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2016年05月15日

第177回 ねんねこおんぶ






文●ツルシカズヒコ


 大杉と堀保子は前年一九一五(大正四)年十二月、小石川から逗子の桜山の貸別荘に引っ越していた。

『近代思想』(第二次)一月号(第三巻第四号)が発禁になったので、大杉は一九一六(大正五)年一月二日にその対策のために逗子から上京し、翌一月三日に吉川守圀の家に同人たちが集まり、協議した。

 大杉が大塚坂下町の宮嶋資夫宅を訪れたのは、その夜十二時近くだった。


「今夜は一寸報告にやつて来た。それは神近と僕とのことだが」と云ふ切り出しで、神近と関係の生じた事を話した。

(「予の観たる大杉事件の真相」/『新社会』1917年1月号・第3巻第5号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』)

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 一月四日の夜に逗子に帰宅した大杉は、妙に萎(しお)れていた。

 堀保子が大杉と神近との関係を知ったのは一月六日の夜だった。


 ……大杉は何と思つたか、曽て神近が京都に行つた時、土産に持つて来てくれた御大礼の春日灯籠を取つて放りつけたり、古い目ざまし時計を川の中に投げこむだりするので、ハテ変な事をするわいと思つて、一體あなたは何でそんなに不機嫌なのかと改めて聞き糺すと、『ナニ僕が悪いのだ、僕が悪いのだ』と云つて又悄(しほ)れて了ふのです。

 それで私も少し疑念が起り『あなたは岩野さんの様な事をしてゐるんでせう』と突込みますと、大杉は何時もの癖の楽書をしながら、只ウンと云つて頷くのです。

『相手は誰です』と云ふと、『それは聞かんでくれ』と云ふのです。

 其時私はフト胸に浮かんだまま『神近でせう』と云ふと、大杉は又ウンと云つて頷くのです。

 私は真逆と思つた事が本人に承認されて、一度に冷水を浴せられた様な気持がしました。

 そしてアア聞かねばよかつたといふ心地もしました。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p8)





 保子は大杉にこの結末をどうするのだと迫った。


『……所謂魔がさしたとでもいうのだらう。然し此事件を余り重く見てくれては困る。彼女には屈辱的な条件をつけてあるのだから安心してくれ』と泣いて詫びるのです。

 私の不安は其れ位ゐで取去ることは出来ません。

 此から後どうする積りかと更に詰問すると、『堺君にでも行つてみたらどうか』といふのです。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p8)


 一月八日に保子は上京し、堺や荒畑や宮嶋に相談した。

 堺はこの際、きれいに別れたらどうだと言った。

 荒畑と宮嶋は真面目な関係とは思えないから、しばらく様子を見てみたらどうだといったようなことを言った。

 保子はともかく、大杉と別居することを考えずにはいられなくなった。





『青鞜』誌上で交わされた廃娼論争をきっかけに、青山菊栄と野枝が対面したのもこの一月だった。

 菊栄はその経緯をこう書いている。


 最初、私と野枝さんとを会はせたがつたのは大杉さんだつた。

 たしか大正四年の暮のこと、野枝さんが『青鞜』へ発表した感想文に私が無遠慮な批評を加へ、更に野枝さんがそれに答える文章を発表したことがある。

 当時私は大杉氏らの組織してゐた月二回の社会問題の研究会『平民講演』に出席してゐた関係上、大杉さんと心易く、大杉さんは又野枝さんと懇意だつた。

 それで大杉さんは私に向かつて『野枝さんに会つて見ませんか、きつといゝ友達になりますよ、』としきりに勧められたので、兎(と)も角(かく)も会はう、そして会つて双方の論点を明らかにしようといふことに極(きま)つた。

 ところが大正五年の一月、定められた会見の前に、私は神近市子さんに案内されて生れてから今日まで只一度、歌舞伎座といふところをのぞいて見た。

 丁度其時野枝さんも来合せてゐたので、予期せぬ初対面をした。

 野枝さんはたつぷりした髪をいてふ返しに結びカスリの着物にお納戸色の無地お召(めし)の羽織をなまめかしく着流してゐた。

 其格好が『青鞜』あたりで気焔を上げる新時代の婦人に似つかはしくない、伝統的な下町趣味を思はせたが、それにしては野枝さんその人の、何となくギゴチなくて粗雑な、生粋の江戸ツ子とは思はれぬ、銑錬(せんれん)されない感じと不調和でーー露骨に云へば地方出の料理店の女中でも見るやうな気がした。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p14)


 野枝、菊栄、神近の三人の歌舞伎座での対面については、神近も『引かれものの唄』で言及している。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と菊栄が小石川区指ケ谷町九二番地の野枝宅を訪れたのは、一月十五日だった。

 菊栄がその日のことを、こう記している。


 其後(※歌舞伎座での対面後)、約束の日に私が訪問すると、大杉さんは定めの時間よりよほど早く来てゐた様子で、青鞜の編輯室を兼ねた三畳の玄関の、雑誌や原稿で埋つたやうな部屋の中に、皿小鉢の並んだ小さな食卓を間にはさんで、野枝さんの当時の良人(りようじん)辻潤氏と差向ひで雑談に花を咲かせてゐた。

 野枝さんは赤い手柄をかけた丸髷に結ひ、濃い紫の半襟から白粉(おしろい)のついた襟首をのぞかせ、黒繻子(くろじゆす)の襟のかゝつた着物を着、生れて程ない赤ん坊を抱きながら家事と客の接待のために忙しく出つ入りつしてゐた。

 其日の野枝さんは全く忠実な可愛らしい『おかみさん』といふ感じがした。

 一体其日は、野枝さんと私が『青鞜』で論じ合つた問題の中心、即ち売淫制度の問題、及び社会運動と個人の改善との相対関係について互(たがひ)の意見の異同を明白にするために会見する約束であつたに拘らず、誰も彼もそんなことはオクビにも出さず、正月気分で呑気に酒盛りをしてゐるので、私は少々ヂレ出した。

 辻さんはチビリ/\と盃(さかづき)をふくみ、野枝さんは時々下物(さかな)を運んだりおかんを取(とり)かへたり序(ついで)に二言三言(ふたことみこと)愛嬌をいつては引込んだきり出て来ない。

 男同士の世間話に時が移る許(ばか)りなので、私は時計を見て内々憤慨し始めた。

 やつと灯(ひ)のつく頃ーー会見は三時の約束だつたーー野枝さんが暫(しばら)く話の仲間入りをする様子だつたので、肝心の話を始めて見た。

 しかし其場の気分はモウそんな真面目な固苦しい問題をを議論し批評するには全然不適当になつてゐた。

 その上、『私はそんなこと専門的に研究したことがないんですから分りません。』『でも私たゞ何だかそんなやうな気がするんです。』『でも私にはそんな風に感じられるんですから仕方がありません。』

 私の質問や弁駁に対する野枝さんの答へは、いつもかういふ調子でつかまへどころがなく、一向気乗りがしないので、私も面倒になつてしまひ、たうとう肝心の問題はあやふやのうちに、雑談と混線して行方不明になつてしまつた。

 その夜は『平民講演』の例会の日だつたので、私は幾度(いくたび)か大杉さんを促したが、『まだいゝ、まだ誰も来ちやゐるまい』といふやうなことで中々立たうとしない。

『では私だけお先へ』といふと『マアお待ちなさい、一所(しよ)に行(ゆ)きませう』といふ。

 余り遅くなるので気をもむと、『ドウです、今夜は序(ついで)の事に此処(ここ)で遊ばうぢやありませんか、』と来る。

『でも私はどうしても会の方へ行きます。あなただつて皆さんが集まつてあなたのお話を待つていらつしやるのですから一寸(ちよつと)でもお出にならなけりや悪いでせう、とにかく早く行きませう、』

 こんなことを幾度(いくたび)かくり返してやつと大杉さんが重い尻を持上げたのは七時過ぎだつた。

 それから池の端の集会場へいく途中、大杉さんは、私が頻(しき)りに保守的、退嬰(たいえい)的、独善的だとして斥(しりぞ)けた野枝さんの思想上の立場を色々に弁護し説明して、野枝さんの其当時の境遇に非常に同情を表してゐた。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p14~15)

 以上は七年後、大杉と野枝の死の直後の菊栄の追悼文の一節だが、菊栄晩年の回想である『おんな二代の記』では以下である。





『青鞜』に出た私の批評を見て大杉さんは、「いちど野枝さんに会ってごらんなさい、いい友達になりますよ」と、連絡をとってくれたので、お正月のある日、私は約束の時刻に野枝さんの家にいきました。

 若い野枝さんは、小さなからだに大きな丸髷、赤ちゃんをねんねこおんぶにして、大きくふくれた背中を、子供のように小さく、いじらしい町のおかみさん風の姿でした。

 玄関の三畳の間が『青鞜』の編集室で、まわりには新聞や雑誌や原稿などが乱雑につみ重ねられ、小さなチャブ台を間において、辻潤氏と向いあわせに、あがり口の障子に背をおしつけ、身動きもできないほど狭い中に、大杉氏と私が坐りました。

 野枝さんはあいさつもそこそこにひっこんだきりでしたが、しばらくするとポツリ、ポツリお皿、小鉢をはこんでくる。

 午後のことで食事どきでもないのにと思っているうちにお酒が出てくる。

 野枝さんは徳利をもってイソイソと出たりはいったり、男たちにお酌をしたりするばかり。

 私はがまんができず、大杉氏に、野枝さんと話をする約束で来たのだからと催促すると、もうすぐです。

 もうちょっとというばかりでらちがあきません。

 そのうち野枝さんが坐ったのでときをはずさず、私は、公娼は当然廃止すべきだと思わないか、あの公然の人身売買、業者の搾取を国家公認の制度としておくことを正しいと考えるか、その他聞きにかかると、野枝さんは、「私そんなこと調べたことないんですもの」と興味のなさそうな様子で、おかん徳利をもって立ってしまいました。

 私はじりじりして何度も帰りかけましたが、「いっしょにいきますからもう少し」「ちょっと待ってください」と大杉氏にひきとめられました。

 やがてやっと外に出ると電灯の火がちらつきはじめていました。

 その夜、池の端には例の研究会があるはずでしたが、雑談会のようで、知った人もなくつまらないので私は早く帰りました。

 来あわせた中に婦人は中年の人がひとりきり。

 その人は歌舞伎の舞台からぬけ出して来たような江戸女で、いちょう返しにさんごじゅの根がけ、黒じゅすの襟のかかったきもの、物いい、身のこなし、まったくきっすいの下町っ子で、かつて馬場先生が「荒畑の細君はイキな人だとはきいていましたが、なるほど大したもんですなあ」といわれた、その荒畑夫人おたまさんでした。

 その数日後、どこだったかの招待の劇場でまた野枝さんにあいました。

 この日の野枝さんは子供を家において来て、いちょう返しに錦紗の羽織をひっかけた粋づくりでしたが、荒畑夫人とちがって、つけやきばの下町好みで板につかない感じでした。

 美人というのではなくても、愛くるしくチャーミングなところのある野枝さんの魅力は、田舎の女学生そのままの、野生的で健康で、野花のような新鮮さにあるのではないかと思いましたが、大杉氏は野枝さんをあんな境遇におくのはかわいそうだ、みじめで見ていられないと同情していましたが、そのとき大杉さんにとっては、公娼よりも、野枝さんの解放の方が問題になっていようとは、勘のわるい私のしらないことでした。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p216~218)


「その数日後、どこだったかの招待の劇場でまた野枝さんにあいました」とあるが、これは歌舞伎座での野枝、菊栄、神近の対面のことであろう。

 とすると、『おんな二代の記』では、この歌舞伎座の対面が菊栄が野枝宅を訪問した「数日後」になるが、『婦人公論』掲載の「大杉さんと野枝さん」では歌舞伎座での対面後に野枝宅を訪問したとある。

「大杉さんと野枝さん」記述の方が、菊栄の記憶が鮮明だったと思われるので、菊栄は歌舞伎座での対面後に野枝宅を訪問したと推測する。





 このころ教育雑誌の訪問記者から取材を受けた野枝は、自分の小学校時代について、こんなコメントをしている。

 野枝の肩書きは「青鞜主筆」である。

 
 私の小学校時代に、一番厭な思ひをしたのは、先生と先生との喧嘩の飛ば散りが生徒に及んだ事でありました。

 ……私達の受持ちの女の先生と、一つ下の組の女の先生とが大変に仲が悪くて……その一つ下の組の先生が図画の時間にだけ私達の組へ授業にいらしたのですが……始から終迄お小言の言ひ続けで……廊下で逢つても、何時も恐い目で睨みつけられるので毎日々々皆が不愉快に過しました。


(「教育圏外から観た現時の小学校」/『小学校』1916年1月15日・第20巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p312)


 これは野枝が「嘘言と云ふことに就いての追想」で書いている、周船寺高等小学校四年時に体験した例の事件のことである。



★『宮嶋資夫著作集 第六巻』(慶友社・1983年8月)

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』・法木書店・1917年10月25日の復刻版)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:04| 本文

第176回 公娼廃止






文●ツルシカズヒコ



 一九一六(大正五)年一月三日、『大阪毎日新聞』で野枝の「雑音ーー『青鞜』の周囲の人々『新しい女』の内部生活」の連載が始まったが(〜四月十七日)、肝心の『青鞜』一九一六(大正五)年一月号の表紙は文字だけになった。

 野枝は読者に向けて、こう書いている。

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 私は自分で編輯するこの雑誌を、出来る丈(だ)け、立派なものにしたひと思ひます。

 けれども如何に、私が自惚(うぬぼ)れて見ましても本当に貧弱な内容しか持つことが出来ません。

 私一個の微力では勿論どうしても読者諸君を満足させるやうな大家の執筆を乞うことは出来ません。

 目次にならんだ人達はまだ世間の表に立つていゐない人の方が多数を占めて居ます。

 私自らはこの雑誌自身に単なる苗床としてより以上の何の価値も求めやうとはしません。

 此処に芽を出した苗がどんな処にうつされ、どの苗がどう育つてゆくかーー未成品ーーと云ふことに興味をもつて下さる方に初めてこの雑誌は雑誌自らの存在の意義を明らかにするのです。

 私はかう云ふ負け惜しみな理屈を楯に何と非難されても相変らず貧弱な雑誌を倦きずにこしらへてゐるのです。

 ーー編輯者ーー


(「読者諸氏に」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p301)





『青鞜』同号に青山菊栄「日本婦人の社会事業に就いて伊藤野枝氏に与ふ」が載った。

『青鞜』前号の野枝の「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」への反論である。

 菊栄は野枝の矯風会批判は認めながら、公娼制はなくならないとする野枝を批判、不自然な淫売制度の全廃を主張した。

『青鞜』同号に野枝は菊栄への反論を書いた。

 野枝の言わんとするポイントを拾ってみる。





 ●私があれを書いた時に主として土台にしたのは矯風会の人たちの云ひ分でした。

 ●私はそれ以外に深く考へることをしなかつたのは私の落ち度ですが彼(あ)の人たちからはさう云ふ深い事は聞きませんでした。

 ●根本の公娼廃止と云ふ問題はあなたの仰つしやるやうな正当な理由から肯定の出来る事ですが、私は矯風会の人達の云ひ分に対しては矢張り軽蔑します。

 ●先づ、何より先にあなたに申あげなければならない事は、私が公娼廃止に反対だと云ふ風にあなたが誤解してお出になるらしい事に就いて、私は左様(そう)ではありませんという云ふことです。

 ●……あなたはそれを男子の身勝手と云ふ簡単の言葉で片づけてお出になりますが、私は男子の本然の要求が多く伴つてゐると云ふ主張は退ける事が出来ません。

 ●……あなたは人間の本当の生活と云ふものがそんなに論理的に正しく行はれるものだと思つてゐらつしやいますかと私は反問したい。

 ●あなたはあんまり理想主義者でゐらつしやいます。

 ●「男子の本然の要求だからと云つて同性の蒙(こうむ)る侮辱を冷然看過した」とあなたはお責めになるけれども、看過(みすご)せない、と云つてどうします。

 ●私は本当にその女たちを気の毒にも可愛さうにも思ひます。

 ●けれども強制的にさうした処に堕ち込んだ憐れむべき女でさへも食べる為、生きる為と云ふ動かすことの出来ない重大な自分のために恬然(てんぜん)としてゐます。

 ●彼女等をその侮辱から救はうとするのは他に彼女等を喰べさせるやうな途を見付けてからでなくては無智な、何も知らぬ女たちにとつてはその御親切は却つて迷惑なものではないでせうか?

 ●「人間の造つた社会は人間が支配する。」と云ふお言葉は尤もに聞こえますがその人間を支配するものがありますね、その人間を支配する者が矢張り社会も支配しはしないでせうか。

 ●社会は人間が造つたのでせうけれど人間は誰が造つたのでせう?

 ●果して人間は何から何まで自分で自分の仕末の出来る賢い動物でせうか?

 ●まあ一寸(ちょっと)考へて見ても人間は時と云ふものに駆使されてゐます。

 ●権力者の造つた制度が不可抗力だなどゝ云つた覚えは更に私にはありません。

 ●権力者たちの造つた制度のなか/\こはれないのはせい/″\時の問題位なものです。

 ●それ丈けの制度の根を固める為めには権力者たちも相当な犠牲を払ひ骨折をしてゐるのですからいくら不自然だつて何の償いもなしにその株に手をかける事は許されない道理でせう?


(「青山菊栄様へ」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p302~307)





 山川菊栄は後に、この野枝との論争についてこう回想している。


 その冬、私は野枝さんが『青鞜』に書いた婦人矯風会の廃娼運動に対する批判が、いかにも無責任な放任論に思われたので、『青鞜』に投書して批評しました。

 私は救世軍や矯風会の救済事業が万全の売春対策だというのでなく、売笑の根本的な解決は別として、封建時代そのままの遊郭制度、公然の人身売買、業者の搾取を放任すべきでないと考えたのです。

 私の家は麹町で四谷あたりへよく買物にいきましたが、そのころはまだ新宿の表通りが遊郭で、遊女屋の定紋つきののれんと格子窓の様子は浮世絵そのまま、入口にはうち水、もり塩、昼間は夜中のように静かでうす気味が悪かったものです。

 品川の遊郭も同様でしたし、深川に住む友達の案内で二、三の友達と洲崎の遊郭をこっそり見学したのもそのころ。

 まだ張見世のあった時代で、電灯の光をあびて、らんまに墨くろぐろ「初見世」と大字の張紙のある下に赤いきもので坐っていたおしろいの娘の顔は、生きながらの獄門、さらし首のようでした。

 それは私の子供のことから新聞でよくみた娼妓の逃亡、自由廃業、業者と警察や有力者とのなれあい、自廃をたすける人々への暴力ざたなどを思わせずにはおかず、これを国家公認の制度として維持することは絶対に許すべきでないと思われました。

 ところが野枝さんの批評は、そういう問題の核心にはふれず、ただ矯風会の廃娼運動は無意義だ、不徹底だという一言でかたづけていたので、私は黙っている気にならなかったのでした。


(山川菊栄『おんな二代の記』_p215~216)





『青鞜』一九一六年一月号「編輯室より」から野枝の言葉を拾ってみる。


 ●もう私が雑誌を譲り受けまして丁度一年になります。どうかしたい/\と思ひながら微力で思つた十分の一も実現することがなく無為に一年を過しました。

 ●今月号も新年号の事とてどうにかしたいと思つてゐましたが何しろ、私が帰京しましたのが十二月五日か六日だつたのにそれから一週間ばかりの間は咽喉をはらして食事をすることも話をすることも困難になつて何も出来ませんでした為めに、……今度もまたおはづかしいものをお目に懸けます。

 ●けれども私も身軽になつてかへつて来ましたからこれからは少し懸命に働きたいと思つてゐます。

 ●平塚さんは九日にお嬢さんをお産みになりました。哥津ちやんも一日ちがひに男のお子さんをお産みになつたさうです。まだ会ひません。

 ●平塚さんのお産をなすつた翌日位に何でも新聞記者が訪ねて行つたのを附添の人が知らずに上げました処、「御感想は?」と聞いたさうです。

 ●私はあんまりの事に本当に怒りました。何と云ふ無作法な記者だらうとまだお見舞いの人も遠慮して得ゆかないお産室に、一面識もない者が新聞の材料をとりにゆくつて、何と云ふ人を侮辱した仕方でせう。

 ●私は頭が熱くなる程、腹が立ちました。

 ●平塚さんは洗面台の上にのせた花の鉢を指さして、「この花と私の感想を交換するつもりで来たのですよ、私は苦しいと云ふより他何の感想もありませんつて云つてやりました」と話されました。

 ●私はさうした侮辱も黙つて許してお聞きになる平塚さんの気持を考へてゐると涙がにじんで来ます。

 ●私は「雑音」と云ふ題で……長篇を書きはじめました。青鞜に載せるのが私の望みでしたけれども……大阪毎日に連載することにしました。

 ●それは私の見た青鞜社の人々について私の知るかぎり事実をかくのです。私はそれによって幾分誤解された社の人々の本当の生活ぶりが本当に分るやうになるだらうと思ひます。

 ●それでいろ/\なものを見、考へてゐますと、私の入社当時から今日までにも本当に、おどろくべき変化が何彼につけて来てゐます。

 ●あんなにさはぎまはつてゐた紅吉(こうきち)さんは今は御良人と静かな大和に、子供を抱いてしとやかな日を送るやうになつたのですもの、あの文祥堂の二階で皆してふざけたり歌つたり、平塚さんのマントの中に入れて貰つて甘へたりした私が二人の母親に、他の皆も母になつたりした事を考へますと僅かの間にと、本当におどろいて仕舞ます。

 ●驚くと云ふよりは不思議な気がします。

 ●岡田八千代様、長谷川時雨(しぐれ)様のやうな立派な方が何と云つてもまだ未成品の私共と一緒に筆をとつて下さることを本当にうれしく感謝いたします。


(「編輯室より」/『青鞜』1916年1月号・第6巻第1号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p309~311)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:59| 本文

第175回 婦人矯風会






文●ツルシカズヒコ




「死灰の中から」によれば、大杉は七月末に野枝が出産のために帰郷したことは知っていた。

 大杉は忙しかったので、野枝が帰郷する一ヶ月ほど前から彼女に会う機会はなかった。

 十月、大杉は第二次『近代思想』を復活号として発刊した。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、宮嶋資夫が調布に移転して発行人となり、編集人・大杉、印刷人・荒畑である。

 しかし、『近代思想』は十一月号、十二月号と連続して発禁になった。

 十二月十五日、大杉と保子は逗子町桜山に移転した。

『近代思想』発行人としての、保証金減額のためである。

 大杉はこの夏以降の野枝との関係については、こう書いている。

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 七月の末に彼女はTと一緒に九州へ行つた。

 又妊娠してゐるやうだつたから、多分郷里で生むつもりで行つたんだらうと思つた。

 彼女からは、此の逗子に来てからは、ただ一度はがきが来ただけだつた。

 僕も其の時に一度だけ、はがきを出しただけだつた。

 時々僕は、彼女の二通の手紙を出しては彼女に親しんだ。

 しかし、先きに云つた程の恋の熱情も起らず、又其の熱情を生んだセンテイメンタルな幻想も余程薄らいで了つた。

 僕は毎週一回、二三日づつ上京して、友人の家を泊り歩いてゐた。

 そして……僕の家に出入りし、僕等の集会にも来、雑誌の手伝ひもしてゐた、T新聞婦人記者I子とあはい恋に戯れてゐた。


(「死灰の中から」/『新小説』1919年9月号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』)





「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、大正天皇即位の大典を前に、一九一五年四月に開かれた日本基督教婦人矯風会第二十三回大会において、同会は席上に醜業婦を同席させない、六年後に公娼を全廃するという二項目を決議した。

 野枝は「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」を『青鞜』十二月号に書き、上流階級の婦人たちによって組織された婦人団体の慈善を「虚栄のための慈善」と批判し、その一例として「婦人矯風会」をあげ、同会の決議に異議を唱えた。

 そもそも野枝の売買春に対する考えは、そう簡単にこの世の中からなくせるものではないというところからスタートしている。





 ……実は偉大なる自然力の最も力強い支配の下にある不可抗力である。

 それは到底わづかな人間の意力や手段では誤魔化せない正真正銘のねうちを失ふことのない力である。

 ……あゝした業が社会に認められてるのは誰でもが云ふ通りに矢張り男子の本然要求と長い歴史がその根を固いものにしてゐる。

 それは必ず存在する丈けの理由を持つてゐるのである。


(「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p292)


 公娼と私娼に関しては、「婦人矯風会」はまず公娼廃止を主張しているが、野枝は公娼より私娼の方が社会の風俗をよりいっそう乱すと主張している。

 ……いまはしい恐るべき病毒の伝染と云ふこと、それから世間の子女をたやすくさういふ商売に導き入れると云ふこと、一寸(ちょっと)考へた丈けでもよほど社会に悪影響を及ぼす力は私娼の方にありさうに私には思はれる。

(「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業に就いて」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p293)


 要するに野枝は、この時点では公娼制度を必要悪と考えていたのだろう。

 この野枝の書いた文章をきっかけに、『青鞜』の最後を飾る廃娼論争が起きることになる。
 




 野枝と辻がふたりの子供を連れて帰京したのは十二月五日、六日、そのあたりである。

 らいてうが第一子、長女・曙生(あけみ)を出産したのは十二月九日だった。

 難産だったため、らいてうの病室には面会謝絶の札が出されたが、それを無視して毎日のように産褥のらいてうに新聞記者が取材に押しかけた。

 恋愛の自由、新しい性の道徳を唱え、因襲結婚に反抗し、法律上の結婚を拒否しているらいてうが、ついに私生児を生んだ……というニュースのネタになったのである。

 野枝も憤っている。


 見舞いに来てくれた伊藤野枝さんはひどく憤慨して、「なんて失礼な非常識な奴でしょう。私がいるとき来たらうんと言ってやる」と、涙さえ浮かべていました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p583)





 大杉は毎週日曜日に開かれるフランス文学研究会の講義をするため、毎週一回、二、三日ずつ上京し友人の家を泊まり歩いていた。

 大杉はフランス文学研究会と平民講演会に出席していた神近と顔を合わせることが多くなり、ふたりの仲は急接近した。

『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は十二月二十日に広尾の神近の家で半日過ごし、十二月二十六日には神近の家に泊まった。

 神近が大杉に惹かれている自分を意識したのは、このころからだった。





(※十二月二十日)私共は静かに話しました。

 大杉さんはその前夜あつた文士の或る会合で、ある先輩が自分と私との関係が可笑しいと云ひ出した事だの……自分の気持の話をされました。

 そして大杉さんに対しては好く戯談を云つてゐた私が「噂を事実にやりますかね」と軽く諧けたのも私は云ひ落しますまい。

 ……半分は平生の軽い戯談と、半分は打つ突つて行かうと為る気持で云つた事も。

 半日を種々な話に過して、一緒に家を出かけました。

 途中で用を足してから逗子に帰るあの人を新橋に見送りました。

 恋人同士の様だと笑い乍ら。

 それで次の日曜日(※十二月二十六日)に私は大杉さんと二人になる機会を造へ様と決心しました。

 その日曜日は丁度雑誌の校正の出る日で、私は以前から校正丈は手伝つてゐましたから、仏蘭西語が済むと一緒に印刷所に出かけました。

 そして仕事を少しやつて、大杉さんの親しい日本橋の或る料理屋に食事に行く事にしました。

 かうして私は極めて静かな気持で恋愛に入つて行きました。


(神近市子「三つの事だけ」/『女の世界』1916年6月号/安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』_p93~94)





 この年の秋、大杉が初めて麻布区霞町の神近の家に泊まったときのことを、神近はこう回想している。


 ……庭木戸の鈴が鳴って、ヒョッコリ大杉栄氏がはいってきたのである。

 秋の日はつるべ落としといわれるとおり、あたりは早くも暮れそめていた。

「尾行はまいてきた。ただおなかがへった」

 私はありあわせのパンに果物程度の簡単な支度をしてあげ、紅茶をいれた。

 むろん、それを食べてすぐ帰られるものと思っていたのだが、大杉氏はなかなか腰をあげようとせず、やがてポツリといわれた。

「きょうは泊まっていってもいいんだ」

 ……なにか精神的な借りがあって、無下には断わりきれないような感じだった。

 あるいは、無意識のうちに大杉氏に恋をしていたのかもしれない。

 その日以来、何度も同じ状態がくり返された。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p144~145)




★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第174回 御大典奉祝






文●ツルシカズヒコ




 一九一五(大正四)年十一月四日、野枝は郷里の今宿で次男・流二を出産した。

 矢野寛治『伊藤野枝と代準介』によれば、野枝は出産後、西職人町(現・福岡市中央区舞鶴二丁目)、福岡玄洋社そばにあった代準介・キチ夫婦の家に一ヶ月ほど滞在した。

 十一月十七日、野枝は原稿用紙に向かい、らいてう宛ての書簡形式の原稿「らいてう氏に」を書いた。

 それによれば、野枝は当初、流二を里子に出すつもりだった。

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 ……子供の事では随分迷ひました。

 けれども結局矢張り同じ他人(ひとで)をかりるにしても自分の近くでないとどうしても安神(あんしん)出来さうにもありませんので連れてかへることにしました。

「里子にやるとにくむやうになるから、それではどちらの為にもいけないから」沢山の例をひいて誰も彼も不賛成をとなへますし、良人(おつと)も此度は本当に父親らしい愛をもつて子供に対してゐて、矢張り不賛成なのです。

 私も随分気づよくなつて、たとへ三四ケ月でも、留守中の停滞してゐる仕事を片づける間丈(だ)けでもおいて来やうと思つたのですけれども一日一日とだん/\さう云ふ決心もいろいろ考へて見ますと不安になつて来ますので捨てました。

 そして連れてかへることにしました。

 その代りになるべく時間をとられないやうにしつけやうと思つてゐます。

 幸ひに、今度の子はおどろくほど手がかゝりませんので、これならと云ふ気もします。

 一日中下にねてゐますので、おむつの世話とお乳を与(や)りさへすればそれでいゝのです。


(「らいてう氏に」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p297)





「らいてう氏に」から、他の野枝の言葉を拾ってみる。


 ●私は一週間目から産褥をはなれて居ります。

 この辺は御大典奉祝の「ドンタク」で大変です。

 東京も大変でせう。

 ●今まであがきがとれないやうな苦しむでゐましたけれども全くあれは体のせいだつたと思ひます。

 ●……これからはどんなにでも働けるやうに体も心もかるくなりました。

 ●かへりましたら新年号の編輯に全力をつくさうと思つて居ります。

 ●……岩野さんの「愛の闘争」が丁度私のお産した朝、四日につきました。

 皆がはら/\するのをその日から三日かゝつてよみました。

 ●四月ばかりの間ですがもう一年も東京からはなれてゐたやうな気がします。

 かへりには彼処(あそこ)にもこゝにもよりませうなんて云つてゐましけれども此の頃はたゞ一心に東京へかへりつく事ばかり考へてゐましてもう特別急行で何処にもよらないつもりに二人ともなつてゐます。

 ●……下の関からは特別急行で廿六七時間でつくとしてもあそこまでにざつと六七時間かゝりますからどんなに急いでも卅時間以上かゝるのですものね……こんどかへりましたら本当に働きますわ……

 ●せめて新年号は少しはいゝものにしたいと思つて居ります。

(大正四、一一、一七)


(「らいてう氏に」/『青鞜』1915年12月号・第5巻第11号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p297~299)





「御大典奉祝」とは十一月十日に京都御所で行なわれた大正天皇の御大典のことである。

『東京日日新聞』社会部記者だった神近市子は、新聞記者としてこの御大典を取材した。

 社長室に呼び出された神近は、社長から直々に御大典取材の命を受けたのだった。


「外国からもたくさんの来賓が見えるだろう。その取材にはおおいに働いてもらわなくてはならない。そのためには服装その他の準備が必要だろうから、これで支度をしなさい」

 私は三百円という大金を渡された。

 私はその金で服装をととのえ、十一月に京都御所の紫宸殿(ししんでん)で行なわれる即位礼を目ざして西下した。

 むろん、私などは式典には出られなかったが、そこに集まってきた高官や外国からの賓客にインタビューして、記事を東京に送るのが仕事だった。

 ……いちばん印象に残っているは、尾崎行雄外務大臣夫妻の談話をとったことだ。

 尾崎氏は先妻を亡くされ、後妻はアメリカ婦人だった。

 京都ホテルに訪ねていくと、夫妻で快く会ってくださり、御所での式典のようすを詳細に話してくださった。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p134~135)





 神近は尾崎行雄を「外務大臣」としているが、「法務大臣」の誤記であろう。

 また、尾崎行雄の後妻はアメリカ婦人ではなく、イギリス婦人である。
 
 取材を終えた神近は、当時まだ珍しかった自動車に乗り慰労休暇を楽しんだ。


 日本ではじめての自動車四台が『朝日新聞』と『毎日新聞』とに輸入され、京都市民を驚かしていたとき、それを勝手に使って、どこでも見物してくれというのである。

 私はその貴重な自動車で、二条城や苔寺や三十三間堂や嵐山など、最高の京都見物をしたり、外人客を連れて奈良に遊んだりした。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p136)


 このとき、神近は奈良の安堵村在住の富本憲吉に嫁いだ紅吉にも会い、ふたりは時の経つのも忘れて、その後のお互いの生活を語り合った。





 御大典が行なわれた十一月十日、大杉栄と妻の保子は弓技をした。


 天皇即位式の日で、午後三時半に国民一斉に万歳三唱して奉祝することとされている。

 調査書によれば、大杉は掘保子と三時に家を出て、伝通院前の内田大弓場へ行き、ちょうど三時半ごろに矢を射はじめ、一時間ほど弓技をした。

 大仰な即位式への反発、当てこすりである。


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p163)



尾崎行雄夫人2



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



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2016年05月14日

第173回 戦禍






文●ツルシカズヒコ



 野枝は石炭を運ぶ肉体労働者について『青鞜』にも書いた。


 ……貯炭場に働いている仲仕たちーー仲仕と云へば非常に荒くれた人たちを想像せずにはゐられないけれど此処に働いてゐるのはこの土地の人たちばかりでそんなに素性の悪いやうな人たちは少しもいない。

 そしてその中には女もまぢつてゐる。

 その人たちのうごかすシヨベルの音が絶え間なく私の家の中まで聞こえて来ます。

 それは夜私たちが眠つてゐる間も続けられて居る。

 私たちが何時目をさまして見てもその炭をすくふ音がしんとした空気を動かして居る。

 二十分間位に炭車が小さな機関車に引かれて二輛三輛づゝ一ぱいに掘り出されたばかりの石炭をつんでは持つて来る。

 それをうつしておいて此度は其処の桟橋についてゐる船の中にその石炭をかつぎ込むのが彼(あ)の人達の仕事なのだ。

 私たちの目からはそれは/\過激すぎる程の労働だ。

 けれども彼の人達はそれを楽しさうにしてゐる。

 私は何時でも青い海と真黒な石炭の山を背景にして一生懸命に働きながら何の苦悶もなささうに他人のうはさに没頭しながら其日々々を送つてゐる人々を見る度に如何なる差異が安易な彼の人たちの生活と苦渋の多いもがいてゐるような自分たちの生活との間にあるかを考へずにはゐられない。


(「断章」/『青鞜』1915年11月号・第5巻10号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p275)

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『青鞜』十一月号に斎賀琴子「戦禍」が載った。

 前年七月に第一次世界大戦が勃発していた。

『青鞜』誌上にはこの戦争に関する言及がほとんどなかったが、「戦渦」はこの戦争に触れた反戦的文章だった。


 ……現在世界の先進国と呼ばれる国々が互ひに干戈(かんか)を交ふる事一年余、いつと云ふ平和の見込みもつきかねます今日では、戦争の残酷さと、直接、間接に及ぼす災害の莫大な事を考へますと、同時に所謂文明の恩沢とか科学の貢献とか申すことを疑りたくなって参ります。

 何故に人類は多額の費用と時と智識とを無益にして徒らな殺生に耽るのでせうか!

 誰で御座ゐましたか「もし婦人が戦場に立つたらば戦争は止むであらう、婦人は戦争の惨禍を見るに忍びない」と申しましたがまつたく左様で御座ゐませう……母たる資格のある婦人は決して戦陣に立つて血を見る事は出来まいと存じます。


(斎賀琴「戦渦」/『青鞜』1915年11月号・第5巻10号_p)





『中央公論』十月号に岩野清子「双棲と寡居」が掲載された。

 それは泡鳴との双棲をやめて別居をする清子の決意表明だった。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、ことの起こりには『青鞜』の地方社員、蒲原房江が介在していた。

 蒲原は新潟の小学校教師だったが、職場が青鞜運動に無理解なので職を捨て上京、青鞜社を頼り職を求めていた。

 それをらいてうが清子に話すと、泡鳴がちょうど『プルターク英雄伝』の筆記者を求めていたので、清子を通じて蒲原がその仕事に就いた。

 やがて泡鳴と蒲原が不貞の関係になり、泡鳴との双棲に不満を募らせていた清子が、この一事をきっかけに別居を決行したのである。

 別居はするが離婚はしないというのが清子の考えであるが、らいてうはそれを納得できないと書いている。

 清子が離婚をしない理由は、まだふたりの間に愛があるからでもなく、泡鳴が清子の方に戻ってくる可能性があるからでもなく、離婚すると清子が経済的に不利になるからでもなかった。

 清子の意図は法律上の「妻の位置」の擁護で、それは清子個人の問題ではなくすべての妻の権利の主張だった。


 これはもう清子さんにとっては、愛情の問題ではなくなっていたのです。

 ……恋愛中心の結婚についての、清子さん自身の日ごろの主張や、泡鳴氏と結婚生活にはいるときの約束が、もし泡鳴氏が少しでも他の女性に愛を分けるならば、そのときが二人の愛の生活の最後であるーーというようなことを聞いているわたくしには、なにか割りきれないものがそこにあるのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p576~577)





 清子の別居が決行されたのは一九一五(大正四)年八月だった。

 泡鳴が家を出て蒲原と同居した。

 泡鳴とその前妻の子である薫(小学生)、泡鳴と清子の間の子である民雄(前年二月生)は清子の方についた。

 子供の毎月の養育費(二十五円)の仕送りを泡鳴が怠ったので、清子は泡鳴に同居請求の訴訟を起こした。

 これに対して泡鳴は離婚請求の反訴をしたが却下され、「泡鳴は清子と請求通り同棲すべし」という判決が下り、清子の勝訴となった。

 清子はこの後、法律上の離婚要求をして離婚が成立した。

 薫は父の家に返され、泡鳴には民雄の養育費を支払う義務が課せられたが、泡鳴はそれを履行しなかった。


『中央公論』十月号に載った岩野清子「双棲と寡居」を読んだ野枝は、黙ってはいられず、ペンを執り原稿用紙に向かった。





 氏は第一にその結婚が悪闘の苦しい歴史だったと云つてゐられる。

 併しこの述懐は私達にとつては奇異なものでなければならない。

 何故なら若し自意識も何もない女が在来のいろ/\な情実から結婚をして或る動機をもつて意識した時にその過去をふり返つての述懐ならばそれは同情すべきであるし同感も出来る。

 併し結婚の最初において既に立派な自意識をもつて事を運んだ氏の述懐としてはこれは不思議なものでなければならぬ。


(「岩野清子氏の『双棲と寡居』について」/『第三帝国』1915年11月1日・第56号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p280)




★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)





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第172回 早良(さわら)炭田







文●ツルシカズヒコ




 野枝と辻はなぜ今宿に四ヶ月もの長逗留をしたのかーー。

 野枝は第二子を出産するころ、ある「決心」をしていたと書いている。


 ……私はとう/\決心したのです。

 ……母に一時だけ子供をつれて田舎にひとりで行かして貰ひたいと切り出したのです。

 そしてTには自分の生活をもつと正しくするために少し考へたいから、とにかく暫(しばら)く別れてみたいと云つたのでした。

 そして双方から承諾を受けたのです。


(「成長が生んだ私の恋愛破綻」/『婦人公論』1921年10月号・第6年第11号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p302)

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 野枝は実家で出産するついでに辻との一時的な別居を決行するつもりだったが、なぜか辻も一緒について来てしまった……。

 と、推測できるが、なぜそうなったのかは不明。

「成長が生んだ私の恋愛破綻」には、野枝の心が辻から離れていく過程が詳細に記されているが、野枝が別居を決意したのは簡単に言えば、辻と一緒に暮らしていくことに意味を見出せなくなったからである。

 谷中村問題について議論した際に、ふたりの「思想」の違いが明確になった。

 野枝は当初、辻が唱える個人主義の信奉者であったが、エマ・ゴールドマンの生き方に自分の行き甲斐を見出した。

 つまり、野枝はアナキズムにすでに踏み出していた。

 一方、辻は個人主義をより掘り下げたダダイズムに自分のスタンスを見出した。

 ふたりの「思想」の違いが明確になった時点で、野枝にとって辻との同棲は意味がなくなった。





 それなのに、辻と同棲することは、野枝に家事の負担をかける以外のなにものでもなくなった。

 二十歳そこそこの野枝は、これから先も成長し続けたいと強く思っていた。

 野枝にとって辻は自分の成長を促す存在だったが、ここに至って辻は野枝の成長を妨げる存在になったのである。

 辻と同棲を続ければ、主婦で一生が終わってしまうという強い危機感が野枝にはあった。

 今宿に帰郷する直前にふたりは入籍しているが、その理由はなんだったのだろうか。

 辻と野枝はお互い嫌になったら、離婚をすることを原則として暮らしていたが、近々生じるだろう離婚を前提とした入籍だったのかもしれない。

 野枝がなぜ家族連れで郷里に帰り、体が丈夫でお産も軽い彼女がなぜ四ヶ月も長逗留したのか。

 らいてうはこう推測している。





 二人のこの旅行は、お産のためとはいえ、東京での行き詰つた生活や、忙しい仕事から離れて、傷ついた二人の間の愛を、ふたたびもとにかえしたいふたりの願いがあってのことではなかったでしょうか。

 少なくとも辻さんへの執着を恨みながら、ときに憎みながらも絶ちきれずにいた野枝さんの最後の努力ではなかったでしょうか(辻さんの野枝さんへの愛は、ほんとうに初めから終りまで変わらなかったとわたくしは思っています)。

 そして野枝さんは、なお「青鞜」を辻さんをたよりにどこまでも続けたく、そのためには、今度の赤ちゃんを郷里の適当な人に預けようと考えてもいたのです(このことは野枝さんから直接きいた覚えがあります)。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p604)





 野枝は福岡滞在中に『福岡日日新聞』に随筆「代々木へ」を寄稿した。

 郷里から山田邦子に宛てた書簡形式の文章である。

 野枝の今宿の実家のすぐそばに桟橋があり、そこに大きな帆船がやって来て石炭を積み込む。

 石炭は炭坑から貨車でその桟橋まで運ばれ、野枝の実家の横に山のように積まれている。

 石炭を貨車から出し、船にかつぎ込む人夫が二十人以上もいて、彼らは毎日、朝から夜半まで、暴風雨の日も休みなく働いている。

 そういう肉体労働者を見て、野枝はこんなことを書いている。





 ……別だんに皆それが苦痛らしい顔もしてはゐません。

『働く』と云ふその事があの人たちにとつては『生きてゐる』と云ふことそのものになつていゐのですね、

 何の矛盾も苦悶もなさそうな単純なあの人たちの生活に比較して、

 私たちの生活は何といふ惨苦な色彩を帯びてゐることでせう。

 一挙手一投足にも何かの理屈なしには動けないやうな私達の苦しい生活はむしろ彼(あ)の人達よりずつと不自然でそして不自由な生活ではないかしらとまで思ふことがあります。


(「代々木へ」/『福岡日日新聞』1915年10月4日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p272)


 野枝が言及している炭坑とは、早良(さわら)炭田のことである。

大正期『早良炭田』における炭鉱業」には「第一次大戦に伴う好況時代に入ると 本格的な採炭がはじまった」とあり、野枝が帰郷していた時期がまさにその時期だったのだ。





 野枝は「代々木へ」の中で宗教への疑問も投げかけている。

 一(まこと)を連れて浜に出ていたときに、バイブルウーマンを見かけたことが、野枝にそれを書かせるきっかけになった。


 私は神の存在を否定しやうとはしないのです。

 けれども私はそれに自分のすべてをあげて信頼しやうとは思ひません。

 自分の生活は自分の力でさゝえてゆく。

 私は沼波瓊音(ぬなみ・けいおん)氏の『新免武蔵』を読みました時あの武蔵と云ふ人の幾つかの信条の中に『神を信じて頼らず』と云ふ一ケ条には深く敬服しました。


(「代々木へ」/『福岡日日新聞』1915年10月4日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p273)


「代々木へ」『定本 伊藤野枝全集 第二巻』」解題によれば、『新免武蔵』は単行本『乳のぬくみ』(平和出版/一九一五年五月)の「附録」に収録されている「覚者新免武蔵」のこと。



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第171回『門司新報』






文●ツルシカズヒコ




『女の世界』(第一巻第四号・一九一五年八月)に載った「野依社長と伊藤野枝女史との会見傍聴記」について、野枝はしきりに反省している。


 ……あの野依(のより)と云ふ人を厭な人だとは勿論思ひません。

 どちらかと云へば気持のいゝ人の方ですがーーあの人の態度とか思想とかについては私とは何のつながりもないことを知りすぎてゐました。

 其処で私の不純な悧巧が頭をもたげたのです。

 おまけに向ふの問ひ方が少なからず不真面目でしたから私もその気になつてお相手になつて居りました。

 私は何故あの場合あくまで私の信実をもつて、真面目をもつてあの人に当らなかつたらう。

 ……明日に迫まつた金の為めに困りぬいてあすこに行つたと云ふことが一番の私の弱味でした。


(「九州よりーー生田花世氏に」/『青鞜』1915年9月号・第5巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p263~264)

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 しかし、野枝はこのときの失態をカバーすべく、後に野依についてこう書いている。


 思つたことを遠慮なく云ふことは気持のいゝ事です。

 非常に可愛らしい処のある気持のいゝ人ですが、気の毒な事には、その唯一のおどかしは凡(すべ)ての人に役立つ丈(だ)けの深味も強みも持つてゐません。

 随分世間には氏を悪党のやうに云つてゐる人もあるけれども決して悪党でも何でもないと思ひます。

 悪党処か善人なのだと思ひます。

 善人が頻(しき)りに虚勢を張つてゐると云つた格です。


(「妾の会った男の人々」/『中央公論』1916年3月号・第31年第3号・通巻328号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p337)





 八月十八日、野枝は中村狐月に手紙を書いた。


 こちらにまゐりましてから……東京からは後から/\いろ/\な面倒なことを言つて来たり……本当によはりきつて居ます。

 原稿も是非かゝねば申訳がないと思ひながらそんなこんなで何もかけません。

 九月号が出来ねばどうにもおちつくことが出来ないやうな気がします。

 海を見ても山を見てもなか/\呑気(のんき)な気持になれません。

 久保田氏の小説は大変いゝと思ひました。

 こちらもまだなか/\あつうございます。

 東京もおあついでせうね。

 八月十八日ーー狐月様ーー   野枝


(「消息」/『第三帝国』1915年9月1日・第50号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p270)


『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「消息」解題によれば、「久保田氏の小説」とは、『青鞜』(第五巻第八号)に載った久保田富江「姉」のこと。





 野枝は福岡滞在中に『門司新報』の記者から取材を受けている。

『青鞜』の販促と世間の「新しい女」に対する誤解を解くために、野枝の方から『門司新報』に売り込んだのである。

 記者の取材を受けた場所は西職人町の代準介の家だった。

 そのときの野枝の風体はーー。

 自筆の英字が書かれた白地の帯。

 妊娠九ヶ月の無遠慮に大きなお腹、そのために角立った眦(まなじり)。

 取り乱した女優髷。

 記者には非美術的に映ったが、「新しい女」らしいとも思った。

 野枝はこういうコメントを残している。


 「青鞜は一時二千以上も刷ましたが此頃は千位に減ました上に

 最初がほんの道楽に初めた仕事で広告など持つて来れば載せて遣るといふ遣方であつたものですから

 今になつて欲しいと思つても思ふやうに集まらず経営には可なりの骨が折れます

 販売でも集金の面倒や何かで一手に請負はしてあります、

 所が請負人が売れ残りは一冊でも引受けないさうで大概な本屋が買取つて呉れず

 九州の本屋には一軒も売捌く家がありません、

 其れで今度来た序(ついで)に福岡では丸善其の他二三軒に寄つて頼んで来ましたが

 門司では然るべく御吹聴を願ひたう存じます、

 出方は千位ですが純文芸雑誌で千出るといへば早稲田文学でも千位なものだし

 新潮文章世界は行き方が違つてゐて僅かしか出ないからまあ悪い方でもないでせう」



 「妾(わたし)等は社会に誤解されました、

 思ふて見れば各方面から随分圧迫を蒙りましたが実に馬鹿/\しい話で

 紅吉が遊郭に上つたという事でも只遊郭の模様を見に行つたまでゝ上つた上らないといふには訳が違ひます

 上つた処で仕様もないではありませんか、

 カフエーで酔払つて乱暴するなどゝいふ事も嘘です

 尤(もつと)も平塚さんは酒が好きで宅でも晩酌を遣る位だから

 カフエーなどでも飲む事がありますが好き丈けに強くて酔払ふやうな事はありません

 本当に酔つたのは妾でも一二回しか見た事がない

 夫(そ)れをあのやうに言ひ囃されるから困ります」


(「新しい女伊藤野枝子からお話を聴問(ママ)の記」/『門司新報』1915年9月11日/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p425)


★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)




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第170回 千代の松原






文●ツルシカズヒコ



 一九一五(大正四)年七月二十日、辻と野枝は婚姻届を出した。

 七月二十四日朝、野枝と辻と一(まこと)は今宿に出発した。

 この帰郷は出産のためで、十二月初旬まで今宿に滞在した。

 野枝が次男・流二を出産したのは十一月四日だった。


 今月号から日月社の安藤枯山(こざん)氏の御好意で私の留守中丈(だ)け雑務をとつて下さることになりました。

 多事ながら面倒なことをお引きうけ下すつた御厚意を深く感謝いたします。


(「編輯だより」/『青鞜』1915年9月号・第5巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p268)

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 日月社の住所は「東京本郷区元町二ノ廿五」である。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、野枝は『新公論』八月号の「三面記事評論」欄で「女絵師毒絵具を仰ぐ」を書いているが、他の事件を評論している書き手のひとりが安藤枯山である。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』によれば、野枝の留守中の『青鞜』の事務は日月社に、編集は生田花世に委託したようだ。

『青鞜』同号の「編輯だより」には、こんな文面もある。


 滞在中九州地方に近い処の方は何卒おあそびにお出で下さいまし、なるべくこんな機会にお目に懸れる方には懸かつておきたいと思ひます。

 博多駅から三里西の方です。

 福岡市内は電車の便があります。

 それからは軽便鉄道で六つ目の停車場で降りればいゝのです。


(「編輯だより」/『青鞜』1915年9月号・第5巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p269)





 今宿に帰郷した野枝たちの行動は、矢野寛治『伊藤野枝と代準介』に詳しい。


 ……二人は約四ヶ月の長きに亘り、今宿の実家と従姉・千代子の家、また西職人町(現・福岡市中央区舞鶴二丁目)、福岡玄洋社そばにあった代準介・キチ夫婦の家に滞在した。

(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p98)


 野枝は……十一月四日に次男・流二を生むと、西職人町の代準介の家で一ヶ月ほどを過ごし、辻潤と一(まこと)を連れて、十二月の頭に東京に戻った。

 その頃、従姉・千代子は今宿で暮らしており、二歳の一(まこと)を預かり、一歳の娘・嘉代子(筆者の妻の母)と遊ばせていた。

 帰京の日、千代子は野枝に産着や沢山のおしめを分け与え、持たせたという。


(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p106)





 八月十日ごろ、野枝は原稿用紙にペンを運び、生田花世に宛てた書簡スタイルの原稿を書き始めた。


 生田さん、私たちは今回三百里ばかり都会からはなれて生活して居ります。

 私達のゐます処は九州の北西の海岸です。

 博多湾の中の一つの小さな入江になつてゐます。

 村はさびしい小さな村です。

 お友だちのことなんか考へてゐますと夜分にも会へるやうな気もしますが……あの窮屈な汽車の中に二昼夜も辛抱しなければならないのだと思ひますと、何だかあまり遠すぎるのでがつかりします。

 此処は私の生まれ故郷なのです。

 けれども……こんな処にどうしても満足して呑気(のんき)に住んではゐられません……何の刺戟も来ないのですもの。

 単調な青い空と海と松と山と、と云つたやうな風でせう。

 此処で生れた私でさへさうですから、良人(おっと)などは都会に生れて何処にも住んだことのないと云つていゝ程の人ですからもう屹度(きつと)つまらなくて仕方がないだらうと思つてゐます。

 私は東京にゐる間からかけづり歩いた疲れも旅のつかれも休めると云ふやうなゆつくりした折は少しもないのです。

 体はいくらか樂ですけれども種々な東京に残した仕事についての煩(わずら)はしい心配や気苦労で少しも休むひまがなく心が忙(せわ)しいのです。

 大分青鞜が廃刊になるとか云ふうはさも広がつたやうですが私はどんなことをしても廃刊になど決してしないつもりです。


(「九州よりーー生田花世氏に」/『青鞜』1915年9月号・第5巻第8号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p261~262)





 辻はこの長期の今宿滞在について、こう述懐しているだけだ。

 
 千代の松原を眺めると、今宿の海岸で半年近く暮らしたことを思い出さないわけにはいかない。

(「陀々羅行脚/『世紀』1924年12月号・第1巻第3号」/五月書房『辻潤全集 第二巻』_p)


「陀々羅行脚」は一九二三(大正十二)年春の旅行記である。

 辻はその年の夏には原稿を「殆ど半分以上かいた」のだが、震災で失われ、翌年に書き直したものである。

 一九二三年の春、博多を訪れた辻は桜が咲き誇る西公園(大濠公園)が気に入った。

 西公園から博多湾を眺望した辻が、八年前の今宿滞在を思い出しているのである。





★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)

★『辻潤全集 第二巻』(五月書房・1982年6月15日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年05月13日

第169回 野依秀市(四)






文●ツルシカズヒコ



野依『アナタの御亭主はアナタを可愛がりますか。』

伊藤『ソンな事を聞くもんぢやありませんよ。』

野依『言つたつて宜いぢやありませんか。』

伊藤『正直な事を言はないから大丈夫です。』

野依『ヂヤ、アナタは不正直な女なんですか。』

伊藤『分りません、

   嘘を吐かうと思へばいくらでも吐けるんですもの。』

又、社長は単行本の原稿の上に眼を落して居たが、軈(やが)て野枝サンが中村狐月君に宛てて書いた原稿の一節を読み出した。


野依『ナンダ……この次に原稿を書くお約束をします……こりや何んです。

   嫌ひだなんて言つて居て原稿を書く約束をするなンテどう言ふわけです。』

伊藤『だつて第三帝国へはズツト書く約束なんですもの。』

野依『アナタは第三帝国の人は嫌ひと言つたが
   
   松本悟朗君は好きですか。』

伊藤『妾、知りませんもの。』

野依『だつて僕だつて今迄知らなかちたでせう

   ソレでもアナタは好きだつたと言つてるぢやありませんか。』

伊藤『デモ知らないものは何んとも言へません、

   あの人の書くものは余り好きぢやありませんが。』

野依『ヘエ、爾うですか。

   本当にアナタの御亭主はアナタを可愛がりますか。』

伊藤『ええ、随分可愛がりますよ。』

野依『ハ…ハ…ハ…爾うですか。

   アナタは可愛がられる方が好きですか。』

伊藤『好きですネ。

   厭な人に可愛がられるのはいやですけれど。』

野依『ヂヤ、アナタは御亭主が好きですか。』

伊藤『好きです。』

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野依『ネ伊藤さん。一体、ラブとはどんなものですか。』

伊藤『言へませんネ』

野依『どうしてゞす。』

伊藤『込み入つて来ますもの、

   妾、込み入つた事は言へませんよ、

   これで妾は、却々不自由な人間ですからネ。』

野依『アナタは家事の事も一切なさいますか。』

伊藤『やります。』

野依『それでこんなに腕が太いんですね。』

伊藤『さうです』

野依『女中はお使ひですか。』

伊藤『使つて居りません。』

野依『御家内は……」

伊藤『妾と子供と主人と母とです。』

野依『お母さんはアナタのですか。』

伊藤『いゝえ、主人のです。』

野依『ヂヤ時々喧嘩をしませう。』

伊藤『いゝえ、しません。』

野依『アナタにはお子供さんがおありでしたネ
   可愛いですか。』

伊藤『可愛う御座んす。』

野依『どうして可愛いんでしせう、

   ありや小さいからではないでせうか。』

伊藤『小さいばかりぢやありますまい、

   何しろ自分のお腹(なか)から出たんですもの……』

野依『お腹から出た……

   どうして日本の家庭ではソンな嘘をつくんでせうハ…ハ…ハ…』





と笑ひ乍ら傍らにあった時事新報の新刊紹介欄に『実行の勝利』(※野依の著作)の批評が載つて居たのが社長の眼に止まつた。


野依『僕はね、伊藤さん、

   人から褒められると嬉しいんですよ。

   人間は誰でも褒められるとうれしいもんですからね。

   ただ、僕はそれを知っていながら、
   
   人を褒めてお金をもらうことができないのが、莫迦なんですよ。

   僕などは褒められるとその意気に感じて、

   大いに働く気になりますよ』

野依社長は自著『実行の勝利』の批評を読み始めて居たが、不図(ふと)何やら文字が分らなかつたと見えてその新聞野枝サンの前へ差出し、

野依『これは何んと言ふ字でせう。』

伊藤『妾にも読めません。』

野依『……爾うですか……何んだ……

   前人未発の真理……褒めたネ、

   こう言はれると全く僕は嬉しいですよ、

   人間と言ふものは莫迦なものですよ、

   煽動(おだて)られとは知り乍らも矢張り褒められると嬉しい……

   時にこの原稿はどうしませう。』

伊藤『どうしても買つ戴きます。』

野依『いくらです。』

伊藤『原稿の値段は分りませんが要る金の額(たか)は分つて居るんです。』

野依『それは幾何(いくら)です。』

伊藤『百五十円ばかりはどうしても要るんです。』

野依『ソリア問題にならん。』

伊藤『売れますよ。』

野依『ソリア売れましせう、

   何も僕は本を出版して爾う儲ける必要もありませんが損をしちや困りますからネ、

   この原稿なら先づず二百頁から三百頁どまりでせう、

   さうすれば定価は先づ六七十銭ぐらゐするんですからネ。』

伊藤『随分廉いんですネ。』

野依『何しろ僕は女に甘いせいか、

   随分、女の人から本を出版してくれと言はれますよ。

   現に田村さんの小説も出しましたし、

   尾島さんや岡田さんなどからも申込があるんです。』

伊藤『ですが小説とは違ひますよ、

   慥(たし)かに私の本は一円二十銭位の本にはなりますよ。』

野依『冗談言つちやいけません。

   併しまああアナタの言ふように一円二十銭の本になるとしたところが

   今日は金がないから困ります。
 
   今一つの大仕事を目論んで居るのでこれがうまく行けば少しは金も出来ませうが、

   兎も角、お盆までにはどうか金を都合する積りです、

   それでよければ買ひませう。』





再び安成さんが二階から上つて来て『見たり聞いたりの材料はありませんか』と言ふ。

社長は暫く首を捻つて居たが、軈(やが)て思ひついた材料を話してから、

野依『爾ふ言ふ訳ですがそれで宜いですか。』

伊藤『ヂヤ十日頃までに戴けるでせうか。』

野依『ソレが今、言つたやうな訳で、

   ハツキリお請合が出来ないんです……

   オイ、渋澤さんの事務所へ電話をかけて呉れ給へ……

   これが約束手形の金だとか広告料だとか言ふのなら

   何月何日に入ると云ふ事が分つて居ますから

   ハツキリお答が出来るんですけれども……

   併しお盆までにはどうかする積もりです、

   社員にもお中元を出さなきやなりませんからネ、

   アナタがお出にさへなれば、

   何処へ持つて行つたつて買つて呉れますよ。』

伊藤『駄目ですよ、尤(もつと)も新潮社へは妾自身で行つたんではないんですが……』

野依『新潮社でも、植竹書院でも、

   高島米峰(べいほう)さんのところでも……』

伊藤『妾、高島米峰さんは嫌ひー。』

野依『オイ諸君、伊藤さんは米峰さんが嫌ひださうだ。

   どうして嫌ひなんです。』

伊藤『キザですからネ』

野依『アナタはどんな男が一番好きです。』

伊藤『サア、沢山ありますよ。』

野依『就中(なかんずく)。』

伊藤『分りませんネ、

   嫌ひな人を除いた外の人は皆ンナ好きです。』





野依『どうもアナタは猾い、

   ……何んですか、アナタは口で発表した事を書かれても

   少しも差支はありませんか。』

伊藤『本当なら構ひませんが、

   大抵は間違つて書かれるんで困ります、

   近頃でも二三度ありますよ、

   今月の現代何んとかにも、嘘が書いてあるんです、

   ですから、妾、話を書かれるのは嫌ひです。』

野依『それは聞く方の人の頭がしつかりして居ないから間違うんでせう。』

野枝『妾が慥に口で言つた事なら

   書かれても一向差支はありませんけれど……』

野依『サウですか……

   ヂヤこの単行本はどうします、

   今、申上げたやうな次第ですから、

   どちらなりと、アナタのお好きになさいまし。』

伊藤『外に少しお金を拝借するところもありますんで、

   若しそれが出来なきア大変ですが、

   それぢや明日電話で御返事しませう。』

野依『ヂヤ原稿はお返ししませうか。』

伊藤『いゝえ、おあづかり置き下さい。

   女の世界の材料は随分大変でせう。』

野依『えゝ、併し男のものよりもやり易いですよ、

   ……フーンアナタは全く可愛い人ですネ若しアナタが恋した結果、
   
  それが頂点に達した場合は今の御亭主とてもお別れになりますか。』

伊藤『ソリア別れます。』

野依『ホウ、こりア耐(たま)らん、

   ……ヂヤ仮に仮にですよ、アナタが私に恋したとして、

   私に妻があつても構はんですか。』

伊藤『妻君をよして貰はなけりや困ります。』

野依『ヂヤ、あなたも御亭主をよすんですか。』

伊藤『ソリア無論ですとも。』

野依『併しそりア嘘ですナ。

   何も先方に妻君があつたつ構はないぢやありませんか。』

伊藤『厭やです。』

野依『どうも僕はさう言ふ点がアナタ方の徹底しないところだと思ひますネ、

   何も妻君があつたつて構はんぢやないですか、

   自分さへ恋して居れば。』

伊藤『他にあつちやいけません。』

野依『ソコが分らんと思うナ、

   何も妻君があつたつて構はなかろうがナ。』

伊藤『厭ですネ。』

野依『ヂヤ、さう言ふ場合になつて、

   アナタは惚れ合つて一緒になつた御亭主をフリ得ますか。』

伊藤『フリ得ます。』

野依『ホウ、さうですかね。』


と、此時、給仕が上つて来て『飯田さんがお出(いで)になりました』と言ふ、

野枝サンは漸く引き上げ時を見つけたのであつた。


伊藤『御忙しいのに……失礼しました。』

野依『サウですか、

   デワ、単行本の方もそのお積りで……

   僕は出来る丈け誠意を以てお答えした積りですから……

   イヤ始めてお目にかゝつて大変失礼を申しました、

   悪しからず……』

伊藤『左様(さよう)なら。』

(『女の世界』1915年8月号・第1巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p420~423)


※野枝は翌年一九一六年の一月三日から四月十七日まで『大阪毎日新聞』に「雑音ーー『青鞜』の周囲の人々『新しい女』の内部生活」(『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)を連載しているので、野枝が野依に売り込んだのはこの原稿だったのかもしれない。


★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)



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第168回 野依秀市(三)






文●ツルシカズヒコ




野依『ヘエ、ヘエ、爾うでせう。

   まるでおノロケだ。

   さうさう、アナタは第三帝国の中村狐月君に恋して居るんですつてネ。』

伊藤『冗談言つちやいけませんよ。』

野依『ヘエーーだつてアナタはあの人が好きなんぢやありませんか。』

伊藤『イヽエ、嫌ひです。』

野依『嫌ひ。ホウト。嫌ひですか。

   オイ諸君伊藤さんは中村狐月君が嫌ひだとさ、

   覚えて居ててくれ給へ。

   ヂヤ僕は好きですか。

   好きでせうネ、

   こうして原稿を売りに来られるからには……

   僕の何処が好きです。』

伊藤『大きな声でお話をなさるところが……』

野依『ハ…ハ…ハ…こりア驚いた。

   宣しい、その理由を伺ひませう。』

伊藤『理由なんぞありアしませんよ。

   感じでございますもの。』

野依『デモ、琴とラツパとは違ひませう。』

伊藤『分りませんネ。』

野依『分らん奴があるもんですか……』

伊藤『ラツパはどうですか分りませんが、

   妾は、琴は嫌ひです。』

野依『琴は嫌ひですか、

   ハア……ハア……、ヂヤラツパは好きなんですね。

   僕はそのラツパなんです、

   ダガ僕は早稲田の大隈さんのように法螺(ほら)は吹きやしませんよ。』

伊藤『アナタだつて吹くぢやありませんか。』

野依「イヽヤ僕は言った事は必ず実行します。

   ダカラ、僕のは決して法螺ぢやないです。

   どうです伊藤サン、アナタも僕に感心したでせう。

   僕は何んでも強請的ですからね、

   アナタも此強請的に出会つては、

   やむを得ず感心でしせう。

   ダガ、本当にアナタは中村狐月君が嫌ひですか、

   どうしてです。』

伊藤『どうしてですか。』

野依『私は天真爛漫だから、

   好きなものは好き、嫌ひなものは嫌ひとハツキリ言ひいますが世間の人は好きなくせに嫌ひな風を装つたり

   嫌ひな癖に好きな風をしたりしますが、

   アナタも其実好きなんぢやありませんか。』

伊藤『さうぢやありません。』

野依『ソンならどうしてゞす。』

伊藤『大変迷惑をするんですもの。』

野依『どう迷惑をするんです。』

伊藤『方々へ行つていろんな事を言ふんですもの。』

野依『ハアー中村君が方々へ行つていろんな事を言ふので迷惑をするから

   嫌ひだと言ふんですか。

   ヂヤ僕がアナタの事を世間へ行つて何か言っても矢張り迷惑をしますか。』

伊藤『迷惑をしません。』

野依『コリア可笑しい。

   ハアハア成程、

   アナタが僕を好きだからそれで迷惑をしないと仰やるんですか…

   どうもアナタは却々巧い……

   一体アナタはどんな風な男が好きです。』

伊藤『妾はムジ/\して居るのが大嫌ひです。』

野依『ヂヤ僕なんどは大に好かれる訳ですな、

   私が平塚さんのところへ行つた後で、

   日日の角田さんが平塚さんを訪ねて、

   先達(せんだつ)野依君が来た筈だがどうでしたと聞いたら

   今迄コンナ可愛い気落ちの宣い人を見た事がなアいと言つて居たさうです。』

伊藤『さう言つてました。』

野依『ソンナに僕は気持ちの宣い男でせうか。』

伊藤『エヽ。』

野依『僕と一緒に居ると猶一層気持ちが宣いですよ…ハ…ハ…』

伊藤『本当に平塚さんもそう言つて居ましたよ。』

野依『だがそれ程平塚さんが言ふ程なら、

   僕が手紙をやつたのに、

   その返事ぐらゐ寄越したつて宣いぢやありませんか。

   要するに人間は嘘を吐(つ)かないで、

   各自の本領を発揮するのが一番ですよ、

   男は飽くまで男らしく女は飽くまで女らしくネ、

   ヂヤ、アナタは僕が世間へ行つてアナタの事を言つても

   少しも迷惑をしないと言ふんですね。』

伊藤『エヽ、迷惑しません。』

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野依『宣しい。

   どうもアナタのやうな女と話をする時は大いに褌を締めてかゝらなきアならない、

   どれ一つ帯でも締め直さう。』

   と、野依社長は椅子から離れたて着物を着直し乍ら、社員の一人の肩中(かた)をポンと叩いて……

野依『どうだ君、こういう風に質問しなくちや駄目だぜ、

   ダガこればかりはお手本と言つたところが、

   其人々に依つて違ふから一概には言へないが……

   ダガ伊藤サン、アナタは中村孤月君が嫌ひだつて、何処が嫌ひなんです。』

伊藤『ダツて女みたいぢやありませんか。』

野依『ホウ、何処が女みたいです……』

伊藤『口がうまい…………大嫌いです』

   …………のところは社の前を電車がヒドイ響を立てて通つたので聞き洩らした。

野依『どう言ふ風に口がうまいんです。』

伊藤『口のきき方がですよ。』

野依『ハアそうですか、

   アナタも却々口のきき方は巧い方ぢやありませんか。』

伊藤『人の事と自分の事は別ですもの。』

野依『併し中村君がアナタに恋して居るのは分つて居るでせう。』

伊藤『爾うでしやうか、本当か嘘から分りません。』

野依『中村君はお宅へ行きましたか。』

伊藤『来ましたよ、よく……』

野依『その時御主人はお宅においでゝすか。』

伊藤『居りますとも。』

野依『ヂヤお話も何も出来やしない。』


と言ひ乍ら袴の紐の両端をもつて野枝サンの椅子に近づき

野依『失礼ですが一寸紐を結んで呉れませんか。』

野枝サンは黙つて紐を結んで居た。


野依『ヤア有難う。』

伊藤『アナタは平塚さんがお好きですか。』

野依『私はアナタが好きです。』

伊藤『どうも有難う。』

野依『ネ、伊藤さん、

   僕には口がありませう、眼もあります、耳もあります、

   鼻もあります、その中でどこが一番いゝです』

伊藤『皆んな宣いです。』

野依『皆んな宣いと言ふのは、

   つまり皆んな悪いと言ふ事になりますネ。』

伊藤『マア、アナタの頭が一番宣う御座いますネ。」

野依『ハ…ハ…ハ…僕の頭が……』


と手で二三遍撫で回して





野依山田邦子さんも、アナタの頭の形は智慧のかたまり見たようで頭の恰好が頗るいいと言ひましたよ、』

伊藤『耳は余りよくありませんねえ。』

野依『眼はどうです。』

伊藤『宣いです。』

野依『口はどうです。』

伊藤『よござんす。』

野依『丹稲子(たんいねこ)は僕の耳がいゝつて言ひましたよ。』

伊藤『アヽ爾うでしたネ女の世界で拝見しました、

   山田さんはお出でになりますか。』

野依『病気の時に来て呉れました。』

伊藤『あの方は綺麗な人ですね。』

野依『アナタはまだ昼食(おひる)を食(あ)がらないんでせう、

   おごりませうか。』

伊藤『沢山です、朝食が遅いですから……

   野依さん、アナタは中津でしたネ。』

野依『エヽ爾うです、アナタは……』

伊藤『福岡です。』

野依『福岡ですか、同じく九州ツ児ですナ、

   僕はネ伊藤サン、爾う思うんです、

   アナタの様な女が十人ばかり集つてカフェーを開いたら屹度流行(はや)りますよ。

   そしてアナタ方が高等芸者になつて、

   来たお客の話相手になるんですよ、

   さうすれば屹度流行りますネ。』

伊藤『流行りませうネ。』

野依『どうですやつて見ちや。』

伊藤『お金がありませんもの。』

野依『資本は僕が出しますよ。』

伊藤『ソリア面白いでせう。』

野依『面白いですとも、

   さうすれば新しい女がカフェーを開いたって言ふんで、

   男の客は随分行きますよ、

   そしてそのお客を執(つかま)えてアナタ方がベラ/\喋つて大に煙に巻いてやるんですよ、

   それから、『新しい女及カフェー』と言ふ雑誌を出すんです、

   屹度売れますネ』

伊藤『エヽ………』





野依『平塚さんは、

   どうして奥村さんと一緒になつたんでせう。』

伊藤『好きなんでせう。』

野依『僕は爾う思いますね。

   今までの結婚は年上の男が年下の女をもらつたもんです

   自分より年が若ければ可愛いですから、夫は妻を可愛がり、

   妻も亦夫に可愛がられて夫婦は成り立つて居んです。

   処が、新しい女は男に可愛がられるよりも、

   男を可愛がつてやらうと言ふところから自分よりも年下の若い男を亭主にするんぢやないでせうか、

   恐らく平塚さんなどはさう言ふ意味で奥村さんと一緒になつて居るんじゃないですか。』

伊藤『平塚さんは上の方から可愛がられるのは厭なんでせう、

   下のものを可愛がる方が好きなんでせう。』

野依『何んだか奥村さんに紅い長襦袢などを着せて……』

伊藤『ソンナ事はありませんよ。』

野依『万事女のやうにさせて居ると言ふ噂ですが……』

伊藤『噂ですとも、ソンナ事はありません。』

野依『爾うですか。

   僕もそれ程平塚さんに好かれて居るんなら早く結婚を申込めばよかつたんでしたネ。』

伊藤『さうですネ、ですが、

   アナタでは奥村さんのやうにしては居られないでせう。』

野依『ハヽハヽハヽ伊藤さん、アナタのその帯の英語を一寸読んで聞かせて下さいナ。』

伊藤『読める方が沢山お出でぢやありませんか。』

野依『何んです、それは詩ですか格言ですか。』

伊藤『お話です。』

野依『アナタも平塚さんなどゝ一緒に吉原へ行つた一人ですか。』

伊藤『いえゝ。』

野依『アナタはあの事をどう思ひますか。』

伊藤『つまらない事でせう。

   あれは何んでも散歩の序手(ついで)に紅吉(こうきち)に誘われて尾竹さんの知つてる家へ行つたんでせう。』

野依『買ひに行つたんですつて……」

伊藤『ソンな事はありません。』

野依『僕等は男でもあゝ言ふ女を見ると気の毒に思ふのに、

   まして女同士の事だから一層気の毒と思うのが当然なのに、

   それを踏み込んで行つてヒヤカスなんテ……』

伊藤『ヒヤカスなんテ意味ぢやないんでせう、

   只、あゝ言ふ人達の生活を見に行ったんでせう、

  一寸分りませんからネ、

   紅吉さんに引つぱられて行つたんですよ。』

野依『紅吉と言ふ人は男みたいな女ぢやないんですか。』

伊藤『男と言ふよりも子供でネ。』

野依『何歳です。』

伊藤『二十三でせう。』

野依『二十三の女が二十一のアナタから子供だナンて言はれちや、

   やりきれませんねえ。』

伊藤『本当に子供ですネ。』

野依『同性の愛をしたとか何んとか言ふ事もあるんですか。』

伊藤『サウ言ふ事もあるかも知れませんよ。』

野依社長は野枝サンが持つて来た単行本の原稿をチョイ/\見始めた。


※堀場清子『青鞜の時代』(p135)によれば、野依秀一は『実業之世界』一九一二年十一月号に掲載された「怪気焔/平塚明子女史と語る」で、らいてうにインタビューをしている(筆者註)。

(『女の世界』1915年8月号・第1巻第4号/『定本 伊藤野枝全集 第三巻』_p416~420)



★『定本 伊藤野枝全集 第三巻』(學藝書林・2000年9月30日)

★堀場清子『青鞜の時代ーー平塚らいてうと新しい女たち』(岩波新書・1988年3月22日)



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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