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2016年06月05日

第241回 伊藤野枝論






文●ツルシカズヒコ




『新日本』一九一七(大正六)年七月号・八月号に平塚明「伊藤野枝さんの歩かれた道」が掲載された。

『新日本』はらいてうに「伊藤野枝論」を書いてほしかったのだという。

『新日本』は野枝が同誌四月号に寄稿した「平塚明子論」の対になるものを、らいてうに寄稿してほしかったのだろうが、らいてうはそれをやりたくなかったので、野枝が歩んで来た道を自分の知っている範囲内の事実によって書いたという。

 らいてうが「伊藤野枝論」を書きたくなかったのは、野枝の思想や生き方が自分にとって論じるに値しないと考えていたからであろう。

 しかし、「伊藤野枝さんの歩かれた道」は野枝を全面否定する、らいてうの「伊藤野枝論」の体をなしている。

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 前半部分を抜粋要約、引用をしてみる。

●『青鞜』に野枝が寄稿した文章はともかく、実生活の野枝は人格的訓練のまったく欠けた、生理的なものに支配される多血質の婦人であり、一時的な感情に左右される軽率な無思慮で無反省な行動がかなり多い人です。

●理智の光も意志の力も、彼女の熾烈な本能や衝動の前には役立ちません。

●そこには一貫した、統一された真の強い自我生活などとうてい見出すことができません。

●野絵さんは非常に粗野で、欠点の著しい、隙だらけな、矛盾の多い生活をしている婦人として、あるいは始末にを得ないほど無責任で、信頼することのできない婦人として、私の眼に映ることがあります(その顕著な具体例として「動揺事件」を挙げている)。

●青鞜社に浴びせられた非難攻撃に激昂し、熱心に反駁したのも野枝さんでしたが、彼女自身の積極的な考えやその主義主張が語られていないので、なんの効果もなかったと思います。

●らいてうは野枝の書いた「S先生に」を具体例に挙げ、こう書いている。





 一体、野枝さんの思想は(否その行為も)かうしたは反駁文の場合のみに限らず、その性格の自然の結果として、総てがしかも最初から、そして今日もなほ、破壊的な消極的な方面の要素が多分で、いつまで行つても建設的な積極的な方面に出ないやうであります。

(「伊藤野枝さんの歩かれた道」/『新日本』1917年7月号・8月号/『らいてう第三文集 現代の男女』_p331/「伊藤野枝さんの歩いた道」と改題『女性の言葉』に収録/『平塚らいてう著作集 第2巻』_p309 ※引用は『現代の男女』から)





●野枝さんは道徳を破壊した後のことは少しも述べていません。

●野枝さんには道徳本来の意義や起源や歴史についての知識がまったくありません。

●野絵さんは無道徳世界の出現を望み、憧憬しているのでしょうか。

●新道徳の建設の意志、道徳改善の要求などの研究をまるでしない野枝さんに、私はいつも物足りなさを感じています。

●野枝は『青鞜』をらいてうから引き継ぐにあたり、すべての規則をなくしたが、これを例に挙げ、こう書いている。





 彼女が感情的なばかりで……理知的方面を備へてゐない……知識の光がない……やうに思はれます。

 ……単なる破壊は情熱のよくするところですが、建設は情熱の上に……知識ーー殊に客観的な科学的なーーにまたなければならないのですから。

 ところが野枝さんのやうな感情の動揺のはげしい人は、落着いた観察や研究や冷静な討究や、論理などとは到底容れなのでありますから。

 この点から見ても彼女の思想行為はまだ空想の域に止まつてゐると言つても差支ありますまい。

 なほ同様の意味から野枝さんは他日或は単なる革命家となり得るかも知れませんが、真に人類に、文明に何ものかを貢献する社会改造家と成る素質に至つては今日までのところでは全く欠けてゐると言はなければなりません。



(「伊藤野枝さんの歩かれた道」/『新日本』1917年7月号・8月号/『らいてう第三文集 現代の男女』_p333~334/「伊藤野枝さんの歩いた道」と改題『女性の言葉』に収録/『平塚らいてう著作集 第2巻』_p310~311 ※引用は『現代の男女』から)





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、七月六日、大杉と野枝は本郷区菊坂町九十四の下宿から、北豊島郡巣鴨村宮仲二五八三(現・豊島区北大塚三丁目三十一番地付近)に転居した。

 家賃は月十三円五十銭。

 板橋署の専属の刑事三人が始終見張っていた。


 巣鴨の家と云ふのは、実は、ほんの半年から一ケ月かのつもりで借りたんだ。

 板橋ではそれを知らないもんだから、さあ大変な奴が来た、何んとかして遂つぱらはなくちやと云ふんで、ひつこした翌朝早々先づ家主をおどかした。

 それから出入りの商人等を門前で喰ひとめた。

 僕等のやうな、時々、と云ふよりもしよつちゆう、財布のからな人間には、本当にいい責めかただ。

 で、こつちは少々癪にさはつたもんだから、とうたう半年あすこにゐてやつた。


(「亀戸から」/『文明批評』1918年2月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第14巻』※引用は『大杉栄全集 第四巻』から)





 新居は当時、『東京日日新聞』記者だった横関愛造の家と一丁と離れぬところにあった。

 横関が大杉、野枝夫妻と親密なつき合いをするようになったのは、このころからだった。


 神近市子氏に切りつけられた傷あとが、まだなまなましく首すじに残っていた。

 巣鴨新田の細い道に面した、三室ほどの家の前には、見張りの尾行のたまり場があり、大杉家に出入りする人物を、いちいち点検し、人によっては、その後を追って、住所姓名を誰何(すいか)されたものである。

 ……家にかえると直に尾行してきた私服がやってきた。

「何の用事で大杉にいきました」

「そんなこと君に報告する義務はない」

「しかしお隠しになるとタメになりませんが、いいですか」

「どうぞ御自由に……」


(横関愛造『思い出の作家たち』_p254)





 横関愛造の家も近所にあり、大杉の家と横関の家と岩野泡鳴の家は、一丁ほどの距離で等辺三角形の位置にあった。

 泡鳴は当時、正妻の遠藤清子と離婚訴訟中で、愛人の蒲原英枝と同居していた。

 ある日、横関の家で野枝を伴った大杉と泡鳴がバッタリと顔を合わせた。


「ホー、あなたが野枝さんですか、聞きしにまさる別嬪だなア」

 顔を合せて、お互いにあいさつしたと思ったとたん、泡鳴は無遠慮に野枝女史をつかまえてこう感嘆した。

 さすがの野枝女史もテレくさそうに顔を赤くしていたが、そばから大杉が吃りながらニヤッと笑って、

「君にほめられちゃア本望だろう、せいぜい大事にするか、ね」

 と、これを笑殺してしまった。


(横関愛造『思い出の作家たち』_p193)


『改造』と横関愛造



★『らいてう第三文集 現代の男女』(南北社・1917年12月24日)

★『女性の言葉』(教文社・1926年9月10日)

★『平塚らいてう著作集 第2巻』(大月書店・1983年8月10日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第14巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★横関愛造『思い出の作家たち』(法政大学出版局・1956年12月5日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 15:27 | TrackBack(0) | 本文

2016年06月04日

第240回 百姓愛道場






文●ツルシカズヒコ



 日蔭茶屋事件後、半年くらいの間、大杉は「神近の怨霊」をよく見たという。


 ……夜の三時頃、眠つてゐる僕の咽喉を刺して、今にも其の室を出て行かうとする彼女が、僕に呼びとめられて、ちよつと立ちとまつて振り返つて見た、その瞬間の彼女の姿だ。

 毎晩ではない、が時々、夜ふと目がさめる。

 すると其の目は同時にもう前の壁に釘づけにされてゐて、そこには彼女の其の姿が立つてゐるのだ。

 そして、其のいづれの場合にも、僕が自分に気のついた時には、おびえたやうに慄えあがつて、一緒に寝てゐる伊藤にしつかりとしがみついてゐるのだつた。

 ……僕は本当の自分に帰つて……手を伸ばして枕もとの時計を見た。

 時計はいつも決つて三時だつた。

『又出たの?』

『うん。』

 と、伊藤はそれを知るつてゐる事もあつた。

 が、ぶる/\慄えたからだにしがみつかれながら、何んにも知らずに眠つてゐる事もあつた。

 そして、よしそれを知つてゐても、僕のおびえが彼女にまでも移る事は決してなかつた。

 彼女はいつも、

『ほんとにあなたは馬鹿ね。』

 と、笑つて、大きなからだの僕の頭を子供のやうに撫でてゐた。


(「お化を見た話」/『改造』1922年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』には「葉山事件」と改題所収/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)

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 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、一九一七(大正六)年四月九日、大杉と野枝は江渡狄嶺(えと-てきれい)を訪ねた。


 ……当面の生活費、さらには運動への後援、資金の懇望のためだろう。

 彼は応じたらしく、さらに『文明批評』発刊時にも、資金援助をしてもらったとみられる。

 江渡は府下高井戸村(現、杉並区高井戸東一丁目)で「百姓愛道場」を開き、農業経営を実践していた。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p207)





 六月十七日、神近の控訴審判決が出た。

 懲役四年から懲役二年に減刑された。

 弁護士は一年以下の懲罰にできると踏んでいたが、神近が服役してサッパリ罪を償いたいという意思表示をしたので、控訴は取り下げられた。

 六月下旬、空には雲があったが、その間から初夏の強い陽が射していた。

 この日、生田春月のところに来客があった。

 そのときのことを春月は自伝的小説「相寄る魂」に記している。

 生田春月はモーリス・メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を終えたばかりだった。

 その原稿を持って書店に売り込みに行こうかと思い、机の上などを片づけていると、下宿の女中が来客を知らせに来た。

「お客様ですよ、御夫婦らしいですわ」

「お邪魔じゃないかね」

 と言って入って来たのは、思いがけず大杉だった。





 大杉の後ろには小柄な野枝がいた。

 野枝は髪を真ん中から分けて頸で束ね、ニコニコしていた。

「ついこの前を通ったもんですから……」

 彼女はやはりニコニコして、そこらじゅうを見回しながら、大杉のそばに座った。

「静かでいいわね、この部屋は……」

 野枝はいそいそしている様子で、誰に言うともなく呟いて、春月をちょっと見てから、大杉の顔を甘えるように覗いた。

「どうしています。何をやっています?」

「メーテルリンクの『モンナ・ヴァンナ』の翻訳を仕上げたところです」

「『モンナ・ヴァンナ』を?」

 大杉は意味ありげに微笑した。





 大杉のその落ち着いた様子に、新聞や人の噂で伝わっているような興奮や熱しているような気配は、微塵もなかった。

 日ごろ疎遠になっていた大杉が野枝と連れ立って、序(つい)でとはいえ、訪れてくれたことが春月は嬉しかった。

 大杉が愛する女、野枝の濃い眉をした丸顔がニコニコしていた。

 辻潤とも親密な交わりのあった春月は、このときの野枝の印象をこう書いている。

「奈枝子」は野枝、「隅田順」は辻、「大菅左門」は大杉。


 奈枝子はすつかり若く見えた。

 隅田順の家で、暗い皮肉な顔をして、子供をかかへてゐた時とは、まるで別人のやうに見えた。

 新調らしい派手なセルの着物に、赤の入つたメリンスの帯を締めて、その服装からして、まるで甦つたやうに、いかにもいきいきとして見えた。

 隅田順の家で、あのやうに老けて、理窟つぽく、ドゲトゲして見えたその女が、大菅左門の傍で、こんなにもいきいきと、あどけなく、女らしい女に見えるのに、純一は注意を向けずにはゐられなかつた。


(「相寄る魂」/『生田春月全集 第四巻』)






「あなたのところにも、その本があったわね」

 春月の蔵書を物珍しそうに見ていた野枝が、そこに出ていた『義人田中正造翁』を見て言った。

「ああ、その本ですか」

 と春月が言った。

「あれは面白かったでしょう。あの中にある翁の臨終のときの言葉はずいぶん考えさせられるわ。あの中に島田宗三という谷中村の若者がでているでしょう。あの男だけは少しはもののわかる男だってことですが、谷中村には本当に翁を理解する者がなかったってことは事実ですわ……」

「谷中村は今はどんなになっているんでしょう? ずいぶんひどくなっているでしょうね」

 と言う春月に、野枝が大杉と連れ立って谷中村を訪れたときの話をひとしきりし始めた。

「わざわざ遠くから訪ねて行った私たちに、別に感謝するふうでもなく、冷淡かと思われるような様子でしたよ」

 野枝が話している間、大杉は何も言わず、話を静かに聞きながら微笑している。





「どうだい少しは重荷が下りたような気がするか、もっとあそこでいろんなことを訊くのかと思ったら、何も訊かなかったねと、帰りに大杉に言われたんですけれど、本当にあそこの荒涼とした、すっかり生気を奪われた、何里四方の泥地を考え出すと、言うに言えない気がしますわ」

 野枝が村の住民の反応について、大杉に問いかけるように言った。

「けれど、あの人たちはどうしてあんなに冷淡なんでしょうね。まるで反感でも持っているようだわ」

「そうだね、別に反感を持っているというわけでもなかろう。ことさらに感謝や女々しい感情を見せないだけ、そこにしっかりした諦めと決心とが見えているじゃないか。なかなかああはいかないものだ。それに、どんな場合でもそうだが、我々はたとえ自分たちのことを理解されなくったって、虐げられているもののために働かなきゃならないのだ」

 大杉はしっかりした調子で、野枝に話した。





「僕はこの間、辻君に逢いました、宮嶋君と一緒でした」

 春月がこう言うと、大杉は顔色ひとつ変えずに微笑しただけだったが、野枝は険しい目つきになった。

「辻君はあいかわらずスティルネルの話をしていましたが、宮嶋君がさかんにやっつけるので閉口してましたよ」

「宮嶋がやっつけるのは、むしろ僕じゃないですか。なんでもたいへん僕に対して憤っているそうだから」

「そうですってね」

 と野枝が口を歪めて言った。

「私をぶん殴るんですって……ぶん殴りたければぶん殴るがいいわ、かまやしないわ。こうなってくれば、世間全体が敵になったってかまやしないわ。世間なんか恐れていて何ができるもんですか!」

 野枝がそんなふうなことを荒々しく、野生的に言うとき、春月はなんだか若い牝馬でも見ているような気がした。

 大杉はそうした野枝の様子を慈しむように見ながら、自分はそうした世間や同志の非難や反感などについては何も言わず、春月の興味の持ちそうな話題を選んで話し出した。

 大杉は春月と共通の知人の近況などを淡々と話し終わると、急に語調を変えて言った。

「しかし、僕とてもみんなを非難できないかもしれない。それにしても最初の意気込みだけは失ってもらいたくないね。いったい、誰しもが初めて抱いて出発する感情を、よく幼稚なセンティメンタリズムだなどと言って笑うが、この生々しい実感のセンティメンタリズムが、本当の社会改革家の本質的精神なんだよ。それをみんな、長い間の無為と韜晦(とうかい)との惰性から、すっかり忘れたようになっている。これが何よりもいけない。僕自身が現にその硬直した心になって、無感激に陥ろうとしていたからね。僕としては今、僕の幼稚なセンティメンタリズムを取り返したい、憤るべきものにはあくまで憤りたい、憐れむべきものにはあくまで憐れみたい。それにはまず、自分の生活を変えなくっちゃならない……」

「そうですわ、自分の生活から……」

 野枝が言った。





 大杉と野枝は一時間くらいいて、これから近くの雑誌社に行くと言ったので、春月も原稿を持って三人で下宿を出た。

 大杉たちには尾行がついているようには見えなかった。

 途中でまいたのかもしれないと春月は思った。

 通りまで出て、街角に行くと、大杉たちは右の方へ、春月は左の方へ歩いて行った。

 春月がしばらくして振り返って見ると、プラタナスの青い葉が繁っている下に、大杉と野枝が睦まじそうに、何か話しながら歩いている姿があった。

 たったひとりの女の殉情に身を委ね、心を励ましている、大杉の一種憂鬱な、いわば勝利の悲哀が、春月の心に残り留まった。

 春月は大杉が野枝を自分の救いにしているのだということを、実にはっきりと理解した。

 多大の犠牲を払っても敢えて悔いていない、大杉のその心事を春月は了解したと思った。


 奈枝子自身は、別に深い思想の持主ではない。

 けれども、女には、とりわけ或る種の女には、この不思議な、男子を鼓舞する霊妙な力がある。

 古来、すべての革命に、紅一点とも云ふべき女性を見出すのは、かういふ意味合ひもあらう。

 男子は石炭の如く燃える、然し、女性は石油の如く燃えあがる。

 そしてその速やかな焔と熱は、男子の可熱性のためには、いかに貴重なものであらう!


(「相寄る魂」/『生田春月全集 第四巻』)


★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★生田花世・生田博孝編集『生田春月全集 第四巻』(新潮社・1930年12月/復刻版は飯塚書房発行・本郷出版社発売・1981年12月)



生田春月の自殺 


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:49| 本文

第239回 平塚明子論






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『新日本』四月号には「平塚明子論」を書いた。

 らいてうは「最近の我国婦人解放運動の第一人者として常に注目されつゝある」存在だった。

 野枝はまず冒頭に自分とらいてうとの関係を書いた。

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 私は学校を出た許りの十八歳の秋から三四年の間ずつと氏の周囲にあつた、氏に導かれ教へられて来た、私が今日多少とも物を観、一と通り物の道理を考へる事が出来るやうになつたのも氏に負ふ処が少くない。

 私にとつて氏は忘れる事の出来ない先輩でもあり、また情に厚い友人でもある。

 そして氏の傍にゐた間、可なり氏は氏の生活を打ち開いて見せられた。

 それだけにまた氏の真実にも接し得たと信ずる。

 私は、ずつと前から氏に対する理解なき言論を見る度びに残念に思つた。

 或る時には自分のやうに口惜しさに歯をくひしばつた事さへある。

 ……二年程前あたりから、いろ/\な事情がだん/\に二人を遠くした。

 それにも、私は多くの責を自分に感じてゐながらどうする事も出来なかつた。

 そうして二人の実際の上の交りが隔つて来ると同じやうに思想の上にも稍(やや)はつきりと相異を見出すやうになつた。


 殊に最近の私の上に起つた転機は私の境遇にも、思想の上にも、即ち私の全生活を別物にした。

 一方平塚氏も……文章の上にも、理論に於ても、あるひはその態度に於ても大家の風格を具へて来た。


(「平塚明子論」/『新日本』1917年4月号・第7巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p414~415)





 この批評もけっこう長いので、以下、抜粋要約。

●らいてうは、それまでの日本婦人には希有な明晰な頭脳と思索力を持っている聡明な女性である。

●しかるに、彼女の聡明さが反感を買うのはなぜか? 「一人自らを高し」とし、「自分だけには欠点のないやうな顔をする人」という反感を買うのはなぜか?

●らいてうの聡明さは他人の欠点を笑って、平気で自ら一人高く済ましているような浅薄なものではないと信じたい。

●らいてうは他人の欠点を見ることによって、自省を深め、用心深くなり、用意周到に自分を慎み深く保とうとしているのである。

●世間の多くの人々はらいてうを理智一辺倒の人として、硬い冷ややかで女らしい感情もないように思っているようだが、それは大きな間違いだ。氏はあの冷ややか表構えの奥に、女らしい温かさと柔らかさを限りなく持っているのだ。





●実家を出るまでの、らいてうの母上に対する苦しい心持ちに幾度も泣かされことを覚えている。

●親しい友達として遇された友情にも、隔てのない温かなものがあった。そういうときの氏には、なんの嫌味も冷静さも用意もない。やさしい思いやりに富んだ親切な友達だった。そうしてこのような氏に接した者は、決して私ひとりではない。

●しかし、らいてうは終始、そうではない。あくまで用心深い。柵を作り、ある一線からは一歩も踏み込ませることをしない。

●らいてうは弱味を人に見せる人ではない。いざとなれば、人を呑んでしまう度胸はいつでも持っている。しかし、この度胸が不誠実で傲慢な人というイメージに結びついてしまう。

●らいてうは誠実で謙遜で弱味をさらけ出すよりも、いつも強く冷たく動かずにいることが快いのであろう。





●らいてうの度胸のよさ、しばしば誤解を招く遊戯衝動は禅の修養の影響が大だと思う。

●らいてうの評論集『円窓より』は、理智の力が鮮やかで、事物に対する観察は同時代の婦人の追随を許さない。

●『円窓より』には、らいてうの凄まじい情熱も読み取ることができる。情熱とはすなわち自分の主張を認めさせようとする力、その主張に対する自信である。

●婦人自覚の第一の叫びを挙げたことに対する自負、開拓者に対する世間の嘲笑と侮蔑への反抗心、そして「嘲笑の下に隠れたる或もの」に対する自信が読み取れる。





●らいてうの稀れな理智と情熱とが、とにかく我が国の婦人運動の基礎を作った。とにかく眠れるものを揺り動かした。我々は氏のその力の前に充分な感謝を捧げなければならない。

●らいてうのそうした凄まじい情熱は、彼女が世間知らずだったから、実社会に対して無知だったから、社会の偏見の恐さを知らなかったから、生まれたとも言える。

●社会を知り、用事深くなった今のらいてうには情熱がなくなった。私はその消失を悲しむ。

●森田草平との塩原事件にせよ、青鞜時代の「五色の酒」「吉原登楼」にせよ、らいてうは当初、俗衆(ぞくしゅう)の滑稽さを笑っているようなところがあった。

●しかし、俗衆の興味本位、偏見、無責任さ、愚かさなどが、自分の思想の社会的な効果をも減殺することを知るにおよんで、らいてうはそうしたものを黙過することができなくなった。





●らいてうはエレン・ケイに活路を見出した。ケイによって自分たちを取り巻く社会的事実に関してぼんやり考えていたことを明確に教えられ、それによって自分の意見をまとめることができるようになった。

●らいてうは、自分の恋愛について、さらに母親としての婦人の生活について、ケイの言葉に多くの同感を見出すことによって、ケイからさらに大きなものを吸収することができた。

●そしてらいてうは、ケイを紹介することが最も確実に自己の主張や思想を広めるための最上の手段であると考えた。

●らいてうの主張や思想はケイの中に見出したものによって落ちついたようである。

●しかし、私はエレン・ケイの思想には黙過しがたい疑問を抱いている。





●あれほど用心深いらいてうが、ケイの主張に対しては、厳密な批評をしないことが、私には不思議だし遺憾に思う。

●これはあくまで私の推察だが、ケイの誰にも肯定される批評がらいてうに多くの同感を強い、尊敬を強い、極めて自然にケイに牽引され、さらにケイに牽引されていくのに都合のよい道筋がらいてうの前に拓かれたのではないだろうか。

●らいてうの生活を説明するためには、ケイの主張が最も都合がよかったとも言えるかもしれない。

●だが、過去におけるらいてうの事業に対しては我々は充分な尊敬を持たなければならない。

●しかし、詳細にらいてうについて考えるとき、我々はもはや、最初の仕事以上のことをらいてうに期待するのは間違っているかもしれない。





★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)





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posted by kazuhikotsurushi2 at 16:09| 本文

第238回 評論家としての与謝野晶子






文●ツルシカズヒコ




 野枝は『新日本』三月号(第七巻第三号)に「評論家としての与謝野晶子氏」(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)を発表した。

 作家としてはともかく、「評論家としての与謝野晶子」の批評であり、痛烈な批判だった。

 婦人問題に関する発言において大御所的存在だっただろう晶子は当時、三十九歳。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、晶子は『太陽』一九一六年十二月号「婦人界評論」の「一人の女の手紙」で、大杉を「理性の破産者」と批判していたが、その大御所に二十二歳の野枝が果敢に反撃したのである。

 晶子の評論集『人及び女として』(近田書店)が刊行されたのは、一九一六年四月だった。

 その中で晶子は「私の思想にも実行にも私の生の自尊から出発した反省と慎重」を持ち、「実際的の立場から物事の観察と判断とを軽々しくしないやうに」心懸けているとあるが、野枝は晶子こそが「生の自尊から出発した反省と慎重」に欠けていて、「物事の観察と判断とを軽々しく」している張本人であると指摘している。。

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 けっこう長い批評なのだが、以下、抜粋要約。

●まず第一に「与謝野婦人は評論家としての凡(すべ)ての条件に外れた人」として、殊に「新らしき婦人問題に就いては絶対に発言を許されぬ人」という前提で、この批評を進めて行きたいと思う。

●晶子は「自分の過去なんかどうでもよいという気持ちになって私は現在の執着に向かう」という発言をしているが、自分の過去と向き合い自省する能力に欠けていては、評論などできるわけがない。

●青山菊栄から「よく知らないことに対して軽々しく口を出すことを慎んだらどうか」という意味の忠告をされた晶子は、「間違ったことでもなんでもかまわないから言って、その間違いを訂正して貰って知識を深くしてゆくのだ」と回答したが、そんなものが評論であっていいはずがない。





●いろいろな方面から事柄を観察し、それを自分で分析解剖し、さらに自分の有する知識や理論や感情に照らして最後の断案を下すというのが、批評家の当然踏むべき手続きである。しかし、晶子のやっていることは、その場その場のなんらの統一もない理屈を言っているだけである。

●晶子は夫が代議士に立候補した際、夫に付いて地方に行き戸別訪問をした。その経験から晶子は、無智遅鈍な百姓が多数をしめている日本で代議政治を始めたのは甚だしい時代錯誤であると憤慨しているが、これはあまりにも不用意な発言である。その自覚がないというだけでも、晶子には批評家を名乗る資格がない。


●晶子はこんなことを書いている。

「私は真の保守主義者と真の急進主義者の根強い争議と猛烈な戦闘を経た国でなければ真の文明は開けて来なくはないかと思っている。日本の現状にはまだ『真の』と形容すべき両主義者が少ない。彼等はいつでも利己主義的に妥協する。いつでも徹底を避けて安価な姑息に低徊する」





●しかし、晶子こそ不徹底極まる卑しむべき態度である。それは特に婦人問題に明瞭に現われている。常にふたつのものの中間にあって、双方に理解を持っているような顔をしている。その自覚すらないとすれば、やはり、批評家としての資格がない。

●晶子は「女もまた人類の協同生活を営む一組成分であることを意識する」と主張している。当然のことである。

●しかし、晶子はこうも言っている。

「我も人であるという自覚が近頃女子の間に起こって来たのは甚だ結構な現象ですが、その『人』というのには、今のところはもちろん、なお永久にわたってもなお、男子のそれにくらべて非常な割引をし、幾多の条件をつけねばないないのではないでしょうか。自分は進歩していると言われる欧州の婦人を見てもこの疑惑を消すことが出来ませんでした」





●女子が「人」であるということのどこに、割引をして考えなければならないものがあるのだろうか。女子が人間として男子よりどこが劣っているのだろうか。晶子はどこまでも因習から脱することのできない人である。

●晶子は『太陽』新年号の「心頭雑筆」に「これまでの自分の観察が粗漏であり、機械的であり自分の批評が模倣的であり固定的である事に気がついて驚いてこの過ちを改めねばならないと思っております」書いている。

●しかし、これは「私だけはこの自分の欠点を見ることができるのです」という程度の「お悧巧」を見せているだけなのだ。

●「間違っていました」という抽象的な言葉があるだけで、「なぜ間違ったのか」その原因を解明はせず、「これから改める」ということで許されてしまうのだ。晶子は世間というものをよく知っている。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第237回 三月革命






文●ツルシカズヒコ



 一九一七(大正六)年三月五日、横浜監獄の未決監に収監されている神近に、横浜地方裁判所は懲役四年の判決を下した。

 神近は即、控訴した。

 三月六日、『東京日日新聞』社会部記者の宮崎光男が、大杉に取材するために菊富士ホテルを訪れた。

 宮崎は東京日日新聞社に移る以前は実業之世界社にいたが、日蔭茶屋事件が起きる二ヶ月前に、東京日日新聞社に入社していた。

 実業之世界社時代から大杉と親交があった宮崎は、その知己を利して大杉に直接会って日蔭茶屋事件の記事を書くことができた。

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 この日、宮崎が大杉に面会に来たのは、前日、横浜地裁で神近に懲役四年の判決が出たので、大杉のコメントを取るためだった。

 大杉は宮崎を菊富士ホテルの食堂に案内し、夕食をともにしたり、印度人革命家(シャストリー)を宮崎に紹介したりした後、神近の件について話し始めた。


『少しの懲役は、彼女のためにも修養になつていゝかも知れんが、三(ママ)年の懲役は薬がきゝすぎて気の毒だ』とか何んとか、相変らず人を食つたことをいつて『時にだね君。新聞記者はだね。僕がだね。事件を提供して、それで食はしてるやうなものなんだからだね。どうだい相談だが、そのお礼にモナカ、それも鹽瀬のをだよ。モナカの一折も買つて来ないか』と、うそらしくほんとうらしくいふのである。

 僕はそれを『これは面白い。お安い御注文だな。心得た』と、故意にもまにうけて、その翌日、社の近くの鹽瀬から、三円ほどを買つて持参した。

 すると彼は『この相撲は僕が負けだ』と笑ひこけたのであつた。


(宮崎光男「反逆者の片影ーー大杉栄を偲ぶーー」/『文藝春秋』1923年11月号_p55)


「塩瀬」のモナカについては安成二郎も触れているが、甘党の大杉はこのモナカが大好きだったようだ。





 三月七日、神近が保釈され横浜監獄を出獄、宮島資夫、麗子夫妻の家に引き取られ後、宮島家の近くの滝野川中里の下宿屋の二階に下宿して、『引かれものの唄』の執筆に取りかかった。

 神近は高木信威(たかぎ-のぶたけ)との間に生まれた子、礼子を郷里に預けていたが、保釈直後に礼子が死去したことは、彼女にとって痛恨の出来事だった。

 三月八日、ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現・サンクトペテルブルク)で、食料配給の改善を求めるデモ、暴動が起きた。

 三月十五日にはニコライ二世が退位し、三百年続いたロマノフ王朝による帝政が崩壊した。

 いわゆる、三月革命である。





 春もまだ浅い三月中旬ごろだった。

 近藤憲二久板卯之助と本郷帝大前の銀杏並木を歩いていると、大杉が古ぼけた筒袖のドテラを着て散歩しているのに逢った。

 大杉に誘われ、近藤と久板はすぐ近くの菊富士ホテルに行った。

 それが近藤と野枝の初対面だった。

 日蔭茶屋事件以来、同志の多くから爪弾きにされていた大杉は、野枝との「愛の巣」に近藤と久板を案内すると、人懐かしがってよく話した。

「愛の巣」とは言え、村木源次郎が見かねてよく食事を運んだほどの貧乏のどん底時代だったが、近藤と久板は大きな立派な蜜柑をご馳走になった。

 大杉が近藤に言った。

「いつぞやは逗子へ来てくれたんだってね」





 これは大杉が刺されて逗子の病院へはいったとき、私が見舞いに行ったことをいったのである。

 すると野枝さんが急に困ったような顔をした。

「ほんとうに、あのときは済みません。私は雑誌社の人だとばかり思いまして……」

 そのとき私は雑誌の肩書のある名刺を出したので、出てきた野枝さんが突ッけんどんにいって、あっさり追っぱらったのである。

 そういえば、そのときの方が初対面だったともいえるのだが、野枝さんは、このことをいつまでも気にしていたのか、その後も幾度かわびた。

 あれでなかなか、そんなことを気にする人であった。


(近藤憲二『一無政府主義者の回想』_p119)


 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が下宿代が払えず菊富士ホテルから追い立てを食って、近くの下宿(菊坂町九十四)に移ったのは三月二十四日だった。



★近藤憲二『一無政府主義者の回想』(平凡社・1965年6月30日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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2016年06月03日

第236回 自働電話






文●ツルシカズヒコ



 一九一七(大正六)年の正月、山鹿泰治が本郷区菊坂町の菊富士ホテルにいる大杉と野枝を訪ねた。


 二言三言語り合う内に杉が、『それより不愉快な以前の問題を解決しやうぢやないか、大体あんな暴行を働いた以上は謝罪から先きにすべきものだ』といふから、僕は野枝さんに向つて『僕が今もし謝罪したら貴女は愉快になるんですか』と尋ねて見たら、『イヤ、そんな事はありませんが、あやまらなければ今後安神(ママ)して交際は出来ないだけなんです』と云つたから、僕は『それじや謝罪しない』と言つて帰つてしまつた。

(山鹿泰治「追憶」/『労働運動』1924年3月号_p39)

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『中央公論』二月号に野上弥生子の野枝をモデルにした小説「彼女」が掲載された。

 前年(一九一六年)の春、野枝が辻の家を出る決意を告げるために弥生子の家を訪れて以降、ふたりは会うことがなかった。

「彼女」によれば、野枝が弥生子の家を訪れた翌日、弥生子は野枝からの手紙を受け取った。

 弥生子は野枝から求められた少しの金と手紙を使いの者に渡し、野枝に届けさせた。

 婦人が必要に迫られて家を見捨てたとき、門の外に何が待っているかを冷静に考えることが大切だと、弥生子は野枝に書いた。

「ノラはあれから何をして生きただろう。悪くすると売春婦になったかもしれない」

 あるアメリカの婦人評論家の言葉を、弥生子は痛切に考えていた。

 彼女はに頼んで野枝のために何か収入の道を探してもらおうと思った。

 しかし、明日にでも訪ねて来ると手紙にはあったにもかかわらず、弥生子は再び野枝の訪問を受けることはなかった。

 そして、弥生子は新聞報道により野枝が夫と子供を捨て、新たな情人である大杉のもとに走り、御宿海岸に滞在していることを知った。

「おまえは本当に馬鹿だよ。あんなに逢っていて、このことに気がつかなかったのかい。これならもう職業問題もなにもありはしないじゃないか」

 常に野枝の同情者であった弥生子の夫が、彼女のお人よしを笑った。





「それにしても彼女は何故あんないゝ加減な嘘で胡魔化してゐたのだらう。あの晩正直に何故打ち明けられなかつたのだらう。」

 打ち明ける勇気のない程自分の行動を間違つたものに思つてゐたのだらうか。

 間違つたものに思つてゐながら、矢張りその中に巻き込まれて行つたのだとすれば……一人の男と三人の女の渦。

 それはスキラの口をやつと逃れた彼女に取つては、最も怖ろしいカリブティスでなければならなかつたのであります。

 厳しい倫理問題は暫く措いて考えたとしても、それは彼女の成長の道では決してありません。

 彼等が海岸をさして旅立つた時、恋愛の勝利者を以つて誇つてゐたと云ふ噂は、斯う考ふる時の伸子(※筆者註/弥生子のこと)の心を一層厳正にしました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p329~330)





 御宿に滞在していた野枝から弥生子に一、二度短い便りがあり、野枝は弥生子に対して非常にすまなく思っていると書いた。

 弥生子は野枝の行動について不賛成な点とその理由を書き連ねたが、野枝からの返事は来なかった。

 弥生子の耳に野枝に関するいろいろな情報が入ってきた。

「よくあなたの悪口を聞かされましたよ」

 と言って笑った人もいた。

「弥生子さんのところに行くと、あれは旨くいい子になっていたのだ」

 辻がある人にこう話したともいう。

 弥生子は野枝を親友だと思い、彼女との友情を大切にしてきたが、野枝にとってはなんでもないことだったのだろうか?





「そうだ。私を欺ますのは一番わけはない。時々訪ねてくれて、私の気に入りそうな事を云つたり、私の云ふ事に感心して耳を貸してくれたり、私のきらひな人の悪口を一緒に、否え、私より少し熱心に云つて見せたりしさへすればその人はすぐ私のいゝお友達なのだーー馬鹿者!」

 伸子はその時ほど自分をいやな、浅薄な、己惚れやの、お人よしに感じた事はありませんでした。

 その時、相手から如何に軽蔑され、おめで度く思はれたゞらう、と思ふと堪まらぬ程恥しい気がしました。

 が、彼女が私のそんな友達だつたのだらうか。

 いつかの春の森の半日がその瞬間はつきりと伸子の記憶に再現されました。

 美しい太陽、栗の木、青い草、その草の上に寝かされてゐた子供達。

 それにお乳を飲ませながら熱心に話し合つた談話、母親の愛、自己の成長の希望、天地の大きな力に対する敬虔な崇拝。

 その円い輝やかしい、光明的な顔!

 その時の彼女は今何処に行つたのだらう、と思ふと、驚きも失望も欺かれてゐたと云ふ軽い憤りも、すべてが溶けて、初めてセンチメンタルな悲しみになつて行くのを感じました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p331~332)





 そのうちに、野枝が出産したばかりの次男を御宿の某家に預け、東京に帰り、大杉と同棲していることを弥生子は知った。

 そして、弥生子は自由恋愛なるものは、ずいぶんおかしなものだと思わないではいられなかった。


 理論はどんな理論でも工夫されます。

 けれどもその理論を載せ得べき土台を作る事は多くの困難を要します。

 ……プラトーンの理想国に於ては、婦女の共有も兵役も、乃至小児共養さへも必要なことでありました。

 が、彼等自由恋愛論者は、その理論を実行し得べき理想国を何時、何処に建設したのでせう。

 ……すべて長い目で見られなければなりません。

 彼女はその黒い髪が白くなつた時、而して母親の顔も見覚へない、一人の漁夫の若者と向き合つた時、初めて自分の通つて来た道の正邪を悟るでありませう。

 その瞬間に感ずる母親の悲しみと悔ゐるほど、痛ましい、悲惨なものが他にあるでせうか。

 伸子は今はもう侮蔑と憐みより外の何ものをも彼女に対しては感じられないやうな気がしてゐました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p332~333)





 ある秋の日のことだった。

 二、三日前から少し冷えてきた空気に感じた弥生子は、風邪を引いて寝ていた。

 そこへ夫宛ての電報が来た。

 新聞社に勤務している夫の友人からだった。

 ある人の住所を問い合わせる文面だった。

 弥生子は熱があってふらふらしたが、俥を呼び、六、七丁ばかりの距離にある自働電話まで出かけた。

 弥生子の夫はある私立大学へ講義に行っている日だった。

 自働電話の箱の中に入った弥生子は、学校の番号を言って、一枚の白銅を小さい隙間に投げ込んだ。

 いつもならかなりの時間待たされるのだが、そのときは電話口で待ち受けていたかのように事務員と入れ代わりに、夫の声が聞こえてきた。





「なんだ電報かい。あゝそれなら今Y君から電話がかゝつて来たばかりのところだ。……」

 斯う云つてその後に何か数語をつぎ足したやうな気がしましたが、その時箱の外を荷車が大きな音をとゞろかして通つたので、伸子にははつきり聞き取れませんでした。

「何んですつて、え?」

「M(※筆者註/大杉のこと)が殺されたさうだ。」

「どうして? まあ、誰に?」

「誰だか分らない。」

「I子(※筆者註/野枝のこと)さんぢやないでせうか?」

「さうかも知れない。」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p334)





 弥生子は通話ができないほど声が震えた。

 棍棒かなにかで頭をガンとぶん殴られたような気がした。

 彼女はよろよろして這い込むように俥の中へ入った。

 彼女の脳裏に浮かんだのは、大杉に最近、第四の女友達が現われ、大杉と野枝の間がうまくいっていないという噂だった。

「もしそうだったとしたら……」

 弥生子は野枝の熱情的な性情を思った。

 家や子供、自分自身の成長の過程までも投げ捨てて突き進んだ、狂暴的で盲目的な野枝の恋愛を思った。

 場合によってはどんなことでもしかねないという気持ちがした。




「彼女であつてくれなければよいが。どうぞ、そうではないように。」

 斯う念ずると共に、何故ともない涙が胸の底から込みあげて来ました。

 伸子は幌の中で声を立てゝ泣きました。

 二三日弱り味の出てゐる身体には、この感動が余りに激し過ぎたと見えて、伸子は軽い脳貧血を感じました。

 胸がむか/\して眩暈がし出した。

 伸子は水を欲しいと思つて幌の間から覗くと、一軒の水菓子屋の鮮かな林檎の色が、だるい目を刺戟しました。

 伸子は車を停めさしてその林檎を幾つかを買ひました。

 而して鼻水と涙を一緒にすゝり上げながら、幌に隠れて百姓の子供のするやうに丸かじりに果物の爽快な液汁を吸ひました。

 自分の心の中に如何に深く彼女が這入つてゐるかを感じながら。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p335)



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)



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第235回 特別要視察人






文●ツルシカズヒコ



 大杉の四妹・秋は名古屋市在住の叔父、中根吉兵衛(焼津鰹節製造株式会社社長)宅に同居していたが、この叔父の媒酌で東京で回漕業を営む某氏と婚約、挙式を間近に控えていた。

 彼女が自殺したのは一九一六(大正五)年十二月十三日の朝だった。


 ……大杉あき子(十九)は十三日午前六時頃己(おの)が寝室にて出刃庖丁を以つて咽喉を掻き切り自殺を遂げたり……兄栄の事件が累をなし突然破談となりたれば其を悲観しての自殺なる可しと……急報に依り栄は十三日夜行にて名古屋に来る由

(『東京朝日新聞』/1916年12月14日)


 十四日の葬儀に参列した大杉も、さすがに落ち込んだにちがいない。


 ……自分の行跡が招いた惨劇に強い衝撃を覚え、悲嘆に暮れたことであろう。

 自責の念は深い傷跡となって、以後の言動を律する作用をしたはずである。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p203)

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 堀保子「大杉と別れるまで」(『中央公論』1917年3月号)によれば、山崎今朝弥弁護士や堺利彦が仲介役になり、大杉と保子との離婚が成立したのは十二月十九日だった。
 
 大杉には以後二年間、毎月二十円を保子に支払う義務が課せられた(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。

 日蔭茶屋事件後、大杉と野枝は世間からの非難の矢面に立たたされた。

『新日本』(1917年1月号)に掲載された「ザックバランに告白し輿論に答ふ」(日本図書センター『大杉栄全集 第3巻』)で大杉は反論したが、この反論をするために大杉が見た六誌の十二月号だけで二十二人が批判の矢を放っていた。

 山田わか、生田花世、安部磯雄、与謝野晶子、杉村楚人冠、岩野清、平塚らいてう、岩野泡鳴、武者小路実篤……。

 大杉はともかく、野枝には反論の場も与えられなかった。

 野枝の原稿を載せた『女の世界』が発禁になったことにより、新聞や雑誌が及び腰になったためと思われる。

 野枝は日蔭茶屋事件からおおよそ一年後に発表した「転機」に、日蔭茶屋事件前後の心境を記している。

 野枝はまず、人妻でありながら大杉という男ができたから夫を捨て、子供を捨てたという世間的な曲解に立ち向かわねばならなかった。





 私はその曲解を云ひ解くすべも凡ての疑念を去らせる方法も知つてゐた。

 しかし、凡ては世間体を取り繕ふ、悧巧な人間の用ふるポリシイとして、知つてゐるまでだ。

 私はたとへどんなに罵られやうが嘲られやうが、真つ直ぐに、彼等の矢面に平気でたつて見せる。

 彼等がどんなに欺かれやすい馬鹿の集団かと云ふことを知つてゐても、私はそれに乗ずるような卑怯は断じてしない。

 第一に自分に対して恥しい。

 また此度の場合、そんな事をして山岡(※筆者註/大杉のこと)にその卑劣さを見せるのはなほいやだ。

 どうなつてもいい。

 私は矢張り正しく生きんが為めに、あてにならない多数の世間の人間の厚意よりは、山岡ひとりをとる。

 それが私としては本当だ。

 それが真実か真実でないか、どうして私以外の人に解らう?

 T(筆者註/辻のこと)と別れて、山岡に歩み寄つた私を見て、私の少い友達も多くの世間の人と一緒に、

『邪道に堕ちた……』

 と嘲り罵つた。

 けれど、彼等の中の一人でも、私のさうした深い気持の推移を知つてゐた人があるであらうか?

 かうして、私は恐らく私の生涯を通じての種々な意味での危険を含む最大の転機に立つた。

 今まで私の全生活を庇護してくれた一切のものを捨てた私は、背負ひ切れぬ程の悪名と反感とを贈られて、その転機を正しく潜りぬけた。

 私は新たな世界へ一歩踏み出した。


「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)





 ようやく成った大杉と野枝の握手、それは世間の人に眉をひそめさすような恋の握手よりはもっと意味深く、野枝がこの二年間持ち続けた夢想の実現であった。

 そしてそれは、悲しみと苦しみと喜びのごちゃごちゃになった野枝の感情の混乱の中に実現された。


 私は彼の生涯の仕事の仲間として許された。

 一度は拒絶しても見たY(※筆者註/堀保子のこと)ーーK(※筆者註/神近市子のこと)ーー等いふ彼と関係のある女二人に対しても、別に、何の邪魔も感じなかつた。

 真つ直ぐに自分丈けの道を歩きさえすればいゝのだ、他の何事を省みる必要があらう? とも思つた。

 あんな二人にどう間違つても敗ける気づかひがあるものかとも思つた。

 またあんな事は山岡にまかしておきさえすればいゝ。

 自分達の間に間違ひがありさへしなければ、自分達の間は真実なんだ。

 あとはどうともなれとも思つた。

 要するに、私は今迄の自分の生活に対する反動から、たゞ真実に力強く、すばらしく、専念に生きたいとばかり考へてゐた。


「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)





 とは言え、大杉をめぐる面倒な恋愛は、野枝にも少なからず苦痛を与えた。


 幾度私はお互ひの愚劣な嫉妬の為めに不快に曇る関係に反感を起して、その関係から離れようと思つたか知れない。

 けれど、そんな場合に何時でも私を捕へるのは、私達の前に一番大事な生きる為めの仕事に必要な、お互ひの協力が失はれてはならないと云ふことであった。

 山岡に対する私の愛と信頼とは、愛による信頼と云ふよりは、信頼によつて生まれた愛であつた。

 彼の愛を、彼に対する愛を拒否する事は、勿論私にとつて苦痛でない筈はない。

 しかしそれはまだ忍べる。

 彼に対する信頼をすてる事は同時に、折角見出した自分の真実の道を失はねばならぬかもしれない。

 それは忍べない。

 私は何うしても、何うなっても、あくまで自分の道に生きなければならない。


「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)





 そうして、野枝はすべてを忍んだ。


 本当に体中の血が沸(に)えくり返る程の腹立たしさや屈辱に出会つても、私は黙つて、をとなしく忍ばねばならなかつた。

 それは悉ゆる非難の的となつてゐる、私の歩みには、必然的につきまとう苦痛だつたのだ。

 そして、私が一つ一つそれを黙つて切り抜ける毎に、卑劣で臆病な俗衆はいよ/\増長して、調子を高める。

 しかし、たとへ千万人の口にそれが呪咀されてゐても、私は自身の道に正しく踏み入る事の出来たのに何の躊躇もなく充分な感謝を捧げ得る。


「転機」/『文明批評』1918年1月号・2月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p)


「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、大杉と握手が成った野枝はこの年、一九一六(大正五)年に特別要視察人(甲号)に編入され、尾行がつくようになった。




★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第3巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『定本 伊藤野枝全集 第四巻』(學藝書林・2000年12月15日)





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第234回 古河






文●ツルシカズヒコ




 堤防の中の旧谷中村の土地は、彼のいうところによると二千町歩以上はあるとのことであった。

 彼はなお、そこに立ったままで、ポツリポツリ自分たちの生活について話し続けた。

 しかし彼の話には自分たちがこうした境遇に置かれたことについての、愚痴らしいことや未練らしいいい草は少しもなかった。

 彼はすべての点で自分たちの置かれている境遇をよく知りつくしていた。

 彼は本当にしっかりした諦めと、決心の上に立って、これからの自分の生活をできるだけよくしようとする考えを持っているらしかった。

 こうしてわざわざ遠く訪ねてきたふたりに対しても、彼は簡単に、取りようによっては反感を持ってでもいるような冷淡さで挨拶をしただけで、よく好意を運ぶものに対して見せたがる、ことさららしい感謝や、その他女々しい感情は少しも見せなかった。

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 しばらく話をしている間に、そこに来合わせたひとりの百姓は、やはりここに居残ったひとりであった。

 彼は主人から大杉と野枝に紹介されると幾度も頭を下げて、こうして見舞った好意に対する感謝の言葉を連ねるのであった。

 その男は、五十を過ぎたかと思われるような人の好い顔に、意地も張りもなくしたような皺がいっぱいたたまれていた。

 主人とその男と、大杉の間の話を聞きながら、野枝はあとからあとからと種々に尋ねてみたいと思うことを考え出しながら、一方にはまたもうなんにも聞くには及ばないような気がして、どっちともつかない自分の心に焦れながら、気味悪く足に塗られた泥が、少しずつ乾いてゆくのをこすり合わしていた。





 風が出てきた。

 広い蘆の茂みのおもてを、波のように揺り動かして吹き渡る。

 日暮れ近くなった空は、だんだんに暗く曇って、寒さは骨までも滲み透るように身内に迫ってくる。

「せっかくお出でくださいましたのにあいにく留守で……」

 気の毒そうに言う主人の声をあとにふたりは帰りかけた。

「やはりその道を歩くより他に、道はないのでしょうか」

 野枝は来がけに歩いてきた道を指さして、わかり切ったことを未練らしく聞いた。

 またその難儀な道を帰らねばならないことが、野枝にはただもう辛くてたまらなかった。

「そうだね、やはりその道が一番楽でしょう」
 
 と言われて、また前よりはいっそう冷たく感ずる沼の水の中にふたりは足を入れた。





 ようようのことで土手の下まで帰って来はしたものの、足を洗う場所がない。

 少し歩いているうちにはどこか洗えるところがあるかもしれないと思いながら、そのまま土手を上がった。

 白く乾き切った道が、気持ちよく走っている。

 けれど、ひと足そこに踏み出すと思わず野枝はそこにしゃがんだ。

 道は小砂利を敷きつめてあって、その上を細かい砂が覆っている。

 むき出しにされて、その上に冷たさでかじかんだ足の裏には、その刺戟が、とても堪えられなかった。

 といって、今泥の中から抜き出したばかりの足を思い切って草履の上に乗せることもできなかった。

「おい、そんなところにしゃがんでいてどうするんだい。ぐずぐずしていると日が暮れてしまうじゃないか」

 そう言ってせき立てられるほど、野枝はひしひし迫ってくる寒さと、足の痛さに泣きたいような情けなさを感ずるのだった。

 それでも、両側の草の上や、小砂利の少ないところを寄る撰(よ)るようにして、やっとあてにした場所まで来てみると、水は青々と流れていても、足を洗うようなところはなかった。

 野枝はとうとう懐ろから紙を出して、よほど乾いてきた泥を拭いて草履をはいた。

 ふたりはやっとそれで元気を取り返して歩き出した。

 日暮れ近い、この人里遠い道には、ふたりの後になり先になりして付いて来る男がひとりいるだけで、他には人の影らしいものもない。

 空はだんだんに低く垂れてきて、いつか遠くの方は、ぼっと霞んでしまっている。

 遠く行く手の、古河の町のあたりかと思われる一叢の木立ちの黒ずんだ蔭から、濃い煙の立ち昇っているのが、やっと見える。

 風はだんだんに冷たくなって道のそばの篠竹の葉のすれ合う音が、ふたりの下駄の音と、もつれあって寂しい。





 ふたりは島田家の様子や主人の話など取りとめもなく話しながら歩いた。
 
「あの主人はだいぶしっかりした人らしいのね。だけど後から来たおじいさんは、本当に意気地のない様子をしていたじゃありませんか」

「ああ、もうあんなになっちゃ駄目だね。もっとももう長い間ああした生活をしてきているのだし、意気地のなくなるのも無理はないが。あそこの主人みたいなのは残っている連中のうちでも少ないんだろう。皆、もうたいていはあのじいさんみたいのばかりなんだよ、きっと。残っているといっても、他へ行っちゃ食えないから、仕方なしにああしているんだからな」

「でも、それも惨めなわけね、あんな中にああしていなきゃ困るのだなんて。今度は、お上だって、いよいよ立ち退かせるには、せめてあの人たちの要求は容れなくちゃあんまり可愛想ね。たくさんの戸数でもないんだから、何とかできないことはないのでしょうね」

「もちろんできないことはないよ。少し押強く主張すれば、何でもないことだ。だが、残った連中は、他の者からは、すっかり馬鹿にされているんだね。来るときに初めて道を聞いた男だって、そらあの婆さんだって、そうだったろう! 一緒に行った男なんかもあれで、島田の家を馬鹿にしてるんだよ、宗三を批難したりなんかしてたじゃないか」

「そうね、あの男なんか、こんな土地を見たって別に何の感じもなさそうね。ああなれば、本当に呑気なものだわ」

「そりゃそうさ、みんながいつまでも、そう同じ感じを持っていた日にゃ面倒だよ。大部分の人間は、異った生活をすれば、すぐその生活に同化してしまうことができるんで、世の中はまだ無事なんだよ」

「そういえばそうね」

「どうだね。少しは重荷が下りたような気がするかい? もっとあそこでいろんなことを聞くのかと思ったら、何にも聞かなかったね。でも、ただこうして来ただけで、余程いろんなことがわかったろう? 宗三がいればもっと委しくいろんなことがわかったのだろうけれど、この景色だけでも来た甲斐はあるね」

「たくさんだわ。この景色だの、彼のうちの模様だの、それだけで、もう何にも聞かなくてもいいような気になっちゃったの」

「これで、野枝子ひとりだと、もっとよかったんだね」

「たくさんですったら、これだけでもたくさんすぎるくらいなのに」





 長い土手の道はいつか終わりに近づいていた。

 振り返ると、今沈んだばかりの太陽が、低く遙かな地平に近い空を、わずかに鈍い黄色に染めている。

 空も、地も、濃い夕暮れの色に包まれている。

 すべての生気と物音を奪われたこの区切られた地上は、たったひとつの恵みである日の光さえ、今は失われてしまった。

 明日が来るまではここはさらに物凄い夜が来るのだ。

 黄昏れてくるにつけて、黙って歩いているうち、心の底から冷たくなるような、何ともいえない感じに誘われるので道々、野枝は精一杯の声で歌い出した。

 声は遮ぎるもののないままに、遠くに伝わってゆく。

 時々葦の間から、脅かされたように群れになった小鳥が、あわただしい羽音をたてて飛び出しては、直ぐまた降りてゆく。

 古河の町はずれの高い堤防の上まで帰って来たとき、町の明るい灯が、どんなになつかしく明るく見えたか!

 野枝はそれを見ると、一刻も早く暖い火のそばに、その凍えたからだを運びたいと思った。

 古びた、町の宿屋の奥まった二階座敷に通されて、火鉢のそばに坐ったときには、野枝のからだは何ものかにつかみひしがれたような疲れに、動くこともできなかった。

 野枝は落ちつかない広い部屋の様子を見まわしながらも、まだ足にこびりついて残っている泥の気味悪さも忘れて、火鉢にかじりついたまま湯の案内を待った。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、例によってふたりには尾行が始終ついていた。

 島田宗三が留守だったのは、退去期限の延期交渉に出かけていたからだったが、退去期限は翌年(一九一七年)二月まで延期になった。

 島田家で大杉と野枝が会ったのは、宗三の兄・熊吉である。

 旧谷中村を訪れた大杉と野枝が帰京したのは、一九一六(大正五)年十二月十一日だった。



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)





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第233回 菜圃(さいほ)






文●ツルシカズヒコ

 ようやくに、目指す島田宗三の家を囲む木立がすぐ右手に近づいた。

 木立の中の藁屋根がはっきり見え出したときには、沼の中の景色もやや違ってきていた。

 木立はまだ他に二つ三つと飛び飛びにあった。

 蘆間のそこここに真っ黒な土が珍らしく小高く盛り上げられて、青い麦の芽や菜の葉などが生々と培われてある。

 道の曲り角まで来ると、先に歩いていた連れの男が、遠くから、そこから行けというように手を動かしている。

 見ると沼の中に降りる細い道がついている。

 土手の下まで降りてみると、沼の中には道らしいものは何にもない。

 蘆はその辺には生えてはいないが、足跡のついた泥地が洲のようにところどころ高くなっているきりで、他とは変わりのない水たまりばかりであった。

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「あら、道がないじゃありませんか。こんなところから行けやしないでしょう?」

「ここから行くのさ、ここからでなくてどこから行くんだい?」

「他に道があるんですよ、きっと。だってここからじゃ、裸足にならなくちゃ行かれないじゃありませんか」

「あたりまえさ、下駄でなんか歩けるものか」

「だって、いくらなんだって道がないはずはないわ」

「ここが道だよ。ここでなくて他にどこにある?」

「向こうの方にあるかもしれないわ」

 野枝は少し向こうの方に、小高い島のような畑地が三つ四つ続いたような形になっているところを指しながら言った。

「同じだよ、どこからだって。こんな沼の中に道なんかあるもんか。ぐずぐず言ってると置いてくよ。ぜいたく言わないで裸足になってお出で」

「いやあね、道がないなんて、冷たくってやりきれやしないわ」

「ここでそんなこと言ったって仕様があるもんか、何しに来たんだ? それともここまで来て、このまま帰るのか?」





 大杉はそんな駄々はいっさい構わないといったような態度で、足袋を脱いで裾を端折ると、そのまま裸足になって、ずんずん沼の泥水の中に入って行った。

 野枝はいくらか沼の中とはいっても、せめてそこに住んでいる人たちが歩くのに不自由しない畔道くらいなものはあるにちがいないと、自分の不精ばかりでなく考えていたのに、何にもそのような道らしいものはなくて、その冷たい泥水の中を歩かなければならないのだと思うと、そういうところを毎日歩かねばならぬ人の難儀を思うよりも、現在の自分の難儀の方に当惑した。

 それでも大杉の最後の言葉には、野枝はまたしても自分を省みなければならなかった。

 野枝はすぐに思い切って裸足になり、裾を端折って大杉の後から沼の中に入った。

 冷たい泥が野枝の足の裏に触れたかと思うと、ぬるぬるとなんとも言えぬ気味悪さで、五本の指の間にぬめり込んで、すぐ足首まで隠してしまった。

 その冷たさ!

 体中の血が一度に凍えてしまうほどだ。

 二、三間は勢いよく先に歩いて行った大杉も、後から来る野枝をふり返ったときには、さすがに冷たい泥水の中に行き悩んでいた。

「どう行ったらいいかなあ」

「そうね、うっかり歩くとひどい目に遭いますからね」

 ふたりはひと足ずつ気をつけながら足跡を拾って、ようようのことで蘆間の畑に働いている人の姿を探し出した。

 そこは一反歩くらいな広い畑で四、五人の人が麦を播いていたのだ。





 島田宗三の家への道を聞くと、その人たちは不思議そうにふたりを見ながら、この畑の向こうの隅から行く道があるから、この畑を通って行けと言ってくれた。

 けれど、ふたりが立っているところと、その畑の間には小さな流れがあった。

 とうていそれが渡れそうにもないので、野枝が当惑しきっているのを見ると、間近にいた年老いた男が彼女に背を貸して渡してくれた。

 ふたりはお礼を言って、その畑を通り抜けて、再びまた沼地に入った。

 畑に立っていたふたりの若い女が、野枝の姿をじっと見ていた。

 野枝はそれを見ると気恥ずかしさでいっぱいになった。

 野枝は柔らかく自分の体を包んでいる袖の長い着物が、そのときほど恥ずかしくきまりの悪かったことはなかった。

 足だけは泥まみれになっていても、こんなにも自分が意気地なく見えたことはなかった。

 女たちの目には、小さな流れひとつにも行き悩んだ意気地のない女の姿がどんなに惨めにおかしく見えたろう? 





 だがいったい、どうしたことだろう?

 まさかあの新聞の記事が嘘とは思えないが、今日を限りに立ち退きを請求されている人たちが、悠々と落ちついて、畑を耕やして麦を播いているというのは、どういう考えなのだろう?

 やはり、どうしてもこの土地を去らない決心でいるのであろうか。

 野枝はひとりでそんなことを考えながら、大杉には一、二間も後れながら、今度は前よりもさらに深い、膝までもくる蘆間の泥水の中を、ともすれば重心を失いそうになる体を、ひと足ずつにようやくに運んでゆくので
あった。

「みんな、毎日こんなひどい道を歩いちゃ、癪に障ってるんだろうね」

 大杉は後ろをふり向きながら言った。

「たまに歩いてこんなのを、毎日歩いちゃ本当にいやになるでしょうね。第一、私たちならすぐ病気になりますね。よくまあこんなところに十年も我慢していられること」

 と言っているうちにも、ひと足ずつにのめりそうになる体をもてあまして、幾度も野枝は立ち止まった。

 少し立ち止まっていると刺すように冷たい水に足の感覚を奪われて、上滑りのする泥の中に踏みしめる力もない。





 下半身から伝わる寒気に体中の血は凍ってしまうかとばかりに縮み上がって、後にも先にも動く気力もなくなって、野枝はもう半泣きになりながら、大杉に励まされてわずかのところを長いことかかってようように水のないところまで来ると、そこからは島田の家の前までは、細い道がずっと通っていた。

 木立の中の屋敷はかなりな広さだった。

 一段高くなった隅に住居らしいひと棟と、物置き小屋らしいひと棟とがそれより一段低く並んでいる。

 前は広い菜圃(さいほ)になっている。

 畑のまわりを鶏が歩きまわっている。

 他には人影も何もない。

 大杉が取りつきの井戸端に下駄や泥まみれのステッキをおいて、家に近づいて行った。

 正面に向いた家の戸が半分閉められて、家の中にも誰もいないらしい。

「御免!」

 幾度も声高に言ったが何の応えもない。





 住居といってもそばの物置きと何の変わりもない。

 正面の出入口と並んで、同じ向きに雨戸が二、三枚閉まるようになったところが開いている。

 他は三方とも板で囲われている。

 覗いてみると、家の奥行きは三とはない。

 そこの低い床の上に五、六枚の畳が敷かれて、あとは土間になっている。

 もちろん押入れもなければ戸棚もない。

 夜具や着物などが片隅みに押し寄せてあって、上がりかまちから土間へかけて、いろいろな食器や、鍋釜などがゴチャゴチャに置かれてある。

 土間の大部分は大きな機で占められている。

 家の中は狭く、薄暗く、いかにも不潔で貧しかった。

 けれどもその狭い畳の上には、他のものとはまったく不釣り合いな、新しい本箱と机が壁に添って置かれてあった。

 机のすぐ上の壁には、田中正造翁の写真がひとつかかっている。

 人気のない家の中には、火の気もないらしかった。

 ふたりは寒さに震えながら、着物の裾を端折ったまま、戸の開いたままになっている敷居に腰を下ろした。

 腰を下ろすとすぐ眼の前の柚子の木に黄色く色づいた柚子が鈴なりになっている。

 鶏は丸々と肥って呑気な足どりで畑の間を歩き回っている。

 木立ちに囲まれてこの青々とした広い菜圃を前にした屋敷内の様子は、どことなく、のびのびした感じを持たせるけれど、木立ちの外は、正面も横も、広いさびしい一面の蘆の茂みばかりだ。

 この家の中の貧しさ、外の景色の荒涼さ、それにあの難儀な道と、遠い人里と、何という不自由な、辛いさびしい生活だろう。





 ふたりが腰をかけているところから、正面に見える蘆の中から「オーイ」とこちらに向かって呼ぶ声がする。

 返事をしながら、そっちの方に歩いて行くと蘆の間からひとりの百姓が鉢巻きをとりながら出て来た。

 挨拶を交わすと、それは島田宗三の兄にあたる、この家の主人であった。

 素朴な落ちつきを持った口重そうな男だ。

 気の毒そうにふたりの裸足を見ながら、主人は宗三は昨日から留守であると言った。

 家の方に歩いて行く後から、大杉は今日訪ねてきたわけを話して、今日立ち退くという新聞の記事は事実かと聞いた。

「は、そういうことにはなっておりますが、何しろこのままで立ち退いては、明日からすぐにもう路頭に迷わなければならないような事情なものですから。実は弟もそれで出ておるようなわけでございますが」

 彼は遠くの方に眼をやりながら、そこに立ったままで、思いがけない、はっきりした調子で話した。





「私どもがここに残りましたのも、最初は村を再興するというつもりであったのですが、なにぶん長い間のことではありますし、工事もずんずん進んで、この通り立派な貯水池になってしまい、その間には当局の人もいろいろに変わりますし、ここを収用する方針についても、県の方で、だんだんに都合のいい決議がありましたり、どうしても、もう私ども少数の力ではかなわないのです。しかし、そう言ってここを立ち退いては、もう私どもどうすることもできないのです。収用当時とは地価ももうずいぶん違ってますし、その収用当時の地価としても満足に払ってくれないのですから、そのくらいの金では、今日ではいくらの土地も手に入りませんのです。なんだか欲にからんででもいるようですが、実際その金で手に入る土地くらいではとても食べてはゆけないのですから、何とかその方法がつくまでは動けませんのです。ここにまあこうしていれば、不自由しながらも、ああして少しずつ地面も残っておりますし、まあ食うくらいのことには困りませんから、余儀なくこうしておりますようなわけで、立ち退くには困らないだけのことはして貰いたいと思っております」

「もちろんそのくらいの要求をするのは当然でしょう。じゃ、また当分延びますかな」

「そうです。まあひと月やふた月では極まるまいと思います。どうせそれに今播いている麦の収穫が済むまでは動けませんし」

「そうでしょう。で、堤防を切るとか切ったとかいうのはどのへんです、その方の心配はないのですか?」

「今、ちょうど三ヶ所切れております。ついこの間、すぐこの先の方を切られましたので、水が入ってきて、麦も一度播いたのを、また播き直しているところです」



★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 12:08| 本文

2016年06月02日

第232回 田中正造






文●ツルシカズヒコ



 大杉は乾いた道にステッキを強くつきあてては高い音をさせながら、十四、五年も前にこの土地の問題について世間で騒いだ時分の話や、知人の誰かれがこの村のために働いた話をしながら歩いて行った。

「今じゃみんな忘れたような顔をしているけれど、その時分には大変だったさ。それに何の問題でもそうだが、あの問題もやはりいろんな人間のためにずいぶん利用されたもんだ。あの田中正造という爺さんがまた、非常に人が好いんだよ。それにもう死ぬ少し前なんかには、すっかり耄碌して意気地がなくなって、僕なんか会ってても厭になっちゃったがね。少し同情するようなことを言う人があると、すっかり信じてしまうんだよ。それでずいぶんいい加減に担がれたんだろう」

「そうですってね。でも、死ぬときには村の人に言ってたじゃありませんか。誰も他をあてにしちゃいけないって。しまいには懲りたんでしょうね」

「そりゃそうだろう」

「だけど、人間の同情なんてものは、まったく長続きはしないものなのね。もっとも、各自に自分の生活の方が忙しいから仕方はないけれど。でも、この土地だって、そのくらいにみんなの同情が集まっているときに、何とか思い切った方法をとっていれば、どうにか途はついたのかもしれないのね」

「ああ、これでやはり時機というものは大切なもんだよ。ここだってむしろ旗をたてて騒いだときに、その勢いでもっと思い切って一気にやってしまわなかったのは嘘だよ。こう長引いちゃ、どうしたって、こういう最後になることはわかりり切っているのだからね」

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 けれどとにかく世間で問題にして騒いだときには、多くの人に涙を誘った土地なのに、それがなぜに何の効果も見せずに、こうした結末になったのだろう?

 よそごととしての同情なら続くはずもないかもしれない。

 しかし、一度はそれを自分の問題として寝食を忘れてもつくした人が、もう思い出して見ないというようなことが、どうしてあり得るのであろう? 

 野枝はこの景色を前にして、いろいろな過ぎ去った話を聞いていると、最初に自分が、この事件に対して持った不平や疑問が、新たに浮かんできた。





 行く手の土手に枯木が一本しょんぼりと立っている。

 低く小さく見えた木は、近づくままに高く、木の形もはっきりと見えてきた。

 木の形から推すと、かつては大きく枝葉を茂らしていた杉の木らしい。

 それはこの何里四方というほどな広い土地に、たった一本不思議に取り残されたような木であった。

 かつては、どんなに生々と、雄々しくこの平原の真ん中に突っ立っていたかと思われる、幾抱えもあるような、たくましい幹も半ばは裂けて凄ましい落雷のあとを見せ、太く延ばしたらしい枝も、大方はもぎ去られて見るかげもない残骸を、痛ましくさらしている。

 しかも、その一本の枯れた木は、四辺の景色が、他の一帯に生気を失った、沈んだ、惨めな景色よりも、いっそう強い何となく底しれぬ物凄さを潜めていた。

 行くほど空の色はだんだんに沈んでいき、沼地はどこまでとも知らず広がり、葦間の水は冷く光り、道はどこまでも曲りくねっている。

 連れの男はずんずん先に歩いて行くので、折々姿を見失ってしまう。





 ふたりの話がとぎれると、野枝たちの足元から発する草履と下駄とステッキの音が、はっきりと四辺に響いてゆく。

 野枝は黙って引きずるように歩いている自分の足音を聞きながら、この人里遠いあたりの荒涼たる景色に目をやってゆくと、まるで遠い遠い旅で知らぬ道に踏み迷っているような心細さに襲われた。

「どうしたい?」

「まだかしら、ずいぶん遠いんですね」

「もうじきだよ。くたびれたのかい。もっとしっかりお歩きよ。足を引きずるから歩けないんだ。今から疲れてどうする?」

「だって私こんなに遠いとは思わなかったんですもの。こんなところ、とても私たちだけで来たんじゃわかりませんね。あの人が通りかかったので、本当に助かったわ」

「ああ、これじゃちょっとわからないね。どうだい、ひとりでこんなに歩けるかい。僕は来ないで、野枝子ひとりをよこすんだったなあ。その方がきっとよかったよ」

 大杉はそんなことを言ってからかった。

「歩けますともさ。だって、今そんなことを言ったって、もう一緒に来ちゃったもの仕方がないわ」

 けれど大杉の冗談は、野枝には何となくむずがゆく皮肉に聞こえた。





 先刻から眼前の景色に馴れ、真面目な話が途切れると、他に人目のない道を幸いに、野枝は大杉に甘えたり、ふざけたりして来た。

 彼のその軽い冗談ごかしの皮肉に気づくと、野枝はひとりでに顔が赤くなるように感じた。

 その感じを胡魔化すようにいっそうふざけてもみたが、野枝の内心はすっかり悄気てしまっていた。

「何しに来た?」

 そういって正面からたしなめられるよりも幾倍か気がひけた。

 本当に、考えてみれば、あの先に歩いて行く男にも遇わず、大杉も来てくれないで、自分ひとりで道を聞きながら、うろうろこんな道を歩いてゆくとしたら?

 ふたりで歩いていてさえ、あまりにさびしすぎるこんな道を――。

 野枝は黙り、急にあたりの景色がいっそう心細く迫ってくるようにさえ思えた。





 蘆の疎らな泥土の中に、傾いた土台の上に、今にも落ちそうに墓石が乗っているのが二つ三つ、他には土台石ばかりになったり、長い墓石が横倒しになっていたりしている。

 それが歩いて行くにつれて、あっちにもこっちにも、蘆間の水たまりや小高く盛り上げた土の上に、二つ三つと残っている。

 弔う人もない墓としか思われないような、その墓石のそばまで、土手からわざわざつけたかと思われそうな畔道が、一条ずつ通っているのも、この土地に対する執着の深い人々の、いろいろな心根なのだろう。


 泥にまみれて傾き横たわった沼の中の墓石は、後から後からと、野枝に種々な影像を描かせる。

 その影像のひとつひとつに、野枝の心はセンティメンタルな沈黙を深めていった。





 あたりは悲し気に静まり返って、野枝の心の底深く描かれる影像を見つめている。

 亡ぼしつくされた「生」が今、一時にこの枯野に浮き上がってきて、みんなが野枝の心を見つめている。

 ――その感じが野枝に迫ってくる。

 同時に今にもあふれ出しそうな、あてのない野枝の悲しみを沈ますような太いゆるやかなメロディが、低く強く野枝を襲ってくる。

 今までただ茫漠と拡がっていた黄褐色と灰色の天地の沈黙が、みるみる野枝の前に緊張してくる。

 けれど、やがてそれもいつの間にか消え去った影像と同じく、その影像を描いたセンティメントが消えてしまう頃には、やはりもとの何の生気もない荒涼とした景色であった。

 しかし、野枝はそれで充分だった。

 わずかに頭をもたげた野枝のセンティメントは、本当のものを見せてくれたのだ。

「何しに来た?」

 もう野枝はそういってとがめられることはない。

 ひとりで来たら彼女のセンティメントは、もっと長く彼女をとらえただろう。

 もっと惨めに彼女を圧迫したろう。

 だが、もう充分だ。

 これ以上に何を感ずる必要があろう。

 野枝はしっかり大杉の手につかまった。


★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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