体的にどのように進めばいいのか、その道がいかなる道なのかという説明がない。

 ●氏はこう書いている。

「丈夫な組合ができれば、労働者の力は非常な強さになる。丈夫な組合を作って根強い動きをしていれば、労働者が威張れる時節が来る。私は諸君の働きに望みを託して、その時節が来るのを待っている。どうか諸君、自重自愛して大いにやってくれ」

 ●まるで組合がひとりでにできるようだ、ひとりでに大きくなるようだ、資本家がその敵対行動を黙って見逃してくれでもするかのようだ。





〈四〉

 ●ようするにこの不親切は、氏が理論家だからである。

 ●理論家は批評することは上手だ。将来の推定もする。断案も下す。しかし、実際問題の道行きには忠実な同行者ではない。

 ●彼らは理想を描いて見せるが、歩くときには一歩遅れる。将来を予言するから先導者と見なされる、自分もそう信じる。それが理論家の傲慢さだ。

 ●理論家たる氏に、実際問題に対する親切さを求めることが誤りなのかもしれない。

 ●しかし、また私は考える。今、私たちはかつて臨んだことのないような光栄ある時代に生きている。それは虐げられた平民階級とともに生きることである。

 ●時代を生きるということは、理屈を言うことではなく、事実を追って事実を創ることなのではないか。

 ●私は堺氏がただの理論家でないことを信じた。氏に不親切な態度をとらしめているものは何か?

 ●それは他人を子供扱いする、叔父さん的感情ではないだろうか。

 ●現在の日本の労働運動にとって失ってはならない堺氏の、若々しい激情を見たい、熱情を見たい。氏にはもう望めないことであろうか。

〈五〉

 ●いわゆる世間の裏も表も知りつくし、甘いも酸いも味わった苦労人という人がいる。

 ●苦労人の誇りは過去にしかない。現在においては疲れた人である。

 ●苦労人は新しく踏み出す勇気がない、アンビションもない。勇気とアンビションを持って踏み出す者がいると無謀と嘲る。

 ●苦労人は自若としている、あくまでも傍観者である。理解ある批評家である。激情を発しない。

〈六〉

 ●堺利彦氏は、日本における社会主義者の第一人者である。長い間、社会制度の不合理な欠陥を指摘し弾劾し続けてきた。

 ●そして常に愚劣な俗衆や内気な批評家よりは勇敢に一歩先を歩いていた。臆病者には真似のできないことだった。

 ●それが婉曲で老巧であったとしても、他人の言い得ないことを敢えて言い、進んで書いた。それは貴い熱意であった。

 ●今の氏には貴い熱意を抑えよう抑えようとしている。叔父さん的苦労人に収まろうしている。悪い趣味だと思う。

 ●氏はこの悪趣味と理想や熱意を合わせ持っているが、後者が本物の氏であると私は断言する。

 ●氏の悪趣味は初老近くになって落ち着こうとする、日本人の伝統的なものかもしれない。

 ●この退嬰(たいえい)的な悪趣味は、新思想を抱いて行動しようとする者にとっては、その思想や行動を阻むだけである。





〈七〉

 ●最近、労働問題の是非が盛んに論じられるようになり、氏の筆は活発に動いている。「我が時到れり」とまでの得意は見せないまでも、長い隠忍から得た蘊蓄(うんちく)を傾ける愉快さは格別であろう。

 ●氏には久しい言論の圧迫があった。今やとにかく氏の老巧な婉曲な筆をもってすれば、ほぼ書きたいことは書ける自由がある。

 ●氏の言論に味方する論客も簇出(ぞくしゅつ)したが、氏はそれで満足すべきなのだろうか。

 ●氏がもし満足しているなら、氏はもはや一社会主義者ではなく、卑怯な一理論家である。

 ●卑怯な一理論家に収まるなら、氏の生命には老衰が来たのだ。新しい世界を創造しようとする若い生命の味方ではない。目覚めつつある平民階級の真の味方でもない。

〈八〉

 ●過去から現在にいたるまで、社会主義者や無政府主義者がなぜ呪われ迫害され続けてきたのか? その答えはひとつしかない。即ち、彼らが単なる理論家ではなかったからだ。

 ●どんな剣呑な無政府主義思想も、それがただ哲学として受け取られていれば許されるが、その哲学によって生きようとする者は呪われ迫害される。

 ●現社会にとって最も許しがたいのは、理論を実行に移そうと企てる向こう見ずな冒険者たちである。

 ●今、世界は一大転機に直面している。日本の社会も著しく変化している。

 ●平民階級は日々に目覚め、育ちつつある。官学の学者ですら、かつては公然と話すのを憚(はばか)った理想について議論するようになった。

 ●目覚めた平民階級は、新しい勇気に満ちた冒険者である。新しい世界を創造するために新しい一歩一歩を踏みしめている。

 ●我がパイオニア! 堺利彦氏はもう動こうとはしないのだろうか。彼の仕事はもう終わったのであろうか。

 ●パイオニアは動かない。しかし、新しい冒険者は進んで行く。

〈九〉

 ●氏は過去に生活している人である。今、目覚めつつある平民階級に氏がこう言っているように思う。

 ●「長い間、私たちが待っていた時代がようやくめぐって来たらしい。私たちが言ったことは正しかった。それが解かったら、貴方たちは自分の幸福を索(さが)しなさい。行き着く先はもう見えている。軽はずみをしないで落ちついて行くがいい」

 ●しかし、氏はこう言うかもしれない。

 ●「我々のパイオニアとしての仕事はあれでいいのだ。もう済んだのだ。我々が今すべきことは、平民階級の勝利が来たとき、彼らを幸福にする社会をどう計画すればいいか。あるいは平民階級に理解を持たぬ者をいかに導き彼らに結びつけるか」

 ●私はもう余計なことは言うまい。老いぼれた氏になんの要があろう。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年07月30日

第310回 不景気






文●ツルシカズヒコ


 大杉一家が鎌倉に引っ越した一九二〇(大正九)年四月三十日は、『労働運動』第一次第五号が発行された日でもあった。

 三月の株価暴落による不景気の到来、それによる労働運動の新たな展開について、大杉が書いている。


 とうたう不景気が来た。

 戦争中から、今に来るぞ、今に来るぞ、そして其時には険悪な労働運動が起こるぞ、と警戒されてゐた不景気がとうたう来た。


(「労働運動の転機」/『労働運動』一九二〇年四月三十日・第一次第五号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第二巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)

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 大杉は前年(一九一九年)来の日本の労働運動の勃興の背景を、ロシアやドイツの革命とその他欧米諸国における急激な民主主義の刺激、あるいは物価騰貴による生活不安、そして一般経済界の好景気に乗じたものと分析している。

 しかし、と大杉は言う。

 日本の識者が急激に労働問題にやかましくなったのは、前々年、一九一八年夏に起こった米騒動からである。

 米騒動は日本の権力階級にとって非常な脅威、恐怖だった。

 この脅威、恐怖がなかったら、権力階級は労働者階級の生活の不安には目もくれず、民主思想にも耳を貸さなかっただろう。

 前年来の労働運動の勃興は、この権力階級の狼狽に乗じたものである。

 しかし、その労働運動の勃興も好景気だから可能だったのだ。

 労働者に背かれては、好景気でも資本家は暴利を貪ることができないからだ。

 なるほど、賃金は多少増し、労働時間も多少減り、そして労働運動界の首領どもがその運動の勝利を誇ったが、それはただ上っ面のことにすぎなかった。

 しかし、労働運動は行き詰まったのではなく、第一段階から第二段階に移る過渡期になったのだ。

 弱腰だった政府や資本家がだんだんと強腰になってきた。

 議会解散以来、労働者の普通選挙運動がとみに衰えたのは、さまざま要因があるだろうが、政治的運動に対する労働者の疑惑が主因であることは疑いない。

 労働者は今、考え込んでいる。

 その矢先に不景気が来たのだ。

 好景気下の労働運動と不景気下の労働運動とは、よほど違う。

 不景気は労働者にとって、まず失業を意味する。

 失業問題は労働問題の一大難関である。

 労働者は真剣になるざるを得ない。

 その真剣がどう現われるか、過去の経験がどう生かされるか、それは今後の事実に見るほかない。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



タグ:大杉栄
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2016年07月29日

第309回 大谷嘉兵衛






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年四月三十日、大杉一家は神奈川県三浦郡鎌倉町字小町二八五番地(瀬戸小路)に引っ越した。

 谷ナオ所有の貸家を月六十円で借り、大杉一家四人と村木が住むことになった。

「鎌倉から」(『労働運動』一次六号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)によれば、四月中旬、村木が知人の鎌倉の刺繍屋さんを仲介し、決めてきた家だった。

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 野枝は「引越し騒ぎ」に村木の知人(刺繍屋のNさん)は「村木の小父さん」だと書いている。

 この大杉一家の引っ越しを『報知新聞』が「大杉栄氏が鎌倉に定住−−所轄署大警戒」という見出しで報じたことにより、ひと騒動が起きた。

 社会主義者大杉栄氏は伊藤野枝、村木源太郎と共に本日(※四月三〇日)午後三時横浜駅発、戸部署巡査四名尾行の下に三時四十分鎌倉駅に着し、横浜大谷嘉兵衛氏所有の鎌倉小町瀬戸小路二八五新築家屋を借り受け入れり。

 右三名は当地に永住の覚悟らしく鎌倉署にては直(ただち)に私服巡査五名を付近に配し、目下夫(だれ)となく警戒中なり。

 家賃は五十円なり(鎌倉)


(『報知新聞』一九二〇年五月一日)





 「村木源太郎」は「村木源次郎」の誤記である。

 大杉の書いた「鎌倉から」によれば、鎌倉駅に到着した大杉一家を迎えたのは、高等視察に引き連れられた尾行刑事四人だった。

 大杉の尾行がふたり、野枝にひとり、村木にひとり、合わせて四人の尾行刑事である。

 署長以下総勢二十人の鎌倉署はてんてこ舞いの騒ぎになった。

 そして『報知新聞』により、家主は谷ナオではなくて地元の名士である大谷嘉兵衛であることが判明してしまった。

 引っ越して来てから四、五日して、大杉が仕入れてきた情報として、野枝が「引越し騒ぎ」にそのからくりを書いている。

 著名な実業家である大谷は、また道徳家であり独身主義者でもあったが、五十歳を過ぎて女中に手をつけ子供ができた。

 しかし、その女中がふたりの子供を残して死んだので、残された子供に家庭教師をつけた。

 その女家庭教師が谷ナオであり、谷は大谷の妾でもあった。

 大杉一家が借りた家は、大谷がその家賃を妾の月々の生活費に当てるために建てたものだった。

 道徳家として通っていた大谷は、妾の存在もその生活費を捻出するために鎌倉に家を持っていることも内密にしていたので、『報知新聞』の記事によって身から出た錆(さび)ではあったが、とんだどばっちりを受けてしまった。

 大谷は警察からの使嗾(しそう)もあって、差配を介して「社会主義者には貸せぬ」と言ってきた。

 大杉も野枝も村木も理不尽な要求を突きつける大家とは、徹底抗戦の腹づもりでいたが、道徳家らしからぬ弱味がバレてしまった大谷も強くは出れず、結局、大杉一家は立ち退きをせずにすんだ。

 鎌倉は選挙の時期だったので、始終顔を合わせている地元の有力者連からの圧力もあったが、いつものこととて野枝たちはめげなかった。





 ……『あんな奴らには米味噌醤油を売らない事にすれば閉口して行つてしまふだろう』と云つてゐるさうでう。

 しかしそれも私共には一向何んの影響もないんです。

 何故なら、鎌倉では向ふで買つてくれと云つても私達は出来るだけ買い度くないのですから。

 昨日も或る店で買物をしようとしますと其の店の主人が、今自分の処でもそれが入用で漸く他の店から買つて間に合はせたが、自分の店で売るのよりは三割方も高いと云つて、

『何しろ鎌倉のあきんどさんは高いのを自慢にしているのですからね』

 と真顔になつてゐましたが、それは全くです。

 私達のような貧乏なものは、とても此処の『別荘値段』のおつき合ひは出来かねます。


(「引越し騒ぎ」/『改造』一九二〇年九月号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)


「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、野枝は鎌倉に移ってから、ミシンを購入して洋服を作り始めた。


大谷嘉兵衛

大正時代の江の電 


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第308回 入獄前のO氏









文●ツルシカズヒコ

 一九二〇(大正九)年四月三日と四日、牛込区の築土八幡停留所前の骨董店・同好会で、第一回黒燿会展覧会が開催され、大杉は自画像「入獄前のO氏」を出品した(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。


「入獄前のO氏」を、望月桂はこう評している。

 かつて曙町の家に行つた時、壁にフクロウか狸の面のような、自画像とも思はれるが自らは猫だと云ふものが筆太にぬつたくつてあるのに気づき、大杉は絵も描かせれば描く男だなと思ひ、黒燿会の展覧会の時にウンとおだて揚げたら、これが民衆芸術の見本だ、商売人には批評出来まいと力んで、二三ども説明を要する自画像を描いた。

(望月桂「頑張り屋だつた大杉」/『労働運動』一九二四年三月号)

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 四月六日、大杉は和田久太郎と魔子と船で関西に旅立った。

 四月七日に神戸着、二日間、安谷寛一が間借りしている家に宿泊した(安谷寛一「大杉の憶ひ出」/『自由と祖国』一九二五年九月号)。

 安谷寛一「晩年の大杉栄」によれば、船で関西入りしたのはひとり分の汽車賃しかなかったからで、船だとひとり分の汽車賃でふたり乗れて食事つき、魔子は船賃も食事も無料だったからだ。

 トルコ帽をかぶった大杉は、この季節には寒そうは茶のレインコートを着、上着なし、女ものの肩かけを首に巻き、コートの襟を立ててボタンをはめていた。

 大杉は「うまいものを腹一杯食わして貰うため」に安谷を訪問したのだが、和田が大阪に向かった後、安谷は大杉と魔子にすき焼きを奢った。

 安谷の家に戻ると、大杉は安谷が欧州大戦の前ころから講読していた外国の新聞雑誌などに熱心に目を通し始め、その作業は徹夜になった。

 大杉はその中から借りていくものをチョイスしていたのである。

 
 朝早く雨戸をくる音がしたかと思うと、ザアザア水の音がする。

 やっと眼をさまして見ると、大杉が二階の廊下から戸外の道路に向って小便を放っていた。


(安谷寛一「晩年の大杉栄」/『展望』一九六五年九月・十月号)





 四月八日は朝九時ごろ、大杉、和田、安谷、大杉の弟・進、魔子の五人で、神戸のスラム街にある賀川豊彦宅を訪問した。

 大杉と賀川がド・フリースの「激変説((Mutation Theory)」など生物学に話に花を咲かせているときに、賀川が大杉にある質問をした。


 『大杉君、君の学説は何と云ふて定義すれば善いのだね?』

 それに対する大杉君の答は簡単であつた。

『インデヴヰヂユアリスチツク(個人主義的)・サンヂカリスチツク・アナキズム』

 大杉君が「個人主義」と「サンヂカリズム」とを並行せしめているところに彼の面目がある。


(賀川豊彦「可愛い男 大杉榮」/『改造』一九二三年十一月号)


 大杉は賀川からファーブル『昆虫記』の英訳本を六、七冊借りた。

 大杉はその後、大阪や京都で組合活動家たちなどに会い、四月十二日に帰京した。


賀川豊彦 



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2016年07月27日

第307回 トルコ帽






文●ツルシカズヒコ




 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九二〇(大正九)年四月一日、大杉の出獄歓迎会兼荒畑の大阪行き送別会が神田区錦町の松本亭で開かれた。

 百人余が出席したこの会で、大杉はトルコ帽姿で演壇に立ち獄中生活を語った。

 荒畑の大阪行きは、大阪で岩出金次郎が出している『日本労働新聞』の編集をするためだった。

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 四月二日、改造社が銀座のカフェ・パウリスタで賀川豊彦歓迎会を開催した(『日録・大杉栄伝』)。

『改造』に連載した賀川の社会小説「死線を越えて」の評判がよく、賀川の神戸からの上京を機に改造社が催したのである。

 有島武郎、北原白秋、広津和郎、森戸辰男、堺利彦、高畠素之などに混じり、大杉も出席した。

 大杉はこの日もトルコ帽をかぶっていた。

 賀川は初対面の大杉の印象を書いている。





 大杉君は……カラーもネクタイも無く白いハンカチを頸に巻いてカラーの代用にしてゐた。

 あの可愛い吃りの口付で『入獄者の手引を教へてやらねばならぬ。俺はそれを書く』と云ふていた……。

 恰度そこに堺枯川君も、その他社会運動界の猛者連が沢山集つてゐたので、監獄生活に色々と花を咲かせた。

 大杉君は、出獄後女と食物を慎まねばならぬと云ひ、堺君は獄内で色情があまり猛烈に起らないと云ふことを話してゐた。

 大杉君は第一印象から「可愛い」人だと思った。

 快活で、明け放しで(自分の性欲生活までも少しも隠し立てしない)賢い人だと思つた。


(賀川豊彦「可愛い男 大杉栄」/『改造』一九二三年十一月号)





 四月三日、神田区美土代(みとしろ)町の東京基督教青年会館で、森戸事件の控訴支援、言論の自由擁護の演説会が開催された(『日録・大杉栄伝』)。

 午後六時開会。

 大杉は賀川豊彦の演説中にしきりに野次り、ついには登壇し例の「演説もらい」をやった。


 大杉氏が帽子にカーキ色雨外套のまま登壇、
 
 ポケツトから取り出した煙草に悠々点火しなどして会場の空気を一新させ

 先づ自由質問を許し聴衆の「自由とは」「絶対自由を主張するや」等の質問に対し、

 改良は各自の自発的ならざるべからずと力説し「衆合(がつ)すればその集合の中に改造を見出さなければならぬ」と論じ「我々の行動は最も正々と、最も大胆に、最も堂々と……」といふ時、

 出張中の錦町署長の「演説中止!」の声が響いて、聴衆総立ちとなつたが、無事降壇。


(『東京朝日新聞』一九二〇年四月四日)





 賀川によれば、壇上で十数分も話した大杉は中止命令により降壇し弁士室に入って来た。


 大杉君は、フランスの議会の例を引いて、『演説も会話的でなくてはいかぬ、一人が一時間も、二時間も一本調子で喋るのは専制的だ、聴衆と講演者が合議的に話すのが真のデモクラチツクな遣り方だ』と教へてくれた。

 私はそれに感心した。

 たゞ、私は『それが小集会には適するが、大衆の場合には混乱に陥る恐れがある』と云ふた。

 大杉君は風習までにアナキズムを注入することに努力してゐるのだとはその時に私の感付いたことであつた。

 それで、大杉君の一派が裁判官の前で起立しないこと位はあたりまえだと知つたことであつた。


(賀川豊彦「可愛い男 大杉栄」)





 大杉が演壇に上がると、最初は彼らを罵っていた聴衆から猛烈な拍手が起こった。

 大杉は演壇の上と下の会話や討論を弁士として試みようとした。

 大杉の意図は、まさにそのときに実際問題になっている、会場の秩序そのものについて聴衆と話し合うことだった。


 しかし其の話し合はうと思つた事が、既にもう、皆んなの間に立派に了解されて了つてゐたのだ。

 新しい秩序の気分が全会場に漲ぎつてゐたのだ。

 僕はふだんの吃りも場馴れない臆病さも全く忘れて、酔つたやうないい気持になつて、聴衆の皆んなと会話した。

 討論した。

 僕はあんな気持のいい演説会は生れて始めてだつた。

 弁士と聴衆との対話は、極く少人数の会でなければ出来ないとか、十分に其の素養がなければ出来ないとか云ふ反対論は、これで全く事実の上で打ち毀されて了つた。

 僕等の謂はゆる弥次は、決して単なる打ち毀しの為めでもなければ、又単なる伝導の為めでもない。

 いつでも、又どこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩々々を築きあげて行く為めの実際運動なのだ。

 怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。

 音頭取りめらよ。

 犬めらよ。


(「新秩序の創造」/『労働運動』一九二〇年六月・一次六号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年07月26日

第306回 自由母権






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『解放』一九二〇(大正九)年四月号に「自由母権の方へ」を寄稿した。

「新しい時代において両性問題はどう変化していくのか?」というテーマで原稿を依頼されたようだ。

 野枝は冒頭で両性問題、つまり男女の問題について考えることに興味が持てなくなったと書いている。

 そしてこう言う。


 親密な男女間をつなぐ第一のものが、決して『性の差別』でなくて、人と人の間に生ずる最も深い感激をもつた『フレンドシップ』だと云ふ事を固く信ずるやうになりました。

 両性の結合を持続さすものは、決して……現在の所謂(いわゆる)恋愛ではなく、それは『性の差別』を超越した『フレンドシップ』だと思ひます。

 本当に深い理解から出た『フレンドシップ』によつてつながれた男と女とが更に深く愛し合ふと云ふのは一番自然なプロセスで……。


(「自由母権の方へ」/『解放』一九二〇年四月号・第二巻第四号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)

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 前年、平塚らいてうや市川房枝らが新婦人協会を結成し、治安警察法第五条改正運動を始めるが、野枝はそういう視点で男女問題を考えることには興味がなくなっていた。

  野枝は大杉との生活の実体験に言及し、自分も世間並みの妻が良人(おっと)のを気づかうように絶えず大杉のことが気になるが、別々に生活していると大杉に対する気づかいは影をひそめてしまうと書いている。

 自分と大杉の関係は、お互いの生活を判然と区別して、お互いの理解にまかせ、必要に応じて接触するのが一番いい方法だと、野枝は考えていた。

 そして野枝は尊敬するエマ・ゴールドマンの両性問題、自由母権に対する意見を紹介している。

 野枝の訳著『婦人解放の悲劇』の「結婚と恋愛」からの引用である。

 以下、抜粋要約。





●男と女とは永久に他人でなければならないと、エドワアド・カアペンタアは云つている。それがなくてはどんな結合も失敗に終るのである。

●女には霊魂がない……のみならず、女に霊魂の分子が少い程妻としての価値が大きくなり、更に容易に良人に同化し得ると云ふのだ。長い間……結婚制度なるものを保存したのは此の男尊説に対する奴隷的黙従である。今や女は真に主人の恩恵から離れた存在物として自覚しはじめた。

●若し女が充分自由に生長し、国家若しくは教会の裁可なしに性の秘密を学ぶなら、彼女は全く『善良』な男の妻となるに不適当だとして罪を宣告されるだろう。男の『善良』と云ふのは空っぽな頭と金がたくさんにあると云ふにすぎない。結婚とは確かにこれなのだ。

●婦人の保護……結婚は真に彼女を保護しないばかりでなく、保護と云ふ思想其のものがすでに嫌悪すべきである。人生を侮辱蹂躙し、人間の威厳を貶(おと)すものである。それは資本制度と相似たものである。人間天賦の権利を剥奪し、その生長を防止し、肉体を毒し、人間を無知、貧窮、従属的ならしめ……。

●母たることが自由選択であり、恋愛と、歓喜と、熾烈な情熱の結果であるなら、結婚は無辜(むこ)の頭上に荊冠(けいかん)をおき、血文字で私生児と云ふ言葉を刻(きざ)まないであろうか?

●政府の擁護者は自由母権の到来を恐れている。政府の餌を奪われるのをわざわざ心配してあげているのである。もし婦人が子供の無差別な養育を拒むなら、誰が戦争をするのか? 誰が富を造り出すのか? 誰が巡査になり、官吏になるのか?

●種族! 種族! 大統領や資本家や牧師が叫ぶ。婦人が堕落して単なる機械になっても種族は保存されなければならない。

●婦人はもはや病弱不具な、そして貧乏と奴隷の軛(くびき)を打破する力も心も持たないようなみじめな人間の生産に与(あずか)ることは願わない。

●彼女は恋愛と自由選択によって生まれ、育てられる少数のよりよき子供を願望する。結婚が科するような強迫によってではないのだ。

●似非(えせ)道学者らは自由恋愛が婦人の胸中に呼び覚ました子供に対する深い義務の観念を学ばなければならない。

●子供と一緒に生長することが彼女の座右銘だ。かくしてのみ彼女は真の男と女との建設を助けることができるのを知っている。





 野枝がこのとき『解放』に寄稿した「自由母権の方へ」は、「戦後ウーマンリブの結婚制度否定を50年早く提起した」との指摘もあるようだが、たとえば以下のような野枝の思考がその理由なのだろう。


 よく、私共へ話をしに来る人々が、『あなた方の実現さしたいと云ふ社会はどんな社会ですか』と聞きます。

 そして、その説明を聞いた後で、『しかし斯う云ふ点は、どう処理なさいますか?』と、現在の制度が生み出した不合理から生じた現象をさも私共にとつての最大難関か何かのやうな問ひ方をします。

 私共の何んの為めに、現制度を呪ふのかまるで考へても見ない風で。

 そして、あくまで、現制度の感情から離れ得ないで。

 其処まで来ないうちには、非常に聡明な問ひ方をしてゐる人々が猶さうなのです。

 両性問題が新時代の下に、どう発展してゆくか、と云ふ事に対しては、私は矢張り、現在の制度の下に於ける普通の観念では、完全に考へる事は出来ないことゝ思ひます。

 ですから、たゞ此処では、非常に変つて来るに違ひないと云ふ事だけを先づ云つて置きたいと思ひます。


(同上)





 ちなみに、野枝が「自由母権の方へ」を『解放』に寄稿してからちょうど五十年後、一九七〇年三月に吉田喜重監督の映画『エロス+虐殺』が公開された。


『婦人解放の悲劇』は辻の力を借りて野枝が訳しているが、辻&野枝は原文をどんな感じで訳しているのか。

 たとえば、エドワード・カーペンターの下りの原文はこうである。


Edward Carpenter says that behind every marriage stands the life-long environment of the two sexes; an environment so different from each other that man and woman must remain strangers.

Separated by an insurmountable wall of superstition, custom, and habit, marriage has not the potentiality of developing knowledge of, and respect for, each other, without which every union is doomed to failure.


(「Marriage and Love 」/Emma Goldman『Anarchism and Other Essays』)





 この原文をざっくり直訳すると、こんな感じだろうか。


 エドワード・カーペンターはこう言っている。

 結婚の背後には両性の生涯の環境がある。

 その環境は互いに非常に異なったものなので、男女は他人であり続けなければならない。

 迷信や因習という克服出来ない壁によって(両性が)分断されたために、結婚は男女の理解を深めたり
互いに尊敬する可能性を持ちえなかったーーどんな男女の結合も失敗する運命なしには。






 辻&野枝はこう訳している。


 悉(あら)ゆる結婚の裏面には両性の一生の雰囲気がまつわつてゐる。

 その雰囲気は相互に異なつてゐるので、男と女とは永久に他人でなければならないとエドワード カアペンターは云つてゐる。

 迷信や風俗や習慣の超へ難い障壁によつて分離されてゐては結婚は相互に対する智識や尊敬を発達させる力を持つことは出来ない。

 それが無くてはどんな結合も失敗に終るのである。


(『婦人解放の悲劇』・東雲堂書店・一九一四年三月or四月/大杉栄との共著『二人の革命家』/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)



エドワード・カーペンター



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年07月25日

第305回 出獄






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年三月十五日、日本では株価が三分の一に大暴落し、欧州大戦後の戦後恐慌が始まった。

 三月二十三日、大杉が三ヶ月の刑期を終えて豊多摩監獄から出獄した。

『読売新聞』は「昨朝 大杉栄氏 出獄す」という見出しで、こう報じている。


 ……昨日朝七時、伊藤野枝氏を始め同士廿数名に迎へられ革命歌に擁せられて出獄せり。

 同氏は頤髭(あごひげ)蓬々(ぼうぼう)たれども極めて元気なりしと。


(『読売新聞』一九二〇年三月二十四日)

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 大杉は『労働運動』に「出獄の辞」を書いている。


 さすがに別荘は別荘です。

 ほかではとても出来ないほんとうの保養をして来ました。

 最近十年間、毎年の冬の半ば以上は寝て暮らして来たのだが、あの通りの北極近いところで、死苦の寒気を嘗めながら、それをゆつくりと味つて、咳一つ、痰一つ、クシャミ一つ出さずに過ごして来ました。

 そして最近の僕にはまつたく不可能であつた、たつた一人きりの生活を楽しみながら、三ケ月間をただ瞑想と読書とに耽つて来ました。


(「出獄の辞」/『労働運動』一九二〇年四月三十日・第一次第五号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)





 三月二十八日、大杉と野枝は、大杉が入獄中に働いてくれた『労働運動』関係者の慰労会を開いた。

 野枝によれば、招待した客は「内にいる四五人」と「他に雑誌の上に直接の援助を与えてくれた、二三の人達」である(「或る男の堕落」)。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、近藤憲二、和田久太郎、中村還一、久板卯之助、延島英一、服部浜次、吉川守圀、大石七分のようだ。

 前日、野枝は大杉と一緒に食材の買い出しに出かけた。

 食べ物に飢えた大杉の眼を引いたのは、走りものの野菜だった。

 ふたりは筍、さやえんどう、茄子、胡瓜、そんなものをかなり買い込んだ。

 大杉は、野枝が料理をするときはいつもそうするように、野菜物の下ごしらえの手伝いをしていた。





 そこに水沼辰夫吉田一(はじめ)を連れてやって来た。

 家が狭く食器類も少ないので、声をかけている招待客だけでも人数超過なのに、さらにふたりの客が増えたことは番狂わせだった。

 野枝はいろいろ思案しながら、そしてせっかくの慰労会に無遠慮な吉田に割り込まれるのは困ったことだと思いながら、手を動かしていた。

 するとまもなく、ふたりは帰って行った。

「帰りましたの?」

 台所に入って来た大杉を見上げながら、野枝が訪ねた。

「ああ、帰った。吉田の奴、水沼が帰ろうと言うと『三月だというのに筍の顔なんか見て帰れるかい。俺あ、ご馳走になって帰るんだ』と言ったから、今日は君は招待された客じゃないのだ。ご馳走することはできないから帰れって帰してやった」

「困った人ね」

 野枝はただそう言うよりほかなかった。

 そして、野枝は図々しい吉田がいなくて助かったという気がしたが、水沼にはなんとなくすまない気がした。

 ちなみに大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝は炊事をしながらよく『ケンタッキーの我が家』(My Old Kentucky Home)を歌ったという。

 英語で歌っていたかもしれない。





 まもなく大杉一家は鎌倉に引っ越し、第二次『労働運動』を始めるころまでに、吉田は二、三度遊びに来たが、彼は大杉たちに反感を持ち煙たがるようになった。

 吉田は帰り際には大杉の財布をはたかせたり、着物まで質草に持って行くような真似もした。

 その後、吉田は大杉の悪口を猛烈に言うようになり、野枝たちもそのことは知っていた。

 吉田は雑誌を始めることを口実に、同志を通して金を要求してきたが、大杉は一切耳を傾けなかった。

 大杉が第二次『労働運動』を創刊してからは、吉田は明らかに大杉たちに敵意を示し始めた。

 雑誌を創刊した吉田は、大杉の予言どおり、真面目な運動から外れて金を集めるゴロツキになってしまった。





 彼がロシアへ立つ前に仲間の人々に対して働いた言語道断な悉(あら)ゆる振舞ひは、もう人間
としての一切の信用を堕すに充分でした。

 しかし、彼れの持ち前の図々しさと己惚れは、まだ、彼れを其堕落の淵に目ざめさす事が出来ないのです。

 私は彼の目ざましかつた,初期の運動に対する熱心さや、彼の持つてゐる、そして今は全く隠されてゐるその熱情を想ふ度びに、彼れの為めに惜しまずにはゐられませんでした。

 が、邪道にそれた彼れの恐ろしい恥知らずな行為を、私は決して過失と見すごす事は出来ないのです。


(「或る男の堕落」/『女性改造』一九二三年十一月号・第二巻第十一号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)





『女性改造』一九二三年十一月号は伊藤野枝追悼小特集を組み、野枝の「遺稿」として「或る男の堕落」を掲載している。

『定本 伊藤野枝全集 第一巻』解題、小松隆二『大正自由人物語』(岩波書店・一九八八年八月二十四日_p180)によれば、吉田が創刊したのは『労働者』(労働社・一九二一年四月創刊)。

 第二次『労働運動』はアナ・ボルの提携であり、インテリと非労働者中心だったが、それに批判的だった労働者が『労働者』に結集した。

 吉田は『労働者』の編集・発行・印刷人だった。

「ロシアへ立つ」た吉田は、一九二二(大正十一)年一月、モスクワで開催された極東諸民族大会に参加した。

 ちなみに、吉田は「第二次世界大戦後に安売り豆腐屋として知られ」(『大正自由人物語』)たという。

 労働社に関わった神近市子は「或る男の堕落」に対抗するかのように、『労働者』創刊の経緯を小説にした「未来をめぐる幻影」を『改造』(一九二四年一月号)に発表し、それは単行本『未来をめぐる幻影』(解放社・一九二八年十一月)に収録された。

「未来をめぐる幻影」に登場する人物は、すべて仮名である。

 渡辺政太郎(仮名/土屋,以下同)、大杉(有松)、泉(久板卯之介)、吉田一(内海)、村木(津上)、近藤栄蔵(伊丹)などが登場している。

 ロシアのボルシェビキから金をもらって帰国した大杉が、その金を使ってブルジョア的な生活をしているなど、大杉に対する神近の批判の視点で貫かれている。

 野枝らしき人物はまったく登場していない。

 神近はこの原稿を大杉と野枝が虐殺された直後に執筆しているはずだが、その筆致には大杉と野枝に対する哀惜の情はまったくない。





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第304回 ロシアの婦人運動






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『改造』一九二〇(大正九)年三月号に「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動」を書いた。

「クロポトキン思想批判」特集の中の一文であり、同特集には他に昇曙夢片上伸室伏高信井箆節三が執筆している。

 クロポトキン著、大杉栄訳『一革命家の思出』(春陽堂書店/一九二〇年五月)の第六節を中心にした紹介である。

 クロポトキンの回想記『一革命家の思出』は、野枝に深い感激を与えたが、特に一八六〇年代に起こったロシアの婦人たちの高等教育を受けるための大運動は、野枝に限りない羨望を感じさせた。

 それはアレキサンダー二世の治世下であった。

 アレキサンダー二世はパリで狙撃されて以来、若い知識階級を恐れ、彼らに弾圧を加えた。

 そんな中、婦人たちが「大学を婦人に解放せよ」という要求を掲げ、頑迷な政府と戦い、勝利を得たことに、野枝は感激したのである。

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 セント・ペテルスブルグは当時の婦人運動の中心地で、全国の若い婦人たちはこの運動に加わるために、ここに集まって来た。

 彼女たちは大学の講義を聴きたいと願ったが、「女学校を卒業したくらいでは、その資格がない」と政府にはねつけられた。

 すると彼女たちは、大学予備校を開校する許可を願い出た。

 政府は許可を与えることを拒んだ。

 そこで彼女たちはセント・ペテルスブルグのあちこちで、講習会などを始めた。

 大学教授たちは、彼女たちの運動に同情し喜んで講義を受け待った。

 こうして勉強しながら、女医学校や女子大を開こうという計画のために、学校や教育法についての討論会が開かれ、婦人たちが熱心に論じ合った。

 産婆学の講習会では、教授に迫って定められたよりはずっと詳細に各課目を講じさせた、

 その熱心さによって、老博士クウルベルが解剖研究室に入ることを許すと、彼女たちは一生懸命に勉強した。

 彼女たちの立派な成績により、この解剖学者は彼女たちの味方になった。

 日曜日の夜など、誰か教授がその研究室で勉強させてもいいと言えば、彼女たちはそこに押し寄せて熱心に夜遅くまで勉強した。

 彼女たちはついに文部省から、教育学講習会という名義で大学の予備校を開く許可を得た。

 こうして彼女たちは確実に一歩一歩、権利を拡張していった。





 ドイツのある大学のある教授が婦人に講義を解放しているという話を聞くと、すぐにその教授の講義を聴きに行った。

 彼女たちはハイデルベルヒで法律や歴史を、ベルリンで数学を勉強した。

 チューリッヒでは百人あまりの婦人が大学や百科工芸学校に通った。

 教授たちは彼女たちの優秀さに驚いた。

 クロポトキンも一八七二年にチューリッヒに行き、百科工芸学校に通っている若い婦人たちの数学の素養の高さに驚き、「長年の数学の素養があるかのように、造作もなく微分法を使って熱学の複雑な問題を解いていた」と書いている。

 ベルリン大学のワイエルストラス教授の下で数学を学んでいたロシア婦人のひとり、ソフィア・コワレフスキイはその才能の高さが評判になり、ストックホルムの大学の教授に招聘された。

 アレキサンダー二世は、眼鏡をかけて円いガリバルディをかぶった女に会うと、自分を撃ち殺そうしているニヒリストだと思って慄(ふる)えたという。

 女学生はアレキサンダー二世から革命家として憎まれ、国事警察に弾圧され、政府の命を受けた新聞に罵倒され讒訴(ざんそ)されたが、彼女たちはいくつかの教育機関を設けることに成功した。

 一八七二年には彼女たち自身の私立医科大学を開いた。

 婦人たちはすでにクリミア戦争の際には看護婦として働いていた。

 その後、小学校の教師として、農村の教育ある産婆として、医師の助手として働いた。

 一八七七年から始まった露土戦争では、看護婦として医師として貢献したので、アレキサンダー二世や軍司令官から賞賛され、婦人たちは自分たちの本当の権利を獲得したのだ。

 この運動の特徴のひとつは、姉と妹の間の世代の裂け目が少なかったことだ。

 姉世代は一切の政治運動とは没交渉だったが、その運動の本当の力が急進的あるいは革命団体に結びついた若い女たちのグループにあることを忘れるような過ちをしなかった。

 若い女学生たちが髪を短く切り、天鵞絨(ビロード)の「下袴の張り」を嫌い、ニヒリストとして行動する彼女たちと、姉世代の婦人たちは縁を切ることをしなかった。

 狂気のような迫害の時代には、非常に偉いことだった。





 ロシアの婦人運動はただこれのみでも充分に勝利を得たのだと思った野枝は、日本の「姉世代」の婦人を痛烈に批判している。


 それにくらべますと、現在日本の女子教育家とか……婦人界の全権を振つてゐるやうな顔をしておさまつてゐる多くの某々婦人や……お歴々の浅薄さ加減はどうでせう。

 若い女達の意見などは耳にもかけません。

 まして其の思想を理解したり尊敬する事はまるで知りません。

 変つた服装をするとか、他眼(ひとめ)にたちやすい髪でもすると即座にとがめる。

 若し政府に反抗するなどゝ云ふ事があれば、たちまちにして他人になる処ではなく前生からの仇敵の憎しみは必ず持ちます。

 より急進的な、燃ゆるような情熱の所有者である若い娘達と『一緒に仕事をする』などと云ふやうな事は日本の貧弱な知識階級の女達には、とても思ひも及ばない事だと云はなければなりません。

 ロシアの……婦人達は、立派な彼女自身の見識を持つてゐました。

 彼女達は立派な独立した人格を持つてゐました。

 彼女達は大抵の国の女達がそれに禍(わざわい)されて容易に脱し得ない性の区別などは全(ま)るで念頭においてゐなかつた。

 彼女は何んの躊躇もなしに、人間としての同一目的の為めに……不正不義に向つて、男子と肩をすれ合はして戦ふ事を知つてゐた。

 彼女達は……人類の生活の正しい意義を見つめてゐました。

 彼女達が高等教育を受けたい、と云ふ望みも、たゞいゝ加減な自分一個の知識欲を満たす為めばかりではなかつたのです。

 ロシアの婦人達は他のどの国の女達よりも進んだ立派な人格と、確(し)つかりした正しい考へを持つてゐた。


(「クロポトキンの自叙伝に現はれたるロシアの婦人運動/『改造』一九二〇年三月号・第二巻第三号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』)





 一八七二年にチューリッヒに行ったクロポトキンは、そこに集うロシアの若い男女の学生の生活をこう書いている。

「百科工芸学校の近くの有名なオオベルシュトラアスはロシア町となって、そこでは主にロシア語が使われていた。学生たちは極くわずかなもので生活していた。特に女はそうだった。社会主義運動の最近の出来事や、最近に読んだ書物についての盛んな討論をしながら、茶とパンと牛乳と、それにアルコールランプの上で煮た薄い肉片。これが彼らのお決まりの食べ物だった。」

 プーシキンは詩の中で「どんな帽子でも十六の娘に似合わないということがあろうか」と言ったが、服を倹約していたチューリッヒのロシアの少女たちは、こう問いかけているようだった。

「どんな質素な着物でも、それを着る女が若くて利口で、そして元気に充ちていれば、その女を娘らしく見せないということがあろうか」

 そして、野枝はそのころロシアの若者の間に激しい勢いで広まった虚無党に触れ、ツルゲーネフの『父と子』の青年とその父のように、虚無党に関わった娘と両親の確執について書き、最後をこう結んだ。


 新旧思想の衝突は、何(ど)の国でも、何処の家庭でも同じやうな形式のものです。

 此の点でも私は同一団体の中に於いて、厳重に、急進的な若い人達と自分達の間に区別しながら、しかも其の若い人達を中心にしてそれを庇護し其の為めに確実な勝利を得る事に努めたロシア婦人の先覚者達のえらさを、此処に繰り返さずにはゐられないのである。

 今やロシアは、革命的の混乱状態にあります。

 しかし、やがて、其混乱が一とかたづきした暁には、新しいロシアは悉ゆる方面に渡つて世界人類の先覚者として輝き出すに違いないと思ふ。


(同上)

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2016年07月23日

第303回 豊多摩監獄(四)






文●ツルシカズヒコ




 豊多摩監獄に入獄中の大杉が野枝に手紙を書いたこの日、一九二〇(大正九)年二月二十九日、野枝も大杉に手紙を書いた。

 このころ野枝はツルゲーネフの『その前夜』『父と子』『ルージン』を読んでいた。

『その前夜』『ルージン』は田中潤訳、『父と子』は谷崎精二訳で新潮社から出ていた(いずれも重訳)。

 ロープシン の『蒼ざめたる馬』(青野季吉訳/冬夏社)も読んだ。

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 先達(せんだつて)はツルゲネエフのオン・ゼ・イヴ(※『その前夜』)を読みました。

 あなたはあれを読んだことがありますか。

 私はエレーナやインザロフに対して、特別に興味を引かれる何ものも見出しはしませんでしたけれど、ただ、病人のインザロフを守って祖国の難に行く途中のエレーナの気持にはひどく引きつけられました。

 そして又、インザロフを失つたエレーナの気持にも引かれました。

 続いて私はロオプシンと云ふ人の書いたごくつまらないものですが、その中でもあるテロリストのラヴアツフエアに強くつきあたりました。

 私たちは生きてゐる間は、どんなに離れてゐても、お互ひの心の中に生きてゐ一つのもので結びつけられてゐますけれど、私達は何時の日死(しに)別れるかしれない、と考へる時に、私は心が冷たく凍るやうな気がします。

 私が先きに死ぬのだつたら、私は何んにも思ひません。

 きつと幸福に死ねるでせう。

 でも、残される事を考へると本当にいやです。

 そして私達の生活には何時そんな別離が来るかも知れないなどと考へます。

 馬鹿な話ですけど。

 小説はこんな妙な事を考へさせますからいけませんね。

 オン・ゼ・イヴにつづいてバザロフ(※『父と子』の主人公)やルーデインも読んで見ましたけれど、つまりませんね。

 何の感激も起りません。

 直ぐ物足りない気持がするだけです。

 私の感じは余りプロゼイツクになりすぎたのでせうか。

 先達て春陽堂で今村さんに会ひましたら『先生が出てお出になつたら、ぜひ今度の獄中記を書いて頂くようにお願ひして下さい』なんて云つてゐました。

 そして今度それを増補してまた獄中記の版を重ねるのだからなどとも云つてゐました。

 今度は中野の巻がはいるのですね。

 堺さんも何時行けるのか分りませんね。旅券が下らないし……。

 マガラさんを連れて行くのですつて。


(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・「消息 伊藤」・【大正九年二月二十九日・豊多摩監獄へ】/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』・「書簡 大杉栄宛」一九二〇年二月二十九日)


「中野の巻」は「新獄中記」(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』)として『新小説』(春陽堂書店)十月号に掲載された。

 堺は長女・真柄を連れて海外旅行を計画していたが、旅券が下りず中止になった。





 一月の末から労働運動社に寄食していた吉田一(はじめ)の無遠慮な振るまいが、家の中いっぱいに広がり、野枝の神経に障るようになるにはさしたる日数を要しなかった。

 野枝のこのときのストレスを書いたのが「或る男の堕落」である。

「或る男の堕落」は人名をイニシアルで表記した小説のスタイルで書かれているが、野枝の死後、『女性改造』一九二三年十一月号(第二巻第十一号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)に遺稿として掲載された。

 野枝はいつか吉田にリベンジしようと、密かに書き記していたのだろうか。





 吉田は何かいい本があったら読んでくれと、よく野枝に頼んだ。

 しかし、それは誰にも辛抱ができなかった。

 吉田は途中で何か感じたことがあると、書物のことは忘れて、三十分でも一時間でもひとりで、とんでもない感想をしゃべりまくるからだ。

 年若い延島英一が相手になったりすると、大激論になった。

 ともかく、吉田のおしゃべりが終わるのを待って、本の後を読み続けてやるという辛抱はできるものではなかった。

 野枝が体調を壊し、台所に立てないとき、吉田は露骨に野枝が嫌がるような、誰も喜ばないような食べ物を作って押しつけた。

 近所の安宿の泊客を連れて来て、ほどこしをしてやったりもした。

 汚い乞食のような人たちを狭い台所に集めて、犬にしかやれないようなものを食べさせ、吉田は胡座をかいて貧乏人の味方主義を「説いて」聞かすのだった。

 あまりにひどいものを食べさせ、ありがた迷惑なお説教を聞かせることを、野枝や同志たちが非難しても、彼は決して凹みはしなかった。





 二、三軒ある安宿に出かけて行っては、みんなにお世辞を言われていい気になっていた。

 安宿にいる人たちは、みんなもうよぼよぼの頼るところのない老人ばかりだった。

 苦しい経済状態の中、茶の間の茶箪笥の抽き出しに、いつも「あり金」が入れてあった。

 みんな必要な小遣いをそこから勝手に取ることにしていた。

 労働運動社の社員は、誰も一銭も無駄な金を持ち出す者はいなかった。

 何かと入り用な野枝は、小遣いとは別の財布を持っていた。

 それも野枝自身が書いた原稿料や印税の一部をあてて、ようやく足りている状態だった。





 吉田は野枝の財布から、小遣いを取るようになった。

 野枝は黙って渡した。

 吉田は原稿料や印税はなんの苦労もしないで得た金だから、強奪してもかまわないのだと言った。

 吉田の嫌がらせは、彼が元から持っていた大杉や野枝に対する僻(ひが)みの表れであると、野枝は見ていた。

 野枝に対する反感が露骨になってきたころから、吉田は同志にも無遠慮になった。

 延島と毎日のように激論をするようになった。

 大杉が出獄する日を待たずに、吉田は労働運動社から出て行った。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第302回 豊多摩監獄(三)






文●ツルシカズヒコ



 一九二〇(大正九)年二月八日、野枝は大杉に手紙を書いた。


 いやなものが降り出して来ました。

 監獄はさぞ冷えるでせう。

 和田さんは先月末大阪に帰りましたが、どうも例の病気がよくないので弱つてゐます。

 あの飛びまわりやさんが、歩く事がまるで出来ないのですから。

 久板さんは相変らずコツ/\歩いてゐます。

 皆んなまだウチにゐます。

 もう半分すみましたね。

 ずいぶん辛いでせうね。

 奥山(医師)さんが本当に心配してゐらつしやいます。

 私は、本当に、私達がどんな接触を一番してゐるかと云ふ事を今度、つく/″\感じました。

 もう長い間、私は友達と云ふものを持ちません。

 そしてまた欲しいとも思ひません。

 まるで孤独と云ふものを感じた事はありません。

 けれど今度あなたが御留守になつてから、私は本当に、ひとりだと云ふ事にしみ/″\思ひあたりました。

 あなたは、私にとつては一番大きな友達なのだと云ふ事を、本当に思ひあたりました。

 大勢と一緒にゐましても、私は私の感じた事、考へた事の何一つ話す事が出来ません。

 ……私は全くひとりで考へてゐるよりは他はないのです。
 
 私には今、それが一番さびしく思はれます。

 私はぢつとして家の中に引込んでゐると、本当にコンベンシヨナルな家庭の女になり切つてしまひます。

 あなたのする事、考える事が、一々気になります。

 外へ出かけても食事時には帰つて来て欲しいし、出先も一々知りたい。

 家で仕事をしてゐらつしやる時だつて、あんまり仕事に熱中して食事時もろく/\相手になつて貰へなければ、私は不平なんです。

 つまり自分が家庭のコンベンシヨナルな夫婦になりたがるように、あなたにもやつぱりいい家庭の旦那様になつて欲しいのです。

 ……あなたに対する此の要求が、私達の生活には無理である事をよく知つてゐます。

 別にゐて、私が私自身の生活を静かに送つてゐる時、私はあなたの生活をさう一から十まで気にしないで済みます。

 あなたの生活と自身の生活を判然と区別する事が出来ます。

 私達は出来るだけ別にゐる方がいいのです。

 けれど……たつた一カ月半別れてゐて、それで私はろくな話し相手もなく寂しがつてゐます。

 此の意気地なしを笑つて下さい。

 少し肩がいたくなりましたから今夜はこれで止します。

(二月八日)


(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・「消息 伊藤」・【大正九年二月二十九日・豊多摩監獄へ】/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』・「書簡 大杉栄宛」一九二〇年二月二十九日)

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 二月十日、野枝は豊多摩監獄に行き大杉と面会した。

 野枝は門の控所で待っている間に、面会に来ていたおかみさんの話をしみじみと聞いたと、大杉宛ての手紙に書いている。


『私共では日曜が二十三すぎると出て来ますので、私はコヨリをこしらえて日曜が来る毎に一本づづそれを抜きます。そしてその数はもう数えなくてもよく分つてゐるくせに、しよつちう数へずにはゐられませんですのよ』

 本当にそれは誰にでも彼処に来てゐる人には同意の出来る話です。


(同上)






 二月二十九日、大杉は野枝に手紙を書いた。

 この年の二月は晴れた日が二、三日しかなく、「毎年こんなに降つただろうか、と思はれるほど雪が降った」と、大杉はまず雪のことを書いている。

「監獄の寒さと云ふのも、こんど始めて本当に味つたやうな気がする」というから、厳冬だったようだ。


 四五日前の大雪で、ことしの雪じまひかと喜んでゐたら、又降り出した。

 けふは手紙を書く筈なのに……手がかぢかんでとても書けまいと悲観してゐた。

 しかし有難い事には急に晴れた。

 そして今、豚の御馳走で昼飯をすまして、頭から背中まで一ぱいに陽を浴びながら、いい気持になつて此の手紙を書く。


(大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』・「獄中消息 豊多摩から」・【伊藤野枝宛・大正九年二月二十九日】/大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』/日本図書センター『大杉栄全集 第13巻』)





 風もひどかったという。


 又、実によく風が吹いた。

 殆ど毎日と云つてもいい位に、午後の二時頃になつて、向側の監房のガラス戸がガタ/\云ひ出す。

 ……芝居と牢屋とでのほかに余り覚えのない、あのヒユウーと云ふあらしの聲が来る。

 本当にからだがすくむ恐ろしい聲だ。


(同上)





 寒さも、大晦日から二月初旬まで続いた軽い下痢も屈伸法で克服した。

 屈伸法が効かないのは霜焼けだった。


 随分注意して予防してゐたんだが、とうたうやられた。

 そして、一月の末から左の方の小指と薬指がくづれた。

 小指はもう治りかけてゐるが、薬指は出るまでに治りきるかどうか。

 この創が寒さに痛むのは丁度やけどのあの痛みと同じだ。

 一日のうちのふところ手をして本を読んでゐる間と寝床に入つてゐる間とのほかは、絶えずピリピリだ。

 天気のせいもあつたが、此の霜やけのお蔭で、本月はまだ一度も運動にそとへ出ない。

 菜の畑のまはりの一丁程の間をまはるんだが、僕は毎日それを駈つこでやつた。

 始めは五分位で弱つたが、終ひには二十分位は続いた。

 朝早く此の運動場に出て、一面に霜に蔽はれながら猶青々と生長して行く、四五寸位の小さな菜に、僕は非常な親しみと励みとをを感じてゐたのだが、もうきつと余程大きくなつたに違ひない。


(同上)





 一月は社のことや家のことをいろいろ思い出し考えもしたが、二月になってからは社や家がどうなっているのかまるで見当がつかなくなった。

 終日考えているのは食べ物のことばかりだった。


 が、何んのかんのと云ふうちに、あすからはいよ/\放免の月だ。

 寒いも暑いも彼岸までと云ふが、そのお中日の翌日、二十二日は放免だ。

 魔子、赤ん坊、達者か。

 うちのみんなに宜しく。


(同上)



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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