2016年05月31日

第230回 葦原






文●ツルシカズヒコ



 一九一六(大正五)年十二月九日、夏目漱石が四十九歳十ケ月の生涯を閉じた。

 翌十二月十日、野枝と大杉は栃木県下都賀郡藤岡町(現・栃木市)の旧谷中村を訪れた。

 野枝はこの旧谷中村訪問を「転機」(『文明批評』一九一八年一月号・二月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という創作にした。

 旧谷中村を訪れる四、五日前のことだった。

 村の残留民がこの十二月十日限りで強制的に立ち退かされるという十行ばかりの新聞記事を読んだ野枝は、二年ほど前に渡辺政太郎(まさたろう)に聞いた話を思い出した。

「もういよいよ、これが最後だろう」

 という大杉の言葉につけても、ぜひ行ってみたいという野枝の望みは、どうしても捨てがたいものになった。

 とうとうその十日が今日という日、野枝は大杉を促して一緒に旧谷中村を訪れることにしたのである。

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 不案内な道を教えられるままに歩いて古河(こが)の町外れまで来ると、通りは思いがけなく、まだ新らしい高い堤防で遮られている。

 道端で子供を遊ばせている老婆に野枝が、谷中村に行く道を尋ねた。

「なんでもその堤防を越して、河を渡って行くんだとか言いますけれどねえ、私もよくは知りませんから」

 老婆は野枝と大杉の容姿に目を留めながら、はっきりしない答えをした。

 当惑している野枝たちが気の毒になったのか、老婆は他の人にも聞いてくれたが、やはり答えは同じだった。

 しかし、とにかくその堤防を越して行くのだということだけはわかったので、ふたりはその町の人家の屋根よりはるかに高いくらいな堤防に上がった。

 堤防の上からふたりの眼前に現われた景色は、ふたりにとって想像もつかないものだった。





 ふたりが立っている堤防は黄褐色の単調な色をもって、右へ左へと遠く延びていって、ついにはどこまで延びているのか見定めもつかない。

 しかも堤防外のすべてのものは、それによって遮(さえぎ)りつくされて一、二ヶ所木の茂みが低く暗緑の頭を出しているばかりである。

 堤防の内は一面に黄色な枯れ葦に領された広大な窪地であった。

 ふたりの正面は五、六町を隔てたところに横たわっている古い堤防に遮られているが、右手の方に拡がったその窪地の面積は数理的観念には極めて遠い野枝の頭では、ちょっとどのくらいというような見当はつかないけれど、とにかく驚くべき広大な地域を占めていた。

 高い堤防の上からの広い眼界は、ただもう一面に黄色な窪地と空だけでいっぱいになっている。

 その思いがけない景色を前にして、野枝はこれが長い間、本当にそれは長い間だった、一度聞いてからはついに忘れることのできなかった村の跡なのだろうと思った。





「ちょっとお伺いいたしますが、谷中村へ行くのには、この道を行くのでしょうか?」

 ちょうどその窪地の中の道から、土手に上がってきた男を待って、野枝が聞いた。

 その男もまた、不思議そうにふたりを見上げ見下ろしながら、谷中村はもう十年も前から廃止になり沼になっているが、残っている家が少々はないこともないけれど、とても行ったところでわかるまいと言いながら、それでもそこはこの土手のもう一つ向こうになるのだから、土手の蔭の橋のそばで聞けと教えてくれた。

 窪地の中の道の左右は、まばらに葦が生えてはいるが、それが普通の耕地であったことはひと目でわかる。

 細い畔道や田の間の小溝がありしままの姿で残っている。

 しかし、この新らしい高い堤防が役立つときには、それも新らしい一大貯水池の水底に葬り去られてしまうのであろう。

 人々はそんな関わりのないことは考えてもみないというような顔をして、坦々と踏みならされた道を歩いて行く。

 土手の蔭は、教えられたとおりに河になっていて舟橋が架けられてあった。





 橋の手前に壊れかかったというよりは、拾い集めた板切れで建てたような小屋があった。

 腐りかけたような蜜柑やみじめな駄菓子などを並べたその店先きで、野枝はまた尋ねた。

 小屋の中には、七十にあまるかと思われるような目も鼻も口も、その夥だしい皺の中に畳み込まれてしまったようなひからびた老婆と、四十くらいの小造りな、貧しい姿をした女とふたりいた。

 野枝はかねがね谷中の居残った人たちが、だんだんに生計に苦しめられて、手当り次第な仕事につかまって暮らしているというようなことも聞いていたので、このふたりがひょっとしてそうなのではあるまいかという想像と一緒に、何となくその襤褸(ぼろ)にくるまって、煮しめたような手拭いに頭を包んだふたりの姿を哀れに見ながら、それならば、たぶん尋ねる道筋は、親切に教えて貰えるものだと期待した。

 しかし、谷中村と聞くと、ふたりは顔を見合わせたが、思いがけない嘲りを含んだ態度を見せて、野枝の問いに答えた。

「谷中村かね、はあ、あるにはあるけんど、沼の中だでね、道も何もねえし、いる人も、いくらもねいだよ」

 あんな沼の中にとても行けるものかというように、てんから道など教えそうにもない。

 それでも最後に橋番に聞けという。





 舟橋を渡るとすぐ番小屋があった。

 三、四人の男が呑気な顔をして往来する人の橋銭をとっている。

 野枝は橋銭を払ってからまた聞いた。

「ここを右に行きますと堤防の上に出ます。その向こうが谷中ですよ。ここも、谷中村の内にはなるんですがね」

 ひとりの男がそう言って教えてくれると、すぐ他の男が追っかけるように言った。

「その堤防の上に出ると、すっかり見晴らせまさあ。だが、遊びに行ったって、何にもありませんぜ」

 彼らは一度に顔見合わせて笑った。

 一丁とは行かないうちに、道の片側にはきれいに耕された広い畑が続いていて、麦が播いてあったり、見事な菜園になっていたりする。

 畑のまわりには低い雑木が生えていたり、小さな藪になっていたりして、今、橋のそばで見てきた景色とは、かなりかけ離れた、近くに人の住むらしい、やや温かな気配があった。

 片側は、道に添うて河の流れになっているが、河の向こう岸は丈の高い葦が、丈を揃えてひしひしと生えている。





 その葦原もまたどこまで拡がっているのかわからない。

「おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう?」

「変だねえ、もうだいぶ来たんだが」

「先刻の橋番の男は堤防に上るとすっかり見晴らせますなんて言ってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか?」

 野枝と大杉がそう言って立ち止まったときには、小高くなった畑地はどこか後の方に残されて、道は両側とも高い葦に迫られていた。

 行く手も、両側も、後も、森(しん)として人の気配らしいものもしない。

「橋のとこからここまで、ずっと一本道なんだからな、間違えるはずはないが、まあもう少し行ってみよう」

 大杉がそう言って歩き出した。

 野枝は通りすごしてきた畑が、何か気になって、あの藪あたりに家があるのではないかと思ったりした。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第229回 センチメンタリズム






文●ツルシカズヒコ




 大杉が逗子の千葉病院を退院したのは、一九一六(大正五)年十一月二十一日だった。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、看病をした野枝と、近くに宿泊して見舞いに通った村木が付き添い、夕刻の電車で本郷区菊坂町の菊富士ホテルに帰った。

『東京朝日新聞』(十一月二十二日)によれば、大杉たちは「午後六時四十三分逗子駅発列車」で帰京した。

 近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、菊富士ホテルの玄関に通じる細い露地を、頭から肩にかけて痛々しい包帯姿で杖をついて大杉が、野枝の肩にすがり歩いて来るのを、ホテルの人たちが総出で出迎えた。

『東京朝日新聞』(十一月二十七に日)によれば、菊富士ホテルに戻った後、神近からの二通の書簡が届き、大杉は慰謝の返事を書いた。

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 近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、大杉と野枝のカップルは野枝の帯まで質入れするほど窮乏していてが、野枝は療養中の大杉の体を気づかって、

「牛乳をほしい」

「今晩は牛肉を買ってきてちょうだい」

 と遠慮なく女中に注文した。

 牛乳も牛肉もホテルの立て替え払いなので、大杉も野枝も気楽に構えているのだった。





 佐藤春夫は日蔭茶屋事件後、大杉と野枝が滞在していた菊富士ホテルに二度訪れてふたりに面会している。

 一度目は冬の夕方、荒川義英と一緒だった。

 荒川は菊富士ホテルの応接間を覗きこみながら呟いた。

「尾行の奴が退屈してやがらあ!」

 ふたりの尾行が応接間にいることによって、大杉の在宅を知った荒川は案内も乞わずに三階に上がり、ふたりは階段のとっつきの部屋に入った。

 野枝はふたりを歓迎の言葉で迎えた。

 佐藤の記憶によれば「野枝は針仕事か何かをしてゐたような気がする」。

 碁盤を前に座っていた大杉は、例のように吃って言った。

「やろう」

 佐藤が大杉に会うのは一年か一年半ぶりぐらいだった。





 ……大杉の私に対する様子はまるで昨日も逢った人間に対するもののやうにわだかまりがなかつた。

 その自然な調子につり込まれて私も、碁盤の前へ座つたなり五目並べを三四へんやつた。

 大杉が上手とも格別下手とも覚えないところを見ると、きつと私同様に下手だつたのであらう。

 荒川は野枝と何かと話題に耽つてゐた。


(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』一九二三年十一月号/『佐藤春夫選集 第十一巻』講談社)





 その晩、大杉はひどく愉快そうに興に乗って獄中の話などをした。

「新しく同棲するやうになった野枝が傍にゐたので、大杉は楽しかつたに違ひない」と佐藤は書いている。

 四人は夜の十二時まで話しこんだ。

「こんなお客は尾行泣かせだな。どーれ、いよいよ帰ろう」

 荒川が最後にそう言って立ち上がった。

 気がつくと、部屋は煙草の煙でいっぱいになっていた。

 玄関の脇の部屋にいたふたりの尾行は居眠りをしていたらしく、荒川は半ば揶揄するように、

「や! ご苦労さん」

 と大声で呼びかけた。

「君……」

 佐藤は下駄をはきながら荒川に囁いた。

「尾行というものは、いったい何時まで番をしているのだい?」

「必要あればいつまででもさ。奴さんたち、僕らが帰るのを待ちくたびれていたのだぜ。署へ帰って、大杉はもう寝ましたとも報告はできずさ。この寒いのにーーまったくご苦労さまなことだよ」

 荒川はそんなことを言った。





 佐藤が二度目に菊富士ホテルを訪れたのは、佐藤も同ホテルに下宿しようかと思い、大杉にいろいろ相談するためだった。

 すると大杉は「それじゃ、この部屋に来ちゃどうだ」と言った。

 下宿代を支払わず、食事が不味いと言って自炊する大杉と野枝は、菊富士ホテルからすると早く厄介払いしたい対象になっていたからである。


 大杉の宿料は一度も支払われないまま、二ヶ月、三ヶ月と経った。

 我慢出来ず主の(羽根田)幸之助がさいそくに行った。

「大杉さんのような社会主義者が私たちのような小商人を苦しめるなんておかしいじゃありませんか」

 となじると、

「いや、決してそんなつもりではありません。必ず支払うから待って下さい」

 と大杉は苦味走った顔に、いよいよ当惑の色をうかべて返辞する。

 そして「いついつまでに必ず支払う」という誓約書を書いて幸之助に渡す。


(近藤富枝『本郷菊富士ホテル』)





 そのころ大杉の部屋の筋向こうには印度人の青年が住んでいたが、その部屋は西洋間だったので、大杉はその部屋に佐藤を連れて行き見学させてくれたりした。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、シャストリーというその印度人の青年は「無政府主義者との評のある者にして早稲田大学哲学講師」である。

 佐藤は結局、当時の自分の経済状態では住めそうにないと思ったが、大杉の部屋で話しているうちに、ふたりの会話は文壇の話題になった。

 当時、新進作家といわれる者が輩出していた。

 佐藤は大杉に誰か気に入った作家がいるかと尋ねてみた。





 大杉は只一口につまらないと言つたが、「武者小路だけはちよつと面白いよーー機会があつたら論じて見てもいいと思つてゐ」と言つた。

 志を得ないでゐた私は誰のことでも、感心したくはなかつた。

 それで私は大杉に「だつて武者小路の人道主義は要するにセンチメンタリズムぢやないか」と言った。

 その時の大杉の答を私は面白いものに思つて忘れないでゐる。

 大杉は答へたーー

「さうさ。センチメンタリストだよ。まさしく。だけどすべての正義といひ人道といふものは皆センチメンタリズムだよ、その根底は。そこに学理を建てても主張を置いても科学を据ゑても決して覆へらない種類のセンチメンタリズムなのだよ」

「佐藤さん。人の悪口などばかりおつしやらずに、あなたも早く何かなさいよ」

 野枝がそばから私にそんなことを言つたりした。


(佐藤春夫「吾が回想する大杉栄」)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第228回 塩瀬の最中






文●ツルシカズヒコ



 日蔭茶屋事件が起きる直前、大杉と野枝の訪問を受けていたらいてうは驚いた。

 神近が『青鞜』から離れて以降、らいてうは彼女と疎遠になっていたが、彼女が大杉が主宰するフランス語教室やフランス文学研究会に参加しているらしいという噂話はどこからともなく聞いていた。

 しかし、らいてうは神近と大杉が傷害事件に発展するような深い間柄であることは、まったく知らなかった。

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 こんないたましい破局に、神近さんが、しかも野枝さんの介入によって追いこまれたことを、心から悲しみながら、そのなかでおのずから心に浮かぶのは、初対面のときから強くわたくしの印象に残っている神近さんのあの妖しく光る、神経質なやや血ばしっているような大きな眼でした。

 人相からいえばなんというのだろうなどとそのときからちょっと気になっていたものでしたが、あそこまでやらねばならなかった神近さんの性格をあの眼がすでに物語っていたように思えてならないのでした。

 神近さんとしてはああするよりほかなく、ああしなければ気持の転換はできなかったのでしょうから、神近さんの行為ばかりをむやみに非難しようとは思いません。

 それよりもわたくしは恋愛の自由ということを踏みはずしたあの多角恋愛の破綻が、古い封建道徳に反対し、新しい性道徳を打ちたてようと努力するものの行く手の大きな支障となることを、おそれずにはいられませんでした。

 ……自己革命だけに終始していた「青鞜」の婦人たちも、ようやくいままでの個人的な立場から、目を社会に転じなければならないようになってきました。

 多くの錯雑した、容易に解決しがたい問題がーー少なくとも個人の力ではどうすることもできないような多くの問題が、目の前にむらがってきました。

 こうして、わたくしたちは、大きな壁の前につき当たったのです。

 ここで、わたくしたちの「青鞜」は終わりました。

 そして「日蔭茶屋事件」が、好むと好まざるとにかかわらず、わたくしたちの「青鞜」の挽歌であったことも、いなみ得ないことです。

 同時に、わたくし自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います。


(『元始(下)』)





 自由恋愛によって引き起こされた日蔭茶屋事件に関し、らいてうは大杉と野枝を批判した。


 一体恋愛の自由といふことは、氏等が意味するやうな、一種の一夫多妻主義(或時は多夫一婦人ともなり、多夫多妻ともなる)委しく言へば、相愛の男女は別居して、各自独立の生活を営み、また若し是等の男女にして他の男女に恋愛を感ずれば、其等とも同時に、しかも遠慮なしに結合することが出来るのみならず、愛が醒めれば、子供の有無に拘らず、いつでも勝手に別れることが出来るといふやうな無責任な、無制限な、従つて共同生活に対する願望も、その永続の意志をも、欠いた性的関係でありませうか。

 これは恋愛の自由の甚しき乱用でなくて何でせう。

 然るにその新婦人と呼ばれる者の中から真の恋愛の自由は……永久の共同生活に対する願望と、未来の子供に対する責任感との伴った恋愛のみにある事を忘れ、自分の愛人の間違った恋愛観を、深き反省も批判もなく受け容れ、それを実行させるやうな婦人を出したといふことは、しかもその果は殺傷沙汰まで引き起したといふことは、どう考へても残念なことでした。


(「所謂自由恋愛と其制限 大杉・野枝事件に対する批評」/『大阪毎日新聞』一九一七年一月四日/『元始(下)』より引用)





「オウスギカミチカニササル」という電報を受け取った安成二郎が、逗子の千葉病院に見舞いに行ったのは十一月十二日だった。

 新聞に生命に別状なしとあったので、ゆっくり構えていたのである。


 行って見ると「創(きず)の経過思ひの外よしとて、昼飯の馳走になり、三時間も話した。山崎今朝弥弁護士来り、神近君の弁護の件につき、大杉君が単独で話してゐた。(原因、前夜肉的関係なし)という句がチラと見えた。それは検事の訊問に答へた要領の一つであつた」とその日の私の日記にある。

 それは神近君の弁護をする山崎氏と大杉君が神近君の刑を少しでも軽減するための打合せをしてゐるのであつた。

 私の日記はそれだけで、もつと細かに書いておくべきだつたと今にして思はれる。

 大杉君への見舞に「塩瀬にて栗のきんとんのもなかを買つて行く」とも書いている。


(安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』/新泉社・一九七三年十月一日)


「塩瀬」の最中は甘党の大杉の好物だった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年05月30日

第227回 宮嶋資夫の憤激






文●ツルシカズヒコ




 十一月十日の『東京朝日新聞』は、五面の半分くらいのスペースを使って、この事件を報道している。

 見出しは「大杉栄情婦に刺さる 被害者は知名の社会主義者 兇行者は婦人記者神近市子 相州葉山日蔭の茶屋の惨劇」である。

 内田魯庵は、こうコメントしている。


 ……近代の西洋にはかう云ふ思想とか云ふ恋愛の経験を持つてゐる人がいくらもある……彼が此恋愛事件に就いて或る雑誌に其所信を披瀝したのを見ると、フイロソフイーとしては確かに徹底してゐた……只日本現時の教養の上からは彼の云ふフイロソフイーは理論としては兎も角、感情の上では容易に許されない性質のものである……神近の無恥な行為に至つては全然長屋の婦女と揆を一にする醜悪な事実として、面を背けざるを得ない

(『東京朝日新聞』一九一六年十一月十日)


 与謝野晶子は、こうコメントしている。


 あの人達が発表したものを見ても私はその思想を肯定することは出来ませんでした……三人と恋をするといふことは不自然であります何時かは何かの形で破裂するであらうといふ予感が時々せぬでもありませんでした

(同上)

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 十一月十日、夜が明けると、宮嶋たちは神近を見舞うために葉山の警察に行くと、すでに護送した後で面会することができなかった。


 そこで其方達はその足ですぐ病院へ行くと、入口の庭で野枝に逢つたので、又癇癪を起こして野枝を泥濘(ぬかるみ)へ突倒し、散々打擲を加へたといふ事を後で聞きました。

 間もなく宮島さんから電話で『大杉君には言ふべき事をいひ、野枝には制裁を加へたから、僕はもう用がない、すぐ東京へ帰る。今東京から電話で山川君が来ると云ふ知らせがあつた』と申されました。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』一九一七年三月号)





 このときのことを山鹿泰治は、こう記している。


 明くる朝病院に行つて見ると、杉は首に繃帯をして寝てゐた。

 意識は明瞭だがしやべると苦しいと言つた。

 僕は杉に『これから一層進んだ運動に入らなければならぬ今日、君が女の問題位で蹉跌しては同志が離散するから、一時女の問題は打ち切つて野枝さんを遠さかつて貰つてはどうか』と言つて見たが、頑として聞かなかつた。

 そこへ宮島らその外五六人であばれ込んで来て、外出から帰つて来た野枝さんを捕へて泥の上にころがして蹴り飛ばした。

 僕も何の分別もなくこの暴徒に加つてドロ靴で一つ二つ蹴り付けた。

 なほ宮島は病室へ飛び込んで来て、『やイ大杉、てめえは抵抗力がないから今はゆるしてやるが、おぼえてろ』とか言つてタン呵を切つた。

 何でも『クロポトキンよりや国定忠治の方が偉いんだ』とか何とか言つたやうだ。

 それがすむと、今度は警察へ行つて神近に面会するんだと云つて自働車を雇つて来たから僕も行つて見たが、もう神近は前夜の内に横浜監獄へ送られてゐた。


(山鹿泰治「追憶」/『労働運動』一九二四年三月号)





 堀保子「大杉と別れるまで」と山鹿泰治「追憶」では、微妙な違いがあるが、ともかく野枝が複数の男たちから泥濘(ぬかるみ)の上に転がされて暴行を受けたのである。

 野枝に対するこの暴力は「野枝殴倒(はりたほ)さる 友人宮島の憤激 大杉も罵倒さる」という見出しで、新聞の記事になった。


 大杉等の友人宮島資夫、山鹿、有吉外(ほか)二名は十日朝葉山分署に神近を見舞ひたるが既に横浜に護送されたるを知り失望裡に自動車を雇ひ千葉病院に大杉を訪問する途中午前十一時頃野枝が病院手前の高橋商店にて買物せる姿を見、

 一行は病院玄関口にて待伏せして野枝が小鍋、皿、茶碗、林檎、葡萄類を抱へ伊藤巡査部長と共に玄関に差懸るや宮島は突然野枝に向ひ『お前の為めに親友一名を殺したのだ』と言ひ矢庭に鉄拳を以つて野枝の横面を乱打し不意を喰ひて玄関外に仆(たふ)れたる野枝を井戸端の泥濘(ぬかるみ)中に突倒したり

 斯る処に巡査が懸け付け野枝を大杉の病室に連れて行きしに宮島等も続いて病室に押かけ野枝が大杉の胸に顔を伏せて泣き崩れ居る体を見るや宮島は又も蹴飛ばし或は踏みにぢりつつ『貴様は今死にさうな自分の子供を打(うつ)ちやつて置いて斯んな所に来て居るのは既に虚偽の恋に陥つて居る』と怒号したり

 此の騒動を目前したる大杉は無言の儘(まま)凄き眼(まなこ)をもて宮島等を睨み付けしが宮島は仁王立の儘『君も意気地のない男だ僅か一婦人の恋に溺れて主義主張を葬り去るとは……、君が此の不幸に遭はなかつたら僕は此の女を殺して終ふ処だ もしこの有様を見て残念だと思ふなら全快してから遣つて来い何時でも決闘するから』と罵りつゝ其儘立ち去れり


(『東京朝日新聞』一九一六年十一月十一日)


 宮嶋資夫の『遍歴』にこの日の前日、前述したように「三時頃に一人で東京へ帰らうと思つて出て来ると井戸端の処で野枝に出会つた。何だか知らないが無茶苦茶に癇癪が起つたので、番傘で頭を擲りつけた」という記述があるが、これが事実だとすると宮嶋は二度も野枝に暴力を振るったことになる。

 同日、および翌日の『東京朝日新聞』によれば、十一月九日未明に逗子の派出所に自首した神近は、葉山分署に移され殺人未遂罪の令状を執行され、十一月十日朝に横浜監獄に護送された。





 宮嶋が自伝『遍歴』の執筆を始めたのは一九五〇年一月、書き終えたのは同年五月だった。

 このとき宮嶋は六十四歳、宮嶋が逝ったのは翌年だった。

 宮嶋は三十四年前に野枝に振るった暴力について、こう書いている。


 神近からいつも彼女が苦しい思ひをしては金策をしてゐる事を聞いてゐた。

 病院に大杉を見舞つたときには、彼等がドライブした事など聞いてはゐなかつたが、それでも彼等の行動に好感を持つ事はできなかつた。

 辻の事も意識下にあつたのであらう。

 野枝といふ女が、いやに図々しく、横着なように私には思われた。

 愛する男を切つて、今は留置場にゐる神近と、愛人を独占する喜びに浸つてゐる野枝との間に、何か感傷的になつて、遂(つい)かつとして擲つてしまつたのだ。

 後になつて、つまらない事をしたものだと自分でも恥てゐる。


(宮嶋資夫『遍歴』)





 十一月十日の夕方、宮嶋と入れ替わりで山川均が日蔭茶屋にやって来た。

 保子は大杉の看護を自分がやるのか野枝がやるのか、大杉にはっきりと決めてほしいと思い、その旨を山川に伝え、大杉の返事を聞いてもらいたいと山川に頼んだ。

 病院に行った山川は二、三時間後に日蔭茶屋に戻って来た。


 山川さんの云ふには『大杉君は成る程自分達も不謹慎だつたらう。があんな暴動を起こした以上、野枝は帰されぬ。野枝も又全責任を負ふて今後看護するといつてゐる、といふ返事をした』との事でした。

(堀保子「大杉と別れるまで」)


 その夜、保子は山川や大杉の次弟・勇らと逗子を引き上げて帰京した。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第226回 オースギカミチカニキラレタ






文●ツルシカズヒコ




 一九一六(大正五)年十一月九日未明、神近に左頸部を短刀で刺された大杉は、神奈川県三浦郡田越村(たごえむら)逗子の千葉病院に入院した。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉の傷は「右下顎骨下一寸の個所に長さ一・八センチ、深さ二・五センチの創傷」だった。


 大杉の容態は一時思わしくなかったが、夕刻にはだいぶ回復して、話ができるようになったので、医師は一命に別状はないだろう、と診断する。

 病院には朝から野枝が駆けつけて看護。

 午後には保子と宮嶋が、次いで荒畑寒村と馬場孤蝶が見舞いに急行して来た。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』)


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 近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、十一月九日早朝、菊富士ホテルの帳場の電話がけたたましく鳴った。

 葉山の日蔭茶屋で、大杉が神近に刺され重態であることを、野枝に伝えてくれという。

 電話に出たのは菊富士ホテルの主人、羽根田幸之助の三女で当時、淑徳高女在学中の八重子だった。

 八重子はあわてて三階の野枝の部屋に走った。

 宮嶋資夫は「オースギカミチカニキラレタスグコイ」という電報が売文社から来たので、京橋の売文社に駆けつけた。

 堺利彦からおおよその状況を聞き、堀保子も売文社に来ていたので、ふたりで逗子に向かった。





 大杉は病院に入つてゐた。

 首にホータイをして寝てゐた。

 声が出ないと言つて余り話はしなかつた。

 野枝も已に来てゐたが、やす子さんの顔を見ると、どこかへ引込んでしまつた。

 枕頭には、村木源次郎がつき添つてゐて馬場先生も来ておられた。

 村木はだれに聞いたのか知らないが、神近が大杉に「浅間しいとは思ひませんか」と言つた、と言つては笑つていた。

 神近はすぐ自首したといふので、警察に行つたが、面会は許されなかつた。

 大杉は黙つて眠つてゐるばかりであるし、やす子さんは、気まづい顔をして枕頭に坐つてゐる。

 変な空気であつた。

 三時頃に一人で東京へ帰らうと思つて出て来ると井戸端の処で野枝に出会つた。

 何だか知らないが無茶苦茶に癇癪が起つたので、番傘で頭を擲りつけた。

 そしてそのまま帰つてしまつた。


(『遍歴』/『宮嶋資夫著作集 第七巻』・慶友社・一九八三年十一月)





 十一月九日の朝、堀保子は差出人不明の逗子からの電報を受け取った。

「オホスギビヨウキ、オイデマツ、キトクノオソレナシ」

 保子が堺利彦に連絡を取ると、堺が保子の家にやって来た。

 売文社から電話で問い合わせてみることになり、堺と保子は京橋の売文社に行った。

 日蔭茶屋に電話してみると、大杉は逗子の千葉病院に入院しているというので、保子は売文社に来合わせていた宮嶋と逗子に急行した。

 売文社にはすでに新聞記者が押しかけ、混雑していた。


 千葉病院へいつてみると、重態と思つたのに……咽喉の所へ繃帯をした大杉は平生の如く口をきいて、そして煙草をふかしてゐるのです。

 稍(やや)安心はしましたが、そばに野枝がゐるのを見て不快でたまりませんでした。

 宮嶋さんは此際野枝が此処にゐるのは不都合だからといつて野枝に退去を迫つたのですが、野枝は看護をしたいといつて去りませんでした。

 私も看護をしたいとは思ひましたが、野枝と一所にゐることは好みませんから、其事を宮嶋さんに話して大杉の意見を聞いて貰ふ事にしてゐる処へ、又東京から馬場さんと荒畑さんとが来ました。

 馬場さんも、此の看護は奥さん(私)がすべき筈だといつて、野枝に一時引取つてはどうかとお勧めになつたやうですが、野枝は泣いてゐて返事をしない。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』一九一七年三月号)





 宮嶋が保子に紙を渡した。

 その紙には大杉の字でこう書いてあった。

「当分あなたと野枝と二人にゐて貰ひたい」

 もどかしくなった保子が大杉の枕元で「自分一人で看護をしましょう」と言うと、大杉は「そんな事を言わんで野枝(あれ)を置いてもいいじゃないか。当分は見舞客も多いことだろうから、ふたりでいてくれ」という。


 私は最前から野枝が不遜の態度を極めてゐるのを見て不快に思つてゐましたから、大杉に『二人にゐて貰ひたいと言ふなら、私に対して野枝に何とか挨拶をさせたら好からう』と申しました。

 そこで大杉が野枝をよんで注意すると、『私は御挨拶をしやうと思つてゐたのですけれど、もう随分皆さんから侮辱されました。何んと御挨拶をしたら可(よ)いのでせう』と野枝は云ひました。

 大杉は『ソレだからあなたは人に誤解されるのだ……二人がそんな事なら二人共帰つてくれ』といひました。

 私はもう/\こゝに居るのに堪へられませんので、次ぎの室に居られた宮島さん……に『私はこゝを引上げる』といひました。

 こんな事をしてゐる間に、宮島さんは大いに激昂して頻りに野枝を罵り、『保子さんが来てゐるのに貴様がづう/\しくこゝに居るのはどういふ訳だ』なぞ叫んだやうでした。


(堀保子「大杉と別れるまで」)





 保子と宮嶋は日蔭茶屋に一時、引き上げることにした。

 日蔭茶屋には保子も大杉と一緒に来たことがあった。

 馴染みの女中のお源さんに、大杉がいた二階の八畳間に案内された。

 廊下の血潮はきれいに拭き取ってあったが、まだ生々しい血が畳の間や壁に付着していた。

 前夜、大杉と神近が茶受けにした煎餅のかけらなどが散らばっていた。

 お源さんから事件の様子などを聞いているところに、三、四人の見舞客が病院から引き上げて来て、その夜はその部屋で朝の五時ごろまで語り明かした。

 見舞客の中には山鹿泰治がいた。





 寒い夜、逗子の日蔭茶屋に行つて見ると、堀保子が泣いてゐるそばに宮島資夫君が切歯扼腕してゐた。

 保子さんは『他人の男を盗んで又それを盗まれたからといつて、その盗まれた男を殺すなんて馬鹿な話しがあるものか、野枝さんも亦私しに対して何とか挨拶のありさうなものなのに、逢つても知らん顔をして大杉が挨拶をしろといつても嘯(うそぶ)いてゐるなんていまいましい』と言つて怒つてゐるし、宮島くんは『神近は僕のワイフの古い友達だからよく知つてゐるが、神近がこんな事をしたのは皆な野枝が悪いんだ。大体大杉が悪い。主義の上では強くても女には弱くて丸で決断力がないからこんな事になるんだ。神近から金を取つて二人で贅沢をするなんてフトい奴だ』と憤慨してゐる。


(山鹿泰治「追憶」/『労働運動』一九二四年三月号)


山鹿泰治2



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年05月28日

第225回 新婚気分






文●ツルシカズヒコ




『神近市子自伝 わが愛わが闘争』には「私が葉山の宿に着いたのは、夜になっていた。大正五年十一月八日のことである」と記されているが、「十一月八日」は十一月七日の誤記である。

 日蔭茶屋に着いた神近が、出て来た女中さんに「大杉さんご夫妻はみえていますか?」と訊ねると、出で来た女中さんは無邪気にみえていると答え、そのまま奥二階の部屋に案内した。

 廊下の唐紙は開いていた。

「お客さまでございます」

 と女中さんは声をかけ、すぐにそこから消えるように廊下を帰っていった。

 大杉が神近を見たときの当惑顔で、女中さんはハッとしたようだった。

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 大杉氏は湯上がりの浴衣姿で、タバコをふかしながらチャブ台の前に坐っていた。

 野枝女史も風呂からあがったばかりのようすで、肌脱ぎになって鏡台の前で化粧をしていた。

 チラと私のほうを見るなり、露骨にいやな顔をして肩を入れたきり、無言で化粧をつづけた。

 気まずい空気だった。

 私と大杉氏とは、互いに意味をなさない弁解をしあった。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』/講談社・一九七二年三月二十四日)





 三人分の夕食が揃ったが、大杉が箸を取って何か口に入れただけで、野枝は箸を取らなかった。

 神近は無理にひと口食べたが、とても咽喉を通らなかった。

 野枝がいきなりちゃぶ台を離れ、「あたし帰る」と言って、支度を始めた。

 大杉は止めなかった。

 神近は勝手にしろと思い、口を挟まなかった。

 自動車が来ると、野枝は何も言わずに部屋を出て行った。

 大杉と神近、ふたりの食事は味気ないものだった。

 つとめてさりげなくあれこれ友達の噂や知人の話をしていても、フッと話が途絶えると、ふたりはお互いの心を探り合っていることを感じた。

 神近は一杯のご飯を詰め込むように食べ、大杉はややよく食べた。

 形ばかりの食事が終わったころ、女中さんが電話だと言ってきた。

 野枝からの電話だった。

 大杉が部屋から出ていって、かなりの時間がたち、ようやく部屋に戻った大杉が言った。

「伊藤が東京の部屋の鍵を忘れたというんだ。逗子の駅まで届けてくれと言っている」

 神近は口には出さなかったが、それが仕組まれたことだと感じた。

「困ったお嬢さんだよ。ちょっと届けてくるからね。君は先に休んでいらっしゃい」

 大杉はドテラのまま自動車を呼んで出て行った。





 二人は……一種の新婚気分にひたっていたのだろう。

 私は、その気分をわざわざこわしに来た闖入者であることは明らかだった。

 野枝女史が突然帰ったのは、私に対する無言の抗議にほかならないことも、これまた明らかだった。

 鍵を忘れたというのも、出ていくときすでに彼女の計算にあったことだろう。

 野枝女史は、それほど賢いところを持っている人だった。

 福四万館にはむろん合鍵というものがあるだろうし、駅に着いたときに思い出したというのも偶然すぎる。


(同上)






「福四万館」と書いてあるがこれは「菊富士ホテル」の誤記である。

 さらに『神近市子自伝 わが愛わが闘争』では、野枝がこの夜(十一月七日)そのまま帰京したふうに記しているが、実際は日蔭茶屋に戻り、翌日(十一月八日)の朝に帰京しているので、これも誤記である。

 さらに『神近市子自伝 わが愛わが闘争』では、神近が大杉を刺したのは神近が日蔭茶屋にやって来た日の夜と記述されている。

 つまり『神近市子自伝 わが愛わが闘争』は、十一月七日と八日の出来事が混同して記されているのである。

 重大な事実誤認をしている同書だが、ともかくその記述に沿って、刃傷沙汰にいたり神近が自首するまでを追ってみたい。

 神近はなんとか話し合いで解決したかったが、大杉の反応に唖然とした。

「君の話はわかっているよ。金だろう。金は返すよ、金さえ返せばいいんだろう」

 大杉がもう少し人間的な扱いをしてくれると期待していた神近は、全面的に裏切られたと思った。

 寝床に入っても、神近は眠れなかった。





 このとき、私が大杉氏の寝床にはいろうとしたと伝えられている。

 おそらく、それは大杉氏が自分で書いたものから出たのだろうと思うが、それは半睡の状態にあった大杉氏の錯覚だろう。

 が、私が大杉氏の手を引っぱって起こしたことは事実だった。


(同上)


 神近が言った。

「私たち、いろいろ話し合ってみたほうがいいと思います」

 大杉は無言だった。

「あなたは、私に言うことがあるはずです。たとえば、この状態は自分の予想していなかったことだとか……」

 クルッと向こうむきに枕をかえて、大杉が言った。

「我慢がならないなら、好きにするさ。何も言うことはないよ」





 神近は洗いざらい憤懣をぶちまけた。

 大杉の理論が雲散霧消してしまったこと、その原因の一端は野枝の無責任な態度にあること、大杉の行為は好色な男の行為と一分の違いもないこと。

 さらに、神近は野枝の大杉への経済的な依存のために、保子夫人の窮乏が深まっているのに、おめおめと旅行をして歩く良心のなさを詰問した。

 大杉は憤った。

 そして、高畠素之が口癖のように言いふらしていた「大杉のヘボ理論で日本の革命ができるなら、俺は坊主になってみせる!」という言葉を、神近が引き合いに出したとき、大杉の怒りは頂点に達した。


 大杉氏は起きあがった。

「ぼくが金を借りているものだから、君はそれをカサにきて暴言を吐くんだな。さあ、金は返す。これでわれわれは他人だ。あしたは帰ってくれ。帰らないなら、ぼくが帰る!」

 そういうなり畳みの上にあり金を叩きつけた。


(同上)





「お化を見た話」『引かれものの唄』「豚に投げた真珠」にも、大杉がその場に金を叩きつけたという記述はない。

 さらに大杉を刺した後の神近の行動について、こう記されている。


 私は短刀を海の中にほうり投げた。

 そして海にはいって死のうとした。

 が、なまじ水泳ができるものだから、いくら深みにはいって水を飲んでも、ひとつもがくと浮かび上がってしまう。

 私は砂浜に上がって、ズブ濡れの着物を絞ると、そにまま逗子の町のほうに向かって歩き出した。

 十二時を過ぎていたが、町にはまだ人通りがあった。

 通りすがりの人に派出所の場所を聞き、赤いランプを灯した交番をさがしあてた。

 扉をあけて巡査が顔を出した。

「殺人をしてきました。検挙してください」

 巡査は愕然として身構えるふうだった。

「短刀は持っていないだろうな?」

 私が両手を広げて見せると、巡査はやっと中に入れてくれた


(同上)





 大杉を刺した後の神近の行動が、『引かれものの唄』「豚に投げた真珠」とはずいぶん違っている。

『引かれものの唄』は日蔭茶屋事件の直後に執筆され、事件の一年後に出版されている。

「豚に投げた真珠」は事件の六年後に執筆されて『改造』に掲載された。

 これらに比較して、事件の五十六年後に出版された『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に記述されている事実関係の信憑性は低いと判断せざるを得ない。



明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷


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第224回 第一福四万館






文●ツルシカズヒコ



『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に、こういう下りがある。


 ある日、大杉氏が私にいった。

「伊藤野枝君が下宿にはいりこんできて困っている」

「どうしたんです? あの人乳飲み児の子どもさんがあるんでしょう?」

「子どもを千葉県の御宿にあずけるというんだが、金がないんだ」


(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』/講談社・一九七二年三月二十四日)


 野枝が御宿に行く前に大杉の下宿、第一福四万館に出入りしていたころのことであろう。

 神近は少しの金を出してあげた。

 が、その金は、大杉氏と野枝女史が二人で御宿へ行くために使われた。

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 流二を御宿の漁師・若松家に里子に出して帰京した野枝は、大杉の下宿・第一福四万館に転がり込んだ。

 そのあたりから、『神近市子自伝 わが愛わが闘争』の記述に沿ってみたい。

 大杉と野枝はフリーラブのルールを破って同棲しているわけだが、神近がそのことに触れると、大杉は叫んだ。

「うるさいな。僕はあの人が好きなんだ。それに金がないんだ。ぶつくさいわんでくれ!」

 神近は引き下がるしかなかった。

 野枝がこの世間を騒がせている男女関係を小説に書き、新聞に連載して多くの稿料を得ようとしたが、アテが外れたので、同棲を余儀なくされていると、大杉は言った。

 神近は彼らの現実を見る目の甘さに唖然とした。

 神近は野枝だけでなく、大杉にまで軽蔑を感じるようになり、それまで散々聞かされてきた大杉の革命理論にも疑いを持ち始めた。





 大杉が神近から金銭的な援助を受けていたこと、あるいはアナ・ボル対立の図式の中でボルが優位になりはじめていたことなどを鑑みて、神近はこう書いている。


 背に腹は代えられず、大杉氏は私の援助を受けたが、心の中ではさだめし不本意だったことだろう。

 誇り高い大杉氏としては、少なからぬ自己嫌悪を感じながら、それを受け取っていたに違いない。

 いまならば、他人が私と同じ立場を迎えたら、黙って身を退くように忠告するだろう。

 が、当時の私は、大杉氏になんらかの謝罪をさせないかぎりは、身を退くにも退けないと思いつめていた。

 外では、無政府主義者の革命論に労働階級が不信を示しはじめている。

 彼の持論にはない無産者独裁やソビエト組織への関心が高まってくるので……焦燥の日々を送っていたことだろう。

 それに加えて、多角恋愛の始末をつけるために、自己の不明を詫びることを要求されたのだ。

 それは同時に自分の革命論の基盤を否定することにも通じている。

 みずから革命家を気取り、高い指導者的地位にあることを自負していた大杉氏にとってこれは過酷な要求であった。

 私はいまにして、自分が残酷だったことを理解している。


(同上)





 この発言は戦後、社会党の代議士になった神近の党派的発言の臭いが濃い。

『神近市子自伝 わが愛わが闘争』は、日蔭茶屋事件の五十六年後に出版されている。

 当時の関係者はほとんど他界しているから、日蔭茶屋事件に関しては、この本は長生きした神近の後出しジャンケン的記述が多いと考えなければならない。

 大杉との関係が終末に来ていることを自覚していた神近だったが、いつまでも彼女がこだわったのは、大杉が嘲笑的に言う、こんな言葉だった。


「あんたには理解がない。伊藤はよく理解している」

 この嘲笑は、私には痛かった。

 いまなら、あるいはそのときでも、他人のことであったなら、野枝女史の理解というものは、理論ではなく、愛情の上で自分が勝利者であるという自信によるものだといえただろう。

 しかし、私にはそのゆとりはなかった。


(同上)





 仲間たちから笑いものにされ、一部の人たちからは同情と憐憫を受けていることを、神近は知っていた。

 しかし、神近は同情もほしくなかったし、とくに憐憫にいたっては死んだほうがましだと考えていた。

 自殺ができるということで、神近はわずかに自分を慰めていた。

 神近が短刀を買ったのは、神田に用事があり神保町から駿河台に出ようとしたときに通りかかった刀剣店だった。

 神近は大杉と野枝が下宿している第一福四万館の部屋代を何度か立て替えた。

 大杉はダーウィンの『種の起原』の翻訳ができあがったら、その立て替え金を返すと言った。



『種の起原』の原稿料が来ると知らされた翌日、私は午前中に福四万館に電話をかけた。

 が、二人は留守だった。

 そこに、大杉氏が大金を手に入れて葉山に行ったという話をしにきた人があった。

 ……私との約束を破り、秘密にして行ってしまったことから、野枝女史がいっしょだということを私はすぐ感じとった。

 二、三の人をあたってみると、宿の名もすぐわかった。

 私はカーッとして、思わず短刀をとり出していた。

 私は混濁した気持ちで、午前中は、机の前で考えつづけた。

 午後になって、私はやはり葉山に行くことにした。

 そして三人で話をつけようと思った。

 私は短刀を鞘におさめて、手提げの中に入れた。


(同上)


 神近は「(第一)福四万館」に電話をかけたと書いているが、この時点では大杉と野枝は菊富士ホテルに移っているので、これは神近の誤記である。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:20| 本文

第223回 フリーラブ






文●ツルシカズヒコ




 以下、『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に沿って、日蔭茶屋事件を見てみる。

 大杉が初めて麻布区霞町の神近の家に泊まったのは、一九一五(大正四)年の秋だったという。


 私は自分の一生の悲劇は、恋愛というものを、本能によらず、頭の上だけでしていたことにあると思う。

 頭脳が先走っていて、現実というのものが見えなかった。

 いま考えると、私に結婚の意志があることをほのめかした男性たちは、いずれも適当で似合わしい年齢であり、人間でもあった。

 ところが、それがそのころの私には平凡で、考えてみるにも値しなかった。

 しかし、私は大杉氏によって、まったく未知の激しい流れの中に身を躍らせてしまったのである。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』/講談社・一九七二年三月二十四日)

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 堀保子という妻がありながら神近との関係を維持しようとする大杉に、神近は何度か絶交を求めたが、大杉を説得することはできなかった。

 神近はふたりだけの愛によって結ばれるか、キッパリ別れるか、どちらかの道を選択したかった。

 しかし、大杉は「フリーラヴ(自由恋愛)」の理論を述べるだけで、神近の追及をはぐらかした。

 大杉が逗子の桜山に引っ越してからは、上京するたびに神近の部屋に泊まっていくようになった。


 翌大正五年二月、伊藤野枝女史とも恋愛関係にはいった大杉氏は、それをあっさり私に告白した。

 驚きもし、悲しみもしたことは事実だが、大杉をこうまで無軌道な行為におとしたのは、自分の幼稚な感傷ではなかったかという反省もした。

 ……大杉氏とのことはなにも一生を貫く関係と考えていたわけではなかった。

 ……異性間の友情と好意とが、自然に性愛を感じさせただけだった。

 自分が男性の単なる好色的な目で見られていたのを、恋愛の感情と即断したのが重大な過ちであった。


(同上)





 神近はすぐ身を引く決心を固めた。

 新聞記者としてよい職場を持っていたし、仕事に打ち込むことで失恋の痛手を忘れようとした。


 大杉氏は、私があまりアッサリ身を退いたことによって、なにか誇りを傷つけられたような気がしたらしかった。

 同志たちの手前、単なる放蕩だとみられたくない気持ちもあったのだろろう。

「俺は多角恋愛の実験を試みているんだ。君がついていけないのは、思想的未熟のゆえだ」

 と論難して、私を困らせた。


(同上)





 大杉との議論に負けた神近の決心はもろくも覆され、多角恋愛の一員として留まることになった。

「新聞は公共の仕事ですから、恋愛なんかが問題になります」という、小野賢一郎の言葉に異議を唱えることができなかった神近は、東京日日新聞社をクビになった。

 失職した神近は小野の紹介で、結城礼一郎の私設秘書の仕事をすることになった。


 私と伊藤野枝女史は、ほとんど対蹠(たいしょ)的な過去と性格を持っていた。

 早熟で才気ばしっていて、小さな身体に似ず、思いがけない大胆さを発揮できるのが野枝女史であり、年上で身体も大きいのに、臆病で魯鈍で神経質なのが私だった。

 その二人が困難な関係につながれ、無理なポーズを見せ合わなくてはならないのだから、敵意はたがいに強く、調和できないのが当然だった。


(同上)





 神近は問題を解決したい一心で、四谷区南伊賀町の大杉と保子が住む家を訪れ、保子と面会をした。

 保子は一杯の茶も出さず、「お前たちが起こしたことは、お前たちで解決をつけろ」と言った。

 神近はすごすごと帰るしかなかった。

 大杉はフリーラブの主張を繰り返すばかりだった。

 ●おたがいに経済上独立すること

 ●同棲しないで別居の生活を送ること

 ●お互いの自由(性的すらも)を尊重すること

 しかし、病身の保子に経済的な独立を求めることは鼻っから無理であり、乳飲み子の流二を連れて辻の家を出た野枝にも金策の目処がなかなか立たなかった。



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:08| 本文

第222回 豚に投げた真珠






文●ツルシカズヒコ



 思い迷っていた神近は一度、蒲団から起き出し、大杉を起こして自分の頭に往来している気持ちを話し、その上で自分と別れてくれないかと頼んでみようかと考えた。

 しかし、大杉の思い上がった他人を侮蔑した態度、それに長い間苦しめられてきた神近の心がこう叫んだ。

「まだおまえはあの男の悪意を見定め足りないのか!」

 黙しながら蓄えてきた彼女の怨恨が、そのとき一度に爆発した。

 彼女は一度、寝床に帰って来た。

 その方が凶行を行ないよいように思ったからだ。

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 実際に刺した瞬間だけ私は失神してゐたやうで、前後から記憶が絶たれて了つてゐるが、仰向けに寝てゐる彼は唯一突きであつた。

 ……逆手に突いた為めに充分に力が入らなくて気管にも動脈にも致命的な傷を与へるには、今五分ほど傷口が足りなかつた。

 私はこれは後で聞いた。


(「豚に投げた真珠」/『改造』一九二二年十月号/『神近市子文集1』・武州工房・一九八六年))





 神近は目的を達し、長いこと彼女の身体を包んでいた鬱憤を晴らしたと思った。

 彼女はその短刀で自殺しようと思って、少し離れて大杉が死ぬ様子を見ていた。

 すると大杉がフトと目を覚ました。

 大杉は「ウウ」と言って蒲団の中から手を出して傷口にあてていた。

 そしてその手を電気の光に透かして見て、それが血であることに気付くと「ウワッ」と魂の底から絞り出すような驚愕と悲しみの声を上げ、大声で泣き出した。


 大杉氏の記事ではこゝが稍々(やや)新派の芝居がゝりで、『待てーーー』と叫んだことになつてゐるが、事実は反対に彼は大声に泣いてゐた。

 そしてこの瞬間に私はもうこれで好ひと考へた。

 この男は、今こそ自分でやつたことが何を(ママ)値してゐたかを知つたのだ。

 私は彼の全心が私に加へた欺瞞に対して詫びてゐることを知つた。


(同上)





 神近は大杉に短刀をたたきつけ、廊下に出ると、大杉が彼女の後を追ってきた。

 神近が新築の建物の二階の明るい電気の光でもう一度大杉の顔を見ると、死の恐怖と絶望のためにその顔は醜くゆがんでいた。

 白い寝衣の上には血がだらだら落ちてかかった。


 ……彼の全心が私に加へた欺瞞を後悔して詫びてゐると考へた後私は急に悲しく感じ出した。

 彼を、殺して了つたことを済まなく考へ出した。

 私が『許してください』と云つたと彼は書いてゐるが、私には少しもその記憶のないところを見れば、この時に無意識に云つたものでゝもあらうか。


(同上)





 さらに前の座敷の方へ引き返したとき、神近は便所に倒れてしまった。

 彼女がフト気がつくと、大杉が泣きじゃくりながら玄関の廊下を曲がって行くところだった。

 神近は便所の前を一直線に風呂場に出て、そこの北口の戸が造作なく開いたので、戸外に出た。

 秋の雨が音もなく静に降っていた。

 庭に出た彼女は門を開け、街道に出た。

 街道を一直線に右の方へ走った。

 ある家の垣根のようなところに突き当たった神近は、そこに倒れてしまった。

 半分意識を失ったまま彼女は、そこに小一時間ほどいた。

 気がつくと、垣根の枝から雨だれがポトポト顔にかかっていた。

 急に何事かを思い出し、宿の方に駆け出したが、大杉が死んでしまったことを思い出し、すぐに逗子の方に取って返した。

 そのときにはもう、海に投じてもよいとほどの自殺の決心は強くはなかった。

 神近は未決監にいたとき、弁護士の勧めで事件の当夜に交わされた会話など当時のことを手記していたという。





 今それをとり出して一枚々々繰つて見ても『お化を見た話』に書いてあるやうな淫蕩な笑ふべき会話や卑屈な恥づべき会話を口にしてはゐない。

 そしてまたそれを敢へてしたと云ふ記憶も私にはない。

 私が肉を求めたという事は虚妄も甚しい。


(同上)


 以上が「豚に投げた真珠」を通して見た日蔭茶屋事件である。

 大杉が書いた「お化を見た話」とは、事件の見え方がだいぶ違っている。

 が、しかし、同じ神近が書いたものでも、一九一七年に書いた『引かれものの唄』と一九二二年に書いた「豚に投げた真珠」では微妙に事実関係が違う。

 さらに、日蔭茶屋事件から五十六年後の一九七二年に出版された『神近市子自伝 わが愛わが闘争』にも、『引かれものの唄』と「豚に投げた真珠」と違う記述がされている。


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:39| 本文

第221回 短刀






文●ツルシカズヒコ

 大杉が書いた「お化を見た話」が掲載されたのは『改造』一九二二年九月号だったが、この「お化を見た話」の反論という形で神近が書いたのが「豚に投げた真珠」で、同誌の次号(一九二二年十月号)に掲載された。

「豚に投げた真珠」に沿って日蔭茶屋事件を追ってみたい。

「豚に投げた真珠」によれば、神近は十一月七日、午後三時くらいの汽車で葉山に向かった。

 裁判では神近は野枝が日蔭茶屋に来ていることは知らなかったということで通したが、実は大杉が野枝と一緒に来ていることも、大杉に金が入ったことも知っていた。

 一九一六(大正五)年五月以降、神近は大杉に八十円の金を都合している。

 野枝が御宿の上野屋旅館を引き上げることができず、当惑していたときに、その四十円の金も神近がこしらえた。

 野枝の二度の大阪行きの旅費をこしらえたのも、神近だった。

 野枝と下宿にゴロゴロしていた大杉の身の回りと小遣いの一切を用立てていたのも、神近だった。

 葉山に出かけるとき、神近はすでに自殺を覚悟していた。

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 大杉氏の嘲笑をうけるやうになつたことは、私には全く意外であつた。

 私は彼に同情と思ひやりをこそ予期すれ、彼によつて嘲笑を加へられやうとは覚悟してゐなかつた。

 私はこの怨念を長く黙して魂の奥深く蓄へてゐた。

 死を決した時、私は心がカラツとして此上もなく愉快であつた。

 只残つている問題は彼を殺して置いて、自首するか一人で死ぬかその問題だけであつた。


(「豚に投げた真珠」/『改造』一九二二年十月号/『神近市子文集1』・武州工房・一九八六年))





 神近は当初、兇器としてピストルを使用するつもりだったという。

 ピストルを入手してくれたのは甥(従姉の子)だった。


 甥は私に発射の仕方を教へる為めに、ある晩私を程近くの青山の墓地に連れ出した。

 そして墓地の奥で私は大地に向かつて発射した。

 けれどあの仰山な音響がタツタ一度で私の神経を極度に興奮させて了つた。

 私は手が震えて二度と発射することが出来なかつた。


(同上)





 神近が犯行に使用した短刀は「生毛屋」のものだった。

 十一月八日の午後、神近は日蔭茶屋の裏山に登って、手許が狂わぬように大型のハンカチを短刀の柄に結びつけた。

 神近はその日、これが最後の夜と考えて湯に入った。

 清潔な下着に着替え、入浴前に身につけていた下着は日が暮れてから海に捨てた。

 床につこうとすると、大杉は神近に戯れようとするほど機嫌がよかった。

 神近が発している殺気を緩和するための方便のように、彼女は感じた。

 軽い愉快な気持ちにはなれない神近が黙って寝床に入ると、大杉も続いて床についた。

 神近は蒲団の中で懐ろの短刀の鞘を払って、そっと敷き布団の間に入れた。

 そして、大杉に訊ねた。

「あなたは私に何か話をしたいことはありませんか」

 彼女はこのころずっと続いていた大杉の不誠実さの説明を、本人の口から聞きたかったのだ。

「あなたの方から何か話してくれることはないかという請求がある以上、何かあなたの方に聞きたいことがあるというのだろう」

「ありますとも。あなたは一人の男を挟んで、二人の女が昨日からのような気持ちで暮らすことは、浅ましくいやなことだとは思いませんか」

「浅ましいと思うよ」

 良心に触れられた大杉は、開き直って傲慢を装った。

「浅ましいと本当に思うなら、浅ましくないようにすれば出来るのではありませんか」

 神近はさらに、大杉の急所を突いてきた。

「私があなたに出した金があるからって、私の言うことを誤解なさっては困りますよ。どんな気持ちで、私が金を出したかそれはあなたも忘れはなさらぬでしょう。あなたはこれまで野枝さんと一緒にいるのは二人とも金がないからで、金さえ出来ればその日のうちにでも別になるのだと長いこと私にいっておいでになった。その金は一週間前に出来ているのに、あなたはそんなことは夢にもいったことはないような風をしていらっしゃる……」





 疲労と興奮のためにウトウトした神近が目をあけると、大杉は雑誌を読んでいた。

 神近にはもうひとこと言うべきことがあった。

「あなたは仲直りをしようとはいわないでしょうね」

「そうさ、自分が勝手なことを言って他人を怒らしておいて、仲直りしようとは思わないかもないもんだ。もうあなたとの恋愛はおしまいだ」

「私の言ったことは、あなたにそんなに勝手なことに聞こえましたかね。けれどどうしてそんなに怒ってしまったんです」

「なぜ怒るって。君が金がどうした、とか言ったろう。僕の金の貸しがあるからそう言うのだろう」

「それは違います。私は、ただ金がないときに、金があればああするこうすると言っていらしたことを、金ができてもあなたにはする考えがないでしょうと、あなたに確かめたかったのです……」

 神近の言葉を遮るように、おっかぶせるように、大杉が言った。

「何にしても金の話まで出ればたくさんだ。金は明日返す」

 いよいよ最後が来たことを知った神近は、敷き布団の下の短刀を探っていた。

 短刀を握ったまま、彼女は三時まで待った。

 大杉はスヤスヤとよく眠っていた。



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)など。
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