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2016年03月28日

第52回 阿部次郎





文●ツルシカズヒコ


 一九一二(大正元)年十一月の末。

 その日は夕方から、青鞜社の事務所がある本郷区駒込蓬萊町万年山(まんねんざん)勝林寺で、阿部次郎がダンテの『神曲』の講義をする研究会のある日だった。

 毎月一日発行の『青鞜』の校了は前月の二十五日前後のようだが、この日は『青鞜』十二月号の校了後であろう。

『青鞜』十二月号(二巻十二号)には野枝の「日記より」が掲載された。

 野枝が寺の内玄関の正面にかかった大きな郵便受けから郵便物を取り、選り分けていると、めずらしく自分宛てのハガキがあった。

 特徴のある字から、紅吉からであることがすぐにわかった。


 けふ研究会がすんだらゐらつしやい。

 この間の約束の通りに。

 岩野さんはゐらつしやるらしい。

 晩の御飯は私の家で召あがれ。

 私はあなたの言葉を信じて待つてゐますよ。


(「雑音」/『大阪毎日新聞』1916年1月6日/『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』_p20/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』_p134)

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 岩野泡鳴夫人の清子さんに会いたいという野枝の言葉を、紅吉は覚えていてくれたのだ。

 野枝は紅吉の親切をありがたいと思い、ぜひ行こうと思った。

 万年山勝林寺本堂裏の十畳ほどの座敷が青鞜社の事務所だった。

 野枝は火種をもらって火を起こしたり、卓子(テーブル)を直したり、ボールドの掃除をした。

 この日の研究会に出席するのは、らいてう、哥津、野枝の三人だけだった。

「ずいぶん今日は寒いわね」

 哥津は本当に寒そうに肩をすぼめた。

 日暮れ前の広い座敷の空気がしんしんと三人に迫った。

 らいてうがいつもの静かな調子で言った。

「阿部先生はずいぶん大変ね、大井からですもの。ここまではかなりあるのですものね。それでたった三人くらいじゃお講義していただくのにお気の毒なようね」





 哥津が西崎花世たちが事務所を訪れたときの紅吉のそぶりを、思い出すように笑いながら言った。

「西崎さんのことをよほど気になったらしかったわ。ここにいらっしゃい、いらっしゃいというのがおかしくて、私たまらなかったわ」

 野枝もあのときの紅吉の興奮した言動を思い出し、おかしさがこみ上げてきた。

「でも野枝さんもあの晩は、ずいぶんはしゃいでいたのね。私、あんなに騒ぎやだとは思わなかったわ」

「そう……」

 野枝はきまり悪そうに微笑んだ。

「そりゃそうですともね。まだ若いんですもの。今に騒げなくなるときがじきにくるわ。今、騒いでおかないと。それからね、新年号の執筆をお願いする手紙を書かなければならないから、また来てちょうだいね。また新年号の編集が忙しくなりますよ」

 らいてうが若いふたりの顔を等分に見ながら、気持ちよく調子よく言って、後ろの時計を見た。





 阿部次郎の講義が終わり、三人は外に出た。

 白山までは一緒だった。

 哥津は白山から電車に乗り、らいてうと野枝は曙町まで一緒に行き、そこから野枝は染井まで長い長い通りをひとりで歩いて帰るのだった。

 真向かいから吹きつける寒風に逆らって歩きながら、野枝は紅吉のハガキのことを思っていた。

 この寒い夜に根岸まで行くのはなかなか大変だった。

 電車の不便な駒込の奥からでは、十時より遅くなれば山手線がなくなり、市内電車に乗るしかなくなる。

 そうなれば巣鴨橋で降りて、山手線の掘割に沿った両側の二本の道のどちらかを歩くしかない。

 一本は森に沿った崖っぷちの細い道、もう一本は岩崎の長い長い煉瓦塀に沿った気味の悪い道だ。

 野枝は寒さに堪えながらできるだけ急いで歩いた。

 染井橋を渡り終えると、向こうから飼い犬のジョンが勢いよく駆けて来て、野枝に戯(じゃ)れついた。

 野枝は軽く犬の頭を叩いてやりながら、ジューと音を立てて青い火花を散らしてレールの上を走って行く山手線の電車を見ながら、時間を考えていた。

 ふと、一度家に帰ってから紅吉の家に行ってみる気になった。

 歩いたので体はもう寒くはなかった。

 帰宅して自分たちの部屋に入ると、いつも机の前に座っている辻の姿はなかった。

 正面のスピノザの顔だけが、静かに空虚な部屋をいつものように見下ろしていた。

 野枝は辻が留守だったのでがっかりした。

 あの刺すような冷たい風に逆らいながら、一心に帰ってきた自分の気持ちのやり場がないように立ちつくした。





 隣室から義母・美津に優しい言葉をかけられたので、暖かい部屋に入っていった。

 火鉢に当たりながら、帰りの遅い辻をこのまま待つより、紅吉のところに行った方がよいと決心した。

「寒かろうに……」

 美津の言葉を後ろに、野枝は暗い寒い外へ出た。

 駒込駅の階段を降りるころは寒さに震えていたが、元気がよくはち切れるような、つき出てくるような紅吉の声を思い出しながら、覚えのある根岸のあたりを歩いているころには、たいぶ体が暖かくなってきた。

 根岸には二年あまり住んでいたので、女学校を卒業してからどうしているのかわからない同窓生の家の前などを何軒も通り過ぎながら、いろいろなことを懐かしく思い出していた。

 紅吉の家にようやく着くと、はっとした。

 家の中がひっそりとして、紅吉がいそうなようすがない。

 案内を請い名前を言うと、出て来た女中が早口で言った。

「それならば夕方、お客様と一緒に、神田の三崎町の荒木さんとおっしゃる方のところへお出かけになりました。あなた様がおいでになりましたら、そちらへいらして下さいますようにとおっしゃってございました」

 野枝は紅吉の態度を怒らずにはいられなかった。

 こんな寒い日に、わざわざ呼びつけておいて、自分は勝手に出かけてしまうなんて……。

 神田になんて行くものかと怒りにまかせて足を返したが、帰っても辻はまだ戻ってはいないだろうから、帰る気にもなれなかった。

 寒空をわざわざ染井の奥から出て来たのだから、紅吉にも会って帰りたくなった。

 とうとう電車に乗って三崎町で降りると、尋ねる家はすぐにわかった。


★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:24| 本文

第51回 伊香保






文●ツルシカズヒコ



『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p397)によれば、一九一二(大正元)年十月十七日、『青鞜』一周年記念会が鴬谷の「伊香保」で開かれた。

「伊香保」は当時、文人墨客がよく利用する会席料理屋として知られ、常連だった尾竹竹坡の紹介で会場が「伊香保」に決まった。

 らいてう、瀬沼夏葉、生田花世、紅吉、神近市子などが出席した。

 らいてうはこの席で女子英学塾三年に在学中の神近市子と初めて会った。

 七月ごろ神近はらいてうに小説を郵送し、八月には青鞜社の社員になった。

 神近市「手紙の一ツ」という小説は『青鞜』九月号に掲載された。

 らいてうは神近に理知的な頭脳を持った有望な人材として期待していた。

 神近は会に遅れて参加した。

 この日は神近が関係していた日曜学校の秋の運動会だったからである。


 私は終日代々木ノ原で子どもたちと走りまわり、夕方……「伊香保」という店に向かった。

 私はヘトヘトに疲れていたが、将来作家になろうという婦人や、それに好意を持つ既成の女流作家の集団に、はじめて参加を許されたのだと思うと、一日の疲労などは吹き飛んでしまうようだった。

                  
(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p100~101)

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 神近は創刊号から『青鞜』の愛読者だった。

 女子英学塾の文学好きの友人から『青鞜』創刊を知らされ、麹町区にあった大橋図書館で読み、「元始、女性は太陽であった」という宣言を知った。

 当時、女子英学塾は麹町区一番町にあったので、学校の近くの大橋図書館で読んだのである。

 神近はまず「伊香保」が豪奢な料亭なのに度肝を抜かれた。

 宴会場に入ると、二十人近い女性が思い思いの服装で席につき、正面にらいてうが陣取っていた。

 細かい大島紬にセルの袴をはいたらいてうは、もうかなり酔っているらしく、陶然として盃(さかずき)を手にしていた。

 これにも驚いた神近は、らいてうの第一印象をこう語っている。


 私は長崎時代に、何人かの上級生で知的な美をそなえた人を見かけたが、平塚さんの美しさはその人たちとは異質だった。

 長崎の人たちの美は、ラテン語やヘブライ語を学び幾何や代数を考える努力が生み出したものであり、平塚さんの美は仏教や文学をあさる知性と、半ばは貴族の血が生んだものだろう。

 キラキラと光る眼が、年少のものをからかうようにきらめき、私はまともに平塚さんの顔を見ていられないように思いながら、見ることが楽しくたまらなかった。


(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p101)




                                       
 らいてうによれば神近は、ほとんどひとりで話し続けたという。


 多弁といっても、いわゆる女のおしゃべりではなく、その情熱と理知をもりこんだ多弁は、彼女の書くものと一致したつよい印象を人に与えずにはおきません。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p398~399)


 らいてうは神近の顔にも強い印象を受けた。


 全体としてかたく引きしまった男性的な感じで、大きな目はたえず涙ぐんでいるような、異様な刺戟的な光をおび、なんとなく不安なような、恐ろしいような、危険性をひそめているようにも見えました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p399)


『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(p104)によれば、文学を志していた神近は『万朝報』の懸賞小説に応募して「平戸島」という短篇が当選し、賞金十円をもらったばかりだったが、孤独だった。

 文学について語れる仲間が周囲に誰もいなかったからだ。

 神近は仲間を求めて青鞜社の社員になった。

 らいてうはじめ青鞜社の社員は、「保守的」な女子英学塾から加入した新人を歓待した。

 先輩たちは次々に神近の盃に酒をついだ。

 いつのまにか、久留米絣にセルの袴、顔が浅黒く太って背の高い紅吉が神近の隣りに割りこんできた。

 神近はひと目で紅吉が好きになり、盃を重ねた。

 運動会の疲労と空腹、初対面の先輩と話す緊張感、共鳴する仲間と語り合える開放感、それらが混じり合い酒が神近の五体にしみわたった。





 神近は酔いつぶれた。

 らいてうもこの日は羽目を外して、日本酒の盃をあけた。


 便所の草履をはいたまま廊下を歩いて座敷まで戻ってくるという失敗をやっております。

 後にも先にも、自分が酔ったと意識したのは、このときが生涯で唯一度のことでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p398)


 酔いつぶれた神近を、らいてうはこう回想している。


 ……やがて神近さんは酔いの苦しさに、ひどく青ざめて倒れてしまいました。

 そのときしきりに「私は悪かった、悪いことをした、このことは決してだれにもいわないでください」とくどくど念を押されたことに対して、「神近さんらしくもないーー」という軽い失望を覚えたのでした。

 その後神近さんは「青鞜」に発表するものに「榊纓(さかき・えい)」というペンネームを使うようになりました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p399)





 神近は活水女学校の生徒だった長崎時代は厳格な禁酒を守っていたが、上京後は禁酒の戒律を捨てていたので、宗教上の罪の意識に悩んだのではなかった。

 女子英学塾からのペナルティを気にしていたのだ。


 それを公表されると、学校からどんな処罰をうけるかわからなかったので、それが気がかりだったのだろう。

(『神近市子自伝 わが愛わが闘い』_p103)


 酔いつぶれた神近は紅吉ら四、五人と「伊香保」に泊まり、翌日、吉原の弁天池近くの尾竹竹坡邸に立ち寄った。

 神近は長崎県北松浦郡佐々(さっさ)村の漢方医、神近養斎の三女として生まれた。

 三歳のときに父を亡くし、父の医業を継いだ長兄も九歳のときに逝った。

 姉の夫が医業を再興する間、神近家は没落の危機に直面し、神近は尋常小学校を休学して他家に女中奉公に出される辛酸を経験していた。

 らいてうは才能に恵まれながら、なにか煮え切れない不徹底さのある神近にもどかしさを感じていたようだが、職業婦人として経済的な自立を望んでいた神近は、卒業を目前にして女子英学塾と揉めたくなかったのだ。



★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 15:43| 本文

2016年03月25日

第50回 若い燕(二)






文●ツルシカズヒコ




 紅吉は奥村から届いた「絶交状」への返信を書いた。


 私はけさ、広岡の家であなたの最後の手紙をみた。

 それから今家に帰ってあなたからの同じ手紙を見た。

 私はああした感情に走り切るあさはかな女でした。

 私は是非あなたに逢いたい。

 そしてこの間からの話を聞いてもらい度い。

 私は広岡によって生きていました。

 けれど今度のああした事柄は私をどんなに苦しめ、またどれだけ女らしく傷ついたことでしょう。

 ……私はあなたに逢って最後の時を作ります。

 あなたが私に逢ったらおそらくあなたの幸福となるでしょう。

 あなたの前途に私のようなこうした悲しい時が来ないかもわかりません。

 どうぞ私に逢って下さい。

 そして時と所を与えて下さい。

 私の心は今乱れ切っています。

 あなたの返事を、只そればかりを待っています。

 九月十八日 しげり

 
(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p76~77)

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 穏やかでない、そして意味がよくわからない文面に接した奥村は、紅吉には深く同情したが、彼女には会わなかった。

 らいてうが円窓の書斎に飾った奥村の自画像について、紅吉が言及している。

 
 らいてうの室に近頃一枚の油絵がいつもきちんと同じ場所に飾られてゐます。

 絵は紅吉に云はせるとどうやら少しばかり要領を得ないものらしいのですが此の画については至極面白い話が隠れてゐるんだそうです。

 なんでも或る若い、自分から「若い燕」といつてゐる人から贈られたものださうです。

 三色版にでもして青鞜の口絵にしたらなんて紅吉は不安そうな眼つきで交ぜつ返してゐます。

 しかし「若い燕」は今何処の空を飛んでゐるのか全く分らないんですつて。


(「編輯室より」/『青鞜』1912年10月号・第2巻第10号_p136)





『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p409)によれば、紅吉はらいてうについて「気分的な出たらめ」を口外するようになった。

 それにマスコミが飛びつき、堀場清子『青鞜の時代』(p137~139)によれば、たとえば『東京日日新聞』が「新らしがる女」という連載記事を掲載した。

 十月二十六日『東京日日新聞』の「新らしがる女(二)」には、「らいてう(煤煙女史)は人に会えば直ぐ偽をいいます」という紅吉のコメントが載った。

 記事を書いたのは紅吉の父・尾竹越堂の知り合いの記者、小野賢一郎だった。

 小野と紅吉の共犯が生んだ記事だったのだろう。

 この時点で保持が紅吉に退社を勧め、紅吉も承諾した。

 紅吉は『青鞜』一九一二年十一月号を最後に同誌の編集スタッフから退いた。


 私が入社してから荒々に九ケ月、春が過ぎて夏と秋が過ぎて、もうあの寒い冷たい……冬が来やうと云ふ時、私は、青鞜社から帰へつて逝きます。

 この青鞜は私にとつて最終の編輯にあたつたので御座います。

 私は何故か涙ぐまれてなりません。

 ぢや左様なら、私は今もう帰つて行きます。

 さようなら、さようなら。


(紅吉「群集のなかに交(まざ)つてから」/『青鞜』1912年11月号・第2巻第11号_p98~99)





 さて奥村であるが、彼は少年時代のこんな体験を告白をしている。

 奥村が十歳のころだった。


 ……秋のこと、浩の地方に陸軍特別大演習があって、彼の家は中隊本部に宛てられた。

 このとき幾たりも泊まった軍人の中に、彼を愛する余り抱いて寝た若い士官が居た。

 この歩兵少尉は、東京麻布連隊に帰っていらい、愛情の篭った手紙をしげしげ浩によこしていた。

 この手紙の冒頭がいつも型のように《我が最愛なる浩さん!》と書かれていた。

 すでにこれまで浩に想いをかけた男は幾たりもあった。

 旅順で戦死した士官はその最初のひとりであった。

 そのご浩が逗子の開成中学に通いはじめるとまもなく、ふたりの上級生に執念深くつきまとわれた。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p47~49)





 奥村は自分が同性に好かれたことを『めぐりあい 運命序曲 』に淡々と書いているが、それ以上の言及はしていない。

 後述するが、奥村は新妻莞から接吻されたことがあると書いているので、新妻が奥村とらいてうの関係に容喙(ようかい)したのは、奥村に対して同性愛的な感情を持っていたのがその理由のひとつかもしれない。

 しかし、新妻には新妻イトという妻がいる。

 堀場清子『青鞜の時代』(p137~139)によれば、一九一二(大正元)年の秋から年末にかけて「若い燕」に関する記事が、『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』でさんざん書き立てられ、記事は複数のペーネームで書かれているが、小野賢一郎ひとりの手により量産された可能性が高いという。

 この時点で東京日日大阪毎日はひとつの会社になっていたからだ。

 wikiの小野賢一郎の記述には、戦前の彼は「特高警察への密告者」とある。

「若い燕」はスキャンダル記事ほしさのために、小野と新妻が仕掛けた可能性が高いのではないだろうか。





 さて、堀場清子『青鞜の時代』(p135)が提起した疑問である。

 奥村の自伝『めぐりあい 運命序曲』(p70~72)に記された「鴛鴦(おしどり)」が、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p392)で「水鳥」と書き換えられたのは、らいてうと紅吉、新妻と奥村という同性愛的なカップルの印象を和らげるために意図的になされた「編集」なのだろう。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』の上巻や下巻のエッセンスとなった、らいてうの自伝『わたくしの歩いた道』(p158)でも『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(p142)でも「鴛鴦」が「水鳥」と記されている。

『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(p273)の岩見照代の解説によれば、『わたくしの歩いた道』はらいてう自身によって書かれたものだが、元毎日新聞記者であった小林登美枝(当時は全日本婦人団体連合会常任理事)を「良き協力者・引き出し役」として完成したものである。

 らいてうの死後に出版された『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』は、小林がらいてうからの聞き取りやライティングその他の作業をして完成したものであり、らいてうが書き下ろしてはいない。

 つまり、『わたくしの歩いた道』『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』には、小林が編集者として深く関わっている。

「鴛鴦」の「水鳥」への書き換えは、小林の編集意図だったのかもしれない。

 そして「若い燕」が「流行語となるには、世間に拡めるプロモーターが不可欠だが、紅吉を庇って指摘を避けているため、流行語となった経過が納得されない」という、堀場清子『青鞜の時代』(p135)のふたつめの疑問である。

 元毎日新聞記者だった小林の毎日新聞社に対する「配慮」かもしれない。

 ブラックジャーナリズムな臭いがする小野と新妻が仕掛けたスキャンダラスなネタだったとすれば、「若い燕」を流行語にしたプロモーターは、このふたり以外考えられないはずだが、小林がかつての職場だった毎日新聞社に「配慮」して、あえてふたりの名前を上げなかったのではないだろうか。



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)

★平塚らいてう『わたくしの歩いた道』(新評論社・1955年3月5日)

★『作家の自伝8 平塚らいてう わたくしの歩いた道』(日本図書センター・1994年10月25日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年03月24日

第49回 若い燕(一)






文●ツルシカズヒコ


 らいてうが奥村から受け取った手紙の文面は、こんなふうだった。


 それは夕日の光たゆたっている国のことでした。

 その国の、とある海辺の沼に二羽の可愛い鴛鴦(おしどり)が住んで居りました。

 それはそれは大そう睦まじく……いつもいつも一緒でないことはありませんでした。

 そして姉の鴛鴦は口癖のように《私の子供》と言っては妹鳥のことを話す程でした。

 とある夏の日のことでした。

 若い燕には赤い憧れの夢があったのです。

 燕はみずからその夢を覗いて見ては、何よりもの楽しみにして居りました。

 燕はそれ程に若く、そうしてまた実際美しかったのでした。

 すると、その燕の夢の鏡の中に、何処からともなく映った影がありました。

 ……燕はその夏の幾日かをこの姉妹の鴛鴦の沼に来ては共におもしろく遊んでは帰りました。

 ある日のこと、みんなして海へ行って帰りが遅くなってしまって、とうとうその沼のほとりに泊まることになりました。

 ……雷と稲妻のとてもとても烈しい晩でしたので燕は眠られずに居りましたら、姉鴛鴦が迎いに来て《私の巣に来ておやすみ》と言うのでした。

 それから燕はそのまま伴われて姉鴛鴦の巣まで来てしまいました。

 そうしてその夜は明けたのでした。

 しかし燕はその夜のことをもうよく覚えては居りません。

 心の稚ない燕には、それを覚えているには余り荷がかち過ぎたのでした。

 それきり燕はその沼のほとりを飛んでしまいました。

 そしてとある嶋に渡ってしまったのでした。

 そして燕の淋しさは姉鴛鴦から貰う手紙やいろいろの本などに嶋の秋を慰めて居りました。

 するとある日のこと、突然思いがけなく妹の鴛鴦からてんで見当違いの手紙が舞い込みました。

 それは燕に宛てた絶交状でした。

 燕は一度は怒りました。

 一度は悲しみました。

 が、それもいっとき、やがてものを落着いて思わせられるようになりました。

 かれこれしているうちに秋も半ばになりました。

 ……燕は、もうその頃には昔のままの燕ではありませんでした。

 で、時にはこんなふうに考えることがありました。

《さてさてこうした呑気な日もいつまで続くことだろう。いやいやこんなくだらぬ騒ぎに捲き込まれてぐずぐずしている間に、自分の仕事はどんなふうになるのだろう。自分は男だ。自分の仕事が何より大事だ。殊に自分が手を引けば変になった姉妹の仲もまた甦ろうというものだ》

 そしてこのことを長い手紙に書いて姉妹の鴛鴦に送り、自分というものーー燕というものを忘れてもらうように二人に頼みました。

 燕は……しじゅう鴛鴦のことを思い出さぬ日とてはありませんでしたが、……鴛鴦たちはやがて……燕のことなど忘れてしまって、《燕とはいったい何処の野良鳥だろう》などと言うようになりましたとさ。

 九月十七日 嶋を去る日に H生

 そのかみのロゼッチの女の君へ


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p71~72)

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 これを読んだらいてうは奥村に小包を送った。


 浩が急いで包みを解くと前田夕暮の新刊歌集『陰影』が出た。

(おや?)と思いながら開いてみると見返しの中央にーー

 あれは、あの美しい鳥が燕というのでしたの。

 けれどほんとうにね、私の知っている、そうして愛している燕なら、きっとまた季節が来ると気まぐれにでも街中のあの酒屋の軒を訪れることをよもや忘れやしないでしょうね。

 きっときっとまた季節が来ると。

 と書いてある。

 そして頁を返すと、裏にまたーー

 おしどりが時たま沼の水を濁したからって……何でそれがあの若い燕の艶のいい翅をよごすものですか。

 燕はいつまでもいつまでも蒼空に清い美しい夢を描いていればいいじゃありませんか。

 ほんとうにね。

 私の知っている、そうして愛しているあの燕なら、そうそう小利口な分別くさい鳥じゃない筈ですが。

 ……と書いてある。

 ……昭子はあの燕の手紙の怪しいことを、その上それが彼の本心から出たもので無いことまでも、既にはっきり見抜いてしまっているもののように思われた。

《火種はまだ残っている。しかし、そうは言っても……いや、そうじゃない……》


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p73~74)





 結局、らいてうと奥村の関係はひとまず途絶えるのだが、らいてうはこの一件をこう回想している。


 その手紙というのは「池の中で二羽の水鳥たちが仲よく遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んできて池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く」というような筋で、いろいろのことが巧みに寓話のなかに織りこまれていました。

 わたくしにはあまりに奥村の人柄にそぐわない技巧的な、気取った文章がどうも気にかかりました。

 あとでわかったことですが……新妻さんが仕組んだ筋書だったのです。

 ……このときから「若い燕」ということばが時の流行語となり、いまなお生きているようです。

 これは若き日の新妻さんの創作から生まれたことばなのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p391~392)




 
 このらいてうの回想について、堀場清子が気になる指摘をしている。


 この記述は、二つの点で首をかしげさせる。

 まず「水鳥」が、原文(「めぐりあい」)では「鴛鴦(おしどり)」だが、この言い換えで「鴛(えん)」と「鴦(おう)」のセクシャルな含みが消え、意味が通らない。

 流行語となるには、世間に拡めるプロモーターが不可欠だが、紅吉を庇って指摘を避けているため、流行語となった経過が納得されない。

 後に再会した恋人たちは、紅吉が「方々へ行って若い燕の話をばらまきましたからね」(同前)と語りあうのだが。


(堀場清子『青鞜の時代』_p135)


「(同前)」は『世界』一九五六(昭和三十一)年二・三月号に掲載された座談会「〈青鞜社〉のころ」である。

 この堀場の指摘については、記述をもう少し前に進めてから、言及してみたい。



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第48回 新妻莞






文●ツルシカズヒコ



 奥村は藤沢の実家から転送されて来た、紅吉からの二通めの手紙を受け取った。

 簡単な絶交状だったが、奥村はともかくらいてうに知らせておこうと思い、さっそく手紙を書いた。


 手紙と《青鞜》ありがとう。

 雑誌は待ち切れず、三崎郵便局まで取りに行きました。

 きょうしげりからこんな手紙を貰いました(別に二通の写しが添えてある)が、何んにも知らないわたしは これに対していったいどうしたら好いでしょう?

 しかし、ほんとうのところ、この時からあなたとしげりの関係というものが、わたしには全く新しい謎として何か妙に薄気味悪いものに映って来ましたが、なぜでしょう?

 もし違ったら許して下さい。

 九月四日 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p62)

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 この手紙と行き違いに、帰京したらいてうから奥村に手紙が届いた。


 私は茅ガ崎から今戻ったところです。

 私の知らぬまにしげりがあなたの藤沢のお宅宛に絶交状を出したそうですが、私の子供はもの狂おしくなりました。

 あなたの詩の書かれたはがきは、そのとき丁度私の部屋に来ていたしげりの目にいちはやく触れました。

 何も知らない、何の罪もないあなたに絶交状を送ったしげりを悲しんでいる私は、恐ろしい復讐をあなたに対して企てたと聞いたときどんなに驚いたことでしょう。

 けれどご安心下さい。

 しげりの心はやや平穏を得て来ました。

 私はしげりの今度の行動に対する責任のすべてを負う覚悟をしています。

 あなたに対してしたあの発作的な無法の行為のかずかずをどうか咎めないで下さい。

 あの可哀そうな心情も憐れんでやって下さい。

 けれど今夕限り私はしげりを失いました。

 あなたを想う私の愛に生きることの不安に堪えないというしげりと私は涙を呑んで別れて来ました。

 九月四日 昭


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p63~64)





 この手紙を読んだ奥村は唖然としたが、奥村自身もらいてうを想う自分の心の迷いがなくなった。


 きょうも三時を過ぎると雨の中を渡し場まで出かけて行きました。

 そして三崎から来る舟の中に郵便配達の帽子が見えたときわたしの胸は俄に騒ぎました。

 やがて舟が着いてこっちから言葉をかけるまでもなく、もう見知りごしのわたしの手に手紙と小包が渡されました。

 ほんとに嬉しかった。

 ほんとに有難う!

 九月七日 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p65)





 そんなおり、突然、城ヶ島の宿に滞在中の奥村を新妻莞(にいづま・かん)が訪ねて来た。

 後の『サンデー毎日』編集長、新妻莞である。

 新妻も前田夕暮が主宰する短歌雑誌『詩歌』の同人で、奥村の先輩格にあたるが、さほど親しい仲ではなかった。

 新妻は「歌心を肥やす目的でやって来た」と言い、ふたりは奥村の部屋でしばらく起居をともにすることになった。

 新妻は奥村に届く女性からの手紙や小包に興味を示し、その送り主が煤煙事件で有名なあの青鞜社の平塚らいてうであることを知り、驚いた。

 らいてうから奥村に届く郵便物が、新妻に筒抜けになった。

 明治天皇の大喪の礼が執り行われたのは九月十三日だったが、紅吉が南湖院から退院したのは翌十四日だった。

 らいてうは奥村宛ての手紙に、こう書いている。


 とうとう明治も終わりましたね。

 ゆうべ私は家を飛び出して白い高張提灯の並ぶ諒闇の淋しい町をひとりさまよい歩きながら、わけもなく涙が流れて……。

 しげりは今日午後退院して小母さんに送られて帰京するのです。

 私はよろこばずにはいられません。

 けれど、わずかの間にこうも変りはてたふたりの仲を思うとき、私はどう考えても涙を綺麗にぬぐい去ることが出来ないのです。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p68)





 この手紙を読んだ新妻は、強度の近視の眼鏡の内の眼を異様に鋭く輝かせ、奥村に煤煙事件について語り、らいてうと紅吉と絶交すべきだと強く主張した。

 やがて、新妻はひとつの寓話を作り上げ、それをさも得意気に奥村につきつけながら言った。

「さ、博くん! これを写し給え、そうして平塚と紅吉に送ろう。君のために今あんなへんちくりんな女たちと絶交することが一番大事なんだから……ね、そうしよう!」

 奥村はらいてうと紅吉の関係に関しても何かもやもやしたものが醸し出され、茅ケ崎で泊まった日のことまでを妙に憶い出した。

 雨にばかり呪われ、せっかく取りかかった絵が頓挫したことが、奥村の憂鬱に輪をかけた。

 奥村はらいてうと紅吉に絶交する決意をして、新妻が書いた原稿を写し始めた。

 一九一二(大正元)年九月十七日、二通の絶交状を城ヶ島のポストに投函した新妻と奥村は、秋雨の中、島を去った。




★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




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第47回 モンスター






文●ツルシカズヒコ



 奥村は画家の視点で、らいてうをヴァン・ダイクが描いた『オランジュ公と許嫁』のプリンセス・マリイのようで、さらにボッティチェッリラファエロが描くマドンナが「この人の内にある」と思った。


 中世の貴族を思わす端正な顔、小柄ながらバランスの良くとれた体躯、充実して生きいきとした小麦色の皮膚、聡明さをあらわす額、それにかかるどこやらいたずらっけの交じった渦巻く煉絹のように柔かい癖毛。

 いつも中心を動かぬ、山の湖を思わすーーそのじつ底知れぬパスションを内蔵するかに見えるーー物を射るような鳶色の大きい瞳。

 絶えず何ものかを求めて燃える唇!

 そして腹部から腰に連らなる線のいっかな物に動じぬ牝豹のような、しかし、どこやら未成熟な少女のからだつき。

 むっちり肉の盛り上った、人一倍小さい可愛い可愛い子供そのままの手。

 もし難を言うならば胸のあたりの寂しさだが、これがこの人と矛盾した静的な印象を見る者に与えることであろう。

 おしろいけのないのがいっそう彼の気に入った。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p54)

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 絵を描くために城ヶ島に行き、部屋を借りた奥村はこう返信した。


 見たところ、おかしいほど良助の家によく似ています。

 紅いかんなの花も咲いているし、その上グラスの赤い風鈴までが同じように部屋の天井にぶら下がっていて何だか妙な気持になります。

 これでもしあなたが居て下さったら、と思うのはわたしの贅沢(リュックス ※仏語のluxe)というものでしょうか?

 これが嶋で書く最初の手紙です。

 あなたからもお便り下さい。

 九月一日 浩


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p55)


 翌日、奥村は前夜、床の中で浮かんだ詩を葉書に書いて、らいてうに出した。


 やみのよの おもひはなみに ただよひて かなしみの はてもなし

 はるかなる きみがこころに よせてはかへす わがおもひ いまあらたなる


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p56)





 奥村はまもなく、らいてうからの手紙を受け取った。


 あなたの自画像の前で私は静かに読書しています。

 けれども、ふとしたことで私の心はたちまち烈しく波立ちます。

 そしていつか同じ頁ばかり見つめています。

 小母さんが茅ガ崎から持って来た東さんの撮ったあなたの写真を留守中にそっと出して何度覗いたことでしょう。

 しまいにはあなたの絵と並べて立てて置いたんです。

 笑わないで下さい。

 私は口に出してそれを欲しいと小母さんに言いはしませんでしたけれど、もう駄目です。

 小母さんはそれを持ってしげりといっしょにゆうべ茅ガ崎へ帰ってしまいました。

 記念号はゆうべ遅くできて来ました。

 さっそくお送りします。

《青鞜》の記念号はやがてふたりの記念号でもあることをどうぞ覚えていて下さい。

 九月三日 昭


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p56~57)





「東」は馬入川での船遊びのときに、棹をさばいた小野青年のことだ。

 奥村が城ヶ島の灯台の下で絵を描いた日のことだった。

 絵は断崖から海を見下ろした横長の構図で、奥村は完成した感じまでが目に浮かんで愉しかったが、秋の日の晴れたり曇ったりの天候の激変が煩わしく気がかりだった。 

 奥村が宿に戻ると、藤沢の実家に届いた手紙が転送されていた。

 紅吉からの手紙だった。


 きのう午後、広岡の家であなたの悲しい詩の書いてあるはがきを見た。

 あなたにはもちろん何の罪もないのです。

 罪はないがきっときっとこの復讐はするつもりです。

 私はあなたによって生きることの出来ない傷を受けたのです。

 私の前途は暗くなった。

 広岡を私は恋しています。

 私は近いうちにあからさまにこの間のことをある場所で書き出すつもりです。

 きっと書きます。

 あなたの名前も手紙も詩もみんなその通り発表します。

 私は最近ある人からあなたのことをよく聞いた。

 あなたの両親宛にも書くつもりです。

 モンスター


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p60)





 らいてうは当時の紅吉との関係を、こう書いている。


 紅吉の手紙のなかに「私はらいてうを恋しています」などと書いてあるのを見て、奥村はさぞ理解に余ったことでしょう。

 変わり者の紅吉が、そのころわたくしに夢中になっていたことは事実でした。

 それを他から見て同性愛というならば、紅吉のわたくしに対して抱いた感情は、「同性への恋」であったのでしょうが、わたくしとしては紅吉の生まれながらもっている類のない個性的な魅力にとらわれていたことは事実としても、いわゆる同性愛的な気持で、紅吉をうけいれていたのではありません。

 ……それが同性愛でなかったことは、奥村に大きく傾いたわたくしのそれからの心の動きが、正直に物語っているといえましょう。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p388)



★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)




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第46回 ロゼッチの女






文●ツルシカズヒコ



 伊藤野枝「雑音」(『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)に、らいてうと奥村が一夜をともにした件について、紅吉が野枝に語って聞かせる場面がある。

「雑音(十六)」によれば、らいてうと奥村が一夜をともにしたのは、らいてうが一時帰京するはずだった日の夜だという。

 その日、奥村が南湖院に来たので、紅吉の病室でらいてう、保持、奥村、紅吉の四人で遅くまで話をして、結局、奥村は保持が寝泊まりしている小屋に泊まることになった。

 紅吉はいやな予感がして、眠るどころではなかった。

 じっとしていられなくなり、病室を抜け出し、奥村がいるはずの小屋に行ってみた。

 人の気がないので思い切って戸を開けて見ると、案の定、誰も寝ていなかった。

 敷かれた蒲団にも人が寝たような気配はなかった。

 手で蒲団に触ってみたが、冷たくて人肌の温(ぬく)みがない。

 その瞬間、紅吉はらいてうが奥村を自分の部屋に連れて行ったに違いないと思ったが、夜中なので仕方なく、一睡もせずに夜明けを待った。

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 そして「雑音(十七)」によれば、朝五時ごろ、紅吉はらいてうの宿に駆けて行った。

 すでに起きていたおかみさんが家の外に出ていたが、おかみさんは紅吉の顔を見るとひどく慌てて家の中に入って行った。

 紅吉は胸がドキドキして頭がボーッとしたが、らいてうが間借りしている部屋を開けてみた。

 らいてうの影は見えなかったが、床が並べて敷いてあり、見覚えのある奥村のスケッチ箱や三脚が置いてあった。

 紅吉がおかみさんにふたりはどこに行ったのかと尋ねると、「浜へお出でになったんでしょう」と決まりが悪そうに答えた。

 おかみさんの後について浜の方に行くと、向こうから毛布にくるまったらいてうと奥村が歩いて来た。

 紅吉はカッとなったが、ふたりを迎え、しばらく浜で遊んだ。

 紅吉は不快で不快で面白くもなんともなかった。





 紅吉は病院に帰ってから、保持に黙っていようと思ったが、黙っていられず、すっかり話してしまった。

 保持は紅吉に同情してくれた。

 その日もらいてうと奥村は一日、茅ヶ崎で遊び暮らした。

 夜、奥村は藤沢に帰ると言って病院を出た。

 しかし、紅吉は奥村が帰ったとはどうしても思えず、その夜も眠らず朝を迎えた。

 朝、らいてうの宿に裏から入って行くと、らいてうの部屋の戸は閉じていて、ふたりの下駄が沓脱ぎの上に麗々と揃えて置いてあった。

 ここで紅吉は野枝に、こう語りかけている。

「ね、野枝さん、そういう意地の悪いことをあの人はするんです」

 紅吉はその場に立ちすくんでしまい、しばらく泣いていた。

 真っ紅な鶏頭が咲いていた。

「平塚さん、さようなら!」

 紅吉は力一杯の声を張り上げて怒鳴って駆け出し、病院に帰ってきた。

『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p388~389)によれば、この後、逆上した紅吉は「きっとこの復讐はするつもりです」という脅迫状を奥村に送ったり、東京に帰ったらいてうのもとへ、保持から「紅吉が剃刀をといでいる」という手紙も届いた。

「雑音(十七)」の紅吉の証言によれば、奥村は二夜連続らいてうと床を並べて寝たことになるが、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』にも、奥村博史『めぐりあい 運命序曲』にも、その記述がない。

 紅吉の「妄想」とも考えられるが、真相は不明だ。





 らいてうは奥村に手紙を書いた。


 これを書く私の手があんまり震えるのを私は只じっと眺めているのです。

 あれからいつも美しいこと悲しいことばかり夢見てる私をどうぞときどき思い出して下さい。

 私の子供(しげりのことを、なぜか昭子はこう呼んでいる)は、あなたからもう便りがありそうなものだと言っています。

 私の子供を可愛がってやって下さい。

 嫉妬深い心にも同情してやって下さい。

 私は三十日までここに居ります。

 それまでにあなたの絵をぜひ一枚頂きたい。

 あなたの自画像ならなお好いのですけれど、こんなこと聞いて頂けるかと心配です。

 三十日の夕刻までに。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)


 らいてうはこの手紙に、南郷の弁天様の境内で撮った記念写真を同封した。


 海水帽に浴衣がけの男の方は評論家の生田長江先生で、一番右の端にお行儀よく立っていられるのが先生の奥様です。

 しげりは坊やのように可愛くとれましたでしょう。

 ある人は私をロゼッチの女だと言いました。

 お便り心からお待ちしております。

 八月二十七日  昭


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p53)



★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)

★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



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第45回 雷鳴






文●ツルシカズヒコ



 西村と奥村が南湖院を訪れてから二、三日すると、写生の帰りだといって画材を持った奥村が突然、らいてうの宿を訪ねて来た。

 描き上がったばかりの「南郷」という松林のスケッチを見せてもらったらいてうは、ふと『青鞜』一周年記念号の表紙を奥村に描いてもらいたいと思い、さっそく依頼した。

 それから二、三日した日の夕方、奥村が表紙絵の図案を持って来た。

 その夜、らいてう、奥村、保持、紅吉は馬入川(ばにゅうがわ)の河口の柳島から小舟を出した。

 棹をさばいたのは、後に保持の夫になる結核回復期の小野という元気な青年だった。

 月夜だった。

 馬入川の船遊びは五人に時を忘れさせた。

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 藤沢に帰る汽車に乗り遅れた奥村が、保持が寝起きしている南湖院の松林の奥にぽつんと立っている、古びた藁屋の小屋のような一軒家に泊まることになった。

 保持は病院の誰かの部屋に、紅吉は自分の病室へ、らいてうは自分の宿である漁師の家へ、それぞれ引き上げた。

 みんなが寝床についたころ、遠雷が聞こえた。

 瞬く間に激しい雷鳴となり、闇に稲妻が閃めいた。

 らいてうは病院の死亡室のそばにある、不気味な一軒家に泊まっている奥村のことが心配になった。

 宿のおかみさんに提灯を持ってつき添ってもらい、松林を切り裂く稲妻の中を奥村を迎えに行った。

 奥村をらいてうの部屋に泊めることにして、ふたりは提灯持ちのおかみさんの後について松林の中を抜け、ようやく病院の裏門を出た。

 強烈な光の一閃と雷鳴の一撃を全身に受けた瞬間、らいてうは奥村の体でかたく包まれていた。

「落ちた!」

 先に駆け出したおかみさんに続いて、ふたりは甘藷畑を踏み越え、大粒の雨の中を宿まで走り続けた。

 ふたりは宿から粗い滝縞のお揃いの浴衣を借りた。

 漁師の大漁祝いの浴衣だった。

 長身の奥村には裄(ゆき)も丈もつんつるてんで、子供のようにあどけなく見えた。





 女ひとりの部屋に連れてこられた奥村は戸惑ってはいたが、悪びれるふうでもなく、らいてうはなんとなく好もしいものに思った。

 大きな緑色の蚊帳の中に寝床を並べた。


 部屋の闇を切り裂く稲妻の光りが、ようやく間遠になってゆくとき、わたくしはこちらから隣りの寝床の方に静かに手をさしのべて、彼の熱い血潮にふれたいような衝動を抑えかねたほどでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_P387)


 しばしまどろんだふたりは、東の空が明るくなりだしたころ、海岸に出た。


 ……指をからませながら二人寄りそって、人影はもとより、足あとの一つも残っていない広々とした浜辺を歩くとき、わたしの心は水平線のかなたまで無限にひろがって、満ちあふれる生命の幸福感でいっぱいになっていました。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_P387)





 と、らいてうはこの一夜を記しているが、奥村はこう回想している。


 灯を消した昭子の部屋のま新しく匂う緑の蚊帳のうちに、遠のく雷鳴を聞くともなく、ふたりの心もいつか和み、話も途絶えたひととき……うとうととする浩の手に何か触れたかと思うと、引き寄せられて闇に燃える焔の花びらは彼の唇に火を移した。

 ……と、みるみる彼の血潮はみなぎり溢れて快いヴィブラァションが全細胞をたぎりたたせた。

 蘭の花を思わせるひとの匂に彼は息づまり、愉悦の嵐に身を巻きこまれて危うく濁流に押し流されそうである。

 しかし……。

 ーーそれを享受するには浩は余り純真であり、歓ぶには何か怖ろしかった。

 ーー肉体と精神の不協和音(ストナンテ/※筆者註 stonanteはイタリア語の不協和音)の悩み!

 ついに彼はこのとき逃れて元に戻ってしまった……。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_P44)


「昭子」はらいてう、「浩」は奥村のことである。

 茅ケ崎に泊まった夜のことを想い、奥村は心が動乱したという。





 夏の海辺の気やすさか、昭子に初めて遇ってからものの七日と経たぬ日の事である。

 人を疑うことを知らぬ彼も、相手の真意を測りかねて苦しんだ。

 心は強く惹かれながらもその判断にひとり迷い悩んだ。

 しかし、昭子のあの燿いた眼を思うとき浩にいっさいが消え失せた。

 それほど偽りのない眼である。

ーー(本気になると女は大胆になるんだろうか、やっぱり、ああするよりほかに愛し方はないのかしら? ああ、またあの人に会いたい!)

 彼は今にして女性に秘められた愛情の一端を覗いたように思った。


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p45)


 らいてうは触れていないが、どうやら海禅寺の中原秀岳の唇を奪ったように、彼女は突然,
奥村に接吻をしたようだ。




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)



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第44回 運命序曲






文●ツルシカズヒコ



『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p381)と奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(p31~32)によれば、一九一二(大正元)年八月の半ばを過ぎた日のことである。

 この日の午前中、奥村博は実家から一キロの距離にある東海道線・藤沢駅に出かけた。

 父親の知り合いから荷物を受け取るためである。

 骨太で長身、真っ黒な長髪を真ん中からわけた面長の奥村が、一、二等待合室で上り列車が入ってくるのを待っていると、向かいの席に座っている男が手にしている雑誌の『朱樂(ざんぼあ)』という表紙文字が目に入った。

『朱樂』は北原白秋が主宰する詩歌雑誌で、自分よりも若そうな男が手にしているのは、その最新号だった。

 奥村は見たくてたまらなくなり、男に声をかけて見せてもらった。

 奥村は自分は洋画修業中の画学生であり、詩歌にも興味があり前田夕暮が創刊した『詩歌』の同人であると言った。

『朱樂』を手にしていた西村陽吉は、自分も歌作をしていると語った。

 まもなく黒い煙をはいた上り列車がホームに滑り込んできた。

 奥村の父の知人が客車から素早くホームに下りて来て、奥村に紙包みを渡し、あわただしくまた客車に乗り込んだ。

 まだ朝飯をすませていなかった西村と奥村は、近くの料理屋で朝食には似合わない鰻丼を食べた。

 ふたりは打ち解けた会話を交わし、奥村は自分より年下の西村が、前田夕暮の歌集『収穫』を刊行し『朱樂』の版元でもある、東雲堂の若主人であることを知った。

「これから茅ヶ崎の南湖院へ用があって行くのですが、ご一緒にどうです?」

 という西村の誘いに、奥村は道案内をかねて同行することにした。

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 日本橋の東雲堂書店は、この年の春に逝った石川啄木の第一歌集『一握の砂』や第二歌集『悲しき玩具』、あるいは北原白秋の処女詩集『邪宗門』などを刊行し、当時、新しい才能を発掘する文芸・評論関係の出版社として名が通っていた。

 この日、西村が南湖院を訪れたのは、創刊一周年記念号から『青鞜』の発行・発売など経営に関する事務を東雲堂が引き受けることになり、その最終打ち合わせをするためだった。

『青鞜』と西村の間を取り持ったのは、かねてから西村と知り合いだった紅吉である。

『青鞜』創刊号の部数は千部だったが、結果的に東雲堂との提携は功を奏し、最大三千部まで部数が伸びた。

 西村と奥村が南湖院に着いたのは、十時をたいぶ過ぎたころだった。

 ふたりはなんの装飾もないがらんとした、休日の病院の応接室に通された。

 テーブルにはらいてう、保持、紅吉の三人が並んで座っていた。

 奥村は三人の中のひとり、らいてうと視線が合った刹那、そのまま視線がそこに釘づけにされた。

 らいてうもジーッと鋭い視線を固定させたままだった。

 奥村の自己紹介がすむと、青鞜社の社員と西村の話し合いが始まったが、奥村はまったく口を挟まなかった。

 らいてうの奥村の第一印象は、こうだった。



 

 といって悪びれた態度はみじんもなく、黙ってみんなの話に耳を傾ける顔の表情の、軽くつまんだような上唇のあたりに漂う、あどけないほどの純良さが、わたくしにはひと目で好もしいものに思われました。

 しかし、身のこなしに品のあるこの画家らしい青年の、テーブルの上におかれた大きな白い手を見ると、長い指に黒々とした毛が生えていて、それが、ひどく奇妙なものに眺められました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p383)


 奥村はらいてうの第一印象をこう書いている。


 これまで見たこともない無造作の、真中から二つに分け、三つ組に編んで襟元で束ねた髪に結い、思いきって荒い滝縞の浴衣に薄はなだ色のカシミヤの袴をはいた、すっきりした広岡の姿が彼の心を捕え離れなかった。

(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p34)


「広岡」はらいてうである。

 奥村は夏休みで藤沢の実家に帰省中なので、今度は画材を持って近々来ると言って、西村を残し先に帰った。

「またいらっしゃい、絵を描きにね」

 保持と紅吉が大きな声で送り出した。




 
 後に奥村は、らいてうにこう述懐したという。


 最初に私を見、眼と眼があった瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見たーー

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p384)


 らいてうにも未体験の感情がわき起こった。


 わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間に生まれたのでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p384)


 ふたりとも互いに激しいひと目惚れをしたのだが、ふたりはそれを誰かに口外したわけではない。

 しかし、らいてうを独占したい紅吉の鋭い勘が、彼女を迅速な行動に走らせた。

 らいてうと奥村が初めて出会った、その日の夜か、その翌朝、紅吉が奥村に宛てて手紙を出したのである。





 不吉の予感が私を襲って、私は悲しい、恐ろしい、そして気遣はしいことに今ぶつかっているのです。

 それがはっきり安心のつくまであまり面白くもない生活を送らねばなりますまい。

 そして幾日かののちに私は生まれて来るのです。

 だがそれまでは私は淋しい、私は苦しい。

 広岡がぜひあなたに来るようにと、そして泊りがけです。

 待っています、いらっしゃいまし。

 八月十九日 しげり


(奥村博史『めぐりあい 運命序曲』_p35)





「しげり」は紅吉のことである。

 奥村博史(博から博史に改名)の自伝小説『めぐりあい 運命序曲』が刊行されたのは一九五六(昭和三十一)年九月だが、紅吉が奥村に手紙を出したことをらいてうが知ったのは、奥村がこの自伝を書いたときだという。


 手紙の最後には、あたかもわたくしからの伝言であるかのような一節があり、紅吉の病的な神経の動きの鋭さ、速さ、とくに嫉妬の場合の複雑さにわたくしは驚くよりほかありませんでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p385)


 紅吉からこの手紙を受け取った奥村は、「ぜひあなたが来るようにと、そして泊りがけです。待っています。いらっしゃいまし」以外は、なんのことなのかさっぱりわからなかった。

 堀場清子『青鞜の時代』は、このらいてうと奥村の運命的な出会いの日を八月「十八日の日曜日であろう」と断定・推測している。

 しげり(紅吉)が奥村に宛てた手紙の日付けが八月十九日であること、『青鞜』九月号の紅吉「南湖便り」の日付けが「八、二六」であること、『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p384)に西村と奥村が「なんの装飾もないがらんとした休日の病院の応接室」に通されたとあることなどからの断定・推測である。

 とすると、らいてうが茅ケ崎に来たのが八月十七日だったのは、翌日の西村との打ち合わせに備えて、前日に茅ケ崎入りしたことになり、いろいろと辻褄が合うのである。



東雲堂の西村陽吉と孫娘西村亜希子




★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★奥村博史『めぐりあい 運命序曲』(現代社・1956年9月30日)

★堀場清子『青鞜の時代』(岩波新書・1988年3月22日)



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2016年03月23日

第43回 南郷の朝






文●ツルシカズヒコ






 青鞜社内からも非難され追いつめられた紅吉は、らいてうの短刀で自分の腕を傷つけた。


 いったいどういう激情に動かされたものか、自分を責めようとする激動の発作からか、紅吉は自分の左腕に刃物をあてたのでした。

 厚く巻いた繃帯をほどいて、その傷を眺めたとき、それはわたくしに対して示された、紅吉のいじらしい愛の証しを語るもののようでありました。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p379)


 と、らいてうは後に淡々と語っているが、らいてうが紅吉に繃帯を取って傷を見せてもらう場面をリアルタイムで書いた文章には、らいてうの紅吉への強い「愛情」が表れている。


「見せて、見せて、ね、見たい。見たい。」

 私の心は震えた。

 ……紅吉は只一人を守らうとする恋の為に私の短刀で……柔らかな肉を裂き、細い血管を破ったのだ。

 私は何でもそれを見なければならない。

 長い繃帯が一巻/\と解けて行く。

 二寸ばかりの真一文字に透明な皮膚の切れ目からピンク色の肉が覗いている。

 もう血は全く出ない。

 私は膓(はらわた)の動くのを努めて抑へた。

 そしてぢつと傷口を見詰めながら、真直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反射する鋭利な刀身と熱い血の色とを目に浮べた。

「血はどうしたの? すすつて仕舞つた?」

「とつてあります。」

 傷口は石灰酸で消毒された。

 私は又もとのように心を入れて繃帯した。

 私は自分の身体の震へるのに注意した。


(らいてう「円窓より」/『青鞜』1912年8月号・第2巻8号_p80~81)

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 そんな折りも折り、結核を発病した紅吉は、茅ヶ崎の南湖院に入院した。

 一九一二(大正元)年七月十四日のことである。
 
 南湖院は日本女子大の校医である高田畊安(こうあん)が経営するサナトリウム(結核療養所)で、らいてうの姉である孝や保持も入院したことがあった。

 地名の南湖は「なんご」と読むが、高田が濁音を嫌い「なんこいん」と命名した。

 保持は青鞜社の仕事をやりながら、南湖院の事務の手伝いなどをしていたので、紅吉の入院中の面倒をみることになった。

 らいてうも茅ヶ崎に来た。

 当時、南湖院の付近には旅館がなかったので、見舞う人や予後を養う人のための貸間があり、らいてうは南湖下町の「良助」という漁師の家に一間を借り、九月発行の『青鞜』一周年記念号を編集することになった。

 そこへ荒木郁が訪れ、『青鞜』創刊の肝いりと言われる生田長江が妻を伴い避暑にやって来た。

 さらに、らいてうの日本女子大・家政科時代からの親友で、尼崎で教師をしていた木村政子も学校の夏休みを利用してやって来た。

 入院中の紅吉も、らいてうが借りている部屋に押しかけてきたので、あたかもその部屋は『青鞜』編集部が移ってきたような賑わいになった。

 紅吉はらいてうのそばにいられる幸福にひたっていた。


 毎日五時頃から紅吉は遊びに行きます。

 食事と診察と深夜(よなか)だけ病院にゐて、あとは、みんならいてうの家で邪魔ばかりしてゐる。

 毎日海岸に寝ころむでゐるものですから真黒になつて丁度「ぐるみ」の様になつてゐます。

 らいてうも紅吉のおかげで大変に日に焼けました、東京に帰つたらきつとみんなが驚くでしよう。

 今こんな暑ついのに毎日一生懸命に一葉全集を読むでゐます。

 その内になにか書くつもりなんでしょう。


(紅吉「南湖便り」/『青鞜』1912年9月号・第2巻9号_p223)


 らいてうが一葉全集を読んでいたのは、『青鞜』十月号に寄稿した「女としての樋口一葉」の原稿を執筆するためだった。





 そうしたある日、生田先生御夫妻を誘ってみんなで馬入川(ばにゅうがわ)の河口に出かけ、船遊びや釣りをたのしんで半日を賑やかに遊びました。

 その日、南郷(馬入川が海へそそぐ河口あたりの地名)の弁天さまの境内で、記念写真をとったものが、大正元年九月の一周年記念号に載っております。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p380)


 船遊びや釣りに行く前に弁天さまの境内で撮った写真は、「南郷の朝」と題して『青鞜』一周年記念号である九月号に掲載された。

 長江夫妻、らいてう、荒木郁、紅吉、保持、木村政子が写っている。

 青鞜社の伸び伸びとした自由な雰囲気が伝わる写真である。

「醜聞」にも負けず、創刊一周年を前に溌剌としている青鞜社の空気が感じ取れる。

 明治天皇の崩御は七月三十日であるが、それからまだひと月も経っていないころ、『青鞜』は青春の真っ只中にいた。

 らいてうはこう回想している。


「天皇」を意識することも、社会に目を向けることも少ないこのころのわたくしたちでしたから、茅ヶ崎の海べの香にみちた一周年記念号には、世を挙げての諒闇(りょうあん)色といったものは、なにひとつ反影されていないのでした。

(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p390)





 らいてうはこの「南郷の朝」という写真を見ると、思い出すことがあると書いている。

 船遊びや釣りをした後、らいてうたちは長江夫妻と別れて、らいてうが借りている部屋に集まった。


 そのとき荒木さんが「生田先生はどうもわるい病気らしい」といい出しました。

 生田先生が毎月一回くらいお留守になられ、帰ってこられるときっと顔のどこかに小さな、小さな絆創膏の貼られていることや、手先の動きがどこかぎこちなく不自由そうなのを、先生御自身がふだん「リューマチ」というふうに説明されていることは知っていました。

 けれども荒木さんのいう意味の「病気」とは考えおよばなかっただけに、「そんなこと軽率にいうもんじゃない」と、みんなで荒木さんをたしなめました。

「だって、あのマッチをする手つきを見たら分かることでしょう。確かにそうです」と、荒木さんはいつまでも自分のいい出した「病気」説を主張してやまなかったのでした。


(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p390)


 荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(p119)によれば、長江がハンセン病を発病したのは一九一〇(明治四十三)年の夏ごろだった。





 紅吉「南湖便り」によれば、らいてうたちが写真撮影をし、船遊びをしたのは八月二十一日か二十二日ごろだった。


 …生田先生と一所に弁天さまの境内で写真を写つしたのです。

 漁師の子供がうぢやうぢや出て来て、いろんなことをからかふものだから紅吉は本気になつて怒りだしたのです、そんな時パチンとやられたもんだから紅吉は不良少年のようにとれたのです。

 らいてうは、毎日不良少年、不良少年つて呼むでゐます。

 らいてはまるつきりロゼツチの描く女の様です、白雨は一番叔母さんらしくすましこむだのです。

 写真を写すとすぐ馬入川に出かけました。

 あつちこつちの岸に舟をつけて釣りをやつたのです。

 荒木さんは鰻ばかり釣り出すので、その度に紅吉は蛇だ蛇だと云つて真青にになつてゐました。

 いつも釣れそうになつたり、魚が集りそうになつたら紅吉は水を動かしたり場所をがたがた換へて仕様がないことをやり出すのです。

「はぜ」が一匹はねたといつちや、ばたばた動くのでみんなが大弱りしてゐました。

 この日一日で生田先生もらいてうも、叔母さんも荒木さんも真赤に焼けてしまいました。


(紅吉「南湖便り」/『青鞜』1912年9月号・第2巻第9号_p223~224)


南湖院 ※馬入川



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★荒波力『知の巨人 評伝 生田長江』(白水社・2013年2月10日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:59| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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